会員皆様の投稿記事

燦笑繁話12 「浅草   酉の市と 樋口一葉」      21期 細田武  2017年12月投稿

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今年の酉の市は  三ノ酉  まである。三ノ酉の暮れは火事が多いと言う謂れがあるが、猟奇的な事件や、トランプ♥何とか大統領が来日とか各地に地震大雨の気候の悪戯による慌ただしい冬至に近い霜月です。埼玉の鷲宮・足立の花畑・新宿の花園等関東に多くある[ 鷲神社]うち明治以降、浅草千束田圃の鷲の寺社が富に有名になった。

元来奈良時代以降、神仏混合の習わしがあったが明治以後神仏分離の命により寺社の変革がありました。今、浅草は  ( 法華宗の長国寺 )の酉の寺と、いわゆる  ( お酉さま ) といわれる鷲神社の二社によって11月の酉の日に大勢の参詣客でにぎわっています。

戦前戦後を通じて日本人の信仰心は良しにつけ悪しきにつけ大変な物があるようです。場所柄といえば直ぐ裏イヤ表かな ? 大きな歓楽街を控え、遊ぶことには困りません。目的は兎も角  [  熊手・かっこめ ]を求め、添付の浮世絵にもある八つ頭や切り山椒をぶら下げ花街へ繰り出すのが当たり前の絵面です。

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本年は酉の年なので特別限定で1体¥3,000 の勝幟守りが出るそうです    ところで、この酉の市の千束田圃の直ぐ裏に竜泉寺があり、あの吉原遊郭の賑わいが背中に聞こえる所に明治の女流作家 [  樋口一葉  ] が短い間ですが  「お歯黒どぶ 」の前の茶屋町通りで生活のため荒物屋を開いていたようです。たまたまですが5000円札の肖像になった今  このお札があれば❗      でも無かったから数多くの名著が生まれたのかな⁉   彼女は15、6歳から小礫川安藤坂の( 萩の舎 )で中島歌子に師事し可なりの力量と認められていたようです。後に新聞記者の半井桃水の比護をうけ、作品の向上と後に恋愛感情を持つまでの事情は台東区立一葉記念館 等の史料で理解しました。

竜泉寺から本郷菊坂の鐙坂のそば、旧居の下の手押しの井戸、着物を持って通った質屋さん、文京区の保護で残り地域コミュニティの散歩で会員を連れあの辺りの雰囲気を楽しんだことも有ります。

樋口一葉の作品のよさは言うに及びません。 [ 第一作の闇夜・十三夜・にごりえ・たけくらべ・大つごもり・わかれみち・絶筆のそれから] まで皆読んだわ❗近くに住んで80余年  あの(美登里)の願掛けをした太郎稲荷から50メートルの庵に棲む変なおじさんです。

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燦笑繁話11 「[ 運慶 ] が 平成の上野へ来た」      21期 細田武  2017年11月投稿

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10年程前  奈良は興福寺の国宝館で運慶作   阿弥陀如来像、阿修羅を含む八部衆像と( 北円堂 )の弥勒如来坐像、無著菩薩立像・世親菩薩立像ほか四天王立像を観る機会を家内と共に得ました。

1年建歴2年 1213年の頃運慶をはじめとする運派の子 師弟等が造ったものだそうです。その弥勒如来は今回は来ていません。またその傍の( 南円堂 )の木造不空羂索観音菩薩[  運慶の父 慶運作 ]  と言われる像も観ることが出来ました。

今回、上野国立博物館に日本中からの作品がメインスタジアムでの決勝戦に集まり、メジャーリーグ並みの豪華さを競っています。

栃木光得寺の小さいけれど重厚な厨子入りの大日如来坐像、神奈川光明院の鎌倉将軍家の為の大威徳明王坐像、満願寺の観音菩薩・地蔵菩薩立像、鎌倉浄楽寺のちょっと大きな阿弥陀如来坐像及び両脇侍立・深紅の光背の不動明王・毘沙門天立像、  願成就院の筋骨みなぎる毘沙門天、愛知瀧山寺の彩色見事な聖観音菩薩立像、奈良興福寺の平家の焼き討ちに逢い頭部だけ残った佛頭、東大寺の宝筺印陀羅尼経( 金剛力士立像納入品  )、円成寺の台座に署名がある大日如来坐像、京都高山寺の快慶作と謂われる撫でてみたくなる[  狗児像・子犬  ]  も 和歌山金剛峯寺のみんな素敵な面構えの童子らしい八大童子像、東京国立博物館、静嘉堂所蔵の十二将神立像、運慶の作と謂われる33体のうち22体が来ているそうです。

また康弁作  天燈鬼立像、湛慶作千手観音菩薩坐像光背三十三身像のうち三体(  京都妙法院蔵  )もありました。彫塑の細かいことはよく知りません。解説やガイドにより多少理解しつつの観賞です。例えば[ 目・眼  ] ひとつとっても生きている目、輝く目、瞼の閉じ方、眼球の使い方で大きく変化するのです。運慶は玉眼を使用することで仏像に生命のイキイキとした空気を、並びに生命を与えたようです。コンタクトレンズのように水晶や輝石をはめ込み綿で抑え板目の違う木片を横向きに抑え、裏から竹串等で封じたようです。仏像は皆表情が違い、各々を使い分け( 彫眼 )の北円堂の弥勒如来は今回は出展されていない。

また頭髪や腰に纏われる様々な布の多様な流れの繊細、克つ大胆な構図は仏像の体形等を想像させるに余りある造作です。一方 慶派の作品の大胆な表現に手足の筋骨のリアルさに驚く。現代のスポーツ選手もここまでのトレーニングで出来る筋があるだろうか?と思わせる。

多く書きなぐりましたがこのチャンスに見逃すことは??と10月3日( 火 )  朝1で 電動チャリで鶯谷の坂を一漕ぎ、前売り券の効果あり  並ばず直入場  当日券売場長蛇の列  30分待ちとか   テントの中の男性ガイド役人ポイ案内何時ものようです。館内は余裕の観賞でした。図録を   と思いましたが¥3、000とべら高  たまたま(  日本の国宝  )が週刊で出たので我慢するか       (>_<)

追伸   10月7日 高野君から今晩

NHK・BSで2時間 運慶があるよの℡   ジックリ拝見  勉強しました

持つべきものは   「  お と も だ ち 」有り難う❗

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燦商閑話(さんしょうかんわ) -第13回-       21期 高野 昇  2017年11月投稿

三十六年前にJR駅の同姓駅を訪問

▼特別の鉄道ファン、鉄っちゃんではありません、乗ることと、列車、電車を見る、ただそれだけの男の子として子供の頃から変わらないそのままの続きです。かつて国鉄時代、「周遊券」という旅行を主とした、今でいうツアーの切符が販売されていました。規制プラン以外にも自分でルートを作り、指定の観光地周辺の二か所を通る国鉄、私鉄を利用であればOKでした。あちこちの山やハイキング、観光などによく利用したものです。当時、毎日新聞記者だった種村直樹氏が書いた「周遊券の旅」という文庫本がベストセラーになるほど「周遊券」は人気でした。時刻表を手元にいろいろとプランをたてるのが楽しみでした。その時刻表の末尾ページに国鉄の全駅の記載ページがあり、その中で自分の名字と同じ駅名があるのを知りました。自らの名字と同じ駅名、なかなかあるようで無いのです。私鉄やバス停などには有りますが。ところが有りました。同名の駅は岡山県の中国山脈に近い津山と鳥取を結ぶ「津山線」経由」の「因美線」にありました。それから間もなく仕事に関する「研究集会」がたまたま昭和54年の師走に岡山市で開催されたのを機に、思い切って訪ねることになりました。

▼集会終了後の翌朝、ホテルを早めに出て岡山駅から津山線の鈍行に乗車、どう見ても乗客は通勤、通学者のみ「このおじさん、何処へいくんか?」という話し声が聞こえてきそうな雰囲気の中1時間30分後に津山着、タイミングよく「因美線」に乗車でき10分で目的の「高野駅」に到着しました。降りてみればとくにどうという駅でもなく木造の駅舎、ホームが一本のいわゆる田舎の駅、鳥居の駅名表示が一個。鳥居とは駅名が書いてある白く塗った形が木製でその姿が鳥居に似ていることからです。駅そのものの善し悪しを調べに来たわけでもないのでこの風景、素朴さには納得。ホームの向こう側には鶏舎らしい青いトタン葺の長い建物、駅前には自転車が数十台、その先は麦畑が続いていました。駅員事務所にいた中年の駅員さんに声を掛け、事情を説明、「遠くからわざわざですか」と歓迎されました。持ってきた土産の浅草の「雷おこし」を差し上げると「東京に修学旅行に行った時、土産に買ってきたのがこの・雷おこし・だった」とお茶まで出してくれました。服務規定では駅務員以外は出入り禁止の駅務室の筈でしょうが、そこがローカル線のいいとこかと勝手に理解していました。カメラのシャッターをお願いし、鉄道仲間への土産、記念に高野駅の入場券、50枚の発券を頼みましたが「この駅に何年か常駐しているが入場券を販売した記憶がない30枚位しか駅の手持ちがない」ということで、結局全部買い漁ってきました。「手持ちが無くなったので早速、局に電話しなくちゃ」と笑い顔に屈託のない駅員さんでした。

▼帰りは「東津山」まで戻り、「姫新線」に乗り姫路へ、ここまで来たらと時間もあるしと「姫路城」を見学、夕焼けに映える白壁のきれいさにしばし見とれていたのを思いだしました。ところでこの津山周辺あたりは「美作」と書いてミマサカという土地です。あの剣豪「宮本武蔵」の生誕地です。この地から夢を抱いて戦国時代の足軽として西軍に入り、その後の艱難辛苦を経て剣を磨き数々の伝説とともに実存した人物でしたね。この近くを走る智頭急行という鉄道がありますが、なんとこの線には「宮本武蔵」という駅があります。個人の名をフルネームで駅名にしてあるのは珍しいのですが、しかし凄い駅名です。

燦笑繁話10 「浮き世絵の伊豆・箱根」          21期 細田武  2017年10月投稿

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夏の暑さに負けないようにと  8月27日  老体に鞭打ち  上野から直通の東海道ラインに乗り 小田原まで1時間30分 。駅前よりバスにて箱根駅伝の名所  (  小涌園前  )にて下車。すぐ前のあの[岡田美術館]聞くとこによると某遊具器具  「パチスロ等」? の大富豪が建てたとの噂。兎に角 山の中腹にあり建物の豪華さと庭が凄いらしい❗

そんなことはとも角、展示の作品が滅多にないらしい大作との情報で何か踊らせられたみたいな素人が  2800円の入館料をタッタ200円の割引券に引かれて  一度に100人は入れる足湯と、50メートル ×10メートルのガラス越しの風神・雷神の壁掛けの絵のある中庭を横目にチェックインしました。入り口で噂通りカメラ、タブレット、スマホ等全てバックごと100円ロッカーへ。空港並みのセキュリティゲートをくぐり抜けやっと展示場へ\(^o^)/   

重たい扉を開け第1室    当館独特の収蔵品  中国の俑をはじめ縄文期の騎馬像、景徳鎮窯の大皿類、土偶・埴輪の類いが所狭しとばかり陳列されている。続いて別室  宗達の明石図、一蝶の箍掛臼目切図、北斎、松園、暁斎、清方、深水、歌麿の小品等枚挙に暇もない程です。

海外へ流出して何年ぶりかの里帰り。さて、お目当ての歌麿の大作 [  雪・月・花  ]  日本へ凱旋展示です。かつて、喜多川歌麿が栃木の豪商・善野家から注文を受けて下野の地で描かれたものと記されている。歌麿は時に( 筆  綾丸  ふで誤まる)等と狂歌名を使ったとか?  後に蔦屋重三郎の力で多くの絵筆を振るったようです。さて、当館所蔵の[  深川の雪  ]  アメリカ、フリーア美術館所蔵の[  品川の月  ]  同じくアメリカ、アセーニアム美術館所蔵の[  吉原の花  ] この三作品の展示が各ミュウジアムの協力で公開される機会を逃したくなく来てしまいました。

只、(品川の月) だけはミュウジアムの都合で貸し出しが成らず、現代技術の進歩による特殊な複製ですが絹本の作品とけして見劣りしませんでした。いずれも3450× 195㎝ の大作です。

しかも、この絵には2枚の紙を貼り合わせただけと聞くと画材を集めるのに当時の地方としては大変なことだと思った。

この三作に書かれた人物は殆んど花魁、禿、芸者等みんな女性です。しかし、私は三作の全てにひとりの男子を見つけました。( 花 ) では紫の暖簾の下 赤い着物を着た丸坊主の児   ( 月  ) では黄表紙「本」を持って逃げる児、画面左上奥の障子の影の煙管を吸ってる男  、これは歌麿が自分で成り済ましたい姿かな  (  雪  ) では廊下左の内儀が抱く男の児  、自分なりの解釈ですが それは作品の細部にも隠し事があるようで( 花 )の新造の着物の紋が(三葉葵 )徳川の圧政に刃向かう様にに見えたり、二階座敷の床の間に英  一蝶の「 布袋に唐子」の額があり、(雪)の料理の皿の上には平目だか鰈が煮つけられ、寒さにも関わらず雀が戯れ、春近い雪を思わせる。( 月 ) の衝立の絵は狩野美信の雲龍図、と聞いた。

細かいことは これくらいに🙋   画かれた女性がみんな綺麗  どこも文句のつけようがない肉筆画の三作に圧倒されました。

庭が綺麗とありましたが、山道だけに登り下りの多いところ階段苦手の小生は遠慮がちに退館しました。

小涌園前から箱根湖畔の関所跡で昼食 バスにて熱海まで十国峠越え自分で運転の時は感じられなかったが スキーの直滑降みたいな急坂にびっくり\(^o^)/MOA美術館迄がまた直登   170円のスリルです。

7台のエスカレーターを乗り継ぎ 黄金の茶室を垣間見  能舞台をチョイ見して目的の葛飾北斎、東海道五十三の展示場へ。北斎の遠近法やデホルムされた画法が後に西洋の画家逹に大きな影響を与えたと聞くとその筆致に改めて堪能しました。

墨田区の北斎館でも見ましたが、特に照明等が優れているようで写真等も自由に撮れるMOA美術館の画期的な取り組みに感激しました。

隣のフロアーでは広重の小品が20点程あり、庭でお茶して熱海の海の青さを高き所から眺め、夕方5時の東海道アクテイで帰宅。

江戸時代から平成にリターンしました。 北のロケットも怖いが、歴史が変わるのも恐ろしいなー と思って寄稿しました。

燦笑繁話10③
燦笑繁話10②

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第12回-その3       21期 高野 昇  2017年10月投稿

「あの頃の・・・今は死語?」
     ◆「卓袱台」・・・ちゃぶだい◆

▼難しい読みで、これだけを書かれると難読。卓はテーブル、袱(ふ)は袱紗(ふくさ)などと書くときの一字で包むことの意があり茶道や慶事のとき、金品を包むときに使うアレである。卓袱台は昭和の家族団らんを象徴するシンボルで、盥(たらい)と共に各家庭には無くてはならぬ常備品の道具、家具であった。昭和35年頃からの公営、公団などの団地ブームなどで椅子式のダイニングテーブルが普及、使用頻度が壊滅的に減少した家具である。

▼全てが木犀で、それも「折り畳み式」で形も丸い物、長方形の物がある。少年時代のその頃の我が家は7人家族であったのでかなり大き目の長方形の卓袱台だった。座る位置(父以外)にとくに上下関係が無く卓袱台に来た者から順番に父寄りから着席、長方形の物はほぼ定員が限定されるが丸い物は小人数では余裕をもって座ることができる。映画「めし」(林芙美子原作、成瀬巳喜男監督。東宝)の場面が印象に残る。各自におかずを盛り分ける今風と違い少ないおかずを盛り分ける必要がない時代、表面積の広い卓はいらなかった。私は子供の頃からその卓袱台の”あし”の組み方、畳み方に興味があり昔日の職人のアイデアと技術は、今のこの時期に考えても素晴らしいものと感心してしまう。未使用時には畳んで壁か箪笥に立て掛けておき、使用時には2本一組の”あし”を開き仕込まれている楔(くさび)を起こし固定させる。長年の使用で緩くなっている楔には新聞紙を小さく折り畳んで楔に挟む。挟み方が緩るかったり悪いと卓袱台がユラユラとなり卓上の汁物などが零れてしまう、そんなことを子供が日常的にやっていた、いや、やらされていた。

▼「巨人の星」の飛雄馬の父が丸い卓袱台をひっくり返す場面が有名だが、映画や芝居では観たことはあるが身の周りでは見たことがない。そんなことをされたら後片付けが大変なことになってしまい食事にもありつけない。子供の個室や学習机などがない当たり前の時代、ましてや長屋住まいやら小さな戸建て住まいなら宿題や予習復習なんかはもっぱらこの卓袱台が机になる。兄妹3・4人で卓袱台を囲んで勉強する光景はむしろ当たり前の家庭風景であった。分からないことは卓袱台の向かい側か脇に居る兄や姉に聞けばいい。今でも孫たちは自分の部屋や机がありながらダイニングテーブルで宿題などやっており、昔も今も家族団らんの中心的な家具として名や姿、形が変わっても家庭の真ん中に鎮座する家具である。そして和室には不可欠、ここに置くのは卓袱台とは言わず「座卓」、折り畳みはできないが我が家の八畳間の真ん中に欅作りの座卓が主面(あるじずら)をして鎮座している。

▼戦時中の終戦間際に学童疎開先(山形県)から縁故疎開に疎開先を変え、千葉県銚子近くの伯母の家に半年間、一人家族と離れ世話になっていた。伯母家族は手広く養豚業を営み就業者は全員がゴム長靴で昼食時には台所に隣接する土間で長い食卓を囲んでの食事だった。食事の度に長靴を脱ぐことも無く当時としては子供の目には少し変わった情景であったが、かなりの大人数のせいもあり、あの時代のテーブル・椅子式は機能的で画期的であった。但し椅子はベンチ式だった。キッチンと食事する部屋を一つにしたダイニングキッチンなる言葉とともに卓袱台の姿と影も薄れ、あのなんとも言えぬ昭和の家族風景も記憶から遠くなりつつある。

燦笑繁話9 [ 腹ペコの譜  ]  集団疎開の想い出      21期 細田武  2017年9月投稿

燦笑繁話9①

今日は原爆忌( 8月6日廣島)です。

👨昭和20年 8月15日  埼玉は大井町(今ふじみ野市)の農家の庭先へ集められ、ある放送を聞かされました。それまで皇国の一戦ここにあり、鬼畜壊滅  欲しがりません勝つまでは😭🔥一億火の玉と言われて育てられた小学4年生には何がなんだかわからない放送でした。

父は昭和8年から入谷で酒店を経営していました。16年に大東亜戦争が始まり19年初頭に38歳で召集され津田沼の鉄道隊へ入営しました。後に中支(  今の瀋陽 辺り ) で当時の満州鉄道の工作にあたったみたいです。そんな中、昭和20年3月9日 の東京大空襲でわが家を焼かれ、母と2人の妹は店のこともあったが身辺の安全のため前記の大井町へ縁故疎開をしていました。少しの家財道具を大八車に積み叔父に依頼して運んだと後で聞き及びました。小生は19年8月、3年生で両親から離れて、在学していた下谷区立大正国民学校の170名程の生徒と一緒に、男子生徒は福島県耶麻郡喜多方町の駅前の商人旅籠の「小柳旅館」へ。

滝沢栄子先生と寮母さんの村井さんと3~6年の男子だけの生活が始まりました。岩崎先生( 後に進学した区立大正中校長)を校長代理に先生逹と上野駅を町内や家族や大勢の人の旗や歓呼の声に送られて夜の汽車に乗った記憶だけが今も強烈に残っています。後でわかったのですが女子は東山温泉のでかい温泉のある旅館に行ったと聞きました。これが後々 [ ノミと虱  ]の戦いの大きな差になったようです。

疎開先の喜多方小学校への通学は各宿から集団で行きます。最初は地元の子逹とは仲良くやっていたようです。でもそれも長くなく矢張りいま言うところの苛めがあった様ですが自分はあまり感じないくらい幼かったと思います。一番困った事は数々あるなかで食べるものが無かったことです。日本中そうだったのかも? 今思えば分かります。でも育ち盛りの学童には耐えがたいものがありました。

紫色の桑の実を盗み食いし、駅の倉庫の脱脂大豆を貰い、囲炉裏で焼いて食べて、翌日汚い話だが一斉に下痢に悩まされました。米のご飯は10月位まで、大根が、玉蜀黍が、干しうどんが、さつま芋が、あらゆるものが米の量増やしのために入っていました。そののちは副材に米が付いている状況になりました。すぐ裏の川で泳いだり、近くの山へもいきました。雪は少ない冬だった様ですが小生の右の小指が氷瘡に架かり、爪が真黄色に変色しポロット抜けました今でもその爪は変型したまま集団疎開の証として残っています。駅裏に昭和電工がありましたが敵機の飛来は殆んど無かったようです。

そんな中で2月 に6年生が卒業のため帰京しましたが3月9日の空襲で小さい命を落とした生徒もいたようです。後に卒業式が出来なかった生徒のために小学校70周年記念式典の中で卒業証書の授与を行い、感激をした先輩の姿に当時同窓会副会長だった小生も感無量でした。

20年の6月、叔父に連れられ埼玉の母逹のいる親戚の鶏小屋を改造した家へ🙇   喜多方から郡山で乗り換え   駅の階段の手摺と屋根が無かったことが今も眼に浮かぶ光景だ。

大井町の大井小学校では4年から編入「東京人」と言われ 結構皆と仲良くされ、一昨年前の傘寿の会にも声がけをされ、出席しています。大正小学校へは戦災に遇わなかった母校に5年生の10月に復学し、喜多方へは(大人の休日クラブ)へ入会以来、3割安なので2回程旅行し、今は大きく変わった駅前や有名なラーメンを食べに行きました。

81年生きてきた中のタッタ1年間ですが、凄く長い、印象に残る記憶が強烈な1年でした。戦後71年 三商の歴史にチョッと足りないが、こんな卒業生がひとり居てもいいかな❗ と🙇

とりとめ無く、文脈も悪い拙文  ヨロシク😃✌    細田武です。

燦笑繁話9②

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第12回-その2       21期 高野 昇  2017年9月投稿

燦商閑話12②

「あの頃の・・・今は死語?」
  ◆「氷冷蔵庫」・・・こおりれいぞうこ◆

 ▼電気冷蔵庫が普及しだしたのは昭和30年代後半か。それまでは各家庭には、とはいかないが「氷冷蔵庫」があった。家庭用は冷蔵庫の中に一貫目(3,75kg)の氷、大き目の冷蔵庫には二貫目の氷を入れ下に落ちる冷気で食品の痛みや腐敗を抑える厚い木材で出来た箱(庫)である。今のように食品を冷やす、冷凍する機能とはほど遠く、ただ食品を日保ちさせるだけの代物であった。発泡スチロールのボックスに氷や保冷剤を入れて物を保存する今のやり方の方が圧倒的に優れている。

氷は溶けるもの、利用頻度の高い夏などは「氷屋さん」が自転車に繋いだリヤカー(これ自体死語かも)に大きな氷を積んでお得意さんの家に配達に来る。目の粗い専用の鋸でガリガリと氷を切り、これもまた専用の独特なハサミでぶら下げて持ちお得意さんに配達する。このガリガリの音がなんとも言えぬ涼しさを誘い、リヤカーに残った雪のような削り屑を子供たちが寄ってたかって我先に手で掬って口にする。経験からいえばそのスリルと冷たい感触、うまさは子供だけが分かるものであった。それにしてもあの氷を切るガリガリと、氷屋さんのリヤカーの姿は昭和の懐かしい音と風景である。

冷蔵庫の中は断熱材のコルクを張り巡らし、それをブリキ板(トタン)で覆いゴムパッキングのついた木の扉が付いている。扉の把手だけがやたらメッキのきいたピカピカの金具が少しだけ高級感を表している。解けた氷は庫内のパイプで外に排水、肉屋さんにあった大きな冷蔵庫、あれは”電気式”だったのだろうか。冷凍品や真空パックなど無い時代、毎日の食べ物は毎日の様に近所の店に買い物に行く、だからとくに冷蔵庫など必需品ではなく、ましてや庶民にとっては高嶺(高値)の花で西瓜やビールなどは「たらい」かバケツに水を張り冷やしており、今の様に冷え冷えのビールをグビグビと、というわけにはいかなかったはず。

現在は真空パックが普及しプラスチックやポリエチレンによる包装が当たり前でそのまま冷蔵庫にポン、事後の使い勝手がいいのは事実だが全てがそれで”良し”とするのに少し抵抗があるのは歳のせいか。神武景気の到来と共に戦後の三種の神器と言われたテレビ、電気洗濯機そして電気冷蔵庫の急スピードの普及で「氷冷蔵庫」はその姿を静かに消えていった。

ご紹介します。(24期 鈴木鋭夫 様)        24期 尾坂 富美子  2017年8月投稿

 下駄を履く事も少なくなった今日ですが、「暮らしの手帳 88号 6-7月号」に下駄屋の仕事として24期鈴木鋭夫さんが掲載されました。門前仲町交差点近くの鈴木履物店3代目として活躍なさっています。とても素敵な文と写真が掲載されていますので、お目にとまればいいなぁと思います。
 お店も覗いてみて下さい。履物の事なら親身に相談にのってくれますよ。

ご紹介します① 24期尾坂富美子
ご紹介します② 24期尾坂富美子

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第12回-その1       21期 高野 昇  2017年8月投稿

燦商閑話12①

「あの頃の・・・今は死語?」◆「盥」・・・たらい◆

▼「たらい」なんて言葉も文字も知らない人が多いのは時代の流れで止む負えない。「たらい」の語源は”手洗い”からきていると中学時代の先生から聞いたことがある。かつてはどこの家庭にも必ず有った常備品で、これが無ければ洗濯ができない。洗濯板とのコンビで存在し、洗濯以外にも使用範囲が広く、泥付きの大根や牛蒡などの野菜を洗うには便利、夏は行水や西瓜を冷やしたりと便利に使われていた。夜店で掬った金魚の一晩の宿になったりした。

素材は杉か椹(さわら)の木を丸く組み、底板を付け組み上げる。組み崩れがないように周りに竹か太い針金を縄状に編み、これを箍(たが)と言う。高級な箍は赤(銅)が使われていた。丸く組み立てるにはかなりの技術が求められ、その職人の仕事場には30丁くらいの数々の鉋(かんな)が有った。そんな職人が大は風呂桶から小は手桶まで作るのはまさに「日本の伝統技術」である。我が家にその「たらい」が存在する。この時代、使用はしていないが結婚した50数年前にカミさんが嫁入り道具の一つとして持ってきた代物で、当時は箪笥、鏡台などと並んで嫁入り道具の一角をなしていた。我が家ではさすが現役は引退しているものの、処分するには忍び難く二階の納戸に隠居している。直径50センチ、高さ28センチくらいで箍は赤、乾燥して干割れしてしまう、つまり乾燥してバラバラになってしまうので時折持ち出して水を張り一週間ほど外に放置、以後は荷作り用のラップをぐるぐる撒いて納戸へ。この「たらい」で長男の「おむつ」や諸々の衣類を安アパートの共同水場で洗っていたカミさんの立ち居振舞いが懐かしい。その長男が2歳の時に念願の公団住宅(現UR都市機構)に入居でき、それまで我慢して買い控えていた二層式電気洗濯機を購入したが「盥」は処分しなかった。

「たらい」を小さくした物に台所で使われた「桶」、食器などを洗ったり、その上に俎板(まないた)を載せて包丁を使う洗い桶、チラシ寿司などに使った飯台、風呂には不可欠な手桶、かつて「釣瓶井戸」では「桶」で井戸水を汲み上げていた。銭湯では綺麗に磨きあげた「風呂桶」。今はあらゆる物がプラスチックになり「木桶」の出番はほぼ皆無、20年近く前、初孫が夏休みに泊まりに来た時、庭で行水がてら水遊びをさせたのが隠居中の「たらい」の最後のご奉公だった。カミさんは今は「洗濯は私がやるんじゃなく洗濯機がやってくれる」と時代の変化と進展に感謝しつつ、せっせと好みの安い洗剤を買い回っているこの頃である。

三商野球部 夏の高校野球 予選第1回戦                2017年7月投稿

三商野球部     9人で  30年来の勝ち名乗り💐

9人で勝つ 💪🏆 ネットで見てウソーー
        7月10日   小平の明大球場

87年三商が勝った羽田工と羽田高の統合された(  つばさ総合高  )との因縁試合。試合結果は[  5ー2  ] で勝利報道では主将の神尾君が顔面死球を受けながら本塁を死守、高橋投手の4安打好投をホローし30年振りの勝利に貢献。本年就任の清水監督に初の笑顔☺をプレゼントした。我々の昭和27ー29年は野球部に同級生の今ユニデン株式会社社長の[  藤本 秀朗君  ]がサードを守り、埃だらけになって継ぎ接ぎだらけの硬球を追っていました。小生は同じグランドで吉住晋作陸上競技部の親父の腰巾着みたいにマネージャーをしていました。

往時は宇梶公平先生のバレー部が都代表でインターハイや国体に出場していました。出町さんは後に全日本のメンバーにもなり大活躍記憶に間違いがなければ宮脇先生がレスリングの指導にあたられ、本校から多くのレスラーを輩出し後に東京都立商科短期大学学長を歴任されたと聞き及びました。そんな60年前の年寄りに🎵😍🎵うれしい便り

2回戦から女子マネージャーを急遽ベンチ入りさせろ❗

応援団の派遣   90周年記念のイベントにもなり  会長 宜しくお願いします  21期  の  細田です。  

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都予選に三商1回戦突破!昨日ネットで見てビックリ仰天、正直信じられません。おまけに部員9人で顔面死球にもめげずに頑張った神尾君、完投の高橋君、他の7名、君達の奮闘の精神に感無量です。今朝の「朝日」の関東全国版には神尾君のファイト溢れる写真まで。ネットにも掲載されています。90周年記念にふさわしいできごとで、「三商は小粒でピリッと辛い」とわたしたちの頃言われていた言葉、そのまま。2回戦の奮闘を願ってます。

21期 高野 昇

燦笑繁話8 入谷朝顔祭り 蘊蓄             21期 細田武  2017年7月投稿

燦笑繁話8①

此処に1冊のとある商店街の小冊子がある。昭和54年3月発刊の[  入谷朝顔市と共に  ] という、今は解散した入谷中央商店街振興組合の創立60周年記念誌です。

       #  入谷から  出る蕣の  車かな  子規

                    #   朝顔に  釣瓶とられて  もらい水   千代女

そうそう  男子の立小便用の  便器も  朝顔と言われたが今はないよね。

物の本によると( 蕣 ) ( 朝顔 )( 牽牛花 )いずれも[  あさがお  ] と読むらしく、それぞれに諸説あるようですね。万葉集にも詠まれています。

槿や夕顔等も朝顔のようですね。元々この種の原産地は南、特にインド、ネパール地方から中国を経過し、特に薬用としてその効用が認められて栽培され、後に薬草園等の花が観賞ようになり、庶民の手頃な花になったようです。併しそこまでいくのにはかなりの時間がかかった様です。第1期の流行は文化・文政の頃、三色の他の色、形も出てきたようです。第2期は嘉永・安政時代に熱狂的な栽培が始まりここいらで(  入谷  ) の名が出てきたようです。第3期の流行は維新の乱の治まった明治の仲程ほどのようです。全国的に朝顔会が出来始め、入谷の植木屋・成田屋留次郎を中心に花合わせの会が開かれ江戸に集中的に市や愛好家が集い始めました。

入谷は上野の台地の裾にあり、池や田圃に囲まれた土地です。

古老の話だと落ちぶれた武家が手慰みで始めた植木が最初みたいだと聞き及んだことがあります。戦前の朝顔市は鬼子母神の真源寺さんを中心に前出の商店街、商店主等の甚大な努力と協力を基に観光資源として大いに盛り上がりました。

戦後、昭和22年各商店街の呼び掛けで復活に乗りだし区役所等の理解のもと観光連盟等を発足させて徐々に盛り上げを図りました。その結果現在は3日間で60万人程を越える朝顔を求める人が言問通りをうめつくします。小冊子の中にその間の筆舌に尽くせぬご苦労が多々あったことは40年を過ぎたいま紙上から読み取れます。

今年も  7月6( 木 )・7(金 )・8(土 )  の3日間開催されます。

   ついでに、9日, 10日 の2日間  浅草寺境内で4万6千日 この日参詣すると46000日のご利益があるという[  鬼灯市  ほおずき市  ]が開かれます。 下谷・入谷の住人  細田  武です。

燦笑繁話8②
燦笑繁話8③

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第11回-その2       21期 高野 昇  2017年7月投稿

東京球場2

儚く消えたあの「東京スタジアム」

▼ホームラン量産球場の汚名を返上したのが昭和38年秋、「世紀の大トレード」といわれた山内一弘と阪神の小山正明投手との交換トレードです。阪神時代から「針の穴を通す」と評されたコントロールと新兵器のパームボール(ボールに手の平をあて指3本をボールに掛けないで投げる)を駆使し、相手チームのホームランを激減させ、ファンを喜ばせていました。しかし永田ラッパやチームがいくらがんばっても相変わらず人気はセ・リーグには敵わず、昭和46年度の観客動員数が1試合5000人くらいに留まり42年のVS近鉄戦・Wヘッダーでは観客が200人だったと記されており、戦後のプロ野球公式戦の最低記録と添書されています。

昭和45年にはリーグ優勝はしたものの巨人とのシリーズに惨敗、球場維持には何よりも観客動員数が課題、昭和46年の公式戦をもって球場は11年の幕を閉じました。球団はロッテが買収することになりました。

 ▼映画界の覇権をとる、ダービー馬と球団のオーナーになる、この三つが永田の夢でしたが、ダービー馬トキノミノルが昭和26年のダービー(10戦10勝の幻の名馬といわれた)で優勝し競馬の覇者にはなったものの業界の衰退で大映映画の倒産、球団運営の失敗で球場を手放し永田ラッパの音は出なくなりました。チームは仙台、川崎と本拠地を転々、昭和49年の日本シリーズを勝ち取ったものの、そこは千住ではなく仙台の宮城野球場でした。優勝パレードを東京でやり、仙台では行わず地元ファンから猛烈なブーイングをうけ、そのご川崎に移っています。 永田氏は昭和60年に他界、そのご野球殿堂入り(昭和63年)しています。

▼現在、跡地には荒川区綜合体育館をメインに警察署、高校、保育園、Sマーケットがあり、軟式野球場が2面ありました。体育館内のプールは日暮里生まれのあの世界の泳者、北島康介さんが水泳の手ほどきを受けたプールです。すぐ裏の隅田川沿いには元国家公安委員長が何者かに狙撃された高層マンションがあり、都電荒川線の終点三ノ輪駅も近く、それに沿って下町の代表的な商店街「ジョイフル三ノ輪」は江東区の「砂町銀座」とともに庶民的な商店街です。

燦笑繁話7 都バスのシルバーパスの功罪  [ 河鍋暁齋 ]を観る  21期 細田武 2017年6月投稿

燦笑繁話7

仲入谷→上野→高田馬場2→渋谷駅  バスを乗り継ぎ  無料ですよ❗

BUNNKAMURA  ミュージアムで開催中の  (奇才)  [  河鍋暁齋  ] を観に行きました。

今まで勉強不足で余り興味を持たなかったのですが、新聞などでかなりの作者との評判なので、それでは⁉と渋谷BUNNKAMURAの地下ミュージアムへ☺テケツ(チケット)売り場で 「シルバー料金は❓ 」と聞くと   ありません😱😭   ¥1800 高い 🔥  でもバスがロハか  ※#\(^^)/

館内は日曜のわりにはさほどの混みもなく、良いコンディションのなかでゆっくり鑑賞出来ました。会場の説明のイントロや、物の本などによると暁齋は、数え6、7才にして絵画にものすごい興味と意欲を示したようです。江戸末期の絵師「国 芳」のもとで学び、後に狩野派の絵師に師事したようです。その努力が後々幕末や明治初期の、大きな世の中の変動に独自の表現力の肥やしになったようです。

はじめてみる肉筆画が多数あるとのことでしたが、今回初めての小生には初対面なので  何が初出品なのか、(画号・暁英) ドナルドと言う外人の弟子の作品なのか皆目わかりませんでした。ところで、笑点でお馴染みの落語家の春風亭昇太 師匠 お城だけでなく流石に絶妙なイヤホーンガイドで少しずつ作者の魂胆が分かりやすくなりました。500円には変えられません😅

作品の多くに、動物を、特に世の中のこの世界の身近にいる犬・猫・猿・鳥・魚・狸・蛙等をまた想像の生き物  河童・夜叉 等 架空の世の物を比喩しながら、ときにはユーモアと、ときには皮肉以上に時世を弄りまくり、無尽蔵の絵心で世人を楽しませていたようです。これは幼少の頃より画力を狩野派で磨いた基礎にあるようですね。

初お目見えの[ 鷹に追われる風神 ]  では、鷹の羽根や嘴の鋭い描写逃げる姿の風神の面白み、また宗達の( 風神雷神 )の絵でお馴染みの凄みのなかの威厳さとはほど遠い風神雷神に優しさと親しみを覚えた

またそんな画質の確かな物の他、20匹の鼠に捕まり縛られ、吊るされた猫を弓で射る、異常さのなかに猫の飼い方の教訓を見せられています。長い画歴の中ではあらゆる物に挑戦したみたいです。

蟹の綱渡り・鳥獣戯画的な絵・閻魔大王・毘沙門天・羅漢さん(鬼を蹴りあげる鍾馗様)・天女・達磨大師 ・骸骨・そして 天国の様な[ 涅槃図 ]の 大胆さ 。  かと思えば( 放屁合戦 )のユーモアさ、等大いに楽しめました。最初 [ 狂齋 ] と名乗り [ 暁齋 ] に変えたらしい、江戸末期から明治初期の画壇を風靡した偉大な画家の一抹を堪能しました。

 

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第11回-その1       21期 高野 昇  2017年6月投稿

東京球場

儚く消えたあの「東京スタジアム」

▼かつて荒川区南千住にプロ野球の現千葉ロッテマリーンズの前身になる毎日大映(後の東京ロッテ)オリオンズがホームグラウンドとしていた球場がありました。正式名「東京スタジアム」、通称「東京球場」。この地は明治初期、政府が軍服用の毛織生地を作っていた「千住製絨所」があった所とききます。その名残りの「煉瓦塀」の一部が今も残っており、荒川区の有形文化財に指定されています。

戦後、民間の毛織会社に売却されたそうですが昭和30年ごろにその会社が倒産、あとは名古屋の名鉄(名古屋鉄道)が取得、ここに「明治村」を作る計画があったと風聞で聞いたことがあります。結果「明治村」は犬山市(愛知県)に建設されています。そういえば50数年前か、名鉄の観光バスの車庫になっていたのを思い出しました。その後に手をだしたのがあの「永田ラッパ」こと大映映画のワンマン社長、永田雅一でした。

 ▼プロ野球は2リーグに分裂後、パ・リーグは観客数、人気などではセ・リーグには歯が立たずその悔しさや怨念を夏の「オールスター戦」で勝ち誇りウサを晴らしていた時代です。その無念さを同じ東京をホームとするセ・リーグの巨人と国鉄(現スワローズ)に負けない球団としてオリオンズのホームグラウンドを作る強い意志があったようです。後楽園球場の試合日程も、観客動員の多いセ・リーグが優先権を持ち、その悔しい思いをも含めて専用球場の建設に懸けていたのでしょう。

 ▼開場はたしか昭和37年、その最初の試合、VS南海戦で相手方の野村克也が球場第1号のホーマ打っています。ほとんど真四角に近いフィールドでセンターを中心に左、右へほぼ一直線、故にホームランを大量に生産した球場でした。何度か足を運んだ球場ですがポンポンとホームランが出て試合がしらける事が度々ありました。観覧席の下にブルペンを備え、外野フェンスにラバーを張ったのはこの球場が日本で最初です。永田の意地で巨人主催の公式戦には絶対に貸さないとの強い意志は終生変わらず、スワローズやホエールズには公式戦の使用を認めていた様です。

 ▼当時私達家族は竹の塚の公団住宅に住んでいました。夜、南のベランダから東京球場のライトの明かりがよく見えました。球場周りに高い建物が無く「光の球場」とも言われ夜空に高く明かりが冴えわたっていました。南千住には叔父が長年住んでおり、野球好きの叔父(なんせ戦前、洲崎球場で澤村投手をみた?のが自慢でした)は「近所にオリオンズの球場ができるぞ」と嬉しそうに自慢気にはしゃいでいました。私の記憶では近辺には革製品を扱う下請け的な家内工業が多くあった気がします。

中学時代の学友の家族がこの辺りで足踏みプレス機(バタンコといっていました)で靴の中敷きを打ち抜く仕事をしており、学友もその後を継いでいたようです。アクセスも日光街道(国道四号)三ノ輪橋に近く、都電21系統(水天宮ー千住四丁目)、27系統(三ノ輪橋ー赤羽…これは今の荒川線)31系統(都庁前ー三ノ輪橋)と都電に乗って下駄を履いて野球を観にいける、そんな環境がいかにも下町の野球場らしい立地条件にあった庶民的な球場でした。

 

燦笑繁話6 「芝居噺3」                  21期 細田武  2017年5月投稿

燦笑繁話6②

  生まれも育ちも下谷  [ したや]です。( しもや)と言わないでね❗

下谷も下谷  入谷です。朝顔で有名な「恐れ入谷の鬼子母神」のすぐそばで 戦争の2年間の疎開  (1年間は3年生で集団疎開  )を除いた80年  この地からは離れられません\(^^)/
1昨年100周年を祝した地域の大正小学校を卒業   新制中学の2期生として卒業  家が酒販店  いわゆるお神酒酒店なので商業高校へと進学を模索🎓

アチーブメントテスト9科目の時代の受験でした。悪運強く第三商業に合格💐     前項でも記述のように高校から芝居見物が好きでした。

ところで 下谷・入谷といっても有名なのは朝顔のほかに何かあるかな❕    ありますよ❗ありますよ🍺

下谷警察の川路警視庁大警視    もっと名に残るのがありました🌸

河竹黙阿弥の[  天衣紛上野初花   ]  (  くもにまごううえのはつはな  )

明治41年初演とされる芝居です。河内山宗俊と6人の諸悪党がからむ、色々な悪事の変化について行けないような筋書きです。なかで、< 忍逢春雪解  >のような延寿太夫さんの清元が演じられ、粗っぽい筋書きの中に、(直次郎)と吉原の大口屋の花魁  (三千歳)の熱烈な恋のしがらみが4幕目に出てきます。入谷の出番です。

[  雪暮夜入谷畦道  ]  ( ゆきのゆうべいりやのあぜみち )  の舞台が開  きます。薄暗い雪模様の寒空にぼーーとそば屋の「 二 八 そば  」の行灯がただの明かり  (丈賀)と言う按摩を仲間にした直次郎が表れ[  入谷といえば  食い物店は そばやばかり  ]  この台詞の後のことは色々な話があるが 今回は紙上を借りて 我が入谷の宣伝に留め置く☀

ところで、久し振りだが團十郎丈が嫁さんの闘病生活に活を入れ、3月の大歌舞伎で[ 籠釣瓶花街酔醒  ]で 、助六を熱演し きっと嫁の病は春が来ると確信します🙆  

ああーツと  ほかにすぐ裏の竜泉寺町かな ?  明治の女流作家 樋口一葉が創作したあの( たけくらべ) の中に「美登里」が姉貴分の病気回復の願掛けに来る[  太郎稲荷 ] があります。落語の[  ぞろぞろ ]にも出てくるお稲荷さんで 、我が入谷の旧柳川藩の下屋敷の旧光月町に今でも地元民により司祭されてます。色々と自慢しましたが、すぐ裏には千束稲荷、酉の市の大鷲神社、小野篁・菅原道真を祭神とする小野照崎神社も下谷の我が入谷の氏神さまです。浅草と上野の狭間にありながら確かな足取りで活きている街です。

色々と自慢しましたが、本校の11月の創立90周年の式典が実り多いことを祈ります。細田武でした。  

燦笑繁話6①

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第10回-その2       21期 高野 昇  2017年5月投稿

あの日、マッカーサーを見た!

▼4人は亀戸駅ホームで落合い、電車賃を少しでも浮かそうとすでに意見が一致しており秋葉原で下車、あとは神田を抜けまだ空襲の名残りを残す焼け跡を横目に見ながら一路皇居前へと向かいました。ここでハプニング!神田小川町あたりで米兵数人のグループとすれ違いました。その際同行のU君が突然に「give me chocolate」と言ってしまいました。U君は以前から外国兵を見るとすぐにその言葉を言ってしまう質(たち)があり、小学生でもあるまいしと他の仲間共々思っていましたが、なんと米兵がニコニコ顔で4枚のチョコレートをくれました。見たこともない分厚いチョコでU君は「やったぜ!」と言わんばかりの得意顔、皆に1枚ずつ分けてくれました。「ララ物資」のチョコとは違いすごく甘く、U君曰く「これってPXモンだぜ」。PXとは兵士専用の売店で銀座の服部時計店のビルを接収し、PXとなっていたのです。彼はやたらその方面に詳しく、小学生の頃は走るジープを追いかけ「give me・・・・・・」の先頭にいつもいました。わたしもその後ろの方で追いかけたことがありますがジープの排気ガスのガソリンの匂いとチョコレートが今でも頭の中で一緒になっています。

▼第一生命ビルの前ではマッカーサーがいつ出てくるかも不明のまま3時ごろまで正面を4人でウロウロしていると2人の警官が来て「お前達、どこから来たんだ、こどもは早く帰れ!」などと強い口調で言われ隣の小さなビルの路地にしばし屯(たむろ)していました。当時は少年にとってお巡りさんはすごく怖い存在で戦前のお巡りさんの怖いイメージがまだ拭われていなかったんでしょうか。ここまで来て帰ってたまるかと4人の意志は通じあっていました。そのうち、沢山のカメラマンや記者らしき人が玄関前に集まりだし、いよいよの感あり、カメラマンの足の隙間からのぞける位置は絶好の場所だねと4人で頷き合いました。ついにマッカーサーが出てきました。ドアの前で立ち止まり隣の将校と一言・二言、例のレイバンのサングラスやコーンパイプはしていませんがギャバジンの制服、折り目がバッチリのズボン、すらっとした体系で、私の感想は「ワ~ッ、カッコいい」でした。私達の前方10メートルあたりを足早にアッというまに通過、車道に待たせてあるシボレーのセダンに乗り込み、シボレーは日比谷交差点方面に去っていきました。その間30秒くらいか。帰りは約束どうり秋葉原まで徒歩、家についたら母に「何処へ行ってたの?店も手伝わないで」と怒られました。

新学期が始まり4人でマッカーサーを見に行ったことがクラス仲間の話題となり4人は少しだけ優越感に浸りました。U君は「give me ・・・・」の戦果を自慢し、ほかの3人に分けてあげたことを誇らし気に語っていました。そして一言「あんな旨いチョコ食ってりゃ戦争に勝つよョ」と言いクラス仲間もなんか納得した様子もありました。この2カ月後の6月25日、マッカーサー率いる連合軍が「朝鮮戦争」に参戦、三商在学中もこの戦争が続き、日本は特需景気に入りました。さらにその10か月後、マッカーサーはこの戦争に踏み込み過ぎたかトルーマン大統領に司令官を解任され帰国しました。後に「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の言葉を残しました。それは三商1年生の時でした。

▼平成24年の夏、マッカーサーが執務していた部屋が特別に一般公開される機会があり、参観しました。参加者が多く少人数ずつの案内でかなりの時間待ちで、私を含めて高齢者が多く、60数年前の人物に対する個人個人の思いの数々、私達の年代の者にとっては忘れられない存在だった事を再認識しました。執務室の椅子と机は当時のままで、以後なんら手を掛けていないとか。椅子の革張りはすり減り、ボロボロで歴史そのものを表していました。机には引き出しがなく、これは彼が全てにおいて速戦即決のため引き出しが不要だったと説明がありました。司令官としての実戦経験から、速戦即決が身に付き、それが彼のその後の結果を招いたのかもしれません。隣の会議室もそのままで、ここで日本の現実と今後の対策、果ては朝鮮戦争の戦略などが決められていたのでしょうか。その中に彼の後任者として就任したリッジウエイ将軍も居たはずです。

見学が終わり生命ビルの玄関前にしばし佇み、この場所で68年前、10メートル先を足早に通り過ぎたマッカーサーを仲間と見に来たあの日に思いを馳せました。「give me…」のU君はその十数年後に肺結核で亡くなりました。彼は戦災で家族を亡くし、一緒に疎開していた姉との二人暮らしでしたが、いつも陽気で話が面白く回りを笑わせる、そんな彼にクラス仲間全員が親近感を感じ、忘れられない友でした。チョコレートを口にする機会があると、あの屈託のない笑顔と得意げに話す顔、ただただ懐かしく思い出します。

燦笑繁話5 櫻花 🌸  満喫  👫  4月2日  東京満開宣言の日   21期 細田武 2017年4月投稿

燦笑繁話5桜①

都バスのシルバーパスでの観桜と思いましたが、どこも桜の名所は混雑の予想  結局 当たり  💯   マイカーによる観桜ドライブになりました。

朝10時 スタート。まず例年の如く上野公園噴水広場はもう色とりどりのイベントのテナントと外人を含めた観桜客で満杯状態です。国立博物館も長蛇の列です。奏楽堂を右折、東叡山寛永寺の正門で🙇  垂れ櫻です。清水坂を下り、無縁坂の急坂の櫻 、龍岡門から守衛に手を振り構内へ、天皇陛下も入院した新館病棟と御殿下グランドの並木の桜🌸②  農学部の前を過ぎ駒込吉祥寺・東京五色不動の1つ目赤不動の古木   籠町の先の六義園  茶色の煉瓦の長い塀の 入り口は 正門も駒込門も150人を越える程の入場待ちの人、人、入り口から遠目で 垂れ櫻をちょい見。300円の倹約  イヤ 高齢者はもっと安いかな?   

バラで有名な西洋庭園(古河庭園)・ はパス  西が丘の1里塚を過ぎると[飛鳥山公園]です  王子方面からの都電は満員🈵🚻🚻 正解のようですね。桜は今少し⁉  でも3分咲きの桜の下では早くも宴会の模様。

名主の滝公園の手前を左折  石神井川の小さい橋を跨ぎ 垂れ櫻を眺め北区主催のウオーキングの列が途切れませんでした。

板橋から巣鴨・小礫川の播磨坂でも町内会・区 主催の桜祭  護国寺  鳩山邸はパス  椿山荘の前のカルデラル協会のチャペルが綺麗でしたその先の永青文庫を左折  面影橋に着き  橋から垂れ櫻を観桜😆

リーガルHの手前で右折  次男が通学していた早稲田実業の校舎  今は 別の施設  大隈講堂は花見🌸🍺🌸以上の人波  入学式のために大勢の嬉しそうな親子連れ 25年前を彷彿しました。👩👨🎓

最後は伝通院の山門脇のこれでもかの🌸🌸🌸③ やはり桜は日本の心。昨年とは少し違う道でしたが楽しめました。 

燦笑繁話5桜②
燦笑繁話5桜③

私、入院しちゃいました           26期 岩瀬和子(旧姓:坂口)   2017年4月投稿

 大晦日、床を拭いていて左足をうしろに伸ばし、倒れそうになりこらえた時、股関節を痛めました。正月休み明け整形外科へ行きました。

 レントゲンに異常がなく、骨密度にも問題はありませんでした。腰を温め、電気をかける治療を行い、股関節の痛みがなくなったのに腰に痛みがありました。リハビリを受けた翌朝、強い腰の痛みがありました。

 先日新年会でお酒を飲んだせいかと思い先生に伺ったところ、アルコールは良くないと云われ、そのせいかと思いました。1日置いてリハビリをした翌朝又。痛みがましたので先生に話したところ、暫くリハビリは止めるよう云われました。

 腰を温め電気をかけ、痛いところに注射を打ってもらいました。それなのに痛みが増すばかり。タクシーで通院していました。初乗り410円で助かりました。2月7日にMRIを撮りました。そしたら仙骨の骨折がわかりました。この病院で初めてとの事でした。無理せず安静にしているよう先生に云われました。痛みがますばかりで起きていられなくなり2月10日救急車で救急病院に行きましたが、前に飲んでいる痛み止めにたす薬を処方してくれ、入院出来ませんでした。

 翌11日#7119で教えられた近所の救急病院へ行きましたがCTを撮っただけで入院できず帰ってきました。12日に受診していた病院の紹介で入院しました。

 持参したデータを見て入院予定は3週間と云われました。仙骨の骨折がわかった時、採寸してコルセットを依頼しましたが、出来るまで病院内の移動は椅子でした。トイレへ行くのもナースコールして連れて行ってもらう有様でした。迷惑をかけるのが嫌で水分を控えていました。食事もベッドで横になったままとっていました。ご飯は食べづらいのでおにぎりにしてもらいました。筋力強化練習を毎日リハビリ室でやっていました。

 コルセットをしてから馬蹄形の高い台車のようなものを使って1人で歩けるようになり、その後杖を使って歩き、トイレへ行った時は少し長く歩くように云われ、階段の昇り降りも練習しました。病院では横になっているので脚力が落ちていると思われ、リハビリをしたのだと思いますが、運動を何もしていない年寄りと違い私はカーブス歴(女性だけの30分フィットネス)この8月で10年になります。そんな簡単に歩けなくなるとは思いませんでした。

 入院予定は3週といわれましたが、16日目に退院することが出来ました。退院後は杖をつき歩き、500m~1km、10分~15分程度で無理せず過度な運動や腰を反らしたり、まわしたりする動作を避けるよう指導されました。

 股関節を痛めた事で受診したのに仙骨の骨折がみつかるなんて思いもよらないことでした。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第10回-その1       21期 高野 昇  2017年4月投稿

マッカーサー1

あの日、マッカーサーを見た!

▼それは三商受験を翌年に控えた昭和25年の春休み、あの東京大空襲で生まれ育った江東区亀戸の家が消滅し、江戸川区小岩に4年近くの避難生活のあと、父母の忍耐と努力、借金で昭和24年秋、元の場所に小さな住まいと商いの店舗を兼ねたバラックの家を建てました。中学は避難先だった小岩一中に電車通学していました。同じ境遇の友が沿線(総武線)におり、N君、U君、K君らとはいつも同じ車両に乗り通学、電車のなかでの会話で「いつか4人でマッカーサーを見に行かないか」と話が纏まりました。

▼マッカーサーといえばその数年前の大戦での鬼畜米英の敵将であり連合国軍最高司令官で、昭和20年8月15日の終戦、その15日後の8月30日に占領軍の指揮官として厚木飛行場に降り立ちました。その様子は当時の報道写真やニュース映画、TVのドキュメンタリー等で報じられています。ロッキード社製の3枚尾翼の専用機「バターン号」のタラップを降り、一旦扉を出た所で立ち止まりゆっくりと左右を睥睨(へいげい)し、5つ星を付けた制服、制帽、レイバンのサングラス、くわえたコーンパイプなど、彼最高のパフォーマンスでしたが、これは降伏に応じなかった一部軍部のクーデターへの不安、完全な武装解除への疑心、もしもスナイパー(狙撃手)にでもへの危機感を持っての行動で、丸腰で降りたことを後悔していたとの事だったと「マッカーサー列伝」(発行元不明)に書いてありました。実ははその時に彼が緊張のあまり「失禁」していたとの噂もあり、その時の数多い写真のアップを改めて見るとそれらしい証拠?が見られます。真意のほどは””彼のみぞ知る””です。

▼マッカーサーといえば戦時中の小学生の頃に歌わされた軍歌のなかに ♬出てこいニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄へ逆落とし♬ などとさんざん唄っていました。その本人が”出て来い”どうり勝利者として慄然(りつぜん)として現れたわけです。その本人、本物を見に行くのには少し勇気がいるし怖い感じが交錯しました。しかし彼は戦後の貧困、食料不足、飢餓に苦しむ敗戦国民、とくに幼少年に対し「ララ物資」という援助物資で私達に少し潤いをもたらしていただきました。学校で配られた鉛筆2本、白い食パンにイチゴジャム、初めて口にしたチョコレート、何故か学校で野球のボールのような丸いチーズをもらいました。母も家族も食べ方が判らずどうしたものか迷いの果て、味噌汁の味にしていました。近所のおばさんは石鹸だと思い銭湯に持っていき「アメリカの石鹸は丸いんだね」など言っていたなどの笑い話も聞きました。そのマッカーサーは皇居前(当時は宮城前といってました)にある第一生命ビルに総司令部を構え、宿舎は横浜グランドホテルで、そこからの往き帰りの様子が第一生命ビルの前で見ることができる訳です。

 

金原亭馬生師匠、稀勢の里を語る            30期 藤倉久男  2017年3月投稿

久しぶりの新横綱誕生に日本中が沸いている。そんな時に三商卒業生の落語家、金原亭馬生師匠が1月26日付の読売新聞紙上で稀勢の里について語っている。

「相撲道、剣道、華道、書道、芸道等。「道」と名の付くものは、ただその技術だけを磨くのではなく、人間としての向上が問われる。」本当にそう思います。中々できることではありませんが。

読売新聞をとっていない家庭もございましょう。多くの人に読んで頂きたく投稿させて頂きました。

HP投稿記事(H29.3)金原亭馬生「稀勢の里を語る」藤倉久男

燦笑繁話4 スポーツ漬の17年の新春です。        21期 細田武  2017年3月投稿

1949年代の少年はタブロイド版の日刊スポーツを愛読していました。中学3年生でした。叔父が朝日新聞社の関係で読むようにと勧められた記憶しています。この年はプロ野球界で大きな変化がありました。読売と毎日の対立で2リーグ分裂の時期でした。巨人が南海から別所投手を引き抜き、当時の金で10万円の罰金、2か月の出場禁止など制裁を受け後の(江川事件)の踏み絵となりました。

さて、2017年の新春です。💐元日の男子都道府県対抗駅伝が広島で開催され、長野が優勝🌸天皇杯サッカーJ1優勝の鹿島が制覇し、高校サッカーも青森山田高校が習志野高校を5-0で突き放し優勝しました。👊高校ラグビーは東福岡高校が東海大仰星の連覇を28-2で阻止、💨全日本ラグビー選手権は大学生が歯が立たずパナソニックとサントリーのトップリーグの戦いでしたがノートライのサントリーが小野の5つのゴールでしたたかな優勝🍶パナソニックの大学生HB 山室の活躍も及びませんでした。

🎓2-3日の箱根駅伝  TV視聴率もかなり高く、終わってみれば原監督率いる青山学院大学が危な気なく完全優勝。🌸 日大・東洋・早稲田など力の差を見せつけられた。特に40何年も歴史あるあの中央大学のCのゼッケンが見られなかったのが、三輪トラックの監督車が伴走した往時を知るものとして淋しさひとしおでした。

😅Xリーグのアメフット(ライスボウル) 実業団「富士通」と🎓 「関学」との試合は実力の差を見せつけられ社会人の8連覇を易々させてしまった。一方彼の國本番アメリカではペイトリオットがハルコンズを珍しい延長戦で最後にランプレーによるタッチダウン、奇跡の大逆転 💐52勝し、記録にあと一つ、このメール🙇がつく頃達成かな!?ウィンタースポーツの華🌸シャンツエを飛び降りる[ジャンプ競技] その名は< 高梨 沙羅 > 少女から成人して大きな舞台で大ジャンプ期待します。一方W杯複合札幌大会での渡部暁斗の優勝は嬉しいニュースです。

メジャーは未だですがフェニックスオープン連覇の 松山英樹  年間賞金王も夢でない?石川  遼の奮起も期待したい。※また、水の世界も水泳東京選手権で山口の持つ200米平泳ぎで渡辺一平が北島康介の期待に応え2分7秒を切る2分06秒67の世界新記録を樹立と嬉しいニュース。#室内競技のバスケットボールも川淵三郎創立のBリーグの発足、36チームが全国に展開!底上げに前進~~🍶🍶方や、26年ぶりの日本人横綱…変な言い方ですよね、稀勢の里が30の春とか白鳳の衰え、日馬富士の不調休場等好条件のなかでの昇進は果たして良い結果がでるや?若手の精進と、稽古の充実と 協会の営業だけの努力を少し改善することが角界のため に色々と書き付けましたが、春から酒とスポーツ漬けの新春です。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第9回-その3       21期 高野 昇  2017年3月投稿

3年生あの頃のご時世~

~あの頃の身近な世相~ 3年生の時

▼3年生になるとすぐに修学旅行がありました。5月のゴールデンウィーク(GW)の前後でした。ちなみにGWは当時の大映映画のワンマン社長として鳴らした永田雅一が発した言葉で、祝日の多いこの時期に大衆が映画を観に押しかけて来るので映画界にとっては掻き入れ時とみての言葉でした。11月の「文化の日」の頃は芸術祭参加作品の映画が集中して製作され観客動員数が多く、シルバーウイーク(SW)とマスコミは称してました。映画界の隆盛期に入った時期です。

修学旅行のコースは当時の定番、奈良・京都の2泊3日でした。私達の中学3年時の修学旅行はほとんど1泊で、私の在学していた小岩一中は修善寺温泉で韮山の「反射炉」を見ただけでした。おまけに食事用に「米」を3合(540CC)ずつ持参、まだ「米」が配給の時代でした。三商時代は米の配給も価格統制はあったものの撤廃され自由化されており米持参はなかったのですが、往復とも夜行列車で、今の修学旅行からは想像できない強行軍で、現在は飛行機、新幹線、少し前には「北斗星」で行ったり、海外まで行く学校もありで60数年前との「隔世の感アリ」です。旅館での入浴はできず、希望者は旅館近くの銭湯に行きました。知らない土地の銭湯に入るのには少し抵抗がありました。私は兄のカメラ、「リコーフレックス」という二眼レフ(懐かしい)を持って行きました。そういえば夜行列車での移動中、車中の電灯をきり、喫煙し強者?がいて後日、停学をくった同輩がいました。同窓会などでは今は笑い話となりました。

▼5月、イギリスの登山隊のヒラリーがシェルパのネパール人テンシンとともにエベレスに世界初の登頂に成功「そこにエベレストがあるからだ」との言葉を語ったと報じられましたが、実は過去何人かの人が何度も挑戦しつつも敵わず、「どうして難行不落の山へ?」の質問に、ある登山家がすでに語っていて言葉だそうです。征服という言葉、いまはあまり聞かれず、活字にもなっていません。それより前の3月にソビエトの首相スターリンが死去、「巨星墜つ!」と三大紙が一面トップに大きな見出しで報じました。レーニン以降徹底した共産主義を貫き粛清と更迭を行いとうした独裁者、少しずつソビエトの方向が変わってゆく転換期だったと思いました。生意気にも私が政治、経済、国際情勢、時事問題に少し興味をもちはじめた頃でした。就活運動の時期でもあり、一学期の終わり近くに生徒を講堂に参集させて、東京進出が決まっていた「大丸デパート」が大々的な求人PRにきて当時としてはカラーのPR映画を上映、就職希望者全員が受験しそうな雰囲気でした。結果は誰も受験しなかったと聞きました。

全校生徒で映画を鑑賞することもよくありました。当日朝に指定の映画館前に現地集合、鑑賞後各自で登校し、適当に昼食をとり、なんともこの日はウキウキの一日で 「ひめゆりの塔」を見たのもこの機会でした。あの「東京物語」が公開されたのがこの年の秋で、洋画にもかなりの傑作が上映されていました。「シエーン」「ライムライト」「禁じられた遊び」など、この3作は映画音楽としてもヒット、「シェーン」のラストシーンの・・・~シェーンカムバック~~グッバイシェーン~・・・はバッグに写っていたワイオミングの山並みと共に素晴らしいシーンでした。

2学期に入るや就活が活発になり、教室の後ろの黒板には求人各社の名が羅列され、今思うとその企業各社は後にはほとんどが上場企業になっていた感があります。「A社の試験にはすごい昼飯が出た」とか、B社では「交通費が余分に支給された」とか、そんな話題と共に私も金融関係企業の内定を11月の末に受けていました。ある日突然校長室に呼ばれ今村校長、清田教頭、椎名先生から、高卒は三商生と一商生しか採用しないという関西五棉の一つの貿易会社のG商社を改めて受検するよう指示されました。すでに内定している会社の方はどうするのか、全ては学校で責任をとるからとの説得で、結果G商社を私一人が受験、得意な時事関連問題と珠算の実践試験をクリアーし内定をもらいました。一商からは2名が内定していました。すでにG商社には19期生の石原、鈴木の両先輩が就職しており、内定済の金融会社には清田教頭が丁重にお断りしたと後日、直接私に話してくれました。なんかあの時代は自身、流れに逆らわず、暢気だったのか、それとも先生の言うことが「絶対」であり、こちらも「全幅の信頼」を寄せていたのでしょう。そんな昭和28年の2学期でした。

▼プロ野球では西鉄ライオンズの中西太の凄いホームランを後楽園球場で従兄弟と観ました。遊撃手が一瞬ジャンプし、左翼手が前進、打球のライナーが一直線にスタンドに刺さりました。豊田、大下、仰木、関口など野武士軍団と呼ばれ翌年にパリーグの覇者となりましたね。寒くなった頃「真知子巻き」が流行っていたこともありました。白いレース風のストールを被り首に巻く、映画「君の名は」の岸恵子が流行りの源です。内定を受けた仲間、まだ就活中の同輩などで授業も落ち着かず、放課後には人形町の末広亭に落語を聞きに行き志ん生、文楽、圓生、可楽、金馬などの噺に腹を抱え、歌舞伎座や新橋演舞場へ親友の細田君と同行し演舞場のモギリのお姉さんと顔見知りとなり「顔パス」で3階の立見席に入れてもらったり、日本橋界隈をぶらぶら歩き珈琲店の「ナナ」なるカウンターだけの珈琲店に出入りし、ママに親切にしてもらいコーヒーの味と味覚を憶え、その嗜好は今に至っています。

八重洲口近くの「なかばし」という甘味処にも汁粉を食べによく行き店内で同期の女子生徒とばったり会いお互いに気まずい思いをしたことがありました。大相撲の開催中には蔵前国技館にT君と取り組み12目には必ず行ってました。大相撲では”鳴門海”の様式美あふれる格調高い仕切り、”清水川”の足を高く上げた支股、”信夫山”の素早い双差しなど。今は個性と格調を備えた力士が皆無に近く少なくなりました。「怒り金時」と呼ばれていた”名寄岩”もいました。横綱は羽黒山、東富士、照国だったでしょうか。

▼卒業式は昭和29年3月6日の土曜日でした。翌日が中学のクラス会の予定日だったので憶えています。式の後、4・5人の友人と裏の豊洲橋の上で写真を撮り、ここは校舎と時計塔が良く見える場所で、当時は木の橋で狭くて長い橋で車は不可、そして仲町の「お好み焼き」の店で詰襟姿の最後の別れをオレンジジュースで乾杯し別れました。卒業少し前にあのマリリン・モンローがJ・デイマジオと新婚旅行で来日、力道山が柔道家木村政彦と組んでシャープ兄弟と後楽園球場で対戦し街頭TVで観ました。プロレスブームの始まりでした。

ビキニ環礁で第5福竜丸が被爆、この年の秋、映画「七人の侍」が封切られ、9月に「洞爺丸」沈没事件があり世相的には、色々とあった卒業年度の昭和29年でした。最後に小学・中学からのあそび友達で一緒に三商に入り「日本電気」に就職した木内一雄君が就職間もなく社内の事故で亡くなる悲劇がありました。字が上手く、けん玉が上手、野球が大好きだった木内君、日々忘れたことがなく、改めてご冥福を祈ります、合掌。

この英語文訳せますか  19期大関守さんの記事  その2  第30期 藤倉 久男 2017年2月投稿

前回に続き30期の藤倉さんと33期細井さんが両国蕎麦店大関庵(19期大関守さん)を訪ねた時、読売新聞THE JAPAN NEWSが取材に来ていたとのことです。

その1→http://tcsaa.jp/toukou/#29.1

大関庵_Part4
大関庵_Part2

燦笑繁話3 芝居噺2 「 浅草松屋6階の( すみだ劇場 ) について」 21期 細田武 2017年2月投稿

昭和29年ごろ、浅草・入谷に住んでいた小生は三商から帰ると松屋の(すみだ劇場)  へ[かたばみ座]という小劇団の公演があり、坂東竹若さんを座頭とする小芝居を良く観にいきました。後に市川門之助の助力で坂東鶴蔵・松本高麗之助などは大歌舞伎へ復帰しました。

思えば、観劇料金はどの様に工面したか!?  ただ芝居の筋書きや、男が綺麗な女形になり、お姫様や、遊女 になり、大きな頭髪や派手な衣装の松王丸に驚いて観ていました。もともと[かたばみ座]は今の緑町にあった(寿座)で公演していたようです。墨田区議の加納氏のネットによると大変賑わっていたようです。尚、浅草の芸伎組合の「  浅茅会  」の第1回公演はすみだ劇場でした。一方大歌舞伎では前進座が歌舞伎界を牛耳っていた松竹の興行や常設小屋のこと、家柄による扱いに反旗を翻し、後に市川猿之介の脱退など今では思いもつかぬことがあり、宝塚劇場で上演した劇団もあり、梨圜という世界とは程遠い時代があったようです。    

前進座は1931年、役者でありながら首切り、減棒、争議等無産党的な思想に走り、生活の不安にさられ、松竹を離れ独自に河原崎長十郎、  翫右衛門、国太郎等と武蔵野市吉祥寺に映画・演劇研究所を設立。共同生活に入り給与性などを取り入れ たりしながら独自の演劇活動に入ったようです。然し、大きな舞台は踏めず、猿之介の春秋座、等と小劇場の上演しか出来なかったようです。尚、澤瀉屋(  猿之助 )は 後に松竹に復帰しました。事後色々ありましたが今の梨圜の難しさが各公演にも表れているように感じます。新しい名跡の襲名も商業主義的に感じるのは私だけか?

高校時代から23、4歳ごろ の拙い思い出です❤  記憶違いはお許しください

次回は、早稲田大学の河竹記念館の演劇博物館に行って来ます。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第9回-その2       21期 高野 昇  2017年2月投稿

~あの頃の身近な世相~ 2年生の時

▼2年生になりクラス替えがあり、同じクラスにやたらとバレー部の連中が多く、担任がバレー部の指導顧問だった吉岡鶴義先生(12期生)なので納得。この年の山形国体に1年先輩の出町豊氏を主将として東京代表で出場しました。戦後初めて日本が参加を許されたヘルシンキオリンピックが開催され、レスリングフェザー級で石井庄八が金メダルを獲りましたが、競泳の古橋が400M自由形決勝で8位と振るわず実況中継のNHKの飯田アナが「日本の皆さん、どうか古橋を責めないで下さい」と泣き声で放送していたのを夜中の布団の中で聴いていました。

昭和22年、敗戦のショックからまだたち上がれず挫折と屈辱の中に居た日本国民の励みとなり、三十数回の世界新(400米自由形)を打ち立てた彼の実力も峠を過ぎ、アメーバ―赤痢の中でのオリンピック参加でした。盟友橋爪四郎が千五百米自由形で銀メダルをとったにもかかわらず表彰式でずーっと下を向き、俯いていた記録映画を観ましたが、それは盟友古橋の無念をおもっての事だったと数年後のTVでのインタビューで知りました。橋爪氏は受けた銀メタルは「古橋の気持ちを思い一切公開していない」と言っていました。友を思う泣けるエピソードです。陸上で五千、一万、マラソンを制したチェコの人間機関車ザトペックも忘れられません。

▼校内の体育館の床も綺麗に張り替えられ、私はバドミントン部にいましたがバレー部優先の使用で、ろくな部活が出来ず退部しました。まだ高価だったラケットやシャトルを買うことができない事も理由の一つでした。寂しい思い出です。新聞部にいた綿引君に頼まれ、原稿を綿引君になりすまして書いたりし、今で言えばゴーストライターですね。当時の通産大臣だった故池田勇人が「事業主が倒産や自殺するのは止むを得ない」と発言し、即辞任させられた事があったのもこの年だったかも。今でも失言、暴言をする閣僚がいますが全て謝罪で済ませ、公人らしからぬ輩が多いと思いませんか。ボクシングの白井義男が世界フライ級の王者にもなり、プロ野球では巨人が優勝したがアンチ巨人として興味なく、打撃部門でファンである名古屋ドラゴンズ(現中日)の西沢、杉山がタイトルをとり杉下が澤村賞をとり、いずれはと期待したその夢は卒業後の昭和29年に実現しました。

▼この年、今でも忘れられない映画を観ました。木村功主演の「真空地帯」です。山本薩夫が監督、旧日本軍隊の内地兵舎の日常の有様をリアルに表現し、閉鎖的、絶対的な縦組織、初年兵に対する屈辱的、絶望的な制裁などの描写に圧倒されました。原作者の野間宏はこの年に「毎日出版文化賞」をうけました。江利チエミさんの「テネシーワルツ」が大ヒットしました。前年、アメリカでP・ページが歌いビルボード誌のヒットチャートに9週連続1位をとった曲でしたが、無名だった彼女を起用しリメーク曲をヒットさせたレコード会社(キング)はさぞびっくりだったでしょう。同年発売された美空ひばりの「りんご追分」を抜いて年間トップのレコード売れ上げだったと聞いています。どこの街のスピーカーからも、どこのラジオ局からもあの~~♬I was dancing’ with my darling’~~~~the beautiful Tennessee waltz ~~♪この曲はその後テネシー州の州歌になりました。この2年生の時はクラスの雰囲気もあってか沢山の友人ができました。

各友人と連れ立って、歌舞伎、寄席、映画、相撲、プロ野球そしてコーヒー、餃子など、現在の趣味、好みに通じるものはその時に友達共々見聞、経験したものが多いですね。貴重な昭和27年の2年4組でした。

~~年齢ゆえのわずかな記憶と古いメモなどを参考にしたもので誤記などありましたらご容赦ください~~

この英語文訳せますか 19期大関守さんの記事  その1 第30期 藤倉 久男  2017年1月投稿

先日30期の藤倉さんと33期細井さんが両国蕎麦店大関庵(19期大関守さん)を訪ねた時、読売新聞THE JAPAN NEWSが取材に来ていたとのこと。2回にわたって掲載します。まずは英文でご覧ください。

大関庵_Part3

では日本語訳を掲載します。次回は19期大関さんが英語に堪能な訳を掲載します。

◎SUMO abc 大関庵Ⅰ
◎国技館そばの大関庵は縁起がいい

 大相撲の聖地、東京・両国の国技館近くに大関庵(おおぜきあん)というそば屋がある。2代目主人は大関守(おおぜき・まもる)さん(83)。「大関を守る」という名前は、力士にとって、大変ありがたく、縁起がいい。

 創業は1952年で、両国に店を構えて64年を超えた。終戦後、進駐軍(GHQ)に接収されてメモリアルホールとなった旧両国国技館は、大関庵のすぐ南側にあった。その後は日大講堂となり、新しい国技館が蔵前に建てられた。再び両国に戻ったのが1985年。JR両国駅に挟んで店の北側に構える今の国技館だ。時期を同じくして、大関さんは2代目として店を切り盛りした。

 その頃は大関さんも52歳と若かった。「出前で日に何十回、店と国技館を往復したか当時も数え切れなかった」。相撲協会の役員室にも頻繁に顔を出した。「大鵬さん(元横綱)や清国さん(元大関)、安念山(羽黒山、元関脇)、鶴ヶ嶺さん(元関脇)ら、名力士として名をはせた親方衆が顔をそろえていた」と懐かしむ。

 ある日、役員室で聞かれた。「あんた、名前は大関守だって。それは本当の名か」と。しゃくに障った大関さんは運転免許証を取り出すと、テーブルの上にポンと置いた。「名前と一緒に、住所は正真正銘の両国2丁目とあるでしょう。本籍だって載っている。よく見てくれ」って息巻いた。すると疑っていた親方衆が「分かった、よく分かった」と納得してくれた。「それからかな、親方衆の私を見る目が変わった気がする。お相撲さんはね、懐に飛び込むと優しくなるんだよ。」忘れられない思い出の一つという。

 大関さんは、外国人のお客さんが来店した時、得意顔になる。「日本人は、相撲の大関と清酒大関で、皆さんが『おおぜき』の呼び名を知っている。だから、私も有名人」。滑らかな英語で説明し、お客さんを笑わせる。そば屋一筋の83歳はなぜ、英語が堪能なのだろう。次回のコラムで大関さんの秘話を紹介します。

燦笑繁話2 芝居噺1 「隅田川巻物観てきました」      第21期 細田 武  2017年1月投稿

午後一、2時間ばかり間がとれたので、思いきってすみだ北斎博物館にバイクでひとっ飛び、10人並びでちゃちなチケット売場💨

役所っぽいテケツ嬢😆  4階の常設会場からの鑑賞です。

今月の[  和 楽  ] 北斎特集、予め読み、観ていたので必ずしも新鮮味無し👌ただ(  隅田川巻物 )  は両国から始まり蔵前、駒形、吾妻橋、  待乳山、山谷堀、新吉原、対岸の国母寺、三迴さま、水戸屋敷など、詳細に水・緑・紅・草色など多様に屈指して一寸見応えがありました。

帰りが問題です。3階から下へ降りる階段がありません。2基のEV のみです。階段がないのかと聞くと非常階段しかありません!🆘  開館当日の混雑のときどの様に処理をしたか聞くと、大変ご迷惑をおかけしました。と平然と答え、 万が一の時にはどうなるの\(^^)/と腹が立ちました。オリックスの宮内が名誉館長です。

墨田区 の手を離れ 民間化されていますが、設計の段階からおかしいようです。バッテリー無し👌細田武です。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第9回-その1       第21期 高野 昇  2017年1月投稿

~あの頃の身近な世相~ 1年生の時

▼三商入学式の日は小雨の降る少し肌寒い日でした。昭和26年春、兄(16期)の使っていたお古の三商の制帽を被り母と一緒でした。母が学校に関する行事に来てくれたのは後にも先にもこの時だけ、だから雨が降るんだとうすうす思っていました。中学の担任の先生が「お前、本気で三商を受験する気か?」と少し屈辱的な言葉を言われましたが、入試の「アチューブメントテスト」で数学と国語、家庭科でかなりの高点をとっていたのが功をそうしたか、卒業生の兄二人を追うように入学にパスしました。入試の前に上の兄が私を連れて三商に清田教頭を訪ね挨拶に行きました。「怖そうな先生だな」と思ったのがその時の清田教頭の印象でした。在学中にその思いは払拭されていました。

▼三商に入学してまず驚いたことはトイレ(当時はWCと言ってました)がタイルぶきだったこと、講堂以外に体育館(床はあちこちと破れていましたが)と武道場があること、やたら広い運動場(今の新校舎なある場所は川岸運動場と言っていました)、地下室(地下水が溜まり使用していませんでしたが)があり、階段教室、屋上があり動かない時計がある時計台などでした。校舎の隣の商船大学には米軍が接収しており、正面入り口にカービン銃を捧げた歩哨兵が慄然と立っている様子には愕然としました。入学数400名、8組編成で1,2組は男女組(この言い方は年令のせい)で男女組の経験は小6年生の時以来なので少し戸惑いました。戦後6年、まだあちこちに戦災の傷跡が残り、まだらに建っている復活した家々もほとんどがトントン葺きでした。我が家もそうでした。屋根に葺く瓦やトタン板の代わりに杉皮を葺くのに職人が口にくわえた小さな釘を驚くほどの早業でトントンと葺き上げる、そんな屋根をトントン葺きといいました。

▼この前年「朝鮮戦争」が勃発しています。昭和25年6月25日のことでした。日曜日でした。その日、珠算の検定試験があり東大の25番教室で3級合格を目指して懸命にパチパチとやっており、結果3級に合格していたのでよく憶えています。そしてこの1年生の時、その指揮官だったマッカーサー元帥が北朝鮮に原爆を使用するとかの理由でトルーマン大統領から罷免されました。国電(JR)桜木町火災事件があり、63(ロクサン)型という木製の車両数両が燃え多数の死傷者がでました。日米講和条約が締結し今村校長先生の「これからは新しい日本に生まれ変わり君たちはその礎として社会に出るべき」との在校生へのメッセ―ジとともに「君が代」を歌った記憶があります。金へん景気が始まり糸へん景気もピークだったようです。そうだ、日本初の総天然色(いまは死語となりました)映画「カルメン故郷に帰る~木下恵介監督~」が高峰秀子主演で製作、上映されました。秋には三商のシンボルである時計台に真新しい時計が設定されました。

▼この年、民間放送《ラジオ)がはじまり関東でもラジオ東京(TBS)がスタート、有楽町駅前にあった毎日新聞社ビルの上階が放送局になっていました。なにかのクイズに当たり、私の氏名が放送されたと同級生の誰かが教えてくれたので局に賞品を受け取りに行きました。賞品はGAIANTSの川上哲治のサインいりのバットでしたが私はアンチ巨人でしたのであまり有難味や嬉しさはありませんでした。実家が建て増ししたり、立て直しをしている中で父が勝手に処分したらしく、今、持っていたらかなりの”お宝”でしたね。このビルの最上階には丸屋根のプラネタリュウムがありましたが戦後はやっていなかったかもしれません。今、思うに懐かしく、この近辺にはロードショーのスバル座やビデオホールがありました。ビデオホールといえばジャズバンドのあの「ビッグフォア―」の公開ラジオ放送を見に行き、番組スポンサーがトリスウイスキーでした。雨後の竹の子の様に沢山のバンドが出現した時でもあり、その中でもトップの人気を誇るビッグフォア―には感動。司会が江戸弁ペラペラのロイ・ジェイムスという明大野球部員の経歴をもつ、変な外人でしが素晴らしいMCでした。

~~年齢ゆえのわずかな記憶と古いメモなどを参考にしたもので誤記などありましたらはご容赦ください~

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