投稿バックナンバー2018

燦笑繁話24 芝居話   [  義経  ] を考える       21期 細田武   2018年12月投稿

今回、久し振りに日経新聞日曜版に[ 義経 ]の特集が出ました。     可なり前に早稲田大学演劇博物館で見た歌川豊国の「 義経千本桜 」(1895年・大判錦絵3枚続き) である。今回の本紙の説明によるとこの絵は義経がタイトル通り活躍の場面に見えない😁目立たない  とのこと。全体を通してみればその存在感は大きいが、この一部を見ると狐忠信が強い印象に残る、とあります。後白河天皇が義経に与え、静御前に預けた( 初音の鼓 )を作る為に殺された狐の子で忠信に化けて出てくる図です。桜の華美な舞台のなかで少し控えめな義経の姿にドラマの中心と感じられるのは義経の格の高さに納得させられます。

 

もうひとつ、1面の豊原国周の[ 勧進帳 ] (1899年・大判錦絵3枚続き・早大演劇博物館蔵)  。弁慶は九代目団十郎・義経は四代目中村福助・富樫は五代目菊五郎、すごい顔触れです。弁慶のギョロ目で睨まれた関守の富樫も睨み返す場面🙆併し左の義経は少女のように併し凛として美しく書かれています。本誌によると義経関連の舞台や映像は数多くあるが、何れも義経の古典的美意識の表現が日本人に好まれる素になっているようだ👏 と書いています。このように今のようなメ デアの無い時代に錦絵として遺してくれた先達に感謝します。

三商在学時より自転車で佃の渡しの渡船( 無料 )で明石町へ渡り、歌舞伎座の長谷川大道具の木戸から奈落を抜け、三階で伎界の真髄を鑑賞させてもらい、大向の真似事を教えて貰った頃が思いだされます。因みに山川静男さんがNHKに入る前、国学院大の学生で、静岡の浅間社の宮司さんの子息と知ったのはずーーっと後のことでした。

燦商閑話 -第25回- 消えた”昭和”の遺産 「お化け煙突」 21期 髙野 昇 2018年12月投稿

▼かつて、足立区千住桜木町の隅田川左岸沿いに存在した東京電力火力発電所のバカでかい4本煙突、それが”お化け煙突”。高層建築の無かった昭和39年まで地元足立区、隣接の荒川区、葛飾区から当たり前の風景として眺められた。”お化け”の由来は4本の煙突の配置が潰した菱形状になっていた為に場所によって1本、2・3・4・本と姿を変えて見えたことからだと思う。

 

▼少年時代親戚が小菅町に居た頃、東武鉄道の小菅駅の高いホームから見える”お化け”は威圧感的存在で、ホームの反対側にはデンと構えた小菅刑務所(現拘置所)があり、乗降客も少なく一人でホームにいるのが、特に夕方は怖さを肌に感じたものだ。西新井橋からの景観は素晴らしく、とくに夕焼けを背に白煙を穿いている時が美しかった。1本姿の”おばけ”を見たのは千住宮本町あたりの日光街道からだったか。

▼当時の隅田川沿いや流れ込む支流には幾多の中小工場があり、これは満潮時の東京湾の逆流を利用して大量の石炭や物資をダルマ船で運ぶのに適し、発電所がこの地に建設されたのは納得。後年南千住に貨物専用の「隅田川駅」ができ、北海道からの石炭輸送と併せ、水陸を利用しての発電所が立地条件の良さと共に最大に機能したのだろう。1926年(T15)~1964年(S39)まで稼働し東京五輪の最中に姿を消した。撤去に反対する男が煙突によじ登り3日間籠城したニュースもあった。

▼東京大空襲ではB29の標的にはされず、戦勝を確信した米軍が戦後の利用価値を計算していたのだろうか。作家の五月女勝元氏の著書「お化け煙突のうた」のなかには終戦で疎開先から帰京した目に、かつて見たことのない風景が表れた。それは我が家の焼け跡から富士山が見えことに”呆然”、そんな中、あのお化け煙突だけが黒い逞しい容姿で温かく以前の姿そのままに迎えてくれた風景が少年の心を少し癒してくれたと記している。また松本治のマンガ「こち亀・・・派出所」で主人公両津勘吉の少年時代の想い出話として、憧れていた女教師とのエピソード、転校する先生を見送ったその後”おばけ”の完全取り壊しを知り、煙突の消失は年上の女性に対する自らの切なく淡い想いの消失でもあったとのストーリーはなかなかのものと思った。五所平之助の映画「煙突の見える場所」ではあの頃の”お化け”がここぞここぞと登場する。

▼このバカでかい煙突は高さ83米、外径(底部)は5、4米で、現在跡地付近にある帝京科学大学キャンパスに切り取ったモニュメントとして見る事ができる。煙突跡地には東京電力上野支社があり、かつての面影は五十数年前に消滅し、今は同年代の人々の心の昭和の遺産として残るのみである。

19期 北村重雄さんより御礼の御葉書をいただきました。          2018年11月投稿

HP投稿記事(H30.11)はがき 19期北村重雄

紅葉がり                  26期 岩瀬和子      2018年11月投稿

 10月14日、高校の同級生3人で行ってきました。塩原から日光へ行く日塩街道を通りましたが、ところどころ色づいた木があり、二分程度の色づきでした。道路は絶好機には渋滞するのにすいすいでした。

 2、3日前テレビで、きれいに色づいた竜頭の滝の画面を見たので期待して行きました。絶好機は渋滞し、駐車できず今迄見る事が出来ませんでしたが、今回は見る事が出来きて、とてもきれいでした。やっと紅葉が見られました。

 

 金谷ホテルの湖畔のレストランで食事、私は出掛けた時はカレーライスを食べる事にしています。味にあたり、はずれがないことと、家では作らないし、出掛けた時しか食べるチャンスがないので、食べています。カレーは認知症予防に良いそうなので。

 戦場ヶ原の横を通り、湯滝へ向かいましたが、入口を通り過ぎてしまい、滝を上から見下ろしました。何となく硫黄のような臭いがしました。湯元温泉郷が近いので、温泉水が混じっているので湯の湖、湯滝なのかもしれません。湯の湖は湖面まで色づいた木々がのび、湖面に映りとてもきれいでした。

 帰りは友達が川越なので沼田から帰ることにしました。途中吹き割の滝へ寄りました。以前尾瀬へ行く橋を渡ると「夏の思い出」のメロディーが聴こえる橋がありました。それらしい橋があったので渡ってみましたが、聴こえません。間違ったかと思い、滝の前の売店の人に聞いたところ、2年前に壊れたとの事。残念でした。

吹き割の滝へは長い階段を降ります。帰りが思いやられました。東洋のナイアガラと云われるだけあって、流れが速く、今回は水量も多く流れのそばへ行くと引き込まれそうで迫力がありました。

帰りの高速も渋滞がありませんでした。紅葉が今一でしたが、道路がすいていたし、高速を走っている時、雨が降っていても降りる頃より良いお天気になったので、今回の紅葉がりはまあよしとしましょう。

燦笑繁話23 部首「广(まだれ)」と「厂(がんだれ)」    21期 細田武   2018年11月投稿

24号台風が来ると言うのにテレビモニターを一寸したタッチで受像出来なくしてしまった。なんてーことだ。直そうとしたがなかなか😁家内はオカンムリです。2階で視るは  😅   暗中模索の結果1時間の苦闘で回復☺ 

台風情報感度良し。弘法も筆の   😅程でもないが🙇🆘  

さてと 桓武天皇が祀られている平安神宮の正門に復元されている  [ 應天門]があります。

その掲額の( 應 )の字はチャンと点が付き「广」になっています。

真言宗を開祖し、嵯峨天皇や橘逸勢と共に(三筆)と言われたあの空海こと弘法大師は楷書・行書・篆書や隷書までよくし唐の時代から能書家として名を知らしめていたようです。

京都東寺に保存されている空海に充てた三通の手紙 。あの[ 風信帳 ]等数点が国宝に指定されている。

その空海に [ 弘法も筆のあやまり ] という諺が作られています。

「 今昔物語 」のなかにある話に繋がります。【 最初に( 皇城の南門の額を書くべし) と。外門を書き、應天門の額、打ち付けて後に見るに[ 應 ]の字の点既に落ち失せり、驚きて筆を投げて点を付ける。 大方の人これを視て手を打ちて是を感ず】とあります。空海は嵯峨天皇から宮殿の南側の應天門に掲げる額に書くことの命を受け緊張しながらも( 應天門 )と三文字を書いたが、( 應 ) の字の上にある点をうっかりと忘れてしまった。(广)であるべきところを(厂) になっていたが本人は門上に掲額されて初めてその誤りに気付くが、凡人なら慌てるところだが師は額を下ろさせず下から筆を投げ 、点を加えて誤字を訂正したという。

「 弘法も筆のあやまり」というこの諺。どんな名人でもたまには過ちを犯すこと、失敗もする、という意味で私の中で救われる気持ちになったのは自分一人だけかな?  24号台風が来るという予想のなかで書きました。翌日は台風一過のまっ青の空🌅  34度の真夏日☀どうなってンの日本の天気🌀  高野君の家は少し被害があったみたいでメールでフェンスの壊れている絵が入ってました。ザッパンな記事ですが老軟化・指体操の為と思し召し下さい。ご返信ありがとう。

燦商閑話 -第24回- 「初めて見た大リーガー」   21期 髙野 昇   2018年11月投稿

1955年(S30年)大リーグのNYヤンキースが毎日新聞の招きで来日、この年のWシリーズでナ・リーグのドジャースに敗れたとはいえベストメンバーを揃え、監督、名称ステンゲルの下、ヨギ・ベラ、ビリー・マーチン、ミッキー・マントル、ホワイティ・フォード、他に強肩の二人E・ハワードとH・バウワー、あのピンストライプとNYのロゴのユニフォームはニュース映画でしか観たことがなかったが確と此の目に焼き付けのはその10月28日(金)だった。

前売チケットを求め後楽園へ、年代物の双眼鏡を首に夢中で二階の席から見守った。毎日オリオンズとの試合だったと思うが定かではない。投手のW・フォードはこの年の大リーグで18勝しこの翌年には19勝、 朝鮮戦争中は兵役にあり復帰した人でノーワインドアップモーションは野球界でこの人が最初、王貞治(早実)が春の選抜で優勝した時、フォードを見て習得したモーションで優勝した。振り被らずいきなりセットポジションの投球動作、今の投手は殆どがこれで、フォードと王選手はこの道の先駆者である。

捕手のベラとハワードの強肩は座ったまま二塁へ投球する技に驚嘆。H・バウアーがタッチアップの走者を塀際の捕球からスーパービームで本塁で刺したのには驚いた。後のチームの監督も経験した二塁のB・マーチン(別名喧嘩のマーチン)の華麗なゴロ捌きにはスワローズに在籍していた箱田も負けていないなと思った。M・マントルはJ・デマジオの再来と言われ打球の速さは日本選手にはないパワーは圧巻。翌年はMLBの3冠王に。15勝0敗1分けの結果だったが勝ち負けはどうでもよく大リーガーのパワーとエネルギーの凄さだけが印象に残っている。

その後も大リーグのチームやオールスターが親善試合で来日、何試合か観戦したがあの時のヤンキースから受けた印象ほどではなかった。ちなみに1949年、3Aのサンフランシスコ・シールズなるチームがマッカーサーの要請で来日、都内の中学生を招待し江戸川区から数名の生徒が招待されたが、なぜか私が学校の代表3名の中に選ばれ後楽園球場で観戦した。日本チームを子馬鹿にしたような試合内容の記憶がある。が子供たちにコカ・コーラが配られ初めてみるアメリカの飲み物に驚きながら家に持ち帰って家族で一口ずつ飲み分けたが皆の感想は「甘いが…煎じ薬の味」を感じたのが初コークの感想。あのユニークな空き瓶を長い事保存していたが、ある日販売店が10円で引き取るのを知り交換した。

燦笑繁話22   [ 小さな本棚から🐤 ]        21期 細田武    2018年10月投稿

たまたま、表題   [  井上安治描く  明治の上野・浅草  わが町の記録  ]  

平成4年、台東区教育委員会・台東区立台東図書館編集・発行の風景版画が発刊されました。少しばかり背表紙の汚れた1冊を紐解きました。外の雨の音と共に20枚の絵に視入りました。

 

作家・安治の履歴を読むと(1854~1889年)の27年の短い画家としての人生のようでした。父は川越の織物屋。安治は今も有名な蕎麦屋がある雷門通りの浅草並木町の生まれです。幼少の頃より体が余り強くないようでしたが絵画に対しての執念的な物はかなりだと記されていました。偶然、向島の地で小林清親の絵に触れ、今で云う物凄いカルチャーショックを受けていたようです。

明治初期「光線画 ]と称する新しい版画の技法で次々と作品を産み出した。これは台東区を中心として上野・浅草・谷中等地域に馴染んだ物を収録してありましたが、画材となった風景、建築は言うに及ばずあらゆるジャンルに及んでいる。不忍池・(雪の池之端)は師の小林清親の(不忍池) と師弟の関係を築いた傑作であるらしい。共に版画中央の石碑は今も龍門橋の碑が現存しています。

観音様・清水寺・上野ステーション・真土山夕景・浅草奥山・私の地元入谷の( 浅草田圃・太郎稲荷)は明治42年一時廃社されますが、後に左近原と呼ばれ寂しさが表現された絵の一枚です。

後に新聞で小平市の東京ガスミュージアムで安治の版画展があるのを知り、花小金井からバスで見学👏  途中、錦城学園のグランドがあり、あの神田にあったのがここまできたか😉 世間からの乖離も痛感しながら芝生に囲まれた赤煉瓦造りのクラシカルな会場へ🏠  原画が数十枚展示され圧巻🙆 東京中の景色に圧倒されました。短い画家としての活躍や詳しいことはかなりの昔、台東区郷土資料室の小森先生からレクチャーされた資料です。

燦商閑話 -第23回- 「流行り言葉はまだあるある」   21期 髙野 昇   2018年10月投稿

▼「八頭身」 年配各位ならご存知、1953年(S28)三商在学3年の時に第2回ミスユニバースコンテスト世界大会の日本代表として3位となった伊東絹子、その八頭身の姿は日本人女性の「美」が認められ今までの日本女性には殆ど見られなかった姿がそこにあった。たちまち流行語となりブームを呼びミスコンが全国に広がり町内のミスコンまであった。主催の米国映画会社ユニバールは優勝者をハリウッド女優にするなど。ちなみに児島明子は2年後のこの大会で優勝している。冷蔵庫消臭剤の「キムコ」は絹子から連想して命名したという噂をいまだに耳にする。数年後、「トランジスタグラマー」なんて言葉もあった。

▼「とんでもハップン」 1950年代の人気MCの「トニー谷」がラジオやジャズコンでさんざん言っていた言葉でNever Happenの英語を日本語的に化かす彼が得意としたいわゆるトニーグリッシの最初か。これを茶化して「飛んでもハップン歩いて10分」なんて言っていた。

▼「老兵は死なず・・」 戦後の日本を統治していたマッカーサーが解任され帰国後議会で述べた「old soldiers never die…」正に名言である。ある方の退職送別会で当人がこれを挨拶で言い、少しキザに聞こえ不評、この言葉はマッカーサーに限る、お笑いコンビの矢部太郎の書いたエッセー漫画「大家さんのおばあさん」に登場するおばあさんが大のマッカーサーファンで、なんか小生と通じるものがあり司令官の敗戦国の子供に対する恩情に私は今だに感謝している。

▼「パートタイム」 大丸デパートが東京進出するのを機に労働時間を決めて雇用したのが始まりと思う。聞いたことのない言葉でその時代のなんとなくモダンな呼称は素晴らしい。そう云えば在校中(S28)に就職組全員を講堂に集め大丸が社員募集の大デイレーションをPR用のカラー映画を伴ってやってきた。東京の既存の百貨店に関西系が挑戦、今も八重洲口にデンと構え阪急・そごうの東京撤退がある中先駆者として存続。チラシや新聞広告等に「パート募集」の言葉として通用している。

▼「太陽族・慎太郎刈」 石原慎太郎の「太陽の季節」に登場する若者を云い映画化され主役の長門裕之より脇役の裕次郎の名を天下に響かせ、既存の秩序や道徳などを犯す無軌道な若者の行動が世を騒がせた。その頭髪が今のスポーツ刈りに近い所謂「慎太刈」。やたら若者に流行った。小生もあれ以来今だにスポーツ刈り。障子戸を〇〇で破くシーンに期待?したが小説の方がリアルに思えた。

▼その他もろもろありますね。三種の神器・・マイカー・・団地族・・まだまだ色々あり、次の機会にまた

曼珠沙華(彼岸花)  26期 岩瀬和子                  2018年10月投稿

日高市の巾着田曼珠沙華公園へ行ってきました。高速道路は特に混んでいなかったんですが、一般道が混んでいました。信号の所に巾着田へは直進何kmと標示した立看板が出ていますが、ナビは新ルートを教えてくれます。立看板に従って行きました。

駐車場が一杯あり、運よく出入口近くに駐車出来ました。日本の野草図鑑によりますと、和名は彼岸の頃花が咲くので彼岸花とつけられたそうです。人里に近い所に群生する多年草、昔中国から渡来したものが広がったといわれているそうです。田んぼの土手の草刈り跡に群生し、いっせいにのびだし花をつけるそうです。

今「曼珠沙華まつり」期間中なのか人が大勢でした。外国人の姿が多く見られました。

華の周りの道を歩いて見るんですが、一杯咲いていてきれいでしたが、外側のは枯れかけ、全般的にはさかりを過ぎているような感じでした。見方が悪かったのか、以前行った時は白い華だけの所が一ヶ所ありましたが、今回見損なってしまいました。一面に咲いていて見事、きれいでした。

燦笑繁話21  チコちゃんに叱られる        21期 細田武    2018年9月投稿

NHKの特異な番組(  金曜 19時57分、日曜再放送😆💕✨あり)タレント岡村がメチャクチャに苛められ、ゲストがケチョンにされるチコちゃんはCGで作成されたキャラで声は木村兄みたいです。

毎回疑問に答えられないと[ ボケッと生きてんじゃねーよ  ]の絶叫そのたびにチコちゃんの目の表情の変化に見ていて驚いている。目だけでなく髪の毛の変わり様もオーバーみたいに変貌する。

 

ある日[  人間はどうして右利きが多いか⁉ ]の問に岡村や大竹が答えに困り顔 。前句のボケーーットが発せられ、何々先生の豪快・痛烈・明快な解説があり、何となくまたそうだったのか😃と納得させられるという構成で、持ち込んだ企画の完勝にゲストもウンザリ・ガックリ🌂⤵が楽しく観られる。

例えば(  電車に乗ると眠くなるのは⁉  ) の問にいろいろ答えたが、正解は車内の音が  [ 赤子の時の母の胎内の音に 似ている]  が正解⭕また日本は何で右側通行なのか⁉  に答えは[ 切り合い  ] になるから☀刀の刃の向きで抜き差しに不都合があり、歩き形からも右側がよいので、外国の左側通行に対し右側通行になったらしい。

色々と難問奇問があり視聴率も抜群。NHKらしくない番組に拍手、中村雅俊の(盆帰り) さだまさしの (  精霊流し  )を深夜ラジオで聞く旧盆の候、甲子園の高校野球の熱戦に感動し、前号で投稿の梅干しを食して、酷暑の嵐にも負けず元気な82翁です。

燦商閑話 -第22回- 「続・大相撲改革へ一言」     21期 髙野 昇   2018年9月投稿

▼4・5月のHPで大相撲への個人的な注文や改革を述べた。7月場所を見て「立ち合い」の不公平、矛盾さ、行司の「待て」のタイミング、このあたりは早期改善を望みたい。前回にも記したが、仕切りの際の「手つき」に統一性が無く、きちんと両手の拳を土俵に着けるのを基本とすべき。御嶽海・高安・嘉風などは両手をきちんとつけオーソドックスな綺麗な時間いっぱいの姿。

 

片やある力士は立ち合い寸前に土俵に下ろす、自分が手を下ろさなければ相手は立たない、どっちが有利か不利かは別として勝負のスタートにしては不公平と感じる。以前、北の富士や北の湖、柏鵬時代の、ほぼ立ち腰のまま立ち上がる時代が有ったが、酷いものだった。当時の映像を見ると、あんないい加減な時代もあったのかと首を傾げたくなる。

▼昭和30年代の鳴門海の仕切りの「美しさ、雅さ」とまでは言わぬが、せめて両者が両手を完全に土俵に着けその様子をみて数拍後に行司が声を掛け立ち上がらせる。時間前の仕切りではきちんと両手をついているのに、なぜ時間いっぱいの時は片手付きが許され立ち合い寸前の砂を払うような手付きが許されるのか、このあたりを協会は見直しし、改善するのがスポーツの域である「相撲」としての本分と思う。つまり「時間前」の仕切りそのままの姿勢を持続させること。およそのスポーツにおいては「同時スタート」が決まりであり「国技相撲」といえども見世物の興行ではなく純然たるスポーツであり、それ故の人気でもある。スポーツの判定に誤審はつきものでも、スタートは絶対に公平であって欲しい。

▼協会は公益法人で、行政の目がもっと厳しく監視することは過去の数々の不祥事もあって当然と思われる。組織や内部者のみによる全ての業務運営に今以上の改善を求めたい。かつての「お茶屋」とほとんど変わらぬマス席の販売は経営者が全て元幕内力士の身内の経営、○○一門なる派閥?、弟子・付き人に対する過酷な無理強いはパワハラに等しい。力士会なる集まりは個人においては税法上の「事業主」であり相撲の繁栄・衰退においては協会とは運命共同体、建設的な意見を聞く大きな耳を協会が持ち、神事とか伝統、国技などは全面に出さず、平成も終わるこの時期、目の前にある新たな時代の「大相撲」に邁進して行く姿が見たい。

燦笑繁話20  エシャーと巴水            21期 細田武    2018年8月投稿

6月の投稿で記したように( 上野の森美術館 ) は電チャリで10分

「 ミラクル  エシャー 」展へと、JR の電車を横目に両大師坂を一漕ぎです。学士院會舘、たまに天皇陛下が学士院賞授与の時ブルーテントが消える不思議・科学博物館・鯨の展示を横目にし文化会館の隣、子規記念球場の奥にある会場に着く。

 

2006年に澁谷文化会館でのエシャー展🍀  で買い求めたTASCHEN社の図録を見ながらの前仕込みを🙆  騙し絵だけでない作家とはわかっていても楽しみです。エルサレムのイスラエル博物館よりエシャー生誕120年を記念する初公開物も含め150点の特異な版画展です。

エシャーの特徴は聖書によるアールヌーボー的なものから[ 科学 ]・[ 錯覚 ]・[ 風景 ]・[ 広告 ] ・[ 人物 ]・[反射 ]等広範囲にわたり、後期は造形に至るまで多岐に活躍したようです。エシャーはこれまで(自分は神秘的なものを描こうとしたことはない。発見したものを忠実に伝えるだけです)。と聞いています。騙し絵と謂われても不条理と謂われても無限の物に挑戦しているみたいです。

技法は銅版画( メゾチント )らしく、木版やリトグラフもあり多岐に亘って創作されているようでした。初期の作品は精密な直線の建物絵、平面の分割、( 鳥や魚を犬)、空間の円と螺旋の造形、[ 反射 ]は自画像も出てくる。( 逆転 )( 多面体 )( 相対性 ) ( 不可能な建物 ) に至るまで騙され、ため息をつきっぱなしで疲労困憊の鑑賞でした。

琳派や若沖の時代、近代画家(  巴水 )と比べる術は持ちません。

素直に久し振りに楽しめた美術館でした。

燦商閑話 -第21回- 「小さな戦争体験」       21期 髙野 昇   2018年8月投稿

▼中2になる孫が少年硬式野球のチームのボーイズリーグに入って居り硬式の為、軟式野球のグランドでは危険度もあり、普段は新木場のチーム専用グランドで週6日の練習があり、下校後にせっせと通っている。この7月に遠征試合があり、久し振りに孫のユニホーム姿や成長ぶりを見たさにはるばると銚子市(野尻町)の遠征先(銚子スポーツタウン)まで出掛けてみることにした。そのスポーツタウンはなんと偶然にも私が学童疎開の後に縁故疎開した伯母の家のすぐ傍であった。

 

▼当時、町の丘の上に“銚子無線所”があり昼間は米軍の艦載機(P51・グラマン)が機銃掃射をし、逃げる為に道脇の田んぼに2度ほど飛び込んだ体験もある。夜間は東京空襲に来たB公が捨て爆弾とし、その都度防空壕に入り、ある時は牛車を押して山中に避難するなど山形での学童疎開のほうが安全だったかと思いながらも東京の家族に近い場所に居る安堵感が勝っていたようだ。その旧無線所と向き合ってできたのが「銚子市スポーツタウン」、1981年の夏、常勝「銚子商業高校」を破り甲子園に出場した「銚子西高校」があった場所で現在は統合廃校され、跡地がスポーツタウンとなり、立派なグランドはそのままでピッチングマシンまで用意されていた。

▼自宅から東武野田線に乗り柏でJR成田線に乗り換え、日曜のせいで通勤、通学時の混み合いもなく、鈍行を好む老・鉄チャンにはたまらない。阪東太郎の心地好い川風を感じながら伊能忠敬の佐原、天保水滸伝の平手造酒の笹川を過ぎ銚子の二つ手前の「椎柴」に到着。あの頃、敗戦で復員してくるかも知れぬ伯母の家の従兄を毎晩駅まで迎えに行っていた懐かしい駅、今は無人駅となってしまった。この地で終戦を迎えたその晩、養豚業を営む伯母は「最後の晩餐」になるかもと、ロースの厚い“とんかつ”をふるまった。大人達は無言、私達子供は「こんな旨いものがあるんだ」と言わんばかりに夢中で食べた。

▼芋畑の草取り、機銃掃射、夜間空襲、学校での代用教員による、鉄棒の逆上がりができないだけの理由でいじめと制裁、学業としてなんら学ぶ事のない半年だったが忍耐と辛抱だけが身についた小学4年時代だった。

そして今、孫達が好きな野球に集中でき、流れる汗と心地良い疲労を明日への糧にできる平成の子等の姿に、かつての辛苦と、あってはならないあの時代の小さな戦争体験を語り継いでいくことがどんなに大事なことかと心に思う貴重な一日の旅だった。

燦笑繁話19  [ 梅 ・天神さま ]           21期 細田武    2018年7月投稿

毎朝、必ずお茶とともに1ヶの梅干しを食べるのが習わしです。それも出来れば自家製の物を、ここ十数年間食してます。

長いことこの時期青い梅と、小粒だが少しピンクの梅を見ると財布が弛みます。青々とした南高梅・紀州は南部の高校生が農家と共同研究の結果出来た最高の梅と聞く。 家業が酒販店の為( 梅酒  )の類いは色々と作り擴売に努めた。昨今大いに売り出している梅酒メーカーがブランデーをブレンドした梅酒を売っているが梅酒はヤッパリホワイトリカー35度に軍配を上げたいものだ。

 

そして数年前の古酒とこの夏過ぎに出来た新酒のブレンドがより美味しい梅酒となること必定です。時期が少し過ぎると黄色く熟れた色の大振りの漬け梅が出回る。今年は6㎏を買い求め、一晩灰汁抜きをし、蔕を取り容器を焼酎で消毒し、18%の粗塩でまぶし12㎏の重石を乗せ漬け込んだ。

塩分18は医者の減塩の効果の指導によるが本来20%位が保存の為には理想的なのだが⁉ 10日経ち白梅酢が多量に出てきましたそろそろ紫蘇の葉の出番です。今は綺麗にカットされて手間要らず、白梅酢を取りだし紫蘇を塩揉みし灰汁を取り 、白梅酢による揉みだしで、鮮やかな色の表現に苦労する赤紫蘇の誕生です。

あとは容器を密閉し土用まで初夏の休みです。前出の小梅は卵の殻を洗い、干したら砕きクッキングPPでくるみ少しの重石でカリカリ梅の出来上がりです。

昨年の漬け梅は足りないくらいですが今年はどうですか⁉季節の移り変わりに風を感じ、果実や、花や、政( まつりごと)に気を付けて我が身を何処に置くか⁉  アンテナを張ることが大事な年頃だと思ってます。あとは紫蘇と梅の色合いを期待し土用干しの3日間、夜露に当て陽射しに耐えた自家製梅の完成🌸取り敢えず(  梅干しの) 蘊蓄でした。

追伸   添付の梅干しの絵は昨年の物です。

燦商閑話 -第20回- あの「夏の日の思い出」      21期 髙野 昇   2018年7月投稿

▼といってもあの尾瀬を謳ったあの歌(詩・江間章子。曲・中田喜直)ではなく、東日本大震災の日に同じ津波の被害にあった私の父の生家がある、千葉県旭市飯岡で過ごした時の思い出である。兄弟がそれぞれの子持ちになり夏休みには必ず二泊三日の海水浴を全員で楽しんだ九十九里浜北端の飯岡海岸だ。近くには刑部岬という、東洋のドーバーとも言われている断崖絶壁があり、今は元旦の「初日の出」が日本本土で一番早く見る事ができる景勝地としてつとに有名で「風力発電」の翼がゆっくりと回っており、観覧船で海上から岬を観るツアーもあるらしい。

 

▼皆で行ったあの頃の岬上はキャベツ畑と西瓜畑だったのに近年はすっかり「初日の出」で名を馳せている。定宿にしていた国民宿舎”飯岡荘”も建物は難を逃れたものの、海岸線から100mの場所のため内部はほとんど流失。今は国民宿舎名を返上し、装いも新たに民間業者に委託し営業再開している。父の実家がすぐ傍にあり、甥子、姪子,我が子や私達兄弟にとって今も夏になると必ず話題となり、水平線が丸く見える忘れられない夏の海だった。宿泊した国民宿舎”飯岡荘”の舌鮃の煮つけと、白瓜の漬けものが美味しかった。海が荒れて「遊泳禁止」となっても淡水プールがあって二泊三日をたっぷりと堪能できた”思い出の夏”であった。

▼そこがあの3・11で大きな被害をうけた。この地は昭和35年のチリ津波の経験もあったがこの度の津波は最高の高さ9.6メートルで15名近くの犠牲者も出てしまった。あの震災では広い範囲で被災し、原発事故も加わり、この飯岡地区の被災も単独のものならもっと注目された被害地でありながら「東北」ばかりが注目され、支援が偏る傾向が強く、タレントなどの支援もボランティアもそちらばかり。父の生家も平屋一階部分に浸水し天井まであと50㎝まで海水が入り、家族は逃げ場を探すなか溺死寸前まで追い込まれたと後日手紙で語っていた。建物は崩壊を免れたが住むには耐えられず他所に転居。この地以外にも茨城の磯原などもあまり報道されず、地元の人々の復興、自立の尽力が報われず虚しさだけがいつも心の中にあるはず。

▼しかし地元飯岡のチリ、3,11経験者を中心に「語り継ごう 津波の恐怖」の運動が必然的に立ち上がり、地元出身の若者の協力者も得て今後の活動に期待と末長い存続と継承に期待したい。災害による小さな町村の疲弊が多い中、中央行政も中心地ばかり見ている気配は如何なものか。朝日新聞朝刊の”てんでんこ”という欄にこの飯岡地区が連続の掲載記事として載り、少しは認識してもらえれたかなと思いつつも、あの夏の甥・姪・我が子らと過ごしたあの夏の日の思い出は私の胸から永遠に消えることは無いだろう。

母校の運動会    26期 岩瀬和子                  2018年6月投稿

5月18日母校の運動会へ三浦会長が行かないというので行ってきました。前日より少し日差しがやわらいでいましたが、好天の日でした。父兄の皆さんはテントがないので、日傘をさしたりして、日差しをしのいでおられました。

H30体育祭with岩瀬前会長

 

校長先生が凍ったお水のペットボトルを下さり、何も持っていなかったので助かりました。昨年の運動会の日もすごく暑く、午後から百人くらいの生徒が気分が悪くなり、救急車が2台来たそうです。今年は水分を充分用意するよう指導したそうです。午前の競技が終わり教室へ戻る時、玄関でクラス別にペットボトルがあり、先生が渡しておられました。昨年の件があるので、気を使っていて大変だなあと思いました。

体育祭のスローガン「やれば出来る 全力の戦。燃えつきろ三商・体育祭」私達の頃より運動場が広くうらやましく思いました。T・C・Sの3チームに分かれ、それぞれのTシャツを着用していてはなやかでした。

商業学校として電卓で計算する競技、正解するまでやりなおしです。女子、男子の棒引きレースは迫力があり、面白かったんですが、砂埃があがり困りました。

各学年全員リレーは走る順など、各チーム考えてのレースですごく速い人がいても、最後までそのチームが1位とは限らず、面白かったです。

久しぶりに若い人達が一生懸命やっている姿を見て感動しました。

燦笑繁話18 近代版画家  川瀬巴水        21期 細田武    2018年6月投稿

朝日新聞の長期講読者のサービスで、朝・夕刊の配達のベトナムの留学生の届けてくれたのが  近代版画の[  川瀬 巴水 ・かわせはすい ]さんの名作で,  自分も始めて聞く版画家の作品でした。

 

夕刊配達の時しか会わない彼女ですが「オジサンこれなんですか?」「日本の版画家のリトグラフだよ❗」在日1年半の彼女には無理だったかな ?   それから1年8ヶ月  今20枚のリトが特別に頒布( 930円)されたファイルに收まっています。あと4枚で終了するが楽しみだ。日本画家の鏑木清方に師事。当時我が国伝統木版画が衰退の道を歩んでいたようだ。

その中で版元の渡邉庄三郎さんが再興を図り浮世絵版画の新しい( 芸術 )として発展させたいと [ 新版画 ] を提唱し璽後、巴水は庄三郎のもとで絵師として研鑽し74歳の生涯を風景画家として、おおよそ700枚の新版画を残した様です。編集上画集の表裏の(  絵  )を添付します。

6月7日、第12回の最終回が彼女の夕刊の配達時に届きました。①の日本橋・紀州瀞③の春日大社⑤の歌舞伎座⑦の雪の金閣寺⑪の小樽の波止場⑫最後の法師温泉の  ファイルに満杯になりました。

何れも古めかい版画の様ですがとても奥深いものを感じます。

今月(上野の森美術館)で  ミラクル エシャーの奇想版画が7月の末まで開催されています。

だまし絵的なエシャーと巴水と比べてみては如何ですか⁉と皆様にお声がけしたいと思います。

燦商閑話 -第19回- 自動車とクルマ        21期 髙野 昇   2018年6月投稿

▼自動車を買う、自動車に乗るなどに使う「自動車」という単語は今は「クルマ」というカタカナ文字の言葉になってしまった。自動車なる名詞は新聞か雑誌に載る程度。三商卒業間際に「自動二輪」の免許を鮫洲で取得、私が最初に求めた自動車は大衆車の草分けの「パブリカ」で1962年の事。36万円で当時は1000ドル(当時の為替レート$/360円)の自動車としてもてはやされた。そのあとに買ったスバル360もユニークなスタイルと排気ガスの青い(ガソリンとオイルの混合の為)のが懐かしい。

 

▼あれから56年か、今はオートマが当たり前でクラッチの加減など不必要になり、現在は全自動で走る乗用車・バス・トラックの研究、開発が広がっている。そうなると究極は運転するなどの言葉は無くなり車内で本でも読んでいれば目的地に着き、人以外の移動には乗る必要が無くなる。機器には完全はなく、もしも事故った場合はメーカーの責任か、同乗者の責任か、者か車か判別はどうなるのか判別は難しい。アリゾナ州で自動運転のテスト中に女性を跳ねて死亡させた事故があった。日本はかつての高度成長期に「交通戦争」が勃発、毎年1万人以上の死者を出し「クルマは爆弾が刀を振りかざしている走る凶器」と言った作家がいた。高齢者の事故はたしかに増えた。ニュースを聞く度に辛い。

▼完全自動化の技術は走り出したが高齢者はそれに追従できるのか、良い数字が出るか疑問が多い。高齢者は機能に対し相応の対処が出来るか、初期設定操作の手順による事故が多い中、大丈夫なのか。現在、車庫入れが安心、追突防止作動、縦列駐車OK等TVCMが先行認識されているのが怖い。どんな完全自動のクルマが現れるのか興味はあっても、クラッチなしのオートマ車に乗った時のあの感動はなさそうだ。クルマのもつ利便さ、凶暴性?と新技術、どこまで睦まじく馴染ませるか、携わる技術者の責任は大きい。

燦笑繁話17 江戸三大祭⁉               21期 細田武    2018年5月投稿

🌸  4月も終わりGWもこの歳( 82才)になると其ほどのこともなく、若い頃からの下町行事の [ 祭り ]  に行き着く🙆  。

さて、江戸三大祭りと言うのは どの祭りを言うのか⁉  どこの神社・あそこの神輿等々、特に関わりのある地元の人間は俺んとこだ‼  \(^o^)/、あそこは違う😱ケンケンガクガクとなること必定だ。そこでどうか?

 

🏆   一つは「神輿・深川、山車神田、だだっ広いが山王さま」と言われるが太田道灌が江戸城を1478年に建立したおり勧請した「 日枝神社の山王さま」本年は神田祭りとの隔年開催の年。

6月半ばの鳳輦2基・神輿1基、ほか500人にわたる大行列が京橋から日本橋まで巡行する。無粋な高速橋が架かる日本橋の道路元標の上で神輿が舞い、神田の町の高張提灯が迎える図柄は最高☀

神田と共々神輿が江戸城に入城出来た祭りである由縁が理解できる。因みに鳶の( ろ組 )の暖簾がコレド日本橋の前に葭の中に見える。一方町鳶の( い組 ) は駿河町の三越本店前で老舗を張っている。

もう一つ  🙇  さてーーと   やはり[  神田祭り ]にしよう❗

隔年の催行につき今年は陰祭り、でも大手町・日本橋・秋葉原・神田等々100余町の町神輿の連合渡御は催行される🙆 入母屋造りの将門神輿の舞い踊りや恵比須・大黒の鳳輦の巡行は隔年になり来年に期待する。

因みに神田明神の賽銭箱は三越本店の寄贈だし、入り口の糀屋の甘酒は絶品です。また昨年三越の店内に100年前に群馬県藤岡の町へ贈った台座2尺8寸の神輿が昔の姿のまま里帰りし安座、流石老舗さんの偉容を見せつけられました。

💐  さて 、 三つ目は 深川といきたいが過去に色んなことがあり、神社庁から離脱と言う事態もあり、自分としては⁉の部にしたい。然し、我が母校の鎮守であるので多少敬意を表する事にする。

祭は夏の盛、清澄に連合で終結、清洲橋を渡り永代に出て佐賀町,門仲を抜け不動前・富岡へと渡御、道々ギャラリーから暑さ凌ぎの水掛が売り物の連合渡御。また、境内には勧進相撲の記念に歴代横綱の銘を刻した石碑が建立されている。👏 そこで吾が 地元の浅草神社の登場とさせて貰いたい。

神仏離合の例により金竜山浅草寺と別れて三社さまと言われる[ 浅草神社 ]  大川こと角田川( すみたかわ) から網に掛かった仏像浅草寺の1寸8分の御神体を引き揚げた土師克中、漁師の檜前浜成竹成の兄弟の三体を祭る故の呼び名で我が町で親しまれている。

今年も5月19日の朝、鳳凰を戴く( 一之宮 ) 、擬宝珠の( 二之宮・三之宮 )が各町会のワッペンを付けた者だけが金網で囲まれた境内に入れる異常な警備のなか、新門の鳶の木遣りと1本締めの手締めで出御する。朝5時から地元のケーブルTVは生中継。40数ヶ町を三基の大神輿が巡行渡御のうねるような波は、夜8時の宮入まで浅草の町は興奮の坩堝と化します。前の三社は( ナニナニノ命 ) が祭神、浅草は漁師等の庶民派👌  ポピュラーなのが受けてるのか❗

どれが三大祭りかの判断は賢明な諸氏にお任せする🙆

結局地元の身贔屓に終始したようですがお祭り騒ぎに免じて平にご容赦のほど伏して🙇 御願い申し上げます。面白祭人  こと 細田

燦商閑話 -第18回- 「相撲観戦で思うこと」その2    21期 髙野 昇   2018年5月投稿

▼仕切りについて一言。今、全てのスポーツでは審判員の合図でスタートします。電子ピストルや、陸上短距離や水泳などはあの「ピーッ」です。フライイングが無くなりました。相撲は「阿吽の呼吸」とかで立ちます。その前に両手をつかせますがこれもしっかりやる人、立ち会う寸前にちょこっとズルする力士、相手より時間的にずらしながら遅れて蹲踞(そんきょ)にはいる、これはどうみても勝負をつけるスポーツとしては不公平です。

何とか統一すべきかと思います。まさか行司が笛は吹けないので、完全に両者が両手を土俵につけその2秒か3秒後に行司の合図で立ち合う、なんて案はいかがでしょうか。

横綱が立ち合いにクレームをつけるような前代未聞の光景は許せません。立ち合いを遅らせる力士はほとんどが同じ部屋の力士であるのも不快感を誘います。どのスポーツ選手はスタートの合図を待つ数秒の間は呼吸を止めているはず、阿吽の呼吸はしています。阿吽の呼吸は相撲だけではありません。

土俵狭しと動き鮮やかな決まり手を持っていた出し投げの栃錦、あっという間の双差しの鶴ヶ峯、信夫山、うっちゃりの明歩谷、足取り名人若葉山、潜って人気の潜航艇岩風、黒い弾丸房錦、そして呼び戻しの初代若乃花・・ああきりがない。そんな力士や取り組みがまた観ることを期待して今日もTVの前で観戦しています。公益法人としての日本相撲協会についても一言・二言もありますが紙面の都合でいつかまた。

燦笑繁話22   [ 小さな本棚から🐤 ]        21期 細田武    2018年10月投稿

   また六日町観光協会からツアーガイドのパンフが来ました。

何年前かな  ~~ そう言えば10年ほど前、酒の研修で魚沼市へ行き、ある蔵元の杜氏さんがこんなことを話してくれました。

 

寺社や豪農家の見学も良いが、野外の土蔵や何気ない鳥居や小さな神社や、小寺の天井・欄間 ・ 玄関の上の向拝、敢えて  [ 彫りもん]  と聞こえた  (  彫刻  ) に 趣味はないか⁉ と言われ、 それなーに  ――――と、思い出しました。4年前です。

  あれから  時間はズレたが 例の大人の休日チケットで行きました。

JR  上越新幹線でトンネルを抜けると 越後湯沢  上野から90分

彼の小説の巻頭の  [  トンネルを抜けると  雪国だった  ]  の感傷に浸るまでもなく越後湯沢駅のコンコース  売店コーナーは帰りでok 予約のバスタ-で手続き済ませ、期待に胸ふくませてスタンバイ  🌸「ミケランジェロの名刹・と魚沼を食す」バスツアーに乗った。

[  越後のミケランジェロ  ]  て誰か   江戸末期 雑司が谷で生まれ後に越後の三条にはいり栃尾等で酒とノミ(鑿)に命を賭けた人らしい。その人の名は  [  石川雲蝶   ]     参加者20名程の丁度良いサークル、殆どが私を含めて初めての様です    まず、八海山麓の( 龍谷寺 )  小さなインドグプタ王朝の様式が取り入れられた観音堂。

中国、インドの想像上の動物の「 獏 」「 麒麟 」あるいは日本の「 唐獅子・牡丹」「 葡萄と朝顔」が本堂の欄間に透かし彫りで、裏表が異なる作品でした。

  

続いて魚沼の鎮守の( 穴地十二大明神 ) 野中に建つ小さな神社。

梁の向拝に「龍と獅子」手挟みは「竹と虎」・「松と鷹と雀」欄間に酒呑童子と頼政の鵺退治の物語が野天の一画に佇んでました。

次に、昼食です。小出インターンのすぐそば――[  道の駅・ゆのたに ] で やまめの塩焼き、青菜のふるさと漬け  魚沼の特撰米で炊いたと言うピカピカの御飯。やまめを肴にうま酒名も知らない地酒ですがまず一献。暖かい心配り嬉しいです。

次は、魚野川17号線を北上、堀之内にある松平光長の菩提寺 の(  永林寺  ) 葵の紋章を許された名刹らしい。当寺の方丈によるとなんと凄い逸話を聞かされました。雲蝶との当時の弁成和尚との接点がなんと賭け勝負。[ 雲蝶が勝てば金銭を払い、和尚が勝てば永林寺一杯に手間暇惜しまず彫りものを彫ります ] の賭け。

結果和尚が勝ち   のち13年にわたり欄間・天井・香炉台・特に5mx5mの[ 天女]は撮影禁止🙇  雲蝶この頃44才。

彫刻の他に翡翠の寝牛・蛙の石彫りや、鶏・梅に山雀等の板絵が数枚欄間絵として残っている。

燦商閑話 -第17回- 「相撲観戦で思うこと」その1    21期 髙野 昇   2018年4月投稿

▼この投稿が発信される頃はもう大相撲の五月場所が始まっているでしょうか。年6場所の中で私の一番好きな場所です。歴史ある両国橋、目の前を流れる隅田川の川風にはためく力士名に染め抜いた力士織り、浴衣姿で場所入りするお相撲さん、何とも言えぬ佇まいの風格あるJR両国駅、そんな中にでんと構える青銅屋根の国技館、これぞ両国での大相撲の雰囲気です。

 

三商通学時に級友のT君とよく通った蔵前国技館など、懐かしさと共に下町育ちの私にはなんとも言えぬ風情です。中学1年の頃か、学校から大相撲本場所を観に行ったことありました。あの頃は授業といっても教材もなく体育の道具など皆無 「ラジオ体操」以外やることもなく、そんな中で授業に代わる実習見学?だったのでしょう。開催されていたのは「浜町公園」でした。両国駅で電車を降り、両国橋を渡りながら丸屋根の旧国技館(戦後は米軍が接収)をふり返り、千代田学校の前の隅田川沿いの道を浜町公園に向かいました。

大相撲本場所と言いながら建物は丸太組みで、ほとんどが莚(むしろ)とテントで覆われていました。見物中に友人と便所にいくとき迷路のような莚の中をヒョイと捲った莚の中にお相撲さんが髷を結っているのに出くわして、お相撲さんが鋭い目で二人を睨むようにこちらを向き慌てて退散、それが支度部屋での横綱羽黒山でした。すぐそばで横綱羽黒山を一瞬見てしまったことがクラス仲間で話題になりましたが、実はあの羽黒山の眼光鋭い眼が怖かったのが本音でした。

▼近年外国人力士の導入で力士に大型化が進んでいます。昭和28年頃の力士の平均は身長176㎝、体重114,5kgで現在は身長で8cm、体重は50kg増です。大型化によって取り組み自体が単調でパワーだけの「寄り切り」や「押し出し」がやたらに多くなりました。

生活環境、食生活、稽古の質の変化などの影響はやむを得ぬとしても逸ノ城、臥牙丸、碧山、照ノ富士,天風などには大きいだけでこれという技がみられません。大型化は体重を支える膝に悪影響を施し現役生活を短くしています。かつて舞の海が曙を倒したように小兵、軽量力士に人気が集まるのは、本来の相撲を望むファンの当然な表れでしょう。大型化は許されてもそれに伴う土俵が狭いと思います。

現在の土俵は径が4、55mで昭和6年以来変わっていません。経をもう30cmくらい大きくしてみたら如何なもんかといつもTV観戦で感じていますが私だけかな。戦後四本柱を撤去し観覧者やTV画面からも観易くなったのは大改革でした。そこで土俵の高さをも少し低くし転落時の怪我を防ぐ、砂被りの席を一列後ろに下げ力士と観客との衝突による怪我を未然になくす、砂被りの席には年配者や女性が多くなりました。

90周年記念行事が無事に終って(お料理が少なくてびっくり・・・)  26期岩瀬和子 2018年4月投稿

 祝賀会に大勢の同窓生の皆様にご参会いただきまして、本当にありがとうございました。式典準備委員の一員として盛大に行われましたこと、嬉しく思いました。

 校長先生より祝賀会には300人出席してもらいたいと云われ、同窓会で頑張らなければいけないと思いました。三浦会長より各期にお願いさせて頂きました。

 

 26期は6月に同期会を開催しました折、返信ハガキに記念行事の出欠の返事も書いてもらいました。当初出席希望者の中から30名抽選しようと話し合っていましたが、校長先生のお願い若い期の人から会長からいわれた人数を募る事が出来ない事を耳にし、希望者全員に学校から案内状を発送してもらいました。母校のために使うならいいだろう、と46名分の会費は同期会会計より支出しました。

 予算の件、80周年の時は東京三商会2,000,000円、運営協賛金(各期、OB会)3,947,585円、個人協賛金854,000円ありましたが、90周年の時はそれがありません。少ない予算の中で残る物は記念誌なので、いろいろ見ましたが、布張りがいいということになり、同窓生でもある木藤先生にいろいろ折衝、検討していただきました。出来た物を見た時よかったと思いました。木藤先生には大変ご苦労をおかけしました。ありがとうございました。

 祝賀会のお料理が少なくびっくりしました。4,000円で300人分頼んでありました。翌日区役所へ苦情の電話を入れました。公共施設の中に入っている業者にしてはよくないと云いました。役所では申し訳ありませんでした、としか云いようがありませんが。

燦笑繁話15 [  牡  蠣  ]  について        21期 細田武    2018年3月投稿

⛄  苛まれて30年    やっとこさと生牡蠣を食する機会が来た。

二度と喰うまいと思ってましたがやはり、農大の小泉武夫先生じゃ無いが [ 食い魔  ] が降臨しました。家族中6人で「セ ル」と言う生牡蠣の一箱   30個入りを買い求め、暮れの🌃🍴夕飯に酒肴共々牡蠣剥きで30個ばかり剥き、大根おろしで洗い、ポン酢  ・タバスコ・朝月の薬味等完全な食味を確信しつつ完食しました。その年の締めくくりの夜食でした。

 

自分の体調の変化に気づかず仕事はなんとかこなしてましたがXmasの頃から何となく体のダルさがありました。町内会の七福神巡りの向島百花園の陽溜まりで、根本部長が   ホーサン(  自分の通称 )  眼が黄色くない🆘   との問いかけ   そう言えば近頃酒も余り旨くないし、食味 も余り感じないなー   少しいダルいかな❗   小便はビールより濃くなり異常さはありました。

年明けの5日  今は無い根岸の私立学校共済会の「 下谷病院  」へ😭

このHPは我が子3人が出産でお世話になった下町の名病院です。

内科の先生以上に信頼感のある産科の加藤副院長に直診療を依頼

直ちに車椅子の手配、絶対安静の横臥状態を余儀なくされました。

採血,・採尿等の検査の結果  判決 は   [  非AB型   C型肝炎 ]   GPT  800    黄疸の数値が異常ですの宣告     牡蠣の報いです。

当家6人で  当選者   俺一人   以後  1月~~3月頭まで、なにもすることの無いプリズンみたいな部屋で寝ているだけ、絶対安静の日々、何が楽しみか⁉  肝臓を立てないで、横に安泰し 強力ミノハーゲンを飲む  朝、売店のおねーさんに新聞の配達の依頼、楽しみは活字でした新聞・雑誌・あらゆる書面が渇望されました。

それは後年大いに役立ったと  怪我の功名と自賛してます。

GPTの数値が50以下で退院のメドがつき😁3月半ば退院の許可が出ました。璽後、牡蠣フライ・牡蠣鍋等の加熱された ものは食卓で食べますが、今回清水の舞台から飛び降りる気持ちで遠来のそれも

東北三陸地震の広田の生牡蠣の到来   食わんでか  喰わんでか  👏

30年前に前科があるので念には念と多分に🙋洗い🎵

牡蠣は英語で、Rの付く月に食せ  とあり 家内・たまたま来た長男共々  甘露  甘露   過去はどこかえ消え失せ  一月経た今  C型肝炎 の兆候は見えません。怖さゆえ食べなかった自分を臆病者とします。

今 82歳       今年も   R の付く月は    「MARCH」「APRIL」

の2ヶ月のみ  です。食べます          

  生牡蠣      生牡蠣     生牡蠣   GTP   ZTT  健常値 維持してます。

燦商閑話 -第16回- 「私の観た映画”ベスト3”」その3 21期 髙野 昇   2018年3月投稿

「七人の侍」

▼誰が何と言おうと「これぞ日本映画最高の活劇映画だ」と賞賛できるNO1の作品と信じています。昭和29年の黒澤明監督作品「七人の侍」。それまでの彼の作品(酔いどれ天使・野良犬。羅生門など)に見られた黒澤イズムなど無く、ただただストーリーの展開をテンポよく進め、3時間を超える上映時間を退屈させない(途中休憩時間あり)技は凄い。基本は監督ほか小国英雄と橋本忍による練りにねった脚本で撮影、音楽、美術(といっても高価な美術品は一つも登場しない)セットにあり全てが秀逸です。

 

野武士、百姓、浪人などの衣裳は擦り切れてボロボロ、ボロ生地をわざわざ集めて仕立て直し、その上俳優たちに持ち帰らせてしばし日常的に家の周りを着まわらせるなど、近所の人から「とうとうあの方は奇人に・・・」と言われたと出演者の土屋嘉男が冗談っぽくTVで喋っていました。

木賃宿の床板の木目の光線の具合、決戦の時のカメラワーク、大雨の降らせ方など観る者の目を休ませず、大傑作として永遠に語り継がれる価値のあるエンターテーメント最高の活劇時代劇でした。ポスターや予告編では三船敏郎が主演者となっていましたが観終わっての思いは志村喬の”勘兵衛”が主役の座をとっていました。その他、”七郎治”の加東大介、宮口精二の“久蔵”、木村功の”勝四郎”、”五郎兵衛”の稲葉義男、飄々とした千秋実の”平八”など個性溢れる役と俳優でした。その中でも志村演じる”勘兵衛”はリーダーとしての采配と雨中での弓を射る風貌と鋭い眼差しは抜群。

拾った系図で武士に成り済ましたものの見破られながらも百姓との共同の暮らしの中で、こよなく農民を愛し自らの百姓だった貧しく苦しかったことに思いを重ね盗賊に立ち向かう三船扮する”菊千代”。他の五人の侍たちにも台詞回しや動きに個性が巧く演出され、宮口精二の”久蔵”はほとんど台詞が無く、街中での浪人との居合の真剣勝負場面と、夜間単身で野武士軍団へ切り込みに行き村に帰ってくる無表情な面立ち、大雨の決戦中敵弾に倒れる”久蔵”を見て泣き叫び狼狽する”勝四郎”の木村功。百姓の苦しさ、貧しさ、哀れさ、悲しさなど部落の長老役の高堂国典や野武士から略奪した武具を持っていた左卜全、藤原釜足など脇役陣も見事でした。

15-3②

  

▼野武士盗賊軍団に初夏には麦を、秋には米を毎年略奪される百姓に金子(きんす)は払えないが腹いっぱい米を食わすから助けてほしいとの約束事でストーリーが展開します。3時間の上映時間の中で凡そ三つの部分に展開、人探し、作戦、決戦となります。人探しは百姓三人が町に出て人探しをまず。まず拉致した子を人質にして小屋に立て籠もった浪人(東野栄治郎)を一太刀で倒し子を救出した勘兵衛を。些細なことで言いがかりをつけられ真剣勝負となり一刀両断で相手を倒した”久蔵”。この二人に百姓は感動しました。

その勘兵衛の立ち居振る舞いに心酔し、弟子志願を望んでいた”勝四郎”も雇われ、偽の系図を見破られながらも最後の七人目となる”菊千代”、かつて勘兵衛に従い、ともに合戦に敗れた槍遣いの”七郎治”。街中を合戦に敗れた浪人者が闊歩する中に若かった”仲代達也”が通行人として数秒間映っているという事でDVDをスローで観てみるとたしかに彼らしき人物がありました。この数秒間の為に3日間セットに通わされ「黒澤さんってすごい人だ」と思ったそうです。以後彼は黒澤作品の主役として「天国と地獄」や「用心棒」に主役で活躍、今の彼があります。ちなみに宇津井健も出ていたとか。

▼百姓と野武士の描き方も百姓は野武士に狙われ作物や女性を奪われる哀れな反面、まるっきり無抵抗だったのではなくかなりの野武士を殺戮していた残酷な一面ももっていました。正当防衛でもありますが殺戮した野武士から沢山の鎧、眉間除けの頭締(ずしめ)などの武具、刀剣,弓矢、槍など武器を隠し持っていました。それを七人に提供し七人は驚きます。菊千代はその兜と胴着を、勘兵衛は弓矢を用い決戦に臨んでいました。大量の刀剣は野に数本立ておき決戦時に役立っていたようです。百姓は略奪はしたものの鋤、鍬や鎌しか持たない百姓に使い方など判る筈モなく菊千代や七郎治が伝授しています。村の中での人員配置、戦略など勘兵衛の指揮のもと詳細に徹底していく様子は観ている者をワクワクさせます。

菊千代が農耕馬を調教し手懐けようと裸馬に乗り木陰から馬が現れると菊千代が馬上におらず百姓や子供たちが大笑いするユーモラスなシーンを黒澤は忘れていませんでした。野武士が立て籠もる小屋を夜討ちで火を放ち大火災を起こすシーンでは俳優数名があまりの火勢で顔面全体に”火ぶくれ”になり入院した人までいたそうです。戦国に敗れ盗賊や略奪に身をやつした落ち武者がいたのは事実ですが、この映画では同じ落ち武者ながら正義の為に貧困の弱者の為に戦い、報酬は二度のコメ飯(当時は一日2食)が戴けるだけの七人、四人の同志が戦死しました。七人と野武士軍団、昔日は志をもって戦国の戦に臨んだもの同士、この両者を巧くスクリーンに載せて世の戦の無常、無念さを感じさせます。

▼黒澤はJ・フォードの「駅馬車」での製作意識、意欲に憧れ、いつかは誰もが満足する活劇ものを作ってみたいと兼ねてから思っていてこの映画の製作にあたりかなりJ・フォードを意識していたと感じます。最後の活劇場面でみる壮絶、凄惨さはもとよりその夫々の動き、スピードは「駅馬車」に見るインデアンの猛攻撃、馬の転倒、疾走するステーションワゴン。J・ウエインがステーションワゴンの御者位置から後ろに向かって追いかけて来るインデアンをショットガンで撃つ場面は、まさに勘兵衛が豪雨の中で矢を放つシーンと重なります。

15-3③

 

黒澤の好きだった西部劇での戦闘シーンは全てが晴れている好天が多く、せいぜい風が吹き枯草が丸まって転がる、そんな場面が多く黒澤はそれを逆手にとって戦いのシーンでは大雨を降らせました。この大豪雨を撮影所のカメラを数台動員しての同時撮影法(マルチカメラ)が迫力を増し、後の「椿三十郎」でも三十郎が一気に二十数人を切り果たすシーンでも使われていました。

東宝は撮影用のカメラが不足になり他で製作中の撮影がストップになったとか、そんなエピソードまでオマケにつく有様だったようです。弓を射る勘兵衛の雄姿、やたら長い刀を振り回し奇声をあげて敵を威嚇する菊千代、適格な槍捌きの七郎治、一振り一殺の九兵衛、初めて人を斬り一瞬戸惑う勝四郎、全てがカメラが回っての一発勝負で、それがまた迫力、壮絶、凄惨を呼んでいました。菊千代と久蔵が刀ではなく”種子島”で撃たれた壮絶な逝き方にも黒澤らしい時代の見方がありました。

黒澤は最後に、勘兵衛と共に生き残った七郎治と勝四郎に「今度も負け戦だったな、勝ったのはあの百姓どもだ」と田植えをする百姓に目をむけて言わせます。黒澤イズムの一つである”正義”を最後にきちんと表現していました。最後に一つ、音響があまりよくなかったと思います。とくに三船の台詞(彼はだいたいが怒鳴り声)聞き取りにくく、その後DVDや劇場で数回観ましたが同じでした。早坂文雄の音楽が良かっただけに残念です。

燦笑繁話14 「株価と日経連載小説」      21期 細田武    2018年2月投稿

何故か🌸  中学生頃から毎朝配達される朝刊が大好きでした。

日刊紙といっても8頁位、叔父の関わりで朝日、序でにスポーツ専門の「 日刊スポーツ 」タブロイド版の4ページ、でもプロ野球から中央大学が強かった箱根駅伝、サンフランシスコ・シールズの来日やゲーリック、ルースや長島・王・藤本・若林・別当・水原等後楽園・甲子園・スタルヒン球場の様子を紙面から読み取れました。都市対抗も盛んで、別府星野組・オール鐘紡・大日本土木・函館オーシャン・熊谷組、サッポロビール等後楽園で大熱戦・応援団の物凄さ、後にプロ野球で大活躍の逸材の供給資源でした。六大学野球も早慶戦で岡本・平古場の投げ合いは見もの?  否ラジオ、それもコイルを巻いた鉱石ラジオと新聞で知るだけでした。相撲も照国・東富士・名寄岩等見聞きしました。三商の吉住先生の命令で陸上競技部の連中は神宮・三鷹 ・中大と競技場へ補助員です。旨い弁当と交通費が美味し時期でした。

 

ヘルシンキOPで三段跳び優勝の世界記録保持者ダ・シルバー、なんと16、22メートル、同じく400メートルはウサイン・ボルトより速いと思うジャマイカのマッケンレー    OP連続2位の猛者。世界一流のアスリートに出会った18才の時もありました。 璽後、商いの道をかじり出した頃、親父の真似で兜町の記事の取っ掛かりを見聞きしました。それが日経新聞です。戦前は三井系の(日本商品新聞)と(中外商品新報 )になり、戦後[ 日本経済新聞]となったようです。朝日・読売の発行部数に及ぶ事は 無いが、その道の賢人に日本の指標を与える、正確な経済判断、紙面に溢れさせている。最初は何でこんなに算用数字の多い紙面なのか?何でこんなに広告が多数あるのか?  やがて判りました。紙面の半分が株価の記述で埋められ、あとは日本の経済の解説や社説の指摘は一般紙に無い自分には分かりにくい論説が多い紙面でした。後に少し余裕ができた頃、朝刊の連載に興味が出てきました。

今からざっと20年ほど前、世界をサププライムローンの破綻・所謂世界を戦慄させた大きな事態です。日本では山一証券・北海道拓銀当の金融機関の倒産に始まり個人投資家を始め各金融機関を含む企業のいろいろな大恐慌に似た影響を与えた時期でした2008年9月15日の日経平均値は881円安で終わった。それより少し前だが1956年山本周五郎の[  樅の木は残った  ]  芝居等でご存知の方もいることで仔細は省きますが所謂、伊達騒動を主題にした原田甲斐と伊達兵衛の対話形式で描く連載でした。1967年有吉佐和子の[  不信のとき  ]  異色の恋を描き浅井道子と言う書道家の物語、後にTVドラマになった。1984年  渡邉淳一の  [  化 身  ]  秋葉大三郎がさばの味噌煮が好きだとかホステスの霧子を理想の女性に磨き上げる可なりのポルノ、映画化されあの阿木燿子が全裸で出演し話題を呼んだ。

1995年あの朝の通勤電車がピンク色になったと言われた渡邉淳一の  [  失楽園  ] 編集者久木が閑職へ左遷され( 楷書の君) と言う松原淳子との喪服姿でのあの場面等、最後に美味しいワインに毒をもり心中と言う結末300万部のヒット 。当然かな   似た場面は映画( お葬式)の伊丹と宮本の画面が重複すると感じたんは私だけかな?

  

飛んで、2004年直木賞受賞の高城のぶ子の[ 甘苦上海  ]   続いて同年(  愛ルケ  )   [  愛の流刑地  ]  誰あろう  、あの大先生  、渡邉淳一です。世間中の男性を虜にした。筆が折れた村尾が入江冬香と心中までしてもーーー愛は法律を越えて裁けない👍  なんて勝手な筆記で朝の会社の秘書室を上へ下への大騒ぎにし、事実、それに似たことを疑似体験した作家擬きの男性が多勢いたと町中の噂👂➰👂

2006年  堺屋太一の[  ジンキス・ハン ]   北方謙三の[望郷の道 ]

大陸ものの書は余り😁🙇 の小生は⁉  この後にあのショック😱⤵⤵

一寸飛びますが、2013年  あの直木賞受賞の  [  等  伯  ]  彼の安倍竜太郎さんの大作です。京都智積院の書院で長谷川親子の巨画  否 宝物をたった一人で雨降る秋の大切な時を過ごせた自分の幸せの多さに感謝します。戦乱や加納派の妨害や家族との死別に屈せず松林図・桜図を記した長谷川一族の偉業に感嘆しまくりました。

2012年 浅田次郎の[  黒書院の六兵衛 ] 辻原  登の  [ 韃 靼の馬  ] 将軍吉宗と当時の朝鮮のあらゆる歴史上の状況に影響を与えた大ロマンのようでした。続いて間を置くが2016年 伊集院静の[  琥珀の夢 ]

サントリー創業の鳥居信治郎物語。とある薬屋で見つけたウエスキー

敢えてそう言う。竹鶴と研鑽、山崎の地に基礎を醸し出し、100年の計を建て今あるを誇る大河小説でした。赤玉ポート🍷、アンクル叔父さんのトリス、山口瞳・柳原良平で売り出したダルマの愛称で品不足だった(STオールド) ,  今や知多でバーボン擬きのアメリカンウイスキーを造り、トンもろこしの増産に寄与している。そして今、まずビールよりハイボールにした素地は100年前にありました。

商売がら50年前の酒販組合の青年会で彼の地を訪ね、樹木と霧と数多くの樽の山を見学し、原酒の試飲の機会に恵まれ、これから何年たったら世の中に出てくるのかの思いに浸りました。これも歴史のひとつとして聞いて下さい。

今回、林真理子の[  愉楽にて  ] 題からして老いの我が身に、もう一度あの世界への応援歌、3日目からもう絡みの林バージョン?    あっとゆう間に2018年、天下大平、五穀豊穣、今年は 戊の戌  サカリが付く歳なんてね❗

只、作品の質がいつも年末、年始の株価の変動に異常に加担していることに日経の連載小説の愛読者、特にスケベイな高額所得者はご理解戴けるはずです。春一番  書きすぎました。 面白山人  細田武です。

燦商閑話 -第15回- 「私の観た映画”ベスト3”」その2 21期 髙野 昇   2018年2月投稿

「青い山脈」

▼昭和24に封切られた「青い山脈」です。原作は石坂洋次郎が朝日新聞に連載されていたもの。それも憲法発布後の翌月と聞いています。したがって昭和22年頃と思います。東宝が映画化権を得たものの、当時の東宝は「東宝スト」で組合との紛争がニュースとなり嫌気をさした俳優たちが「新東宝」を設立、東宝自体がこの映画の製作に消極的となり、積極的だったプロデューサーの藤本真澄がわざわざ独立して製作した経緯があります。東宝はこの映画の大ヒットで後に藤本を東宝は三顧の礼をもって重役として迎えています。監督の今井正は後にあの久我美子、岡田英次の「また逢う日まで」を作っています。

 

昭和24年頃に米国で施行された「レッドパージ」(別名マッカーシー旋風)に日本政府も同調を迫られ共産主義的社会主義思想を持った人達を公職から追放する所謂”赤狩り”です。そんな事でこの映画に乗り気にならなかった東宝には今井の製作思想に”赤狩り”の影を感じていたのかもしれません。「レッドパージ」で米国に居た芸能、音楽、文化関係者など多数が追放の対象となり、あのチャーリー・チャップリンもその一人でした。私の通学していた新制中学でも英語教師と社会科の先生が追放されました。それから3年後の三商2年の時に新小岩の薄汚い古い映画館でやっと観ることができました。封切時の評判の良い事は知っていましたが中学生など封切り映画を観られる年齢でもなく、友人と映画館の看板などで原節子の写真を見るだけ、「美人だなー」と友達と一緒に思っていました。昭和27年当時は、封切り後2・3週間過ぎたものを専門に上映する映画館が沢山あり、2本立ては当たり前でこんな映画館を二番館、三番館と言っていました。門前仲町の辰巳橋の袂にも”辰巳ミリオン座”という映画館がありました。今はスーパーの「赤札堂」になっています。

▼ストーリーとしてはごく単純なものでしたが、新憲法が発布されて二年後に作られたこの映画、ある意味では新憲法の精神を国民に訴える国威向上映画に類するものでは?とも思われていたらしいのですが、ここに描かれ男女の明るい交際と新鮮さ、若い男女が一緒に街を歩きにこやかに会話する、一緒に自転車で走る、そんな解放感溢れる青春の姿をユーモアを交えて描いた今井正はその後も数々の秀作を作り、昭和30年前後の映画雑誌「キネマ旬報」が選ぶベスト10の1位に5回も選出されていました。出演者も今は懐かしい人ばかり、原節子、池部良(恋人同士役ではなかった)、杉葉子(ニキビが可愛かった)木暮美千代(あのホクロ)若山セツ子(眼鏡が可愛いい)藤原釜足(何とも言えぬ味)伊豆肇など。戦災で灰燼と化した都会から見れば日本の美しい山、川、そして海などを夫々にメリハリ良く表していました。戦時中までの日本の政府や軍部の強制、抑圧に我慢を強いられた国民に大きなインパクトを与えた作品だったと思います。三商2年当時の私も「民主主義っていいなー」と思ったものです。政治的なメッセージやラジオの報道だけでは人はすぐには融合しない、できない、この映画は娯楽作品を通して判り易いメッセージを庶民に贈ってくれた作品でした、今思えば戦後の数ある、数あった青春映画の草分け的存在でもありました。

▼原節子はこの頃、三十歳少し前で年齢に応じた落ち着きと、その美しさに磨きもかかっていた時期で凛としていて、島崎雪子という英語教師役がピッタリでした。まだ若き池部良の青臭い動きと台詞の棒読み(池部は後年まで台詞が下手?だった)とは雲泥の差を感じましたが、彼の役どころの旧制高校生はそのバンカラ風な衣裳が似合い、数年前まではゲートルに重い軍靴だった頃の彼等と比して、いかにも開放された初々しい若々しい姿でした。偽のラブレターに端を発し女学校中が大騒ぎとなります。学校側と父兄会とが討論する中で藤原釜足が扮する先生がそのラブレターを読む際「大事な証拠になりますので原文のまま読ませていただきます」と津軽弁で大真面目で読み出す場面では観客が大笑いし、とても面白いユーモア溢れる場面でした。””恋しい、恋しい新子さま””と書くべき所を偽のラブレターを書いた女子生徒は「恋」という字を「変」と書き間違えていた場面でした。間違い文字で書かれたラブレターを「ヘン(変)しい、ヘン(変)しい新子さま」と生真面目な顔で読み上げる藤原の秘めたユーモア溢れる様子が傑作でした。その後この作品はよっぽど日本人の琴線に触れたのか、本家の東宝はもとより何度もリメイクされています。日活ではあの吉永小百合が主演しましたがやっぱり「青い山脈」は原節子でしょう。小百合ストには申し訳ありません。

  

▼主題歌も大ヒットしました。藤山一郎と奈良光枝とのデュエット、西條八十の詩、服部良一の作曲で今も若い人達に歌い継がれ愛唱されています。奈良光枝は早逝し残念でしたが藤山一郎はあるTV番組で「僕はこの歌に巡り会わなかったら私の戦後の生き方は無かった」とまで語っていました。日本人の誰もが口ずさむ”若く明るい歌声に雪崩は消える花も咲く・・””いい歌です。ところで主題歌がもう一つあったのをご存知ですか。

二葉あき子の「恋のアマリリス」です。同じ西條、服部のコンビが作り、スクリーンに原節子扮する島崎先生が登場するとこの曲が静かにBGMで流れます。”♬赤い花ならアマリリス、恋にやさしく咲いた日に、私の胸にも春風吹いて・・・花散る夜更けの小窓の灯り・・・♪”原節子の雰囲気、清廉さ、穏やかな話し方などにピッタリのメロディです。ラストの方で先生と若者がサイクリング(こんな言葉、当時は無かった)で海辺に行きます。乗っていた自転車がやたらピカピカ、このロケが有った昭和24年頃はまだ自転車は貴重品で都会ではやたらに盗難が有りました。我が家でも”清水の舞台から”の思いで父が買い求めた自転車が鎖と南京錠でがっちり施錠してあったのに盗まれました。今のマイカーより大事なものでした。映画のワンカットで「光自転車」という会社名とロゴがそれとなく映り「アッ!宣伝だ」と気が付きました。TVの無い時代の宣伝手段だったんですね。バレーボールの練習を屋外でやるシーンでは、これは三商の今のバレー部と同じだと納得。昭和26・7年頃の三商の体育館の床板はボコボコに穴が空いていたのでバレーやバスケなどは校庭で練習、時には試合をしてました。

▼他愛のないストーリーとはいえ、この女性教師と同じ考えを持っていた人達が戦前、戦時中の規律、弾圧、古い因習や慣習などで自身の思いや胸の内の意思表示ができなかった暗い年月を経験し、それが終戦後の民主主義の導入で一気に噴き出す、原作者の石坂、監督の今井、音楽の西條や服部も同じ思いの意気込みがあったんでしょう。この映画の愛され方。凄さは以後5回も映画化されている事です。同じストーリーを5回も映画化されたのは世界の映画界を見渡しても例が無いでしょう。いつの世も必ず生ずる体制への不満、反発、批判など今は当たり前ですがそれを堂々と言え、討論する、それが民主主義の基本だと教えてもらいました。戦後の不安定な日本の社会に新しい風を吹き込ませた映画だったと鑑賞後65年を過ぎた今もそう思っています。

▼余談の中の余談です。この映画の脚本を書いた井出俊郎はその後のリメイク作品でもオリジナルとして使われていました。彼の子息の井出峻(タカシ)は東大野球部のエースとして神宮球場で活躍4勝しています。卒業後、プロ野球のドラゴンズからドラフト3位の指名を受け入団、投手としての活躍(1勝のみ)は無かったものの俊足巧打を買われ1軍にほぼ定着。彼の現役中唯一の本塁打は後楽園球場での巨人戦での代打ホーマーでした。ちなみにあの長嶋茂雄の対ドラゴンズ戦の公式戦での引退セレモ二ーで電光掲示板に井出の名が表示されています。引退後チームは彼の英知を無駄にすることなく職員としてフロント入りさせ、チームの編成、育成、運営、渉外を担当させ2軍の監督まで勤め、最後は球団の代表にまで出世しています。東大からプロに入ったのは新治伸治(井出の3年先輩)で三原監督の大洋ホエールズ入り、新治は在学中は43敗、これは今も東京六大学リーグの記録です。公式戦でこの2人は投げあっていますが〇●なし。井出は現在母校の新宿高校で野球部の外部コーチをしています。

我が家のペット達           26期 岩瀬和子(旧姓:坂口)   2018年2月投稿

 娘が端江から犬2匹、猫13匹を連れてきた。犬は買ったが、猫は全部拾った猫達。

 娘婿が私達の所で働くことになり、幸い2LDKが空いていたので引っ越してきた。その後、隣が空いていたので、私達2人で広い所にいることもないし、翌春から孫が小学校に入学するので私達の居た所を娘達が使いやすいように大改装することにした。娘たちのところが出来たので私達の居た所の間じきりを取り、和室の一間をフローリングにし、リビングを広げた。私達の居た所はタンスや本棚等々を置き、物置にした。

 

 13匹の猫達は瑞江に家を買い、私達の所から引っ越していってそこで猫を拾うことになった。初めに拾った猫は親子で捨てられていたようだった。今迄飼ったことがなかったので迷ったみたいだったが日増しに元気がなくなっていくようなので、かわいそうで拾ったようだ。近所の人も気にしていたようで「飼ってくれるの」と孫に云ったそうだ。初めに拾った猫は「トンキニーズ」という種類でペットのコジマでは17万円で売っていた。その後増えていき、一度はミルクを与え、ぬるま湯を入れたペットボトルをそばに置いている猫。具合が変なので夜間救急センターへ電話を入れたらすぐに連れてくるように云われ、私の家へ連れて来た。急いで連れて行ったが治療中に死んでしまった。治療費1万8000円とられた。もう拾わないと孫2人が大なきした。夜遅いのでタクシーで孫と死んだ猫を送っていった。帰りは終電に間に合ったので帰ってきた。

 あの大泣きしたのは何だったのか。どんどん拾い13匹になってしまった。瑞江から出ることになったが、住む所など見つかるわけがない。幸いに前に住んでいたところが転勤で空くことになり、帰ってきた。猫たちの恩返しなのかな。

犬2匹とやんちゃな猫4匹は私の所で飼ってあげることになった。猫は幸い使っていない六畳二間で飼うことにしたが、犬は一緒だとまずいというので、私達の居る所で飼うことになった。

 一昨年春、1匹の犬が息苦しそうにしているので、夜間救急医療センターへ連れて行った。病院の人が見るなり、すぐ診療室へ入るよう云われ、治療費が4万円位かかると云われた。持ち合わせがないと云うと、カードで結構ですといわれ安心した。酸素の箱に一時間入れられ、検査の資料を渡され、明日かかりつけの病院へ行くよう指示された。もう1時間遅かったら助からなかったかもしれないと云われびっくりした。

 翌日かかりつけの病院へ連れて行った。一言で云うと太りすぎて気道を圧迫し、呼吸困難にしていたらしかった。今迄のドッグフードはやめ、ダイエット用の餌を病院から買ってもらうことになった。  13kgで5,670円。一日60gを3回に分けてやり、おやつのビスケットも買い、これは一日2個。フードが終る毎に計測してもらっているが、やせない。でも元気にしているので、いいと思っている。

 昨春は、もう1匹の犬が死んだ。夜からぜいぜい息をしているので、朝、病院へ連れて行こうと思っている矢先、静かになったので見ると息をしていなかった。あっけない別れだった。

 猫たちは勝手気ままにしている。押入れの戸を開けて入ってしまうので、カギをつけたら、穴を開けてしまった。ホームセンターでアクリル板を買ってきて張ったがはがしてしまうので、板を打ち付けた。力で戸を押し、中に入ってしまうが出られず、いないのでさがすと押入れの中にいる。仕方ないので使っていない大きなテーブルをたてかけて入れないようにしている。出入りする戸は両方から、つっかえ棒で開けられないようにしている。

 暑くなってきたのでベランダの戸を少し開けてやったら網戸をやぶって出てしまい、ステンレスの網戸に換えた。やはり少し開けてやった。鳴き声があまりにするので、部屋に入ったら、1匹の猫が網戸に登ったが、爪がひっかかり降りられなくなり鳴いていた。降ろしてやったらそれきり登らなくなった。壁・柱ひっかき傷だらけ、すごい部屋になっている。

 娘のところの猫が尿管結石になり2回入院し、30数万円かかっていた。人間と違い保険がないので高い。病院から買うフードは高いので、通販で取り寄せしている。娘のところは二部屋で飼っているが、具合の悪い猫だけとはいかないので9匹とも高い餌を食べさせている。

 ペットがいると癒されるといわれるが、娘は抱いたり、話しかけたりしているので癒されているのかもしれないが、私は犬の食事の時間の30分くらい前に餌を計り、水を入れ、やわらかくする。猫は朝、水と餌を皿にやり、砂箱を二箱清掃し、娘のところの餌は7ヶ所、砂箱を5箱清掃している。癒されるどころではない。

燦笑繁話13 「 上野の森は  [  宝の山 ] 」      21期 細田武    2018年1月投稿

東京上野 西洋美術館☀

世界遺産に登録され、益々その魅力に惹かれ、建築だけでなく展示も世界的な物が多くなったようです。今回「北斎とジャポニスム」展が国内外の美術館や個人コレクターの所蔵の名作が数多く共演しています。本所割り下水で産声を上げ、90年の長い生涯は波瀾に満ち、世界にその影響を及ぼす事など想像することなく制作に没頭したようです。今、その墨田区の北斎通りに記念館があるのは周知の事。

 

ところで[ ジャポニスム  ]とは、日本から輸送される陶磁器や各種の美術品の保護材として緩衝材、 所謂  、クッションとして使われた( 北斎漫画 ) とかを銅版画家のブラックモンがその芸術性の高さに心を揺すぶられ、美術仲間に知らしめたのが、今まで無い様式を求めていた西洋の美術家に受け入れられる基になったようです。

見ず知らずの国の美術によってヨーロッパの美術家は余りの斬新さ、新鮮さ、人物、風景、動植物、自然現象、あらゆるものにそれまで感じた事の無い感動と、驚きをうけたようです。

画の無い今回の投稿ですがヨーロッパの美術家の作品の1例です。

              [   葛飾北斎  ]      →         (  ヨーロッパの作品 )

🌸 冨岳三十六景 神奈川沖浪裏  → 💐 クローデルの[  波  ]
🌸  同じく 甲州三坂水面      → 💐 カラバンジョのナルキツソス
🌸  同じく 駿州 江尻       → 💐    ルノワールの ギャレット
🌸 北斎漫画      蛙の内 ( 勝虫)     → 💐   テイハニーの蜻蛉文ランプ
🌸 鏡面美人図          → 💐   モネ    ラ  ジャポネーズ
🌸  同じく  十二編 湯あみ    → 💐   ド  ガ      背中を拭く女
🌸 諸国名強橋奇覧   三河   → 💐 エッシャーの  (  滝  )

挙げれば未だある。北斎が及ぼした模写、真似、等以外の影響力は計り知れないが、それによって其々の作品の価値は増しても減ることはない。途中、一隅に珍品があった。春画である。綺麗だった。

大小の作品、出品の苦労多謝します。この投稿が出る1月18日まで開催してます。また隣の( 上野の森美術館 )では[  怖い絵  ]も開催してます。入場に40分程掛かりました。是非御高覧のほど、台東区民の誇りの殿堂で❗

燦商閑話 -第14回- 「私の観た映画”ベスト3”」その1 21期 髙野 昇   2018年1月投稿

「飢餓海峡」

▼昭和39年の東映映画「飢餓海峡」で内田吐夢監督の作品です。錦之助、橋蔵、ひばりで映画を作れば間違いなくヒットし、他に片岡千恵蔵、市川右太衛門など豪華な俳優を抱えていた順風満帆の東映でしたが、時折社会性のある話題作も作っていました。原作は水上勉、映画は三国連太郎、左幸子、伴惇三郎など、若き日の高倉健も出ていました。

 

▼昭和26年9月に日本海、東北、北海道をマリー台風(15号)が襲いました。当時は台風の名を外人女性名で表現(国際的)し、そのあとは大きな被害をもたらした台風には固有な名を付けています。「洞爺丸台風」です。ご存知のように転覆で1100名ほどの人命が船もろとも犠牲となりました。あの「タイタニック」事故に次ぐ大海難事件、事故でした。同じ日に北海道西海岸にある「岩内町」で火災が発生、台風の風と共に町のほとんどが消失、砂浜に避難していた漁船まで燃えてしまう大火災でした。だがこのニュースは洞爺丸遭難の圧倒的な新聞記事、ラジオの報道などでニュースとして小さく扱われ、私が知ったのも数日後の事でした。原作、映画は時代背景を昭和22年に設定し�

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