会員皆様の投稿記事

~同窓会ホームページ・個人投稿原稿に関するお知らせ~
日頃より三商同窓会ホームページの閲覧・ご投稿ありがとうございます。
理事会において決まりました投稿規程として、近年携帯からスマホへの移行が多くなり
小さなスマホを利用してホームページを閲覧される方が増えておりますので
文章を読みやすいよう一回の記事は<1000文字程度>とさせていただきます。
それ以上の文字数のご投稿の場合は次号に分けて連載になります。ご了承ください。

8 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(6) 東光寺―  29期 仲田元昭     2021年9月投稿

 今回は、船橋を代表する船橋大神宮から東側台地(宮本台地)へ徒歩2分程にある、斬新なデザインの本堂で有名な東光寺をご案内します。

「東光寺」

 慈明山阿舎(じめいざんあしゃ)羅院(らいん)東光寺(西福寺の末寺)と言い、創建は室町時代後期、480年程前天文年間と伝えられています。 本尊は薬師如来です。

 現本堂は昭和40年(1965)に再建され、設計は地元船橋出身の建築士 長大作氏の斬新なデザインが、寺院の本堂としては大変珍しいです。

「斬新なデザインの東光寺本堂」

「道標を兼ねた廻国塔」

 境内には、石造物が数多くあり、中でも道標を兼ねた廻国塔は 宝永6年(1709)製作の市内で最古の道標です。 左右に左ハさくら道 ・ 右ハかつさ道と刻まれています。その昔には、街道筋にありましたが、道路拡張工事の際、東光寺に移されました。

 また戊辰戦争で亡くなられた旧幕府方の脱走様墓碑(3名連記)があります。市内には戊辰戦争で亡くなられた新政府方と旧幕府方の数多くの墓碑があります。

「道標左成田道、右上総道」


「9 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(7) 了源寺」に続く  「2021-8-25寄稿」

戯言&独言12                    21期 髙野 昇  2021年9月投稿

    ●戦いすんで、日が暮れて

◆あの日の「トウキョウ」と「お・も・て・な・し」の言葉、会場に居た参列者のあの狂気な騒ぎも、今思えば何か虚しい空騒ぎでした。東日本大震災、各地の豪雨による被害、、そして02年の開催年度に発生した新型コロナの蔓延、なんの巡り合わせか一気に災難に巡り会った日本でした。自然の災害はともかくコロナに対する初期対応の緩慢さは現状の感染者の数が伸長していてこの時点で中止か延期が深く検討されるべきと思っていました。インフルエンザより少し強い程度の感覚か、錯覚か。。五輪関係者はお題目を「「復興オリンピック」と唱えを変え始めましたが津波や他の震災に会い未だに仮設住宅に住む人達や仕事の再興の悩みなどどんな思いでこの五輪を観て何を感じていたでしょうか。被災地の復興と言う名目と目的とは矛盾する各種のトラブルミス、競技場建設入札、エンブレムの偽装?、トップに立つあの人の女性軽視失言、「安心・安全」を呪文の如く唱える偉い人、そんな中、60%以上が開催中止を求めていたにも拘わらず全て無視しての開催は私的には納得できないものでした。

戯言12

◆何がなんでも「五輪ありき」で五輪終了後も感染者は増え、60%以上が開催を中止か延期にと言っている社会を無視し「コロナ禍の中、大会は成功」との給うたIOCの・・ぼったぐりバッハ・・や国内五輪関係者、特に五輪大臣丸川女史の発言は疑問です。総理の「五輪は成功裡に終了した」とか女性知事が「TVの視聴率も良く、自粛の協力度も良く‥」など発言、実態はどこのTV局も五輪・五輪、ここも五輪かよでチャンネル選択の余地がなく、全くのナンセンス発言には呆れました。

◆64年の五輪の成功はマスコミなど、市民の間でも語り草で未来の期待度も高く神話化されました。あの昭和の五輪を神話のままに便乗したものの「緊急事態…」はコロナだけではなく五輪にも適用してほしいと思っていました。どこをみても聞いても安全対策化が徹底した五輪とは程遠く化けの皮が剥がれた感じの五輪であったと思います。自然災害は止む負ない避けられない現象でしたが運営や市民に対する対応は一考の予知があったと思います。身内に豊洲の選手村をマンションとして買い付けていた人がコロナ禍の選手村だったのを鑑み後始末もしていない住居を解約すると言っていました。日本という国は十数年に一度五輪をやってきたみたいです。お祭り好きな日本人は64年の東京から札幌、長野と今度で四回目、八十代後期の歳で五輪を四回観たのは幸せですがどっちかといえば個人的にはあのラグビーW杯のほうが盛り上がりました。特別ラグビーファンではありませんが。

◆主催都市・国として入賞者が沢山いたのは各アスリートの揺るぎない努力、精進、忍耐の尊い賜で感動と感謝を戴きましたが、これは五輪の中止や延期とは別の問題と勝手に理解しています。女子ボクシングの優勝者の入江選手の明るさと話し方が面白く印象的、後日のあるTV番組の司会者が「あれだけ打ち合っても顔が腫れていませんが」の問いに「大会前はもっと美人だったんですよ」といった笑いながらのユーモアはすばらしい。そんなユーモアが理解できないあの張本氏の知的センスの無さ。

◆「お・も・て・な・し」は結果、表(おもて)が無くこの開催には間際になり色々あって「う・ら((裏)・が・あ・る」でしたね。うまい!自画自賛の戯言です。

前回のオリンピックの思い出              26期 岩瀬和子(旧姓:坂口)    2021年8月投稿

 書道塾の1年後輩が交通公社に勤務していました。オリンピックの入場券があると云ってくれました。何でもいいから思い出に観戦しようと思いました。中学生だった弟をつれて国立競技場で馬術を観戦し、そして1人で横浜の男子バレーボール、対アメリカ戦だったと思います。観戦しました。日本生命の本社の友人にも声をかけてあげ、大変よろこばれました。

 まえもって開会式の夜から、奥穂へ行く計画をたてていました。山男の友達と会社の同僚(女性)3人で行くことにしていましたが、直前に遭難の記事が2件あり、友人の1人が行かないと言い出し、3人で行くことになりました。

 一緒に行く彼女は1年後輩で私がさそうとどこへでもついてくる人でした。友達もいそうもなく、大人しい人でした。夏は仕事帰りに千駄ヶ谷のプールへ時々行っていました。私も特別泳げるわけでもありませんでしたが、彼女は一生懸命練習していました。

 私は冬スキーが好きで、週末はほとんどスキー場にいる程でした。同僚達とスキーに行くことになり、彼女も行きたいと云い出し、衣服はととのえ、スキーは現地で借りることにしました。1日スキー教室で練習をしてもらい翌日は1人でやることになり、同僚達はゲレンデを滑り降りるより登る方が速いと笑われながらも一生懸命やっていました。

オリンピック開会式の日、私は昼間、日本橋の白木屋でお茶会があり、お手前の合間をぬけ、屋上でブルーインパルスの五輪を見ました。

 その夜、夜行に乗りバスで上高地へ行き上高地のバスターミナルを後に梓川左岸の遊歩道を、明神徳沢をすぎ、横尾へ着きました。

 涸沢小屋へ行くのには横尾大橋を渡り、本格的な登山になります。樹々のあいだから時々涸沢小屋がみえかくれするのになかなか着かずとてもきつい登りでした。やっと小屋に着いても登山者が大勢でした。寝る時は互い違いに休み、思うように身動きが出来ない状態でした。私達は奥穂高岳(本邦第三位)を登るだけなので、ゆっくり起きて出発しました。穂高山荘までは、涸沢小屋へ行った時と違い割と楽だったように記憶していますが、友人がここで休んでいると云い出し、彼にアイゼンをつけてもらい頂上を目指しました。

 頂上はせまかったと思います。お天気が良く、四方八方みわたせ素晴らしい眺めで苦労のかいがあったと思いました。明神池の小屋で泊まることにしていたので下山しましたが、行きと違い楽でした。

 翌日上高地を散策して帰ってきました。

7 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(5) 八剱神社―  29期 仲田元昭     2021年8月投稿

 今回は8月号につき、夏祭りのご案内です。船橋駅より徒歩15分程の漁師町(湊町)にあった八剱(やつるぎ)神社で7月に執り行われる夏祭りをご案内します。

「八釼神社の夏祭り」

 漁師町である湊町の守り神の八剱神社は、江戸時代には前回ご案内した覚王寺の南東近くにありましたが、何度か火災にあい、明治41年(1908)に意富比神社(船橋大神宮)境内の金毘羅神社に合祀されました。

 船橋 八剱神社の夏祭りは、江戸時代より約300年、漁師たちの海上安全・大漁祈願等の願いも込めて、雄大に執り行われてきました。

「船橋 八釼神社の神輿・ゆすり込み」

「深川富岡八幡宮との比較」

 深川 富岡八幡宮と同じ、祭礼は3年に一度行われる例大祭(本祭り)とその間の2年間に行われる陰祭(かげまつり)、陰祭では神輿渡御は行われず、式典だけが行われます。

 深川は、水掛け祭りと言われていますが、八剱神社の夏祭りは神輿を左右に大きく揺さぶる迫力ある担ぎ方「ゆすり込み」で、昔は負傷者が出るほど、漁師らしく荒っぽい担ぎで有名です。

(「深川 富岡八幡宮水掛祭り」江東区HPより)


「8 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(6) 東光寺」に続く  「2021-7-25寄稿」

戯言&独言11                    21期 髙野 昇  2021年8月投稿

8月15日
戯言11

▼8月は遠いあの日の熱い日差しの中、76年前の15日の日を思わずにはいられない。学童疎開(山形かみのやま温泉)先での上級生のイジメに耐えきれず、両親に懇願し千葉県椎柴村(現銚子市)の伯母の家にまた一人で縁故疎開|。東京の家は大空襲で焼失していたので避難先の小岩での6畳一間での家族7人の間借り生活は無理。病弱の児童以外は東京に居る事も許されない状況の中での縁故疎開だった。戦争終結はこの地で迎えた。食糧事情が悪い東京へはすぐには帰らず、伯母の計らいでこの年の11月まで居候、おかげで3度のご飯は麦飯ながら3回食べられ、利根川や銚子に近い事もあり「鰻・イワシ・かつお・シジミ」など比較的恵まれた食事にありつけていた。伯母宅には大きな防空壕があり、かなりの米や麦、醤油、砂糖が隠蔽してあった。

▼帰京した翌年、「上野アメ横で小豆マメを売っている」との情報を得て母は弟を背負い、私は妹の手を引いて上野に向かった。大改札を出て階段を降り南口(当時は動物園口だったか)の地下道をアメ横へと向かう。その地下道には戦災で家族や住家をを失った人、戦争孤児などが広い通路に溢れ、濃い鼠色の汚れたコンクリートの壁に張り付くがごとくしゃがみ込み気力のい目、やせ細ったあばら骨、子供がてらにタバコを喫っている同年配の児、誰かに追われ逃げ足鋭く逃げる輩、そんな戦争孤児の大勢屯する中に学童疎開時に別れたK君が居た。この件については「同窓会報・2000年10月」に寄稿してありますが8月15日になると親子ずれであの地下道を歩いていた自分と、K君の恨めしそうな目ではなく、鋭い眼光が自分の頬に突き刺さった痛さは忘れられない。縁故疎開に行ったのか、お互い疎開に行く夏休み中に仲間で砂町へザリガニを獲りに行っていた。K君のその後の消息は不明である。私は綺麗になっている今のあの地下通路を今も歩くことが出来ない。

戯言11-2

▼もう一人、これは一緒に学童疎開に行った同学年のA君、終戦後学童疎開先の山形から帰省した時、上野駅で引率の先生が「それでは此処で解散」と言って自らは山梨県の故郷に帰った話。A君はあの空襲で家族が全滅しており、疎開孤児とも言われ、地元農家の養女として山形で晩年まで過ごした仲間もいた。彼はそれを承知での帰省であったが、あてにしていた叔父宅も一家全滅、落胆の結果焼け落ちた自宅前の風呂屋のボイラーの中で2年近く過ごし、もちろん学校にも行かず上野やアメ横を食を求めてカッパライ、置き引き、同世代へのカツアゲなどで彷徨い、夜はボイラー釜の中へ帰る。ある日通学する小学生をみて目覚め、わざと浮浪児狩り(いやな言葉です)に遭遇し保護された。以後2年遅れの義務教育と3度の食事にも恵まれ、中卒後自動車整備屋に住み込み、同じ施設にいた同じ境遇の2歳年下の女性と結婚し後年埼玉で自動車整備の仕事で自立、彼の自叙伝的な波乱に満ちた話はドラマにでもなりそうだと何回かの集まりで話をしていた。孫数人を残し70代後半で逝き、前述のK君の思いと併せ8月15日は悲しい思いが蘇ってくる。時の国家は「戦争孤児」「疎開孤児」を見捨てた。

▼疎開時、国民学校3年生だった自分、戦地で無残な戦いに召集された人、空襲の中家族を引き連れて逃げまくった母や父、その方々も高齢で語り部の役をする人も残り少なくなってきた。思えば生まれた時からキナ臭い時代だった。2.26事件・日中戦争・日米開戦・焼け跡・原爆投下・敗戦、この8月15日は私にとっては「終戦記念日」ではなく300万人の犠牲者を悼み 「敗戦・終戦記憶日」 であり記念日ではない。時の流れと共にいずれ 「へー?そんな事があったんだ」 と言われる時代が来てしまうのか。

▼戦後直ぐの夕刊紙にこんな”戯言”が載っていたのを兄が面白可笑しく話してくれたことがあった。

  〇天皇陛下の言葉 ・・・・・・・・・・・・・「あっ、そうー」・・・戦後各地を回った際のi会話での言葉

  〇東久邇総理の言葉に国民は・・・・「うっそうー」・・・・・・戦後直ぐの首相東久邇総理が「敗戦は国民一人一人にも責任あり」 といい国民に責任を転嫁

  〇国民の怒りは・・・・・・・・・・・・・「クッソうー」・・・・・・国民感情を逆なでる無責任発言に8000万民衆の声 

                                                                        ・・・・いずれも「う」がつき、かなりの戯言とみた・・・・

▼・・八月は 六日九日 十五日・・・・・(詠み人知らず)

6 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(4) 覚王寺―  29期 仲田元昭     2021年7月投稿

 今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内した不動院より2分程にある、文化財の灘陀龍王堂がある覚王寺をご案内します。覚王寺周辺300m程に7つのお寺があり地元では寺町とも呼んでいます。

「覚王寺」
 覚王寺は、真言宗豊山派で長命山金剛院と号しています。 創建は450年程前室町時代後期と言われ、本尊は大日如来、9ケ寺の末寺(不動院、圓蔵院他)を持つ小本寺格です。

「覚王寺灘陀龍王堂(文化財)」
 灘陀龍王堂は、総欅造・1間社流造で、寛永3年(1850)覚王寺により再建されました。

 

「覚王寺 本堂」

 船橋は、戊辰戦争・市川船橋局地戦で官軍兵の砲撃と放火により街の大半と多くの神社仏閣も焼失しましたが、灘陀龍王堂は焼失を免れた数少ない江戸時代の建造物で市指定文化財です。

 正面の龍、北・東・西面の彫刻は仙人や仙女が彫られ立体感ある表現で躍動感にあふれています。龍王堂には、海上守護の神、灘陀竜王が祀られ、毎年4月には護符が配られ、漁師町の人々の信仰を集めてきました。

「灘陀龍王堂と見事な龍の彫刻」


「7 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(5) 八剱神社」 に続く  「2021-6-25寄稿」

戯言&独言10                    21期 髙野 昇  2021年7月投稿

あの人・この人・・・印象に残るスポーツ選手(2)
戯言10

■白井義男・・・・・前回の水泳の古橋広之進選手は戦後直ぐその名を轟かせ、私が中学生だった頃から現在に至るまで日本のスポーツ界の偉人といっても過言ではないと思っています。今のように企業とのプロ契約もなくアマチュアとしで生涯をおくっていました。今回はプロとはいえ特異なプロボクサーとして、水泳の古橋と同じゅうして戦後のあの時代に華々しく君臨した白井義男は「日本人!ここに有り」を全国民に知らせたやはり偉大なスポーツマンでした。世紀の一戦、伝統の一戦など安っぽく聞こえる事が多い昨今、営業の為の商業的な言葉になっているが、昭和のあの頃(小生の三商在学中)|の白井義男の切磋琢磨による奮闘は金字塔でした。戦前のボクサー(当時は拳闘家と言っていた)については父からピストン堀口やヤリの笹崎など話には聞いていましたが何れも終戦前のボクサーでした。白井にはいつもカーン博士と言う人物が付いていて後日談としてカーン氏の存在がいかに白井の活躍に貢献していたかを知った次第です。白井は荒川区三河島の生まれ、戦後は軽い腰痛を持った無名のボクサーとしてコレと言うジムにも属さず、王子駅前に有った「王子百貨店」内にあったリンクで4回戦ボーイをやっていたそうです。ボクシング好きのカーンがたまたま王子でみた白井の動きにセンスを見出し、付き合いが始まったとか。カーンは生物學の大学教授だったのをGHQに懇願され敗戦国日本人の栄養改善や補給の仕事に就いていたようです。その為に牛肉をたっぷりと食べさせカルシュウムの補強による腰痛の克服、筋力の充実など今までの日本のボクシング界では考えられなかった科学的トレーニングから実行。あの時代牛肉などやたらに食する時代ではなかったはずだがそこはGHQ勤務のカーン、GHQのマッカーサーに直接懇願し、快諾を得てのことで、この点マッカーサ―は日本国民への思いが偲ばれます。「打たれたら打ち返す」と言う今までのこの世界の常識を「打たせないで打ち倒す」を基本とし、徹底したボクシングの基本,動作、駆け引き、試合後半でのアウトボクシングの展開、そして生活態度などを教えこみました。GHQ の引き合いもあり当時の世界チャンピオンのマりノをハワイから呼び白井に挑戦させたがあえなく判定負け、半年後にはこれもGHQの援助もあって今度はハワイに向かい再度マりノに挑みTKOで勝ち選手権への挑戦権を獲得しました。

戯言10-2

■昭和27年5月19日後楽園球場に特設リンクが設けられ4万5千人の観衆を集め、リンクサイトの観覧席は3500円とポスターにありました。今考えると特設リンクとはいえ全くのお粗末な設備で、町内会の盆踊りの櫓舞台とあまり変わらぬ印象がありました(写真)。TV放送は始まっていたものの受像機の普及台数は極めてわずか、繁華街にある街頭TVに人が群がりました。江東楽天地内の街頭TVも黒山の人でその中の1人が三商2年生の私でした。父は店番の為ラジオで聞いており担当アナの志村正順がかなり興奮気味の中継放送をしていたらしく「そういえば志村アナは荒川の三ノ輪の生まれだ、白井と同じ荒川区なら興奮するはずよ」 と父は言っていました。 試合内容は前半はクリンチが多く、背の高い白井と低いマリノではクリンチになるのは当然、 リーチのある白井のストレートやフックにあまり有効打が無くTV前の聴衆からも私を含めて溜息が出る雰囲気が充満していた憶えがあります。当時の世界戦は15回戦制で、後半に入りカーンの指示か白井は相手との距離をあけクリンチを避けるがごとくアウトボクシングの体制を取り始めストレート、フックが少しずつ的確、有効になていたようです。”打たせないで打ち倒す”これは数十年後の白井の著書にも書いてあり、最初からこの索をカーンから指示されていたとか。街頭TVの前に大歓声が挙がり3-0の判定、日本初の世界チャンピオンが生まれました。歴史的な日、昭和27年5月19日の出来事でした。この日を境に今までの拳闘と言っていた用語・言葉が日本から完全にボクシングと言う言葉に変わったと思います。肉体の改良、科学的に基ずいたメンタルトレーニングによる精神力の向上と充実などボクシングの全く経験のないカーンの理論的指導法が功をそうし、以後のスポーツ界にも滲みわたり世界に承認された瞬間でもありました。

■聞くところ、カーンはボクシングの経験は全くなく、大学で体育講師時代の体験だけの知識と理論からのものだったようです。白井は年齢、腰痛などで引退寸前状態でありカーンの理論には否定的であったがカーンの情熱と姿勢に専属契約をしたようです。カーンの「科学的トレーニング」に白井は自らの能力向上に目覚めていったと白井の著書にも書いてありました。肉類を大量に摂取、これはカーンがGHQ勤務で食糧事情の悪い国内では手にできない不可能を可にしたようです。試合後半、相手のスタミナ落ちをみてアウトボクシングに切り替える作戦は功を奏し世界チャンピオンになっています。数年後パスカル・ペレスに敗れ引退しましたが、身内の居なかったカーンは全てのマネージメント料を白井に與え、白井も彼の熱意、指導に家族共々感謝感動し彼が死に至るまで一緒に生活を送っていたようです。晩年、認知症になった彼を家族全員で幇助し、彼の精神、愛情と人間的な崇高さは忘れることが無いと白井の著書に記されています。

■戦後復興にまだ遠いこの時期、国民に立ち上がる力と勇気を施したカーン博士は1971年1月に79歳で、白井氏は2003年12月に80歳で黄泉に入り共に同じ墓所で師弟愛をそのままに眠りついている筈です。

5 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(3) 不動院―  29期 仲田元昭     2021年6月投稿

 今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内しました浄勝寺から徒歩2分程にある不動院と、門前で毎年2月28日に行われる市無形民俗文化財の、大仏追善供養のご案内です。

「不動院」

 不動院は、真言宗豊山派の寺院で総本山が奈良の長谷寺、関東大本山が東京の護国寺です。号は海応山、開基は700年程前の南北朝時代と伝えられ、本尊は不動明王です。

 現在の本堂は、昭和7年(1932)造営で、屋根の両端の飾り瓦は珍しい鴟尾(び)です。

 

「不動院 本堂」

「大仏追善供養」(市無形民俗文化財)

 不動院の前にある、この石造釈迦如来坐像は、地元では飯盛大仏とも呼び、今から270年程前の江戸時代中期に、津波によって亡くなられた人々の供養のため、地元の方の寄付で建立されました。

 その後、漁場の境界をめぐる争い中に船橋の漁師が、相手方の船に乗っていた徳川一橋家の武士を殴打したため、漁師総代3人が入牢、2人が亡くなる事件が起き、先の津波で亡くなられた霊と共に供養を行うこととなりました。 

 毎年2月28日に行われる大仏追善供養の行事は、大仏に白米の飯を盛り上げるように塗り付けます。これは、牢内で食が乏しく、ひもじい思いをしたのを償うためと言われています。 

「大仏追善供養の行事で白米が塗り付けられた 石造釈迦如来坐像」


「6 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(4) 覚王寺」に続く  「2021-5-25寄稿」

戯言&独言9                    21期 髙野 昇  2021年6月投稿

あの人・この人・・・印象に残るスポーツ選手(1)
戯言9

■古橋広之進・・・・・私の年代は勿論、戦後のあの時代に育った方々には忘れられない輝かしい人物です。戦後の水泳競技において数々の世界新記録を打ち立て、敗戦による落ち込みの激しかった国民に勇気と元気を与え、「日本人、ここに有り」を世界に示した人物で、それは政治家でもなく、科学者でもなく、戦時下の少年時代に浜名湖の岸に作られていた木枠だけのプール?で「魚より早く泳いでみたい」との思いで覚えた泳ぎの術を体得してのスタート。戦後日大在学中の日本選手権で自由形400米で4”38”4の世界新記録で優勝、しかし敗戦日本国の記録ゆえ公認記録として世界新として認められず1947年のロンドンオリンピックへも敗戦国の日本とドイツの参加はできませんでした。49年、国際水連復帰が認められ、これは古橋選手の全ての記録の功績大だった思います。この歳に古橋、橋爪、浜口など今では懐かしい選手が全米選手権へ招待され参加、これは当時のGHQ司令官マッカーサ―元帥の力添えで実現したと中学の担任先生から聞いていました。その裏ずけとして古橋らは司令部に呼ばれマッカーサ―元帥から「勝ってきてくれ、それが日本国民の心の糧になる」と言われたと十数年後の新聞のインタビューで語っていました。戦後日本人をジャップと呼び、日本のプールは距離が短いとか敗戦でストップウォッチも無いなど云われていた時期に彼らは活躍、古橋は400米・800米・1500米自由形ですべて世界新、この時「フジヤマのトビウオ・・The Flying Fish of Fujiyama」と米紙は絶賛したようです。今もTVの水泳競技放送で記録を言う場面で「‥‥フラット」と聞くと古橋広之進と言う名が自然と頭に沸いてきます。ここで記録した古橋の当時の1500米の世界記録”18”19”00というタイムは今この歳になっても記憶にはっきりと残っており最後の”00”をフラットと表現されていた言葉が今も心に残っています。

戯言9-2

■1952年、日本は戦後初の北欧ヘルシンキ五輪参加が認められましたが彼は思うような記録を持たぬまま選手としてピークを過ぎている中での五輪参加だった様です。その原因の一つに、かって米国への招待遠征中、宿泊先のホテルの部屋に用意されていた水を飲み、それが原因で「アメーバー赤痢」に感染しました。抗生物質薬などない時代、故郷での友人との語らいの中で「外国では飲み水には気を付けろ」と言われたことが頭をよぎったそうです。400米決勝では8人中の8位、フランスのボアトウ選手が優勝、感窮まったボアトウの父親がプールに飛び込み倅に抱きついている姿をニュース映画でみました。一瞬、敗れた古橋のカットもありその顔が印象的でした。布団の中で兄弟そろってこの実況放送聞いていました。この時、NHKで実況を担当していた飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の偉大な足跡と活躍なくして戦後の日本の発展は在り得なかったのであります。日本の皆様、温かい気持ちを持って古橋を迎えてやって下さい。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」私は布団にもぐり泪しました。翌日の教室ではもっぱらこの話題が中心で「橋爪ががんばるよ」と皆で話したものでした。HRでも担任の吉岡先生が古橋の健闘を讃えていました。数あるスポーツ放送はあるけれどこの飯田アナの放送は日本国民全員に感謝の思いと感銘を与えた言葉であり名放送だったと今も思います。この翌日にあった自由形1500米決勝で盟友橋爪四郎選手が銀メタルをとりながらも虚しく敗れた古橋を思い表彰台で悲しくて顔を挙げることが出来なかったとYOUTUBUで語っており、銀メタルも一切公開せず押し入れにしまいこんだとも語っていました。古橋は勝っても決してガッツポーズなどせず、スポーツの栄光と挫折は平等であると考え、ガッツポーズ、それは敗れた選手を思えば出来る物ではないとの心情とスポーツは謙虚に真っすぐに、明るく、強く、豪快に済ますべきのモットーを持っていました。ちなみにこのヘルシンキ五輪での日本の金メタルはレスリング・フリースタイルフェザー級の石井庄八選手の1個でした。古橋は引退後も水泳界発展の活躍も多く各種役員、国際委員などを経て五輪選手として文化勲章を拝受しています。古川勝、田口信教、鈴木大地、北島康介など世界的選手の礎となり、残念ながら2009年国際水連総会の在ったローマのホテルで心不全で亡くなりました。後日国内での葬儀にはスポーツ選手の葬儀でこれほどの葬列者が集い歴史的な告別の儀であったとスポーツ紙は報じていました。コロナ禍の中、東京五輪の開催の有無を古橋広之進氏は天国でどのように思っているでしょうか。私見ですが彼の精神を鑑みれば、このコロナ禍の中、人の命の重さの方が尊しと思っているでしょう。

4 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(2) 浄勝寺―  29期 仲田元昭     2021年5月投稿

 船橋には、50山(全国約77千山)の寺院があります。今回は、船橋駅より徒歩10分程にある徳川家康公が船橋で最初に休憩したと言われている浄勝寺のご案内です。

 浄勝寺は、芝増上寺の末寺で山号は西光山、今から520年程前 室町時代後期 明応5年(1496)に、浄土宗の念仏道場として、旧九日市漁師町に創建されました。

 広大な敷地(約2万坪)に、伽藍(鐘楼堂他)を有する大きな寺院でした。

 

「浄勝寺 本堂」

 江戸時代には、徳川家康公の鷹狩の休息所として使われ、天正19年(1591)家康より10石の寺領の寄進を(御朱印状)賜っています。

 墓地には、戊辰戦争が終結した後、新政府より船橋周辺の警備を命ぜられ、九日市に捨置いていた兵糧米の調査の為出張中、脱走した賊徒が旅館に乱入し、賊徒に襲われ亡くなられた尾張藩磅礴隊(ほうはくたい)3名の合葬墓があります。

 合葬墓は、尾張藩磅礴隊の武士が中心となり、ここ浄勝寺に埋葬されました。

「尾張藩磅礴隊の墓」


「5 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(3) 不動院」 に続く  「2021-4-25寄稿」

戯言&独言8                    21期 髙野 昇  2021年5月投稿

最近殆ど使われなくなった言葉、私達の年齢(1935生)で下町育ちは当たり前に使っていた話しことば、今は「死語」となりつつある言葉など思いつくままに記します。

●「セコハン‥‥」兄弟や身内、近所の方などから譲られた衣類や道具のこと。私は小六の卒業式や遠足の際は総領の兄(私は四男)が着ていた慶応型制服と言われていた紺色のサージの生地の上着を着ていた。総領の長兄((大正14年生・6年生で逝去)の中学進学のため両親が大枚をはたいて買い求めたものだろう。いつも母は「よそ行きなんだからね」と念を押すように言い、二男、三男の兄2人も着ていた。小生は四代目でこれぞ・セコハン・の窮まり。兄弟の「お譲り」を着る・使うのは当たり前の時代だった。私が三商に入学の時に着帽していた制帽は五歳上の兄(16期生)が入学時に購入したもので私は三商二年生の2学期まで被っていた。帽子のツバがボール紙で出来ており雨の日は被らないようにし、最後は生地もツバもボロボロになっていた。戦後に笠置シズ子が「セコハン娘」と言う歌を唄いヒットしていた。

戯言8

●「逢いびき‥‥」今で言うデイト。{逢いびき}というイギリス映画があった。刹那さと哀愁を感じる「逢びき」とか「逢う瀬」とか「忍び逢い」など漢字を交えて書くと切なさ・遣る瀬ない思い・人目を忍ぶ仲など情緒と哀愁と秘めた情熱があふれる何かを感じさせる。軽い気持ちでの今風の男女交際には全く合わない言葉となった。

●「お湯屋‥‥」何時ごろからか銭湯と言い出したのか。銭湯なる名は昔から知っているが下町では「お湯屋」とか「お風呂屋」と言うのが通常だった。お湯屋の煙突には必ずお湯屋の名が書いてあった。私の育った亀戸辺りでは子供仲間や家庭の会話では「おいや」と言っていた。戦前の亀戸の住まいの半径500米以内に4軒の「おいや」があった。有料で背中を流して軽く肩を叩いてくれる裏方の小父さんが居て「三助」といっていた。水っぽい女性などは風呂に行くのは「おぶに行く」などと言い、親が幼子に水や白湯(さゆ)を与える時なども「おぶ」と言っていた。

●「やっちゃ場‥‥」野菜卸市場のこと。下町には神田市場、両国・千住等にあり今神田市場の跡地はヨドバシが建つ。最近スーパーの野菜売り場で「やっちゃ場市」と銘打っている処がある。

●「タッパ‥‥」タッパがいいねなど、体格が良くで背が高く格好のいい人などに使われ、今でも建築関連で高さの事を「タッパは○○メートル・・」など使われている。余談だが先日、昔出入りしていた大工さんに久し振りに会ったが当時と変わらぬタッパの良さは昔と変わらず小粋な老人になっていた。

●「停留所・停車場(テイシャバ)‥‥」バスや都電の乗降客が乗り降りする場所。都電の停留所(写真)は道路の真ん中にあり一段高くしてあり、夜には独特なデザインの標識灯に灯りがともり停留所名が良く分かったものだ。停車場は主に始発駅を停車場といっていたかも。下町では上野や両国(かっては千葉県内を走る総武本線の始発駅)など。バス停などの言葉は今風。

戯言8-2

●「カムカム英語‥‥」戦後直ぐに夜6時頃から放送された平川唯一氏の英会話指導番組で”証誠寺の狸ばやし”のメロディーに「♫カムカムエーブリボディー♬・・」と英語の替え歌で始まる番組。彼は元NHKのアナで、米国に住んでいた事はあっても英語教師の経験も資格もないズブの素人で終戦のあの日、天皇の詔勅を自ら翻訳し世界各国に向けこれも自ら朗読し電波にのせた凄い人。放送の中で「英会話は口真似で覚えるのが一番良い」と言っていたのが記憶にある。この番組で会話をマスターした人は皆無だろうが替え歌だけは子供同士の間ではやたらに流行り今も口ずさめる。私が最初に覚えた英会話は「ギブミィーチョコレイト アンド チューインガム・・」と「サンキューベリマッチ・・」だった。

●「あたい‥‥」自身の事をこう言っていた。男女の区別なしの言葉で「僕」とか「私」なんて言葉は小さいこども同士で下町で使うのはタブー。「かっこつけやがって!」と言われるのがオチ。幼少期からそう言っており小學高学年あたりから小さな声で「俺」なんて言い始め年下の子に少し偉ぶったものだ。職人や商人(あきんど)が多かった下町では子供達が当たり前に使っていた一人称。その親たち大人は亭主や話相手のことを「あんた」と称し略して「あーた」だった。

●「手拭(てぬぐい)‥‥」今、正月用の「お年賀」の挨拶代わりにタオルがあるが、以前は手拭が圧倒的でタオルは高級品だった。利用範囲の広い30㎝×70cmくらいの大きさで木綿の染物。風呂には当たり前に使用、半分に切って台所の布巾にも。少し使い古したものは赤ん坊のおむつになり2枚使う。使い古した手拭は柔らかく赤ん坊の柔らかなお尻には最適。我が家は商売をやっていたので盆・暮には仕入れ先の問屋が2.・3本ずつ持ってくるので、いつもトランク一杯の手拭が有った。父親や子供達の寝巻はいつも新品の手拭で母が仕立てた寝巻になっていた。夫々の問屋の名入りのものがまちまちにあり、背中に鰹節問屋、前身ごろに漬物問屋、裾には佃煮メーカーなど色とりどり。小中学に通学の際、きちんと折り畳んで腰のベルトにはさみ下げていた。今の我が家には紺地の染に白ヌキの吉原繋ぎの粋な紋様が入った染手拭がインテリアとして飾ってある(写真)。亡き細田武兄から三社祭りの記念に戴いたもの(写真)豆絞りの手拭と共に江戸の祭りには欠かせない。浅草仲見世には専門店もある。手拭はその使命を済ませ民芸品化しつつあり、タオルにその使命を譲ったけど、そのほとんどが中国製。

●「アッパッパアー‥」カーちゃん、オバちゃんらの主に夏用のワンピース。洋装のつもりでもなく下駄かサンダルでちょいとそこまで的なワンピース型の女性用夏の簡単服。木綿なので洗濯簡単、お袋などは下着のシャツもつけず直に着用し商売をしていた。首回りには手拭を架けていた。今若い人がロング目のワンピースがはやっているが、私から言えば「今風アッパッパァ」。サザエさんの母のフネさんが着ている時もあった

●「おいら‥‥」複数形の言葉らしからぬ自身のことを表現するのに使用していた。映画、裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の中の唄に「♫おいらはドラマー、…おいらが叩けば嵐を呼ぶぜ‥♬」とある。ビート・たけしが今でも良く使っている。個人、複数人どちらにも使ってはいたが個人の表現に使っていたが「俺は‥」が「おいらは」になちゃったか。

●「ガリ版・謄写版・そしワラ半紙・・・・」これは完全な死語。手書きの原稿、校内試験問題や父兄への連絡事項、生徒への通達など蝋引きの原紙に鑢(ヤスり)を下敷きに鉄筆のペンで書きこむ。それを謄写版にセットして1枚ずつ用紙に手刷り印刷?。今思えば原始的でも画期的な用具で職場、学校には必ず有った。その用紙がワラ半紙  わずかに黒っぽく薄いグレーっぽい、時折5ミリくらいのワラと思える屑が入っていた。実際にはワラは使用せずぼろきれ繊維が使われていたらしい。楮(こおぞ)などから和紙を梳いていた歴史からワラを思いついた人は素晴らしい。À3まで可能だったか。今はA4コピー用紙全盛がとって変わった。

77歳9ヶ月                  29期 土方敏之     2021年5月投稿

 まず、謝らなければならない事をしてしまったので、謝ります。

 前回のホームページの原稿を掲載する時に、Aさんの原稿をどうしますか、との問いに、1掲載に1,000字以内と解っていたが、載せて良い、と指示しました。

 それにより掲載されました。 先日、夢を見ていてその件が出てきました。してはいけない事をした。それも規則を破って。これは罪であり罰を受けるべき。と何回も出てきました。

 よって、今回はその罪に対し罰をどうするか。結果、罰として投稿を止める事。そして規則を守る事。が浮かんできました。よって、自己申告なのでこれで許してもらいたいと思います。

 同窓生の考え、思い、行動等をこのホームぺ―ジを利用して、発してもらい、読んだ同窓生が自分の考え、思い、行動と合わせて考えて、安心したり、感心したりする。そして思いが通じ結束につながる。同窓生の皆様、ホームページを利用してください。あなたの思い、考え、行動の原稿をFAXやメールで連絡お願い申し上げます。

3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮―  29期 仲田元昭     2021年4月投稿

 船橋には、70社の神社(全国約85千社)があります。今回から、船橋駅より2時間程の街歩きのご案内です。街中コースにある15の神社仏閣を巡る街歩きの出発です。最初のご案内は、船橋駅より徒歩15分程にある、船橋を代表する神社、船橋大神宮です。

 創建は、今から1900年程前と伝えられ、史書「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(延長5年=927)に意(お)富比(おひ)神社(じんじゃ)の名がある船橋市を代表する神社です。 

 いつの頃からか「船橋大神宮」と呼ぶようになりました。主祭神は天照皇大神で、南の鳥居の右に「延喜式内社意富比神社」の大きな石碑があり、平安時代に官社として認定されていた由緒ある神社です。 

「船橋大神宮 門・玉垣」

 天正19年(1591)徳川家康より「常磐の箱」に開運の旗と陣弓を本殿に納められ、江戸開府の頃より家康公は度々参詣され、50石の社領の寄進が十四代将軍家茂まで続きました。

 戊辰戦争では、旧幕府軍の本陣が置かれ、新政府軍との戦いで神社と周辺は戦火にあい焼失しました。現在の本殿は、明治になり造営された建造物です。

「船橋大神宮 拝殿、神明造り、本殿は更に奥にあり」


「4 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(2) 浄勝寺」 に続く  「2021-3-25寄稿」

戯言&独言7                    21期 髙野 昇  2021年4月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その3)

▼インフレと食糧難、住居難、失業と全てに困窮の最中の1945年(昭和20年)からの5年間近く、庶民にとっての唯一の娯楽はラジオであった。「リンゴの唄」は終戦の2・3か月後に封切られた松竹映画の挿入歌。空襲の焼け出されにはラジオなど無かった時代、焼け残った小岩のラジオ屋の店頭から流れたこの曲は圧倒的な勢いで全国を風靡した。教科書も進駐軍に没収されていて、音楽の時間には先生のオルガンの伴奏で「リンゴの唄」や、他に「みかんの花咲く丘」なども授業中で歌った記憶がある。「リンゴの唄」の作詞者サトーハチローの詞は勝つぞ!とか皇国ニッポン!などもなく、はっきり言えば内容的にはなにを言わんか未だに疑問だが彼は後にあの「長崎の鐘」や「小さい秋みつけた」などを作詞し純真でユーモアに溢れ、泪脆い人だった。GHQは放送に厳しい規制を引き戦時歌謡は姿を消し、学校帰りに4・5人で「暁に祈る」を唄っていたら道すがらの酒屋の小父さんに「そんな歌、唄ってるとMP(米軍警察)に捕まるぞ」と笑いながら注意された。「リンゴの唄」は戦時中、「♬天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の‥‥♪」なる歌を学童疎開先で唄っていた半年後の明るい歌だった。

▼番組のテーマ曲は全てがクラシック系でGHQの意向そのままに「真相はこうだ!」と言う番組があった。旧日本軍の各地での戦闘を「実はこうだった」風にGHQが制作し放送、アナの語りで旧日本の暴走・暴虐・無謀を暴く番組だった。国民の誰もが真意はともかく納得したものだった。今になって戦争史と比してみると戦勝国のプロパガンダが含まれていたとは言えほぼ当たっていたかも。夜の放送を家族揃って聴いていた兄が「ガダルカナル海戦は負けていたんだ」と言っていた言葉を今になって昨日のように思う。復員だより・尋ね人の時間・配給だよりなど、「尋ね人」の放送で何人の人が、何組の家族が再会できたのか。「配給だより」では毎日が「○○の3班、スケソウタラ」なるニュースが續き、今もタラコを食する度に思い出してしまう。

戯言7

▼「のど自慢」「産業の夕べ・炭鉱へ送る夕べ・農家へ送る夕べ」・・(♫農家の皆さんこんばんわ‥♪)など復興をめざして各地で働く労働者に送る番組が多々あった。内容はどれもほぼ変わらずタイトルのみが記憶にある。芸人が2・3出ての物であったが「のど自慢」だけはよく聴いていた。一小節で鐘が一つ鳴り不合格、少し長く唄わせ鐘が三つ以上鳴れば合格。楽しい放送であの美空ひばりも出場参加していたとか。「異国の丘」はこの番組から発信され、のちに数多くの参加者がこの番組で歌っていた。「鐘の鳴る丘」と「異国の丘」は唄えぬ人は誰一人として居ず、当時のベストヒットソングだった。漫才コンビの内海突破・並木一路が良くラジオに出ていて内海突破が驚いた時に言っていた「ギョッ!」なる言葉、子供同士の会話の中で下町でははやった事がある。

▼「進駐軍放送」・・米軍兵士向けの放送(WVTR)が始まり軽やかなアメリカンポップスが流れそのころはそれらを全てJAZZといっていた。今までさんざん聴かされた戦時歌謡や股旅ものなどとは違う、沈んでいる心が少し浮かれ、リズムの軽快さなどが子供心にもなにか永い呪縛から解き放された感を憶えさせる放送だった。街の若者達のアマチュアバンドが現れ避難先の小岩の街にも出現し、家屋疎開跡地の空き地の広場での演奏を兄弟で見に行くのが楽しみだった。そのアマバンドのテーマ曲が1930年代の米国のヒット曲「素敵なあなた」 ♬バイ・ミー・ビスト・ドウ・シェン…♪ でこの時憶えたメロディは私にとって最初のJAZZだった。数年後、ラジオ東京の朝番組のテーマ曲がB/グッドマン・コンボが奏でる「シャイン」でこの曲に送り出されるように三商への登校に向かった。懐かしい名曲、軽やかでリズミカル、今でもYOUTUBUで見たり聴いたりしている。銀座の「テネシー」と言うJAZZ喫茶に通っていた三商時代、そして今もってJAZZが好きで好きでいられるのはあの時以来の延長なのである。

▼「話の泉」・・その時々の時事の話題をゲストを交えてのトーク番組。クイズ的な所があっても今の様に正解者を表彰することなく解答者の蘊蓄や雑学的な知識を出し合うもの。司会アナはあの和田信賢で戦前からの名アナ。8月15日の天皇の終戦詔勅、いわゆる玉音放送の時のアナでもあった。日本が戦後初の五輪参加(昭和27年)の際ヘルシンキに中継放送の為に派遣され、その開催中に逝去。昔日、相撲の双葉山の連勝記録が消えたときの実況アナでもあった。彼は戦後直ぐの大相撲の放送をし相撲には戦前からかなりの蘊蓄を持ち著書もある。報道、スポーツに長けたアナだった。話の泉の解答者は徳川無声・サトーハチロー・山本嘉次郎(黒澤明の師匠)・渡邉紳一郎(朝日の記者?)などで、かなり知的な番組で兄二人がよく聴いていた。東京五輪の頃まで続いていたと思うが司会は高橋圭三アナに代わっていた筈である。かなり知的な番組であった。

戯言7-2

▼「とんち教室」・・「大喜利」のはしりのような番組だった。司会の青木一雄アナを先生として解答者は全員落第生と称され、でもその解答振りはユーモアと駄洒落・戯言などが色濃く、粋な側面と笑いのセンスを持ち合わせた楽しみな時間だった。落第生、イヤ生徒は石黒敬七(元柔道家、いつもサングラス姿)落語家の柳橋、三味線豊吉(端唄、俗曲などの三味線弾き)など、今のバライティ等には決して見られない,聴けない駄洒落と粋なユーモアに、それこそトンチンカン満載のお笑い番組だった。今のお笑いタレントのバカバカしさと比べて雲泥の差を感じる。

▼[向こう三軒両隣」・・月~土の夕方に毎日放送されていた。人力車引きの坂東亀造さん(巌金四郎)や山田のおばあちゃん(伊藤智子)など、どうってことはない日常の生活ぶりを、戦争の暗い闇から解き放された市井の庶民の生活ぶりを、明るいホームドラマを通じて新旧の考え方が混りつつある世相をそれとなく教え、時には皮肉ったりしてくれた番組。亀造さんの仕事に行く時の「あらよっと!」の元気な声が印象に残る。TVが始まり毎夕「バス通り裏」と言う15分の夕ドラ番組があったが「無こう三軒・・・」の時代から少しずつ進捗していくのが判った。

▼{カムカム、エブリボディ・・」 「證誠寺の狸ばやし」のメロディーに英語をかぶせ、平川唯一なる先生が英会話を指導。世間ではカムカム英語と言っていたがこの放送で英会話をマスターした人は恐らく皆無だったろうが、子供の間ではこの英語の替え歌だけは流行っていた。あの頃の我が家では、確か夕方の5時か6時からの放送だったので、母が夕食の菜っ葉や大根や芋入りの「雑炊」を支度する時間の時計がわりだった。小生カムカム英語の英文替え歌のテーマを今でも最後まで唄えてしまう。かなり長い年月の放送だったようだが中学時代の英語教師のU先生は「平川は英語は”耳から憶えるのが基本”など放送でよく言っているが英語の基本は発音から始まるものだ」と唱えていた。鉛筆をペンシルと皆が言っていたら「それが大間違いだ、正確に発音すれば”ペンソウ”だ」だと言い、生徒としては「どっちでもいい事なんだけど」の判断、そのU先生の綽名は以後・・ペンソウ・・となった。余談だがこの先生は後日レッドパージと言うGHQの社会主義的公務員の公務追放で教職を追われ、最後の別れの挨拶で言った言葉は「英語を学んで世界を見ろ」だった。私が最初に覚えた英語?は小学校4・5年生の頃か「give me chocolate」だったのが何故か侘しい。平川唯一自体英語の指導の経歴はまったく無く、親の仕事の関連で数年ほど米国に居住していただけ、開戦前に帰国しNHKに入り、あの8月15日の玉音放送を自ら翻訳して世界の電波に自らの英語の音声で放送した人物とか。玉音放送の陰の主役であったことを20数年前か「文藝春秋」主催の講演会で故半藤一利氏が語っていたのを紀尾井町の”文藝春秋ホール”で聴いたのを半藤氏の逝去(令和3年1月)を聞き改めて思い出した次第である。藤倉アナの「街頭録音」なんかも思い出す。「三木鶏朗の日曜娯楽版」は世相を皮肉るお笑いコメディだったがGHQの圧力で短命で消えた。この番組に三木のり平が出ていた。

写真説明・・・・かつてのNHK(千代田区内幸町)|

77歳8ヶ月                  29期 土方敏之     2021年4月投稿

今朝の夢、覚えているのは、柳田が隣に座っている。右の方から連なって歩いてきた中に、30代の痩せている私の父親がいる。ぐるっと回って私のそばにきた時に、柳田に父を紹介した。そこで目が覚めた。1時半だった。あと続きをみようとしたがつながらなかった。

私の父は、30代に築地市場で「大六」という問屋で働いていた。そして直腸ガンにかかり痩せていった。その頃の写真の顔が夢に見た顔だった。術後は太らせろ、との医者の言葉に、甘いもの、天ぷらとドンドン食べさせ、61歳で他界するまで太っていた。私が三商で柳田に会った時はもう太っていたので、痩せていた父の顔をよく知らなかった。5時に起きて神棚、仏壇と水を替え「おはようございます、今日一日よろしくお願いします」と祈ります。仏壇の脇においた柳田の戒名「貫雲慈保信士」の前で「柳田、おはよう」と挨拶をする。

今日は、孫が新中学生になる入学式の日。今日一日何があるのか楽しみだ。

初節句                       26期岩瀬和子   2021年3月投稿

この写真は80年前の私の初節句の写真です。のびた手は母の手だそうです。

私は母が結婚して5年目に生まれました。初の内孫だったので、祖父、おば達にとても可愛がってもらいました。19期の中山さんの瓦版をいただくと、戦前鶯谷駅の近くでもらったなつかしい味を思い出します。内裏雛が二対あるのは、知り合いから一対と大きな羽子板をいただいたそうです。少し大きくなり羽根つきをしようとしましたが、大きく重たくて出来ませんでした。

 こんな古い写真よくあったとお思いでしょう。『実は花嫁道具、高く買います』というチラシがありました。結婚する時、友人の家具屋さんから、良いのを買ったのでいずれ処分しなければならないので高く買ってくれればと思い電話しました。

 査定に来てくれましたが大きくて売れない、と云われ六万五千円で引き取ると云われ、粗大ゴミのほうが安いのでやめました。その時和服のタンスを整理していて、封筒に入った写真が出てきました。この写真は母の実家のおじが、私達は空襲で焼けて無いだろうとくれた写真です。父が写真屋さんで複写してもらいましたが、セピア色した当時の写真もあります。結婚する時、持ってきたものです。

 写真館で写したお宮参り、3歳のお祝いの写真、父の友人が写してくれた多分誕生日でしょう。着物を着て、きれいなゆだれかけをかけ、父に抱かれたのと、一人の写真、父の出征の時に家の前で映した、祖父母、おじ、おば達、母と私。兵隊の面会日の写真、祖母、おじの知り合いの人、母と私、おぼえていませんが、なつかしい人たちの写真です。

 私にとって貴重な写真、あの世へ持ってゆきたいと思います。

2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)―     29期 仲田元昭     2021年3月投稿

 街歩きのご案内の前に、船橋の歴史についてご説明します。

「古代」

 船橋は、約15,000年前縄文時代より人々が住み、昭和7年に竪穴式住居跡や炉穴が日本で最初に発掘された市の史跡である7,000年程前の飛ノ台遺跡(市の史跡、東武新船橋駅より徒歩5分程)他、市内には150を超える遺跡が発掘されており、千葉県は日本一遺跡の多い県です。

 北部の小室台遺跡は、市内で初めての前方後円墳が発見、また発掘で小さなバイオリン形「土偶」も発見され、平成30年春の東京国立博物館の特別展に展示され、秋にはパリ「縄文展」に展示されました。

 「中世前半(平安時代、鎌倉時代)」

 中世には内陸部との交通の要所として、また東京湾では鎌倉の外港六浦を中心に海上交通による交易により、人や物資の動きが活発に行われ、船橋湊、二子浦(葛飾浦)この港から鎌倉や伊勢神宮の安農津に物資が輸送されていたようです。

 「中世後半(戦国時代)」

 15世紀後半、房総では千葉氏の内紛が起こり衰退すると共に、里見氏や武田氏、北条氏が台頭し、国府台合戦が起こりました。市内には、夏見城址、金杉城址等16の中世の城跡の土塁が発見されています。

 「江戸時代」

 徳川家康が江戸入府後、早々に家康公より船橋大神宮に50石の社領、浄勝寺に10石の寺領が寄進され、船橋大神宮に家康公は4回程参拝されたと言われています。

 その後、家康公の東金方面への鷹狩の宿泊場所として慶長19年(1614)頃に船橋御殿が造営され、大坂夏の陣が終わったその年、元和元年(1615)11月25日、鷹狩の帰りに千葉県で最後の宿泊場所が船橋御殿です。

 その際、漁民達が生魚・貝を献上してきたことに喜び家康公は、船橋の漁民に独占漁業権を与えられ、その後新鮮な魚介類を江戸城に献上する等船橋は徳川将軍家と大変関係の深い誇り高い街です。

 船橋御殿には、家康公が2回、二代将軍秀忠が10回、三代将軍家光が1回宿泊及び休憩をされたと伝えられています。

   「3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮―」に続く

                       「2021-2-25 寄稿」

戯言&独言6 「闇市」                21期 髙野 昇  2021年3月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その2)

▼戦後とか終戦後とかなる言葉も今や“死語”となりつつある。1945年つまり昭和20年8月15日以後からのこと。その日は皇国、軍国主義がひと晩で変わり、私は国民学校4年生であった。歳を重ねて記憶もまた薄らいでゆく中で、あの時代に生きた人間がそれも子供の眼で見た「こんなだった」時代は年老いても忘れる事が出来ない鮮明な時の流れでもある。かなり以前に孫に「終戦って、いつの、どの戦争のこと?」と聞かれた事があったが、そういえば私が生まれる以前から日本は戦争ばかりだった。

●闇市…‥‥都内、及びその近郊の国鉄(JR)の駅前には必ずあり、戦時中は駅周辺の建物は空襲爆撃の延焼防止の為、建物は取り壊されこれを当時は建物疎開といっていた。建物にロープをかけ人力で倒す、この時代、疎開は人だけではなかった。駅前は、それが戦後の”闇市”広場となる。下町の大空襲で焼け出され小岩に避難生活していた頃で小岩駅前の駅前通り(現フラワーロード)が小岩の闇市通リであった。煮炊きしたものはあまり見かけなかったが鍋・釜・しゃもじ・軍隊で使用していた軍靴・靴下・衣服などの復員兵が持ち帰った物等の新品中古は問わず、他にするめ・ふかし芋、野菜類など、統制令の徹底で米・麦・等はさすが店頭にないけれど、一寸横丁の路地に入ったしもた家(普通の民家の事でこれも今や死語)等で、知り合いの家庭には醤油や、やたらショッパイ味噌・軍隊で使用していた濃縮醤油がもちろんヤミ値で分けてもらえた。店を出さずにヤミ屋をやっていたのである。大宅壮一がTVの発展時に唱えた「一億総白痴化」ではないが「一億総ヤミ屋」であった。

戯言6

●我が家も市川に居た酒屋さんからヤミ醤油を週5・6本仕入れ母は弟を背負い、綿入りのねんねこ半天の大き目の袂に1升瓶2本を隠し持ち、私も学校カバン(旧軍隊のヤミで買った払い下げ物)にヤミ醤油を隠しもって小岩ー市川間の千葉街道に架かる江戸川の市川橋を渡った。踏切りと同じゲイトがあり警官の検査と検問に時々遭遇したがいつも巧くパス、両親曰く「子供や子供連れは…検問の対象にしていない…子供連れは捕まらない」といっていたので何時も私が同行していた。よって私も醬油のヤミ屋の一員で、手助けをしていた事になる。醤油は知り合いの注文があって仕入れに行くので在庫はせず、ヤミ市場で捌く事はなかった。当時のクラス仲間のA君が「うちの父ちゃん、時々ヤミ市でロウソク売ってんだ」と言い見に行った事があった。どこで仕入れたのか、A君の母の実家が埼玉在のお寺の娘だったんだと後のクラス同窓会で聞いた。仏壇用の5㎝位のロウソクを5本に束ね3束で10円で売っていた憶えがある。当時は夜間の停電は日常でロウソクは貴重品だった。ある日”卵”を売っているのを私が見つけ急遽母に教えて母が駆けつけてよく見てみるとそれはピンポン玉だった。このエピソードは母が亡くなるまでよく笑いながら喋っていたのを思い出す。卓球用のピンポン玉が卵に見えてしまった悲しい思い出である。

●都内の大きい闇市で有名だったのは新橋、新宿、渋谷、上野あたりでその後の渋谷などを含め戦前の悪質な香具師などが進出、身寄りもなく帰る処のない復員兵(軍隊の帰還兵)や予科練崩れの輩などを組員にして一家をなしたヤクザ組織が多かった。今も渋谷・新宿辺りに「〇〇横丁」と言う狭い路地の飲み屋街があるがその殆どが当時のヤミ市の名残の土地だろうか。上野の「アメ横」のルーツもここにあるが、その後の健全な連帯意識と組織を築き上げ庶民に親しまれて築地の場外市場の賑わいに負けない、築地にはない「なんでもあり」の賑わいがある。

●駅前を走るジープを見付ければ「ギブミーチョコレイト!」と叫びながら友人とジープを追いかけたあの日、昭和21年頃の小学校4・5年生の頃の自分の風景である。いつも一緒にジープを追っかけていた同輩のM君が米兵が投げたチョコレートを食べ乍ら「アメリカはこんな旨い物喰ってりゃ戦争に勝つョ」と言った。正にそのとうりで頷ける、今に思えば正論だった。戦争は酷いもの、戦後もまた酷いものだった。

77歳7ヶ月                  29期 土方敏之     2021年3月投稿

 老いとは 筋肉が無くなり踏ん張りが効かなくなることか 物事を考えられなくなる事か 視野が狭くなる事か ひとりで生活できる事か 今朝はそんな事を考え、また眠ってしまい、起きるのが1時間遅くなってしまった。確かに筋肉のない状態は腕を曲げてもこぶはできないしお知りのソフトさも触ると感じる。反応も遅いし出来ない時がある。

 考えるのもじっくり考えないで答えを出してしまう。口が先に反応してしまう。新聞を読んで何がどうなっているのか突き詰めていこうと思っても、題だけで中に突き進めない。

ひとりで生活する 時間とすることを大雑把に考えると出来るとなる。朝起きて掃除、洗濯、朝食、新聞を読み、今日一日の計画、昼食、3時のコーヒータイム、夕食(飲んで食べるので時間は1時間)、夕刊を読んでテレビを観て寝る。これはこれで良いと思う。しかし、これを続けることは耐えられない。食事の中身が問題だ。朝は夕食の残りか昼はパンか 夕食は身体の事を考えると野菜と魚と肉の料理。出来ない やはり妻に もう少し生きていて貰うしかない。となる。

1 我が街 船橋を歩く―船橋のご紹介(1)―     29期 仲田元昭     2021年2月投稿

 街歩きのご案内に入る前に、船橋の魅力、歴史を2回にわたりご紹介致します。

 船橋市は、人口64万人を超える千葉県で初の中核市となり東京から約20km、総武快速線にて25分と近く、首都圏の通勤圏として昭和30年代後半より人口が増加した、歴史ある自然溢れる今でも首都近郊で江戸時代より唯一漁業がおこなわれている街です。 

 住宅街、農業、漁業、商工業とバランスよく融合した、首都圏で若い方が是非住みたい街のトップになったことのある街(民間の調査機関)でもあります。

 最近、市内で開発された約1500世帯の「森のシティ」住宅街が(AGC-旧旭硝子-船橋工場跡地)、平成28年世界で

 初めて国連が提唱する「エコカルティ」認証制度(環境配慮型住宅地区)を受賞しました。

 この住宅街は、電柱を地下に埋蔵し高さ11階建てに統一、景観・省資源・環境に配慮した街で、船橋市の駅北部の工業地帯が素敵な住宅街・商業施設へと変身中の、歴史の詰まった魅力ある街です。

「灯明台 (県指定有形文化財)」       (船橋大神宮境内 明治13年建造 当時最新鋭の官営の私設灯台)

「2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)―」に続く
                2021-1-25寄稿

戯言&独言5 「預金封鎖」              21期 髙野 昇  2021年2月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その1)

▼食糧難・買出し・預金封鎖・ヤミ市…日本の最も長かったあの苦難の五年間、常識や良識が全く通じなかった時代。しかし昭和31年の経済白書の序文に「もう戦後ではない」と書かれ、当時の流行語にもなっていた。昭和25年からの朝鮮戦争による特需で戦後の復興政策から一歩前にでた様子を言っていたのか。「あの時代はもう忘れろ」と国民に無理強いしているとしか私には受け取れなかった。

戯言5

●超インフレ‥‥食糧難と同時に襲ってきたのが天井知らずのインフレだ。戦時中に費やした膨大な軍事費、戦勝国への賠償などで超貧乏国に陥ったので当然のインフレとなる。終戦一年後、当時父がメモ的に書いた家計簿を兄達と子供心にチラッとみた事があったが、(我が家は7人家族)兄の計算では支出が1ヵ月720円とあった。貨幣価値など知らぬ私が判る訳もなく、親にどの程度の余裕や郵便貯金があったのか知る能力も予知もなかったが長兄だけは少し行く末に不安をもっていたようだ。当時兄は三商4年生(16期)で、後に公認会計士になった素地があったんだなと後年思った次第である。PCで当時の物価を調べてみるとリンゴが2個10円、大根1本8円、‥等々、煙草のピースが7円でただし販売は日曜日・休日のみ、ガソリン1Lが1円20銭、国家公務員初任給大卒で540円、ただし首相は3000円、議員1500円とあり国鉄(JR)初乗りが20銭(一円の五分の一)とある。煙草愛煙家はトウモロコシの毛を乾燥し英和辞典のインディアンペーパーのページを破きそれに巻いて手製の巻煙草を作り喫っていた。捨てられた”吸い殻”はそれを拾い集め寄せ集めのヤミ煙草を作りヤミ市などで再販、棒の先に針をくくり”吸い殻”拾いの専門の輩もいた。

戯言5-2

●預金の封鎖‥‥終戦半年後、突然各自の個人預金が封鎖された。ほとんど貯金もなく、父はかっての食料品店の縁で醤油統制会社の配給関係の仕事で僅かな給与を貰っていたが、なんせ7人家族、兄2人は三商の中学生(当時は旧制5年制)で零細な僅かの預金での食いつなぎの中での突然の預金封鎖で自由に引き出せない非常事態が発生した。旧紙幣の使用期間は一か月のみ、その為各人は手元の10円以上の紙幣は全て口座に入れ新紙幣で引き出す。その間の生活費は1世帯500円、1人ではなく1世帯500円であったと思う。この寝耳に水の発令で、預金封鎖は政府がその後の「新円切替え」を半年後と決めた為で、しかし新円紙幣印刷が間に合わず止むをえず旧紙幣に切手の様なシールを貼る緊急手段をとった。父はわずかばかりの手持ちの紙幣を握りしめ小岩駅前に有った当時の「国民貯蓄銀行」に駆けつけ長蛇の列と待ち時間の洗礼の中、持ち込み紙幣の100円札枚数と同じ数のシールをうどん粉の糊と唾でベタベタと舐めながら母と二人で旧紙幣に張っていた様子をボンヤリと眺めていた。

●新円切り替え‥‥なにゆえの新円切り替えだったのか。旧紙幣が使えなくなるので全ての現金が強制的に金融機関に預け入れられ、これにより流通紙幣全てを把握、代用のシールを相当分の旧紙幣に貼る、有価証券、保険契約などの紙幣に表せないものは税務署に届ける事が義務付けられるなど、この政策により国民の財産のほとんどを国が把握できる事になる。この短期的な暴虚は酷いもの、はたまた止む負えない政策だったのか、GHQの陰の影響もあったろうが時の首相幣原喜重郎に乞われての当時の渋沢大蔵大臣(渋沢栄一の孫)の苦慮・苦痛はいかばかりか、のちの資料を読むと彼は若い頃より民俗学に才長け,多くの後輩に知的、経済的な援助を惜しまず民俗学の維持、発展などに寄与していたという。そして今彼の祖父渋沢栄一が新紙幣の肖像に登場する時代となった。

●‥‥写真の新10円札の図柄は他の新紙幣の図柄と違い「米国」と読めると皮肉られたが、案外GHQの指示と思われてならない。写真の100円札は旧紙幣で新札の印刷が間に合わず旧紙幣の右上にシールを貼って一時しのぎ。新札は民間の印刷会社に依頼した為紙幣独自の「透かし」が入らずニセ札が出回ったとの噂もあった。

77歳6ヶ月                  29期 土方敏之     2021年2月投稿

 風が冷たくなりました。お元気ですか。

 近頃は午前1時半頃目が覚めて、それからは眠っているのか夢を見ているのかわからないが、昔の事が毎日頭の中に浮かんでくる。築地市場で海老の仲卸業をしていた父の代の時、私が18~20歳の頃に勤めていた人と一緒に仕事をしている在り様とか、もっと前の青空市場のような場所で配達している姿とか、店に戻る歩きとか、4・5年前の働いている様子まで5時に起きるまで続いている。

 これらが何を意味するのか解らないけれど、以前には、母親の実家のそばのドブ川を魚がたくさん泳いでいる場面とか、を見たこともあった。

 今は、暗くて狭い場所に人がいる時は行かないようにしている。逆に花が咲いてきれいな場所にも行かないようにしている。今朝は覚えていない。

「我が街 船橋を歩く」連載に当たって(1)     29期 仲田元昭     2021年1月投稿

                           2020-12-28 29期 仲田元昭

 29期の仲田元昭と申します。同窓会の総務をご担当の土方さんと同期です。

 自己紹介です。小生は、財閥系総合電機企業に定年まで勤務し、その後これまでの経験を活かし、経済産業省のマネジメントメンター制度に登録し、昨年まで多くの中小企業様の経営改善に取り組んでまいりました。

 同時に、平成26年度に「ふなばし市民大学校マイスター学科」(先輩講師の講座もあり受講、後で判明、世間は狭いものです。)を修了し、その後、船橋市観光協会の「街歩きスクール」で1年間、計2年間勉強し、平成28年4月に「ふるさと案内マイスター」の認証を頂き、現在船橋の歴史、文化、産業遺産等の魅力を市民や周辺の県民の皆様にご紹介すべく、ボランティアガイドをしております。

 そこで、船橋の魅力を同窓会の皆様にもご紹介したく、「我が街 船橋を歩く」の投稿を考えている旨、事務局にご相談しましたら、是非連載で投稿願いたいとのご依頼を頂きました。

 船橋には、小生が承知しているだけでも、医師、経営者、上場企業役員、大企業管理者等々で活躍された、先輩・同期生・後輩数十名の同窓生が暮らしていると聞いております。

 船橋は、徳川将軍家と拘わりの深い街で、江戸時代初期、今から400年程前の元和元年(1615)11月25日に徳川家康公が、東金方面への鷹狩の帰りに千葉県で最後に宿泊した船橋御殿があった街です。

 また、江戸時代中期には、江戸の庶民に広がった成田詣の宿場町としても栄え、幕末には、江戸城無血開城後の戊辰戦争の最初の戦い「市川・船橋戦争」があった街でもあり、多くの歴史の詰まった魅力ある街です。

 それでは、次回より何回かのシリーズに分けて船橋の歴史、文化、神社仏閣等のご案内をさせていただきます。

 同窓会の皆様にとって、船橋の魅力再発見になれば幸いでございます。

                    次回は「我が街 船橋を歩くー船橋の歴史(2)―」

戯言&独言4                    21期 髙野 昇  2021年1月投稿

 NHKの朝ドラ「エール」が終わった。回を重ねるごとに関心を持ち一部フィクションとはいえこの年齢の同輩、先輩諸兄には馴染みの作曲家古関裕而の話。中学生の頃神宮球場に六大学野球をよく見に行っていた頃、早大の応援席に座りながら唄っていた「紺碧の空」が古関の作曲と知ったのは早実の荒木大輔が活躍したいた頃だった。

戯言4

 長男が早大に入学、早慶・早明戦を一緒に観にゆくごとにチャンスに奏でるこのメロディーはいつも新鮮、雄大、快活で軽快、心躍るマーチ。戦時中の学童疎開中に散々歌った、歌わされた「露営の歌」「暁に祈る」「予科練の歌」などもそうだった。戦意高揚の曲ではあったが故国、ふる里、親や子への思いの郷愁と哀愁があのメロディーにこもられていた。不思議なことにこれらの曲は前奏から全て口ずさめるのはなぜだろうか。戦後の「長崎の鐘」を作詞した詩人のサトウ・ハチローが晩年語っていたが「戦後の”リンゴの唄”やこの”長崎の鐘”そして”ちいさい秋みつけた”のこの3つが詩人として自慢できるものである」と文学誌に書いていた。永井博士の「この子を残して」と言う長文の随筆は中学生の時、担任のK先生が読んで聞かせてくれ、クラスメイトの殆どが泣いてしまった思い出がある。

戯言4-2

 戦中時から放射線の無限の恐ろしさと平和利用を研究し、被爆以前から研究の為に自ら白血病となり、皮肉にも長崎原爆を浴び二人の子を残し1951年に他界。戦争による放射能の使用、被爆はどんなに無念だったことか。亡くなるまで寝起きしていた「如己堂(にょこどう」は現存している。古関の集大成としての「オリンピックマーチ」の素晴らしさ、NHKの番組の数々のテーマ曲、ラジオの「昼の憩い」や森繁久弥、加藤道子の語り口による「日曜名作座」、スポーツ放送のテーマ曲。高校野球を機会あるたびに観ているとついあの「栄冠は君に輝く」を口ずさむのは私だけだろうか。二番目の孫が都代表として二度甲子園に行った公立校に入学、文武両立を目指し野球部に入り、そんな事もあり偶然とはいえ嬉しく思い「エール」を見ていた。””投球に、打球にこめて、青春の賛歌を連ね””いい歌、いいメロディーだ。古関のオリンピックマーチが轟く国立競技場の入場行進の中に先輩出町豊氏(20期)も居たはずでこれもまた感無量である。

77歳5ヶ月                  29期 土方敏之     2021年1月投稿

 1月5日 心友、柳田保之が他界した。高校生活はほとんど一緒だった。毎朝彼はあんこを配達して学校へ。私は家から学校へ。そこだけが違っていた。放課後は写真部で暗室に入って写真の現像や引き伸ばしをやっていた。定時制の学生が帰っても暗室にいたことも多々あった。卒業してからは同期会開催の準備を2人でやった。そこで生まれたのが記念誌の「石壮」だ。在学時の校長先生が石田壮吉先生なので「石壮」とつけた。なるべく遠くに居る同期生の原稿を載せようとか気になる同期生を載せようとか、言いながら組んで最初は鉄筆の謄写版刷りで発行。次は同期生の印刷屋さんに頼んだりしたが、同期会の幹事を各クラス代表に任せようということになり、2人も8組なので、8組(三盛会)の代表に任せようと幹事から離れた。それから「石壮」も廃刊となってしまった。結婚してからも家族旅行や飲みに行ったりした。ここ2年位あまり行き来が無くなっていたがまた、皆で集まろうということになり、昨年花見会を開催する事を計画していたが、新型コロナウイルスの影響で、いつやるか、いつやるかと身構えていた。ところに訃報が知らされた。今日1月7日泉沢と駆けつけた。きれいな顔だった。 ありがとう青春時代から後期高齢者時代まで 俺はあと20年生きたいな 俺を呼ばないでそちらで友をさがして楽しんでください   さようなら

戯言&独言                    21期 髙野 昇  2020年12月投稿

▼コロナ禍の中、高齢者は家籠り、巣籠りが一番の安全策とはいえ病院への定期通院や買い物は最低限度の日常には欠かせない。パソコンは多少手懐けてもゲームをやる訳でもなく、長い時間は目にも悪くせいぜい一日延べ2時間までとし、数少ないメル友に時おりメール、そんな中、週1ペースでメールのやり取りをしていた盟友細田武君が突然に黄泉に召され私は今もかなり落ち込んでいる。彼の寄稿が「同窓会HP」から消えるのも悲しい事である。合掌

戯言3-2

お笑い芸人が本芸も見せずに楽屋話でTVに出、何処の局も同じ様な似たり拠ったりの顔ぶれのひな壇番組バラエティーばかりだ。これといったテーマもなくお笑いタレント(ほとんど名も顔も知らない連中ばかり)を集め身内の話がほとんどである。少し売れたタレントになるとニュース番組のコメンテイターに出世か?少し名前と顔が売れるとニュースショーに、ひな壇から横並びの番組に出始める。そしてやたら食べる内容の番組、大食いの自慢番組、世界中に貧困と飢えに苦しむ人々の多い中「ユニセフ」のコマーシャルでも見て欲しい。コロナ禍の中、製作局が苦しいのは理解してももう少し頭を使って欲しいものだ。

戯言3

貧な壇(ひな壇)に整列・・・食いが自慢か?

東大現役や卒業生がクイズ王で出ずっぱり、彼等は公費の大学にいて設備、環境にも恵まれ学費も私立大より安く、だったらもう少し社会全体に役立つ知識と教養を身に付けるべきでクイズが出来ても、君の人生になんぼの人間的価値になるのか。こんな東大生に国庫の費用を使うべきか疑問だ。TVをONにすれば遠慮会釈なく入り込む番組、CSの有料番組ならともかく、TV局はタレントの意味のない会話番組を作る時TV画面の前には計り知れない無数の視聴者が居る事を忘れず、出演者、司会者だけが笑いつまらぬ発言に手を叩き笑いこける、視聴者無視の典型でもある。

▼50数年前、評論家の大宅壮一氏(大宅映子氏の父)がTV局とTV台数の爆発的な普及を皮肉って「一億総白痴化が始まる」と言った。今思えば言いえており私自身を含めて「当たらずと言えども遠からず」の感が今更のごとく甦る。大宅氏は他にも各都道府県に存在し始めた国公立大学を「駅弁を売る駅に大学あり」と唱え「駅弁大学」なる言葉を発した。「男の顔は履歴書」とも言った事があり、藤本義一氏が「女の顔は請求書」といって大宅氏が「君、俺より上手いこと言ったね」と握手したとか。「恐妻」「口コミ」「太陽族」なども大宅氏独特の発言から出た名・迷?熟語らしい。

▼戯言笑文‥‥「スマホを離せないのが18歳、クスリを離せないのが81歳」

77歳4ヶ月                  29期 土方敏之     2020年12月投稿

 近頃なんとなく気が向かないというかテキパキと事を片付けられない。一歩引いてしまう。新型コロナウイルスの影響か、周りを包まれている感じがする。それとも目標がないからか、年末になり、来年の目標を決める時期なのに。車は来年2月に車検満了日がくるのに、継続して乗るにはもう10年乗っているので大丈夫か、免許は3年間あるので新車にした方が良いのか、等々迷う。早くこのモヤモヤが消えてくれれば、包まれて閉じ込められている中から出られれば。

 自分一人で考えるから駄目だ。スズキ自販に相談して決めることにする。これで進める。

戯言&独言「上野駅とその周辺の思い出」      21期 髙野 昇  2020年11月投稿

上野駅は北の玄関、終着駅の名にふさわしい駅舎と構内。かつては上野駅には啄木が『ふるさとの訛懐かし停車場の人込みの中にそを聴きに行く』と謳った雰囲気があり長距離夜行列車の終着駅だった。今は夜行列車もなくなり新幹線の終点でもなく、「カシオペア」もダイヤから消え始発を見送る「鉄チャン」の姿も数少なくなってしまった。戦前の幼少時、山下口を出て西郷像を見ながら動物園に行ったこと、従兄達と帝室博物館に行き仏像やら鎧兜を見ているうちに頭が痛くなり幼児には仏像などただ怖い代物で兄が葭簀張りの出店でサイダーを買ってくれた思い出がある。

戦後昭和21年、母に連れられアメ横に買い物に行き山下口の地下道を出る数メートル手前の戦災孤児の群れの中に集団疎開前に別かれた友人のK君がいた。目と目が一瞬合った瞬間彼も分かったのだろう彼の鋭い目線が頬に鋭く刺さった。髪は伸びズタズタの着衣を纏い、それに反し母と手を繋いで彼の前を歩く小生、孤児となっていたK君、彼は縁故疎開に行ったのか東京に残っていたか学童疎開のメンバーには居なかった。疎開の10日くらい前に彼を交えて数人と砂町の「仙気稲荷」にザリガニを獲りに行っていた。NHKの特集で「戦争孤児」の番組があったが泪が溢れまともに見る事が出来ず、今もあの地下道は歩けない。上野は孤児だけでなく、身内を亡くし職と食の無い人が自然と集まりその為犯罪も多かった筈だがそれを受け入れたのが上野の街、下町の人情と気っぷの良さが灰燼と化した上野の土にも浸み込んでいたのかも。アメ横は戦時中線路際と言う事で建物疎開で撤去されていたが、それ以前は人家の密集していた場所であった。芋から作ってアメを売っていたからか、アメリカ占領軍のPXから流れてきた品をヤミで売っていたからか、どちらにしても「アメ横」なる名は全国区となっている。上野の山の中に石作りの荘厳なこじんまりとした建物をご存知か。これは昭和初期に作られた「博物館動物園駅」の京成電鉄の地下駅の出入り口の名残。戦前は音大、美大、市立二中の通学生に利便な駅だったようだが戦後昭和60年代に閉鎖、最後の利用者は年間167人、戦時中は陸軍の通信基地の一部として使用、路線は閉鎖されていたと記録にあった。ちなみに日暮里寄りには「寛永寺坂」なる駅もあって両駅のホームは現存している。上野界隈えの数々の思いはきりがない。精養軒のカレーがライスとルウーが別々に出てきて驚いたこと、池之端の伊豆栄の鰻のタレの匂い、ミロのビーナスや正倉院御物展を見たときの感動など忘れられない。様々な思いと悲しさを思い出させる上野である。

▼添付写真  「博物館動物園駅」恩賜公園内なので荘厳さを貴ぶ駅出入り口。都選定歴史的建造物

旅の徒然に・閑話休題2             21期 黒子 晃     2020年11月投稿

フィレンツェで
同行のO氏と3人でレストランに入り夕食前に軽く一杯やろうということになり、テラス席に陣取りました。ウエイターが注文を取りに来たので、烏賊の炒め物が旨そうだねと覚えたてのイタリア語でカラマロ・カラマーリと連発しましたが、ウエイターは首をかしげて「そんなの無いよ」と言っているようです。しばらく押し問答をした挙句、ちょうど別のテーブルに烏賊の料理が運ばれるのを見て「アレだ!あれだよ」とやりましたら、こちらのウエイターが我々に尋ねていたのは料理ではなく、飲み物を何にするかを聞いていたので「烏賊」印のワインなんか聞いたことがないよといっていたのでした。それが分かって皆で大笑いとなりました。

ポルトガルの漁村で
ポルトガルの鄙びた漁村での昼食時、あら懐かしや・・イワシの塩焼きが巨大なプレ-トで運ばれてきました。岩塩をパラパラと降っただけの誠にシンプルなものでしたが、われらが幼少のころから馴染んできたそのままの味!ついつい4尾も食べてしまいました。
日本から醤油などの調味料を持参する人も多いですが、この時ばかりは大根おろしと酢橘があったらなア・・といささか残念な思いをしました。その時は大根おろしのチューブ入りなど有るとは思っていなかったのですが、帰国してみると結構近所のスーパーに有るではありませんか、さすがに酢橘の果汁は見かけませんでしたが、ゆずとかレモンの濃縮還元果汁の小さなポットを見かけました。ポルトガルにお出かけの際はぜひお持ちになるようお勧めします。

地中海のムール貝

 地中海の周りの国々ではどこへ行ってもムール貝がよく食べられています。

 ガーリック風味のワイン蒸しのムール貝がワインクーラーと同じ位の大きさのバケツに山盛りで出てきます。それがどうやら1人前らしく、最初の1個はフォークで身を取り出しますが2個目以降は1個目の殻をピンセットのように使ってバクバクとむさぼります。そして殻をお皿にどんどん積み上げていきます。しかしひょっと気が付きました。我々日本人のグループのテーブルにはムール貝そのものはお皿に盛ってあり、反対にバケツが殻入れになっているではありませんか。

ハハア日本人はみんな食べきれないで残すのでこういう方式にしたんだなあと無理やり納得しました。 (本当かどうかは分かりません)

ウイーンの中央墓地で

 映画「第三の男」のラストシーンが印象的なウイーンの中央墓地のベンチで一休みしているところへ、ひょこひょこと現れた烏に彼女が呼びかけました。

 「ひょっとしてあなたアントン・カラスさん?」

 お後が宜しいようで・・・。

2010.9.11. 
栃木市大平町新1503-25 
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77歳3ヶ月                  29期 土方敏之     2020年11月投稿

 風が冷たくなりました。お元気ですか。

 私は夜寝る支度をする時の換気ドアの開け閉めをやめました。シーツの上に枕を3つ、1つは頭の位置に、1つは背の下に、1つは足の下に置きます。そして上に毛布を掛け、その上に薄い掛けふとんを掛けて寝ます。そうすることによって今までは何ともなかったのに、今は肩が寒くて毛布を念入りに掛けても気になります。

 もう一つやることがあります。掛けふとんの上に仰向けになって足を上に上げ、頭の先に伸ばします。そして50を数え終わると仰向けに戻り足先を上げて50を数え、うつぶせになって腕をたて背を曲げ30を数え、仰向けになって足先を手前に両手を頭の脇に、息を吸って行い、両手と足先を戻すと同時に息をはきます。これも30数えて寝ます。お休みなさい~

同期 細田武君の黄泉路(よみじ)への旅立ち      21期 髙野 昇  2020年10月投稿

■本年3月に発信された同窓会ホームページ(以後HPと記す)に彼が寄稿した「文学散歩を兼ね、神田川に沿った観桜散歩」とした内容の文が最後となりました。観桜に行ったのは前年の春で、私も誘われ同行し、三ノ輪から都電に乗り近在の年輩の方々を中心に面影橋から椿山荘近くまで二人で語り歩き、思えばこれが彼と外出した最後の日でした。すでに本年1月、2月のHPで「骨髄性症候群」「血液ガン」になっていることを寄稿されていました。前年5月頃からの近くの「永寿会上野病院」で入退院の治療を受け、コロナ禍の以前に「寛解」と担当医からうけていました。何度かご自宅にも伺い、PC上のメールのやり取りも欠かさず、HPへの寄稿は「コロナ禍中は止めようぜ」など話していました。

■通夜はこんな時期でもあり家族葬でしたが記帳台机の正面に三商在校中卒業を目前に控えた昭和29年2月、私が撮った彼の若き日の写真が飾られており、「この写真、すごく気にいっていたんですよ」と奥様から言われ泪が溢れなにも申し上げることも出来ませんでした。地域の人に愛され、地元の子供や同輩に親しまれ、下町の良き風習文化にも蘊蓄を語り、家族葬とはいえ沢山の人が焼香に訪れていたのをみて、彼の人望に改めて感動しご冥福を祈りました。   合掌

77歳2ヶ月                29期 土方敏之     2020年10月投稿

 先日、洗面台の配水管が錆びて管が二つに割れていた。周りにたくさんの品物が詰まっている。修理の為全部出した。2時間半かけて水道業者はパイプを取り換えた。それから周りを掃除して開けっ放しにして乾燥させた。中に入っていた品物を風呂場に並べてシャワーをかけて洗い、拭いて風呂のふたの上に並べておいた。

 翌日、となりの扉を開けてみた。やはり品物がいっぱい入っている。下を見ると濡れている。仕方なく全部出して、風呂場に並べ又シャワーで洗い流し、拭いて風呂のふたの上に並べた。そして扉の中を掃除して開けっ放しにして乾燥させた。こうして風呂のふたの上に並べて置いた品物は、パイプのところには入れられないので、せっかく綺麗にしたのにとなりの扉の中に残す物のみ入れて、後は捨てることにした。

 今日は、台所の水周りの点検を行うつもりだが、家の中にある30年間のごみを少しずつ整理することになりそうだ。いつのまにかそんな年になってしまったのか。

七十七歳の思い出              29期 土方敏之     2020年9月投稿

 昭和18年8月7日に生まれる。今年で77歳となった。今の自分は、身体についてみると頭の部分は、4年前に酔って風呂に入って転んで頭を打った部分が時々何か少し痛いような。顔の部分は、口の中の歯と唇が近づいたような。胃は、慢性の胃炎で、落ち着かないというか胃酸が多いというか、ゲップで苦みを感じる時がある。腹は、右の脇腹真ん中よりが、ツルような感じがする時がある。腸は、便通は良いので時々さすると気持ち良い。足は、すくっと立てない、立ち続けられないでブレル時がある。歩く時もシャキッ感がない時がある。(右足と左足のカカトをくっつけ90度に開脚すると直る)手は、右小指と薬指にシビレ感がある。特に小指はずうっとある。右ひじは、顔を洗う時痛くなるので気をつけている。

 これから20年生きていくにはどうなるのか!生まれてから20歳までは、親と一緒に生活してきた。今は、妻と二人の生活。これから一人の生活を考えなければならないとすると、共同生活から赤ん坊になる道を歩むことになるのか!77歳―高校生―中学生―小学生―幼児―死。

同窓生の皆様!ホームページを通じて発信しましょう!(こんな事でも話題になるかも。)

旅の徒然・閑話休題              21期 黒子 晃     2020年9月投稿

トルコで

 イスタンブールでオトウサン(otosan)とか、カアサン(carsan)とかいうエンブレムがフェンダーや後部についている車が走り回っています。私の他には誰も気が付いていません。
 otoは英語のautoで carは英語と同じと見当がつきますがsanはサテ?

 現地のトルコ人ガイドのお姉さんにsanとは何かと聞きました。

 「あアそれ、さんぎょうのサンです」と。まさかア・・。

 トルコ語のサンが日本語の「産業のサン」であろう筈がないじゃありませんか!

 このガイド「アイシャさん」は日本へ行ったことはないと言いながら、日本語はペラペラ。休憩時間に日本語で世間話ができる程。彼女は申し訳ないが(もちろん直接口に出すこともできないが)いわゆる「花王石鹸」顔なのです。「妹は私のことを『魔法使いのお婆さん』とからかいます」と自ら言っていました。

 その彼女の言ではありますが、トルコ語のsanが「産業のサン」であるということはあり得ない。話がややこしくなるのを避けて、その場はそのままにして、帰国後調べてみました。

 その結果トルコ語のSanaiが産業であり、sanはその短縮形であることが判明し、ひとりで大笑いしてしまいました。

パリで

 車と言えば、パリの街角で駐車している車に「MEGANE」を見つけました。まさか「眼鏡」ではあるまいとは思いましたが・・。

 帰国後日本でも結構走っているのがわかりました。ルノーの「メガーヌ」という車種だったのでした。これも一人で笑っちゃいました。

リトアニアで

 バルト3国のリトアニアの名産品に琥珀があります。琥珀の博物館で「GINTARO」という表示をあちこちで見かけました。「銀太郎」かア・・。と何とも不思議な感覚を覚えました。

 Gintaroとはリトアニア語で琥珀のことだと帰国後調べがつきました。

 こちらも一人で笑っちゃった口の一つです。


それにしてもこんなことがいとも簡単に調べられるWikipediaには脱帽!

その昔、高嶺の花・垂涎の的だったEncyclopedia Britannicaを絶版に追い込み、オークションでも数千円にしか値が付かなくなるご時世。

IT, ICT, IoT万歳!

続きは http://clocko.web.fc2.com/

でご笑覧下さい。

Mail to akirakuroko@hotmail.co.jp

あなたから私へ 愛のメッセージを       29期 土方敏之     2020年7月投稿

あなたから私へ 同窓会のホームページで会いましょう!

私たちの身近な連絡手段として、このホームページを利用しましょう!


私からあなたへのメッセージ あなたから私へのメッセージ

私の考えていること、思っていること、お知らせしたいこと、等々

自由に思いを交信しましょう。このホームページで毎月お会いしましょう!

メッセージはメール、FAXなどで事務局までお送りください。

毎月更新しているホームページですので、新しいニュースは早めにあなたへお伝えしたい。

ひ孫                   26期 岩瀬和子      2020年7月投稿

 私は七月で八十歳になります。上の階に娘とその長女、次女の家族が一緒に住んでいます。長女に昨年10月男の子が産まれました。綺一(あやと)です。そして今年の一月次女にも男の子が産まれました。愛翔(あいる)です。昼間はどちらかの部屋ですごしていますので、遊んでいる声が聞こえると戸を開けて覗いてみます。長女が「何の用、ひまつぶしにきたの?」とじゃま者扱いしますが、上のひ孫は這って私の所へきて、つかまり立ちをして、はねたりして満面の笑みをうかべ、何かぶちゅぶちゅ云っています。下のひ孫は、つかまり立ちが出来ないので、這って来て、にこにこ笑っています。

 私は昔から子供の泣き声がいやで、ひ孫が泣いたりするとどうしたのか気になって仕方がありませんが、孫達は「いいのよほっておいて、ねむいんだから」と云って平気です。  外で小さい子を見ると家のひ孫様達もああなるのかなと思わず見入ってしまいます。

 娘は一人、孫達は三人家族です。それに猫が九匹。先日猫が一匹死にましたので九匹になりました。リビングに五匹、娘の部屋に四匹、外へ出ないように網戸はステンレスにしてあります。皆孫達が瑞江にいる時拾った猫達です。私の所にも四匹あずかったんですが二匹死に、今は二匹います。孫達の部屋へ入らないよう気を付けています。ひ孫達はこわがりませんが、毛がつくので孫達がいやがります。死ぬとすぐ回向院へつれて行きます。今迄に犬五匹、猫六匹が葬られています。娘と孫達が月参りしています。

「本物の八百屋」野本要二さんが勲章をゲット!!     26期 古田勝一  2020年6月投稿

「生涯青春であり続けたい」との願いから毎年開催して参りました26期同期会も「令和元年」の昨年は通算30回を数え…卒業60周年も重なり、上野の「東天紅」で催すことが出来ました。当日は全商理事長でも居られる母校三商の中山博之校長先生の御臨席を賜り、又、金原亭馬生師匠にも華を添えていただき、記念すべき同期会となりました。

 今年も31回目の同期会を六月に開催すべく、当番幹事の二組が中心となり進めて参りましたが、新型コロナ感染拡大に伴い中止せざるを得ませんでした。その後の同期への連絡は早く、政府が緊急事態宣言を発令する一ヶ月前には、岩瀬和子・前同窓会長、杉本光男・事務局長の御尽力で「中止のお知らせ」を発送完了することが出来ました。

 オット!!話がアト・サキになりゴメンナサイ…
 本題に入らせていただきます。

 私共26期の野本要二さん(東京都青果物商業協同組合・前理事長/全国青果物商業協同組合連合会・直前会長)が令和元年・秋の叙勲に於いて「勲四等旭日小綬章」なる大変位の高い勲章を受章されました。(勲章の種類:「菊花章」「桐花章」「旭日章」「瑞宝章」「文化勲章」「宝冠章」)

 三商は全国的に簿記・珠算の名門校でしたので、「そろばん」の腕に覚えがある人は沢山おります。又、「そろばん日本一!!」も何人か輩出しております。

 野本さんは日本商工会議所の珠算検定・一級を小学生で既に取得しており、そろばんの得意な少年でした。この暗算力の特技は後に八百屋になってから大変役立ったと聞いています。

 三商時代は野球部(ポジション:サード)で青春を謳歌し、1959年卒業と同時に「八百周」に就職。

 この「八百周」は数店舗経営する家業の八百屋さんです。スタートは江東区東陽三丁目。人通りの多い交差点に面したお店で、その傍ら月に数回、車で東雲団地へ向かい出張販売もこなすと云うものでした。

 まず野本さんは、街の八百屋の利点を生かし繁盛店になるには…と熟慮分析し、次の三つの基本コンセプトで行くと戦略を詰めました。

 一、他店との差別化を図る上からも、店頭に「青果物よろず相談所」を開設

 一、八百屋の力量は仕入れる野菜の目利きに掛かっている

 一、対面販売では明るい笑顔と楽しい会話でコミュニケーションを図る

 スーパーマーケットは(ヒト・モノ・カネの)経営資源は大きいかも知れないが、同じ品質のものを大量に仕入れる必要性が有る。八百屋は小回りが利くので大量に仕入れる必要が無い。その分、より品揃えも魅力的な根付き野菜等も扱うことが出来る…

店頭や出張販売を重ねて行く中で、

・野菜の良し悪しの見分け方

・いろいろな夏野菜の旬をタイムリーに伝える

・多種多様な野菜をおいしく食べるコツをアドバイス…等、

消費者と交わしたふれあいやヤリトリ、相談内容のアレコレの集大成として、1995年には『野菜相談うけたまわります』との本を出版。

(東京都青果物商業協同組合の)理事長に就任してからは、後継者育成の面から『八百屋塾』に力を注ぎました。

八百屋が扱う青果物は人間の体に入って命を作るもの。健康維持増進にいかに大切かを普及するには、八百屋自身がもっともっと青果物について詳しく勉強をし、野菜のプロになって欲しいとの願いから「八百屋塾」の研修会に力点を置いたのです。

 ジャガイモを例にとると…北海道より生産者を講師に招く→ジャガイモのおいしい見分け方や生産者の想い等を学ぶ→実際に各品種の食べくらべをする。

(全国青果物商業協同組合連合会に於けるある会での)会長挨拶、一部抜粋…

【少子高齢化の進展で、消費者の購買行動が変化し、ネツトスーパーや電子商取引なども浸透しています。

会員は、消費者の購買行動の変化やeコマースの進展など青果小売業を取り巻く環境の変化を充分に踏まえて、マーケットイン志向による消費者視点で青果小売の専門性を発揮することが極めて肝要と考えています。

八百屋は魅力あるおいしいものを届ける『食べ物屋』で有りたいと思うのです。

例えば「イチゴ」なら、どのイチゴが自分に合うのか。又、このイチゴは色が薄いけれど、一日置いてみたらいい色・いい味になるとか…。そう云ったことをいろいろと研究しながら(中略)実際に自分で食べてみて、おいしさを知るべきだ、と思います。】

 種をまいて肥料をやり、水をまき、芽が出てくるのを待とう…芽が出る前に焦ってほじくったら実りにはつながらない。

 商売は「アキナイ」とも云います。店の売り上げが少しぐらい上下しても、飽きないで勉強をし仕事を果たすと云う揺るぎない誠実な行動力が有れば、必ず儲けは後から付いて来ます。

「正しい種まきをしていれば必ず成果(青果?)が出る」

 野本会長は生鮮食料品の流通・市場の活性化・販売戦略の推進に尽力されました。

 野菜に惚れた!!野菜大好き人間!!

 叩き上げの本物の八百屋さんが受章されたことを26期の仲間としても誇りに思います。野本要二さん、本当にオメデトウ…そして有難うと感謝の気持ちで一杯です。

燦笑繁話35  新型コロナの文字が消えた         21期 細田武  2020年3月投稿

新型コロナの
文字が消えた

令和2年3月7日、朝日新聞の朝刊1面から[ 新型コロナ ]の大きな文字が消えた。なにか変です。先月投稿から1ケ月、インフルエンザとは違う蔓延の仕方で世界中を震撼させています。日本でも1、100人の罹患者、12の死者が出ているように可なりの蔓延である。世界中では10万人をこえ、強力さでは違うがかつてのスペイン風に匹敵する様だ。

思えば昨年の3月31日、校友の高野 昇兄と我がコミュニティの文学散歩を兼ねた神田川の観桜散歩が強く印象に残る。40人の会員と三ノ輪から都電に乗り 、面影橋から音羽の椿山荘までの川沿いの桜を愛でたものだ。

このとき体調の変化を感じたのだが多分歳のせいだろうぐらいに思った。100メートル歩くと呼吸が荒くなりちょい休みしたくなる⁉高野くんに大丈夫か⁉ユックリ行こうか🆘みたいな状態になったが会のこともあり最後まで頑張りました☺

さて、5月になり前にも書いたが定期検診により現在の🏥😷💉病気が発見され3月現在加療中です。家族、特に家内や子供たちの理解と協力、己に克つという強い気持ちを持ちつつ闘病してます。こうして毎月三商会報に投稿でき、月半が楽しみです。ああ 、楽しみと言えば月刊誌(  江戸楽  )の川柳投稿も楽しみです☀ 

2月号で[  天  ]に選ばれました。お題は「  👹節分  」    👏  #   福は内我が家じゃ言えぬ鬼がいる           弁 慶    

さて、新型コロナですが急遽決まった小中学校等の休学、各種スポーツ等の室内の観客動員による中止。年度末の会社関係の繁忙期の対応。インバウンドの減少によるホテル、飲食店等の減収による倒産。上野の山の桜の花見も中止。

前号にも印したリーマンショック以来どころか世界中での大不況が目の前に来そうです。オリンピック中止、延期で日本、東京都も5、6兆円の赤字。当たらないで欲しいです。安部の桜を見る会、今年だったら止めるかね😭

老朗好日-第七回- 公益財団法人日本相撲協会殿 大相撲に物申す              ハッケヨイのこった残った   21期 髙野 昇  2020年3月投稿

老朗好日7

第七回

公益財団法人日本相撲協会殿  大相撲に物申す

ハッケヨイのこった残った

▼この文が掲載れる頃は大阪場所の最中でお相撲さんも年6場所で平均4日に1回の本場所はきつい。平成の大横綱貴乃花親方のそれらを含めての"改革クーデター?"も一揆とならず退職、自らの弟子二人が暴力沙汰では今はともかく、いずれ「横綱だったそんな親方がいたナー」で終わるのは残念。彼の主張には一部賛同できても、その行動や不貞腐れたような態度には私は附いていけない。力士として人気抜群、平成の大横綱の名にふさわしいきちんとした発言、泰然自若とした説得力ある行動こそ他の若い親方衆の賛同を得られた筈で、協会改革の礎となって欲しかった。なのに、退職後とはいえかっての弟子の暴力沙汰で全てが帳消しとなった。改革を望むなら退職せず、若い親方たちと時間をかけての行動をとって欲しかった。実に残念でならない。旧態依然の姿と影を残す現協会の体質は、古来の神事、しきたり、縦組織、稽古に名を借りたイジメなど現代にそぐわない。令和の新時代を担う若手の奮起と併せて、協会の土俵上での勝負における疑問点と組織の再考など、これを機に少しでも変わっていくことを願っている。

老朗好日7-1

▼ファンとしてまず納得できないのが勝負における「立ち合い」である。以前にもこの欄で書いたが、大相撲は結果として勝ち負けによって地位が変動し給与も変わってくる完全なプロスポーツである。立ち合いに不平等や不公平があってはならない。相手が完全な立ち合い姿勢に入っているのにゆっくりと背伸びをしたり、片手は膝の上に置いたままゆっくりと相手の出方を見、その手を瞬間的に土俵につけて立ち上がる。ある現役横綱はそれに徹している。そして名人横綱双葉山を尊敬しているなどとはおこがましい。どうみても公平な立ち合いではない。ある部屋の力士のほとんどが立ち合いのテンポが一貫して遅いのは部屋の指導がそうなっているのかと疑ってしまう。

▼時間いっぱいを行司が告げたら東西両者に両の拳を完全に土俵の土に着けさせる。それを行司と検査役(5人)6人の目で確認し、何らかの合図で立ち上がらせる。まさか「よーいドン!」とかブザー音はないまでも、軍配をかえすとか、大声で「よし!」と言うとか方法はいくらでも考えられる。これを実現させれば立ち合いの「まった」はなくなる。一場所数回の違反力士には何等かのペナルティを与える、陸上競技や水泳では一発退場との規則がある。体重制の無い一本勝負、小兵力士も大型力士も立ち合いは平等、そこからの勝負がスポーツの本来の姿である。かって千代乃山・栃錦・北の富士・大鵬・柏戸・北の湖など、その前後の場所での立ち合いは手も着かず、中腰で立ち合っていた時期があった。大変見苦しい場所が長く続いた。アマチュア相撲ではありえない光景で、極端な言い方をすればプロはアマチュアを見習うべきと思う。

老朗好日7-2

▼全てが「ごっつあんです」の一言で済まされる世界、”ご祝儀をいただいたとき、会食に招かれたとき”などには適応する言葉かもしれないが、部屋内での少しの間違いなどの時もこの言葉以外反論も返す言葉も許されない、できない。旧日本軍軍隊の縦組織もそうだったように、各学校の体育系組織にもいまだに報道される事例が数々ある。協会は”時間いっぱいでの仕切りの不徹底さや親方や兄弟子による稽古に名を借りたイジメ、私生活内での言葉の暴力・暴言、このあたりからの改革もまず検討しなくてはならないと思う。これを書いている最中、またまた「呼び出し」の上位にある輩が後輩の若手2名に対する暴力沙汰事件が発生、そしてインフルエンザ陽性の力士を土俵に上がらせる、一般常識では考えられない非常識さ、なんらかの進歩や徹底された姿が全然見えぬ暗黒の”協会”である。この状態のままだといずれ人気が凋落して行く。怪我で幕内で5人も6人もが休場する現実は、力士の体重増や食事内容の検討、土俵の位置の高さなどを見直し、転落による骨折、捻挫防止などの改革も絶対必要だと思う。協会は「土俵の充実」を寝言のごとく言葉に出しているが、不公平な立ち合いが多い中、力士、行司、審判部との一歩もずれない共通認識を持つ事が改革の第一歩となって欲しいものだ。

▼負けが混んでくると必ずと言っていほど休場する横綱と大関、それで次の場所はちゃっかり優勝、それでいて双葉山を尊敬しているとか、優勝回数の記録を作り帰化して親方となり銀座に部屋を持ちたいなどの戯言の言いたい放題、、こんな事が果たして許されるのか横綱審議会、協会はもっとしっかりせい。

▼PS.この「老朗好日」を同窓会事務局に投稿後[2月中旬]、大相撲3月場所の無観客開催が決まりました。

この花ご存知ですか             26期 岩瀬和子      2020年2月投稿

 黒法師(サンシモン)別名アエオニウムの木に咲いた花です。原産はカナリア諸島(北アフリカ)だそうです。数年前近所のゴミ集積所に捨ててあった一枝を鉢植えにしました。

 突然葉の中から枝がのび花芽がびっちりつき咲き出しました。花を見たのは初めてだったのでびっくりしました。3月でした。

 そして又二葉から枝がのび花が咲きました。初めの時よりばらばらしていましたがピラミッド形は同じで2月に咲きました。

 去年12月から十葉から枝がのび花が咲き出し、今もきれいに咲いています。新しい枝がどんどん増えるので、咲いたのを見た友人達がほしがり6人に一枝ずつ切ってあげました。でも花が咲いたのは私の所と他2軒だけです。皆、陽当たりのよい所に置いてあります。

 早く花がついたのはこの冬暖かい日が多かったせいでしょうか。

花が枯れたらどうしたらいいのか、夢の島の植物園、神代植物園へたずねました。どちらも木はあるけど咲いたのを見たことがないとの事でした。

私は神代植物園へはじめて咲いた写真を送ってあげました。

燦笑繁話34  コロナと消費税と日本         21期 細田武  2020年2月投稿


コロナと消費税と日本

この原稿三商新年会2月8日の昼下り、昨日まで5日間の外来の注射を終えた所でボードを叩いている。折角の新年会は体調を考慮し、欠席をしました。高野くんに代表での出席を依頼。ご盛会を祈ります。

ところで9月に90年の経営の酒販店を諸般の事情で廃業しました。体調と消費税の改悪と大きく言うと日本の先行きを見極めました。体調は血液の(癌)です。でも制癌劑投与のお陰で今日まで10ヶ月経過、日常生活は多少の苦しみは有りますが生きることに努力をし、家族の協力で病に挑戦してます。

新聞等でインバウンドの減少、浅草は着物を着付けた中国人は一人もいませんし、京都の嵐山の人力車も暇をもて余しているようです。特に12月から湖北省・武漢の肺炎による何万人による罹病、数字は不確かだが多くの死者が出ている今日。横浜で上陸できず木の葉の様に揺れる3,000人の観光客。日本企業の勇士もフライトで帰国も14日の拘束で不満たらたら?

通常国会では安部の言い訳に咲いてない桜に失礼(>_<)だよ。補正予算だけじゃなく山積する。問題を早く解決する努力がほしい。あらゆる面を見ても今の日本に期待はできない😵

だけど何処へもいくことの出来ない庶民・高齢者はどうすりゃ良いのか⁉

商売の見切り  良かったかな⁉  リーマンショック以来の不況が、現実になりつつあるよね😁

愚痴っぽい事だけどなにか当たっていなければ良いけど❗

年寄りのーーーーと笑ってください🙇

老朗好日-第六回- 私の中の名画と名優たち(その5)                    西部劇とジョン・ウェイン       21期 髙野 昇  2020年2月投稿

老朗好日6

第六回
 私の中の名画と
名優たち(その5)
西部劇とジョン・ウェイン

▼彼の主演もので名画と言えるものがあったか、改めて思い返すとそれらしきものは私の中には無い。性格俳優でもなし、演技派でもなく文学的作品も思いあたらず。私が大ファンであるヘンリー・フォンダが静かで理知的な真面目な役柄をこなすのに対しJ・ウエインはアクティブ,かつ粗野で乱暴な野生的な正義を持つ役を背負ってハリウッドの最盛期を築き上げた超大物俳優であった。この時期には”MRアメリカ”と言われていた頃で、私の知る限り悪役の彼を観たことがなく、個人的な考えでも「アメリカは世界の警察」の国民的思想に共鳴し、数多くの第2次大戦の戦争物にも出演していた。日本との戦いに苦戦しながらも圧倒的な武力で勝利した「硫黄島の砂」「コレヒド―ル戦記」などがあり、近年のクリント・イーストウッドの[硫黄島からの手紙」とは対照的であった。

老朗好日6-1

▼J・ウェインといえば西部劇、無声時代から数えると100本(ある映画雑誌にそう書いてあった)はあるだろうか。1939年製作の「駅馬車」で監督J・フォードに見い出された。この作品でライフルを片手に駅馬車を停める為、颯爽とした姿で現れるシーンは今思い出しても何とも言えぬカッコ良さでそして若かった。彼は拳銃よりライフル銃を持つ姿がよく似合う、「リオ・ブラボー」がその典型。J・フォードとのコンビでの”騎兵隊ものでは「黄色いリボン」のテーマ曲がヒット「あの娘の黄色いリボン誰に見しょとの髪飾り・・・イエロリー・イエロリー」と、久慈あさみのレコードがヒットしていた。レコードのついでに言うと「リオ・ブラボー」の中でディーン・マーチンがギター片手に歌う「ライフルと愛馬」のシーンではJ.・ウェインがいかにも楽しそうな顔で聴いていた場面はあまり笑わない彼としては珍しいシーンだった。開拓史以来の”正義のアメリカ人”を演じたら彼以外は居ないと全米人からそう思われていた俳優で「それが自分にとって最高の名誉だ」と淀長さんとの対談で語っていた。最後まで{正義の味方}を演じたあの体躯は193cmの長身といわれていたが、実は170数cmだったの説が在る。大きく見せる為セットの天井を低くしたり、持たせた拳銃、ライフルなどは小さめに作らせていたとの話を雑誌で読んだことがある。真偽のほどは?疑わしきは罰せずか、冗談として面白く受け止めるか。

▼彼が出ていた異色の西部劇と言えばJ・フォード監督の「リバティバランスを討た男」で、いきなりJ・ウェイン扮する男の葬儀から始まる。どちらかと言えば主演は弁護士役のジェームズ・スチュアートの方だったが、親友ランス(J・スチュアート)の陰の力になりランスの為に悪人を陰から射ち倒し、ランスが射ち倒したように彼を街の英雄にするストリーだったと思う。銃が正義の時代から法秩序の時代へと移り変わる。監督のJ・フォードはこの舞台の時代で、西部のドンパチは終わったと悟ったか、以後西部劇には手を出していないようだ。黒澤明と三船敏郎のコンビと同じ様に、J・フォードとJ・ウェインのコンビは自然消滅し、この2人のコンビは以後無い。J・ウェインの死から始まるこの映画、観終って活劇としての西部劇の終焉を強く感じた。後年、ポール・ニューマンの「明日に向かって撃て」をみて西部劇の流れの変わりようを感じたものだ。しかし米国では今だに銃の所持を認める現実があり、各地で乱射事件が発生している。ジョン・フォードの思いは未だに遠い。

老朗好日6-2

▼詩情豊かに西部を描いた騎兵隊ものはともかく、彼の「赤い河」「リオ・ブラボー」はこれぞウエスタンの極致とばかり、観る者を魅了する快適西部劇だろう。「赤い河」の共演者モンゴメリー・クリフト、「リオ・ブラボー」のディーン・マーチン等脇役も素晴らしく、ウェインのライフル銃の手捌きに圧倒される。[リオ・・・」で「ヘイ!チャンス」と相棒のリッキー・ネルソンが声を掛けながらチャンス(J・ウェイン)にライフルを投げ渡し、それを見事に受け取り相手の4人を討ち倒すシーンは西部劇の正に醍醐味、監督ハワード・ホークスの見事な演出だった。「史上最大の作戦」での戦闘服は似合わず、彼はやっぱりカウボーイハットと首に巻いたスカーフ、Gパン風の細見のズボン、やや下目に下げたガンベルト、右手に持つライフル、これが彼のBESTスタイルだろうか。いつもお馴染みの共演者も懐かしい。ワード・ポンド、ベン・ジョンソン(・・・彼は西部劇出演者の中での乘馬術のNO1と言われていた・・・)ジョン・ドルー、モーリン・オハラなど懐かしい名が思い浮かばれる。

▼J・ウェインは1954年にガンで亡くなった。「「征服者」の数週間のロケで訪れたネバダの砂漠、ここは900数回の核実験が数年にわたり行われていた砂漠で。その風下600キロの地点でのロケで、共演の女優スーザン・ヘイワードもガンで亡くなり、その後もあのスティーブ・マックイーン、ロバート・テイラー、ゲイリー・クーパー、ヘンリー・フォンダなども十数年後に各処のガンで逝去、「征服者」の監督も然り。ノンフィクション作家の広瀬 隆が書いた「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」の本にも色々書いてあり、彼らは何れも被爆者であると書き、興味ある内容で諸兄にも一読を勧めたい。スタジオのセット撮影にもこの砂が現地から大量に持ち込まれ、使用後はハリウッドの何処かに撒き捨てられたとも書いてあったと思う。事実療養中に2人の大統領(カーターとレーガン)が見舞いに行ったのも異例であり、それはMr.アメリカの偉大さへの表敬の表れか、それとも偉大なMr.アメリカに対しての核実験への”詫び”の見舞いだったのか、私にとって未だに謎である。

燦笑繁話33  [ 寛 解 ] とは         21期 細田武  2020年1月投稿


[ 寛 解 ] とは

実は👹鬼の霍乱😅。区役所の定期検診で受診の結果、院長より紹介状を出すから直ぐ受診せよとのご宣託。

ときは三社の祭の真っ最中❗。無理を承知で来週に延期願い、地域の永寿病院の血液内科の💁受け付けへ。採血、骨髄液の摘出、検尿等一応の検査。翌週担当医の宣告は  [ 骨髄異形性症候群 ] という難病の一歩手前でした。

家内、長男もこの歳まで怪我や小さな病気はしたけど今回は始めて聞く病名❗ とチョッと不安でした。しかし現代の医学の進化を確信して闘病しようと家族で約束し、主治医に全般の信頼を預けました。

元々、軽いCOPDの加療は受けていましたが🚚配達のあと息苦しさを感じていました。これも高齢故、歳だね😁位に思っていました。今回の検査で赤血球・白血球・ヘモグロビン、血小板等の減少、自分の造血量の少なさが発見され、その改善のために(  ビザーダ  療法  )を選択しました。

1クール7日間ピザーダを腹部への皮下注射を。3週間空けてまた7日間。これを4クール続け9月半ばに退院。これからは週5回外来治療です。♿🏥入院中は注射以外やることなく運動不足、食事の不満、ストレスの溜まりぱなしで、家内への電話もままならずかなりの落ち込みでした。併し、多くの人の励ましや時には強い言葉の叱咤に、ふと我に返り、強く生き還る、そんな感じを持った自分を恥ながら明るさをもち始めました。

現在数多くの患者さんが同じ療法で[寛解]しているようですが何故(完治)とか(治癒)とか言わないで( 寛解)なのか?

ウイキペヂアによると(寛解) とは治療中でいつまた加療するか、再発するか判断に及ばない病状を言うようです。

医学的な言語は兎に角🏠自宅と、喧嘩しながらの家内と二人の食事、つまらない会話、それが一番の💊薬です。今は🏈ラグビー全盛の毎日( 9月29日現在)  日本が世界ランク1位のアイルランドを撃破しました。

会友の高野君も奥様の♿🏥入院や自分の白内障のオペとか、みんなそれなりの病歴を持つ歳なんですね🙆

燦笑繁話  書ける😃💕幸せ   😆💕✨ありがとう。生還しました。


添付写真   「病室からの落日」です。我が家の方向を見ながら🍀

老朗好日-第五回- 私の中の名画と名優たち(その4)                    ゲイリー・クーパー & 3人の美女       21期 髙野 昇  2020年1月投稿

老朗好日5

第五回
 私の中の名画と
    名優たち(その4)
ゲイリー・クーパー
&3人の美女


▼ゲイリー・クーパーなど六十歳代前の人は殆ど知らないはず。私達の若い頃の米映画のヒーローは、戦後上映された西部劇で言えばこのG・クーパーとJ・ウエインであった。やたらに背が高く、そのせいか少し腰を曲げ前屈みで歩く、驚いたことに彼は1901年(明治34年)生まれで私の父と同じ歳だったのには当時としてはかなりのショックだった。「真昼の決闘」で若きグレイ・スケリー(のちにモナコ王妃となる)と結婚する保安官を演じた時は50歳を過ぎていた。腰が少し曲がったG・クーパーのイメージはこの映画で納得?した。が、事実は彼が無声映画のエキストラ時代の西部劇で馬に乗るシーンでの撮影時に、馬に跨る時に右足が馬の臀部に引っ掛かり(背が高く足が長いせいか)落馬し転倒、それが原因で腰を痛め、以後前屈姿勢で歩く様になったとか。この話はあの”小森のおばちゃま”がある映画雑誌のファンの集いの際に何処かのホールで私は直接に聴いた話である。しかしあの日の”おばちゃま”のあの話しぶりからして真偽のほどは疑わしい。

老朗好日5-1

▼画家を目指していた若い頃に、エキストラから出世して無声映画に多数出演、数え切れぬほどの映画には出ていたものの、俗にいう””大根””だったらしい。少しずつ認められたのがマレーネ・デイトリッヒとの「モロッコ(1930年)」。無声映画ではあったが日本で初めて台詞のスーパーが画面に表示された記念すべき映画で、私は何時だったか池袋の”人生座”で観た。以後大手映画会社との専属が續き「あの男は、後ろ向きで立っているだけでファンを掴む」とは言われながらも””大根””の汚名は払拭できないまま。実存の第一次大戦のヒーローを演じた「ヨーク軍曹」でついにアカデミー賞のオスカーを獲る。故荻昌弘氏(評論家)の文では、その後「風邪と共に去りぬ」や「駅馬車」の主役に抜擢する話もあったとか。実現していたらその後のクラーク・ゲーブルやジョン・ウェインの存在は無かったかもしれない。

▼「ヨーク軍曹/1941年作」は兄に連れられて観に行き、田舎者の銃狩猟が得意の若者7人がドイツ軍の30人を捕虜にするストーリーで銃身の先に唾を付けながらの銃撃シーンが面白かった思い出がある。あの美女イングリット・バーグマンとの「誰がた為に鐘は鳴る」は原作者のヘミングウェイの指名で主演、スペイン内乱の事など知らぬままに観て、以後この映画のお陰でスペインの多難な歴史を知った次第である。私が映画から歴史的なものを学ぶ事が多いのは、戦後のGHQの教育方針で歴史の勉強を一切受けていない年齢で、日本映画もチャンバラはご法度、赤穂浪士や家康、秀吉、信長などは映画からと疎開先の伯母宅にあった古い「立川文庫」からの知識で育った。横道に逸れたがG・クーパ―とバーグマンとのラブシーンはバーグマンのすき透る蝋の様な肌と誠実な闘士の演技が冴えていてクーパー映画の中では良かった方だったと思う。「誰が為に…」での色のきれいさは正に”総天然色”の映画があの時代に当たり前に製作されていたアメリカの技術、文化、進展には「風と共に…」の火災シーンの豪快、猛烈な画面と共にただただ圧倒された。ハンサムで人気を長く持ちつづければ映画会社としては美人で人気のある女優と組ませるのはセオリー、バーグマンを始めヘップバーン、グレース・ケリーなど、西部劇では絶対と言っていいほど美女は登場しない。その点、ジョン・ウェインには気の毒だったかも(笑)

老朗好日5-2

▼一番印象に残っているのが「真昼の決闘」か。彼には数多くの西部ものがあるが、この映画は時間経過と共にほぼ同時進行するという今までにはない展開だった。かつて逮捕した男が刑期を終え復讐に来るストーリー、街のかつての協力者も恐れに耐えられず協力を拒否し、一人孤独な保安官として闘う役を演じた。彼の結婚式の日でもあった。婚約者をやったのがグレース・ケリーで彼女も事の顛末の恐怖で困憊の中、一発の銃声で気をとり直したが人質となる。相手を倒し町民の見守る中を見向きもせず馬車で立ち去るラストシーンだった。この時彼は51歳、その後のヘップバーンとの「昼下がりの情事」では56歳、いつの時代も色男は持てたんだの証明だ。主題歌の「ハイヌーン」はテックス・リッターの歌と共に大ヒットした。主題歌の存在は映画にとって大事なのを教えて貰った映画である。「シェーン」「OK牧場の決闘」しかり。「昼下がりの情事」では女たらしのドンファンを演じ、ラストの列車での別れのシーンは印象に残る。この映画にフランスのシャンソン歌手のモーリス・シュバリエが父親役で出ていたと思う。ラストで列車での別れのシーンは他にもキャサリン・へップバーンの「旅情」やジェニハー・ジョーンズの「終着駅」のラストシーンにもあり、別れの切なさによくつかわれていた。

▼ハリウッド華やかな時代も1936年~1957年あたりまでだったが、J・ウェインと共にアメリカを代表する良きスターであった。他に私の観た彼の「打撃王」はNYヤンキースの強打者ゲーリックの物語で小児麻痺で引退をする、その背番号4は欠番となり以後日米球界での初の欠番となった。ちなみに日本では澤村栄治の14番が初欠番であった。この映画でベーブ・ルースが出ていたのを憶えている。いずれの古い映画は殆ど”人生座”で観たものである。それにしてもG・クーパーはハリウッドスターの貫禄と実力と人気を全て手にして、バーグマンを始めへップバーン、グレース・ケリ―など銀幕のヒロインを相手に幸せな役どころをこなした忘れられない大スターであった。

▼余談…前期の「終着駅」の終着駅と言う言葉はこの題名から言われ出したもので、それまでは終点駅などと言われており、今は当たり前に終着駅と言われている。かなり以前に付き合いの古い”鉄ちゃん”仲間から教えて貰ったもの。


燦笑繁話32  🏈準決  ・決勝戦🏈 思うがまま      21期 細田武  2019年12月投稿

🏈準決・決勝戦🏈     思うがまま

予想どおりの展開、2年前の、いや一度も勝てなかったイングランドがニュージランド( OB) に極端に言うとワンサイドで勝利した。過去に日本を率いたエデイはOBの[ハカ] に対しセンターラインを越えて、レフリーに注意されながらの[V ]の字の人文字を作る心理的な敵愾心を煽った。ターノーバーは16対5、グランド占有率6対4、ラインアウトも80%止まり、ノーサイド寸 前にOBの主力の手が頭の後ろに回り既に戦意は失せていた。これでは史上初の3連覇は無理と感じたのは私だけかな⁉。受けて立つチームが歴史と必死さと期待を背負ったら?  

OBのハンセンHCは悔しさに、(一人の力ではどうにもなら無い🙇)と元王者らしからぬ振り返りのコメント😭。

さて、27日は南アとウェールズ。期待はウェールズのFWに期待。

19時33分、ウェールズのキャプテンの選択はゴール前のスクラムの選択だった。ワントライ、ワンゴール差の9ー16、左りサイドをつく見事なトライ🏈。ゴールも決め同点☺。フランスの時と同じ展開に成るのか⁉72分DG失敗するも攻める。併し、75分ノットリリースのオフサイドからの南アにゴールを決められ3点のリード。残り2分、イリーガルボールのオフサイドでノーサイド。19ー16の熱戦に終止符が打たれたが、両チームが見せてくれたマッチに決勝戦に期待する大きな感動を与えてくれました。ところでこの準決勝から各スポーツ新聞の扱いが4、5面になりそれもカラー印刷から黒インクに変わった。新聞も俄かよ😭。11月1日は3位決定戦。地力とゲーム運びに勝るオールブラッックスが黒の誇りを取り戻し、狭いサイドを突きオフロードパスを駆使し前後半通して加点。辛くも3位を確保。

11月2日🏈ラグビー母国のイングランド、迎え撃つRSA(南アフリカ)  南アは過去2回決勝進出、自国開催の1995年初制覇し、2007年、2回ともトライを取ったことも取られたこともない歴代希な、且つ不思議なチームだがキック主体のゲーム運びに勝機を近ずけるだろう。自分の予想はイングランド🏈。前半2分、プロップのシンクラーの退場🆘、セットプレーの要の交代がこれ程まで苦しめられることは予想しなかった。セットプレーの重みが前半4ヶのPGを許し12ー6とリードを許し後半へ、南アの終了間際の防御が目立った。

トライの無いまま、後半26分待望の、トライ🏈、34分キックからの二つ目のトライ🏈予想外の展開と南アの意識の改革、アパルトヘイトとの戦いを🏈ラグビー発祥国のイングランドとの戦略転換が効を奏した形だ。南アの3度目の優勝に賛辞を贈ると共に イングランドが銀メタルの授与を巡りスポーツマン、英国紳士らしからぬ振る舞いが折角の東京開催にケチをつけるようで、各国チームの各地でのボランティアや応援団の熱気溢れる応援に水を差すようなことが、日本中を盛り上げた中での汚点にならなければ‼   今回の盛況が一過性のものでなく清宮さんが提唱する日本🏈ラグビー界のプロ化に取り組み、社会人リーグ、企業スポーツからの脱却が望まれる。このブームが日本の地に深く根付いて欲しいものです。

老朗好日-第四回- 私の中の名画と名優たち(その3)                    「第三の男」とオーソン・ウェルズ       21期 髙野 昇  2019年12月投稿

老朗好日4

第四回
 私の中の名画と
名優たち(その3)

「第三の男」とオーソン・ウェルズ

▼第2次大戦後、連合国軍(米・英・仏・ソ)に共同統治されていたウイーンを舞台にしたサスペンスものでこの映画、主役でも二枚目でもなく悪党役なのになぜか姿、形がいい俳優が出ていた。相手を小馬鹿にした笑みを浮かべながらのニヒルなハリー・ライムという役、オーソン・ウェルズ演じる偽ペニシリンを捌くこの闇のボス。後に米・英両国の超名優であることと論客である事を知った。主演のジョセフ・コットンを完全に喰ってしまい、J・コットンを単なる添え物にしてしまっていた。晩年、貫禄も出て日本のTVコマーシャル(ビール会社)に出たり、そのテーマ音楽がどこかの駅(恵比寿だったか)の発車ミュージックになっていた。彼の映画は「第三の男」意外殆ど見ていないが「白鯨」(G・ペック主演)で牧師の役で観たかな。「市民ケーン」なる映画で主演しオスカー賞をとっている。

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▼この映画の盛り上がり場面の殆どが夜間で、照明を効果的に使った撮影の場面展開など素晴らしい魅力に溢れている。この時代(舞台は1946年頃)ウイーンの夜の街角を照らすあれほどの電力がある訳はないが、そこは映画、風船売りが建物の影に現れその姿は見えずとも照明の影が建物の壁に映り、風船売りの人影がだんだんと大きくなる、その数秒間の時間が観客にスリルと緊張感を与える。ハリー・ライムが初めてこの映画に出現する場面、野良猫が薄明かりに照らされた靴紐にジャレつく、カメラが上に行き、そこに真向かいのアパートに住む老婆が開いた窓の灯りに照らされた顔、O・ウエルズ扮する交通事故で死んだはずのハリー・ライムが現れ、薄笑いを浮かべたこの登場の仕方は正にサスペンス、そしてまた地下水道に姿を消してゆくシーンはカラー映画では絶対表現できないもので、モノクロだけのもの、スクリーン内でのアングルも芸術的で、現在も映画に関わる演出家、カメラ、照明に携わる若い人達に教科書的な存在として引き継がれていると思う。ラスト近く、ライムが地下水道で友人と英国取締官らに追い詰められ、友人の拳銃で倒れる地下水道の中での照明とカメラワーク、拳銃の発射音の響き、地下水道の煉瓦を斜めに射す照明、マンホールの蓋を下から上げようともがく両手の指だけがスクリーンに映る、この地下水道での逃避と追跡の場面は素晴らしく、音響・照明・カメラ・O・ウェルズのおびえた演技が一体となっている凄い画面の連続。凶悪闇人間の最後らしい見事な場面だったと思う。

▼この映画でのバックに流れる曲、全てが地元ウィーンのチターの演奏家のアントン・カラスが作曲、映画ではこの楽器以外は使われていなかった。映画のタイトルにそのチターの数十本の弦が映りテーマ曲の演奏そのままに弦が動き、曲が流れる。当時誰もが知ってしまったこのメロディーは未だに名曲の極致の地位を確保し、ジャズではない、クラシックでもないし、オーストリアの民族音楽が基本にあってのことか。A・カラス自身の作曲で民族楽器のチターの名を世界中に轟かし、A・カラスもその後世界的に著名となった。改めて聴くとチターの音色と共に映画の一場面、白黒映画の素晴らしさが偲ばれる。前記したが駅の発車音楽としてアチコチの駅で使われていて、大阪の梅田駅で聴いたと鉄チャンの友人から聞いたことがある。私は日比谷線「恵比寿」で聴いている。実家近くの「パチンコ屋」もしばらく流していたがパチンコとはそぐわないかのか、元の「軍艦マーチ」にいつしか戻っていた。あのメロディーとパチンコ屋とはアンマッチである。

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▼この映画の見處の一つにラストシーンが有名である。H・ライムの葬式墓地から彼の恋人が去る場面、見向きもせず遠方から撮影のカメラの脇に消えるまでの長い時間のワンカット、画面左隅に彼女を待つ男、ライムの友人で最後彼を射殺してしまったこの男を許せなかったのか、全く無視して去って行く、ただそれだけの1分10秒のワンカットで絵画を思わせる綺麗なシーンで、そしてENDマークとなる。このシーンを真似ての映画は数多い。有名な遊園地の観覧車の中で二人が初めて友人同士として話す場面がある。H・ライムが「イタリア・ボルジア時代の悪政はミケランジェロやダビンチなどルネッサンスを生んだ、スイスの平和と中立は鳩時計だけを生んだ」との台詞はO・ウェルズ自ら考えた台詞で、初見時の私には深い意味合いは理解できなかった。が大戦後の荒廃、国連4ヵ国に統治された虚しさ、荒廃した街、蔓延した闇商人と取引、軍病院から盗んだペニシリンを薄めて売る闇屋の元締めをする自分をミケランジェロごとき存在だと自虐的に言ったのか?後に名台詞である事と知った。そこまで役者に自由に言わせた監督キャロル・リードも凄い。

▼公開翌年の年のアカデミー賞の撮影賞を受賞(白黒部門)、カンヌ映画祭でもグランプリ受賞。製作50年後の1999年、日本の映画雑誌「キネマ旬報」で映画評論家による戦後洋画100選の1位となっている。「鳩時計だけ・・・」の台詞のあの観覧車(プラタール公園)も健在、アントン・カラスがオーナーだったチターの生演奏が聴ける店も健在とか。昨日DVDを改めて見たがストーリーはともかくこの「第三の男」はカメラワーク、照明、BGM、脇役を含む俳優、監督などが全てにおいて、私の観た外国映画の中のNo.1の秀作である。

燦笑繁話31   🏈 桜🌸  ノーサイド🏈     21期 細田武   2019年11月投稿

🏈 桜🌸  ノーサイド🏈

      

10月の投稿は、日本のベストエイト進出でファーフタイム☺、決勝トーナメントの初戦は前回大会で奇跡的な勝利を納めたといわれるRSA( 南アフリカ)10月20日、飛田給の東京スタジアム。

死力を尽くしての王者への挑戦です。予選のスコットランド戦、TV視聴率予想どうりの40%、PVやパブ等の飲み族を含め、日本中がラガー好きの民族になり👊😄📢応援のボルテージはいやが上にも盛り上がったようです。同日4時から開始の大分のフランス対ウエールズ戦。フランスが後半ラフプレーによるレッドカードで一人足りないなかウエールズ、トライを奪えなかったが30分過ぎにスクラムを押し込みノーサイド寸前のトライ、ゴールによりウエールズに1点差の大逆転。興奮冷めやらずの後に7時15分南アフリカ戦のキックオフ。

南アフリカは95年に第3回W杯開催国。アパレトヘイト政策の撤廃後初の黒人大統領マンデラ氏のもと開催された国で、前回の大会で同国に勝利したのも因縁とも思える。TVで見ただけでも体格の差異を感じ🍀先日浅草で見た南アフリカの選手でない応援団の親爺や、派手な格好の高齢女性に異様さも感じる威圧感に圧倒されました。多くの国のゲストも見るがかなりの違いを感じました。試合は前半3分、狭いサイドの田村をかわしトライ🏈、早くも5点(  ゴール成らず)。ここで南ア、ムタワリラがハイタックルで10分間のシンビン( 退場)。

前半20分、スクラムを押し込み反則をとり田村の30M,PG成功。前半は5ー3、南アのリードで終了☺。前半、審判の目を欺く経験の差を思わせる出足の早さをペナルティとしないと感じたのは自分だけか⁉。前半が点差のわりに体力面で使ったジャパンは後半3分、8分PG、22分ムーアのハイタックルの反則で得たPGとたて続きのゴールを決められる。25分銀髪を靡かせたデクラークに中央トライ、ゴール🚩🙌🚩。29分にもターンオーバーから11番マビンビのトライ、80分に及ぶジャパンの抵抗も3ー26(南ア) という結果。

日本中を一縷の望み👍という夢をみさせてくれたone-for-oll,oll-for-one、one  teamに👏拍手を贈りたい。

田村の前半での退場、日本のラインアウトでは半分取られ、スクラムを崩されて反則を誘われ、リーチの孤軍奮闘も、松嶋・福岡ラインが南アの早い潰しに前進を阻まれた。

ジョセフHCじゃないが若い選手が成長し、個々のブロックの自発的なコネクトが取れてきた。この一言世界に向かって胸を張れ🙆

ターフ以外でも各国チームはもてなし以上の親善を尽くしてくれた。

釜石、大分、横浜など各地でふれあいノーサイドの見本を見せてくれた。もうひとつ 、ゲスな話ですがすがあの大きなこの大会のチーム優勝賞金は0円で、ウェップ・エリス( 🏈ラグビー発明🏈👏)の名を冠した黄金の優勝カップだけである。

ジャパンのメンバー含めスタッフの報酬を聞くと優勝賞金は500万円、ベストエイト100万円と聞く。品位、情熱、結束、規律、尊重をモットーとする🏈ラグビーの真髄のようです。ワールドランクが6位から8位になったが日本中をTV浸けにし、ジャージーやペイント用品の売り上げに寄与し、ビール会社の株価の値上がりに影響を与え、各方面にブームを呼んだことは否定しない🙇。ちなみに各会場のビールはスポンサー契約のハイネケンビール🍻(キリン製造) のみでした。ここまでジャパン関係、取り敢えず忘れないように送ります🍀

26、27日の準決はイングランドと南アフリカが勝ち上がり、11月2日の決勝はイングランドが栄冠を取ると思います。

老朗好日-第三回- 私の中の名画と名優たち(その2)   ジェイムス・スチュアートと「グレン・ミラー物語」                    21期 髙野 昇  2019年11月投稿

第三回
 私の中の名画と
名優たち(その2)

老朗好日3

ジェイムス・スチュアートと  「グレン・ミラー物語」

▼私達が若い頃、映画を夢中で観ていた当時の俳優は殆どが戦前からの役者たちだ。J・スチュアートしかり。少年時代から飛行機のパイロットを夢見ており、のち飛行免許を取得、そんな彼が「翼よ!あれが巴里の灯だ」で飛行士リンドバーグを演じたのを生涯最高の役だったと自叙伝に書いている。第2次大戦では現役のパイロットに志願し、B24爆撃機を操縦しドイツ軍と戦い活躍、のち空軍少佐の勳賞をうけている。バンドを率いて戦線の各地を回り指揮を執っていた軍服姿がカッコよく、十数年後のアカデミー賞でのプレゼンターとして登場した時は軍服を着て仲が良かったゲイリー・クーパーに賞を渡していた。大戦後の活躍の中では戦争映画にはオファーが来ても一切出演を拒否したとも書いていた。いかにも彼の思想、人への思いやりなど「アメリカの良心」と言われていたのにも納得できる。演劇スクール時代に気ごころを通じ合った友人にヘンリー・フォンが居た。

老朗好日3-2

▼「グレン・ミラー物語」は1955年頃の正月にロードショーされた筈で日本でのアメリカンポピュラー曲の全盛期でG・ミラーサウンドはFEN(for east network・在日外人向けの放送)でB・グッドマンとともに良く聞いていたので、より公開が待ち遠しかった。ドラマーのB・ポラック(この映画に自ら出演)に認められ、またひょっとした事で生まれたG・ミラーサウンド、フルバンドの基本であるトランペットとサックスとのミックスをふとしたキッカケでサックスとクラリネットとの穏やかに流れるようなミックスと音色に気付き、あのG・ミラーサウンドが出来上がる。そういえば彼の曲には静かでリスリング的気分を多分に含んでいて「コーヒーをもう一杯」飲みたくなる気持ちを誘う要素がある。禁酒時代のジャズクラブでのルイ・アームストロング、ジーン・クルーパー、そこにG・ミラーが加わってのジャムセッション、当人の音は勿論吹替ではあったが、築地の「東劇」でみた1955年頃の正月、観おわって劇場を出た夕暮の銀座の街並、その楽しさと感動とスクリーン上での雰囲気は、今もDVDで再現し楽しんでいる。劇中、結婚記念日を祝うパーティーで二人がジルバを踊る場面、私が大好きなシーンで今も時折DVDでそのシーンだけを観ることがある。J・アリスンのスカートの回転の鮮やかさ、美しさは「ペンシルバニア6-5000」のリズミカルさとマッチして楽しいシーンだった。

▼共演したジューン・アリスンについて少し。彼女はJ・スチュアートとの共演が多く、私が最初に観たのは「甦る熱球」というメジャーリーグ野球をあつかった映画、怪我をし大リーグ復活に全力をそそいだ夫婦愛のものだが、あまり詳しいストーリーは記憶にない。マーガレット・オブライエンやジャネット・リーと共演の「若草物語」、ジーン・ケリー主演の「三銃士」など鼻の上に小皺を寄せての笑い顔が素敵。少ししゃ枯れていた何とも言えぬセクシーな声。目立った映画は少なかったが「甦る熱球」「グレン・ミラー物語」は印象深い。なんとも言えぬ夫婦愛を演じさせたら、この二人を置いて居ないと思う。私はこのご両人が私生活でも本当のご夫婦と思い込んでいた時期があった 。2006年88歳で逝去。

老朗好日3-3

▼J・スチュアートはあのヒチコック監督にも気に入られ、「裏窓」「知りすぎていた男」などにも起用され、「裏窓」ではモナコ王妃となったグレース・ケリーと共演、車椅子に乗っているだけの演技で犯人を突き止める役、「知りすぎ・・・」ではドリス・デイが共演して歌った・・・♬ケ・セラセラ・・・が大ヒットした。私の観たお気に入り名画のおよそ5・60本の記憶メモ帖に記載されている中にはJ・スチュアートの映画がおよそ20本、ヘンリ―・フォンダが10本ある。「アメリカの良心」と言われていた二人、自分の、映画に対する愛情がこの二人が教えてくれたものだったとしみじみと思う。異色西部劇の「リバティ―バランスを射った男」なども印象が強く、1997年89歳で逝去。

還付金サギ                26期 岩瀬和子      2019年10月投稿

 8月26日還付金サギにあいました。お恥ずかしいことです。私のような事にならないように、書いています。

 「区役所の○○ですが、青い封筒届きませんでしたか」と聞かれ届いていませんと答えました。「書類の〆切は過ぎていますが、忘れた人や紛失して届いていない人に電話しています」との事でした。振込先はどこですかと聞かれ信金と云いましたところ、銀行にしてくれと云われましたので、「みずほ銀行」と云いました。「みずほ銀行へ連絡しておきます。今後のために二人登録した方がいいですよ」と云われました。私は書類がないので、区役所へ電話して聞こうと思い電話しました。何課もわからず還付金のことで云ったら繋いでくれましたが○○さんと云ったらそういう人はいないと云われました。何課もわからなかったので仕方がないと思い切りました。もし、居ませんがどういうご用件ですか、と聞いてくれていれば未然に防げたのにと後で思いました。すると「みずほ銀行の○○です」と電話がありました。キャッシュカードを持って行ってくれと云われたので、事務所へ行くのですかと聞いたところ「ATMで出来るのですが、どこの支店ですか」と聞かれ、緑町の支店というと「そこのATMで出来るか調べますので少々お待ちください」との事でした。しばらくすると「緑町のATMは古いので、錦糸町の東武レバントホテルの横のみずほのATMへ行き着いたら電話下さい。操作方法を教えます」との事でした。電話すると、押すところの指示がありました。

 主人の確認がとれないので、他行のカードがありませんかと聞かれ、無いと答え、私の他行のカードありませんかと云われ、千葉銀、三井住友、三菱UFJがあると云ったら「そのカードでやってみてくれ」と云われ家に取りに戻りました。往復歩いて疲れたのでタクシーで行きました。ATMに着いたら電話してくれと云われ、指示通りやりましたが「三菱UFJが確認とれないので、電話を切らずにアルカキットの三菱UFJのATMへ行ってくれ」と云われました。そこで指示通り操作しました。すると「三菱UFJに定期か何かありますか」と聞かれ定期が十万円あると云ったら振込金額98,326円と指示されました。私は随分還付されるんだなあと思いながら帰りました。後で考えますと幸いなことにみな残高が何百円しかなく、三菱UFJだけ定期を入れると十万円超えたので使われたのだと思いました。私が居ない時は主人が電話に出たがらないので留守電にしています。フィットネスクラブから帰った時、留守電のランプが点滅していましたが、呼び出し音が鳴っていたので出ました。すると三菱UFJからの電話でした。

 「変な振込みがあるので、記帳して、警察へ行ってください」との事でした。留守電は三菱UFJからの電話でした。すぐ記帳に行きました。ATMのところだけ開いていました。女性の行員さんが、仕事していたので、私還付金サギに遭ったみたいです、と云うと事務室へ入れてくれました。ちょっとお待ちくださいと云われ、銀行でも対処しているらしく、暫くすると女性の行員さんが、書類を持って近くの交番へ一緒に行きました。おまわりさんに事の顛末を話しました。署から二人刑事さんが来られ、おまわりさんからメモをもらい、車で私の家に寄り、家電の着信履歴をみたり、家の周りを写真に撮ったり、錦糸町の三菱UFJのATMで私が指差ししている写真を撮ったり設置してある建物の写真を撮りました。それから署に行き、私の携帯の発信履歴を撮ったり、私の前後の姿の写真を撮りました。おまわりさんから貰ったメモをもう一度聞かれました。そして、お金は返らないと思うと云われ、被害届を出しました。三菱UFJへ記帳に行った時から教えますと、三時間以上かかりました。被害者なのに加害者みたいでした。

 翌日みんなに話したところ「あなたがひっかかるとは思わなかった」と云われましたが、実は電話のサプリメントや海産物のセールスで何度か失敗しています。

老朗好日-第二回- 私の中の名画と名優たち (その1) ヘンリー・フォンダと「荒野の決闘」    21期 髙野 昇                            2019年10月投稿

第二回
 私の中の名画と
名優たち(その1)


老朗好日2

ヘンリー・フォンダと
「荒野の決闘

▼邦題に惹かれて見に行った人には期待外れ。そんな中、お馴染みの牛泥棒と保安官兄弟の因縁のストーリーだが、ラスト以外には西部劇のドンパチも少なく、邦画名「荒野の決闘」は題名負けで、実際は詩情豊かに西部を描いた作品だった。元医師で賭博師のドク・ホリデイとの友情、朴訥で口下手な保安官役のH・フォンダが一目惚れした女性クレメンタインをダンスに誘う場面や、ラストシーンで「~I love you~」が言えず「私はクレメンタインと言う名前が大好きです」と言い町を去る別れのシーンは哀愁と郷愁を込めて描かれ、その風景は一片の詩であった。この映画の邦題「荒野の・・」は観客動員増を狙った配給会社の策略で本来の「愛しのクレメンタイン」とするのが正解だと今も思っている。あの「♬オーマイダーリン・・・クレメンタイン♬」はこの映画のBGM、日本ではダークダックスの「雪山賛歌♬~雪よ岩よ我らが・・・~♬」として有名になってしまった。

▼H・フォンダは役を彼らしくそのままを演じていた感じで、あの有名な実存したワイアット・アープの存在感、拳銃の持ち方、話し方、歩き方全てが画になっていた。この映画はあえて活劇部分を少な目にし、先にも書いたが邦題が示すような”西部活劇”ではなくドラマであった。何千頭の牛を運ぶ途中に寄ったアリゾナ・トムストーンで牛泥棒に遭遇し、盗まれた牛と、銃撃で殺害された兄弟に復讐を誓い保安官として立ち上がる。大筋のストーリーは至極当り前の展開でしかない。しかし内容をさり気なくキャラクターの描写で表し、圧倒的な美しい日常描写で展開させるJ・フォードの演出は「荒野の決闘」の邦題に疑問を感じる内容の見事さとみた。日本の赤穂浪士の話のように、米国では史実として語り継がれているストーリーである。

老朗好日2-2

▼本題の”My darling clementine”  は開拓時代に娘を事故で亡くした人が作った悲哀と哀愁のこもった悲しい曲。それを巧く映画のストーリーに組こんでいた。西部という舞台の中でのドラマであっても人間的な要素を入れ、やたら銃を抜く西部劇とは一線を引き、心に秘めた復讐、元歯科医で理由あっての賭博師に転落したドク・ホリデーとの友情、その婚約者に抱くアープの切ないまでの愛、惹きつけられながらもとても素直に振る舞うことが出來ないアープが思い切りクレメンタインをダンスに誘うシーンは見ている方がもどかしくなり、そして美しい。全てが終わり彼女との別れの場面、「私はクレメンタインと言う名前が大好きです」といって彼女の頬に精一杯のKISS、馬上の人となって町を去って行くこのシーンは彼の愛の深さと誠実さを精一杯心の底から出した愛の告白でもあった。そのシーンがモノクロであったからこそ見る人を惹きつけたと思う。悲哀と哀愁・詩情と西部らしい簡素な風景・人への想い、素晴らしい映画だった。忘れることが出来ないラストでのあの台詞「わたしはクレメンタインと言う名前が大好きです」

▼J・フォードがこの作品を構想し始めた頃、長命であったW・アープ(1929年没)に数回面談し親交があったと後日映画評論家の故荻昌弘氏がTVで語っていた。J・フォードは大戦前に「駅馬車」を撮り世にジョン・ウエインを送り出し、そしてH・フォンダをこの映画で名優として作り上げた。後のH・フォンダは「12人の怒れる男」「ミスターロバーツ」や晩年の「黄昏」でも注目を集め1981年史上最高齢アカデミー受賞者となり翌年77歳で亡くなった。

燦笑繁話30   🏈ブレイブブロッサム日本🌸     21期 細田武   2019年10月投稿

🏈ブレイブ
      ブロッサム日本🌸

2019、10、13日   19号台風の悪禍がTVの画面にいっぱい流されている😵多くの被災者の皆様にお見舞い致します🍀。お陰さまで病状は落ち着き、商売も9月で引退閉店しました。ご厚誼を感謝します🙇

日本中が紅白のジャージーを着た俄🏈ラグビーファン 😷😅失礼  

パブリックビューも日本中がステージになり67,000名の横浜日産スタジアムの観客の90%はジャパン🌸。多分TV視聴率40%  確実か⁉( 未発表 )    

 台風の河川氾濫のニュースは7時30分まで※ 6時間前開催発表等、変則的な運営に多方面からクレームもあったが、4年前の屈辱を、また主催国としてのプライドにかけてゲームは勝ちに行く4年間の待ちに待った瞬間を家内とTVの前で待った❗🏈

ファーフタイムを挟んで100分。被災者の皆様にお詫びをしながら何処ともなく力が入り、ゲームの虜になりました。家内も俄ですが "そこそこ" '🏈あ~あ" 等一人前です。前半開始6分スコットランド・トライ[  5-0  G成功 7-0  ]。17分オフロードパスで松嶋幸太郎トライ🏈田村のゴール成功で同点。25分初出場の稲垣のゴール中央へのトライ🏈。攻められてもオフサイドを誘い、これでもかの二人がかりのタックルでガッツリ防備👏前半終了間際このシリーズ全開の福岡がキックパスをキャッチし、タックルをかわしトライ、ゴール🚩🙌🚩。

前半終了時、21ー 7 のリードで後半へ☺  誰もこれなら楽勝👩か⁉

堅固なスクラム、捕虫網にかかった虫のようにへたる敵のFW,CTBのラファエラのキック、田村の的確なゴール🚩🙌🚩キック。でも後半2分40メートル独走またもや福岡のトライ、ゴール🚩🙌🚩28ー12としたが敵もさるもの9分FWの押し込みでトライ、ゴール🚩🙌🚩14分メンバー入れ替わりの後にクイックスローの後の速攻トライ、ゴール。28ー21となりました❗

後24分🙋持つかねー❗我慢😣併し今のジャパンはその必要は無かった。攻められても二人、三人で絡み、ラックから相手の反則を誘い長いと感じた26分を短く感じさせ8O分を攻め、守り、4年 間の雪辱以上の勝利に向けての練習と[  ワンチーム]というキャッチフレーズ以上のゲームを成し遂げノーサイドを迎えた。ゲーム中一触即発の場面も終わればノーサイド。リーチ・マイケルや国籍変更の外国選手の日本人化?、ジョセフHCに依る作戦面の変化に対応できたベテランと 若手のジョイントが結実したようです。新聞記事みたいですが過去、旧国立競技場で🈵🚻🚻の満員の早慶、早明戦、東大阪の花園の高校選手権、秩父宮の社会人選手権等のゲームを観戦し、🏈ラグビーフットボール後援会も入会している爺さんです。三商同窓会にも好きな人もいると思いますがベストエイト進出が決まった13日、夜を徹してメールしました❗決勝トーナメントは来月投稿致します🍀

乞う、御期待を🙇   

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)   23期 市川忠義      2019年9月投稿

後記

自分を育て上げてくれた“バレーボール”其の技術と精神(哲学)について!

 自分の歴史を省みて以下述べて行きます。

履歴として・・・バレーボールとの出会いは、中学二年生の時に行われた全校球技大会。高校(都立第三高等学校)に進学してバレー部の門を叩きバレー人生が始まりました。この高校の先輩には1964年(昭和38年)第18回東京五輪で主将を務めた出町さんがいました。

高校時代は神奈川県の藤沢高校はインターで日本一に輝く名門!二度ほど合宿でお世話になりました。

相手の選手を見て驚きを感じた。皆上手にボールを扱っているのに感心した覚えがあります。そこで先ず初めに選手のまねから自分とどこが違うのか疑問を解消すべく、彼らの動きを観察(眼を皿にして・・・特に足の運びについて・・・)自分の出来る限りの挑戦で、自分流の開発に心がけ、パスの重要性を知り、日々研鑽の結果現在までに育ててくれ大きな財産となりました。

そして体重移動に気が付き可能となる。次にコントロールに就き体重移動の大切さを更に極め、タイミング・テンポについての究明に取り掛かる。バレーボールと言う競技はリズムとテンポが肝心!それと間!バレーボール競技は、このパスをつなげる事が大切だが、そのパスを心を込めてこのパスで一点取るぞ!の気持ちがなければならない。この事を次の選手に伝える技術がさらに寛容、そして次の選手に伝える力、攻撃につなげる事が大切な競技です。このように攻めてほしい事を予測しての練習が大きな力となって育ててくれている。今では大いに感謝しています。

バレーボールは心をつなぐ競技であることを改めて意識した。これにはバレーボールに対しての有名な言葉があります。この言葉を耳にしたのは1962年の第4回アジア大会(インドネシア)日本代表時代の頃でした。話をしていた先輩は東京大学卒業の大先輩である大槻さん(当時専売公社の副総裁の方)でした。

その言葉は…“彼から彼へそして第3の彼へ!”簡単な言葉に思うが奥の深さには理解するまでに時間がかかりました。理解する事が出来、それから自分の心の支えとして大いに役立ったと思っています。

不思議な縁として…高校、大学、実業団に至り同じ釜の飯を共にした先輩(1964年の東京五輪の主将を務めた)出町先輩とは15歳から指導を受け、今日の自分を育ててくれた大事な人。同じ環境でのJAPAN(一期生)は残り少ない人材となりました。先輩たちが去り、後輩の減少にはさびしい思いです。生き残りとしては出町先輩が長男、次の年になりました。次男坊の位置に来ています。後輩の佐藤君、中村君、南君そして猫田君もこの世を去ってしまいましたが、いつまで存命するか判りませんがバレーに対する情熱は今持って志は今まで以上と思っています。バレーボールに恩返しする事が自分たちの使命ではと考えています。

今後の普及にどれほど役立てるかは判りませんが。出来る限りの恩返しをと思っています。この年になり大病に襲われ大変な時期を過ごしまして皆さんに大変ご心配をかけましたが元気を取り戻す事が出来たことに感謝の気持ちでいっぱいです。

以上私の半生としてまとめてみました。

平成最後の年!今年は元号改正に皆さんのご幸福を祈ってこの事に代えさせて頂きます。
皆さんお元気で…

2019年吉日        
元明治大学コーチ:市川忠義

突然の出来事              26期 岩瀬和子      2019年9月投稿

 4月11日に主人が緊急搬送されました。観たいテレビがない夜は、7時から9時迄ひと眠りします。その夜は8時に起きてきました。苦しくて寝られないと云って、テレビを観ていて、9時にインシュリン注射を打ち牛乳を飲んで10時迄テレビを観ていました。10時になり、床につきましたが、また苦しくて寝られないと云って起きたので、これはただごとではないと思いました。

 墨東病院へ電話しました。何で来ますかと云われたので、タクシーで行きますといいました。娘も孫もいましたので、車で連れて行ってもらおうと頼んだところ、救急車で行かなければダメと云われました。#7119へ電話せず119番へ電話しました。すぐ来てくれました。

 墨東へ電話をしたことを話したので連絡してくれましたが診察券がないのでダメとのこと、同愛は緊急の患者がいるので30分後ならと云われ、三井記念病院へ掛けてくれたところ4万円の部屋なら空いていますとのことでした。

 済生会病院へ糖尿病で通院していたので連絡してくれました。ところが検査してくれたところ、済生会ではダメで同愛病院へ紹介状を書いて下さり同愛へ向かいました。検査の結果そのまま入院になりました。

 カテーテルを挿入し、造影剤を注入し、右冠動脈閉塞、左冠動脈狭窄が見つかりました。病名は鬱血性心不全(急性心筋梗塞)でした。原因としてアルコールは飲まないけど、タバコと糖尿病のせいのようです。ICUに3日間、一段病棟へ15日間入院しました。その為、家の中で歩くことは出来ますが、外は無理なので、車椅子を借りました。退院後はタバコをやめました。

 主人の趣味は麻雀と競馬です。雀荘は階段があるので行けなくなり、競馬は私が買いに行っています。金、土曜日の夕方は予想新聞を買いに行き、土、日曜日は錦糸町へ馬券を買いに行っています。一日中テレビを観たり、ビデオを観ているだけではよくないので、馬券を買うには少し頭を使うのでいいかなと思っています。機械に入れてもダメで係の人に聞きました。このレースは頭数が少ないので次のまちがかもしれないと直しました。他のレースもダメで、結局3回目の時、係の人が下で新聞をもらっていくといいですよと教えてくれました。帰って話したら買った予想新聞が前日のものでした。翌日話したら、すみませんと云って、と新聞代500円を返してくれました。雨が降っていたので2往復をタクシーで行きました。車代どうしてくれるんだと云ってやりたいと思いました。

 その後は必ず新聞の日付を確かめるよう云われています。退院後はタバコをやめました。

 老朗好日-第一回- 「名曲”鈴懸の径“」 21期 髙野 昇       2019年9月投稿


第一回
名曲”鈴懸の径“

♫♫・・・鈴木章治というクラリネットのジャズ奏者をご存知だろうか。在学3年時の昭和28年銀座6丁目に「ジャズ喫茶テネシー」が開店した。コーヒーショップと名のってはいたが実際は小さなステージがあり、昭和27年頃からのジャズ(外来の曲は全てジャズといっていた)ブームでこのテネシーには生のバンド演奏が出来る小さなステージがあって、そこにいけばジャズの生ステージがコーヒーを飲みながら安く見られると噂が拡大、一躍「銀座にテネシーあり」の存在となった。学校帰りに三商の制帽を被ったまま学友と直行したこと十数度。与田輝男とシックスレモンズ、ジョージ川口とビッグフォー、渡辺晋とシックスジョーズなど、ボーカルのナンシー・梅木を見た記憶がある。ほかのバンドと共に週替わりで出演していたその中にクラリネット奏者の鈴木章治がいた。バンドのリーダーだったかは不明だがその演奏には何か心の琴線に触れる音色が在ったのか今思うに不思議であった。その頃ベニー・グッドマンのクラリネットソロの「シャイン」という曲が朝のラジオ番組のテーマ曲とし軽快に流れていて通学前に元気をもらっていたのが原因だったかもしれない。このジャズ喫茶ブームはやがて全国に広がりテネシーはその先駆けでもあった。

老朗好日1-2

♬・・・卒業後も私は彼が演奏するステージをサンケイホール、共立講堂、日比谷公会堂などへ追っかけをしていた。当時のメンバーにはビブラフォンの南部三郎、ピアノ秋満義孝など居て小生好み。そしてあの名曲「鈴懸の径」の名盤が昭和32年LPとして発売された。「鈴懸の径」は古い歌だが何処かモダンで、軍歌一色の戦時中の昭和17年に作られ、あの時代軍部がよくも許可したものと後日思ったものだ。詞は佐伯孝夫、曲は灰田晴彦、歌ったのが弟の勝彦で灰田兄弟が在籍していた立教大学構内の雰囲気そのままに曲が作られ立教大学の校舎、欧州風のキャンパスなどそして蔦の絡まる校舎、紅葉した鈴懸それぞれの色、この曲の歌詞やメロデイはあの厳しかった戦時中につくられたとは思えない。この翌年学徒動員令が発令されていた。優しくて長閑でスマートで同じ時期の曲にあった「新雪」と共に、戦後、兄がよく口ずさんで歌っていたのを私も憶え、その歌詞や灰田勝彦と共に思い出として残る。

♪・・・「リズムエース」というコンボのリーダーとなり、鈴木章治はこの3拍子の曲を4拍子の軽快なステップとリズムにアレンジ、その陰にはベニー・グッドマンのバンドにいたピーナッツ・ハッコー(あの”小さな花”の名演奏で名を挙げた)の存在がある。彼はこの曲を気に入り欧州演奏の際は「プラタナスロード」の曲名でこの曲を欧州でアッピールし「日本人の作った日本の曲」として欧州に響き渡り本場米国にも蔓延した。昭和32年、TBSのスタジオでP・ハッコーと共演、そして名盤として今もジャズファンの心に5分40秒のLP版として聴き継がれている。ビブラフォンとの跳ねるようなイントロから始まり、ピーナッツ・ハッコ―とのダブルの掛け合い演奏、松崎竜生のビブラフォン、弟敏夫のピアノなどP・ハッコーとの共演で完全なコンボスタイルの名盤となっている。33回転のLPレコードは今も私の宝として手元にある。

老朗好日1

🎼・・・昭和30年代後半、ビブラフォンをメインにした曲を平岡精二が作曲した「学生時代」というペギー・葉山の歌があった。かなりヒットしたがこれは平岡とペギーが卒業した青山学院を想いこんで作り歌われた曲で「鈴懸の径」の続編で立教大を謳ったものと誤解され、ペギーや平岡がTVで否定し、我が青山大がモデルであることを何度かアッピールしていたことを憶えている。立教大の池袋校舎の4号館前に「鈴懸の径」の記念碑がある。若い学生たちは見向きもせずにその存在や由来などには殆どが無関心。校歌以外の学園ソングでもあり、たまたま今春、孫が立大に入学したのを機にレコードを聞かせ、その時代の背景、鈴木章治への思いなど話してみようかと思っている。もし「日本ジャズの殿堂」としての記念館が有るのならば鈴木章治と共に築きあげた多くのメンバーと名曲「リズムエースの鈴懸の径」がバックに流れるホールで、若いプレーヤーやファンに是非耳にしてもらいたい名曲中の名曲、そして名演奏であることを知ってもらいたい。

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)   23期 市川忠義      2019年8月投稿

その後のバレーボールは?

 引退後は社業に専念していたが、母校が2部から3部に降格し、影のコーチとして1部復活に携わり何とか1部に戻る事が出来た。

 1956年の事…春リーグで3部に落ち、その年の秋リーグで2部へ昇格、翌年春2部で入れ替え戦の結果、現在の筑波大学を破り1部に復帰。この年のインカレでは3位となる。更にこの頃は大変忙しかった。日本リーグを目指していた日本電気(NEC)の影のコーチもしていた。監督の角田さんは出町さんと同期の先輩、自分は6人制の経験がないので頼まれての仕事だったが5年経過したときにはリーグに上がりVリーグを取るまでに育ってくれた。

 その後は“じじばばバレーで!”61歳までと50代に開催されていた国体のシニア部門で常に東京代表としてバレーを楽しんでいた。そして母校が再び3部に降格した時先輩からの依頼で明治の同期生だった海野(東レ)と共にスタッフの一員として海野監督のもとでコーチを務め現在の基盤を築いた。

 学校の選考基準が昔と変わり推薦制度が広がった事が大きく力となって今日の成績が出来上がり現在に繋がっている事は確かだ!

 来年は元号も新たに制定される年!古豪明治の復活も夢ではなくなって来た事は事実だ!“新しき歴史に向け進め!明治”の横断幕を是非とも実現してほしいと思っている。


 追加として今までの勝敗に関する思い出について記す!

 勝ち試合は多かったが、記憶に残るような戦いはほとんど憶えていない。おそらく勝率は学業と異なり最優秀と記憶している勝率としては9割を軽く超えているだろう。(バレーに関してはノーベル賞もの?)勝利記憶での戦いは卒業した年の天皇杯、ここで母校と戦い、何とか優勝した!フルセットの僅差での勝利が一番の思い出か?この他は負け試合!1958年の天皇杯では関西学院との準々決勝戦で自分が試合中に痙攣を起こしての敗退、先に記した4年生の時の天皇杯、そして1962年の天皇杯で東レと決勝が行われフルセットの接戦だったが、惜敗した原因は自分の単純ミスだった事(外へサーブを打った)アウトオブポジションのはずが認められなかった事がミスになる。相手のポジションが一つ違っていたにもかかわらず認めてもらえなかった事は残念!

 以上が自分の体験談として記憶に残っている。自分の足跡を見つめる機会が出来てバレーボールに感謝する事と思っている。今までの体験をもとに我々の仕事は次世代への語り部としての仕事ではなかろうか?と常に感じている。世の語り部として今後行脚を続けられるよう健康管理と共に働く事がこの上ない幸せと思っている。人はなぜそこまでのめり込んでいるのかとの意見を耳にするが、自分としての回答はいつもバレーが好きだと言い、一生バレー馬鹿に徹する事が出来ればこの上ない日本一の果報者として人生を送る事が最高の人生であろうと思っている。命ある事で今が有り、本当にありがたい事です。感謝!感謝!の気持ちを忘れず平常の生活を楽しみながらの今日この頃…2018年平成最後の年末に際してのコメントを記してみた。

2018-12-吉日
市川 忠義

*バレーボールの心を求めて、バレー哲学に魅せられての人生は悔いなきことと感じている今日この頃…

以上バレーボール中心に考えた自分史とも言えるコメントです。バレーボールの心!…“彼から彼へそして第3の彼へ!”この言葉の意味は奥が深い!

燦商閑話-第33回- 「”忘れられないあの日”」 21期 髙野 昇       2019年8月投稿

       ・・・この暑さ 記憶の底の 十五日・・・

暑い日差しの中、伯母の家の地續きにある利根川に仕掛けておいたウナギのビグに掛かっているウナギを収穫に行った。いつも2匹くらいは当たり前に取れ、この日もいつもどおりだった。昼にはまだ程遠い此の時間、空襲警報のサイレンもないまま幅広い利根川河口にほど近いこの椎柴村の川面10メーター程の水面すれすれに米艦載機のグラマンが佐原方面に向かって大爆音とともに通過していった。一瞬、身の丈ほどの葦に身を寄せたが何時もの飛来してくるグラマンとは様子がおかしいと直感した。いつもなら機銃掃射をしながら川面を飛びその高さもかなりの高さなのに、今日は違う。驚いたことにその内の2機が前翼を左右に大きく振りながら通過していった。操縦する米兵をこの目でしかとはっきりみたのは、一瞬ではあったがこの日が初めてであった。昭和20年8月15日のことである。その数時間後の正午、天皇の重大な放送があると小学生だった子供達は校庭に参集、あの天皇の声を直立不動で聴いてはいたものの何のことやらさっぱり判らず、ただ”耐えがたきを耐え、忍び難きをしのび・・”なる言葉だけが頭に残り、一億総決起の覚悟の激文とおもっていた。そしてその後すぐに「敗戦」を知った。・・・・その5日前、米軍の撒いた終戦を促がす”宣伝ビラ”を私が拾ったと誰かに密告され、校庭の朝礼があった8月12日全生徒の前で、代用教員の銚子中学5年生だった代用教員の輩に猛烈な往復ビンタ5・6発の制裁をうけた。敗戦3日前の悪夢のような鉄拳制裁、8月15日を境にしてのあの日はなんだったのか、70数年過ぎた今でもあの3日間の出来事に疑問が強く思われる。その晩になって「これで東京に居る親・兄妹のところにすぐに帰れる」と思ったものの実際に帰京したのはその歳の冬近く、東京の食糧事情の悪さのせいでもあった。その中学生の代用教員は後に大学をでて中学の教員になっていた。どの面下げて教壇に立っていたのか思いは募る。終戦記念の行事はともかく、私にとってこの日になっていつも思うのは武道館での式典ではなく、9歳4か月の時に体験した地獄の様な3日間と、8月15日に喜びを素直にみせながら洋上を飛び交ったグラマン戦闘機のパイロット、あの日のどこまでも蒼かった空の色は、良くも悪くも鮮烈で強烈な”青”として今も脳裏から離れない。そして時間と共に忘れ去られていくのだろうか。

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)  23期 市川忠義        2019年7月投稿

 明治大学を卒業後日本鋼管に入社、これからが大きな時代に…

 五輪に参戦、世界選手権の戦いなど世界に繋がるチームを結成して五輪を迎える事になる。実業団での成績については後で詳しく記す。これまでに至るもろもろについては…次のようなことである。

 先ず入社以前に鋼管の選手として海外遠征が行われ、新人として翌年から一人前の社会人となる自分たちを共に香港、台湾遠征に同行出来た事は大変ラッキーだった。

 社会人一年目の戦績は…初戦が例年行われている都市対抗戦、会場は常に大阪府立体育館と決まっていた。初戦は簡単に結果を出してきたが決勝戦は実業団チームで一番の八幡製鉄(現在の堺ブレーブス)2対1での惜敗だったが、この年は他の大会すべてに優勝を独占する事が出来た。日本一の戦いは今年から続き昭和の黄金時代を作り上げた。

 五輪種目として初めて選抜チームが結成され、女子はニチボウ貝塚単独チーム、男子はナショナルチームとして誕生その一期生となる。この中から第18回東京大会に選ばれる事を信じて世界と戦ってきたが、残念な事に五輪参加は夢に終わってしまった事は残念でならない。レバタラは言いたくないが、もし今のルールであればメンバーは14人、リベロとして活躍の場があった。ならば夢の優勝あってはいないに手が届いたかもしれない。今までにソ連に勝利したのは当時のメンバーのみ、ミュンヘンでは戦っていない。大型化を目的に選ばれていたころの事で仕方がないこととは思うが国の方針には逆らえない。

 当時のメンバーで現存している中では自分が年齢的には次男坊的存在!仲間の殆どの先輩たちは存在なく、五輪主将の出町さんに続いての歳となる。同期の仲間も少なくなり後輩達の減少には悲しい思い出で一杯な気持ちだ。

国体は5年連続出場し優勝3回、2位が2回と確立は一番だ!実業団選手権大会は現役中に3度の優勝、都市対抗は2回、天皇杯が2回ある。その他としてNHK杯の優勝、国内に関しては以上だが、国際試合での成績は、第4回アジア大会で6・9人制に参加して共に金メダルを獲得できた。当時最高峰であるソ連を招いて1963年にプレ五輪東京大会が開催、プレ五輪3対1での勝利を収めた。

1961年2ヶ月間に亘るヨーロッパ遠征は22戦全敗と不名誉な成績で帰国。そしてプレ五輪を経て1964年の本番を向かえ、結果3位の銅メダルを確保。東京に続いてメキシコ五輪の2位と上に向かっての進撃は続き、1972年のミュンヘンでは夢にまで見た優勝に手が届いた。これで3大会連続のメダル。3段跳びのホップ・ステップ・ジャンプができた事になる。その後においての五輪は惨憺たる結果だ!その後の現況はメダルには届かないありさま、参加も出来ない事はさみしい限り!東京五輪の後に日本の技術も認められたが、ルール改正が毎回のように行われた事で日本を弱くした一因だと思う。外国人向けの力のバレーに変貌してきた。やがて2回目の東京五輪2020年を迎える事になるが、果たして前回収めた結果が得られるとは考えられない。

 1967年日本リーグが発足!当時は6チームでの戦い…参加チームは八幡製鉄、松下電器、日本鋼管、専売広島、富士フィルム、住友金属…2部としての実業団リーグが結成された。一回目の成績順位は八幡製鉄が優勝し幕を閉じた!翌年からは日本鋼管新時代の幕開け第2期黄金時代となる。五輪以外の全てのメダルを手にして引退できた事は運の強さに加え、良き時代に生まれ結果このような環境になったと思う。バレーボールに大きく感謝している。

防災訓練に参加した           26期 岩瀬和子      2019年7月投稿

 6月7日に母校の宿泊防災訓練に参加しました。実は私70歳の停年まで本所消防署の女性消防団員でした。そして救命救急指導員の資格を持っていましたので、消防署で行われる初級の講習会では消防署の方のお手伝いをしたりしていました。防災訓練と聞くと参加したくなり、これまで6年参加しています。

 消防署の方々と、町会のボランティアの方々が指導して下さっていました。班ごとに分かれ、順番に救助方法をいろいろ体験します。楽しそうに訓練していました。その後災害時における食事の体験としてアルファ米の食事をします。そして宿泊、生徒さん達は教室で寝るそうです。

現在はAEDが普及し、救命に役立っています。AEDのふたをあけたらすぐ電源を入れます。倒れた人の胸を開け、汗をかいていたら拭き、ネックレスをしていたら横にずらし、パットは電極が向かい合うように貼ります。見ていて、いい加減だったように思いました。

一人でも多くの人が訓練に参加することによって、しいては自分の命も助かることになります。

燦商閑話-第32回- 「亀戸の下町の風」 21期 髙野 昇       2019年7月投稿

▼生まれも育ちも下町亀戸。戦前から同じ場所で育ち、戦前は2軒長屋、2階建て住まいの借家、その長屋から学童疎開にも行き、物価統制と配給制度のあおりで父の商売も頓挫。実家は大正末期からこの地で食料品店を始め、そして戦災の災禍にも屈せず復興させ、後を継ぐ兄(18期生)も食堂に商売替えをしながらも80歳近くで力尽きリタイア―。10数年前までは、商店が100軒以上在った歴史ある商店街で、商いをする親爺さんやおかみさんの顔をみるのが当たり前だったのに、今実家の近辺にあるのはそのころからの肉屋さんのみ。八百屋、パン屋、酒屋、魚やなど全てが姿を消し、戦前に在ったおでん屋、花屋、時計屋、めし屋・・・それらは大空襲で消滅、肖像画屋なんて言うのもあったっけ。兄が手放した実家の跡には4階だかの小さなビルとなり、どうみても流行りそうもないスナック。建築4.5年目でテナントの入れ替えも激しく既に3軒め。家主は居ても貸店舗のオーナーとなり小さな商売人の跡継ぎも居ず止むお得ない判断。シャッター通りにならないのがせめてもの救いかもしれない。

▼三商生の頃、詰襟に厚刺の前掛けをしめ大晦日の店の手伝い。どこの店も除夜の鐘が鳴り終わっても商いをし、ほかの店より早く店を閉めるのは恥ずかしいみたいな雰囲気があった。自分ちの商いを優先し、自分ちの正月の支度は大晦日の商いの後にやるのが当たり前、寒い夜半には母親が”タイ焼き”を奮発したり、風の吹き回しか、チャルメラの音に誘われて父から「中華そばでも食ってこい」と渡された35円の屋台のラーメンの味。きっと思ったより店の売り上げが良かったんだろうの勝手な判断をする。元日は香取神社と亀戸天神への初参り、2日は浅草六区街への映画見物、7日は皇居前に行き出初式見物、いつも決まったパターンの正月だった。

▼小学校(大戦中は国民学校と称した)は第一亀戸国民学校、同級のクラス仲間にあの”佐野の味噌や”の長男がいた。学童疎開に行く少し前だったか、彼の家に遊びに行った時、彼のお父さんから大豆の入った混ぜご飯のお結びをご馳走になったことがあった。当時はすでに物価統制と全てが配給制度に縛られており、白米の大豆入りのこんな旨いおむすびが食べられるなんて、さすが味噌やだけのことはあると思ったものだ。戦後の同窓会の集まりでその話をしたらあまり憶えていない様子だったが、小生の三商18期生の兄(故人)とは小学校の同窓会の役員として親しくしてもらっていたようだ。”佐野の味噌や”と共に亀戸名物といえば”船橋屋”。何とも言えぬ暖簾と佇まい、店先の藤棚、葛餅の黒蜜と黄な粉の何とも言えぬ具合のよさ、この5月天神様参りの際には店頭には長蛇の待ち客、その繫盛ぶりは葛餅の味とともに庶民は忘れていない。駅ビルなどでも販売されてはいても、本店店頭で買う気分はまたべつものの感あり。そうだ、”亀戸餃子”。今や語らなくてはならぬ存在。小生の実家のすぐ近くで同じ町会の同じ班、愛想のよかった亡くなった親爺さん、黙って座れば餃子2皿がデンときて、飲み物はビールだけ、70年もの味と、仕来たりも変えない店構え、戦後の亀戸の歴史ともいえる。ちなみにここの娘さんは私の珠算塾の生徒でした。学童疎開先だった山形県上山市には疎開でお世話になった感謝の記念として疎開30年を機に亀戸天神様の「藤」を植樹、今も立派な石誌とともに眺めの良い公園の一角で初夏を彩っている。

▼長い年月がとうり過ぎてもついつい横丁に曲がってみたくなる生まれた街、川があり山があるそんなふるさととは程遠く、戦前、戦後を挟んで生きた街、どぶ板をまたぎ、転んだりし、三輪車ごとドブにはまりこんだりした街、それが私の故郷である。

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)  23期 市川忠義        2019年6月投稿

 大学時代には日本のバレーの主体は9人制バレーボールだった。東京五輪に大学時代に新種目として登場したバレーボール、国技の柔道とともに登場する事に決まったのは1961年(昭和36年)である。

 学生時代の戦績は、リーグ戦7連覇、連勝記録を塗り替えた。全国大会としての記録は1年の時のインカレ決勝戦で関西学院に敗れた、その他関東綜合選手権大会や天皇杯に参加したが主だった記録は定かではない。1年生の時はほとんど球拾いの日々に追われていたが、2年生で補欠として全国大会に参加する事が出来た。3年生でレギュラー(中衛センターに抜擢され)として認められた。ここからが全盛期の戦いが始まる。

 リーグ戦はもちろん連覇街道まっしぐら…このような時代の中心で良い働きが出来た事は健康であったからだと思っている。インカレは残念な事に決勝戦ではまたまた宿敵関西学院に敗れてしまった。敗因については後で詳しく伝える。

 全国に繋がる大会での関東綜合、天皇杯の成績はベスト4以上の成績はおさめ、4年生では天皇杯準決勝戦で相手は当時の日本第1位の力のある住友金属、守護神の西田さんやアジア大会エースの松永さんなどの力あるメンバーと戦い惜敗した事が何時までも心に残っている。明治のエースとして活躍していた大砲役の当間君、速攻の名手だった川崎君の二人が今で言う熱中症により力は半減しての戦いが実に残念でならない。

 その結果が秋のリーグ戦につながり8連覇の夢が途切れた。これが原因で成績は7勝

3敗同率での2位となってしまった。以上が学生時代の戦績。この結果が認められて昭和の明治時代が築かれた事は事実!

次回へ続く・・・

燦商閑話-第31回- 「23期市川忠義君のこと」 21期 髙野 昇       2019年6月投稿

▼去る平成31年3月10日前後に、朝日新聞朝刊のスポーツ欄に”五輪をめぐる”というシリーズ記事が連載されていました。そのシリーズ記事はかっての「東洋の魔女」、あの女子バレーボールチームと大松監督との色々なエピソードや監督と選手との回転レシーブにまつわる選手との葛藤、軋轢、選手同士の行き違い、そして結束などが書かれ厚味のある10回シリーズで興味深く読んでいました。先輩後輩諸兄妹にも読んだ記憶の方もあると思われます。その中の記事に女子選手と親交があった「市川忠義氏云々・・・」と記された一文、たった4文字の市川忠義と記された名に思わずハットしました。もしかしたら三商バレー部にいたあの市川忠義君なのかなと直感、早速同窓会が平成8年に発行した同窓会名簿を紐解くとやっぱり2期下の市川君と同姓同名であることを確信しました。早速彼に手紙をしたためました。在学中に彼と接触したことなど一度も無く、ただバレー部の対外試合が土、日であればせっせと試合先に応援に行っていただけのこと。でも彼から即返事がきて確認できました。

▼在校2年生の時のクラス替えで担任が体育担当の吉岡鶴義先生となり三商12期生の先輩でもありました。新クラスにはやたらバレー部員が多く、そういえば吉岡先生はバレー部の顧問でコーチ、そうか、部の練習や活動には都合が良くなるとのクラス替えだったんだなと身勝手な判断をしていました。当時抜群に強くなっていたバレー部への清田教頭先生と宇梶先生の強い思いやりだと生徒間の一部でそんな噂もしていたものです。そんな穿った思いの中で、バレー部は出町豊先輩(20期)を中心とした堅固たるチーム作りで勝ち進み、山形県での第7回国民体育大会の東京代表となりました。クラスから岡田、都丸、松丸、森川、鹿野の各君が山形へ選手として参加、その時まだ市川君は入学しておらず、両国中学校の3年生だったと思います。

▼翌年はクラスメイトの岡田房義君がリーダーとして部長となり前年度程の活躍は無かったものの市川君が入学、彼は小さい身体ながら動きが良くセッターとしていずれ本校の中心的選手として期待できそうだとの思いで練習活動を見ていました。彼が三商3年の時は都内の大型強豪校の立教を破りインターハイにも出ており、卒業後は先輩出町氏を追うように明大~日本鋼管とバレーボールひと筋に邁進、明大での数度の優勝、鋼管入社後も活躍、東京五輪(1964年)では6人制バレーが種目競技に採択されていて、欧米では6人制、国内は9人制と混沌とした中で彼はプレ五輪メンバーに選ばれ、五輪への強化選手としてメンバー入り。出町氏を含め、もしかして三商生から2人の五輪選手が出る可能性に期待していましたが残念な結果となりました。しかしその後、鋼管の主力として、JAPANの中心選手としてアジア大会で金メタルを取っています。

▼市川君にはそんな数ある経緯やエピソード等があり、それを是非このホームページに記載したらとの私の提案を快く受けてくれ過日事務局へ同行訪問しました。そして先月、市川君の寄稿がホームページに載っていました。今後このホームページに彼の寄稿が度々記載されるはず、諸兄同窓生に是非読んで頂きたくお願いいたします。

写真…事務局訪問時(中央が市川君)

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)  23期 市川忠義        2019年5月投稿

<前文>
 人からよく言われます。元気ですね!バレーボールを続けられているのはなぜ?と…答えは簡単、バレーボールが好きだからですよ!

 14歳で出会ったバレーボール、既に60年もの歳月を経過している。明治大学で培ったバレーボール、この技術は勿論“バレーの心”を出来る限り多くの人達に伝えたいと思っている。この大きな財産を独り占めには出来ないとの気持ちから少しでも後輩たちに伝える意味から…そのためのボランティアと言うか宣教師のような気持ちでいまだにバレーから離れられない。数多く先輩たちから色々と教えていただいたことの一部でも、伝へる事が自分としての仕事ではなかろうか?と考えている。

 6人制バレーが本格的に日本に導入されたのは、1964年の東京五輪に正式種目として参入してから、それ以前にもごく一部で6人制も行われてはいたが…五輪参入後に全日本チームが結成された1961年、初めての海外遠征が行われた。男子チームは選抜、女子は当時強かったニチボウ貝塚単独チームだった。そして迎えた東京五輪、皆さんの記憶に残っていることでしょう。女子は金メダルに、一方男子は銅メダルでした。それからメキシコ大会では男子、女子共に銀メダル、更にミュンヘン大会で男子は金、女子が銀を取ることが出来た。その仲間たちも年を重ね同期の連中や、後輩たちも病魔に犯され、今では自分は上から二番目の年になったが皆の分まで働けたらと、年を忘れてボールを追っている。(因みに一番年上の方は、東京五輪男子チーム主将を務めた出町先輩・明治大学→日本銅管)

 モットモット後輩たちには上手くなってほしい。自分としては夢の途中だが、早く“このパスで1点を取る”ことの出来る選手の出現を願っている。


<我がバレーボール半生を省みて!>
 (出会い・現役時代・引退そして現代に至る…1951年から2018年)
我が人生を振り返っての物語の始まり…思い出をもとに記してみた。

バレーボールとの初対面は、中学2年(1951年=昭和26年)の校内球技大会だった。(当時は柔道部に所属)…ガキ大将の多かったクラスだった。そして高校に入り本格的なバレーと取り組んだ!高校は都内でも名門だった都立第三商業高校。先輩(出町さん)たちはインターハイ、国体に参加して卒業、1年の時は大した成績を修める事が出来なかったが、2年生でレギュラーとなり全ての大会では決勝戦まで進む事が出来たが全国大会までの力はなく過ごした。

 3年生の時には当時大型のチームとして全区大会の経験がある立教大学附属高校に勝利してインターハイに出場、2回戦で地元神戸高校に敗れた、この時の決勝戦は兵庫県同士の戦いで琴ヶ丘高校が優勝。このチームに所属していた深川君、奥君たちとの出会いが今日までバレーボールと向かい合って過ごしてこられた大きな原因・財産となっているものと思っている。

 卒業後明治大学に入学したのは1956年(昭和56年)の事。

次回へ続く・・・

燦笑繁話29  (令和が来た―)   騒々しい日本人     21期 細田武   2019年5月投稿

今回の年号改定に乗りやすい人が多い日本の姿をまともに見ました。平成の時代の上皇・上皇后の多方面に亘る功績は大きい事は否定しない🙇  譲位か退位はどちらでも好い。新しい天皇にも大いに国民と接してほしいのは望むところです。

安倍総理の薄っぺらな祝辞はこれから先が思いやられるし、もう既に現実になりつつある😭

平成の30年間、日本の企業で世界に通用する業界はありますか⁉

電気関係とくにスマホ・パソコン・カメラみんな中国韓国に持っていかれた。せめて自動車程度が残るがITや自動運転でも中国ドイツに負けそうだ。少子化の影響で外人の労働力をあてにしなければならない。不法な人種の入国は外国の例を見ても分かりすぎ、カジノで外貨を😱破産者の出現は必定です。街の小さななになに屋さん・本屋・米屋・魚屋;・八百屋・酒屋・洗濯屋・呉服屋・洋品屋等みんな無くなっちゃたね。只、風俗だけは不滅です😁

大きな災害が数多くあったこの(平成)でも、賢明な大部分の日本人は浮かれる事無く難関を乗り越えて来たと思います🙋併し、この平成31年の4月30日と令和元年の5月1日はマスコミも政府も何か変でした。気持ちや生活がおおきく変わるのが実感できない皆のハシャギ方に少なからず疑問を感じた変わり者。こんな歳寄りが一人いても良いかな。

燦商閑話-第30回- 「プロ野球雑言」 21期 髙野 昇           2019年5月投稿

▼83歳になった今でもプロ野球ファンである。初めて後楽園球場で野球を観たのは巨人VS阪神戦で小学生5年生の頃だったか。阪神の黒に縦縞のストライプの入ったユニフォームと背番号10の藤村を思い出す。藤村はなんとかファンを楽しませようとするこころ配りがあった。試合前のトスバッティングの時のおどけた風景が懐かしい。まだ1リーグ制で球場も後楽園と西宮だけ、一日2試合が行われるので4チームを見ることができた。国内の大きな施設などは米軍に接収されていたがアメリカ伝来の野球の普及にはマッカーサーも積極的でこの2つの球場の接収はしなかったようだ。巨人、阪神、中部日本、東急セネタース、太陽(大映)パシフィック、金星スターズ、阪急、グレートリングなど懐かしいチーム名、選手は戦前の人ばかりだったがそのプレーはさすが玄人と子供ながら感銘し陶酔していた。

▼懐かしい選手、藤村を始め川上、千葉、鶴岡(山本)、真田、常見、スタルヒン、大下、フライを臍の前で取る山田傳・通称ヘソ傳、監督には藤本定義、三原修、坪内道則など、戦前の活躍など全然知らなかったけれど、この時からしっかりと頭に刻み込んだ。水原茂がシベリアの抑留から復員し舞鶴から後楽園に直行、満員の後楽園球場で「水原茂、ただいま帰りました」と挨拶したあの昭和24年夏、たまたま私は球場にいっていた。その日は偶然か巨人とパシフィックの試合、太陽(大映)の監督は藤本定義(巨人創設期の初代監督?)投手はあのスタルヒン、巨人の監督は三原修、メンバーには千葉や川上、いずれも水原と同じかつての戦前の「東京巨人軍」のメンバーだった。

▼プロ野球の圧倒的な人気と集客力は各チームの黒字化を起こし、参画したい企業も多く、それを仕切っていたのが読売の正力松太郎か、ライバルの毎日新聞が名乗りを挙げてきたのに猛反対、これが2リーグ分裂への元となったとは当時のカストリ紙の”内外タイムス”で知った。昭和24年夏にあった”下山事件”で毎日は自殺説、読売と朝日が他殺説、両社の紙上での真っ向対立は世間を分断し、2リーグ分裂の素因も其処に有ったとの風評を聞いた憶えがある。毎日はその腹いせか、阪神のレギュラーの大半を引っこ抜く、若林、別当、土井垣、本堂、呉など、そして昭和25年の分裂後初の日本シリーズで小西得郎率いる松竹ロビンスを4勝2敗で看破し初の覇者となっている。それでも巨人、阪神の人気チームを持つセ・リーグに対しパ・リーグの人気は盛り上がらず、オールスターゲームに勝つことがせめてもの憂さ晴らしだった。パの高橋ユニオンズなどは観客数300人の時があったと、かつてユニオンズのレギュラーだった佐々木信也が「プロ野球ニュース」で語っていた。

▼小5年から70年、パフォーマンス豊で個性丸出しにした選手が活躍していた昭和30年代時から、今は”管理野球とデータ優先”の、どちらかといえば合理的、理論野球が当たり前となり、個性や性格を全面に表す選手はベンチウォーマーとなっているのが現実。良いか、悪いかは別として、あの広いグランドでたった18人の勝負事、もっと個性溢れる選手がいてもおかしくない。白黒のTV時代の阪神VS巨人戦で阪神の藤村が逆転のホーマーを打ち、もろ手を挙げてホームを踏む、その瞬間撃たれた巨人の捕手”藤尾”に手を出し握手、藤尾も思わず手を出してしまったあの場面、藤村の瞬間的パフォーマンスには今でも拍手喝采もので、あんな場面は後にも先にもない。翌日の新聞では藤尾がケチョンケチョンに書かれていて、気の毒と思ったのは私だけだったか。私事ながら子供の頃からのドラゴンズファンで昭和29年のシリーズ優勝時、天知監督と杉下投手との師弟愛、西沢選手の華麗な守備と打撃フォームは忘れられない。

 添付写真説明・・・藤村と物干し竿と言われた長いバット

燦笑繁話28  平成最後 の🌸神田川の桜🌸     21期 細田武     2019年4月投稿

台東区には各小学校を地域とした、コミュニティ委員会が全区内に置かれ、地域の町会や、学校・PTA・一般区民のスポーツや、文化活動の為にボランティアにより運営されて、老若男女を含め幅広く活動しています。

今回は小生が発足から参画して28年過ぎた( 大正小地区コミュニティ委員会 ) の 

[ 都電に乗って 🌸桜を観る会 ] の記事です。

その前に一寸自慢させて頂きます。当コミュニティには多くのサークルが加盟しています。文化活動では、華道・コーラス・書道・ヨガ・舞踊等10サークル😃スポーツはテニス・バド・卓球・ミニサッカービーチバレー等10サークル等、コミ祭りには小学3年生を招待、200名のクイズ、ゲーム大会を開催し、手造りの昼食で歓迎します。

尚、当地区の誇りに世界大会オリンピックで使用されたあの流麗な(  卓球台SAN-EI  ) をブラジルに20台プレゼントしてきた。太っ腹ですね、これが我が町の三英さん、各方面で大活躍です☺

今回の観桜会🌺 何回目かな❗「文学歴史散歩」と称し小生が都度企画し、各回とも元学校長さんや町会長さん等、含め30名ほどの参加を得ています。

地元の一葉女史の竜泉寺・本郷菊坂、芭蕉の深川・千住、谷根千の街巡り、築地・佃の隅田川下り、遠くは足利、川越、松戸・戸定亭から柴又、等々力渓谷・玉川大師。下水堀の北斎館、向島百花園等枚挙に暇⁉ はありますね。さて、平成最後の🌸🍶✨お花見🌸。3月31日( 日曜  )会員30名が下町の最後の路線、都電三ノ輪橋プラットフォームに参集👩👨。半分が都発行のシルバーパス( 70歳以上は都バス・都電・都営地下等無料)  を利用。あとはPASMO、スイカ、現金170円で面影橋まで50分🙇。始発につき全員座席へと思ったのは町屋駅まで。物凄い乗客に立たざるを得なくなる人も。思えばこの先、飛鳥山、巣鴨のお地蔵さんや 、学習院下等の桜を見に行く人で満席の車内🙇。面影橋で下車。既に橋の上から神田川の川面に垂れて流麗に咲く満開の桜に多くの人で溢れていました。

途中、過去40年ほど前までこの川を仕事場としていた 富田染物屋さんの資料館(  東京染ものがたり  )で小休息。

マンションの名前が( edo-komon )のオーナーさん。高い小紋のマフラー等只見るだけ。歩いて数分、新江戸川公園が綺麗に整備され(肥後細川公園)に改称され、池泉回遊式の庭園の、陽当たりのよい和室で一服の茶に甘露カンロ。殿塚橋から100段に及ぶ階段を見上げ、同行の旧三商のクラスメイト高野君ともう昇る(  彼の名前・高野  昇 ) 気もない83歳😅直ぐ上に[  永青文庫  ] が在るのに😱。椿山荘も混んでいる予想🌺上野までバス移動。高野君とは軽い昼飯。春日部へ🙆。会友たちと自由解散。寒さもなく心地好い観桜会だったと自負しました。

燦商閑話-第29回- 「消してはいけない下町の風景」・両国駅・ 21期 髙野 昇 2019年4月投稿

▼今、JR駅のホームなどは同じ佇まいと風景で、以前はホームの様子だけで「今〇〇駅だ」と判ったものだった。駅周辺の景色も数十年前とは眺めも変わり、久し振りに乗る路線ではうっかり乗り過ごしたりでボンヤリしていられない。亀戸生まれなので総武線の利用頻度が多かったせいもあるが今少しばかりかつての面影をしのばせる駅舎は両国駅の本屋(その駅の中心部を本屋という)だと思う。千葉県方面への東の玄関口で総武本線のターミナル駅だった。北の玄関口上野駅、西の玄関口新宿、南方面への玄関東京と昭和の香りを漂わせる各々が貫禄と風格があるものだった。東京駅は見事に復元したものの、上野駅は本屋自体はあるものの歩行者は上階を、車は地上をと完全に分離されて(近年この構造は乗降客の多い駅などにみられる)利便性優先となってしまった。

▼両国駅はかっては総武本線の銚子、房総半島の内房、外房各線の始発駅だった。両親の生まれ育ちが銚子に近い飯岡(現旭市)で、戦前は夏休みには必ず兄弟、従兄弟達と4・5日の九十九里浜際の祖母と伯父の居る家で過ごした。切符は亀戸―飯岡間しか買ってもらえない兄達(私はまだ未就学)は両国までは電車賃は別、したがって親の買った切符には逆らえずいつも省線(古い名称ですね))で真っすぐ千葉まで行ったものだ。千住に居た従兄達は間違いなく両国から汽車に乗って行く、入学前の私にはなんとも羨ましいものだった。

▼両国駅の正面の姿はあの当時とは殆ど変わっておらず現存。上野駅玄関の小型化風で、隅田川東の下町を走り抜けて行く短い本線の始発駅とは言え今も慄然とその風格と存在感を表している。幼き日、この駅の玄関口から改札を通り列車に乗り込みたい気分を味わいたいといつも思っていた。戦前は丸屋根の国技館があり、相撲部屋のほとんどがこの周辺に居り、駅のすぐ下にあった高砂部屋や立浪部屋が電車の窓から良く見えていた。元力士の経営する「双見ホテル」が戦後も存在していた。今の駅舎は当時とほとんど変化なく、駅前も立体化されず駅舎も大地にしっかりと根ざしていて、これがいい。新国技館の再建(場所は変わったが)で駅前広場は整備され、高層のホテルがありで、都電が全盛の頃、両国橋方面からの都電が千葉街道を左に曲がり駅本屋の真ん前が終点だった頃を懐かしく想い出す。12番系統(両国~新宿)だった筈。


▼現在の本屋のコンコースは大変身していて、なんとド真ん中に土俵があり初めて来た人はビックリもの。それを取り囲んで小粋な江戸風な飲食店が軒を連ねる。壁には優勝力士の大掲額が2枚、手形などを見ることができる。江戸小物作りの職人の手仕事の実演をやっていることもあり粋な駅だ。駅南側には「ちゃんこ料理屋」が多く、両国駅周辺は,相撲・すもう・スモウと昔と変わりなく、特に本場所中の賑わいは嬉しい。江戸東京博物館・青銅の国技館、このあたりはかってやっちゃば(青果市場)があった所、昔日の風景と重ね合わせながら駅を眺めるのは高齢者にとっては一服の清涼剤となる景色である。いつまでもこのままでいて欲しい。

愛犬の死   26期 岩瀬和子(旧姓:坂口)               2019年4月投稿

 以前にも書きましたが、娘が犬2匹、猫13匹を連れて帰ってきました。犬2匹プーとグーフィー、やんちゃな猫4匹ハート、マグビー、セシル、ラブを私の所で預ることになりました。

 平成28年4月、グーフィーがすごく苦しそうな息をしているので、夜間診療の病院へ連れて行きました。見るなりすぐ診察室へ連れて行かれ、もう1時間遅かったらダメだったかもしれないと云われ、診察料金が4万円位かかると云われました。2万円ちょっとしか持ち合わせがないと話すとカードで結構ですと云われました。

 1時間酸素の箱に入れますと云われ、いろいろ検査の資料を明日かかりつけの病院へ持って行くよう渡されました。診療費は34,560円でした。太りすぎて気管を圧迫しているので、手術で広げるのですが、麻酔がかけられるかどうかわからないと云われました。

 メタボリックス処方食を勧められ、病院で取り寄せてもらうので、その都度体重測定をし、いろいろ変えてみましたが、ほとんど変わりませんでした。フードを与える時は、はかりで計り、30分前に水に浸して与えていました。前にグーフィーの歩き方がおかしい時があったので、フローリングのせいかと思い敷物を敷いたり、最近は行動範囲の所にカーペットを敷いてやっていました。

 暮れの28日、グーフィー13歳、シーズーとチワワのミックス犬が急に歩けなくなりました。かかりつけの病院はあまり評判がよくないので友達に病院を紹介してもらいました。検査の結果頚椎に問題があると云われ、大きな整形外科で手術して歩けるようになった犬もいますが、50万円かかるそうです。でも心臓と腎臓の数値が悪いので、麻酔に耐えられるかどうかわからないと又云われ、薬をもらって帰って来ました。娘に話すと手術はしない、1月3日診察に行った時に先生に横になったまま荒い息をしているのではかわいそうなので楽にしてあげたいと話してみてと頼まれました。先生にお話をしたところ13歳だし、

1月6日に楽にしてあげましょうと云われました。おいしい物を食べさせようと、肉をゆで、手のひらにのせ口まで持っていって食べさせました。

 鳴くと夜中でも起き、かかえて水を飲ませたり、寝返りさせさすったり、オムツがダメなので、ペットシートの上に寝かせ、おしっこやうんちをみてやりました。3日夜、たびたび鳴くのでそれからずっと夜はそばで寝てやりました。

 夜間診療の病院へ連れて行ったり入院させたり、高いダイエットフードを与えたり、40万円以上かけて育てていたのに、こんな別れ方をするとは思っていませんでした。

 そのまま回向院へ連れて行きました。犬が4匹、猫が3匹すでに葬られています。皆大往生でした。

 一昨年秋に死んだプーと今頃仲良く遊んでいるでしょうか。友達に話すと良かったんじゃないと云ってくれますが、事情を知らない友達はどうしたのと云われるくらい、私、へこんでいます。

燦笑繁話27  (奇想の系譜)を観る        21期 細田武     2019年3月投稿

東京が冷蔵庫みたいな寒さのなか、上野公園の都美館で開催されている [  奇想の系譜,・日本美術を観る  ] を、それも高齢者無料開放の2月20日( 水 ) 出掛けて見ました。お年寄り  自分も含め頗る元気🙋 タダともなればなおのこと👍  偶々気温18度の予報を聞き、夕方の閉館間近が穴場とは、過去の大形展の通例。予想通り10分待ちで楽勝。15時過ぎの入館。期待の作品は過去にも拝しましたが第1室から (  若沖  ) 👏と来るとこれまた人が多くてあとが心配 🆘 。小生、高校時代の長身・178㎝はあったが現在3㎝縮みながら他の観覧者より二人後でジックリの鑑賞、長身は身を助く、かな。

簫白・芦雪・又兵衞・山雪・若沖・白隠・国芳・其一のそうそうたる大御所が揃い踏み🌺   ナニ  北斎が居ない🙇  

同時に六本木ヒルズの森美術館でこれ又第イベント開催中です。👏

林 惟雄氏(美術史家)著作の[  奇想の系譜 ] の8人の侍の江戸ミラクルワールドの謳い文句にたぐわぬ作品展でした。若沖は兎も角、「曽我蕭白」の( 郡仙図屏風 )の龍の皮膚感や、波頭の細やかさ強烈でした。

「 長沢芦雪 」は同じ猿でも (郡猿図襖), 白襖を立てて書き墨の垂れが   あると隣の識者が教えてくれました。

「岩佐又兵衛」の( 山中常盤物語絵巻) 源氏の世のきらびやかさと、     舟木本の(洛中図屏風)等との対比が面白い。

「狩野山雪 」は( 梅花遊禽図襖  )に加納派の本髄を京の寺社( 妙心寺・天球院藏)贈った多くの作品の一つらしい。

「鈴木其一」は青山根津美術館でも鑑賞出来た( 夏秋渓流図屏風)檜の間の百合、江戸琳派の画面から迸る水の流れ。

「歌川国芳」( 相馬の古内裏 )ご存知の骸骨。もう一つ、(みかけハこハゐがとんだ・・) アルチンボルトの影響か⁉

「 白隠慧鶴」禅画の( 達磨図 ) 一筆書きの様な横向きの達磨。永青文庫で見たような気がするが豪快その物でした。

「 伊藤若沖 」(象と鯨図屏風  ) 六曲一双< 五尺Ⅹ二間 > 右に象、左に鯨の配置。好奇心や奇想の塊のような若沖ならではの作品でした。

数多い作品でしたが、なんか頭が重くなるような充実した都美館の展覧会でした。

燦商閑話 -第28回- ”消えた昭和の遺跡” 新大橋    21期 髙野 昇 2019年3月投稿

▼隅田川の数ある橋の中でかつての”新大橋”がその存在感や姿になぜか親しみを感じている。在学中、親が営んでいた食料品店の手伝いで自転車で築地市場まで行き、父が積みきれない荷を亀戸まで持ち帰る手伝いを時折して渡った橋である。生涯一番多く隅田川を跨いだ橋である。卒業後もオートバイ(ライラック)で渡った。明治通りを大島を右折し新大橋通りを真っすぐ行けば必ず渡る橋。沢山の橋が架かる隅田川の橋、その中を江戸の東西の人の流れを促がした五橋、歴史的な両国橋から新大橋・永代・吾妻の順で建設されていった。新大橋は江戸時代に相撲が両国に腰を据え、両国広小路として栄えたのも橋のお陰。深川八幡の祭りであまりの人出に落下した永代橋など歴史とエピソードに事欠かない数々の橋。新大橋は江戸時代に消失、流失で二十数回架け替えられた凄い履歴を持っている。

▼家康が戦事上の方針で隅田に橋を架けなかった時代も過ぎ、当時大橋といわれていた両国橋に続く橋として元禄6年(1694年)に綱吉の生母桂昌院の進言で作られたとの説を聞いている。時の俳聖”芭蕉”は完成した橋を渡り「ありがたや いただいてふむ 橋の霜}と詠んだと芭蕉庵に記されている。私の知っている新大橋は明治45年に鉄骨橋梁として米国カーネギー社製(米国の鉄鋼王でN・Yのカーネギーホールで有名)の鉄鋼を用い、いかにも”これぞ鉄の橋!”と言わんばかりの頑建さ、その風貌はピントラスト式(写真)で組まれ、千住新橋と相似する。関東大震災にもビクともせず、東京大空襲にも焼け落ちず他の隅田の橋と共に下町の幾多の罹災者の人命を救っていた。関東大震災後、この橋を「おたすけ橋」とも云っていた事もあったと近所の小母さんからきいた微かな思い出がある。都電(36系統・錦糸堀―築地)も敷設されていて魚河岸に買出しにでる自転車、オート三輪が入り乱れ市場通リ(なぜか橋をわたって中央区に入ると市場通リと言ってしまう)の混雑はすごかった

▼都電が廃線になる噂が出始めた頃、日比谷の映画街に映画を観に行くのにわざわざ錦糸堀から36番系統(写真)に乗り終点築地で降り月島通リを旧東劇、三原橋、歌舞伎座や尾張町を越して日劇を右に見て歩き映画街へ、それは新大橋を都電が渡る時のゴーゴーという音が何かほかの橋と違うと感じていたからで橋自体の構造のせいで何とも言えぬ胸騒ぎがした音だった。勝鬨橋の連結部でのゴットンの音も楽しみだったが。亀戸から日比谷は25番系統で行けば日比谷映画劇場の手前50Ⅿが終点なのに。余談だが三原橋の下に「ニュース映画」専門の映画館があったっけ。

▼そんな頑丈堅固の橋も戦後の交通量の増大で橋台の沈下が著しくなり、昭和40年後半には大型車の通行が禁止されていた筈(都電は可)で昭和52年に現在のモダン?な橋に架け替えられた。旧橋は貴重なデザインや歴史が貴ばれ、犬山市にある「明治村」に保存されている。30年前に明治村を訪れた際に見学、全体の八分の一くらいの20M程ものだったが都電のレールまで轢いてあり橋塔もあり感動した。アールヌーボー風、親柱の立派さは正に風格ある存在で明治生まれの橋とはいえ、昭和生まれの私には忘れられない”昭和の遺産”である。

燦笑繁話26  🏈 年末の花園🏈 結果         21期 細田武   2019年2月投稿

前号の結果🙇 我が子息の母校・本郷高校,は1回戦で尾道高校に惜敗、早稲田実業は沖縄名護高校に大勝、併し、2回戦、流経大付属柏にノートライ無得点で完敗 。正月の観戦希望も空しく来期の活躍を🏈

ところで、🏈 大学選手権は明治が早稲田を破り、天理が帝京の10連覇を阻む試合👏しかも認定トライも含む好試合。

1月半ばの天理対明治の決勝戦も楽しみです。その結果明治が22年ぶり13回目の優勝🏈(  後日付記 )

この原稿、🐗箱根駅伝🐗をTVで観戦しながら叩いてます👍。

🐗 往路、青学が失速 6位と低迷、東洋がダントツで箱根を独走🐗

🎍復路、東海大が8区の遊行寺で東洋を逆転首位。青学は4分差で3位、戸塚の中継所でも追い付けず😁9区も鶴見まで楽走🐗 ここで山梨、上武、神奈川大等4校が繰り上げスタートの悲運😱

青学は東洋を引き離したものの東海大学に届かず、一敗地にまみれた10区アンカー 郡司が銀座・日本橋を快走ゴールテープを切った。

東海大学は初参加以来47年目の初優勝❤レース前勝つのは150%と言われた青学はスピードの東海大学の前に屈した。

また、もう一つのサバイバル🐱10位なら来年連続出場の権利を獲得出きるが11位、予選会からの😣苦しい戦いが待っている😭

その中に過去優勝経験のある早稲田・中央大学等多くの名門校があり新進校の躍進に箱根駅伝の地図が大きく塗り替えられた新年の素晴らしい絵巻でした😃。

追記。1月26日、全豪☀🎾テニスは全米オープンに続き大阪なおみ選手が連続優勝☀🎾の快挙。世界ランキング第1位の世界女王へ🙆 

燦商閑話 -第27回- 消えた”昭和”の遺産② 蔵前国技館  21期 髙野 昇 2019年2月投稿

▼中学の頃大相撲の本場所を仮設会場の浜町公園へ体育の時間の一環として見に行った事は以前この欄で書いたと思う。丸太組み、筵(むしろ)掛けの小屋掛け風の酷いものだった。あの丸屋根の両国国技館は戦後GHQに接収されていた為、戦時中協会が持っていた土地(蔵前)に寄せ集めの鉄骨作りの仮設国技館をS25年頃に設けたと思う。三商在学中に12日目に必ず観戦に行っていたのはこの仮設時代(写真)だった。

▼越中島から23番に乗って石原で降り、蔵前橋を渡ればすぐ右手が国技館、場内の一般通路のすぐ脇に支度部屋があってちょいと覗くことが出来た。当時の横綱は東富士・千代乃山・鏡里だったか、私はだれが優勝するかにはあまり興味が無く、いわゆる取的で鮮やかな技を持つ力士を好んだ。いつも同行していた同期のT君も同じで彼は国登のファン、私は鶴ヶ嶺(元寺尾の父)と信夫山を好んだ。二人共双差しの巧者でたまたま観戦した日にこの両者が対戦、僅かに信夫の差しが早く勝負がついた。この取り組みは今でも解説できるくらいに良く覚えている。信夫山は「りゃんこの信夫」と言われ、りゃんことは武士の刀の両差しのこと。現力士は猛烈に突っ張てからの双差しで、信夫山は立ち合い直ぐに二本差ししていた印象あり。

▼横道にそれたがそんな力士が沢山いた蔵前であったがS29年の秋、本格的な建物となり「仮設」の名がとれた。すでに4本柱もなくなっていて2階の大衆席からの眺めも良く正面入口には力士の粋な幟旗も多くなり相撲の隆盛をますます感じたものだった。なにせ出入り口のすぐ前が蔵前橋通りで、車の往来が激しい時間帯で打ち上げ後の道路は想像を超える大混雑で大勢の警察官が整理にあたっていた。まだ高層な建物も無く、帰路蔵前橋から振り返って眺める国技館の夕方の風景は隅田の流れと合わせ何とも言えぬ風情であった。その蔵前橋の欄干には今、土俵入りのモニュメントが飾られ(写真)かつての蔵前国技館の存在を記憶させてくれている。映画007シリーズ「007は二度死ぬ」は日本が舞台、ボンドが蔵前で相撲観戦するシーンがあって佐田の山もちょこっと出ていた記憶がある

▼60年、協会の夢だった”国技館を両国に”が実現。戦前からの丸屋根の国技館はメモリアルホール→日大講堂、そして解体されていった。当時の理事長春日野(元横綱栃錦)の辣腕で両国駅前の国鉄の土地と蔵前の土地と等価交換し現金払い5~60億円で現在の国技館が実現した。蔵前場所最後の優勝者は平幕”多賀竜”、新国技館初の勝者は北の富士,北の湖はこの場所で引退し明暗分けた杮おとしの場所だった。記録を紐解いでみると終戦を挟んでの覇者は羽黒山だけで37歳の高齢(於蔵前)での賜杯であった。観戦の帰路、橋を渡り川沿いに両国駅へ、同愛病院、震災記念堂、丸屋根青銅の両国公会堂(取り壊され今は刀剣博物館)、旧安田庭園、総武線らしからぬ厳たる両国駅舎(現存)、あの景色は今でも残して欲しかった昭和の風景遺産である。

燦笑繁話25 🏈  楕円形の[  ボール  ]        21期 細田武   2019年1月投稿

年末から、新春正月、東大阪と言うより花園の競技場で開かれる、🏈 春高ラグビーを数十年前から楽しんでます。🏈今年の東京都代表は、第一地区が早稲田実業・第二地区が本郷高校何かの繋がりで両高共々、我が二人の息子の卒業校なんです。本郷高校は長男、早実は次男の出身校です☺。長男はラグビーでなく陸上競技で3年生で部長を努め、都大会で総合優勝を遂げました。3年の時大浦先生率いるラグビー部が花園へ🙆 、準決勝で秋田工業と大接戦、フルタイム決着つかずノーサイド決勝進出の抽選になりました。両チームスタンド下のロッカールームへ。

[  🏈 出場権あり」の籤を当てたのは秋田工業でした。
スタンドの上からロッカーはどちらか分かりません😱

ワーツ👏と言う歓声と😭寂とした静な嗚咽が聞こえました。前日から大阪に泊り、素晴らしい試合を堪能させてくれた部員と長男たちにお礼を言って卒業させました。

また次男は、部活は体育系ではありませんけど、中学から高校まであらゆる物に興味を持ち、特に鉄道や一人旅等結構自由に学んでいました。スポーツの観戦も何でも好きで卒業後スポーツ用品のアートスポーツで営業担当主任を勤めて現在上野店長になっています。

色々自慢ばかりのようですが、小生戦前に集団疎開で福島へ1年間行き、その後埼玉の川越在に縁故疎開。

その折大井🏫✏🎒⚽小学校へ編入された折り、服部先生の下宿に早稲田大学卒業後、実業団に入り、三地区(  関東・関西・九州 )  対抗戦のオール九州のホワードで活躍の( 堀選手 )が変な形のボールを持ってきました。そのころ田舎野球ではボロキレを丸めてボールにし、バットは薪木でやってました。その堀選手が田舎の校庭で空高く蹴りあげたのが🏈ラグビーボール🏈だと知ったのはかなり後年のことでした。色々な想い出がありますがこの冬も時間を見計らい、本郷・早実のどちらかを花園まで👊😄📢応援に行きたいと思っています。 

燦商閑話 -第26回- 消えた”昭和”の遺産・・・通学時に時々乗った都電38番  21期 髙野 昇 2019年1月投稿

▼今は荒川線のみとなった”都電”についての記憶です。三商通学時は住まいの亀戸から25番(西荒川~日比谷)29番(境橋~須田町)ときおり来る38番(錦糸堀~日本橋)系統で一つ先の錦糸堀下車。この区間は途中停留所がなく国電の駅区間をそのまま走る都電の停留所区間としては珍しく長く、当時のマニアの間では話題になっていた。

▼錦糸堀車庫から出てくる28番(錦糸堀~都庁前)の始発に乗り換えて富岡町まで。28番は途中に高校が多く、千田町に化学工業高(現大江戸高)東陽町に深川高、富岡町の三商、その先の永代橋には私立中央商業があり通勤客を交えてかなりの混雑だった。そこで少し早く家を出た日は亀戸から逆方向の38番の日本橋行き乗っていた。定期券範囲外なので10円の運賃が必要だった。これだと錦糸堀で乗り換える事も無く真っすぐ富岡町へ。

▼38番は千葉街道(国道14号)を少し走り精工舎前の水神森を右折し専用道を走るものの専用道とはいえ人・自転車・軽三輪などは通用可、左右は民家。大島(オオジマ)に入る堅川を跨ぐ専用橋を通過(写真)する都電の姿はなんとも言えぬ風景だった。美しくも無い,きれいでもないこの景色は当時の庶民の生活そのままで今でも記憶に生きている。大島から一般道の明治通りに出て小名木川の進開橋を渡れば砂町で「砂町銀座」と知名度のある商店街は当時からあり、ごく普通の商人が軒を連ねる買い物通りだった。

「飢餓海峡」

▼昭和39年の東映映画「飢餓海峡」で内田吐夢監督の作品です。錦之助、橋蔵、ひばりで映画を作れば間違いなくヒットし、他に片岡千恵蔵、市川右太衛門など豪華な俳優を抱えていた順風満帆の東映でしたが、時折社会性のある話題作も作っていました。原作は水上勉、映画は三国連太郎、左幸子、伴惇三郎など、若き日の高倉健も出ていました。

▼昭和26年9月に日本海、東北、北海道をマリー台風(15号)が襲いました。当時は台風の名を外人女性名で表現(国際的)し、そのあとは大きな被害をもたらした台風には固有な名を付けています。「洞爺丸台風」です。ご存知のように転覆で1100名ほどの人命が船もろとも犠牲となりました。あの「タイタニック」事故に次ぐ大海難事件、事故でした。同じ日に北海道西海岸にある「岩内町」で火災が発生、台風の風と共に町のほとんどが消失、砂浜に避難していた漁船まで燃えてしまう大火災でした。だがこのニュースは洞爺丸遭難の圧倒的な新聞記事、ラジオの報道などでニュースとして小さく扱われ、私が知ったのも数日後の事でした。原作、映画は時代背景を昭和22年に設定し

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