会員皆様の投稿記事

~同窓会ホームページ・個人投稿原稿に関するお知らせ~
日頃より三商同窓会ホームページの閲覧・ご投稿ありがとうございます。
理事会において決まりました投稿規程として、近年携帯からスマホへの移行が多くなり
小さなスマホを利用してホームページを閲覧される方が増えておりますので
文章を読みやすいよう一回の記事は<1000文字程度>とさせていただきます。
それ以上の文字数のご投稿の場合は次号に分けて連載になります。ご了承ください。

”ことば”について思うこと                         28期 若月健司   2022年9月投稿

最近、私の周りで起こった事象の中で”ことば”について思うことがありました。

*毎年8月15日頃になると先の大戦時の映像がテレビで放映されます。その中で「5・15事件」を取り上げた番組がありました。首相官邸に乱入した青年将校が時の犬養毅総理大臣を襲ったのです。その時拳銃を向けた青年将校に「話せばわかる!」と言ったのですが青年将校は「問答無用!」と拳銃を発射し、それが原因で総理大臣は亡くなったそうです。その時に少しでも”ことば”が通じ合っていたら歴史は変わっていたかも知れません。この事件を契機に日本の政党政治は後退し、軍部が台頭してあの太平洋戦争にのめり込んだと思います。

*先月は私の身近でショックなことがありました。現役時代の同期生のI君とは住居が近いことから近所の喫茶店の常連客同志でした。コロナ禍と暑さの為しばらく遠のいていた喫茶店を久しぶりに訪れました。すると喫茶店のママが「若月さん、最近Iさんの様子がおかしいのよ、電話をしてくれないかしら」と言うのです。すぐ携帯電話するも出ません、固定電話でようやく本人が出たのですが、若月を名乗っても要領を得ないばかりか「どちら様でしょうか?」という有様です。その後、ママに確認したところ認知症らしいと言うのです。5~60年付き合ってきた人と”ことば”が通じないショックを受けたのです。

*安倍元首相が凶弾に倒れました。現在、国葬儀や旧統一教会とのつながりなどで騒がれています。安倍元首相が国葬儀に値するかどうかは別として故人の”ことば”として気になることがあります。平成29年初め森友事件が起こった際、「私や家内が関わっていたら総理大臣を退任します!」という意味の”ことば”を国会で感情的であったかもしれませんが発したのです。政治家の発言は「綸言、汗の如し」であって取り消しは出来ないものです。あの発言で忖度という言葉が使われ公文書の改ざん・赤木さんの自死などが発生しました。そのほか国会では118回の虚偽答弁があったとも言われています。政治家が旧統一教会のつながりについて説明していますがどうもあいまいで潔さがありません。分りづらい表現や後刻言い訳の余地を残した言い回しで逃れています。政治家は”ことば”が武器ですからもっと分かりやすく明確に語って欲しいものです。

*私の好きな小説家に宮城谷昌光さんがいます。古代中国を題材にした本が多いのですがあらすじはもちろん魅力なのですが、時々出てくる漢字による”ことば”に興味があります。現代は使われないのですが含蓄があるのです。

世路(せいろ)~世渡り 擢登(てきとう)~人を引き上げる 繁衍(はんえん)~子孫の繁栄

蔽晦(へいかい)~ごまかす 寇掠(こうりゃく)~財貨を奪う 悴容(すいよう)~やつれた顔

涅(でっ)すれども緇(くろ)まず~染めても染めても黒ずまないものが真の白いもの

間関流離(かんかんりゅうり)~度々苦難にあい諸方を放浪すること

手話や以心伝心など言葉がなくとも意志の疎通は出来ます。でも”ことば”は大切です。 以上。

21 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(19)船橋日枝神社―         29期 仲田元昭   2022年9月投稿

HP投稿記事(2022.9)「21 我が街 船橋を歩く 神社仏閣」 21期 仲田元昭

戯言&独言24                             21期 髙野 昇        2022年9月投稿

タイトルロゴ2022.06~高野連にひとこと

▼暑くて長い夏の甲子園の全国大会は”仙台育英高”が優勝、白河の関を優勝旗が通過したと話題も豊富、歌舞伎「勧進帳」の弁慶もさぞ喜んだはずである。近年公立高校の優勝など殆どなく地区による春、秋の大会なども私立高が優勝している。

▼そこに在る疑問点ついて考えてみたい。PCでこの甲子園大会(春・夏)の準々決勝以上に出場した過去も含めた学校の中から無作為に調べてみると他都道府県中学からの入学生が圧倒的多い。出場登録選手(18名~25名)中、強豪として超有名なOT学園18名中16人が他府県からの選手、東京の二高、T高なども13人で、ほぼ私立高校の登録の半数以上が他の都道府県からの寄留選手である。その後ろには地元府県の野球が大好きな選手、他都道府県から寄留してきたもののベンチ入りが出来ない生徒を含め数十名の部員がいるはずで他の都道府県から勧誘、越境入学になんの規制も無く野球部員として寄宿舎から通学させる現実を高野連は何ら対応も対策もなく”知らん顔の半兵衛”である。

戯言24

▼そこで一案、出場選手登録の中で他都道府県中学から入学してきた生徒・選手の数を5名までとし、もっと厳しく規制する案として学校所在の都道府県の隣接の都道府県からの寄留以外は認めない。地元府県から入学してくる野球少年、生徒・選手に機会を与える。郷土愛とはそこで生まれ、育ち、仲間と睦まじくその地を愛おしく思う心ではないだろうか。規制するなら球界ではベンチ入りの選手に外人の員数制限があり相撲界でも外人のお相撲さんは各部屋何人との規制をつくった。ある例としてかって鹿児島の中卒の野球選手がはるばる大阪府の超有名高校野球部に入部したり、北陸育ちで地元の少年野球で名をあげた選手が結果、東北の私立高に入っていた。地元の野球好きはこんな現況を知ってはいても、親子丼を頼んではみたが出てきたのはじつは他人丼なんだとの思いは否めないとおもう。

▼今は少子化時代、子供を中心に野球離れあり、野球人口の低迷、野球は金がかかる、そんな問題を含めサッカーに親や子の目が向いてしまうの現実、私立高の野球部コーチなどが各地の中学生を対象とした「ボーイズリーグ」等を回りスカウトに走り回っているとか、相撲部屋の弟子スカウトと同じである。高校までの各スポーツの公式戦は全てがトーナメントで勝ちぬかなければならない宿命でもある。そこで管理者、監督、同僚などからのハラ―スメントがくすぶる。柔道連盟では小・中の大会をすべて開かなおい方針に向かい出した。春の選抜野球選手権(毎日新聞)では文武両道はもとより、街中のゴミ拾い、練習時間の厳守、その他諸々、など実績とは別に加味され、これは公立高校に多く、本大会でこの選ばれた高校に負けたチームの監督が「なんであんな高校に負けるんだ!」と選手を叱責とあった。この監督こそ自らの人間性を叱責すべきである。越境入学者を揃え春夏連覇したなど唱える学校にはいつも違和感を覚えてしまう。

ほおずき市 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2022年8月投稿

夕飯を食べに浅草へ行ったら、その日はほおずき市でした。浅草寺をお参りすると四万六千日お詣りしたご利益があるそうなので、お詣りしました。

子供の頃、父は弟二人と私をつれて、ほおずき市と羽子板市へよくつれてきてくれたことを思い出しました。弟達はおもちゃを買ってもらうのが楽しみで、私は家に帰ってほおずきを作るのが楽しみでした。中の種をよくもみほぐさないとうまくほおずきが出来ません。

ある年近所に住む従妹が一緒に行くことになりました。父は弟達と一緒に従弟は旅行に行ったりしていましたが、従妹と出かけるのは初めてでした。食事はいつも「セキネ」でした。今でもあるので通るとなつかしく思います。従妹に何食べると聞いたら「ラーメン」と云いました。運ばれてきたのは五目ソバでした。すると、従妹が「おじちゃん、これラーメンじゃない」と云い出しました。ラーメンは茶色のおつゆですが、五目ソバは白いので、従妹は間違ったのかと思ったのかもしれません。父は「おいしいから食べてみな」と云いました。私は父が外で従妹と食事することがないので、ごちそうしたのだと思いました。家へ帰ってきて皆で大笑いをしました。父は云われた時ちょっとびっくりしたと云っていました。

~我が畏友~ 長谷川 勇 のこと 28期 若月健司 2022年8月投稿

先月、小学校・中学校までの同級生である長谷川勇から「あゆみ」と題する冊子(自分史)が届きました。彼は今日まで地元である新潟県柏崎市西山町別山に住んでいます。彼とは現在、年賀状だけの友人ですが、同級会などで帰郷した折には地元で一目置かれているのは感じていました。森林管理や地元コミュニティの中心人物であるとは聞いていました。

その彼から昨年初に「昔の暮らし文集」を発行するので「別山時代の思い出」と題する原稿の依頼がありました。別山時代は昭和30年前後の貧しい頃です。私は当時の遊びや友達のことを思い出しながら原稿にして彼に送りました。その文集が届いたのが昨年末でした。そこへ先月に届いたのが「あゆみ」です。以下は彼への届いた旨の礼状です。


勇さんへ
令和4年7月
健司   

拝啓、先日は冊子「あゆみ」をお送り頂き、誠に有難うございました。あれからじっくりと読ませて頂きましたが勇さんのこれまでの人生に驚きと感激を抱くばかりです。最近には「昔の暮らし文集」を発行されたばかりで、この度は自分史にあたる「あゆみ」を発行されるエネルギーもさることながら「自分の人生」を振り返る強い思いに驚嘆します。「昔の暮らし文集」にあるように戦後の貧しい時代を過ごした同級生がそれぞれの環境から別れ離れになり、傘寿を迎えた現在まで違った人生を送ったのだという思いに至りました。

私自身はこれまで流れるように生きて来たような思いがあり、勇さんのようなとても充実した内容ではありません。しかし、最近は自分の人生を三分割しています。即ち、会社勤め時代を第1の人生、還暦を過ぎた頃から傘寿までを第2の人生そして現在から死ぬまでを第3の人生としています。

第1の人生は還暦をはさんで45年間程ですが家庭と勤務先の往復が主でした。第2の人生は①地域の役員(管理組合・自治会・老人クラブなど)②東京都議会議員の後援会会長③ボランティア活動(江戸川総合人生大学・環境団体での活動・江戸川区の文化財・郷土資料室など)④プライベート(高校母校の同窓会理事及び同期会幹事・NPO法人新現役ネット内団体世話人など)この第2の人生は多忙でしたが充実した頃でした。傘寿を迎え、体力や知力の衰えを感じたことから第3の人生に入るべく責任あるポストから離れ現在はひいきの講談師の講談を聴いたり、子どもの頃からのファンの阪神タイガースをテレビ応援したり、「古典を学ぶ」という講座で「能」について勉強しています。老人会では一会員として健康麻雀やカラオケに興じています。

平和な時代が続くことを祈るばかりですが、「歴史は繰り返す」ようで困ったことです。安倍元首相が凶弾で倒れる・政治と宗教の癒着・コロナ禍の第7波・ウクライナ紛争・地球の温暖化・政治の右傾化・円安・物価高・財政の健全化などなど数え上げたらきりがないほど問題が山積しています。

老人の愚痴話になったようですが、ここまで戦争もなく生きて来たのだからあと20年は平和であって欲しいものです。 敬具。

*勇さんの主な経歴

昭和43年:全国山林業経営発表会県代表として発表(上智大学にて)
昭和44年11月:
林野庁長官賞受賞
昭和45年10月:礼拝郵便局職員となる
昭和61年3月:新潟高等学校通信制卒業
昭和63年度:別山小学校PTA会長
平成3年4月:西山町林業愛好会設立

平成9年12月:真宗同朋会推進員となる
平成10年~12年:信越郵政局為替貯金事業最高優績表彰受ける
平成13年6月:荒谷さとやま保存会立上げ
平成14年4月:別山カタクリ保存会立上げ
平成17年度:荒谷農家組合長
平成19年4月:三条真宗学院入学
平成20年3月:得度僧籍簿に登載(釈縁静)
平成20年7月:別山コミセンセンター長

平成22年11月:林野庁長官賞受賞
平成23年4月:新潟県高齢者大学入学

平成30年4月:荒谷あじさいの会(老人クラブ)代表
令和3年11月:「昔の暮らし文集」

発行 令和4年5月:自分史「あゆみ」発行

合併により柏崎市内となりましたが、実際は部落が存在する片田舎です。そこで生まれ育ち地元郵便局に勤めながら森林保護に当たったり、さとやま保存会・カタクリ保存会など地域の発展に貢献しています。個人としても得度僧籍を得たり、高齢者大学で勉強に励んでいます。そして傘寿を迎えるにあたり自分の人生を記録する自分史を発行する旧き友人に敬意を表するとともに誇りに思います。

以上。

20 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(18)西向地蔵― 29期 仲田元昭 2022年8月投稿

HP投稿記事(2022.8)「20 我が街 船橋を歩く 神社仏閣」 21期 仲田元昭

戯言&独言23 21期 髙野 昇 2022年8月投稿

タイトルロゴ2022.06~8月になると

▼暑い8月、どうしても思い起こしトラウマの様に心に現れるのが77年前の6日、9日の原爆投下、「原子爆弾」などの言葉ではなく新聞は「新型爆弾」と書き庶民は「ピカドン」と言いその恐ろしさは数日後に巷に拡がった。次は東京だとの風聞の中での15日の天皇の詔勅、夏休み中に急遽校庭に集合、村の人々や校舎に駐屯していた軍隊(総員30名ほど)なども集結した。初めて聞く天皇の声は音声も悪く文言もあらかたの人には意味不明、ただ「堪え難きを堪え凌ぎがたきをしのぎ‥‥」の文言の部分だけは小4の自分には理解したと思い「力の限りガンバレ」の檄文と思い込んだ。結果はあのとうり、まず頭をよぎったのはこれで東京の家族の処に帰れるの思いだった。

戯言23

▼10日ほど過ぎると最終列車で内地勤務の復員兵が沢山の荷物を担ぎ駅に降り私の従兄も3人9月に戻ってきた。村に駐屯していた部隊もMPが早々にやってきて武装解除、階級章ももぎ取られ三八銃が20丁くらい(どう考えても駐屯兵員数と会わない)機関銃2機がトラックに積まれ運ばれてゆくのを見た。MP全員の肩には黒い自動小銃、この光景で勝てる戦ではないのがよく判ってきた。この日の20日程前、空襲にきたB29が高射砲で撃墜され搭乗員の1人が落下傘で脱失、なぜかこの村の芋畑に落ち近在の農民4・5人にめった打ちにされ血まみれとなりその翌日に憲兵隊に引き渡された光景も見た。終戦後の数日後MPがジープで来村して来て加害した農民の調査をし関係者を束縛、C級戦犯となり3年後くらいに釈放されたと疎開先の伯父が教えてくれた。その話は近在の村民の間ではタブーとなっているとの事だった。大きな事、小さなこと全てがこの8月に思い出す。私にとってこの日は終戦記念日ではなく敗戦記憶日なのである。

戯言23-2

▼夏休み中とはいえ殆ど毎日が登校日、勉強ではなく芋畑の草むしりと松根油(松脂)集め、そのあと教室に集まり中学4・5年生の代用教員による軍人精神や各地での戦況の話、すでに沖縄は陥落してたなど彼等も生徒も知らず内心いつ少年兵として赤紙がくるか?そんな不安を纏いながらの思いからかつまらぬ事でやたら生徒にビンタの雨を降らし、特に私を含め東京からの縁故疎開児には酷かった。16日からは登校日には行かず代用教員の姿も村の中で見る事もなくこの180度の転換を大人も子もなんだったのか。伯父宅に寄宿していた(軍医・少尉)は「実際のとこら薬とし十分あるのは征露丸と包帯だけ」と言いその殆どを伯父宅に譲り、敗戦2か月後に故郷津田沼に帰り駅まで送って行った記憶がある。風聞が多く男は奴隷として収監され異国に送られるなど伯父は「勝って官軍、負けて賊軍」など口走っていた。私にとって敗戦は東京の6畳と3畳の二間の7人家族の一員になれる事、5歳下の妹が喋らずとも最高の笑顔で迎えてくれた事、忘れられない。

▼必勝を信じて向かった一年前の学童疎開、その後の縁故疎開、私にとっては波瀾万丈の一年であったが敗戦後の「ギブミ―チョコレート」の時いみじくも言った友人の「こんな旨いもの食べているアメ公に勝てるわけがない」の言葉、つくずくと思い出す8月である。学童疎開のあの日の夜行列車から見たやたら大きま「スーパームーン」、この稿を書き上げた今夜も良い月夜だ。ウクライナの国民に思いを馳せながらも一方で「核」を持つ国の多さ、主導者は「核戦争に勝者はいない」の格言を肝に銘じ末永い平和を祈念するのみである。

雑句‥‥ 近ずきて やがてすぎ行く 十五日

阪神ファン70年余、変わりません!! 28期 若月健司 2022年7月投稿

私は小学生時代から70年余ず~と阪神ファンです。関西出身でもないし、関西に住んだこともありません。思い起こすと小学生時代に過ごした新潟県柏崎市西山町の頃、隣家にいた2級上の餓鬼大将が大の阪神ファンだったからでしょう。当時、メンコ遊びが流行っていました。平均5センチ程の丸や四角な厚紙のメンコで相手のメンコをひっくり返すと自分のものに出来る遊びでした。そのメンコにプロ野球の選手の写真が貼ってあったのです。阪神の藤村兄弟、別当、土井垣などを今でも覚えています。
以来、弱い阪神、強い阪神(あまりないのですが)を心変わりすることなく応援しています。そんな中で記憶に残ることがいくつかあります。

・昭和37年(1962年)の優勝
藤本定義監督 1塁:藤本(島倉千代子と結婚)2塁:鎌田(地味だが堅実)3塁:三宅(超鉄壁)
遊撃:吉田(今牛若丸)外野:並木(意外性あり)投手:小山(抜群な制球力)
村山(ザトペック投法)

・昭和39年(1964年)の優勝
藤本定義監督 投手:バッキー、村山の2本柱 日本シリーズで野村克也を擁する南海に惜敗、特に投手のスタンカに敗けた。この年、王の55本本塁打新記録 東京オリンピック開催
その頃、社会人の成り立てで勤め先のある新橋の居酒屋で阪神ファンの先輩たちに混じって優勝祝いで気勢をあげたことを昨日のように覚えています。

・昭和60年(1985年)の優勝(21年振り)
吉田義男監督 掛布、バース、岡田の三者連続のバックスクリーン本塁打(巨人の槇原から)
投手:ゲイル チーム本塁打219本 初の日本一となる バースの三冠王

・平成15年(2003年)の優勝
星野仙一監督 今岡、赤星、金本の打撃陣(チーム打率0,287) 井川、伊良部、下柳の投手陣

・平成17年(2005年)の優勝
岡田彰布監督 今岡、赤星、金本、シーツ、鳥谷の打撃陣
JFK(久保田、ウイリアムス、藤川)
の救援陣

その頃、第2の職場のオーナー会長が大の阪神ファンで各地の球場に二人で応援に行きました。特に思い出深いのは高知県安芸のタイガータウンの春のオープン戦観戦に2回出掛けたことです。そのうちの1回は阪神選手と同じホテルに同宿した折、当時の黒人選手が共同風呂に前も隠さず堂々と入ってきたのですが、その立派な体格に感心(?)しました。帰京の途中で大阪の阪急ホテルに泊まり翌日阪神・淡路大震災の1年後の復興状況を見てきました。もちろん甲子園球場の巨神戦を観戦してきました。他にも昔の後楽園球場のグランドでの野球試合、オーナー会長の野球観戦の奇行、横浜ファンの友人との観戦談、近所の人達との阪神ファンの会設立などいろいろありますが紙面の都合上割愛します。現在は体力の衰えにより球場まで出掛けませんがテレビで阪神の全試合を観戦できる便利な時代です。虎キチとまでいきませんが、弱い阪神でも末永くささやかに応援するつもりです。 以上。

19 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(17)稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年7月投稿

戯言&独言22 21期 髙野 昇 2022年7月投稿

タイトルロゴ2022.06~19期の三人の先輩

▼昨夏の「同窓会報」は19期諸兄の特集で19期の先輩方の纏まりの良さに感服しました。毎月1回本所の「蕎麦処琴冨貴」で集まり更なる親睦を深めている様子、私も幹事の細田安治先輩とは同窓会の集まりでたまたま同じ卓の席になりそのご縁もあり一度同席させていただきました。19期生で私の記憶に残っていたのは中野貞二氏、石原博氏の二名の方でした。

▼特に中野氏は16期の兄と当時の小岩の珠算塾の仲間で、地元の三商在学生の諸先輩も多数通塾していたらしく、当時はまだ旧制中学で六三制が施行される前だったと思います。私はまだ小学生だったはずです。そんは中野先輩が時折「琴冨貴」の集まりに見えると細田先輩から聞き2年後輩ながら集まりに参加させていただきました。逝きし兄との色々な思い出話、兄に映画見物に誘われたエピソードたのしいひと時でした。ソロバン日本一になった中野さんをすごく誇らしげ語り16期の吉羽亀之氏が来訪の際には(よく遊びに来てました)近所の寿司屋で祝杯を挙げ、わたしも同席し楽しく過ごしました。

中野先輩…70年ぶりに会いました

戯言22

石原先輩…54年江商時代の社内旅行・前列左端が石原先輩、後方左端が小生

戯言22-2

▼石原氏は在学中確か生徒会の副会長をやっていたでしょうか。私は就職も既に「日本長期信用銀行」に決まっていたのに校長、清田教頭からの懇願で改めて「江商…‥現兼松」を受けて見ろと言われ私は「江商」なる商事会社など知らず「珠算と簿記に長けて、英語は少しばかりできれば良いから」と言われ、校長・教頭の意のままに受験、三商から3人が受けましたが私一人のみが内定を受けました。珠算1級、簿記2級の資格がきいたのでしょうか。後日清田教頭がわざわざ我が家に両親に了解を得るために来訪「長銀」にも了解を得た旨と、報告を受けました。「江商」は戦前からの”関西五棉…江商・丸紅・伊藤忠・東棉・日棉”の一社であることも知りました。入社3日目に石原先輩から声がかかりました。

日本橋本石町にあった「鰻の登亭」で1対1の歓迎会をして頂きました。18歳に成るまでこんな本格的な蒲焼を食したのは初めてで2人でバヤリースオレンジをのんで乾杯したおもいでは忘れられません。先輩はとても優しく、社内の評判も「石原に聞くとよくわかるよ」と言われガンガン営業をやっている諸兄(殆どが軍隊生活経験者で)は縦系列を重んじる傾向の中、石原さんにはずいぶんたすけられました。秋にあった五棉対抗野球大会にも石原さんと一緒に選手として出場、社員旅行に昇仙峡に行った時も同室で三商の思い出話にが華さきました。私は事情があって1年と少しで退社、その時も石原さんの旗振りで経理部十数人で人形町の料亭で送別会をして頂き身に余る光栄に感謝あるのみでした。同時入社の一商の2名の友人はその後インドネシアや台湾に転勤、その内の一人は転勤先で病死してしまいました。「日本に早く帰りたい」との手紙も何通も貰いそんなこともあっての早逝でした。高卒にしては英語に優れていましたが残念でなりません。そんな思いが残る19期の二人の先輩でした。

▼もうひと方、在学中から今まで顔を合わせた事も無く過ごしていましたが一昨年に逝去された北村重雄 先輩です。私が幹事の一人として務めた21期の同期会の事を知り妹(大倉貴美子さん)の事を宜しくとの手紙を戴きました。それがきっかけとなり頂いた手紙の交換は30回近くあり、手紙にはいつも違う篆刻が押印され、その説明の由意も必ず添付されていました。文章のさい最後には必ず「妹を宜しく」とあり兄妹愛が溢れていました。京都在住のせいもあり松坂屋デパートを退職後、趣味が嵩じて京都の神社仏閣の関係者の篆刻の仕事で生涯を務めていました。私のみの篆刻を頂いた時は感動、印影だけでしたが「何かの時にお使いあれ」との手紙が最後でした。妹さんの大倉さんとは1年生の時が同じクラスでもあり、今は親しくさせて頂きお住まいも私の生まれた亀戸で、これもなにかと北村先輩の御縁かと思っています。

北村先輩…私個人に作ってくれました

戯言22-3

確認してみたい三つの未来!! 28期 若月健司 2022年6月投稿

~その1~ SDGsが目指す2030年頃の未来

現在、日本中で「SDGs」で騒いでいます。私の住む江戸川区でも国から「SDGs推進未来都市」の指定を受け役所内に「SDGs推進部」やSDGsおよび共生社会実現するための「ともに生きるまち推進課」を設置して動いています。私の所属する江戸川総合人生大学同窓会では5月21日に「SDGs ともに生きるまちづくり」をテーマにした講演会をコロナ禍の中でしたが感染対策をしっかりやり、講演時間も1時間以内に収めて40名を集めて行いました。講師は役所のSDGs担当課長で講演後のアンケートの評価は上々でした。私は司会進行役を務めましたが終了後ふと思いました。SDGsの17項目は現在の我々が抱えている課題ですが2030年頃になって果たしてどのくらい改善されているか確認したいのです。あと8年後ですから何とか頑張りたいと思います。

~その2~ 孫が成人になる2040年頃の未来

私には3歳の女の子と1歳の男の子の孫がいます。近所に住んでいるので時々顔を見ますが可愛いのは確かです。その時、ふと思います。この子たちが成人になる頃の日本は平和だろうかと?私の年代は戦後の窮乏時代や高度成長期やバブル崩壊などを経験してきましたが戦争に巻き込まれることなく生きてきました。ところが昨今、地球温暖化による異常気象での災害発生、また30年以内での東京湾北部大地震発生も噂されています。自然災害はともかく人類が引き起こす人災も気になります。ロシアによるウクライナ侵攻での核兵器使用が取り沙汰され、日本も過剰反応して核所有・軍備増強論などが流布する有様です。7日(火)にくすのきクラブ(老人会)で新木場にある「第五福竜丸」を見学しました。

1954年にビキニ環礁での水爆実験で放射能を浴びたマグロ漁船です。あれから70年程経っても人類はいまだに核兵器にこだわっており、日本は核兵器禁止条約にもそっぽを向いています。国内的にも年金制度は維持できるのか、財政は大丈夫か、少子化はどうか、日本の地位低下はどうか、など心配事はいろいろあります。人生100年と言いますが、あと20年弱、よほど頑張らなくては2040年は無理かなあと思いつつもしかしたらと健康に気を付けています(笑)

~その3~ 2100年頃における江戸川区の未来

今年の3月に江戸川区では「共生社会ビジョン」の素案を発表しました。SDGs推進と併せて共生社会の実現を目指そうというのです。現状のままの成り行きに任せると江戸川区の人口は約70万人から45万人に減少する。そうなると歳入も減り、役所の職員も減り、当然住民サービスも低下するというのです。その対応として「共生社会ビジョン」の素案を策定したのです。策定に当たり区民や有識者の意見・提案を取り入れた会議などをいくつか実施しました。その中で「みんなのえどがわ大会議ワークショップ」があります。これは1グループに区職員2名、区議会議員2名、3団体の代表3名の計7名による会議です。分野毎に9グループに別れますので全体では63名が参加しました。私が会長を務める「文化財・郷土資料室ボランテァの会」にも団体としての参加要請がありましたので私が参加しました。ところが昨年の9月に会議が予定されていたのですが、コロナ禍の為会議は中止となり文書(ワークシート)による提出となり残念でした。これからは「共生社会ビジョン」の素案の中身を充実していくことを期待します。あと約80年後の2100年の江戸川区は絶対に確認することは出来ませんが、子どもや孫が平和に暮らしているに違いないと願う今日この頃です。 以上。

18 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(16)三峰神社― 29期 仲田元昭 2022年6月投稿

HP投稿記事(2022.6)「18 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(16)三峰神社」 21期 仲田元昭

戯言&独言21 21期 髙野 昇 2022年6月投稿

タイトルロゴ2022.06~■プロ野球あれこれ

<球種>‥かつては昭和30年代頃までの投手が投げる球種と言えば直球・カーブ・シュート・ドロップ・スライダー・時折にフォークボールくらいだった。特にスライダーとフォークはごく一部の優れた投手か投げ、フォークは杉下(中日)スライダーは藤本(巨人)シュートは河村(中日)西本(巨)でいずれも開拓者でもあった。今、TVでの解説者やアナの放送を聞いていると前記5種のほかにチェンジアップ・シンカー・カットボール・ッーシームなどアナも解説者も「今のは○○ですね」等簡単に言っているがそんな細かい事が即見分けがつくのか疑問である。視聴者には投手の背面からの映像だけでは見分けがつかない。かつてのカーブと今のカーブでは全然球速が違い今はやたら山なりに投げている。過去カーブをあんな球速で投げる投手などあまり居ず、昔はこんなカーブを「ションベンカーブ」といい、打者の外側から入るカーブを「鉢巻き」と言っていた。フォークも私などからいわせれば昔のドロップに毛が生えたようなもので杉下、村田、佐々木のなどのドロップは懸河のドロップと言われ、杉下のフォークは打者から糸目がよく見えたとあの川上(巨人)が言っていたほどだ。こんなに僅かの違いと球種の多さではボールの握りも違うし肩の使い方などを思うと投手に故障者が多いのは当然である。高校球児までもが同じ様になってきており高野連はこの数多い変化球対策を検討する時ではないだろうか。

戯言21

<解説者>‥野球に限らずスポーツ中継には解説者は付き物。ルールや技量についての解説は知識の浅いスポーツを観る者にとってはありがたい存在、しかし野球ほどファンが多く子供でもあらかたのルールや知識を持っている。それはそれとして今のプロ野球放送にあれほどの解説者が必要なのだろうか。ほとんどの解説者は球種やどうでもいい話で私には「そんなことどうでもいいんじゃないか」の思いが強い。アナより余計に喋っていたり、結果論のみ喋り「だからこうなるんですよ」との給う。それに解説者が二人いたり、日によっては「野球選手と親しい」と誇らしげに語る芸能タレントが出ている。これは圧倒的に民放に多いが、こんなのは入場券を買って観戦したり有料のTVに金子を払っている我々ファンとはかけ離れ存在である。視聴率の競争に勝つための手段としてはかなりミーハー的。今は私はもっぱらTVは副音声で「場内音声」のみで観ている。

雑句‥‥梅雨篭り カフェーオレと モダンジャズ

********今月の「文芸春秋」に同期の野中郁次郎君の第二次大戦の日本軍についての座談が10ページ渡り記載されています。経済学者と戦争、面白いですよ*********

ささやかですが応援しますよ! 28期 若月健司 2022年5月投稿

令和4年5月5日

先月の9日(土)午後、光が丘駅前のIMAホールでのミュージカル「プロパガンダ・コックピット」を観る機会を得ました。ミュージカルなるものを観るのは初めての経験でしたが上演時間2時間余の間、楽しく過ごしました。ストーリーは別として多数の劇団員による合唱・ダンスそして会場の音響に圧倒されました。今回のきっかけは令和2年2月に両国で開催された三商同窓会の新年会でした。テーブルで三人の若い同窓生と偶然同席となり、その内の一人が68期の長瀬可織さんでした。彼女がミュージカルの劇団員との話が出たので「観に行くから連絡くださいよ」と気軽に話したのを覚えています。

その後、コロナ禍で公演不能が続きましたが、今年の2月に公演開催の連絡がありましたのでチケットを予約しました。しかし、コロナ禍が収まらず残念にも公演中止となりました。ところがしばらくして今回の公演の連絡が入り光が丘駅まで出掛ける次第となったのです。68期と言えば40歳程下の後輩ですが、私の娘と同年代ですので「コロナ禍の中で

頑張っているんだなあ」と気に掛けたくなります。これからも機会があれば出掛けます。

三商同窓会と言えば数年前に理事になったことから「三商講談会」を知り、開催される清澄庭園内凉亭に毎月出掛けています。この会の代表者は33期の細井新一さんです。3年程前に私が代表の某団体の総会のアトラクションに講談会をセットしましたが、その際

講談師を細井さんに紹介して頂きました。私が住まいする江戸川区出身の講談師である田辺一鶴さんの孫弟子に当たる田辺いちかさんです。当時は前座でしたがすぐに二つ目となり、現在活躍中です。「三商講談会」では毎回3~4人程講談師が来ますがその中で私の耳に心地よく響く講談師が一龍齋貞弥さんです。彼女は二つ目ですが今年の9月に真打ちに昇進すると聞いています。

私自身なにも出来ない無芸でせいぜいカラオケで懐メロ演歌を歌う程度です。一生懸命努力精進している長瀬可織さん・田辺いちかさん・一龍齋貞弥さんが将来必ず大成するものと期待すると共に尊敬の念を持っています。特に長瀬可織さんは三商の後輩でもあるので今後ともささやかですが応援していきたいと思っています。

以上。

17 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(15)道祖神社― 29期 仲田元昭 2022年5月投稿

HP投稿記事(2022.5)「17 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(15) 道祖神社」2 21期 仲田元昭

戯言&独言20 21期 髙野 昇 2022年5月投稿

▼終戦直後にみた映画「…‥五人男」正確な題名も出演者も失念し忘れてしまったが斎藤寅次郎の作品で喜劇が得意な監督だった。その中で焼け跡の中でかつてのお殿様の末裔かと思われるひとがドラム缶の風呂に入っているシーンがあった。その中で家来と思われるひとがドラム缶の湯を焚き乍ら唄う歌が♬♩・お殿様でも家来でもお風呂に入るときゃみなハダカ、裃(かみし)も脱いで袴(はかま)も捨てて・♩♫のシーンが何故か未だに思い出として口遊んでしまう。唄っていたのはあの頃歌を唄う喜劇役者は古川ロッパ(懐かしい名)くらいだからそうかもしれない。

▼当時戦後5年間くらいは間借りか借家住まいか、せめてもバラックの家、戦前から内湯のある家は少なかったが、風呂場のある家などは皆無にちかい。ならば近間の「銭湯」に行くしかないが焼け残った風呂やは遠くても行かざるを得ない、子供の頃は下町では「お湯やとか風呂や」と言っていたが凄い混雑で夕方の開店前には数十人の人が開店待ち、燃料不足で一日おきか三日に一度の営間隔が拍車をかける。したがって冒頭の五右衛門風呂風景がアチコチで見られた。

戯言20

▼当時入浴風景はまず“芋を洗うような”な風景は当たり前、まず「風呂敷」を持っていく、風呂やでの最大の問題は「盗難」だった。脱衣場で脱いだ衣服をこの風呂敷に包む。ロッカーなどある時代ではないのでパイ助とよばれた籐でできた篭を逆さにして床に向かってポンとたたく、虱が付いている時があるので。我が家はまず衣服を風呂敷にいれ、その上に新聞紙敷き下駄を乗せバッチリと四文字に結わく。持って来た石鹸(鯨油製)は頭の上に乗せ手拭を頬被りして固定、透明度など全くない湯に浸かりつつ洗い場にいても脱衣場のパイ助から目を離さず盗難予防に励むのである。

▼昔から風呂やは盗難の巣といわれ盗む方を「板の間稼ぎ」と言っており落語などにも登場している。一番被害の大きいのは衣類と履物でいい加減に篭に入れてあると100%被害者となっていた。私の兄(16期)は四文字に結んだ風呂敷包みからほんの少し首を出していた牛革のベルトが盗まれていた。ベルトはするすると抜け易かったか、包み方の悪さを父に叱責されていたことがあった。履物の被害は圧倒的に多く、衣類は丸ごとの被害と言うものは無かったと思うが履物は履いてきた下駄と少し見た目のいい下駄とが交換されているのが多く、チビた下駄と交換しただけの犯罪意識の全くない現象のようだった。盗んだのではない、取り替えただけ、咎められれば「アッ間違えて履いちゃったよ」とか衣類を一枚なにしても下に着こんでしまえば見つかりにくいとか、そういう現代の目では許されない事でも、あのいじましい時代の事として歴史の中の小さなページとして終いこむのはもったいない話。「やられたよ」「もっていかれちゃった」「これくらいいいだろう」、加害者も被害者もどこかあの難関の時を過ごす為の変な譲り合いだったのかも。警察沙汰になった話など聞いたこともなかった。

▼今は内風呂が当たり前で、結婚当初は6畳一間の安アパート住まい、家内と二人近所の「風呂や」に行き家内の出てくるのをコーヒー牛乳を飲みながら風呂やの前で待ちあの南こうせつの「神田川」の世界だった。貴重な思い出のページである。今は一人ゆっくりと湯舟に浸かり食卓には冷えたビールが待つ。一日の中で一番穏やかでついついあの「お殿様でも家来でも…」を口遊んでしまう。

防犯カメラ、基本は変わらないでしょう! 28期 若月健司 2022年4月投稿

最近のデジタル化にすべきの風潮の中でふと昔の防犯カメラの事を思い出しました。今から24,5年前に住まいする団地の管理組合理事を務めていました。当時敷地内の駐車場内で車がひっかき傷をつけられる事件が発生し対策が検討されました。「パトロール隊を組織して巡回すべし」「防犯カメラを設置すべし」「防犯カメラでプライバシーが侵される」などいろいろ意見が出ましたが「駐車場内を監視するだけの防犯カメラを設置する」に決定しました。その後数年経過するうちに痴漢やストーカーが出没することとなり防犯カメラを団地内の玄関や階段付近にも設置するようになりました。お蔭で最近は不心得者の話は皆無とは言いませんが少なくなり防犯カメラの効果はあったのかと思う次第です。その後この防犯カメラは地域の道路や駅前にも設置され、今や日本全国に拡がっているようです。

現在、「デジタルファシズム」(NHK出版新書・堤未果著)という本を読んでいます。副題として~日本の資産と主権が消える~としています。読み終わっていないのでなんとも言いようがないのですが「デジタル化の掛け声のもと、日本の公共財が民営化により諸々なデータが一部の企業に偏り主権(国民の生活)が消える」と主張しているのではと推測します。デジタル化推進は世界の趨勢であり、日本が出遅れていると指摘されていますので今後頑張る必要があります。只その際、メリットとデメリットがあることを念頭に進捗して欲しいのです。デジタル化で個人の行動や意識や経歴が何処かで管理・監視され悪用されるのには抵抗があります。

防犯カメラの設置がいたずらや犯罪防止に役立ったと思われる現在ですが、設置当初の「プライバシーが侵される」という意見は貴重です。今後デジタル化を進捗する際、この意見を基本にして欲しいと思います。 以上。

16 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(14)厳島神社 ― 29期 仲田元昭 2022年4月投稿

「厳島神社」

厳島神社は、江戸時代初期の創建と言われ、現在の本殿は、昭和4年に建立されました。 ルーツは、北九州の航海民が祀った宗像三神と伝えられており、本町4丁目(旧仲宿区)の守護神です。
御祭神は、海上安全の守護神、田心姫神(
ごりひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、多気津姫神(たぎつひめのかみ)の3女神で地元では「弁天様」と親しまれています。古くから航海安全、豊漁祈願が行われ 開運、商売繁盛、技芸上達の福徳があると信じられています。

「厳島神社鳥居からの社殿」

全国に神社は86千社程ありますが、厳島神社は約1,000社と多くはありません。中世からある古道である御殿通り1km程に、稲荷神社、猿田彦神社、道祖神社、厳島神社、御蔵稲荷神社の5社があります。しかし、今から400年程前の慶長19年(1614)に、徳川家康公の命で造成された東金御成街道向きの神社は、船橋市街地ではここ厳島神社だけです。

「歴史ある立派な狛犬 (左)口を閉じている吽形 (右)」口を開けている阿形」

「17 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(15)」道祖神社に続く 「2022-3-25寄稿」

戯言&独言19 21期 髙野 昇 2022年4月投稿

春爛漫・入學期
戯言19

▼4月は入学、入社などのシーズン。私が小学校(当時は国民学校)入学したのは昭和17年、亀戸水神学校で日米開戦の4か月後だった。ハワイやマレー沖海戦への奇襲作戦攻撃成功に国全体が歓喜、今思えば日本の悲惨な歴史がここから始まった。戦果ばかりが新聞・ラジオが報じてこの年太平洋上の海戦では日本はすでに空母4隻、航空機200機以上が失われていた事実が国民には一切知らされず、入學しての4月には米軍機による本土空襲(4月18日)がすでにあった。荒川区尾久に爆弾が落ちたとの話はこども心におぼえている。(写真①)2年生になると亀戸に新たな学校が築かれ通学域の変更で第一亀戸国民学校へ転校、政府、軍部による「勝った!かった!」のニュースの中、毎朝の朝礼では国旗掲揚、校長の訓話は戦争に関わる訓示ばかりで「戦地に居る兵隊さんを思えば…」で締めくくられていた。冬にはズボンのポケットに手を入れさせない為にポケットが縫い合わされた。担任の石毛先生が中折帽子の周りのツバを切り前ツバだけのこしてお手製の軍帽にしていた。その翌年学童疎開に行き、山形県の上の山国民学校に転入、入学2年数か月で2度目の転校となった。その後縁故疎開をし千葉県の椎柴国民学校に転校、終戦後に避難先の小岩小学校に転校して4年生にして4回目の転校を記録した。

▼敗戦から2年3か月後の昭和23年4月マッカーサーの新教育制度施行により新制中学生として避難先の江戸川区小岩の小岩一中入学、木造の木の香りがする新品の校舎だった。小学校では男女組(古い懐かしい言葉)だった女子生徒は近くの江戸川学園に間借りして別々になり少しガッカリしていた。江戸川がすぐ近くを流れ、毎年赤とんぼの大群が校庭を跳びまわり、僅かな河川敷には近在の人が作るトマトやキュウリなど今風の家庭菜園が一面にあり、時折拝借していた。というのも生活困窮で我が家は母に「今日は弁当ないよ」と言われ昼休みは自宅に昼飯を食いに行く振りをして江戸川の土手に寝そべり時間を過ごし時折キュウリなどを拝借、でもさすが子供心に気が咎めていた。そんな状況のクラスメイトが数人居り悲しく侘しく情けない一時期だったがその中の一人は故人になったがそんな事から友好関係で繋がり大手製薬会社の工場長を務めあげていた。クラス会の時「昼ナシメイト」だなぁと二人で涙ぐんで話した思い出が懐かしい。この年、A級戦犯の 7名に絞首刑が執行された。帝銀事件、ガンジーが暗殺され、ラジオから「異国の丘」が流れていた。

戯言19-2

▼昭和26年三商入学、入学式の日は雨でゴム長靴を履いて参列、母が付き添ったが後にも先にも学校関係の事で両親のどちらかが付き添い集会に出ることは一度も無かった。なので雨が降ったんだろう。合格入学が決まった翌日、兄(16期)が就職していた「三菱レイヨン」を辞め司法の勉学に向け進む報告を今村校長、清田教頭に告げに行くので私も同行、「兄に負けず頑張りなさい」と激励のお言葉を戴いた。すでに我が家は前年に戦前の土地にバラックを建て商売(食料品店)を始めていた。近隣はまだ焼け跡が多く配給制度もありながら6畳二間に7人の生活、でも少しずつ夢と希望を家族全員が持ち始めていたのは事実であった。兄が勉学資金調達の為、珠算塾を開設したのも私の三商入學と同時進行、私も中2の時に珠算2級を取っていたので下校後は兄の助手として手伝い、どこの部活にも入れず、今風にいえば・帰宅部・だった。塾生も多くそれに伴い兄から潤沢な「こずかい」が貰え、塾の休日には封切り映画三昧(写真②)を送ることが多かった。塾の運営には杉原先生から顔を合せるごとに励まされていた。今思うと以後40数年兄の後をついで珠算塾を続けて来た事に感無量、一度は斡旋された就職(兼松江商)も兄を助ける為に一年で辞めその都度清田先生に相談、いつも寛大な対応で励まされた。十数年後、私の長男が専修大学松戸高に入学した時の校長が清田栄一氏であったのは全くの奇遇であった。

▼この年、GHQ最高司令官マッカーサーが朝鮮戦争に対する意思の違いからかトルーマン大統領が解任、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の意味深な言葉を残した。大統領選に出馬する腹づもりがあったのか、共和党は欧州の指揮官だったアイゼンハワーを推挙した。敗戦日本を立て直してくれたマッカーサーが羽田を立つ日、沿道に沢山の国民が惜別の見送りに手をふっていた。私はいまも彼には感謝している。数年前、皇居前にある第一生命ビルのGHQのマッカーサー司令官の執務室が公開され拝見、机・椅子は修復せずそのまま、執務室から天皇の居る皇居がよく見えたとの説がウソであったのを確認できた。9月にはサンフランシスコ講和条約が国連で48か国の賛同を得て承認され、三商では校長の音頭で万歳三唱、君が代を唄い「これからの日本は君達が背負う」の今村校長の話、その日は未だに賛否両論がある「日米安保」も締結した。

▼戦時中を挟んでいたとはいえ小学校の6年間に4回の転校をしたのは私だけではないはずである。年度替わりの4月、入学したあの年を回顧してみた。

●写真説明①‥‥荒川区尾久にある東京初空襲による被弾地のパネル
●写真説明②‥‥1951年こんな超美人を見る‥Eテイラー

やっぱりぶつかって割れたか!! 28期 若月健司 2022年3月投稿

下記の文章は平成30年の2月にある団体の会報に投稿したものです。あれから4年経ってふと思いだして読み返してみました。そして現在の世界状況は危惧した通り、悪い方向に向かっています。

~シャボン玉が鉄球になる~

今年の冬は寒さが一段と厳しく感じられますが、会員の皆様におかれましてはご健勝のことと存じます。年初のある新聞記事で「世界はシャボン玉の集合体で構成されており、それぞれの玉が重なり合ったり、隣の玉の中を見ながら他山の石として連動していた。ところが最近その玉がシャボン玉から固い鉄球に変化してきたため、世界がギクシャクしてきた」といういうのです。この記事から連想するのはシャボン玉同士がぶつかっても、柔らかく対応できるが鉄球同士だとドカンとぶつかり衝撃が大きくなる。シャボン玉はその中が透けているので外から見え、安心感がある。鉄球は外から中の様子が見えず、疑心暗鬼になりやすい。

ここでいう世界とは国と国の関係だけでなく、政治・宗教・企業・地域社会・集団などに当てはまります。即ち、鉄球の中身は「自分達優先・自分達優秀・排除・分断など」です。人類は第二次世界大戦を経て、あの惨禍を再び犯すまいと今日まで営々と努力してきた筈ですが、どうも昨今は鉄球が多くなり、あちこちで激しくぶつかり合っています。歴史は繰り返すという言葉は死語にしたいものですが、その期待がはずれそうに思うのは時期尚早でしょうか。 以上。

ウクライナがシャボン玉とすればロシアは鉄球です。その鉄球がドカンとシャボン玉にぶつかり割ってしまったのです。このような事態がまかり通るようではSDGs推進・オリンピック開催・地球温暖化対策・共生社会実現などの活動自体がなんの意味も持たないのではないでしょうか? 以上。

15 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年3月投稿

JR船橋駅より徒歩10分程にある、御蔵稲荷神社をご案内します。江戸時代、ここには飢饉に備え穀物を蓄えていた郷御蔵がありました。

「御蔵稲荷神社 (九日市郷御蔵跡)」

寛永19年(1642)の寛永の飢饉以来、徳川幕府は関東各地に年貢米を一時的に保管したり、飢饉に備えて穀物を貯えたりするために、村々に倉庫を建てました。これを郷蔵(ごうくら)あるいは郷御蔵(ごうおくら)と呼びました。ここ船橋(九日市、船橋御殿跡)にも、九日市郷蔵が建てられました。

「御蔵稲荷神社」

九日市郷蔵は、230年程前の(寛政3年、1791)の津波で失われ、以降再建されませんでした。 延宝、享保、天明の飢饉には郷蔵によって村人は救われ、恩顧に報い稲荷様を祀りました。 これが御蔵稲荷神社です。

このあたりから東側は中世の頃には、海老川の河川敷だったと言われており、その川幅は200m程と広かったようです。

「御蔵稲荷神社は狛犬でなく稲荷神の神使の狐像で左右共に巻物をくわえている」

「16 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(14)厳島神社」に続く 「2022-2-25寄稿」

戯言&独言18 21期 髙野 昇 2022年3月投稿

■三月になると
戯言18

▼三月になるといろいろと思い返すことが数々あります。11年前の3月11日のあの東日本大震災の日にわが家族にとって初の女の孫が生まれました。出生時刻も大津波が三陸地方襲っていたあの時刻でした。PM2時過ぎの大揺れの時は前日から出産の為入院(さいたま市岩槻区)しており当日の地震は妊婦曰く「凄く怖かった」が数時間後の津波襲来とほぼ同時刻に女児が誕生しました。私達老夫婦も自宅前の空き地に近所の方々と共にへたり込み、孫が生まれそうだとの事もすっかり忘れており、父親になる三男の息子は本郷湯島にある勤務先から社員全員に早期帰宅令が出たもののアクセスや携帯が不通、40キロ近い道を岩槻の自宅まで徒歩帰宅、その時点で吾子が生まれたのを知らず、その足で産院を訪れ誕生を知ったそうです。その孫娘もあと数日で6年生、高齢者の私達夫婦がスマホのレクチャーを乞うほどになりました。

▼私の父は千葉県旭市(旧飯岡町)の生まれ、あの日この町も津波に襲われ父の実家は5M30cmの津波の襲来をうけ、普段から九十九里海岸の波音や波足の激しさは知ってはいたものの津波のその速さに逃げる余裕も無く、実家に住む従兄の長男は「家の中で溺死する寸前だった」と述懐していました。1階は壊滅し町では16名の命が奪われました。今だに東北三県の被害の大きさだけが連日報道されて、有名、無名を問わずボランティアが訪れていましたが千葉県にも同じ様な被害、犠牲者がいたことは数年後「朝日新聞」コラム欄で数回記載されていましたが知る人はあまり居なかったようです。孫は誕生日が来る度に震災の事を周りから語られ、被害に遭った方々から新たな生命を戴いた事に思い馳せ成長してもらいたいものです。

戯言18-2

▼3月10日は77年前に東京大空襲で下町が95%消失し壊滅した日です。私は集団疎開先(山形・かみのやま温泉)でその3日後に先生から知らされました。宿舎の旅館や先生にはかん口令がひかれていたらしく、その3日後に知らされました。その5日前に同宿の6年生6人(男4・女2)が卒業のため帰京していましたが内3名が家族と共に焼死してしまいました。宿泊先で寝起きを共にしていた担当の先生(女性)は自らの家族の住む上野小島町が心配でそそくさと教員を辞職し帰京してしまいました。疎開先に残っていた5年生以下3年生(私も3年生でした)は在京の家族の安否で夜も日も眠れずの1っか月、やっと詳しい情報が私の父からあり、4年生の女の子の家族が一家全滅の事も書いてありました。この人は2年後兵隊に行っていたお兄さんが復員、親類に預けられていた妹を引き取り、もとの実家(私の実家の裏)に戻り再会しました。バラック建物がボチボチ建ちならぶ昭和23年の事でした。

▼私の家内はこの時3歳数か月、大空襲の中、深川高橋(たかばし)から母の背に背負われ義母はリヤカーを引き舅の手をとり人の流れに従ったもののリヤカーの荷に火が付き目の前にあった「防火用水」に投げ込んで逃げたそうです。その時岩崎庭園(現清澄庭園)の門が開き大勢の人がここで一夜を明かしたそうです。義母が家内をおぶっていたその上に「綿入りねんねこ半天」を着ていて、その袖袋に入っていたのがこの写真の「体力手帳・・‥今は母子手帳」です。「体力手帳」とはいかにも戦時中らしい表示です。岩崎庭園で池の水を飲み顔を洗った時に気が付き袖の半分近くが燃えちぎられていたのに気付いたそうです。背中の子に火がつき焼死したのも知らずにいた方が多数いたのも後日知ったものです。幸い家内は火傷一つ受けず現在があります。彼女にとっては記憶にはない唯一の戦争体験の証拠であり、手帳の隅々の焼け焦げは空襲により焼死した方々への鎮魂の思いがこもった大切なものです。家内の父は当時群馬にあった航空機製造会社の下請で部品の設計図の仕事で深川には居ませんでした。義母は11歳の時に関東大震災にも被災し、この時も清澄庭園に避難し難を逃れています。清澄庭園の事を晩年まで「岩崎様のお庭」と言っていました。2度も命を助けて頂いた恩人の「岩崎様」なのです。

⁂写真説明‥‥家内が今も大切に持っている「母子手帖」

‥‥ ‥‥父の実家付近の震災2日後の写真

偶然か?日本の2022年は転換期!! 28期 若月健司 2022年2月投稿

年初にあたり、今年はどんな年になるのだろうかとふと思っていた時に「日本の2022年は転換期になる」という言葉に気を引かれました。理由を整理すると以下の様になるのですが思い当たる部分もあります。「歴史は繰り返す」という言葉もあるようですから日本の今後を見通すうえで少しは参考になるかもしれません。

明治維新が1868年と言われ、太平洋戦争敗戦が1945年です。その間が77年です。それから今年の2022年までがぴったりの77年です。まさに明治以降の77年と敗戦後の77年が一致するのです。そして両期間における歴史的な事象も共通する部分があり、今年以降の将来を考えるにあたり大いに参考になると思います。

明治維新から敗戦までの77年間

敗戦から今年までの77年間

明治

近代国家を目指し富国強兵

昭和中期

敗戦から経済大国へ

大正

大正ロマンを謳歌

昭和後期

経済高度成長 バブルを謳歌

昭和初期

軍備拡張から敗戦へ

平成令和

バブル崩壊経済低迷、国力低下

黒船来航という外的要因による富国強兵の結果、日清・日露戦争に勝利し列強の仲間に入った。それは敗戦という外的要因によって経済大国となったことと共通する。大正ロマンを経験したことは高度成長によるバブルを経験したことにも共通する。昭和初期に入り軍国化が進み敗戦に至った。そしてバブル崩壊のあと平成・令和と経済が低迷しているが、それは軍国化が進んだ昭和初期と重なる。

これまでの日本を考えると外的要因で国家が生まれ変わるという歴史的事実がある。そうであるならば今後どんな外的要因があるだろうか。

①異常なる気候変動~産業革命以降の化石燃料資源使用によるとされる異常なる気候変動で
大災害が発生し、それが大転換になるのだろうか?

②コロナ禍~今後益々コロナ禍の影響が大きくなり社会構造が転換するだろうか?

③核兵器による紛争~現在世界各地で一触即発の紛争が起きているが核兵器が
使用されることは
無いのだろうか?

④世界では民主国家と権威国家に分断されつつあるというが、それが武力衝突に至り
日本が巻き込
まれることはないのだろうか?

国内的要因も考えられる

①日本は現在超金利安だが、今後金利高になった場合、財政赤字への影響は大丈夫だろうか?

②円安がジワリと迫っており、物価高が心配されているが国民の生活は大丈夫だろうか?

③一強多弱の政治情勢の中、チェック機能が働かない結果政策に間違いが発生しないだろうか?

今後30年間に70%の確立で発生すると言われる東京湾北部大地震や戦争などによる「転換期」は望まないが、日本の国力が低迷している現在「何が正しいか、自分で考える」を念頭に置いて行動したいものです。 以上。

14 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(12) 慈雲寺― 29期 仲田元昭 2022年2月投稿

前回ご案内した西福寺より徒歩5分程にある、古刹で創建当時には広大な敷地に七堂伽藍を備えていた慈雲寺をご案内します。

「慈雲寺」

大峰山慈雲寺は、弘安2年(1279)北条時宗の招請で来朝した宋の僧、無学祖元和尚(鎌倉建長寺二世)を開山に迎え、北条時宗により臨済宗の寺院として創建されました。
本尊は釈迦牟尼仏。開山当初は、七堂伽藍の整った大寺であったそうです。
しかし、永禄七年(1564)の里見氏と北条氏との戦いにより伽藍は焼失しました。
その後北条氏政が再興し、天正18年(1572)に、曹洞宗に宗旨替えしています。
戊辰戦争でも本堂を焼失し、現在の本堂は、昭和50年(1975)に再建されました。

「慈雲寺 本堂」

「徳川家臣綿貫元吉の墓」

境内には、戊辰戦争で亡くなった徳川家臣兵士「綿貫元吉」の墓があります。

碑石は150年程経過し損傷が激しいですが、向かって左側に「造立主東京照降町亀屋清兵衛」とありますが、徳川家臣「綿貫元吉」との関係は明らかではありません。

「徳川家臣 渡貫元吉の墓」

「15 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社」に続く 「2022-1-25寄稿」

戯言&独言17 21期 髙野 昇 2022年2月投稿

「るい」とサッチモ
戯言17

▼今の朝ドラ「カムカム・エブリボディー」に少し夢中になっている。ルイアーム・ストロングからとった子の名が「るい」、その結婚相手がトランぺッター、そこでよくつかわれていた台詞や演奏曲の「sunyside of thestreet」とは私の中では結び付かないが、 シングルSP盤にあったかは記憶がない。アームストロング(略称サッチモ)を初めて聞き、SP盤を買ったのがアルゼンチンタンゴの名曲「エル・チョクロ」を今風に彼らしくアレンジしたもので、”KISS OF FIRE”で戦後日本で発売された初のサッチモのレコードがこれだと思う。かなりのレコード売上があったはずで、ラジオからも毎日のように聞こえてきた。あのペギー葉山が「渡辺弘とスターダスターズ」をバックにこの曲でデビュー、「sunysade…」をサッチモが唄い演奏していたとはこの朝ドラで初めて知った。サッチモのペットの音色、左手にもった白いハンカチ、汗を拭う姿、ダミ声と笑い声、あの顔、一度みたら忘れられない。映画「グレン・ミラー物語」[「五つの銅貨」「上流社会」などハリウッド映画にもよく出ていてどれもサッチモそのままの役で出演していたと思う。「上流社会」でのなかで♬ハイソサエティ♬を唄いこれがヒットしていた。他にも♬バラ色の人生やセッシーボン♬などのヒット曲があった。映画「グレンミラー物語」の中でドラムのジーン・クルーパーを交えてのセッション場面は特に素晴らしく、「これぞサッチモだ」を感じた。

▼ある「音楽雑誌‥195?年版」によると少年時代はかなりの悪で発砲事件で少年院に入り、そこで教えられたコルネットが縁で出所後、街のパレードなどで腕を上げプロとなりニューオルリンズで名がひろまり、デキシーランドジャズ全盛のど真ん中で活躍。デキシーランドジャズの代表的な曲は♬聖者の行進・タイガーラグ♬などがある。当時は演奏者が唄うのが当たり前でサッチモもその一人、私のすきなジャック・ティガーデンも渋い声で、LPを持っている。前記「音楽雑誌」によると唄の中で♬ズビズバブー・ダバダバヅ♬と楽器のように唄う事があり”スキャット”と言うが、これはサッチモが歌詞を忘れごまかす為に突然口ずさんだもので、共演が多かったエラ・フイジェラルドが冗談ぽく言っていたと書いてあり、このエラ小母さんと共演したDVDを見ると楽器の部分をテンポが速く全てスキャットで済ます素晴らしい場面もある。日本では由紀さおりの「夜明けの‥‥」があるがテンポが遅くスキャットには程遠い。

▼サッチモと名付けたのもこのエラ小母さんであの大きな口を小さなバッグの口金に見立てたらしい。195?年にGHQ兵士の慰問を兼ねて来日、その合間に浅草国際劇場で3日程公演、それも押し詰まった年の暮れの冬休み中、兄と観に行く予定が「この暮の忙しい時期に…」と親から文句が出てパーとなった。「キング・オブ・ジャズ」と讃えられ世界各地の公演で音楽大使と言われていた。時の大統領アイゼンハワーが人種差別に関心を示さず無反応さに「その心許さず」と公言をしたこともあったらしい。ベトナム戦争の悲惨さと悲しみの全世界に向かい名曲「WhotA Wondfulworld」と共通する願いであったと理解する。”sunyside…”は日本では、”明るい表通りで”と訳され表示されているが朝ドラの主人公とサッチモは”日向を前向きで進む”志を秘めてこの曲を歌い演奏し、ドラマの中で娘に「るい」と命名したのがじんわりとわかってきた。朝ドラの話からサッチモ賛歌になってしまい朝ドラの主人公たちがサッチモと今後どんな心の糸で繋がるのか楽しみである。高齢者ゆえの遠い昔の思い違いなどがあるかも知れずその点はご容赦の程を。

「SDGs」と「人新世と資本論」 28期 若月健司 2022年1月投稿

昨今、SDGsという言葉が国内外で盛んに使われています。私はこの言葉は約5年前から知っておりました。

2017年(平成29年)1月31日(火)朝日新聞朝刊に1頁にわたり「新しいものさしで考えよう」との見出しで掲載され、そこには「2030 SDGsで変える」との文字がありました。SDGsとは国連加盟国が2030年までに取り組む行動計画で2015年(平成27年)の国連総会で全会一致で採択されたのです。「誰も置き去りにしない」を共通の理念に、平等な教育、気候変動への対策など17分野からなります。具体的な目標は169項目に及びます。日本政府も2016年(平成28年)5月に安倍晋三首相を本部長とする「SDGs推進本部」を発足しています。翌年には実施計画を発表しています。

その朝刊の記事には「国谷裕子」さんのコメントがあり、2015年(平成27年)の国連総会での採択以来、この問題に彼女が熱心に取り組んできたかが掲載されています。彼女はNHKの「クローズアップ現代」のキャスターを2016年(平成28年)3月まで23年間務めましたが、その切り口鋭い指摘が災いとなりある筋からの圧力からキャスターを降板せざるを得なかったとも言われています。その彼女が逆境にめげずSDGsに取り組む姿に敬服します。

一方で2021年(令和3年)新書大賞1位に選ばれた「人新世の資本論」(集英社新書)があります。著者は斉藤幸平大阪市立大学大学院準教授です。「気候変動、コロナ禍は文明崩壊の危機。唯一の解決策は潤沢な脱経済成長だ」というのが主張です。~はじめ~の頁から「SDGsは大衆のアヘンである」とあり、レジ袋削減やマイボトル持参などで温暖化対策をしていると思い込んでいるのは現実から逃避していると断じます。化石燃料の使用による産業革命で大量生産大量消費が行われ経済が成長した結果、地球は汚染された。これからは経済成長を基盤とするのでなく脱経済成長を目指す新しい「人新世時代」へ突入すべきという。

日常生活でゴミの分別化、えどがわエコセンターでの子ども達への環境問題の啓蒙活動を行っているが昨今の気候変動に役立っているのだろうかと疑問に思うこともある。間に合わないのではと。ガソリン車の製造禁止や都心への乗り入れ規制、飛行機の便数削減、再生エネルギーへの予算拡大、後進国への思い切った援助、格差の縮小などいろいろ考えられるが抵抗も予想される。3.5%の人々が立ち上がれば社会を大きく変えられるというデータがあるという。それが正しければ私を含め一人ひとりが3.5%に入ることだろうか。 以上。

13 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(11) 西福寺― 29期 仲田元昭 2022年1月投稿

今年も船橋の魅力を発信してまいりますので、宜しくお願いします。これまで東金御成街道の海側の寺町にある寺社をご案内してきましたが、今回から街道の北側にある寺社をご案内します。

「西福寺」

船橋山(せんきょうざん)清浄心院西福寺、真言宗豊山派の寺院で、別名閻魔(えんま)寺とも呼ばれています。創建は鎌倉時代と言われ、門前に江戸時代の庚申塔、念仏講供養塔があります。本尊は阿弥陀如来で、本堂は戊辰戦争で焼け明治39年に再建されました。

「西福寺 本堂」

「五輪塔、宝篋印塔」

境内にある県指定文化財の石造五輪塔(上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪)は、安山岩製の高さ295cm県内で一番大きく、鎌倉を除いては関東地方でも数少ない優れた作品です。その古風さ、優美な姿に特色があり、律宗系の高僧の墓で南北朝時代の製作と推定されています。左の宝篋印塔は、鎌倉時代後期の製作と推定され、全高154cm、中世の宝篋印塔としては大型のもので、原形をよくとどめています。

「五輪塔、宝篋印塔(県指定文化財)」

「14 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(12)慈雲寺」に続く 「2021-12-25寄稿」

戯言&独言16 21期 髙野 昇 2022年1月投稿

戯言タイトル▼正月が過ぎて
戯言16

■コロナやらオミマクロやら慌ただしく過ぎた年末、年始、私は子供の頃からこの年末から年始にかけては嫌いだった。それは家の商売が食料品店のせいである。当時の食品店は御節料理を小商いの店で作り売り,近在の家庭では当たり前にお重を持って買い物に来る。商人(あきんど)としては1年の中の稼ぎ時、稼ぎいれ時でもある。その御節の準備は全てが前もって支度しなければならず、一家総動員、親類の女性まで寝泊まりを伴っての手助けを受け下ごしらえが暮の20日から始まる。ほとんどが手作りの時代、今はスーパーやインターネットで雅でお重も要らない体裁よくできた御節料理を手にする事が出来る時代だ。あの頃はまず店を閉めてから7人家族全員で「昆布巻き」を巻く。あらかじめ戻してある昆布を父が切った寸法の昆布に小幅の昆布に小女子を挟み巻いて干瓢でくくる、それを毎晩一人30本と決められ3日ほど続く。黒豆や田ずくりは当店の自慢の品で石油缶10本ほど作る。その煮炊きの火の番は私の仕事、おが屑を硬く詰め込んだ竈が三基あり父の指示で通風口を調整するのが難しかった。あとは野菜の煮っころがしの野菜切は兄(16期生)の役目で、親類から手伝いに来ていた女性は「なます」の千切り、私は「きんとん」のサツマイモを細かく切る役目を仰せつかっていた。数え上げればキリがない。兄が珠算塾をやっていた頃は教室はすでに冬休みで煮炊きの済んだ品は全て別棟の教室に収容、教室中煮物の匂いがしていた。冷蔵庫が普及していない時代なので押しつまった30・31日にお客が集中、下町は特にその色合いが強い。この暮の2日間は店売りの手伝い、当時は私服等持たないので詰襟の通学服に厚での前掛けをかけて店に出ていた。正月、その”報酬もお年玉”も無く兄の珠算塾を手伝っていたこともあり兄が「父ちゃん、母ちゃんに言うなよ」と小遣いをそっとくれていたのを今も正月になると思い出してしまう。あの暮の手伝いの猛烈な忙しさ、間違えれば父に怒鳴られ、母に怒られそんな思いが執念深く續き、よって未だに正月が好きになれない原因にある。ここ2・3年我が家のお節はインターネットで早めに注文。バラエティーに富み京料理の上品な味が高齢者に合うのか彩どりも良く、京料理の雅(みやび)さが偲ばれ贔屓となった。以外な事に正月に来訪してきた二男家族の孫(男)2名、「美味しい、旨い」と喜んで食べていった。食べ盛りとは言え正月2日で完食され私達夫婦の正月3日目の雑煮の膳には姿なく、心密かに嬉しく家内と笑いあった。

子供の名前 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年12月投稿

明治安田生命保険会社は2021年生まれの名前人気ランキングを発表しました。

私が子供につけた頃とは全然違っています。おもいもつかない名前ばかりでした。私は子供には姓名判断の本を参考に画数とか、子供が書きやすいことも考えに入れてつけました。

私には令和生まれのひ孫が4人います。

男の子の名前は綺一(あやと)愛翔(あいる)

女の子は紅愛(にいな)心遥(こはる)

孫達がどうしてつけたのかは聞いてはいませんが綺一をのぞいて3人は書きづらいだろうと思います。私なんか考えもつかない名前ばかりです。

12 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(10) 常磐神社 彫刻の美―
29期 仲田元昭 2021年12月投稿

船橋駅より徒歩15分程船橋大神宮境内にある、常磐神社本殿の魅力、極彩色漆塗り仕上げ彫刻の「匠の美」をご案内します。

「本殿最上部の千木の菊唐草文様」

「唐門上部の菊の御紋と葵の御紋」

「本殿(東南)柱上部の神獣」

「本殿(東)虹梁の彫刻 四神 青龍」

「本殿(南)虹梁の彫刻 四神 朱雀」

「本殿(東)虹梁の彫刻 飛龍」

「13 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(11)西福寺」に続く 「2021-11-25寄稿」

11 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(9) 常磐神社― 29期 仲田元昭 2021年12月投稿

船橋駅より徒歩15分程の船橋大神宮境内にある、常磐神社について2回に分けてご案内します。お正月3日間のみ公開される、本殿の素晴らしい極彩色漆塗り彫刻をご覧いただけます。お近くにお住いの皆さんお正月に参拝されては如何でしょうか。

「常磐神社」
今から400年程前、元和8年(1622)に二代将軍徳川秀忠公が、家康公を祀る常磐神社をここ船橋に造営しました。その当時の本殿は5間(約10m)四方の大きなものでしたが、戊辰戦争の市川船橋戦争で焼失してしまいました。

「極彩色漆塗り 菊の御紋と葵の紋がある立派な唐門と玉垣」
現在の神社は、平成27年(2015)に「徳川家康公没後400年祭記念事業」として、創建当時の日光東照宮にも並び称された壮麗な社殿を再現すべく、造営されました。
本殿は、間口3間、奥行2間、高さ25尺、極彩色漆塗り仕上げで、本殿最上部の千木には菊唐草の文様が彫られています。平成の大造営とも言えましょう。

本殿には、中央に日本武尊、左に徳川家康公と徳川四将(井伊直政、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政)、右に秀忠公と歴代将軍家をお祀りしています。

「本殿正面(極彩色漆塗り素晴らしい彫刻)」

「本殿南西(千葉県建築文化賞優秀賞受賞)」

「12 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(10)常磐神社 彫刻の美」に続く 「2021-11-25寄稿」

戯言&独言15 21期 髙野 昇 2021年12月投稿

▼いろいろあったなあ‥この一年

■新コロナウイルス二言目にも新コロナウイルスの2年間、近年こんなに永く家籠りしたのは戦時中以来か。あの豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が昨年2月3日、日本に寄港してからの年月、一般市民は外出を控え様子を伺いながらもその収束も見えずトンネルを抜けられず、行政の対策の手遅れがアチコチに排出、当時のコロナ元請け安倍総理は「国民全員にマスクを配る」との安易な考えと”もり・かけ・桜”の難と共に体調悪しと{仮病かも?😜}逃げ、次の下請け菅総理に至っては役人の書いた文章を音読するのみ、小学生の国語の時間じゃあるまいし。10万円給付金とワクチンの手配や接種会場不足にアタフタで、職責を逃れる為か孫請けの岸田総理にバトンを渡す。この混乱期に戦時中の内閣ではあるまいし2年もたたぬうちに総理が3人も変わり、この異変な出来事で歴史上でも末代までの記憶となるだろう。その間の感染バイオリズムは3次、4次と進んでいく。孫請け総理、就任時の御題目の意気込みも日に日にあまり進捗もなくなんとなく元請け、下請の顔色をみながら肝心な所は地方自治体に丸投げの感がある。飲食店の時間緩和もどうかと思う。国民全部が飲食業でもなく、皆が外飲みを好んでいない。若山牧水ではないが「‥・・・酒は静かに呑むべかりけり」。この稿を書いている間にオミクロン株なる新型が参上、オミクロン株と聞いた時、どこかのIT企業が実績を上げ上場か二部に登録したのかと一瞬思った。それにしてもなぜ「株」が付くのか。

戯言15

■新型コロナ禍の中16期の兄、三商生以来の盟友細田武君が黄泉(ヨミ)に召され悲しみの消えぬ中もう一人の盟友石塚芳君がこの4月に故人の後を追った。彼は下小岩小、私は小岩本校、良く下小岩小は横綱”栃錦”の卒業生である事を自慢していた。三商2・3年生の時からの同クラスで修学旅行も同じ班で同一行動、お互いの家にも出入りし毎夏仲の良いグループ5・6人と葉山の森戸海岸え海水浴、銀座のジャズ喫茶「テネシー」に故細田君も交えて行ったり、細田君と共に遊び、学び青春の入口を楽しんだ。協和銀行(現りそな)に就職し上野支店勤務の頃は毎週の様に木曜日(私がやっていた珠算塾は木曜が休み)に誘い、誘われていた。後楽園球場のナイター、あちこちのジャズコンサート、登山、銀行の保養施設など・銀座の「すき焼き店」で2人は初めて本物の”すき焼きを食した。20歳の頃だ。ほかに不二家のビーフシチュウやソフトアイス、上野精養軒でのこれぞ”肉"と気がついたステーキなど初物喰いはいつも彼と一緒だった。江の島・鎌倉行きには上野支店の女性陣数名も加わり、その中の一人が今、私の家内、石塚君もその中の一人と婚約中だった。彼が亡くなったその日の昼、奇遇か偶然か彼から電話が掛かってきた。家内が電話を取りしばし歓談、その後で私と「おう、おう元気かい、しばらくだなあ」と他愛のない会話が小一時間、家族の近況や孫の話、Tigersはいつも尻切トンボで終わる(彼は虎ファン)、私は中日ファンでプロ野球の話、在校時代から二人はアンチ巨人で共通していた。奥さんは介護度が高く電話には出ず、電話を取った家内に「リンパ腫で凄く首が痛い時があるんだ」と言っていたとか。私は以前からそれは知っていた。その夜、9時過ぎ娘さんから「一時間程前に風呂場で倒れそのまま逝ってしまいました」続けて「夕食の時、”今日は髙野と芳子さん(家内の名)と久し振りに長い時間喋れて良かった」と楽しそうに語っていたのでその様子からまず私に電話したと申され家内と二人電話の前でしばし呆然、静寂の中、家内のすすり泣きだけが僅かに聞こえていた。逝くことへの神の計らいとしか思えぬ悲しい惜別の電話であった。合掌

戯言15-2

■よかったなあと思うことが一つ。このHPの10月寄稿の中に孫が通学している高校の野球部員として出場していたことを書いた。秋季大会は都予選に170余校(東西合同)の中、トーナメントの前に予備戦まであり孫の高校(都立城東高校)はトーナメント出場権を得て立ち上がり6戦目で東京の雄、関東一高に3点のリードをしていながら惜敗、悔しさは勿論あるが、公立校に専用グラウンドなどあるわけもなく、他の部活と共用の校庭グランドで週4日だけの練習、都の厳しい規制でpm7時には帰宅しなくてはならず、そんな中での健闘ぶりは、打倒強豪私立高に燃えた下町っこの心意に感動と感謝の10月・11月だった。

戯言15-3

■気忙しい年の暮、60年近く連れ添った家内と二人の暮や正月にも慣れたものだが、コロナ禍の中、息子家族が来るか、来ないか。とは言いながらおせち料理はインターネットで京都料亭に注文済み、後は年賀はがきのプリントアウト、年々喪中はがきが少しずつ増えるのは寂しい。14枚ある障子紙張り、若い時は一日で全部できたものが寄る年波には勝てず一年おきの半分ずつになった。年内最後の作業は「東芝もちっこ」による「餅搗き」この”もちっこ”は我が家の家電の再古参の40数年物、息子3人が居た時期は5升も搗いたものだが今はひっそりと2枚だけ。この”もちっこ”赤飯を炊くにも便利。孫達に上げる「お年玉」も年末に現金書留でおくる変な流れの暮と正月、そんな中オミクロン株なる新顔が現れ最初聞いた時は新鋭のIT企業が 株取引に上場したかと思ったが。なぜ「株」が付くのか分からない。この分で行くと2年連続の寝正月、間違いなし。HPご覧の諸兄方々佳き歳の暮と良き正月を。

:::雑句

●とりあえず 会釈してみる マスクごし

●ジャンボくじ 果報をまちて 寝正月

10 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(8) 圓蔵院― 29期 仲田元昭 2021年11月投稿

今回は、7月号でご案内した覚王寺より徒歩2分程にある、地元で何でも願い事を叶えてくれると有名な因果地蔵尊のある圓蔵院をご案内します。

「圓蔵院」

真言宗豊山派の寺院で海岸山圓蔵院といい、今から460年程前の戦国時代後期 永禄元年(1558)の開基と言われ、当時は、海岸山と言う山号から山門の近くまで海岸であったと思われます。 ご本尊は不動明王です。

本堂は、戊辰戦争で焼失し、明治33年(1900)に再建され, 現在の本堂は平成17年(2005)に立派な鉄筋コンクリート造に建て替えられました。

「圓蔵院 山門(市HPより)」

「因果地蔵尊」

この石造 因果地蔵尊は、願い事が叶うことで知られ地域の信仰は篤く、遠方からも参拝者が多く香華が絶えません。 「因果地蔵尊」は、三代目住職の秀範が安土桃山時代 天正年間(1573~1591)に建てたと伝えられ、高さは 180cm程もあります。

地元漁師町では「いんが地蔵」でなく「えんが地蔵」と訛ります。願い事が叶うと、お礼にと小さな地蔵尊を奉納し、今ではその数は千体程にもなります。

「因果地蔵尊」

「11 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(9)西福寺」に続く 「2021-10-25寄稿」

戯言&独言14 21期 髙野 昇 2021年11月投稿

■映画・騎兵隊3部作

●若い後輩諸兄にはあまり西部劇映画は馴染みが薄いと思われるが、かって1960年代ごろまでは西部劇全盛期、観る方の私達も若かった。私の好きな「西部劇」はやはりJ・フォード監督、J・ウエイン主役ものだ。ウエインはフォードにみいだされて「駅馬車」で人気を博し、これはダイナミズムを秘めた西部劇の名作である。後年、日本映画の黒澤明と三船敏郎の存在と似ている。ドンパチやるのが西部劇の楽しみかも知れないが、この2人の作品にはそれを超えた愛・友情・哀愁・郷愁・尊敬などがそれとなく滲み出ている作品が多い。機会があったらお薦めしたいのはこのコンビの”騎兵隊三部作”それは「アパッチ砦」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」だ。

戯言14

●「アパッチ砦」では本部から左遷されてきたヘンリー・フォンダ扮する司令官が現場環境も分からず最後はアパッチにやぶれ壊滅、それでもJ・ウエインの少尉が戦死した司令官を責めることもなく英雄として讃える、男の心丈夫と心意気は感動もの。この映画で斥候役の騎兵隊員の役をやったベン・ジョンソンという俳優は数ある西部劇俳優の中で乗馬の巧みさはNO1と言われており、これもJ・フォードが見だした名優で、その後も数ある西部劇に出ていた。

●「「黄色いリボン」 この映画、映画もそうだが挿入曲も大ヒット、日本でも久慈あさみがレコードで唄い ♬あの女の黄色いリボン‥‥イエロリー,イエロリー…♬ と唄っていたが実際は"she wore a yellow ribbon”だったはず。映画のなかであのミッチイミラー合唱団が唄いTVがモノクロの時代ミラー合唱団の番組も有った。数日後に定年退役する最後の仕事として駅馬車を護衛する役目が原住民との戦いで苦い敗北をするという展開、年老いた指揮官がメガネをかけ直して文書を読むJ・ウエインのショットは今思うに、現在の自分と重なり何か愛おしい。夕日を背に受けて亡き妻の墓に手折ってきた野花を添えるシーンは美しく、悲しくこれまた愛おしいシーンだった。この映画にもベン・ジョンソンが出ていた。隊員皆が黄色いリボンを首にまいていたのは監督の遊び心らしいと評論家の荻昌弘が「キネマ旬報」に書いていたと思うが定かではないと付け加えている。たしか砦の上官の娘が黄色のリボンをつけていたと思う。

戯言14-2

●「リオグランデの砦」 駐在している砦に新兵としてなんと自分の息子が赴任してくる。おまけに息子は士官学校の落第生で、出來不足の息子の成長を厳しくある時は温かくたたき上げる様がアチコチのシーンで見られハラハラしながらJ・ウエインのやり方に喧嘩もする母親(モーリン・オハラ)の姿もあって教育ママは何時の時代どこの国にもあるんだという事を冷ややかな気持ちで観たと思う。やがて息子は原住民との戦に作戦勝ち。頼もしく思う父親はこんな結果に一面寂しく、溺愛息子の活躍にただただ喜ぶ母親、ちょっと西部劇らしからぬ展開ものだった。

●三作品はあの「駅馬車」の様な胸のすく西部劇ではない。人間臭い、誰でもが持つ感情、舞台が西部なるが故に戦死した一兵卒、同僚同輩、上官に対する敬意と哀愁が漂う。モニュメントバレーの山岳を背景にどれもダンスや合唱があり、ユーモアあり、喧嘩あり、恋も失恋もあり、短い時間ながらインデアンとの壮絶なスピード感は監督の磨かれた手腕で見せ場を心得ていてニクイ・にくい。ドンパチ的西部劇フアンに物足りない三部作だったと思われる。「OK牧場の決闘」や「リオ・ブラボー」や「荒野の七人」などはドンパチ溢れる楽しい西部劇映画でこれもまた良し・・・・・・脇役もいつもの顔ぶれ、ちょっと太めのビクター・マララグレン、ユーモアと真面目?な部下の役が多く、いずれも先のB・ジョンソンと共に三作に出演、B・ジョンソンはあの「シェーン」では主演のシェーンに敵わぬと判断し、シェーンに相手方の出方を吐露して去る役をやっていた。


▼添付写真説明 「アパッチ砦」ヘンリーフォンダと・・

後方にB・ジョンソンが見える

9 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(7) 了源寺― 29期 仲田元昭 2021年10月投稿

今回は、前回ご案内した東光寺より徒歩10分程にある、本堂が老中松平定信の寄進と伝えられる了源寺と市文化財の鐘楼堂跡をご案内します。

「了源寺」

光雲山伝翁院了源寺は、430年程前の天正年間の創建と伝えら、船橋では珍しい浄土真宗 本願寺派の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。

戊辰戦争の際、新政府軍の宮崎・砂土原藩が駐屯したために戦火を免れました。本堂は白河藩三代藩主、老中松平定信(御三卿・田安家)の寄進と伝えられています。

「立派な山門からの本堂」

「了源寺 鐘楼堂跡」

本堂の脇に、市指定文化財の鐘楼堂跡(附 和時計 蜀山人筆掛軸)があります。 ここには、300年程前の享保6年(1721)から15年(1730)に徳川幕府が大砲の試射を行った台座がありました。

試射は10年程度で終わり、その後は代官の勧めで鐘楼堂を建て、幕府から「時の鐘」と認められ明治4年(1871)に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていました。現在の鐘楼堂は、昭和42年に再建されたものです。

「鐘楼堂跡(市文化財)」

「10 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(8) 圓蔵院」に続く 「2021-9-25寄稿」

戯言&独言13 21期 髙野 昇 2021年10月投稿

◆日なが一日、秋の夜長

●”新型コロナウイルス”なるものが豪華船と共に日本に上陸して以来1年10ヵ月、国全体が振り回され、ワクチンが足りるの、足りないのから始まり、全てにおいて初期段階での中央行政の取り組みの甘さと緩慢さは誰もが認める處でしょう。感染者が何名になったとかが何人に対して何人なのか、埼玉が200人を割ったとか報道されても県民人口全体の中での感染者の数か、検診を受けに来た人から算出した数字か、高齢・老朽化した頭脳の私には何処から出てくる数字なのか理解ができません。魔術師のトリックに騙されているのに似た思いも無きにしもあらず。自粛、自粛のこの中で感染者数の減少で人の心が和らぐのは事実ながら、警戒解除とともにやたら人出が増加、各自の自粛、抑制、我慢はしなくてはなりませんね。あてにできる出口はまだみつかっていません。しかし飲食関係業ばかりが被害を受けているわけでもなく、もう少しひっそりと自粛奨励に協力している高齢者にも改めて何等かの対策を講じるのも新内閣の御役目の一つではないでしょうか。

戯言13

●普段であれば月に1・2度好きな電車に乗り都内の降車したことが無かった駅で降り周辺を散歩、そんな日以外は自宅周辺を7・8キロは歩いていました。長男がいる菩提寺(松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立つ最初の宿)までは片道3.5キロ、週一に訪れていましたが。今は勿論外出自粛厳守、自宅周りを1・2キロをちょろっと歩き、買い物も重い物など、家内に頼まれてザックを背負ってでかけます。家内は”大腿骨頭部壊死”で人工骨が挿入されており長い時間の徒歩は無理、大手のスーパーに行くときはクルマで同伴、そういえばどこのスーパーや大手薬局など男手一人での買い物客(私も含めて)が多いですね。他にもパソコンに向かう、それも日に2時間程度、このコロナ禍のなかメル友の細田 武大兄が逝き、相談相手の兄(16期)が逝きこの人達とのメールのやり取りがなくなりました。来年度の年賀状の見本を6枚作りあげ、これは”プリントゴッコ”以前からの趣味で飽きません。あとは下手な”絵手紙”の下絵書きですが数十枚溜まってますが色あげもしてないものあり季節的なものは来年回し、定期的な病院通いは欠かせず、そんな毎日諸兄は如何なる日送りをしてますか。|

●そんな中で、一つの楽しみが出現、都立高校に在学している孫(2年)が野球部に居り東京秋季大会で東西250余校の予備戦を勝ち抜き、本戦64校の本予選の1回戦では孫の超ファインプレーがきっかけとなりサヨナラ勝ち、球場が遠く、自粛中故観戦はならず、PCのバーチャル放映で経過を知り「バンザイ」を雄叫び、あの(白鵬)のバンザイとは中身も意味も違います。過去2000年代に入り2度甲子園に行っている高校で”公立の星”と言われている高校ですが、肝心の本人曰く「野球は全員が楽しくやる」がモットーで、これは長い人生で大事なものの一つと思い影ながら応援しています。孫に改めて人生の生き方を再確認させてもらいました。

●雑句です‥‥‥‥‥

▼部屋灯り 消せばやさしき 月さえて

▼もう誰も 見ざるアルバム 秋が来る

▼一つ灯に 二人それぞれ 八十路ゆく

8 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(6) 東光寺― 29期 仲田元昭 2021年9月投稿

今回は、船橋を代表する船橋大神宮から東側台地(宮本台地)へ徒歩2分程にある、斬新なデザインの本堂で有名な東光寺をご案内します。

「東光寺」

慈明山阿舎(じめいざんあしゃ)羅院(らいん)東光寺(西福寺の末寺)と言い、創建は室町時代後期、480年程前天文年間と伝えられています。 本尊は薬師如来です。

現本堂は昭和40年(1965)に再建され、設計は地元船橋出身の建築士 長大作氏の斬新なデザインが、寺院の本堂としては大変珍しいです。

「斬新なデザインの東光寺本堂」

「道標を兼ねた廻国塔」

境内には、石造物が数多くあり、中でも道標を兼ねた廻国塔は 宝永6年(1709)製作の市内で最古の道標です。 左右に左ハさくら道 ・ 右ハかつさ道と刻まれています。その昔には、街道筋にありましたが、道路拡張工事の際、東光寺に移されました。

また戊辰戦争で亡くなられた旧幕府方の脱走様墓碑(3名連記)があります。市内には戊辰戦争で亡くなられた新政府方と旧幕府方の数多くの墓碑があります。

「道標左成田道、右上総道」


「9 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(7) 了源寺」に続く 「2021-8-25寄稿」

戯言&独言12 21期 髙野 昇 2021年9月投稿

●戦いすんで、日が暮れて

◆あの日の「トウキョウ」と「お・も・て・な・し」の言葉、会場に居た参列者のあの狂気な騒ぎも、今思えば何か虚しい空騒ぎでした。東日本大震災、各地の豪雨による被害、、そして02年の開催年度に発生した新型コロナの蔓延、なんの巡り合わせか一気に災難に巡り会った日本でした。自然の災害はともかくコロナに対する初期対応の緩慢さは現状の感染者の数が伸長していてこの時点で中止か延期が深く検討されるべきと思っていました。インフルエンザより少し強い程度の感覚か、錯覚か。。五輪関係者はお題目を「「復興オリンピック」と唱えを変え始めましたが津波や他の震災に会い未だに仮設住宅に住む人達や仕事の再興の悩みなどどんな思いでこの五輪を観て何を感じていたでしょうか。被災地の復興と言う名目と目的とは矛盾する各種のトラブルミス、競技場建設入札、エンブレムの偽装?、トップに立つあの人の女性軽視失言、「安心・安全」を呪文の如く唱える偉い人、そんな中、60%以上が開催中止を求めていたにも拘わらず全て無視しての開催は私的には納得できないものでした。

戯言12

◆何がなんでも「五輪ありき」で五輪終了後も感染者は増え、60%以上が開催を中止か延期にと言っている社会を無視し「コロナ禍の中、大会は成功」との給うたIOCの・・ぼったぐりバッハ・・や国内五輪関係者、特に五輪大臣丸川女史の発言は疑問です。総理の「五輪は成功裡に終了した」とか女性知事が「TVの視聴率も良く、自粛の協力度も良く‥」など発言、実態はどこのTV局も五輪・五輪、ここも五輪かよでチャンネル選択の余地がなく、全くのナンセンス発言には呆れました。

◆64年の五輪の成功はマスコミなど、市民の間でも語り草で未来の期待度も高く神話化されました。あの昭和の五輪を神話のままに便乗したものの「緊急事態…」はコロナだけではなく五輪にも適用してほしいと思っていました。どこをみても聞いても安全対策化が徹底した五輪とは程遠く化けの皮が剥がれた感じの五輪であったと思います。自然災害は止む負ない避けられない現象でしたが運営や市民に対する対応は一考の予知があったと思います。身内に豊洲の選手村をマンションとして買い付けていた人がコロナ禍の選手村だったのを鑑み後始末もしていない住居を解約すると言っていました。日本という国は十数年に一度五輪をやってきたみたいです。お祭り好きな日本人は64年の東京から札幌、長野と今度で四回目、八十代後期の歳で五輪を四回観たのは幸せですがどっちかといえば個人的にはあのラグビーW杯のほうが盛り上がりました。特別ラグビーファンではありませんが。

◆主催都市・国として入賞者が沢山いたのは各アスリートの揺るぎない努力、精進、忍耐の尊い賜で感動と感謝を戴きましたが、これは五輪の中止や延期とは別の問題と勝手に理解しています。女子ボクシングの優勝者の入江選手の明るさと話し方が面白く印象的、後日のあるTV番組の司会者が「あれだけ打ち合っても顔が腫れていませんが」の問いに「大会前はもっと美人だったんですよ」といった笑いながらのユーモアはすばらしい。そんなユーモアが理解できないあの張本氏の知的センスの無さ。

◆「お・も・て・な・し」は結果、表(おもて)が無くこの開催には間際になり色々あって「う・ら((裏)・が・あ・る」でしたね。うまい!自画自賛の戯言です。

前回のオリンピックの思い出 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年8月投稿

書道塾の1年後輩が交通公社に勤務していました。オリンピックの入場券があると云ってくれました。何でもいいから思い出に観戦しようと思いました。中学生だった弟をつれて国立競技場で馬術を観戦し、そして1人で横浜の男子バレーボール、対アメリカ戦だったと思います。観戦しました。日本生命の本社の友人にも声をかけてあげ、大変よろこばれました。

まえもって開会式の夜から、奥穂へ行く計画をたてていました。山男の友達と会社の同僚(女性)3人で行くことにしていましたが、直前に遭難の記事が2件あり、友人の1人が行かないと言い出し、3人で行くことになりました。

一緒に行く彼女は1年後輩で私がさそうとどこへでもついてくる人でした。友達もいそうもなく、大人しい人でした。夏は仕事帰りに千駄ヶ谷のプールへ時々行っていました。私も特別泳げるわけでもありませんでしたが、彼女は一生懸命練習していました。

私は冬スキーが好きで、週末はほとんどスキー場にいる程でした。同僚達とスキーに行くことになり、彼女も行きたいと云い出し、衣服はととのえ、スキーは現地で借りることにしました。1日スキー教室で練習をしてもらい翌日は1人でやることになり、同僚達はゲレンデを滑り降りるより登る方が速いと笑われながらも一生懸命やっていました。

オリンピック開会式の日、私は昼間、日本橋の白木屋でお茶会があり、お手前の合間をぬけ、屋上でブルーインパルスの五輪を見ました。

その夜、夜行に乗りバスで上高地へ行き上高地のバスターミナルを後に梓川左岸の遊歩道を、明神徳沢をすぎ、横尾へ着きました。

涸沢小屋へ行くのには横尾大橋を渡り、本格的な登山になります。樹々のあいだから時々涸沢小屋がみえかくれするのになかなか着かずとてもきつい登りでした。やっと小屋に着いても登山者が大勢でした。寝る時は互い違いに休み、思うように身動きが出来ない状態でした。私達は奥穂高岳(本邦第三位)を登るだけなので、ゆっくり起きて出発しました。穂高山荘までは、涸沢小屋へ行った時と違い割と楽だったように記憶していますが、友人がここで休んでいると云い出し、彼にアイゼンをつけてもらい頂上を目指しました。

頂上はせまかったと思います。お天気が良く、四方八方みわたせ素晴らしい眺めで苦労のかいがあったと思いました。明神池の小屋で泊まることにしていたので下山しましたが、行きと違い楽でした。

翌日上高地を散策して帰ってきました。

7 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(5) 八剱神社― 29期 仲田元昭 2021年8月投稿

今回は8月号につき、夏祭りのご案内です。船橋駅より徒歩15分程の漁師町(湊町)にあった八剱(やつるぎ)神社で7月に執り行われる夏祭りをご案内します。

「八釼神社の夏祭り」

漁師町である湊町の守り神の八剱神社は、江戸時代には前回ご案内した覚王寺の南東近くにありましたが、何度か火災にあい、明治41年(1908)に意富比神社(船橋大神宮)境内の金毘羅神社に合祀されました。

船橋 八剱神社の夏祭りは、江戸時代より約300年、漁師たちの海上安全・大漁祈願等の願いも込めて、雄大に執り行われてきました。

「船橋 八釼神社の神輿・ゆすり込み」

「深川富岡八幡宮との比較」

深川 富岡八幡宮と同じ、祭礼は3年に一度行われる例大祭(本祭り)とその間の2年間に行われる陰祭(かげまつり)、陰祭では神輿渡御は行われず、式典だけが行われます。

深川は、水掛け祭りと言われていますが、八剱神社の夏祭りは神輿を左右に大きく揺さぶる迫力ある担ぎ方「ゆすり込み」で、昔は負傷者が出るほど、漁師らしく荒っぽい担ぎで有名です。

(「深川 富岡八幡宮水掛祭り」江東区HPより)


「8 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(6) 東光寺」に続く 「2021-7-25寄稿」

戯言&独言11 21期 髙野 昇 2021年8月投稿

8月15日
戯言11

▼8月は遠いあの日の熱い日差しの中、76年前の15日の日を思わずにはいられない。学童疎開(山形かみのやま温泉)先での上級生のイジメに耐えきれず、両親に懇願し千葉県椎柴村(現銚子市)の伯母の家にまた一人で縁故疎開|。東京の家は大空襲で焼失していたので避難先の小岩での6畳一間での家族7人の間借り生活は無理。病弱の児童以外は東京に居る事も許されない状況の中での縁故疎開だった。戦争終結はこの地で迎えた。食糧事情が悪い東京へはすぐには帰らず、伯母の計らいでこの年の11月まで居候、おかげで3度のご飯は麦飯ながら3回食べられ、利根川や銚子に近い事もあり「鰻・イワシ・かつお・シジミ」など比較的恵まれた食事にありつけていた。伯母宅には大きな防空壕があり、かなりの米や麦、醤油、砂糖が隠蔽してあった。

▼帰京した翌年、「上野アメ横で小豆マメを売っている」との情報を得て母は弟を背負い、私は妹の手を引いて上野に向かった。大改札を出て階段を降り南口(当時は動物園口だったか)の地下道をアメ横へと向かう。その地下道には戦災で家族や住家をを失った人、戦争孤児などが広い通路に溢れ、濃い鼠色の汚れたコンクリートの壁に張り付くがごとくしゃがみ込み気力のい目、やせ細ったあばら骨、子供がてらにタバコを喫っている同年配の児、誰かに追われ逃げ足鋭く逃げる輩、そんな戦争孤児の大勢屯する中に学童疎開時に別れたK君が居た。この件については「同窓会報・2000年10月」に寄稿してありますが8月15日になると親子ずれであの地下道を歩いていた自分と、K君の恨めしそうな目ではなく、鋭い眼光が自分の頬に突き刺さった痛さは忘れられない。縁故疎開に行ったのか、お互い疎開に行く夏休み中に仲間で砂町へザリガニを獲りに行っていた。K君のその後の消息は不明である。私は綺麗になっている今のあの地下通路を今も歩くことが出来ない。

戯言11-2

▼もう一人、これは一緒に学童疎開に行った同学年のA君、終戦後学童疎開先の山形から帰省した時、上野駅で引率の先生が「それでは此処で解散」と言って自らは山梨県の故郷に帰った話。A君はあの空襲で家族が全滅しており、疎開孤児とも言われ、地元農家の養女として山形で晩年まで過ごした仲間もいた。彼はそれを承知での帰省であったが、あてにしていた叔父宅も一家全滅、落胆の結果焼け落ちた自宅前の風呂屋のボイラーの中で2年近く過ごし、もちろん学校にも行かず上野やアメ横を食を求めてカッパライ、置き引き、同世代へのカツアゲなどで彷徨い、夜はボイラー釜の中へ帰る。ある日通学する小学生をみて目覚め、わざと浮浪児狩り(いやな言葉です)に遭遇し保護された。以後2年遅れの義務教育と3度の食事にも恵まれ、中卒後自動車整備屋に住み込み、同じ施設にいた同じ境遇の2歳年下の女性と結婚し後年埼玉で自動車整備の仕事で自立、彼の自叙伝的な波乱に満ちた話はドラマにでもなりそうだと何回かの集まりで話をしていた。孫数人を残し70代後半で逝き、前述のK君の思いと併せ8月15日は悲しい思いが蘇ってくる。時の国家は「戦争孤児」「疎開孤児」を見捨てた。

▼疎開時、国民学校3年生だった自分、戦地で無残な戦いに召集された人、空襲の中家族を引き連れて逃げまくった母や父、その方々も高齢で語り部の役をする人も残り少なくなってきた。思えば生まれた時からキナ臭い時代だった。2.26事件・日中戦争・日米開戦・焼け跡・原爆投下・敗戦、この8月15日は私にとっては「終戦記念日」ではなく300万人の犠牲者を悼み 「敗戦・終戦記憶日」 であり記念日ではない。時の流れと共にいずれ 「へー?そんな事があったんだ」 と言われる時代が来てしまうのか。

▼戦後直ぐの夕刊紙にこんな”戯言”が載っていたのを兄が面白可笑しく話してくれたことがあった。

〇天皇陛下の言葉 ・・・・・・・・・・・・・「あっ、そうー」・・・戦後各地を回った際のi会話での言葉

〇東久邇総理の言葉に国民は・・・・「うっそうー」・・・・・・戦後直ぐの首相東久邇総理が「敗戦は国民一人一人にも責任あり」 といい国民に責任を転嫁

〇国民の怒りは・・・・・・・・・・・・・「クッソうー」・・・・・・国民感情を逆なでる無責任発言に8000万民衆の声

・・・・いずれも「う」がつき、かなりの戯言とみた・・・・

▼・・八月は 六日九日 十五日・・・・・(詠み人知らず)

6 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(4) 覚王寺― 29期 仲田元昭 2021年7月投稿

今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内した不動院より2分程にある、文化財の灘陀龍王堂がある覚王寺をご案内します。覚王寺周辺300m程に7つのお寺があり地元では寺町とも呼んでいます。

「覚王寺」
覚王寺は、真言宗豊山派で長命山金剛院と号しています。 創建は450年程前室町時代後期と言われ、本尊は大日如来、9ケ寺の末寺(不動院、圓蔵院他)を持つ小本寺格です。

「覚王寺灘陀龍王堂(文化財)」
灘陀龍王堂は、総欅造・1間社流造で、寛永3年(1850)覚王寺により再建されました。

「覚王寺 本堂」

船橋は、戊辰戦争・市川船橋局地戦で官軍兵の砲撃と放火により街の大半と多くの神社仏閣も焼失しましたが、灘陀龍王堂は焼失を免れた数少ない江戸時代の建造物で市指定文化財です。

正面の龍、北・東・西面の彫刻は仙人や仙女が彫られ立体感ある表現で躍動感にあふれています。龍王堂には、海上守護の神、灘陀竜王が祀られ、毎年4月には護符が配られ、漁師町の人々の信仰を集めてきました。

「灘陀龍王堂と見事な龍の彫刻」


「7 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(5) 八剱神社」 に続く 「2021-6-25寄稿」

戯言&独言10 21期 髙野 昇 2021年7月投稿

あの人・この人・・・印象に残るスポーツ選手(2)
戯言10

■白井義男・・・・・前回の水泳の古橋広之進選手は戦後直ぐその名を轟かせ、私が中学生だった頃から現在に至るまで日本のスポーツ界の偉人といっても過言ではないと思っています。今のように企業とのプロ契約もなくアマチュアとしで生涯をおくっていました。今回はプロとはいえ特異なプロボクサーとして、水泳の古橋と同じゅうして戦後のあの時代に華々しく君臨した白井義男は「日本人!ここに有り」を全国民に知らせたやはり偉大なスポーツマンでした。世紀の一戦、伝統の一戦など安っぽく聞こえる事が多い昨今、営業の為の商業的な言葉になっているが、昭和のあの頃(小生の三商在学中)|の白井義男の切磋琢磨による奮闘は金字塔でした。戦前のボクサー(当時は拳闘家と言っていた)については父からピストン堀口やヤリの笹崎など話には聞いていましたが何れも終戦前のボクサーでした。白井にはいつもカーン博士と言う人物が付いていて後日談としてカーン氏の存在がいかに白井の活躍に貢献していたかを知った次第です。白井は荒川区三河島の生まれ、戦後は軽い腰痛を持った無名のボクサーとしてコレと言うジムにも属さず、王子駅前に有った「王子百貨店」内にあったリンクで4回戦ボーイをやっていたそうです。ボクシング好きのカーンがたまたま王子でみた白井の動きにセンスを見出し、付き合いが始まったとか。カーンは生物學の大学教授だったのをGHQに懇願され敗戦国日本人の栄養改善や補給の仕事に就いていたようです。その為に牛肉をたっぷりと食べさせカルシュウムの補強による腰痛の克服、筋力の充実など今までの日本のボクシング界では考えられなかった科学的トレーニングから実行。あの時代牛肉などやたらに食する時代ではなかったはずだがそこはGHQ勤務のカーン、GHQのマッカーサーに直接懇願し、快諾を得てのことで、この点マッカーサ―は日本国民への思いが偲ばれます。「打たれたら打ち返す」と言う今までのこの世界の常識を「打たせないで打ち倒す」を基本とし、徹底したボクシングの基本,動作、駆け引き、試合後半でのアウトボクシングの展開、そして生活態度などを教えこみました。GHQ の引き合いもあり当時の世界チャンピオンのマりノをハワイから呼び白井に挑戦させたがあえなく判定負け、半年後にはこれもGHQの援助もあって今度はハワイに向かい再度マりノに挑みTKOで勝ち選手権への挑戦権を獲得しました。

戯言10-2

■昭和27年5月19日後楽園球場に特設リンクが設けられ4万5千人の観衆を集め、リンクサイトの観覧席は3500円とポスターにありました。今考えると特設リンクとはいえ全くのお粗末な設備で、町内会の盆踊りの櫓舞台とあまり変わらぬ印象がありました(写真)。TV放送は始まっていたものの受像機の普及台数は極めてわずか、繁華街にある街頭TVに人が群がりました。江東楽天地内の街頭TVも黒山の人でその中の1人が三商2年生の私でした。父は店番の為ラジオで聞いており担当アナの志村正順がかなり興奮気味の中継放送をしていたらしく「そういえば志村アナは荒川の三ノ輪の生まれだ、白井と同じ荒川区なら興奮するはずよ」 と父は言っていました。 試合内容は前半はクリンチが多く、背の高い白井と低いマリノではクリンチになるのは当然、 リーチのある白井のストレートやフックにあまり有効打が無くTV前の聴衆からも私を含めて溜息が出る雰囲気が充満していた憶えがあります。当時の世界戦は15回戦制で、後半に入りカーンの指示か白井は相手との距離をあけクリンチを避けるがごとくアウトボクシングの体制を取り始めストレート、フックが少しずつ的確、有効になていたようです。”打たせないで打ち倒す”これは数十年後の白井の著書にも書いてあり、最初からこの索をカーンから指示されていたとか。街頭TVの前に大歓声が挙がり3-0の判定、日本初の世界チャンピオンが生まれました。歴史的な日、昭和27年5月19日の出来事でした。この日を境に今までの拳闘と言っていた用語・言葉が日本から完全にボクシングと言う言葉に変わったと思います。肉体の改良、科学的に基ずいたメンタルトレーニングによる精神力の向上と充実などボクシングの全く経験のないカーンの理論的指導法が功をそうし、以後のスポーツ界にも滲みわたり世界に承認された瞬間でもありました。

■聞くところ、カーンはボクシングの経験は全くなく、大学で体育講師時代の体験だけの知識と理論からのものだったようです。白井は年齢、腰痛などで引退寸前状態でありカーンの理論には否定的であったがカーンの情熱と姿勢に専属契約をしたようです。カーンの「科学的トレーニング」に白井は自らの能力向上に目覚めていったと白井の著書にも書いてありました。肉類を大量に摂取、これはカーンがGHQ勤務で食糧事情の悪い国内では手にできない不可能を可にしたようです。試合後半、相手のスタミナ落ちをみてアウトボクシングに切り替える作戦は功を奏し世界チャンピオンになっています。数年後パスカル・ペレスに敗れ引退しましたが、身内の居なかったカーンは全てのマネージメント料を白井に與え、白井も彼の熱意、指導に家族共々感謝感動し彼が死に至るまで一緒に生活を送っていたようです。晩年、認知症になった彼を家族全員で幇助し、彼の精神、愛情と人間的な崇高さは忘れることが無いと白井の著書に記されています。

■戦後復興にまだ遠いこの時期、国民に立ち上がる力と勇気を施したカーン博士は1971年1月に79歳で、白井氏は2003年12月に80歳で黄泉に入り共に同じ墓所で師弟愛をそのままに眠りついている筈です。

5 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(3) 不動院― 29期 仲田元昭 2021年6月投稿

今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内しました浄勝寺から徒歩2分程にある不動院と、門前で毎年2月28日に行われる市無形民俗文化財の、大仏追善供養のご案内です。

「不動院」

不動院は、真言宗豊山派の寺院で総本山が奈良の長谷寺、関東大本山が東京の護国寺です。号は海応山、開基は700年程前の南北朝時代と伝えられ、本尊は不動明王です。

現在の本堂は、昭和7年(1932)造営で、屋根の両端の飾り瓦は珍しい鴟尾(び)です。

「不動院 本堂」

「大仏追善供養」(市無形民俗文化財)

不動院の前にある、この石造釈迦如来坐像は、地元では飯盛大仏とも呼び、今から270年程前の江戸時代中期に、津波によって亡くなられた人々の供養のため、地元の方の寄付で建立されました。

その後、漁場の境界をめぐる争い中に船橋の漁師が、相手方の船に乗っていた徳川一橋家の武士を殴打したため、漁師総代3人が入牢、2人が亡くなる事件が起き、先の津波で亡くなられた霊と共に供養を行うこととなりました。

毎年2月28日に行われる大仏追善供養の行事は、大仏に白米の飯を盛り上げるように塗り付けます。これは、牢内で食が乏しく、ひもじい思いをしたのを償うためと言われています。

「大仏追善供養の行事で白米が塗り付けられた 石造釈迦如来坐像」


「6 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(4) 覚王寺」に続く 「2021-5-25寄稿」

戯言&独言9 21期 髙野 昇 2021年6月投稿

あの人・この人・・・印象に残るスポーツ選手(1)
戯言9

■古橋広之進・・・・・私の年代は勿論、戦後のあの時代に育った方々には忘れられない輝かしい人物です。戦後の水泳競技において数々の世界新記録を打ち立て、敗戦による落ち込みの激しかった国民に勇気と元気を与え、「日本人、ここに有り」を世界に示した人物で、それは政治家でもなく、科学者でもなく、戦時下の少年時代に浜名湖の岸に作られていた木枠だけのプール?で「魚より早く泳いでみたい」との思いで覚えた泳ぎの術を体得してのスタート。戦後日大在学中の日本選手権で自由形400米で4”38”4の世界新記録で優勝、しかし敗戦日本国の記録ゆえ公認記録として世界新として認められず1947年のロンドンオリンピックへも敗戦国の日本とドイツの参加はできませんでした。49年、国際水連復帰が認められ、これは古橋選手の全ての記録の功績大だった思います。この歳に古橋、橋爪、浜口など今では懐かしい選手が全米選手権へ招待され参加、これは当時のGHQ司令官マッカーサ―元帥の力添えで実現したと中学の担任先生から聞いていました。その裏ずけとして古橋らは司令部に呼ばれマッカーサ―元帥から「勝ってきてくれ、それが日本国民の心の糧になる」と言われたと十数年後の新聞のインタビューで語っていました。戦後日本人をジャップと呼び、日本のプールは距離が短いとか敗戦でストップウォッチも無いなど云われていた時期に彼らは活躍、古橋は400米・800米・1500米自由形ですべて世界新、この時「フジヤマのトビウオ・・The Flying Fish of Fujiyama」と米紙は絶賛したようです。今もTVの水泳競技放送で記録を言う場面で「‥‥フラット」と聞くと古橋広之進と言う名が自然と頭に沸いてきます。ここで記録した古橋の当時の1500米の世界記録”18”19”00というタイムは今この歳になっても記憶にはっきりと残っており最後の”00”をフラットと表現されていた言葉が今も心に残っています。

戯言9-2

■1952年、日本は戦後初の北欧ヘルシンキ五輪参加が認められましたが彼は思うような記録を持たぬまま選手としてピークを過ぎている中での五輪参加だった様です。その原因の一つに、かって米国への招待遠征中、宿泊先のホテルの部屋に用意されていた水を飲み、それが原因で「アメーバー赤痢」に感染しました。抗生物質薬などない時代、故郷での友人との語らいの中で「外国では飲み水には気を付けろ」と言われたことが頭をよぎったそうです。400米決勝では8人中の8位、フランスのボアトウ選手が優勝、感窮まったボアトウの父親がプールに飛び込み倅に抱きついている姿をニュース映画でみました。一瞬、敗れた古橋のカットもありその顔が印象的でした。布団の中で兄弟そろってこの実況放送聞いていました。この時、NHKで実況を担当していた飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の偉大な足跡と活躍なくして戦後の日本の発展は在り得なかったのであります。日本の皆様、温かい気持ちを持って古橋を迎えてやって下さい。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」私は布団にもぐり泪しました。翌日の教室ではもっぱらこの話題が中心で「橋爪ががんばるよ」と皆で話したものでした。HRでも担任の吉岡先生が古橋の健闘を讃えていました。数あるスポーツ放送はあるけれどこの飯田アナの放送は日本国民全員に感謝の思いと感銘を与えた言葉であり名放送だったと今も思います。この翌日にあった自由形1500米決勝で盟友橋爪四郎選手が銀メタルをとりながらも虚しく敗れた古橋を思い表彰台で悲しくて顔を挙げることが出来なかったとYOUTUBUで語っており、銀メタルも一切公開せず押し入れにしまいこんだとも語っていました。古橋は勝っても決してガッツポーズなどせず、スポーツの栄光と挫折は平等であると考え、ガッツポーズ、それは敗れた選手を思えば出来る物ではないとの心情とスポーツは謙虚に真っすぐに、明るく、強く、豪快に済ますべきのモットーを持っていました。ちなみにこのヘルシンキ五輪での日本の金メタルはレスリング・フリースタイルフェザー級の石井庄八選手の1個でした。古橋は引退後も水泳界発展の活躍も多く各種役員、国際委員などを経て五輪選手として文化勲章を拝受しています。古川勝、田口信教、鈴木大地、北島康介など世界的選手の礎となり、残念ながら2009年国際水連総会の在ったローマのホテルで心不全で亡くなりました。後日国内での葬儀にはスポーツ選手の葬儀でこれほどの葬列者が集い歴史的な告別の儀であったとスポーツ紙は報じていました。コロナ禍の中、東京五輪の開催の有無を古橋広之進氏は天国でどのように思っているでしょうか。私見ですが彼の精神を鑑みれば、このコロナ禍の中、人の命の重さの方が尊しと思っているでしょう。

4 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(2) 浄勝寺― 29期 仲田元昭 2021年5月投稿

船橋には、50山(全国約77千山)の寺院があります。今回は、船橋駅より徒歩10分程にある徳川家康公が船橋で最初に休憩したと言われている浄勝寺のご案内です。

浄勝寺は、芝増上寺の末寺で山号は西光山、今から520年程前 室町時代後期 明応5年(1496)に、浄土宗の念仏道場として、旧九日市漁師町に創建されました。

広大な敷地(約2万坪)に、伽藍(鐘楼堂他)を有する大きな寺院でした。

「浄勝寺 本堂」

江戸時代には、徳川家康公の鷹狩の休息所として使われ、天正19年(1591)家康より10石の寺領の寄進を(御朱印状)賜っています。

墓地には、戊辰戦争が終結した後、新政府より船橋周辺の警備を命ぜられ、九日市に捨置いていた兵糧米の調査の為出張中、脱走した賊徒が旅館に乱入し、賊徒に襲われ亡くなられた尾張藩磅礴隊(ほうはくたい)3名の合葬墓があります。

合葬墓は、尾張藩磅礴隊の武士が中心となり、ここ浄勝寺に埋葬されました。

「尾張藩磅礴隊の墓」


「5 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(3) 不動院」 に続く 「2021-4-25寄稿」

戯言&独言8 21期 髙野 昇 2021年5月投稿

最近殆ど使われなくなった言葉、私達の年齢(1935生)で下町育ちは当たり前に使っていた話しことば、今は「死語」となりつつある言葉など思いつくままに記します。

●「セコハン‥‥」兄弟や身内、近所の方などから譲られた衣類や道具のこと。私は小六の卒業式や遠足の際は総領の兄(私は四男)が着ていた慶応型制服と言われていた紺色のサージの生地の上着を着ていた。総領の長兄((大正14年生・6年生で逝去)の中学進学のため両親が大枚をはたいて買い求めたものだろう。いつも母は「よそ行きなんだからね」と念を押すように言い、二男、三男の兄2人も着ていた。小生は四代目でこれぞ・セコハン・の窮まり。兄弟の「お譲り」を着る・使うのは当たり前の時代だった。私が三商に入学の時に着帽していた制帽は五歳上の兄(16期生)が入学時に購入したもので私は三商二年生の2学期まで被っていた。帽子のツバがボール紙で出来ており雨の日は被らないようにし、最後は生地もツバもボロボロになっていた。戦後に笠置シズ子が「セコハン娘」と言う歌を唄いヒットしていた。

戯言8

●「逢いびき‥‥」今で言うデイト。{逢いびき}というイギリス映画があった。刹那さと哀愁を感じる「逢びき」とか「逢う瀬」とか「忍び逢い」など漢字を交えて書くと切なさ・遣る瀬ない思い・人目を忍ぶ仲など情緒と哀愁と秘めた情熱があふれる何かを感じさせる。軽い気持ちでの今風の男女交際には全く合わない言葉となった。

●「お湯屋‥‥」何時ごろからか銭湯と言い出したのか。銭湯なる名は昔から知っているが下町では「お湯屋」とか「お風呂屋」と言うのが通常だった。お湯屋の煙突には必ずお湯屋の名が書いてあった。私の育った亀戸辺りでは子供仲間や家庭の会話では「おいや」と言っていた。戦前の亀戸の住まいの半径500米以内に4軒の「おいや」があった。有料で背中を流して軽く肩を叩いてくれる裏方の小父さんが居て「三助」といっていた。水っぽい女性などは風呂に行くのは「おぶに行く」などと言い、親が幼子に水や白湯(さゆ)を与える時なども「おぶ」と言っていた。

●「やっちゃ場‥‥」野菜卸市場のこと。下町には神田市場、両国・千住等にあり今神田市場の跡地はヨドバシが建つ。最近スーパーの野菜売り場で「やっちゃ場市」と銘打っている処がある。

●「タッパ‥‥」タッパがいいねなど、体格が良くで背が高く格好のいい人などに使われ、今でも建築関連で高さの事を「タッパは○○メートル・・」など使われている。余談だが先日、昔出入りしていた大工さんに久し振りに会ったが当時と変わらぬタッパの良さは昔と変わらず小粋な老人になっていた。

●「停留所・停車場(テイシャバ)‥‥」バスや都電の乗降客が乗り降りする場所。都電の停留所(写真)は道路の真ん中にあり一段高くしてあり、夜には独特なデザインの標識灯に灯りがともり停留所名が良く分かったものだ。停車場は主に始発駅を停車場といっていたかも。下町では上野や両国(かっては千葉県内を走る総武本線の始発駅)など。バス停などの言葉は今風。

戯言8-2

●「カムカム英語‥‥」戦後直ぐに夜6時頃から放送された平川唯一氏の英会話指導番組で”証誠寺の狸ばやし”のメロディーに「♫カムカムエーブリボディー♬・・」と英語の替え歌で始まる番組。彼は元NHKのアナで、米国に住んでいた事はあっても英語教師の経験も資格もないズブの素人で終戦のあの日、天皇の詔勅を自ら翻訳し世界各国に向けこれも自ら朗読し電波にのせた凄い人。放送の中で「英会話は口真似で覚えるのが一番良い」と言っていたのが記憶にある。この番組で会話をマスターした人は皆無だろうが替え歌だけは子供同士の間ではやたらに流行り今も口ずさめる。私が最初に覚えた英会話は「ギブミィーチョコレイト アンド チューインガム・・」と「サンキューベリマッチ・・」だった。

●「あたい‥‥」自身の事をこう言っていた。男女の区別なしの言葉で「僕」とか「私」なんて言葉は小さいこども同士で下町で使うのはタブー。「かっこつけやがって!」と言われるのがオチ。幼少期からそう言っており小學高学年あたりから小さな声で「俺」なんて言い始め年下の子に少し偉ぶったものだ。職人や商人(あきんど)が多かった下町では子供達が当たり前に使っていた一人称。その親たち大人は亭主や話相手のことを「あんた」と称し略して「あーた」だった。

●「手拭(てぬぐい)‥‥」今、正月用の「お年賀」の挨拶代わりにタオルがあるが、以前は手拭が圧倒的でタオルは高級品だった。利用範囲の広い30㎝×70cmくらいの大きさで木綿の染物。風呂には当たり前に使用、半分に切って台所の布巾にも。少し使い古したものは赤ん坊のおむつになり2枚使う。使い古した手拭は柔らかく赤ん坊の柔らかなお尻には最適。我が家は商売をやっていたので盆・暮には仕入れ先の問屋が2.・3本ずつ持ってくるので、いつもトランク一杯の手拭が有った。父親や子供達の寝巻はいつも新品の手拭で母が仕立てた寝巻になっていた。夫々の問屋の名入りのものがまちまちにあり、背中に鰹節問屋、前身ごろに漬物問屋、裾には佃煮メーカーなど色とりどり。小中学に通学の際、きちんと折り畳んで腰のベルトにはさみ下げていた。今の我が家には紺地の染に白ヌキの吉原繋ぎの粋な紋様が入った染手拭がインテリアとして飾ってある(写真)。亡き細田武兄から三社祭りの記念に戴いたもの(写真)豆絞りの手拭と共に江戸の祭りには欠かせない。浅草仲見世には専門店もある。手拭はその使命を済ませ民芸品化しつつあり、タオルにその使命を譲ったけど、そのほとんどが中国製。

●「アッパッパアー‥」カーちゃん、オバちゃんらの主に夏用のワンピース。洋装のつもりでもなく下駄かサンダルでちょいとそこまで的なワンピース型の女性用夏の簡単服。木綿なので洗濯簡単、お袋などは下着のシャツもつけず直に着用し商売をしていた。首回りには手拭を架けていた。今若い人がロング目のワンピースがはやっているが、私から言えば「今風アッパッパァ」。サザエさんの母のフネさんが着ている時もあった

●「おいら‥‥」複数形の言葉らしからぬ自身のことを表現するのに使用していた。映画、裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の中の唄に「♫おいらはドラマー、…おいらが叩けば嵐を呼ぶぜ‥♬」とある。ビート・たけしが今でも良く使っている。個人、複数人どちらにも使ってはいたが個人の表現に使っていたが「俺は‥」が「おいらは」になちゃったか。

●「ガリ版・謄写版・そしワラ半紙・・・・」これは完全な死語。手書きの原稿、校内試験問題や父兄への連絡事項、生徒への通達など蝋引きの原紙に鑢(ヤスり)を下敷きに鉄筆のペンで書きこむ。それを謄写版にセットして1枚ずつ用紙に手刷り印刷?。今思えば原始的でも画期的な用具で職場、学校には必ず有った。その用紙がワラ半紙 わずかに黒っぽく薄いグレーっぽい、時折5ミリくらいのワラと思える屑が入っていた。実際にはワラは使用せずぼろきれ繊維が使われていたらしい。楮(こおぞ)などから和紙を梳いていた歴史からワラを思いついた人は素晴らしい。À3まで可能だったか。今はA4コピー用紙全盛がとって変わった。

77歳9ヶ月 29期 土方敏之 2021年5月投稿

まず、謝らなければならない事をしてしまったので、謝ります。

前回のホームページの原稿を掲載する時に、Aさんの原稿をどうしますか、との問いに、1掲載に1,000字以内と解っていたが、載せて良い、と指示しました。

それにより掲載されました。 先日、夢を見ていてその件が出てきました。してはいけない事をした。それも規則を破って。これは罪であり罰を受けるべき。と何回も出てきました。

よって、今回はその罪に対し罰をどうするか。結果、罰として投稿を止める事。そして規則を守る事。が浮かんできました。よって、自己申告なのでこれで許してもらいたいと思います。

同窓生の考え、思い、行動等をこのホームぺ―ジを利用して、発してもらい、読んだ同窓生が自分の考え、思い、行動と合わせて考えて、安心したり、感心したりする。そして思いが通じ結束につながる。同窓生の皆様、ホームページを利用してください。あなたの思い、考え、行動の原稿をFAXやメールで連絡お願い申し上げます。

3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮― 29期 仲田元昭 2021年4月投稿

船橋には、70社の神社(全国約85千社)があります。今回から、船橋駅より2時間程の街歩きのご案内です。街中コースにある15の神社仏閣を巡る街歩きの出発です。最初のご案内は、船橋駅より徒歩15分程にある、船橋を代表する神社、船橋大神宮です。

創建は、今から1900年程前と伝えられ、史書「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(延長5年=927)に意(お)富比(おひ)神社(じんじゃ)の名がある船橋市を代表する神社です。

いつの頃からか「船橋大神宮」と呼ぶようになりました。主祭神は天照皇大神で、南の鳥居の右に「延喜式内社意富比神社」の大きな石碑があり、平安時代に官社として認定されていた由緒ある神社です。

「船橋大神宮 門・玉垣」

天正19年(1591)徳川家康より「常磐の箱」に開運の旗と陣弓を本殿に納められ、江戸開府の頃より家康公は度々参詣され、50石の社領の寄進が十四代将軍家茂まで続きました。

戊辰戦争では、旧幕府軍の本陣が置かれ、新政府軍との戦いで神社と周辺は戦火にあい焼失しました。現在の本殿は、明治になり造営された建造物です。

「船橋大神宮 拝殿、神明造り、本殿は更に奥にあり」


「4 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(2) 浄勝寺」 に続く 「2021-3-25寄稿」

戯言&独言7 21期 髙野 昇 2021年4月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その3)

▼インフレと食糧難、住居難、失業と全てに困窮の最中の1945年(昭和20年)からの5年間近く、庶民にとっての唯一の娯楽はラジオであった。「リンゴの唄」は終戦の2・3か月後に封切られた松竹映画の挿入歌。空襲の焼け出されにはラジオなど無かった時代、焼け残った小岩のラジオ屋の店頭から流れたこの曲は圧倒的な勢いで全国を風靡した。教科書も進駐軍に没収されていて、音楽の時間には先生のオルガンの伴奏で「リンゴの唄」や、他に「みかんの花咲く丘」なども授業中で歌った記憶がある。「リンゴの唄」の作詞者サトーハチローの詞は勝つぞ!とか皇国ニッポン!などもなく、はっきり言えば内容的にはなにを言わんか未だに疑問だが彼は後にあの「長崎の鐘」や「小さい秋みつけた」などを作詞し純真でユーモアに溢れ、泪脆い人だった。GHQは放送に厳しい規制を引き戦時歌謡は姿を消し、学校帰りに4・5人で「暁に祈る」を唄っていたら道すがらの酒屋の小父さんに「そんな歌、唄ってるとMP(米軍警察)に捕まるぞ」と笑いながら注意された。「リンゴの唄」は戦時中、「♬天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の‥‥♪」なる歌を学童疎開先で唄っていた半年後の明るい歌だった。

▼番組のテーマ曲は全てがクラシック系でGHQの意向そのままに「真相はこうだ!」と言う番組があった。旧日本軍の各地での戦闘を「実はこうだった」風にGHQが制作し放送、アナの語りで旧日本の暴走・暴虐・無謀を暴く番組だった。国民の誰もが真意はともかく納得したものだった。今になって戦争史と比してみると戦勝国のプロパガンダが含まれていたとは言えほぼ当たっていたかも。夜の放送を家族揃って聴いていた兄が「ガダルカナル海戦は負けていたんだ」と言っていた言葉を今になって昨日のように思う。復員だより・尋ね人の時間・配給だよりなど、「尋ね人」の放送で何人の人が、何組の家族が再会できたのか。「配給だより」では毎日が「○○の3班、スケソウタラ」なるニュースが續き、今もタラコを食する度に思い出してしまう。

戯言7

▼「のど自慢」「産業の夕べ・炭鉱へ送る夕べ・農家へ送る夕べ」・・(♫農家の皆さんこんばんわ‥♪)など復興をめざして各地で働く労働者に送る番組が多々あった。内容はどれもほぼ変わらずタイトルのみが記憶にある。芸人が2・3出ての物であったが「のど自慢」だけはよく聴いていた。一小節で鐘が一つ鳴り不合格、少し長く唄わせ鐘が三つ以上鳴れば合格。楽しい放送であの美空ひばりも出場参加していたとか。「異国の丘」はこの番組から発信され、のちに数多くの参加者がこの番組で歌っていた。「鐘の鳴る丘」と「異国の丘」は唄えぬ人は誰一人として居ず、当時のベストヒットソングだった。漫才コンビの内海突破・並木一路が良くラジオに出ていて内海突破が驚いた時に言っていた「ギョッ!」なる言葉、子供同士の会話の中で下町でははやった事がある。

▼「進駐軍放送」・・米軍兵士向けの放送(WVTR)が始まり軽やかなアメリカンポップスが流れそのころはそれらを全てJAZZといっていた。今までさんざん聴かされた戦時歌謡や股旅ものなどとは違う、沈んでいる心が少し浮かれ、リズムの軽快さなどが子供心にもなにか永い呪縛から解き放された感を憶えさせる放送だった。街の若者達のアマチュアバンドが現れ避難先の小岩の街にも出現し、家屋疎開跡地の空き地の広場での演奏を兄弟で見に行くのが楽しみだった。そのアマバンドのテーマ曲が1930年代の米国のヒット曲「素敵なあなた」 ♬バイ・ミー・ビスト・ドウ・シェン…♪ でこの時憶えたメロディは私にとって最初のJAZZだった。数年後、ラジオ東京の朝番組のテーマ曲がB/グッドマン・コンボが奏でる「シャイン」でこの曲に送り出されるように三商への登校に向かった。懐かしい名曲、軽やかでリズミカル、今でもYOUTUBUで見たり聴いたりしている。銀座の「テネシー」と言うJAZZ喫茶に通っていた三商時代、そして今もってJAZZが好きで好きでいられるのはあの時以来の延長なのである。

▼「話の泉」・・その時々の時事の話題をゲストを交えてのトーク番組。クイズ的な所があっても今の様に正解者を表彰することなく解答者の蘊蓄や雑学的な知識を出し合うもの。司会アナはあの和田信賢で戦前からの名アナ。8月15日の天皇の終戦詔勅、いわゆる玉音放送の時のアナでもあった。日本が戦後初の五輪参加(昭和27年)の際ヘルシンキに中継放送の為に派遣され、その開催中に逝去。昔日、相撲の双葉山の連勝記録が消えたときの実況アナでもあった。彼は戦後直ぐの大相撲の放送をし相撲には戦前からかなりの蘊蓄を持ち著書もある。報道、スポーツに長けたアナだった。話の泉の解答者は徳川無声・サトーハチロー・山本嘉次郎(黒澤明の師匠)・渡邉紳一郎(朝日の記者?)などで、かなり知的な番組で兄二人がよく聴いていた。東京五輪の頃まで続いていたと思うが司会は高橋圭三アナに代わっていた筈である。かなり知的な番組であった。

戯言7-2

▼「とんち教室」・・「大喜利」のはしりのような番組だった。司会の青木一雄アナを先生として解答者は全員落第生と称され、でもその解答振りはユーモアと駄洒落・戯言などが色濃く、粋な側面と笑いのセンスを持ち合わせた楽しみな時間だった。落第生、イヤ生徒は石黒敬七(元柔道家、いつもサングラス姿)落語家の柳橋、三味線豊吉(端唄、俗曲などの三味線弾き)など、今のバライティ等には決して見られない,聴けない駄洒落と粋なユーモアに、それこそトンチンカン満載のお笑い番組だった。今のお笑いタレントのバカバカしさと比べて雲泥の差を感じる。

▼[向こう三軒両隣」・・月~土の夕方に毎日放送されていた。人力車引きの坂東亀造さん(巌金四郎)や山田のおばあちゃん(伊藤智子)など、どうってことはない日常の生活ぶりを、戦争の暗い闇から解き放された市井の庶民の生活ぶりを、明るいホームドラマを通じて新旧の考え方が混りつつある世相をそれとなく教え、時には皮肉ったりしてくれた番組。亀造さんの仕事に行く時の「あらよっと!」の元気な声が印象に残る。TVが始まり毎夕「バス通り裏」と言う15分の夕ドラ番組があったが「無こう三軒・・・」の時代から少しずつ進捗していくのが判った。

▼{カムカム、エブリボディ・・」 「證誠寺の狸ばやし」のメロディーに英語をかぶせ、平川唯一なる先生が英会話を指導。世間ではカムカム英語と言っていたがこの放送で英会話をマスターした人は恐らく皆無だったろうが、子供の間ではこの英語の替え歌だけは流行っていた。あの頃の我が家では、確か夕方の5時か6時からの放送だったので、母が夕食の菜っ葉や大根や芋入りの「雑炊」を支度する時間の時計がわりだった。小生カムカム英語の英文替え歌のテーマを今でも最後まで唄えてしまう。かなり長い年月の放送だったようだが中学時代の英語教師のU先生は「平川は英語は”耳から憶えるのが基本”など放送でよく言っているが英語の基本は発音から始まるものだ」と唱えていた。鉛筆をペンシルと皆が言っていたら「それが大間違いだ、正確に発音すれば”ペンソウ”だ」だと言い、生徒としては「どっちでもいい事なんだけど」の判断、そのU先生の綽名は以後・・ペンソウ・・となった。余談だがこの先生は後日レッドパージと言うGHQの社会主義的公務員の公務追放で教職を追われ、最後の別れの挨拶で言った言葉は「英語を学んで世界を見ろ」だった。私が最初に覚えた英語?は小学校4・5年生の頃か「give me chocolate」だったのが何故か侘しい。平川唯一自体英語の指導の経歴はまったく無く、親の仕事の関連で数年ほど米国に居住していただけ、開戦前に帰国しNHKに入り、あの8月15日の玉音放送を自ら翻訳して世界の電波に自らの英語の音声で放送した人物とか。玉音放送の陰の主役であったことを20数年前か「文藝春秋」主催の講演会で故半藤一利氏が語っていたのを紀尾井町の”文藝春秋ホール”で聴いたのを半藤氏の逝去(令和3年1月)を聞き改めて思い出した次第である。藤倉アナの「街頭録音」なんかも思い出す。「三木鶏朗の日曜娯楽版」は世相を皮肉るお笑いコメディだったがGHQの圧力で短命で消えた。この番組に三木のり平が出ていた。

写真説明・・・・かつてのNHK(千代田区内幸町)|

77歳8ヶ月 29期 土方敏之 2021年4月投稿

今朝の夢、覚えているのは、柳田が隣に座っている。右の方から連なって歩いてきた中に、30代の痩せている私の父親がいる。ぐるっと回って私のそばにきた時に、柳田に父を紹介した。そこで目が覚めた。1時半だった。あと続きをみようとしたがつながらなかった。

私の父は、30代に築地市場で「大六」という問屋で働いていた。そして直腸ガンにかかり痩せていった。その頃の写真の顔が夢に見た顔だった。術後は太らせろ、との医者の言葉に、甘いもの、天ぷらとドンドン食べさせ、61歳で他界するまで太っていた。私が三商で柳田に会った時はもう太っていたので、痩せていた父の顔をよく知らなかった。5時に起きて神棚、仏壇と水を替え「おはようございます、今日一日よろしくお願いします」と祈ります。仏壇の脇においた柳田の戒名「貫雲慈保信士」の前で「柳田、おはよう」と挨拶をする。

今日は、孫が新中学生になる入学式の日。今日一日何があるのか楽しみだ。

初節句 26期岩瀬和子 2021年3月投稿

この写真は80年前の私の初節句の写真です。のびた手は母の手だそうです。

私は母が結婚して5年目に生まれました。初の内孫だったので、祖父、おば達にとても可愛がってもらいました。19期の中山さんの瓦版をいただくと、戦前鶯谷駅の近くでもらったなつかしい味を思い出します。内裏雛が二対あるのは、知り合いから一対と大きな羽子板をいただいたそうです。少し大きくなり羽根つきをしようとしましたが、大きく重たくて出来ませんでした。

こんな古い写真よくあったとお思いでしょう。『実は花嫁道具、高く買います』というチラシがありました。結婚する時、友人の家具屋さんから、良いのを買ったのでいずれ処分しなければならないので高く買ってくれればと思い電話しました。

査定に来てくれましたが大きくて売れない、と云われ六万五千円で引き取ると云われ、粗大ゴミのほうが安いのでやめました。その時和服のタンスを整理していて、封筒に入った写真が出てきました。この写真は母の実家のおじが、私達は空襲で焼けて無いだろうとくれた写真です。父が写真屋さんで複写してもらいましたが、セピア色した当時の写真もあります。結婚する時、持ってきたものです。

写真館で写したお宮参り、3歳のお祝いの写真、父の友人が写してくれた多分誕生日でしょう。着物を着て、きれいなゆだれかけをかけ、父に抱かれたのと、一人の写真、父の出征の時に家の前で映した、祖父母、おじ、おば達、母と私。兵隊の面会日の写真、祖母、おじの知り合いの人、母と私、おぼえていませんが、なつかしい人たちの写真です。

私にとって貴重な写真、あの世へ持ってゆきたいと思います。

2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)― 29期 仲田元昭 2021年3月投稿

街歩きのご案内の前に、船橋の歴史についてご説明します。

「古代」

船橋は、約15,000年前縄文時代より人々が住み、昭和7年に竪穴式住居跡や炉穴が日本で最初に発掘された市の史跡である7,000年程前の飛ノ台遺跡(市の史跡、東武新船橋駅より徒歩5分程)他、市内には150を超える遺跡が発掘されており、千葉県は日本一遺跡の多い県です。

北部の小室台遺跡は、市内で初めての前方後円墳が発見、また発掘で小さなバイオリン形「土偶」も発見され、平成30年春の東京国立博物館の特別展に展示され、秋にはパリ「縄文展」に展示されました。

「中世前半(平安時代、鎌倉時代)」

中世には内陸部との交通の要所として、また東京湾では鎌倉の外港六浦を中心に海上交通による交易により、人や物資の動きが活発に行われ、船橋湊、二子浦(葛飾浦)この港から鎌倉や伊勢神宮の安農津に物資が輸送されていたようです。

「中世後半(戦国時代)」

15世紀後半、房総では千葉氏の内紛が起こり衰退すると共に、里見氏や武田氏、北条氏が台頭し、国府台合戦が起こりました。市内には、夏見城址、金杉城址等16の中世の城跡の土塁が発見されています。

「江戸時代」

徳川家康が江戸入府後、早々に家康公より船橋大神宮に50石の社領、浄勝寺に10石の寺領が寄進され、船橋大神宮に家康公は4回程参拝されたと言われています。

その後、家康公の東金方面への鷹狩の宿泊場所として慶長19年(1614)頃に船橋御殿が造営され、大坂夏の陣が終わったその年、元和元年(1615)11月25日、鷹狩の帰りに千葉県で最後の宿泊場所が船橋御殿です。

その際、漁民達が生魚・貝を献上してきたことに喜び家康公は、船橋の漁民に独占漁業権を与えられ、その後新鮮な魚介類を江戸城に献上する等船橋は徳川将軍家と大変関係の深い誇り高い街です。

船橋御殿には、家康公が2回、二代将軍秀忠が10回、三代将軍家光が1回宿泊及び休憩をされたと伝えられています。

「3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮―」に続く

「2021-2-25 寄稿」

戯言&独言6 「闇市」 21期 髙野 昇 2021年3月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その2)

▼戦後とか終戦後とかなる言葉も今や“死語”となりつつある。1945年つまり昭和20年8月15日以後からのこと。その日は皇国、軍国主義がひと晩で変わり、私は国民学校4年生であった。歳を重ねて記憶もまた薄らいでゆく中で、あの時代に生きた人間がそれも子供の眼で見た「こんなだった」時代は年老いても忘れる事が出来ない鮮明な時の流れでもある。かなり以前に孫に「終戦って、いつの、どの戦争のこと?」と聞かれた事があったが、そういえば私が生まれる以前から日本は戦争ばかりだった。

●闇市…‥‥都内、及びその近郊の国鉄(JR)の駅前には必ずあり、戦時中は駅周辺の建物は空襲爆撃の延焼防止の為、建物は取り壊されこれを当時は建物疎開といっていた。建物にロープをかけ人力で倒す、この時代、疎開は人だけではなかった。駅前は、それが戦後の”闇市”広場となる。下町の大空襲で焼け出され小岩に避難生活していた頃で小岩駅前の駅前通り(現フラワーロード)が小岩の闇市通リであった。煮炊きしたものはあまり見かけなかったが鍋・釜・しゃもじ・軍隊で使用していた軍靴・靴下・衣服などの復員兵が持ち帰った物等の新品中古は問わず、他にするめ・ふかし芋、野菜類など、統制令の徹底で米・麦・等はさすが店頭にないけれど、一寸横丁の路地に入ったしもた家(普通の民家の事でこれも今や死語)等で、知り合いの家庭には醤油や、やたらショッパイ味噌・軍隊で使用していた濃縮醤油がもちろんヤミ値で分けてもらえた。店を出さずにヤミ屋をやっていたのである。大宅壮一がTVの発展時に唱えた「一億総白痴化」ではないが「一億総ヤミ屋」であった。

戯言6

●我が家も市川に居た酒屋さんからヤミ醤油を週5・6本仕入れ母は弟を背負い、綿入りのねんねこ半天の大き目の袂に1升瓶2本を隠し持ち、私も学校カバン(旧軍隊のヤミで買った払い下げ物)にヤミ醤油を隠しもって小岩ー市川間の千葉街道に架かる江戸川の市川橋を渡った。踏切りと同じゲイトがあり警官の検査と検問に時々遭遇したがいつも巧くパス、両親曰く「子供や子供連れは…検問の対象にしていない…子供連れは捕まらない」といっていたので何時も私が同行していた。よって私も醬油のヤミ屋の一員で、手助けをしていた事になる。醤油は知り合いの注文があって仕入れに行くので在庫はせず、ヤミ市場で捌く事はなかった。当時のクラス仲間のA君が「うちの父ちゃん、時々ヤミ市でロウソク売ってんだ」と言い見に行った事があった。どこで仕入れたのか、A君の母の実家が埼玉在のお寺の娘だったんだと後のクラス同窓会で聞いた。仏壇用の5㎝位のロウソクを5本に束ね3束で10円で売っていた憶えがある。当時は夜間の停電は日常でロウソクは貴重品だった。ある日”卵”を売っているのを私が見つけ急遽母に教えて母が駆けつけてよく見てみるとそれはピンポン玉だった。このエピソードは母が亡くなるまでよく笑いながら喋っていたのを思い出す。卓球用のピンポン玉が卵に見えてしまった悲しい思い出である。

●都内の大きい闇市で有名だったのは新橋、新宿、渋谷、上野あたりでその後の渋谷などを含め戦前の悪質な香具師などが進出、身寄りもなく帰る処のない復員兵(軍隊の帰還兵)や予科練崩れの輩などを組員にして一家をなしたヤクザ組織が多かった。今も渋谷・新宿辺りに「〇〇横丁」と言う狭い路地の飲み屋街があるがその殆どが当時のヤミ市の名残の土地だろうか。上野の「アメ横」のルーツもここにあるが、その後の健全な連帯意識と組織を築き上げ庶民に親しまれて築地の場外市場の賑わいに負けない、築地にはない「なんでもあり」の賑わいがある。

●駅前を走るジープを見付ければ「ギブミーチョコレイト!」と叫びながら友人とジープを追いかけたあの日、昭和21年頃の小学校4・5年生の頃の自分の風景である。いつも一緒にジープを追っかけていた同輩のM君が米兵が投げたチョコレートを食べ乍ら「アメリカはこんな旨い物喰ってりゃ戦争に勝つョ」と言った。正にそのとうりで頷ける、今に思えば正論だった。戦争は酷いもの、戦後もまた酷いものだった。

77歳7ヶ月 29期 土方敏之 2021年3月投稿

老いとは 筋肉が無くなり踏ん張りが効かなくなることか 物事を考えられなくなる事か 視野が狭くなる事か ひとりで生活できる事か 今朝はそんな事を考え、また眠ってしまい、起きるのが1時間遅くなってしまった。確かに筋肉のない状態は腕を曲げてもこぶはできないしお知りのソフトさも触ると感じる。反応も遅いし出来ない時がある。

考えるのもじっくり考えないで答えを出してしまう。口が先に反応してしまう。新聞を読んで何がどうなっているのか突き詰めていこうと思っても、題だけで中に突き進めない。

ひとりで生活する 時間とすることを大雑把に考えると出来るとなる。朝起きて掃除、洗濯、朝食、新聞を読み、今日一日の計画、昼食、3時のコーヒータイム、夕食(飲んで食べるので時間は1時間)、夕刊を読んでテレビを観て寝る。これはこれで良いと思う。しかし、これを続けることは耐えられない。食事の中身が問題だ。朝は夕食の残りか昼はパンか 夕食は身体の事を考えると野菜と魚と肉の料理。出来ない やはり妻に もう少し生きていて貰うしかない。となる。

1 我が街 船橋を歩く―船橋のご紹介(1)― 29期 仲田元昭 2021年2月投稿

街歩きのご案内に入る前に、船橋の魅力、歴史を2回にわたりご紹介致します。

船橋市は、人口64万人を超える千葉県で初の中核市となり東京から約20km、総武快速線にて25分と近く、首都圏の通勤圏として昭和30年代後半より人口が増加した、歴史ある自然溢れる今でも首都近郊で江戸時代より唯一漁業がおこなわれている街です。

住宅街、農業、漁業、商工業とバランスよく融合した、首都圏で若い方が是非住みたい街のトップになったことのある街(民間の調査機関)でもあります。

最近、市内で開発された約1500世帯の「森のシティ」住宅街が(AGC-旧旭硝子-船橋工場跡地)、平成28年世界で

初めて国連が提唱する「エコカルティ」認証制度(環境配慮型住宅地区)を受賞しました。

この住宅街は、電柱を地下に埋蔵し高さ11階建てに統一、景観・省資源・環境に配慮した街で、船橋市の駅北部の工業地帯が素敵な住宅街・商業施設へと変身中の、歴史の詰まった魅力ある街です。

「灯明台 (県指定有形文化財)」 (船橋大神宮境内 明治13年建造 当時最新鋭の官営の私設灯台)

「2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)―」に続く
2021-1-25寄稿

戯言&独言5 「預金封鎖」 21期 髙野 昇 2021年2月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その1)

▼食糧難・買出し・預金封鎖・ヤミ市…日本の最も長かったあの苦難の五年間、常識や良識が全く通じなかった時代。しかし昭和31年の経済白書の序文に「もう戦後ではない」と書かれ、当時の流行語にもなっていた。昭和25年からの朝鮮戦争による特需で戦後の復興政策から一歩前にでた様子を言っていたのか。「あの時代はもう忘れろ」と国民に無理強いしているとしか私には受け取れなかった。

戯言5

●超インフレ‥‥食糧難と同時に襲ってきたのが天井知らずのインフレだ。戦時中に費やした膨大な軍事費、戦勝国への賠償などで超貧乏国に陥ったので当然のインフレとなる。終戦一年後、当時父がメモ的に書いた家計簿を兄達と子供心にチラッとみた事があったが、(我が家は7人家族)兄の計算では支出が1ヵ月720円とあった。貨幣価値など知らぬ私が判る訳もなく、親にどの程度の余裕や郵便貯金があったのか知る能力も予知もなかったが長兄だけは少し行く末に不安をもっていたようだ。当時兄は三商4年生(16期)で、後に公認会計士になった素地があったんだなと後年思った次第である。PCで当時の物価を調べてみるとリンゴが2個10円、大根1本8円、‥等々、煙草のピースが7円でただし販売は日曜日・休日のみ、ガソリン1Lが1円20銭、国家公務員初任給大卒で540円、ただし首相は3000円、議員1500円とあり国鉄(JR)初乗りが20銭(一円の五分の一)とある。煙草愛煙家はトウモロコシの毛を乾燥し英和辞典のインディアンペーパーのページを破きそれに巻いて手製の巻煙草を作り喫っていた。捨てられた”吸い殻”はそれを拾い集め寄せ集めのヤミ煙草を作りヤミ市などで再販、棒の先に針をくくり”吸い殻”拾いの専門の輩もいた。

戯言5-2

●預金の封鎖‥‥終戦半年後、突然各自の個人預金が封鎖された。ほとんど貯金もなく、父はかっての食料品店の縁で醤油統制会社の配給関係の仕事で僅かな給与を貰っていたが、なんせ7人家族、兄2人は三商の中学生(当時は旧制5年制)で零細な僅かの預金での食いつなぎの中での突然の預金封鎖で自由に引き出せない非常事態が発生した。旧紙幣の使用期間は一か月のみ、その為各人は手元の10円以上の紙幣は全て口座に入れ新紙幣で引き出す。その間の生活費は1世帯500円、1人ではなく1世帯500円であったと思う。この寝耳に水の発令で、預金封鎖は政府がその後の「新円切替え」を半年後と決めた為で、しかし新円紙幣印刷が間に合わず止むをえず旧紙幣に切手の様なシールを貼る緊急手段をとった。父はわずかばかりの手持ちの紙幣を握りしめ小岩駅前に有った当時の「国民貯蓄銀行」に駆けつけ長蛇の列と待ち時間の洗礼の中、持ち込み紙幣の100円札枚数と同じ数のシールをうどん粉の糊と唾でベタベタと舐めながら母と二人で旧紙幣に張っていた様子をボンヤリと眺めていた。

●新円切り替え‥‥なにゆえの新円切り替えだったのか。旧紙幣が使えなくなるので全ての現金が強制的に金融機関に預け入れられ、これにより流通紙幣全てを把握、代用のシールを相当分の旧紙幣に貼る、有価証券、保険契約などの紙幣に表せないものは税務署に届ける事が義務付けられるなど、この政策により国民の財産のほとんどを国が把握できる事になる。この短期的な暴虚は酷いもの、はたまた止む負えない政策だったのか、GHQの陰の影響もあったろうが時の首相幣原喜重郎に乞われての当時の渋沢大蔵大臣(渋沢栄一の孫)の苦慮・苦痛はいかばかりか、のちの資料を読むと彼は若い頃より民俗学に才長け,多くの後輩に知的、経済的な援助を惜しまず民俗学の維持、発展などに寄与していたという。そして今彼の祖父渋沢栄一が新紙幣の肖像に登場する時代となった。

●‥‥写真の新10円札の図柄は他の新紙幣の図柄と違い「米国」と読めると皮肉られたが、案外GHQの指示と思われてならない。写真の100円札は旧紙幣で新札の印刷が間に合わず旧紙幣の右上にシールを貼って一時しのぎ。新札は民間の印刷会社に依頼した為紙幣独自の「透かし」が入らずニセ札が出回ったとの噂もあった。

77歳6ヶ月 29期 土方敏之 2021年2月投稿

風が冷たくなりました。お元気ですか。

近頃は午前1時半頃目が覚めて、それからは眠っているのか夢を見ているのかわからないが、昔の事が毎日頭の中に浮かんでくる。築地市場で海老の仲卸業をしていた父の代の時、私が18~20歳の頃に勤めていた人と一緒に仕事をしている在り様とか、もっと前の青空市場のような場所で配達している姿とか、店に戻る歩きとか、4・5年前の働いている様子まで5時に起きるまで続いている。

これらが何を意味するのか解らないけれど、以前には、母親の実家のそばのドブ川を魚がたくさん泳いでいる場面とか、を見たこともあった。

今は、暗くて狭い場所に人がいる時は行かないようにしている。逆に花が咲いてきれいな場所にも行かないようにしている。今朝は覚えていない。

「我が街 船橋を歩く」連載に当たって(1) 29期 仲田元昭 2021年1月投稿

2020-12-28 29期 仲田元昭

29期の仲田元昭と申します。同窓会の総務をご担当の土方さんと同期です。

自己紹介です。小生は、財閥系総合電機企業に定年まで勤務し、その後これまでの経験を活かし、経済産業省のマネジメントメンター制度に登録し、昨年まで多くの中小企業様の経営改善に取り組んでまいりました。

同時に、平成26年度に「ふなばし市民大学校マイスター学科」(先輩講師の講座もあり受講、後で判明、世間は狭いものです。)を修了し、その後、船橋市観光協会の「街歩きスクール」で1年間、計2年間勉強し、平成28年4月に「ふるさと案内マイスター」の認証を頂き、現在船橋の歴史、文化、産業遺産等の魅力を市民や周辺の県民の皆様にご紹介すべく、ボランティアガイドをしております。

そこで、船橋の魅力を同窓会の皆様にもご紹介したく、「我が街 船橋を歩く」の投稿を考えている旨、事務局にご相談しましたら、是非連載で投稿願いたいとのご依頼を頂きました。

船橋には、小生が承知しているだけでも、医師、経営者、上場企業役員、大企業管理者等々で活躍された、先輩・同期生・後輩数十名の同窓生が暮らしていると聞いております。

船橋は、徳川将軍家と拘わりの深い街で、江戸時代初期、今から400年程前の元和元年(1615)11月25日に徳川家康公が、東金方面への鷹狩の帰りに千葉県で最後に宿泊した船橋御殿があった街です。

また、江戸時代中期には、江戸の庶民に広がった成田詣の宿場町としても栄え、幕末には、江戸城無血開城後の戊辰戦争の最初の戦い「市川・船橋戦争」があった街でもあり、多くの歴史の詰まった魅力ある街です。

それでは、次回より何回かのシリーズに分けて船橋の歴史、文化、神社仏閣等のご案内をさせていただきます。

同窓会の皆様にとって、船橋の魅力再発見になれば幸いでございます。

次回は「我が街 船橋を歩くー船橋の歴史(2)―」

戯言&独言4 21期 髙野 昇 2021年1月投稿

NHKの朝ドラ「エール」が終わった。回を重ねるごとに関心を持ち一部フィクションとはいえこの年齢の同輩、先輩諸兄には馴染みの作曲家古関裕而の話。中学生の頃神宮球場に六大学野球をよく見に行っていた頃、早大の応援席に座りながら唄っていた「紺碧の空」が古関の作曲と知ったのは早実の荒木大輔が活躍したいた頃だった。

戯言4

長男が早大に入学、早慶・早明戦を一緒に観にゆくごとにチャンスに奏でるこのメロディーはいつも新鮮、雄大、快活で軽快、心躍るマーチ。戦時中の学童疎開中に散々歌った、歌わされた「露営の歌」「暁に祈る」「予科練の歌」などもそうだった。戦意高揚の曲ではあったが故国、ふる里、親や子への思いの郷愁と哀愁があのメロディーにこもられていた。不思議なことにこれらの曲は前奏から全て口ずさめるのはなぜだろうか。戦後の「長崎の鐘」を作詞した詩人のサトウ・ハチローが晩年語っていたが「戦後の”リンゴの唄”やこの”長崎の鐘”そして”ちいさい秋みつけた”のこの3つが詩人として自慢できるものである」と文学誌に書いていた。永井博士の「この子を残して」と言う長文の随筆は中学生の時、担任のK先生が読んで聞かせてくれ、クラスメイトの殆どが泣いてしまった思い出がある。

戯言4-2

戦中時から放射線の無限の恐ろしさと平和利用を研究し、被爆以前から研究の為に自ら白血病となり、皮肉にも長崎原爆を浴び二人の子を残し1951年に他界。戦争による放射能の使用、被爆はどんなに無念だったことか。亡くなるまで寝起きしていた「如己堂(にょこどう」は現存している。古関の集大成としての「オリンピックマーチ」の素晴らしさ、NHKの番組の数々のテーマ曲、ラジオの「昼の憩い」や森繁久弥、加藤道子の語り口による「日曜名作座」、スポーツ放送のテーマ曲。高校野球を機会あるたびに観ているとついあの「栄冠は君に輝く」を口ずさむのは私だけだろうか。二番目の孫が都代表として二度甲子園に行った公立校に入学、文武両立を目指し野球部に入り、そんな事もあり偶然とはいえ嬉しく思い「エール」を見ていた。””投球に、打球にこめて、青春の賛歌を連ね””いい歌、いいメロディーだ。古関のオリンピックマーチが轟く国立競技場の入場行進の中に先輩出町豊氏(20期)も居たはずでこれもまた感無量である。

77歳5ヶ月 29期 土方敏之 2021年1月投稿

1月5日 心友、柳田保之が他界した。高校生活はほとんど一緒だった。毎朝彼はあんこを配達して学校へ。私は家から学校へ。そこだけが違っていた。放課後は写真部で暗室に入って写真の現像や引き伸ばしをやっていた。定時制の学生が帰っても暗室にいたことも多々あった。卒業してからは同期会開催の準備を2人でやった。そこで生まれたのが記念誌の「石壮」だ。在学時の校長先生が石田壮吉先生なので「石壮」とつけた。なるべく遠くに居る同期生の原稿を載せようとか気になる同期生を載せようとか、言いながら組んで最初は鉄筆の謄写版刷りで発行。次は同期生の印刷屋さんに頼んだりしたが、同期会の幹事を各クラス代表に任せようということになり、2人も8組なので、8組(三盛会)の代表に任せようと幹事から離れた。それから「石壮」も廃刊となってしまった。結婚してからも家族旅行や飲みに行ったりした。ここ2年位あまり行き来が無くなっていたがまた、皆で集まろうということになり、昨年花見会を開催する事を計画していたが、新型コロナウイルスの影響で、いつやるか、いつやるかと身構えていた。ところに訃報が知らされた。今日1月7日泉沢と駆けつけた。きれいな顔だった。 ありがとう青春時代から後期高齢者時代まで 俺はあと20年生きたいな 俺を呼ばないでそちらで友をさがして楽しんでください さようなら

戯言&独言 21期 髙野 昇 2020年12月投稿

▼コロナ禍の中、高齢者は家籠り、巣籠りが一番の安全策とはいえ病院への定期通院や買い物は最低限度の日常には欠かせない。パソコンは多少手懐けてもゲームをやる訳でもなく、長い時間は目にも悪くせいぜい一日延べ2時間までとし、数少ないメル友に時おりメール、そんな中、週1ペースでメールのやり取りをしていた盟友細田武君が突然に黄泉に召され私は今もかなり落ち込んでいる。彼の寄稿が「同窓会HP」から消えるのも悲しい事である。合掌

戯言3-2

お笑い芸人が本芸も見せずに楽屋話でTVに出、何処の局も同じ様な似たり拠ったりの顔ぶれのひな壇番組バラエティーばかりだ。これといったテーマもなくお笑いタレント(ほとんど名も顔も知らない連中ばかり)を集め身内の話がほとんどである。少し売れたタレントになるとニュース番組のコメンテイターに出世か?少し名前と顔が売れるとニュースショーに、ひな壇から横並びの番組に出始める。そしてやたら食べる内容の番組、大食いの自慢番組、世界中に貧困と飢えに苦しむ人々の多い中「ユニセフ」のコマーシャルでも見て欲しい。コロナ禍の中、製作局が苦しいのは理解してももう少し頭を使って欲しいものだ。

戯言3

貧な壇(ひな壇)に整列・・・食いが自慢か?

東大現役や卒業生がクイズ王で出ずっぱり、彼等は公費の大学にいて設備、環境にも恵まれ学費も私立大より安く、だったらもう少し社会全体に役立つ知識と教養を身に付けるべきでクイズが出来ても、君の人生になんぼの人間的価値になるのか。こんな東大生に国庫の費用を使うべきか疑問だ。TVをONにすれば遠慮会釈なく入り込む番組、CSの有料番組ならともかく、TV局はタレントの意味のない会話番組を作る時TV画面の前には計り知れない無数の視聴者が居る事を忘れず、出演者、司会者だけが笑いつまらぬ発言に手を叩き笑いこける、視聴者無視の典型でもある。

▼50数年前、評論家の大宅壮一氏(大宅映子氏の父)がTV局とTV台数の爆発的な普及を皮肉って「一億総白痴化が始まる」と言った。今思えば言いえており私自身を含めて「当たらずと言えども遠からず」の感が今更のごとく甦る。大宅氏は他にも各都道府県に存在し始めた国公立大学を「駅弁を売る駅に大学あり」と唱え「駅弁大学」なる言葉を発した。「男の顔は履歴書」とも言った事があり、藤本義一氏が「女の顔は請求書」といって大宅氏が「君、俺より上手いこと言ったね」と握手したとか。「恐妻」「口コミ」「太陽族」なども大宅氏独特の発言から出た名・迷?熟語らしい。

▼戯言笑文‥‥「スマホを離せないのが18歳、クスリを離せないのが81歳」

77歳4ヶ月 29期 土方敏之 2020年12月投稿

近頃なんとなく気が向かないというかテキパキと事を片付けられない。一歩引いてしまう。新型コロナウイルスの影響か、周りを包まれている感じがする。それとも目標がないからか、年末になり、来年の目標を決める時期なのに。車は来年2月に車検満了日がくるのに、継続して乗るにはもう10年乗っているので大丈夫か、免許は3年間あるので新車にした方が良いのか、等々迷う。早くこのモヤモヤが消えてくれれば、包まれて閉じ込められている中から出られれば。

自分一人で考えるから駄目だ。スズキ自販に相談して決めることにする。これで進める。

戯言&独言「上野駅とその周辺の思い出」 21期 髙野 昇 2020年11月投稿

上野駅は北の玄関、終着駅の名にふさわしい駅舎と構内。かつては上野駅には啄木が『ふるさとの訛懐かし停車場の人込みの中にそを聴きに行く』と謳った雰囲気があり長距離夜行列車の終着駅だった。今は夜行列車もなくなり新幹線の終点でもなく、「カシオペア」もダイヤから消え始発を見送る「鉄チャン」の姿も数少なくなってしまった。戦前の幼少時、山下口を出て西郷像を見ながら動物園に行ったこと、従兄達と帝室博物館に行き仏像やら鎧兜を見ているうちに頭が痛くなり幼児には仏像などただ怖い代物で兄が葭簀張りの出店でサイダーを買ってくれた思い出がある。

戦後昭和21年、母に連れられアメ横に買い物に行き山下口の地下道を出る数メートル手前の戦災孤児の群れの中に集団疎開前に別かれた友人のK君がいた。目と目が一瞬合った瞬間彼も分かったのだろう彼の鋭い目線が頬に鋭く刺さった。髪は伸びズタズタの着衣を纏い、それに反し母と手を繋いで彼の前を歩く小生、孤児となっていたK君、彼は縁故疎開に行ったのか東京に残っていたか学童疎開のメンバーには居なかった。疎開の10日くらい前に彼を交えて数人と砂町の「仙気稲荷」にザリガニを獲りに行っていた。NHKの特集で「戦争孤児」の番組があったが泪が溢れまともに見る事が出来ず、今もあの地下道は歩けない。上野は孤児だけでなく、身内を亡くし職と食の無い人が自然と集まりその為犯罪も多かった筈だがそれを受け入れたのが上野の街、下町の人情と気っぷの良さが灰燼と化した上野の土にも浸み込んでいたのかも。アメ横は戦時中線路際と言う事で建物疎開で撤去されていたが、それ以前は人家の密集していた場所であった。芋から作ってアメを売っていたからか、アメリカ占領軍のPXから流れてきた品をヤミで売っていたからか、どちらにしても「アメ横」なる名は全国区となっている。上野の山の中に石作りの荘厳なこじんまりとした建物をご存知か。これは昭和初期に作られた「博物館動物園駅」の京成電鉄の地下駅の出入り口の名残。戦前は音大、美大、市立二中の通学生に利便な駅だったようだが戦後昭和60年代に閉鎖、最後の利用者は年間167人、戦時中は陸軍の通信基地の一部として使用、路線は閉鎖されていたと記録にあった。ちなみに日暮里寄りには「寛永寺坂」なる駅もあって両駅のホームは現存している。上野界隈えの数々の思いはきりがない。精養軒のカレーがライスとルウーが別々に出てきて驚いたこと、池之端の伊豆栄の鰻のタレの匂い、ミロのビーナスや正倉院御物展を見たときの感動など忘れられない。様々な思いと悲しさを思い出させる上野である。

▼添付写真 「博物館動物園駅」恩賜公園内なので荘厳さを貴ぶ駅出入り口。都選定歴史的建造物

旅の徒然に・閑話休題2 21期 黒子 晃 2020年11月投稿

フィレンツェで
同行のO氏と3人でレストランに入り夕食前に軽く一杯やろうということになり、テラス席に陣取りました。ウエイターが注文を取りに来たので、烏賊の炒め物が旨そうだねと覚えたてのイタリア語でカラマロ・カラマーリと連発しましたが、ウエイターは首をかしげて「そんなの無いよ」と言っているようです。しばらく押し問答をした挙句、ちょうど別のテーブルに烏賊の料理が運ばれるのを見て「アレだ!あれだよ」とやりましたら、こちらのウエイターが我々に尋ねていたのは料理ではなく、飲み物を何にするかを聞いていたので「烏賊」印のワインなんか聞いたことがないよといっていたのでした。それが分かって皆で大笑いとなりました。

ポルトガルの漁村で
ポルトガルの鄙びた漁村での昼食時、あら懐かしや・・イワシの塩焼きが巨大なプレ-トで運ばれてきました。岩塩をパラパラと降っただけの誠にシンプルなものでしたが、われらが幼少のころから馴染んできたそのままの味!ついつい4尾も食べてしまいました。
日本から醤油などの調味料を持参する人も多いですが、この時ばかりは大根おろしと酢橘があったらなア・・といささか残念な思いをしました。その時は大根おろしのチューブ入りなど有るとは思っていなかったのですが、帰国してみると結構近所のスーパーに有るではありませんか、さすがに酢橘の果汁は見かけませんでしたが、ゆずとかレモンの濃縮還元果汁の小さなポットを見かけました。ポルトガルにお出かけの際はぜひお持ちになるようお勧めします。

地中海のムール貝

地中海の周りの国々ではどこへ行ってもムール貝がよく食べられています。

ガーリック風味のワイン蒸しのムール貝がワインクーラーと同じ位の大きさのバケツに山盛りで出てきます。それがどうやら1人前らしく、最初の1個はフォークで身を取り出しますが2個目以降は1個目の殻をピンセットのように使ってバクバクとむさぼります。そして殻をお皿にどんどん積み上げていきます。しかしひょっと気が付きました。我々日本人のグループのテーブルにはムール貝そのものはお皿に盛ってあり、反対にバケツが殻入れになっているではありませんか。

ハハア日本人はみんな食べきれないで残すのでこういう方式にしたんだなあと無理やり納得しました。 (本当かどうかは分かりません)

ウイーンの中央墓地で

映画「第三の男」のラストシーンが印象的なウイーンの中央墓地のベンチで一休みしているところへ、ひょこひょこと現れた烏に彼女が呼びかけました。

「ひょっとしてあなたアントン・カラスさん?」

お後が宜しいようで・・・。

2010.9.11.
栃木市大平町新1503-25 
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77歳3ヶ月 29期 土方敏之 2020年11月投稿

風が冷たくなりました。お元気ですか。

私は夜寝る支度をする時の換気ドアの開け閉めをやめました。シーツの上に枕を3つ、1つは頭の位置に、1つは背の下に、1つは足の下に置きます。そして上に毛布を掛け、その上に薄い掛けふとんを掛けて寝ます。そうすることによって今までは何ともなかったのに、今は肩が寒くて毛布を念入りに掛けても気になります。

もう一つやることがあります。掛けふとんの上に仰向けになって足を上に上げ、頭の先に伸ばします。そして50を数え終わると仰向けに戻り足先を上げて50を数え、うつぶせになって腕をたて背を曲げ30を数え、仰向けになって足先を手前に両手を頭の脇に、息を吸って行い、両手と足先を戻すと同時に息をはきます。これも30数えて寝ます。お休みなさい~

同期 細田武君の黄泉路(よみじ)への旅立ち 21期 髙野 昇 2020年10月投稿

■本年3月に発信された同窓会ホームページ(以後HPと記す)に彼が寄稿した「文学散歩を兼ね、神田川に沿った観桜散歩」とした内容の文が最後となりました。観桜に行ったのは前年の春で、私も誘われ同行し、三ノ輪から都電に乗り近在の年輩の方々を中心に面影橋から椿山荘近くまで二人で語り歩き、思えばこれが彼と外出した最後の日でした。すでに本年1月、2月のHPで「骨髄性症候群」「血液ガン」になっていることを寄稿されていました。前年5月頃からの近くの「永寿会上野病院」で入退院の治療を受け、コロナ禍の以前に「寛解」と担当医からうけていました。何度かご自宅にも伺い、PC上のメールのやり取りも欠かさず、HPへの寄稿は「コロナ禍中は止めようぜ」など話していました。

■通夜はこんな時期でもあり家族葬でしたが記帳台机の正面に三商在校中卒業を目前に控えた昭和29年2月、私が撮った彼の若き日の写真が飾られており、「この写真、すごく気にいっていたんですよ」と奥様から言われ泪が溢れなにも申し上げることも出来ませんでした。地域の人に愛され、地元の子供や同輩に親しまれ、下町の良き風習文化にも蘊蓄を語り、家族葬とはいえ沢山の人が焼香に訪れていたのをみて、彼の人望に改めて感動しご冥福を祈りました。 合掌

77歳2ヶ月 29期 土方敏之 2020年10月投稿

先日、洗面台の配水管が錆びて管が二つに割れていた。周りにたくさんの品物が詰まっている。修理の為全部出した。2時間半かけて水道業者はパイプを取り換えた。それから周りを掃除して開けっ放しにして乾燥させた。中に入っていた品物を風呂場に並べてシャワーをかけて洗い、拭いて風呂のふたの上に並べておいた。

翌日、となりの扉を開けてみた。やはり品物がいっぱい入っている。下を見ると濡れている。仕方なく全部出して、風呂場に並べ又シャワーで洗い流し、拭いて風呂のふたの上に並べた。そして扉の中を掃除して開けっ放しにして乾燥させた。こうして風呂のふたの上に並べて置いた品物は、パイプのところには入れられないので、せっかく綺麗にしたのにとなりの扉の中に残す物のみ入れて、後は捨てることにした。

今日は、台所の水周りの点検を行うつもりだが、家の中にある30年間のごみを少しずつ整理することになりそうだ。いつのまにかそんな年になってしまったのか。

七十七歳の思い出 29期 土方敏之 2020年9月投稿

昭和18年8月7日に生まれる。今年で77歳となった。今の自分は、身体についてみると頭の部分は、4年前に酔って風呂に入って転んで頭を打った部分が時々何か少し痛いような。顔の部分は、口の中の歯と唇が近づいたような。胃は、慢性の胃炎で、落ち着かないというか胃酸が多いというか、ゲップで苦みを感じる時がある。腹は、右の脇腹真ん中よりが、ツルような感じがする時がある。腸は、便通は良いので時々さすると気持ち良い。足は、すくっと立てない、立ち続けられないでブレル時がある。歩く時もシャキッ感がない時がある。(右足と左足のカカトをくっつけ90度に開脚すると直る)手は、右小指と薬指にシビレ感がある。特に小指はずうっとある。右ひじは、顔を洗う時痛くなるので気をつけている。

これから20年生きていくにはどうなるのか!生まれてから20歳までは、親と一緒に生活してきた。今は、妻と二人の生活。これから一人の生活を考えなければならないとすると、共同生活から赤ん坊になる道を歩むことになるのか!77歳―高校生―中学生―小学生―幼児―死。

同窓生の皆様!ホームページを通じて発信しましょう!(こんな事でも話題になるかも。)

旅の徒然・閑話休題 21期 黒子 晃 2020年9月投稿

トルコで

イスタンブールでオトウサン(otosan)とか、カアサン(carsan)とかいうエンブレムがフェンダーや後部についている車が走り回っています。私の他には誰も気が付いていません。
otoは英語のautoで carは英語と同じと見当がつきますがsanはサテ?

現地のトルコ人ガイドのお姉さんにsanとは何かと聞きました。

「あアそれ、さんぎょうのサンです」と。まさかア・・。

トルコ語のサンが日本語の「産業のサン」であろう筈がないじゃありませんか!

このガイド「アイシャさん」は日本へ行ったことはないと言いながら、日本語はペラペラ。休憩時間に日本語で世間話ができる程。彼女は申し訳ないが(もちろん直接口に出すこともできないが)いわゆる「花王石鹸」顔なのです。「妹は私のことを『魔法使いのお婆さん』とからかいます」と自ら言っていました。

その彼女の言ではありますが、トルコ語のsanが「産業のサン」であるということはあり得ない。話がややこしくなるのを避けて、その場はそのままにして、帰国後調べてみました。

その結果トルコ語のSanaiが産業であり、sanはその短縮形であることが判明し、ひとりで大笑いしてしまいました。

パリで

車と言えば、パリの街角で駐車している車に「MEGANE」を見つけました。まさか「眼鏡」ではあるまいとは思いましたが・・。

帰国後日本でも結構走っているのがわかりました。ルノーの「メガーヌ」という車種だったのでした。これも一人で笑っちゃいました。

リトアニアで

バルト3国のリトアニアの名産品に琥珀があります。琥珀の博物館で「GINTARO」という表示をあちこちで見かけました。「銀太郎」かア・・。と何とも不思議な感覚を覚えました。

Gintaroとはリトアニア語で琥珀のことだと帰国後調べがつきました。

こちらも一人で笑っちゃった口の一つです。


それにしてもこんなことがいとも簡単に調べられるWikipediaには脱帽!

その昔、高嶺の花・垂涎の的だったEncyclopedia Britannicaを絶版に追い込み、オークションでも数千円にしか値が付かなくなるご時世。

IT, ICT, IoT万歳!

続きは http://clocko.web.fc2.com/

でご笑覧下さい。

Mail to akirakuroko@hotmail.co.jp

あなたから私へ 愛のメッセージを 29期 土方敏之 2020年7月投稿

あなたから私へ 同窓会のホームページで会いましょう!

私たちの身近な連絡手段として、このホームページを利用しましょう!


私からあなたへのメッセージ あなたから私へのメッセージ

私の考えていること、思っていること、お知らせしたいこと、等々

自由に思いを交信しましょう。このホームページで毎月お会いしましょう!

メッセージはメール、FAXなどで事務局までお送りください。

毎月更新しているホームページですので、新しいニュースは早めにあなたへお伝えしたい。

ひ孫 26期 岩瀬和子 2020年7月投稿

私は七月で八十歳になります。上の階に娘とその長女、次女の家族が一緒に住んでいます。長女に昨年10月男の子が産まれました。綺一(あやと)です。そして今年の一月次女にも男の子が産まれました。愛翔(あいる)です。昼間はどちらかの部屋ですごしていますので、遊んでいる声が聞こえると戸を開けて覗いてみます。長女が「何の用、ひまつぶしにきたの?」とじゃま者扱いしますが、上のひ孫は這って私の所へきて、つかまり立ちをして、はねたりして満面の笑みをうかべ、何かぶちゅぶちゅ云っています。下のひ孫は、つかまり立ちが出来ないので、這って来て、にこにこ笑っています。

私は昔から子供の泣き声がいやで、ひ孫が泣いたりするとどうしたのか気になって仕方がありませんが、孫達は「いいのよほっておいて、ねむいんだから」と云って平気です。 外で小さい子を見ると家のひ孫様達もああなるのかなと思わず見入ってしまいます。

娘は一人、孫達は三人家族です。それに猫が九匹。先日猫が一匹死にましたので九匹になりました。リビングに五匹、娘の部屋に四匹、外へ出ないように網戸はステンレスにしてあります。皆孫達が瑞江にいる時拾った猫達です。私の所にも四匹あずかったんですが二匹死に、今は二匹います。孫達の部屋へ入らないよう気を付けています。ひ孫達はこわがりませんが、毛がつくので孫達がいやがります。死ぬとすぐ回向院へつれて行きます。今迄に犬五匹、猫六匹が葬られています。娘と孫達が月参りしています。

「本物の八百屋」野本要二さんが勲章をゲット!! 26期 古田勝一 2020年6月投稿

「生涯青春であり続けたい」との願いから毎年開催して参りました26期同期会も「令和元年」の昨年は通算30回を数え…卒業60周年も重なり、上野の「東天紅」で催すことが出来ました。当日は全商理事長でも居られる母校三商の中山博之校長先生の御臨席を賜り、又、金原亭馬生師匠にも華を添えていただき、記念すべき同期会となりました。

今年も31回目の同期会を六月に開催すべく、当番幹事の二組が中心となり進めて参りましたが、新型コロナ感染拡大に伴い中止せざるを得ませんでした。その後の同期への連絡は早く、政府が緊急事態宣言を発令する一ヶ月前には、岩瀬和子・前同窓会長、杉本光男・事務局長の御尽力で「中止のお知らせ」を発送完了することが出来ました。

オット!!話がアト・サキになりゴメンナサイ…
本題に入らせていただきます。

私共26期の野本要二さん(東京都青果物商業協同組合・前理事長/全国青果物商業協同組合連合会・直前会長)が令和元年・秋の叙勲に於いて「勲四等旭日小綬章」なる大変位の高い勲章を受章されました。(勲章の種類:「菊花章」「桐花章」「旭日章」「瑞宝章」「文化勲章」「宝冠章」)

三商は全国的に簿記・珠算の名門校でしたので、「そろばん」の腕に覚えがある人は沢山おります。又、「そろばん日本一!!」も何人か輩出しております。

野本さんは日本商工会議所の珠算検定・一級を小学生で既に取得しており、そろばんの得意な少年でした。この暗算力の特技は後に八百屋になってから大変役立ったと聞いています。

三商時代は野球部(ポジション:サード)で青春を謳歌し、1959年卒業と同時に「八百周」に就職。

この「八百周」は数店舗経営する家業の八百屋さんです。スタートは江東区東陽三丁目。人通りの多い交差点に面したお店で、その傍ら月に数回、車で東雲団地へ向かい出張販売もこなすと云うものでした。

まず野本さんは、街の八百屋の利点を生かし繁盛店になるには…と熟慮分析し、次の三つの基本コンセプトで行くと戦略を詰めました。

一、他店との差別化を図る上からも、店頭に「青果物よろず相談所」を開設

一、八百屋の力量は仕入れる野菜の目利きに掛かっている

一、対面販売では明るい笑顔と楽しい会話でコミュニケーションを図る

スーパーマーケットは(ヒト・モノ・カネの)経営資源は大きいかも知れないが、同じ品質のものを大量に仕入れる必要性が有る。八百屋は小回りが利くので大量に仕入れる必要が無い。その分、より品揃えも魅力的な根付き野菜等も扱うことが出来る…

店頭や出張販売を重ねて行く中で、

・野菜の良し悪しの見分け方

・いろいろな夏野菜の旬をタイムリーに伝える

・多種多様な野菜をおいしく食べるコツをアドバイス…等、

消費者と交わしたふれあいやヤリトリ、相談内容のアレコレの集大成として、1995年には『野菜相談うけたまわります』との本を出版。

(東京都青果物商業協同組合の)理事長に就任してからは、後継者育成の面から『八百屋塾』に力を注ぎました。

八百屋が扱う青果物は人間の体に入って命を作るもの。健康維持増進にいかに大切かを普及するには、八百屋自身がもっともっと青果物について詳しく勉強をし、野菜のプロになって欲しいとの願いから「八百屋塾」の研修会に力点を置いたのです。

ジャガイモを例にとると…北海道より生産者を講師に招く→ジャガイモのおいしい見分け方や生産者の想い等を学ぶ→実際に各品種の食べくらべをする。

(全国青果物商業協同組合連合会に於けるある会での)会長挨拶、一部抜粋…

【少子高齢化の進展で、消費者の購買行動が変化し、ネツトスーパーや電子商取引なども浸透しています。

会員は、消費者の購買行動の変化やeコマースの進展など青果小売業を取り巻く環境の変化を充分に踏まえて、マーケットイン志向による消費者視点で青果小売の専門性を発揮することが極めて肝要と考えています。

八百屋は魅力あるおいしいものを届ける『食べ物屋』で有りたいと思うのです。

例えば「イチゴ」なら、どのイチゴが自分に合うのか。又、このイチゴは色が薄いけれど、一日置いてみたらいい色・いい味になるとか…。そう云ったことをいろいろと研究しながら(中略)実際に自分で食べてみて、おいしさを知るべきだ、と思います。】

種をまいて肥料をやり、水をまき、芽が出てくるのを待とう…芽が出る前に焦ってほじくったら実りにはつながらない。

商売は「アキナイ」とも云います。店の売り上げが少しぐらい上下しても、飽きないで勉強をし仕事を果たすと云う揺るぎない誠実な行動力が有れば、必ず儲けは後から付いて来ます。

「正しい種まきをしていれば必ず成果(青果?)が出る」

野本会長は生鮮食料品の流通・市場の活性化・販売戦略の推進に尽力されました。

野菜に惚れた!!野菜大好き人間!!

叩き上げの本物の八百屋さんが受章されたことを26期の仲間としても誇りに思います。野本要二さん、本当にオメデトウ…そして有難うと感謝の気持ちで一杯です。

燦笑繁話35 新型コロナの文字が消えた 21期 細田武 2020年3月投稿

新型コロナの
文字が消えた

令和2年3月7日、朝日新聞の朝刊1面から[ 新型コロナ ]の大きな文字が消えた。なにか変です。先月投稿から1ケ月、インフルエンザとは違う蔓延の仕方で世界中を震撼させています。日本でも1、100人の罹患者、12の死者が出ているように可なりの蔓延である。世界中では10万人をこえ、強力さでは違うがかつてのスペイン風に匹敵する様だ。

思えば昨年の3月31日、校友の高野 昇兄と我がコミュニティの文学散歩を兼ねた神田川の観桜散歩が強く印象に残る。40人の会員と三ノ輪から都電に乗り 、面影橋から音羽の椿山荘までの川沿いの桜を愛でたものだ。

このとき体調の変化を感じたのだが多分歳のせいだろうぐらいに思った。100メートル歩くと呼吸が荒くなりちょい休みしたくなる⁉高野くんに大丈夫か⁉ユックリ行こうか🆘みたいな状態になったが会のこともあり最後まで頑張りました☺

さて、5月になり前にも書いたが定期検診により現在の🏥😷💉病気が発見され3月現在加療中です。家族、特に家内や子供たちの理解と協力、己に克つという強い気持ちを持ちつつ闘病してます。こうして毎月三商会報に投稿でき、月半が楽しみです。ああ 、楽しみと言えば月刊誌(  江戸楽  )の川柳投稿も楽しみです☀ 

2月号で[  天  ]に選ばれました。お題は「  👹節分  」    👏  #   福は内我が家じゃ言えぬ鬼がいる           弁 慶    

さて、新型コロナですが急遽決まった小中学校等の休学、各種スポーツ等の室内の観客動員による中止。年度末の会社関係の繁忙期の対応。インバウンドの減少によるホテル、飲食店等の減収による倒産。上野の山の桜の花見も中止。

前号にも印したリーマンショック以来どころか世界中での大不況が目の前に来そうです。オリンピック中止、延期で日本、東京都も5、6兆円の赤字。当たらないで欲しいです。安部の桜を見る会、今年だったら止めるかね😭

老朗好日-第七回- 公益財団法人日本相撲協会殿 大相撲に物申す ハッケヨイのこった残った 21期 髙野 昇 2020年3月投稿

老朗好日7

第七回

公益財団法人日本相撲協会殿 大相撲に物申す

ハッケヨイのこった残った

▼この文が掲載れる頃は大阪場所の最中でお相撲さんも年6場所で平均4日に1回の本場所はきつい。平成の大横綱貴乃花親方のそれらを含めての"改革クーデター?"も一揆とならず退職、自らの弟子二人が暴力沙汰では今はともかく、いずれ「横綱だったそんな親方がいたナー」で終わるのは残念。彼の主張には一部賛同できても、その行動や不貞腐れたような態度には私は附いていけない。力士として人気抜群、平成の大横綱の名にふさわしいきちんとした発言、泰然自若とした説得力ある行動こそ他の若い親方衆の賛同を得られた筈で、協会改革の礎となって欲しかった。なのに、退職後とはいえかっての弟子の暴力沙汰で全てが帳消しとなった。改革を望むなら退職せず、若い親方たちと時間をかけての行動をとって欲しかった。実に残念でならない。旧態依然の姿と影を残す現協会の体質は、古来の神事、しきたり、縦組織、稽古に名を借りたイジメなど現代にそぐわない。令和の新時代を担う若手の奮起と併せて、協会の土俵上での勝負における疑問点と組織の再考など、これを機に少しでも変わっていくことを願っている。

老朗好日7-1

▼ファンとしてまず納得できないのが勝負における「立ち合い」である。以前にもこの欄で書いたが、大相撲は結果として勝ち負けによって地位が変動し給与も変わってくる完全なプロスポーツである。立ち合いに不平等や不公平があってはならない。相手が完全な立ち合い姿勢に入っているのにゆっくりと背伸びをしたり、片手は膝の上に置いたままゆっくりと相手の出方を見、その手を瞬間的に土俵につけて立ち上がる。ある現役横綱はそれに徹している。そして名人横綱双葉山を尊敬しているなどとはおこがましい。どうみても公平な立ち合いではない。ある部屋の力士のほとんどが立ち合いのテンポが一貫して遅いのは部屋の指導がそうなっているのかと疑ってしまう。

▼時間いっぱいを行司が告げたら東西両者に両の拳を完全に土俵の土に着けさせる。それを行司と検査役(5人)6人の目で確認し、何らかの合図で立ち上がらせる。まさか「よーいドン!」とかブザー音はないまでも、軍配をかえすとか、大声で「よし!」と言うとか方法はいくらでも考えられる。これを実現させれば立ち合いの「まった」はなくなる。一場所数回の違反力士には何等かのペナルティを与える、陸上競技や水泳では一発退場との規則がある。体重制の無い一本勝負、小兵力士も大型力士も立ち合いは平等、そこからの勝負がスポーツの本来の姿である。かって千代乃山・栃錦・北の富士・大鵬・柏戸・北の湖など、その前後の場所での立ち合いは手も着かず、中腰で立ち合っていた時期があった。大変見苦しい場所が長く続いた。アマチュア相撲ではありえない光景で、極端な言い方をすればプロはアマチュアを見習うべきと思う。

老朗好日7-2

▼全てが「ごっつあんです」の一言で済まされる世界、”ご祝儀をいただいたとき、会食に招かれたとき”などには適応する言葉かもしれないが、部屋内での少しの間違いなどの時もこの言葉以外反論も返す言葉も許されない、できない。旧日本軍軍隊の縦組織もそうだったように、各学校の体育系組織にもいまだに報道される事例が数々ある。協会は”時間いっぱいでの仕切りの不徹底さや親方や兄弟子による稽古に名を借りたイジメ、私生活内での言葉の暴力・暴言、このあたりからの改革もまず検討しなくてはならないと思う。これを書いている最中、またまた「呼び出し」の上位にある輩が後輩の若手2名に対する暴力沙汰事件が発生、そしてインフルエンザ陽性の力士を土俵に上がらせる、一般常識では考えられない非常識さ、なんらかの進歩や徹底された姿が全然見えぬ暗黒の”協会”である。この状態のままだといずれ人気が凋落して行く。怪我で幕内で5人も6人もが休場する現実は、力士の体重増や食事内容の検討、土俵の位置の高さなどを見直し、転落による骨折、捻挫防止などの改革も絶対必要だと思う。協会は「土俵の充実」を寝言のごとく言葉に出しているが、不公平な立ち合いが多い中、力士、行司、審判部との一歩もずれない共通認識を持つ事が改革の第一歩となって欲しいものだ。

▼負けが混んでくると必ずと言っていほど休場する横綱と大関、それで次の場所はちゃっかり優勝、それでいて双葉山を尊敬しているとか、優勝回数の記録を作り帰化して親方となり銀座に部屋を持ちたいなどの戯言の言いたい放題、、こんな事が果たして許されるのか横綱審議会、協会はもっとしっかりせい。

▼PS.この「老朗好日」を同窓会事務局に投稿後[2月中旬]、大相撲3月場所の無観客開催が決まりました。

この花ご存知ですか 26期 岩瀬和子 2020年2月投稿

黒法師(サンシモン)別名アエオニウムの木に咲いた花です。原産はカナリア諸島(北アフリカ)だそうです。数年前近所のゴミ集積所に捨ててあった一枝を鉢植えにしました。

突然葉の中から枝がのび花芽がびっちりつき咲き出しました。花を見たのは初めてだったのでびっくりしました。3月でした。

そして又二葉から枝がのび花が咲きました。初めの時よりばらばらしていましたがピラミッド形は同じで2月に咲きました。

去年12月から十葉から枝がのび花が咲き出し、今もきれいに咲いています。新しい枝がどんどん増えるので、咲いたのを見た友人達がほしがり6人に一枝ずつ切ってあげました。でも花が咲いたのは私の所と他2軒だけです。皆、陽当たりのよい所に置いてあります。

早く花がついたのはこの冬暖かい日が多かったせいでしょうか。

花が枯れたらどうしたらいいのか、夢の島の植物園、神代植物園へたずねました。どちらも木はあるけど咲いたのを見たことがないとの事でした。

私は神代植物園へはじめて咲いた写真を送ってあげました。

燦笑繁話34 コロナと消費税と日本 21期 細田武 2020年2月投稿


コロナと消費税と日本

この原稿三商新年会2月8日の昼下り、昨日まで5日間の外来の注射を終えた所でボードを叩いている。折角の新年会は体調を考慮し、欠席をしました。高野くんに代表での出席を依頼。ご盛会を祈ります。

ところで9月に90年の経営の酒販店を諸般の事情で廃業しました。体調と消費税の改悪と大きく言うと日本の先行きを見極めました。体調は血液の(癌)です。でも制癌劑投与のお陰で今日まで10ヶ月経過、日常生活は多少の苦しみは有りますが生きることに努力をし、家族の協力で病に挑戦してます。

新聞等でインバウンドの減少、浅草は着物を着付けた中国人は一人もいませんし、京都の嵐山の人力車も暇をもて余しているようです。特に12月から湖北省・武漢の肺炎による何万人による罹病、数字は不確かだが多くの死者が出ている今日。横浜で上陸できず木の葉の様に揺れる3,000人の観光客。日本企業の勇士もフライトで帰国も14日の拘束で不満たらたら?

通常国会では安部の言い訳に咲いてない桜に失礼(>_<)だよ。補正予算だけじゃなく山積する。問題を早く解決する努力がほしい。あらゆる面を見ても今の日本に期待はできない😵

だけど何処へもいくことの出来ない庶民・高齢者はどうすりゃ良いのか⁉

商売の見切り  良かったかな⁉  リーマンショック以来の不況が、現実になりつつあるよね😁

愚痴っぽい事だけどなにか当たっていなければ良いけど❗

年寄りのーーーーと笑ってください🙇

老朗好日-第六回- 私の中の名画と名優たち(その5) 西部劇とジョン・ウェイン 21期 髙野 昇 2020年2月投稿

老朗好日6

第六回
私の中の名画と
名優たち(その5)
西部劇とジョン・ウェイン

▼彼の主演もので名画と言えるものがあったか、改めて思い返すとそれらしきものは私の中には無い。性格俳優でもなし、演技派でもなく文学的作品も思いあたらず。私が大ファンであるヘンリー・フォンダが静かで理知的な真面目な役柄をこなすのに対しJ・ウエインはアクティブ,かつ粗野で乱暴な野生的な正義を持つ役を背負ってハリウッドの最盛期を築き上げた超大物俳優であった。この時期には”MRアメリカ”と言われていた頃で、私の知る限り悪役の彼を観たことがなく、個人的な考えでも「アメリカは世界の警察」の国民的思想に共鳴し、数多くの第2次大戦の戦争物にも出演していた。日本との戦いに苦戦しながらも圧倒的な武力で勝利した「硫黄島の砂」「コレヒド―ル戦記」などがあり、近年のクリント・イーストウッドの[硫黄島からの手紙」とは対照的であった。

老朗好日6-1

▼J・ウェインといえば西部劇、無声時代から数えると100本(ある映画雑誌にそう書いてあった)はあるだろうか。1939年製作の「駅馬車」で監督J・フォードに見い出された。この作品でライフルを片手に駅馬車を停める為、颯爽とした姿で現れるシーンは今思い出しても何とも言えぬカッコ良さでそして若かった。彼は拳銃よりライフル銃を持つ姿がよく似合う、「リオ・ブラボー」がその典型。J・フォードとのコンビでの”騎兵隊ものでは「黄色いリボン」のテーマ曲がヒット「あの娘の黄色いリボン誰に見しょとの髪飾り・・・イエロリー・イエロリー」と、久慈あさみのレコードがヒットしていた。レコードのついでに言うと「リオ・ブラボー」の中でディーン・マーチンがギター片手に歌う「ライフルと愛馬」のシーンではJ.・ウェインがいかにも楽しそうな顔で聴いていた場面はあまり笑わない彼としては珍しいシーンだった。開拓史以来の”正義のアメリカ人”を演じたら彼以外は居ないと全米人からそう思われていた俳優で「それが自分にとって最高の名誉だ」と淀長さんとの対談で語っていた。最後まで{正義の味方}を演じたあの体躯は193cmの長身といわれていたが、実は170数cmだったの説が在る。大きく見せる為セットの天井を低くしたり、持たせた拳銃、ライフルなどは小さめに作らせていたとの話を雑誌で読んだことがある。真偽のほどは?疑わしきは罰せずか、冗談として面白く受け止めるか。

▼彼が出ていた異色の西部劇と言えばJ・フォード監督の「リバティバランスを討た男」で、いきなりJ・ウェイン扮する男の葬儀から始まる。どちらかと言えば主演は弁護士役のジェームズ・スチュアートの方だったが、親友ランス(J・スチュアート)の陰の力になりランスの為に悪人を陰から射ち倒し、ランスが射ち倒したように彼を街の英雄にするストリーだったと思う。銃が正義の時代から法秩序の時代へと移り変わる。監督のJ・フォードはこの舞台の時代で、西部のドンパチは終わったと悟ったか、以後西部劇には手を出していないようだ。黒澤明と三船敏郎のコンビと同じ様に、J・フォードとJ・ウェインのコンビは自然消滅し、この2人のコンビは以後無い。J・ウェインの死から始まるこの映画、観終って活劇としての西部劇の終焉を強く感じた。後年、ポール・ニューマンの「明日に向かって撃て」をみて西部劇の流れの変わりようを感じたものだ。しかし米国では今だに銃の所持を認める現実があり、各地で乱射事件が発生している。ジョン・フォードの思いは未だに遠い。

老朗好日6-2

▼詩情豊かに西部を描いた騎兵隊ものはともかく、彼の「赤い河」「リオ・ブラボー」はこれぞウエスタンの極致とばかり、観る者を魅了する快適西部劇だろう。「赤い河」の共演者モンゴメリー・クリフト、「リオ・ブラボー」のディーン・マーチン等脇役も素晴らしく、ウェインのライフル銃の手捌きに圧倒される。[リオ・・・」で「ヘイ!チャンス」と相棒のリッキー・ネルソンが声を掛けながらチャンス(J・ウェイン)にライフルを投げ渡し、それを見事に受け取り相手の4人を討ち倒すシーンは西部劇の正に醍醐味、監督ハワード・ホークスの見事な演出だった。「史上最大の作戦」での戦闘服は似合わず、彼はやっぱりカウボーイハットと首に巻いたスカーフ、Gパン風の細見のズボン、やや下目に下げたガンベルト、右手に持つライフル、これが彼のBESTスタイルだろうか。いつもお馴染みの共演者も懐かしい。ワード・ポンド、ベン・ジョンソン(・・・彼は西部劇出演者の中での乘馬術のNO1と言われていた・・・)ジョン・ドルー、モーリン・オハラなど懐かしい名が思い浮かばれる。

▼J・ウェインは1954年にガンで亡くなった。「「征服者」の数週間のロケで訪れたネバダの砂漠、ここは900数回の核実験が数年にわたり行われていた砂漠で。その風下600キロの地点でのロケで、共演の女優スーザン・ヘイワードもガンで亡くなり、その後もあのスティーブ・マックイーン、ロバート・テイラー、ゲイリー・クーパー、ヘンリー・フォンダなども十数年後に各処のガンで逝去、「征服者」の監督も然り。ノンフィクション作家の広瀬 隆が書いた「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」の本にも色々書いてあり、彼らは何れも被爆者であると書き、興味ある内容で諸兄にも一読を勧めたい。スタジオのセット撮影にもこの砂が現地から大量に持ち込まれ、使用後はハリウッドの何処かに撒き捨てられたとも書いてあったと思う。事実療養中に2人の大統領(カーターとレーガン)が見舞いに行ったのも異例であり、それはMr.アメリカの偉大さへの表敬の表れか、それとも偉大なMr.アメリカに対しての核実験への”詫び”の見舞いだったのか、私にとって未だに謎である。

燦笑繁話33 [ 寛 解 ] とは 21期 細田武 2020年1月投稿


[ 寛 解 ] とは

実は👹鬼の霍乱😅。区役所の定期検診で受診の結果、院長より紹介状を出すから直ぐ受診せよとのご宣託。

ときは三社の祭の真っ最中❗。無理を承知で来週に延期願い、地域の永寿病院の血液内科の💁受け付けへ。採血、骨髄液の摘出、検尿等一応の検査。翌週担当医の宣告は  [ 骨髄異形性症候群 ] という難病の一歩手前でした。

家内、長男もこの歳まで怪我や小さな病気はしたけど今回は始めて聞く病名❗ とチョッと不安でした。しかし現代の医学の進化を確信して闘病しようと家族で約束し、主治医に全般の信頼を預けました。

元々、軽いCOPDの加療は受けていましたが🚚配達のあと息苦しさを感じていました。これも高齢故、歳だね😁位に思っていました。今回の検査で赤血球・白血球・ヘモグロビン、血小板等の減少、自分の造血量の少なさが発見され、その改善のために(  ビザーダ  療法  )を選択しました。

1クール7日間ピザーダを腹部への皮下注射を。3週間空けてまた7日間。これを4クール続け9月半ばに退院。これからは週5回外来治療です。♿🏥入院中は注射以外やることなく運動不足、食事の不満、ストレスの溜まりぱなしで、家内への電話もままならずかなりの落ち込みでした。併し、多くの人の励ましや時には強い言葉の叱咤に、ふと我に返り、強く生き還る、そんな感じを持った自分を恥ながら明るさをもち始めました。

現在数多くの患者さんが同じ療法で[寛解]しているようですが何故(完治)とか(治癒)とか言わないで( 寛解)なのか?

ウイキペヂアによると(寛解) とは治療中でいつまた加療するか、再発するか判断に及ばない病状を言うようです。

医学的な言語は兎に角🏠自宅と、喧嘩しながらの家内と二人の食事、つまらない会話、それが一番の💊薬です。今は🏈ラグビー全盛の毎日( 9月29日現在)  日本が世界ランク1位のアイルランドを撃破しました。

会友の高野君も奥様の♿🏥入院や自分の白内障のオペとか、みんなそれなりの病歴を持つ歳なんですね🙆

燦笑繁話  書ける😃💕幸せ   😆💕✨ありがとう。生還しました。


添付写真   「病室からの落日」です。我が家の方向を見ながら🍀

老朗好日-第五回- 私の中の名画と名優たち(その4) ゲイリー・クーパー & 3人の美女 21期 髙野 昇 2020年1月投稿

老朗好日5

第五回
私の中の名画と
名優たち(その4)
ゲイリー・クーパー
&3人の美女


▼ゲイリー・クーパーなど六十歳代前の人は殆ど知らないはず。私達の若い頃の米映画のヒーローは、戦後上映された西部劇で言えばこのG・クーパーとJ・ウエインであった。やたらに背が高く、そのせいか少し腰を曲げ前屈みで歩く、驚いたことに彼は1901年(明治34年)生まれで私の父と同じ歳だったのには当時としてはかなりのショックだった。「真昼の決闘」で若きグレイ・スケリー(のちにモナコ王妃となる)と結婚する保安官を演じた時は50歳を過ぎていた。腰が少し曲がったG・クーパーのイメージはこの映画で納得?した。が、事実は彼が無声映画のエキストラ時代の西部劇で馬に乗るシーンでの撮影時に、馬に跨る時に右足が馬の臀部に引っ掛かり(背が高く足が長いせいか)落馬し転倒、それが原因で腰を痛め、以後前屈姿勢で歩く様になったとか。この話はあの”小森のおばちゃま”がある映画雑誌のファンの集いの際に何処かのホールで私は直接に聴いた話である。しかしあの日の”おばちゃま”のあの話しぶりからして真偽のほどは疑わしい。

老朗好日5-1

▼画家を目指していた若い頃に、エキストラから出世して無声映画に多数出演、数え切れぬほどの映画には出ていたものの、俗にいう””大根””だったらしい。少しずつ認められたのがマレーネ・デイトリッヒとの「モロッコ(1930年)」。無声映画ではあったが日本で初めて台詞のスーパーが画面に表示された記念すべき映画で、私は何時だったか池袋の”人生座”で観た。以後大手映画会社との専属が續き「あの男は、後ろ向きで立っているだけでファンを掴む」とは言われながらも””大根””の汚名は払拭できないまま。実存の第一次大戦のヒーローを演じた「ヨーク軍曹」でついにアカデミー賞のオスカーを獲る。故荻昌弘氏(評論家)の文では、その後「風邪と共に去りぬ」や「駅馬車」の主役に抜擢する話もあったとか。実現していたらその後のクラーク・ゲーブルやジョン・ウェインの存在は無かったかもしれない。

▼「ヨーク軍曹/1941年作」は兄に連れられて観に行き、田舎者の銃狩猟が得意の若者7人がドイツ軍の30人を捕虜にするストーリーで銃身の先に唾を付けながらの銃撃シーンが面白かった思い出がある。あの美女イングリット・バーグマンとの「誰がた為に鐘は鳴る」は原作者のヘミングウェイの指名で主演、スペイン内乱の事など知らぬままに観て、以後この映画のお陰でスペインの多難な歴史を知った次第である。私が映画から歴史的なものを学ぶ事が多いのは、戦後のGHQの教育方針で歴史の勉強を一切受けていない年齢で、日本映画もチャンバラはご法度、赤穂浪士や家康、秀吉、信長などは映画からと疎開先の伯母宅にあった古い「立川文庫」からの知識で育った。横道に逸れたがG・クーパ―とバーグマンとのラブシーンはバーグマンのすき透る蝋の様な肌と誠実な闘士の演技が冴えていてクーパー映画の中では良かった方だったと思う。「誰が為に…」での色のきれいさは正に”総天然色”の映画があの時代に当たり前に製作されていたアメリカの技術、文化、進展には「風と共に…」の火災シーンの豪快、猛烈な画面と共にただただ圧倒された。ハンサムで人気を長く持ちつづければ映画会社としては美人で人気のある女優と組ませるのはセオリー、バーグマンを始めヘップバーン、グレース・ケリーなど、西部劇では絶対と言っていいほど美女は登場しない。その点、ジョン・ウェインには気の毒だったかも(笑)

老朗好日5-2

▼一番印象に残っているのが「真昼の決闘」か。彼には数多くの西部ものがあるが、この映画は時間経過と共にほぼ同時進行するという今までにはない展開だった。かつて逮捕した男が刑期を終え復讐に来るストーリー、街のかつての協力者も恐れに耐えられず協力を拒否し、一人孤独な保安官として闘う役を演じた。彼の結婚式の日でもあった。婚約者をやったのがグレース・ケリーで彼女も事の顛末の恐怖で困憊の中、一発の銃声で気をとり直したが人質となる。相手を倒し町民の見守る中を見向きもせず馬車で立ち去るラストシーンだった。この時彼は51歳、その後のヘップバーンとの「昼下がりの情事」では56歳、いつの時代も色男は持てたんだの証明だ。主題歌の「ハイヌーン」はテックス・リッターの歌と共に大ヒットした。主題歌の存在は映画にとって大事なのを教えて貰った映画である。「シェーン」「OK牧場の決闘」しかり。「昼下がりの情事」では女たらしのドンファンを演じ、ラストの列車での別れのシーンは印象に残る。この映画にフランスのシャンソン歌手のモーリス・シュバリエが父親役で出ていたと思う。ラストで列車での別れのシーンは他にもキャサリン・へップバーンの「旅情」やジェニハー・ジョーンズの「終着駅」のラストシーンにもあり、別れの切なさによくつかわれていた。

▼ハリウッド華やかな時代も1936年~1957年あたりまでだったが、J・ウェインと共にアメリカを代表する良きスターであった。他に私の観た彼の「打撃王」はNYヤンキースの強打者ゲーリックの物語で小児麻痺で引退をする、その背番号4は欠番となり以後日米球界での初の欠番となった。ちなみに日本では澤村栄治の14番が初欠番であった。この映画でベーブ・ルースが出ていたのを憶えている。いずれの古い映画は殆ど”人生座”で観たものである。それにしてもG・クーパーはハリウッドスターの貫禄と実力と人気を全て手にして、バーグマンを始めへップバーン、グレース・ケリ―など銀幕のヒロインを相手に幸せな役どころをこなした忘れられない大スターであった。

▼余談…前期の「終着駅」の終着駅と言う言葉はこの題名から言われ出したもので、それまでは終点駅などと言われており、今は当たり前に終着駅と言われている。かなり以前に付き合いの古い”鉄ちゃん”仲間から教えて貰ったもの。


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