投稿バックナンバー2022

「なまえ」 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口)            2022年12月投稿

先日、新聞に子供につける漢字が載っていました。私は女の子が二人なので図書館へ行って「姓名判断」の本を借りてきて、かきやすい字、そして女の子だから「子」をつけました。ひ孫が四人いますが孫達は思いのままです。男の子は綺人(あやと)、愛翔(あいる)、女の子は虹愛(にいな)、心遥(こはる)です。

何か思いがあってつけたのでしょうが、かきづらい字でかわいそうです。私の「和子」は両親が明治神宮でつけてもらった名前です。でも明治神宮では明子(あきこ)か和子(よしこ)と云われたそうです。でも両親は皇女和宮様だって「和」を「かず」とよませているのでなにも「和」を「よし」と読ませることがないといって「かずこ」にしたそうです。

おじの一人は名前に濁点がつくのはよくないと云って「かつこちゃん」と呼んでくれていました。大きくなって男性は「わこちゃん」「かずちゃん」と呼ばれていましたが、たいていの人は「かずこちゃん」と呼んでくれていました。

「コロナ禍の合間か、色々あった11月!!」    28期 若月健司 2022年12月投稿 

傘寿を迎え、名刺に「第3の人生に入ります」と記載し、これからは気の赴くままに過ごそうと気持ちを新たにしました。そんな今年ですが11月はコロナ禍の第7波と第8波の合間のせいか何かと出掛けることが多くありました。

1日(火)終日 「日帰りバス旅行」 くすのきクラブ(老人会)で箱根方面バス旅行 33名参加
鈴廣かまぼこ博物館・箱根神社・仙石原すすき群生地・長安寺・御殿場えびせんべい
の里など見学 *3千円のデジタルクーポン券利用

2日(水)午後 「清新ふたば小学校」訪問 10日の授業「清新町の歴史」についての打ち合わせ

3日(木)午後 「講演会」聴講 テーマ「世界の地震と火山に挑む」 主催:国立研究開発法人海
研究開発機構(JAMSTEC) 於:品川京急第7ビル
*海洋国家日本の海の研究を世界各地で実施中

4日(金)午後 かかり付け医院で年1回の健康診断(結果は月末) インフル予防注射接種
第5回目のワクチンを14日予約

5日(土)午後 「田の上いくこ都議の都政報告会」出席 於:葛西区民館
*中学生英語スピーキングテスト導入の是非 反対の田の上議員は会派から除名

6日(日)午前 「区内一斉美化運動」参加 通勤通学路のゴミ拾い
 午後 「一龍齋貞弥真打ち昇進披露講談会」出席 於:内幸町ホール
*「三商講談会」の主宰者細井進一さんのご逝去を知る

7日(月)午後 三商28期同級会幹事の打合せ会 於:京橋モルチェ 8名参加
*今年の開催は中止とし、来年は開催する予定

9日(水)午後 「秋の史跡ウオークその1」スタッフとして参加 規模縮小し、17名参加
*久しぶりに再開、「境川・小松川親水公園」に沿って歩き、途中のお寺を訪ねる
明治9年に江戸川区に初めて出来た小学校「善照寺」の説明役を担当する

10日(木)午前 「清新ふたば小学校」の授業講師役務める テーマ:清新町の歴史
*3年生3クラスを30分ごとに廻っての質疑応答形式 地域の勉強を熱心にやって
おり、するどい質問もあり勉強になった

11日(金)午後 「カラオケ愛好会」参加 主催:くすのきクラブ(老人会)
*「帰れないんだよ」「昔の名前で出ています」「無情の夢」を唄う

12日(土)午前 「ピアノとフルートの演奏会」出席 友人の息子の嫁さんがピアノ演奏者於:代々木
午後 「講演会」聴講 テーマ:「持続可能な未来へ」 講師:綿貫淳子(元南極越冬隊員)
主催:えどがわエコセンター *越冬地における環境と食品ロスの話

14日(月)午後 コロナワクチン接種 *過去4回は副作用無し、今回は若干だるさを感ずる
夜 「講演会」聴講 テーマ:「これからの幸せ」 講師:五木寛之 座談:田中優子
井上広法 戸松義晴 笑い飯哲夫 於:有楽町よみうりホール
*90歳の五木さんが立ったまま50分間の講演に驚く

15日(火)午前 「風姿花伝を通読する講座」聴講 風姿花伝は能に関する理論書 於:田町駅前
主催:新現役ネット 講師:水野聡
*本講座は昨年9月開始以来月1回で14回目「花」と「幽玄」を理解できるか
夜 「むらさきの会」(田の上いくこ後援会)役員打合せ 於:船堀植むら

17日(木)午後 金沢まゆみ(むらさきの会)会員との情報交換

19日(土)午後 「三菱電機グループ合唱団公演会」出席 友人が団員 於:板橋区立文化会館

20日(火)終日 「歩こう会スペシャル」参加 主催:くすのきクラブ(老人会) 国立競技場のフィールド
内・選手ロッカーなどの見学 国立能楽堂資料室見学 30名参加

25日(金)午後 「カラオケ愛好会」参加 「愛始発」「宗衛門町ブルース」「東京夜霧」を唄う

27日(日)午後 同上 年1回の懇親会「べにばな」を唄う 参加者の唄を録音し、自分の唄を確認

28日(月)午後 「文化財・郷土資料室ボランティアの会」月1の定例会出席 28名出席
*「文化財の保護と活用について」の思いを話す
夜 「読者会」出席 「がんばろう、日本!」の機関紙の月1開催 於:TH船堀
*区議会議員を交えての情報交換

今年もあとわずか、世界的にはウクライナ紛争・世界各地での温暖化による大災害などがなかなか収まりようがないようです。国内的にも旧世界統一教に関する新法制定・原発再稼働・防衛費の増額・物価高・財政規律・エネルギーや食糧の自給率など問題山積です。ドイツ・スペインを破ったサッカーは唯一の明るい材料ですが来年はどういう展望が広がるのでしょうか? 以上。

24 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(22)入日神社―         29期 仲田元昭   2022年12月投稿

「椿の里の瞽女唄ライブ15」を聴いて思い出すこと    28期 若月健司 2022年11月投稿

10月15日(土)「瞽女唄」を聴く機会がありました。江戸川区教育委員会教育推進課文化財係の主催で会場は「一之江名主屋敷」です。ライブは17時30分から18時30分の60分間です。2007年(平成17年)から始まり今年は15回目です。江戸川区学芸員の樋口政則さんと瞽女唄伝承者の月岡祐紀子さんのお二人のご努力で今回まで続いています。私はスタッフとして誘導などを務めた後、ライブ開始後は会場後方で瞽女唄を聴きました。

盲目で生まれた女の子の行く末を心配した親は生きる術を瞽女さんに託したのです。盲目の女の子が生きるのは厳しい時代であったと思います。それぞれでグループを作り厳しい掟で結束し、瞽女唄を唄いながら春夏秋冬門付けをしながら町や村を廻ったのです。

今年は自分の育った少年時代の新潟県刈羽郡内郷村時代をなぜか思い出したのです。昭和20年代から30年代の頃です。戦後10年を過ぎた頃ですが白衣で松葉杖の傷痍軍人さんや托鉢のお坊さんが軒先に訪れて来たのを覚えています。母が茶碗に白米を入れて渡していました。魚売りなどの行商人や鍋の底を修理する鋳掛やさん、富山の薬売りさんなどの物売りが季節季節の変わり目に来ていました。ただ、瞽女さんを見た記憶がないのです。越後の高田市(現上越市)や長岡市は多くの瞽女さんが存在していたと言われています。両市に親戚があったので子どもの頃遊びにも行きましたが、そちらでも瞽女さんは見掛けませんでした。

雪降る高田市内を3人の瞽女さんが瞽女唄を唄いながら歩く昭和時代の記録映画を先日視ました。周囲にカメラを持った人たちが撮影しているのが映っていましたが、その頃には瞽女さん自体が珍しい存在だったのでしょうか。その瞽女さんたちが羽織っているのはコートではなく「角巻」に見えました。「角巻」は当時私の母親をはじめ女性が日常的に羽織っていたのです。その映像を視て思わずジーンとなりました。

最後の瞽女さんと言われた小林ハルさんが105歳でなくなったのが平成17年です。その小林さんたちから瞽女唄を習い現在まで伝承活動を行っている月岡祐紀子さんや企画運営している樋口政則さんに敬意を表するとともにこの「瞽女唄」がいつまでも語り継がれていくことを祈ります。 以上。

23 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(21)海神念仏堂―         29期 仲田元昭   2022年11月投稿

HP投稿記事(2022.11)「我が街 船橋を歩く 神社仏閣」 21期 仲田元昭

戯言&独言26                                            21期 髙野 昇        2022年11月投稿

タイトルロゴ2022.06~私のオールデイズ

▼学童疎開中、宿舎で霧島昇の「誰か故郷を思はざる」を4・5人の仲間と唄っていたら同宿の先生(女性)から酷い叱責をうけたことがあった。朝の「教育勅語」斉唱、夕食前は何らかの「軍歌」の合唱、戦地の兵隊さんを想い心満たして唄うよう毎日の先生の指示、その先生は東京大空襲で台東区小島町の実家が焼失したのを知り早々に退職し帰京していった。自分勝手な先生だなと皆が思っていた。疎開仲間の全員の東京の家(亀戸)も全て焼失、東京に居る家族が焼死した仲間もいて

東京大空襲を知ったあとの宿舎は大混乱となった。ある晩ほとんど全員で泣きながら「誰か故郷を…」を唄った記憶がある。「‥‥♬幼馴染のあの友この友♫‥‥あの山、この河」亀戸には山も河もないけれど長屋・どぶ板:共同水道…全てが消えた。その三か月後、銚子市の伯母の家に縁故疎開しそこで敗戦の詔勅を聴き三カ月後に東京小岩(東京大空襲では被災していない)の家族の避難先に戻った。

戯言26

▼大戦は日本の敗北で終わった。ミズリー号での調印式のあと、駐留米軍兵、軍属、将校クラスの家族向けのラジオ放送が始まった。ラジオさえあれば日本人も聴くことできこれで多くの日本人が180度あの時代と変わった事を実感したはず。数日後、商店街のレコード店から流れてきたのがJAZZの「素敵は貴女」原名”BEI MIR BIST DU SCHON"であった。1935年頃の曲らしくアメリカ国内で大ヒット、戦時中はアメリの軽音楽など軍部の厳しい規制で聞くこともできずレコード店は密かに輸入盤を温存していたのだろうか。そこの店主の計らいか、店頭で素人楽団が演奏まではじめた。楽団名が”AMC"、テーマ曲までありそれがあの”素敵なあなた”だった。アマチュアミュ‐ジックサークルの略だったのか。店頭は凄い人だかりで、ついに近所の空き地に舞台らしきものを作り週1くらいのペースで定期開催、夜、兄二人と三人で連れ立って観に行き軽いリズムと軽快なテンポが日頃の飢餓と生活の息苦しさなどを払拭してくれて楽しいひとときであった。小学生の自分も兄二人(三商生)も曲名などわからずも何かウキウキした気分で帰宅した。夕方、幼い弟を背負い子守りを兼ねてよくレコード店や電気屋の店頭の前で聞き耳をたてていた。

戯言26-2

▼上の兄が三商4年生の頃か「YOUR MY SUNSHAIN」を英語で唄っていた。学校の英語の授業が始まり先生が「この歌の歌詞は君たちに憶えやすく、日本訳も判ってくるよ」と言い黒板に筆記体の英文歌詞を書いてくれたそうで、英語の教師なのにメロディーも伝授されたそうである。朝に晩に口遊み、隣の小母さんが「お兄ちゃんは上手に英語の歌が唄えるのね」と言っていた。三商に通学する頃か、ドリス・デイなどが歌う”センチ・メンタル・ジャニー”やライオネル・ハンプトンが奏でるビブラフォーンの音色、三商通学にAM7時過ぎに家を出る時、ラジオ東京(現TBS)から番組の合間に必ず流れていたB/グッドマントリオの”SHAIN”、この曲のテンポの良さに元気を貰い満員の都電の混雑も苦にならなかった。

▼在校中最も耳に入ってきたのが先輩同輩諸兄なら誰もが知っているあの”テネシーワルツ“だった。この英文歌詞をタイプライターの実習授業中に先生の目を盗み殆どの仲間がタイピング化していた。日本版ではあの「江利チエミ」が世にでて一躍名声を得たのが昨日のようである。パティー・ページのレコードもプレスが間に合わないとの噂もあった。自分はジョー・スタッフフォードの唄うこの曲の方が好きで、唄い方が少し投げやり的で、なにか説得力のある印象があって好きだった。彼女の”霧のロンドンブリッジ”も素晴らしい。

▼8月15日を境に180度の国内の大展開、軍歌を強制的に唄わされた時代は無くなり、心を開放させる軽音楽、JAZZが飢餓・住宅難・買出し・インフレをひと時忘れさせるカンフル剤でもあった。子供の頃や青春時代に聴いた夫々の軽音楽、当時は舶来の曲はJAZZといっていたが、人生の黄昏を感じ始めた時、元気を甦えさせてくれる存在でもある。視覚情報が無かったあの時代、ラジオやレコードは個人の内耳にしっかりと触れてくるメディアであった。

懐メロ カラオケ考                           28期 若月健司 2022年10月投稿

地域のくすのきクラブ(老人会)の「カラオケ愛好会」で懐メロを中心に唄っています。月の第二と第四の金曜日と最終日曜日の計3回です。時間は午後1時30分から3時30分までの2時間です。参加者は男女半々ほどで7人から10人程です。1人3曲ですからちょうど2時間内で終了します。私は懐メロしか知りませんが、参加者の中には最新曲を唄っている方がいるので勉強しているのがよく分かります。

カラオケを初めて知ったのははっきりしませんが昭和56~57年頃と記憶しています。当時の職場の仲間でスナックに行き「ラブユウ東京」を唄ったのですが恥ずかしさで散々だった思いがあります。学校時代は音楽で3(普通)を取れば御の字でしたから人前で唄うなど考えられませんでした。しかし、カラオケが普及すると唄う機会が増え、下手は下手なりに唄えるようになり今日に至りました。今では人前で話すことは苦手ですがマイクを持つと不思議に声が出るようになりました。因みに「カラオケ愛好会」で唄った曲は以下の通りです。

表をクリックすると拡大できます。

HP投稿記事(2022.10)karaoke 21期 仲田元昭

以上が平成2年11月13日から平成4年7月22日までに「カラオケ愛好会」で唄った曲です。途中でコロナ禍による休会や欠席もありますが、ダブらないでよく唄ってきたものです。上手ではありませんが曲の雰囲気や歌詞を理解しながら唄うことを心掛けています。取り敢えず100曲を目標に頑張ります。
以上

22 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(20)大覚院―        29期 仲田元昭   2022年10月投稿

戯言&独言25                                            21期 髙野 昇        2022年10月投稿

タイトルロゴ2022.06~久し振りの外出

▲久しく外出を自粛していたが「スポーツの日」の10日、暫くぶりに生まれ育った亀戸に足を運んだ。孫二人が来春の大学、中学への入試挑戦を控え、地元にある「亀戸天満宮」に参拝し絵馬を奉納、学業成就の御守りを買い求めたが、境内は七五三の参拝ファミリーで大賑わい。祈祷の順番待ちが一時間と書き出されていた。私達兄妹や孫達のお宮参りや七五三はここ天神様ではなく300メートルほど東に寄った「亀戸香取神宮」で亀戸や隣り町の大島が氏子で「亀戸天満宮」の氏子は墨田区の人々でお祭りなどは地元亀戸の人は催事などには手は出せない。しかし亀戸で生まれ育った身としては子供のころ8月の祭日が楽しみで蔵前橋通りに処せましと並ぶ昼店、夜店を日長一日買いもせずに隅から隅まで観て歩くのが楽しみだった。ソフト帽子の洗濯や、七味唐辛子や、詰め将棋、なぜか泥にまみれた万年筆を売る泣き売やなど。

戯言25

▲反面、当時は地味でひっそりとしていた「亀戸香取神宮」も今や天神様に負けじと境内も整備され、最近はスポーツの必勝祈願の参拝者が多くそれがチームの選手全員を引き連れての参拝となると境内は大賑わい(写真・甲子園へ、東京予選必勝の参拝にきた城東高校のメンバー)香取鹿島を本宮と仰ぎ、本宮にはかっての阪東武者たちが戦勝・必勝祈願に訪れた歴史は受け継がれている。「香取」を「勝って取る」から香取というんだと父がよく言っていた。数多くの絵馬も○○大会に勝つとか、贔屓のプロ野球チームに優勝して欲しいとか様々、時節柄サッカー関連の絵馬が目立つ。学業成就が本意の天神様(写真・ここから見るスカイツリーは素晴らしい)とは対照的で水泳の池江選手が病に倒れたときの無事回復を祈願するものが多数あった。そういえば池江選手は地元亀戸2丁目にあるスイミングクラブの出身である。

▲蔵前橋通りと交差する明治通り、地元では十三間通りと言っているが、それをJR亀戸駅に向かう途中左手に中央道り商店街がある。入ってすぐ右手が私の生家があった処、かっては200店近い小売店がひしめき、戦前戦後ともに賑やかな街並みだった。戦前の我が家の店(食料品店)の両隣は布団やと自転車や、真向はクリーニング店、その隣は材木屋、20メートルも歩けば魚屋、豆腐屋、八百屋、お茶や、おでん屋、時計や、酒屋、床屋、焼き芋や(夏はアイスキャンデー)、ミルクホールや飯やもあった。生活環境は狭くともなんでも間に合う利便性に富んだ環境だった。

戯言25-2

▲あの大空襲ですべてが消失、我が家は戦後昭和24年に元の場所に借金をしてバラックを建て商売を復活、両隣も戦災犠牲者が出て、かっての商人は殆どが消息も分からずなかなか地元には戻ってこなかった。田舎に行ったきり戻らない人が多かったようだった。土地もほとんどの商人は借地か長屋のせいもあり、あらたな借地契約に戸惑い、あきらめたこともある。隣の自転車やの後にはあらたな八百屋が来て我が家の商いとマッチしてかなりの客集めに貢献したようである。昭和30年代バラックながらも戸建て住宅も増え新旧の商人も増え戦前の賑わいの商店街となった。夕刻の買い物の人々が多く7メートルほどの道幅を夕方かの歩行者、自転車以外の通行止めを警察に申請、許可されミニ歩行者天国となり今も実行されている。

▲昭和の五輪後を境に駅ビルや大手、中間の企業(特に食べ物関連)が進出が十三間通りや近辺の商人に異変を感じさせ、この賑やかな買い物商店街も個人経営の店は跡継ぎも居ず、客離れを見越しオーナーは隠居し店はテナントに貸し、人の流れは変わらないが今日散策してみると三商通学時代に見慣れた十三間通りではあの頃の酒屋が1軒あるのみ。かっての生活臭と下町人情が漂った街、今は若者向きの好みにあったキラキラの街、高齢者には少し眩しい商店街。どちらにしても”昭和は遠くなりにけり”少しの虚しさを秘め「船橋屋」の葛餅と「佐野の味噌や」の好みの味噌を手土産に家路についた。

”ことば”について思うこと                           28期 若月健司 2022年9月投稿

最近、私の周りで起こった事象の中で”ことば”について思うことがありました。

*毎年8月15日頃になると先の大戦時の映像がテレビで放映されます。その中で「5・15事件」を取り上げた番組がありました。首相官邸に乱入した青年将校が時の犬養毅総理大臣を襲ったのです。その時拳銃を向けた青年将校に「話せばわかる!」と言ったのですが青年将校は「問答無用!」と拳銃を発射し、それが原因で総理大臣は亡くなったそうです。その時に少しでも”ことば”が通じ合っていたら歴史は変わっていたかも知れません。この事件を契機に日本の政党政治は後退し、軍部が台頭してあの太平洋戦争にのめり込んだと思います。

*先月は私の身近でショックなことがありました。現役時代の同期生のI君とは住居が近いことから近所の喫茶店の常連客同志でした。コロナ禍と暑さの為しばらく遠のいていた喫茶店を久しぶりに訪れました。すると喫茶店のママが「若月さん、最近Iさんの様子がおかしいのよ、電話をしてくれないかしら」と言うのです。すぐ携帯電話するも出ません、固定電話でようやく本人が出たのですが、若月を名乗っても要領を得ないばかりか「どちら様でしょうか?」という有様です。その後、ママに確認したところ認知症らしいと言うのです。5~60年付き合ってきた人と”ことば”が通じないショックを受けたのです。

*安倍元首相が凶弾に倒れました。現在、国葬儀や旧統一教会とのつながりなどで騒がれています。安倍元首相が国葬儀に値するかどうかは別として故人の”ことば”として気になることがあります。平成29年初め森友事件が起こった際、「私や家内が関わっていたら総理大臣を退任します!」という意味の”ことば”を国会で感情的であったかもしれませんが発したのです。政治家の発言は「綸言、汗の如し」であって取り消しは出来ないものです。あの発言で忖度という言葉が使われ公文書の改ざん・赤木さんの自死などが発生しました。そのほか国会では118回の虚偽答弁があったとも言われています。政治家が旧統一教会のつながりについて説明していますがどうもあいまいで潔さがありません。分りづらい表現や後刻言い訳の余地を残した言い回しで逃れています。政治家は”ことば”が武器ですからもっと分かりやすく明確に語って欲しいものです。

*私の好きな小説家に宮城谷昌光さんがいます。古代中国を題材にした本が多いのですがあらすじはもちろん魅力なのですが、時々出てくる漢字による”ことば”に興味があります。現代は使われないのですが含蓄があるのです。

世路(せいろ)~世渡り 擢登(てきとう)~人を引き上げる 繁衍(はんえん)~子孫の繁栄

蔽晦(へいかい)~ごまかす 寇掠(こうりゃく)~財貨を奪う 悴容(すいよう)~やつれた顔

涅(でっ)すれども緇(くろ)まず~染めても染めても黒ずまないものが真の白いもの

間関流離(かんかんりゅうり)~度々苦難にあい諸方を放浪すること

手話や以心伝心など言葉がなくとも意志の疎通は出来ます。でも”ことば”は大切です。 以上。

21 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(19)船橋日枝神社―        29期 仲田元昭   2022年9月投稿

HP投稿記事(2022.9)「21 我が街 船橋を歩く 神社仏閣」 21期 仲田元昭

戯言&独言24                              21期 髙野 昇        2022年9月投稿

タイトルロゴ2022.06~高野連にひとこと

▼暑くて長い夏の甲子園の全国大会は”仙台育英高”が優勝、白河の関を優勝旗が通過したと話題も豊富、歌舞伎「勧進帳」の弁慶もさぞ喜んだはずである。近年公立高校の優勝など殆どなく地区による春、秋の大会なども私立高が優勝している。

▼そこに在る疑問点ついて考えてみたい。PCでこの甲子園大会(春・夏)の準々決勝以上に出場した過去も含めた学校の中から無作為に調べてみると他都道府県中学からの入学生が圧倒的多い。出場登録選手(18名~25名)中、強豪として超有名なOT学園18名中16人が他府県からの選手、東京の二高、T高なども13人で、ほぼ私立高校の登録の半数以上が他の都道府県からの寄留選手である。その後ろには地元府県の野球が大好きな選手、他都道府県から寄留してきたもののベンチ入りが出来ない生徒を含め数十名の部員がいるはずで他の都道府県から勧誘、越境入学になんの規制も無く野球部員として寄宿舎から通学させる現実を高野連は何ら対応も対策もなく”知らん顔の半兵衛”である。

戯言24

▼そこで一案、出場選手登録の中で他都道府県中学から入学してきた生徒・選手の数を5名までとし、もっと厳しく規制する案として学校所在の都道府県の隣接の都道府県からの寄留以外は認めない。地元府県から入学してくる野球少年、生徒・選手に機会を与える。郷土愛とはそこで生まれ、育ち、仲間と睦まじくその地を愛おしく思う心ではないだろうか。規制するなら球界ではベンチ入りの選手に外人の員数制限があり相撲界でも外人のお相撲さんは各部屋何人との規制をつくった。ある例としてかって鹿児島の中卒の野球選手がはるばる大阪府の超有名高校野球部に入部したり、北陸育ちで地元の少年野球で名をあげた選手が結果、東北の私立高に入っていた。地元の野球好きはこんな現況を知ってはいても、親子丼を頼んではみたが出てきたのはじつは他人丼なんだとの思いは否めないとおもう。

▼今は少子化時代、子供を中心に野球離れあり、野球人口の低迷、野球は金がかかる、そんな問題を含めサッカーに親や子の目が向いてしまうの現実、私立高の野球部コーチなどが各地の中学生を対象とした「ボーイズリーグ」等を回りスカウトに走り回っているとか、相撲部屋の弟子スカウトと同じである。高校までの各スポーツの公式戦は全てがトーナメントで勝ちぬかなければならない宿命でもある。そこで管理者、監督、同僚などからのハラ―スメントがくすぶる。柔道連盟では小・中の大会をすべて開かなおい方針に向かい出した。春の選抜野球選手権(毎日新聞)では文武両道はもとより、街中のゴミ拾い、練習時間の厳守、その他諸々、など実績とは別に加味され、これは公立高校に多く、本大会でこの選ばれた高校に負けたチームの監督が「なんであんな高校に負けるんだ!」と選手を叱責とあった。この監督こそ自らの人間性を叱責すべきである。越境入学者を揃え春夏連覇したなど唱える学校にはいつも違和感を覚えてしまう。

ほおずき市 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2022年8月投稿

夕飯を食べに浅草へ行ったら、その日はほおずき市でした。浅草寺をお参りすると四万六千日お詣りしたご利益があるそうなので、お詣りしました。

子供の頃、父は弟二人と私をつれて、ほおずき市と羽子板市へよくつれてきてくれたことを思い出しました。弟達はおもちゃを買ってもらうのが楽しみで、私は家に帰ってほおずきを作るのが楽しみでした。中の種をよくもみほぐさないとうまくほおずきが出来ません。

ある年近所に住む従妹が一緒に行くことになりました。父は弟達と一緒に従弟は旅行に行ったりしていましたが、従妹と出かけるのは初めてでした。食事はいつも「セキネ」でした。今でもあるので通るとなつかしく思います。従妹に何食べると聞いたら「ラーメン」と云いました。運ばれてきたのは五目ソバでした。すると、従妹が「おじちゃん、これラーメンじゃない」と云い出しました。ラーメンは茶色のおつゆですが、五目ソバは白いので、従妹は間違ったのかと思ったのかもしれません。父は「おいしいから食べてみな」と云いました。私は父が外で従妹と食事することがないので、ごちそうしたのだと思いました。家へ帰ってきて皆で大笑いをしました。父は云われた時ちょっとびっくりしたと云っていました。

~我が畏友~ 長谷川 勇 のこと 28期 若月健司 2022年8月投稿

先月、小学校・中学校までの同級生である長谷川勇から「あゆみ」と題する冊子(自分史)が届きました。彼は今日まで地元である新潟県柏崎市西山町別山に住んでいます。彼とは現在、年賀状だけの友人ですが、同級会などで帰郷した折には地元で一目置かれているのは感じていました。森林管理や地元コミュニティの中心人物であるとは聞いていました。

その彼から昨年初に「昔の暮らし文集」を発行するので「別山時代の思い出」と題する原稿の依頼がありました。別山時代は昭和30年前後の貧しい頃です。私は当時の遊びや友達のことを思い出しながら原稿にして彼に送りました。その文集が届いたのが昨年末でした。そこへ先月に届いたのが「あゆみ」です。以下は彼への届いた旨の礼状です。


勇さんへ
 令和4年7月
健司   

拝啓、先日は冊子「あゆみ」をお送り頂き、誠に有難うございました。あれからじっくりと読ませて頂きましたが勇さんのこれまでの人生に驚きと感激を抱くばかりです。最近には「昔の暮らし文集」を発行されたばかりで、この度は自分史にあたる「あゆみ」を発行されるエネルギーもさることながら「自分の人生」を振り返る強い思いに驚嘆します。「昔の暮らし文集」にあるように戦後の貧しい時代を過ごした同級生がそれぞれの環境から別れ離れになり、傘寿を迎えた現在まで違った人生を送ったのだという思いに至りました。

私自身はこれまで流れるように生きて来たような思いがあり、勇さんのようなとても充実した内容ではありません。しかし、最近は自分の人生を三分割しています。即ち、会社勤め時代を第1の人生、還暦を過ぎた頃から傘寿までを第2の人生そして現在から死ぬまでを第3の人生としています。

第1の人生は還暦をはさんで45年間程ですが家庭と勤務先の往復が主でした。第2の人生は①地域の役員(管理組合・自治会・老人クラブなど)②東京都議会議員の後援会会長③ボランティア活動(江戸川総合人生大学・環境団体での活動・江戸川区の文化財・郷土資料室など)④プライベート(高校母校の同窓会理事及び同期会幹事・NPO法人新現役ネット内団体世話人など)この第2の人生は多忙でしたが充実した頃でした。傘寿を迎え、体力や知力の衰えを感じたことから第3の人生に入るべく責任あるポストから離れ現在はひいきの講談師の講談を聴いたり、子どもの頃からのファンの阪神タイガースをテレビ応援したり、「古典を学ぶ」という講座で「能」について勉強しています。老人会では一会員として健康麻雀やカラオケに興じています。

平和な時代が続くことを祈るばかりですが、「歴史は繰り返す」ようで困ったことです。安倍元首相が凶弾で倒れる・政治と宗教の癒着・コロナ禍の第7波・ウクライナ紛争・地球の温暖化・政治の右傾化・円安・物価高・財政の健全化などなど数え上げたらきりがないほど問題が山積しています。

老人の愚痴話になったようですが、ここまで戦争もなく生きて来たのだからあと20年は平和であって欲しいものです。 敬具。

*勇さんの主な経歴

昭和43年:全国山林業経営発表会県代表として発表(上智大学にて)
昭和44年11月:
林野庁長官賞受賞
昭和45年10月:礼拝郵便局職員となる
昭和61年3月:新潟高等学校通信制卒業
昭和63年度:別山小学校PTA会長
平成3年4月:西山町林業愛好会設立

平成9年12月:真宗同朋会推進員となる
平成10年~12年:信越郵政局為替貯金事業最高優績表彰受ける
平成13年6月:荒谷さとやま保存会立上げ
平成14年4月:別山カタクリ保存会立上げ
平成17年度:荒谷農家組合長
平成19年4月:三条真宗学院入学
平成20年3月:得度僧籍簿に登載(釈縁静)
平成20年7月:別山コミセンセンター長

平成22年11月:林野庁長官賞受賞
平成23年4月:新潟県高齢者大学入学

平成30年4月:荒谷あじさいの会(老人クラブ)代表
令和3年11月:「昔の暮らし文集」

発行 令和4年5月:自分史「あゆみ」発行

合併により柏崎市内となりましたが、実際は部落が存在する片田舎です。そこで生まれ育ち地元郵便局に勤めながら森林保護に当たったり、さとやま保存会・カタクリ保存会など地域の発展に貢献しています。個人としても得度僧籍を得たり、高齢者大学で勉強に励んでいます。そして傘寿を迎えるにあたり自分の人生を記録する自分史を発行する旧き友人に敬意を表するとともに誇りに思います。

以上。

20 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(18)西向地蔵― 29期 仲田元昭 2022年8月投稿

戯言&独言23 21期 髙野 昇 2022年8月投稿

タイトルロゴ2022.06~8月になると

▼暑い8月、どうしても思い起こしトラウマの様に心に現れるのが77年前の6日、9日の原爆投下、「原子爆弾」などの言葉ではなく新聞は「新型爆弾」と書き庶民は「ピカドン」と言いその恐ろしさは数日後に巷に拡がった。次は東京だとの風聞の中での15日の天皇の詔勅、夏休み中に急遽校庭に集合、村の人々や校舎に駐屯していた軍隊(総員30名ほど)なども集結した。初めて聞く天皇の声は音声も悪く文言もあらかたの人には意味不明、ただ「堪え難きを堪え凌ぎがたきをしのぎ‥‥」の文言の部分だけは小4の自分には理解したと思い「力の限りガンバレ」の檄文と思い込んだ。結果はあのとうり、まず頭をよぎったのはこれで東京の家族の処に帰れるの思いだった。

戯言23

▼10日ほど過ぎると最終列車で内地勤務の復員兵が沢山の荷物を担ぎ駅に降り私の従兄も3人9月に戻ってきた。村に駐屯していた部隊もMPが早々にやってきて武装解除、階級章ももぎ取られ三八銃が20丁くらい(どう考えても駐屯兵員数と会わない)機関銃2機がトラックに積まれ運ばれてゆくのを見た。MP全員の肩には黒い自動小銃、この光景で勝てる戦ではないのがよく判ってきた。この日の20日程前、空襲にきたB29が高射砲で撃墜され搭乗員の1人が落下傘で脱失、なぜかこの村の芋畑に落ち近在の農民4・5人にめった打ちにされ血まみれとなりその翌日に憲兵隊に引き渡された光景も見た。終戦後の数日後MPがジープで来村して来て加害した農民の調査をし関係者を束縛、C級戦犯となり3年後くらいに釈放されたと疎開先の伯父が教えてくれた。その話は近在の村民の間ではタブーとなっているとの事だった。大きな事、小さなこと全てがこの8月に思い出す。私にとってこの日は終戦記念日ではなく敗戦記憶日なのである。

戯言23-2

▼夏休み中とはいえ殆ど毎日が登校日、勉強ではなく芋畑の草むしりと松根油(松脂)集め、そのあと教室に集まり中学4・5年生の代用教員による軍人精神や各地での戦況の話、すでに沖縄は陥落してたなど彼等も生徒も知らず内心いつ少年兵として赤紙がくるか?そんな不安を纏いながらの思いからかつまらぬ事でやたら生徒にビンタの雨を降らし、特に私を含め東京からの縁故疎開児には酷かった。16日からは登校日には行かず代用教員の姿も村の中で見る事もなくこの180度の転換を大人も子もなんだったのか。伯父宅に寄宿していた(軍医・少尉)は「実際のとこら薬とし十分あるのは征露丸と包帯だけ」と言いその殆どを伯父宅に譲り、敗戦2か月後に故郷津田沼に帰り駅まで送って行った記憶がある。風聞が多く男は奴隷として収監され異国に送られるなど伯父は「勝って官軍、負けて賊軍」など口走っていた。私にとって敗戦は東京の6畳と3畳の二間の7人家族の一員になれる事、5歳下の妹が喋らずとも最高の笑顔で迎えてくれた事、忘れられない。

▼必勝を信じて向かった一年前の学童疎開、その後の縁故疎開、私にとっては波瀾万丈の一年であったが敗戦後の「ギブミ―チョコレート」の時いみじくも言った友人の「こんな旨いもの食べているアメ公に勝てるわけがない」の言葉、つくずくと思い出す8月である。学童疎開のあの日の夜行列車から見たやたら大きま「スーパームーン」、この稿を書き上げた今夜も良い月夜だ。ウクライナの国民に思いを馳せながらも一方で「核」を持つ国の多さ、主導者は「核戦争に勝者はいない」の格言を肝に銘じ末永い平和を祈念するのみである。

雑句‥‥ 近ずきて やがてすぎ行く 十五日

阪神ファン70年余、変わりません!! 28期 若月健司 2022年7月投稿

私は小学生時代から70年余ず~と阪神ファンです。関西出身でもないし、関西に住んだこともありません。思い起こすと小学生時代に過ごした新潟県柏崎市西山町の頃、隣家にいた2級上の餓鬼大将が大の阪神ファンだったからでしょう。当時、メンコ遊びが流行っていました。平均5センチ程の丸や四角な厚紙のメンコで相手のメンコをひっくり返すと自分のものに出来る遊びでした。そのメンコにプロ野球の選手の写真が貼ってあったのです。阪神の藤村兄弟、別当、土井垣などを今でも覚えています。
以来、弱い阪神、強い阪神(あまりないのですが)を心変わりすることなく応援しています。そんな中で記憶に残ることがいくつかあります。

・昭和37年(1962年)の優勝
藤本定義監督 1塁:藤本(島倉千代子と結婚)2塁:鎌田(地味だが堅実)3塁:三宅(超鉄壁)
遊撃:吉田(今牛若丸)外野:並木(意外性あり)投手:小山(抜群な制球力)
村山(ザトペック投法)

・昭和39年(1964年)の優勝
藤本定義監督 投手:バッキー、村山の2本柱 日本シリーズで野村克也を擁する南海に惜敗、特に投手のスタンカに敗けた。この年、王の55本本塁打新記録 東京オリンピック開催
その頃、社会人の成り立てで勤め先のある新橋の居酒屋で阪神ファンの先輩たちに混じって優勝祝いで気勢をあげたことを昨日のように覚えています。

・昭和60年(1985年)の優勝(21年振り)
吉田義男監督 掛布、バース、岡田の三者連続のバックスクリーン本塁打(巨人の槇原から)
投手:ゲイル チーム本塁打219本 初の日本一となる バースの三冠王

・平成15年(2003年)の優勝
星野仙一監督 今岡、赤星、金本の打撃陣(チーム打率0,287) 井川、伊良部、下柳の投手陣

・平成17年(2005年)の優勝
岡田彰布監督 今岡、赤星、金本、シーツ、鳥谷の打撃陣
JFK(久保田、ウイリアムス、藤川)
の救援陣

その頃、第2の職場のオーナー会長が大の阪神ファンで各地の球場に二人で応援に行きました。特に思い出深いのは高知県安芸のタイガータウンの春のオープン戦観戦に2回出掛けたことです。そのうちの1回は阪神選手と同じホテルに同宿した折、当時の黒人選手が共同風呂に前も隠さず堂々と入ってきたのですが、その立派な体格に感心(?)しました。帰京の途中で大阪の阪急ホテルに泊まり翌日阪神・淡路大震災の1年後の復興状況を見てきました。もちろん甲子園球場の巨神戦を観戦してきました。他にも昔の後楽園球場のグランドでの野球試合、オーナー会長の野球観戦の奇行、横浜ファンの友人との観戦談、近所の人達との阪神ファンの会設立などいろいろありますが紙面の都合上割愛します。現在は体力の衰えにより球場まで出掛けませんがテレビで阪神の全試合を観戦できる便利な時代です。虎キチとまでいきませんが、弱い阪神でも末永くささやかに応援するつもりです。 以上。

19 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(17)稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年7月投稿

戯言&独言22 21期 髙野 昇 2022年7月投稿

タイトルロゴ2022.06~19期の三人の先輩

▼昨夏の「同窓会報」は19期諸兄の特集で19期の先輩方の纏まりの良さに感服しました。毎月1回本所の「蕎麦処琴冨貴」で集まり更なる親睦を深めている様子、私も幹事の細田安治先輩とは同窓会の集まりでたまたま同じ卓の席になりそのご縁もあり一度同席させていただきました。19期生で私の記憶に残っていたのは中野貞二氏、石原博氏の二名の方でした。

▼特に中野氏は16期の兄と当時の小岩の珠算塾の仲間で、地元の三商在学生の諸先輩も多数通塾していたらしく、当時はまだ旧制中学で六三制が施行される前だったと思います。私はまだ小学生だったはずです。そんは中野先輩が時折「琴冨貴」の集まりに見えると細田先輩から聞き2年後輩ながら集まりに参加させていただきました。逝きし兄との色々な思い出話、兄に映画見物に誘われたエピソードたのしいひと時でした。ソロバン日本一になった中野さんをすごく誇らしげ語り16期の吉羽亀之氏が来訪の際には(よく遊びに来てました)近所の寿司屋で祝杯を挙げ、わたしも同席し楽しく過ごしました。

中野先輩…70年ぶりに会いました

戯言22

石原先輩…54年江商時代の社内旅行・前列左端が石原先輩、後方左端が小生

戯言22-2

▼石原氏は在学中確か生徒会の副会長をやっていたでしょうか。私は就職も既に「日本長期信用銀行」に決まっていたのに校長、清田教頭からの懇願で改めて「江商…‥現兼松」を受けて見ろと言われ私は「江商」なる商事会社など知らず「珠算と簿記に長けて、英語は少しばかりできれば良いから」と言われ、校長・教頭の意のままに受験、三商から3人が受けましたが私一人のみが内定を受けました。珠算1級、簿記2級の資格がきいたのでしょうか。後日清田教頭がわざわざ我が家に両親に了解を得るために来訪「長銀」にも了解を得た旨と、報告を受けました。「江商」は戦前からの”関西五棉…江商・丸紅・伊藤忠・東棉・日棉”の一社であることも知りました。入社3日目に石原先輩から声がかかりました。

日本橋本石町にあった「鰻の登亭」で1対1の歓迎会をして頂きました。18歳に成るまでこんな本格的な蒲焼を食したのは初めてで2人でバヤリースオレンジをのんで乾杯したおもいでは忘れられません。先輩はとても優しく、社内の評判も「石原に聞くとよくわかるよ」と言われガンガン営業をやっている諸兄(殆どが軍隊生活経験者で)は縦系列を重んじる傾向の中、石原さんにはずいぶんたすけられました。秋にあった五棉対抗野球大会にも石原さんと一緒に選手として出場、社員旅行に昇仙峡に行った時も同室で三商の思い出話にが華さきました。私は事情があって1年と少しで退社、その時も石原さんの旗振りで経理部十数人で人形町の料亭で送別会をして頂き身に余る光栄に感謝あるのみでした。同時入社の一商の2名の友人はその後インドネシアや台湾に転勤、その内の一人は転勤先で病死してしまいました。「日本に早く帰りたい」との手紙も何通も貰いそんなこともあっての早逝でした。高卒にしては英語に優れていましたが残念でなりません。そんな思いが残る19期の二人の先輩でした。

▼もうひと方、在学中から今まで顔を合わせた事も無く過ごしていましたが一昨年に逝去された北村重雄 先輩です。私が幹事の一人として務めた21期の同期会の事を知り妹(大倉貴美子さん)の事を宜しくとの手紙を戴きました。それがきっかけとなり頂いた手紙の交換は30回近くあり、手紙にはいつも違う篆刻が押印され、その説明の由意も必ず添付されていました。文章のさい最後には必ず「妹を宜しく」とあり兄妹愛が溢れていました。京都在住のせいもあり松坂屋デパートを退職後、趣味が嵩じて京都の神社仏閣の関係者の篆刻の仕事で生涯を務めていました。私のみの篆刻を頂いた時は感動、印影だけでしたが「何かの時にお使いあれ」との手紙が最後でした。妹さんの大倉さんとは1年生の時が同じクラスでもあり、今は親しくさせて頂きお住まいも私の生まれた亀戸で、これもなにかと北村先輩の御縁かと思っています。

北村先輩…私個人に作ってくれました

戯言22-3

確認してみたい三つの未来!! 28期 若月健司 2022年6月投稿

~その1~ SDGsが目指す2030年頃の未来

現在、日本中で「SDGs」で騒いでいます。私の住む江戸川区でも国から「SDGs推進未来都市」の指定を受け役所内に「SDGs推進部」やSDGsおよび共生社会実現するための「ともに生きるまち推進課」を設置して動いています。私の所属する江戸川総合人生大学同窓会では5月21日に「SDGs ともに生きるまちづくり」をテーマにした講演会をコロナ禍の中でしたが感染対策をしっかりやり、講演時間も1時間以内に収めて40名を集めて行いました。講師は役所のSDGs担当課長で講演後のアンケートの評価は上々でした。私は司会進行役を務めましたが終了後ふと思いました。SDGsの17項目は現在の我々が抱えている課題ですが2030年頃になって果たしてどのくらい改善されているか確認したいのです。あと8年後ですから何とか頑張りたいと思います。

~その2~ 孫が成人になる2040年頃の未来

私には3歳の女の子と1歳の男の子の孫がいます。近所に住んでいるので時々顔を見ますが可愛いのは確かです。その時、ふと思います。この子たちが成人になる頃の日本は平和だろうかと?私の年代は戦後の窮乏時代や高度成長期やバブル崩壊などを経験してきましたが戦争に巻き込まれることなく生きてきました。ところが昨今、地球温暖化による異常気象での災害発生、また30年以内での東京湾北部大地震発生も噂されています。自然災害はともかく人類が引き起こす人災も気になります。ロシアによるウクライナ侵攻での核兵器使用が取り沙汰され、日本も過剰反応して核所有・軍備増強論などが流布する有様です。7日(火)にくすのきクラブ(老人会)で新木場にある「第五福竜丸」を見学しました。

1954年にビキニ環礁での水爆実験で放射能を浴びたマグロ漁船です。あれから70年程経っても人類はいまだに核兵器にこだわっており、日本は核兵器禁止条約にもそっぽを向いています。国内的にも年金制度は維持できるのか、財政は大丈夫か、少子化はどうか、日本の地位低下はどうか、など心配事はいろいろあります。人生100年と言いますが、あと20年弱、よほど頑張らなくては2040年は無理かなあと思いつつもしかしたらと健康に気を付けています(笑)

~その3~ 2100年頃における江戸川区の未来

今年の3月に江戸川区では「共生社会ビジョン」の素案を発表しました。SDGs推進と併せて共生社会の実現を目指そうというのです。現状のままの成り行きに任せると江戸川区の人口は約70万人から45万人に減少する。そうなると歳入も減り、役所の職員も減り、当然住民サービスも低下するというのです。その対応として「共生社会ビジョン」の素案を策定したのです。策定に当たり区民や有識者の意見・提案を取り入れた会議などをいくつか実施しました。その中で「みんなのえどがわ大会議ワークショップ」があります。これは1グループに区職員2名、区議会議員2名、3団体の代表3名の計7名による会議です。分野毎に9グループに別れますので全体では63名が参加しました。私が会長を務める「文化財・郷土資料室ボランテァの会」にも団体としての参加要請がありましたので私が参加しました。ところが昨年の9月に会議が予定されていたのですが、コロナ禍の為会議は中止となり文書(ワークシート)による提出となり残念でした。これからは「共生社会ビジョン」の素案の中身を充実していくことを期待します。あと約80年後の2100年の江戸川区は絶対に確認することは出来ませんが、子どもや孫が平和に暮らしているに違いないと願う今日この頃です。 以上。

18 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(16)三峰神社― 29期 仲田元昭 2022年6月投稿

HP投稿記事(2022.6)「18 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(16)三峰神社」 21期 仲田元昭

戯言&独言21 21期 髙野 昇 2022年6月投稿

タイトルロゴ2022.06~■プロ野球あれこれ

<球種>‥かつては昭和30年代頃までの投手が投げる球種と言えば直球・カーブ・シュート・ドロップ・スライダー・時折にフォークボールくらいだった。特にスライダーとフォークはごく一部の優れた投手か投げ、フォークは杉下(中日)スライダーは藤本(巨人)シュートは河村(中日)西本(巨)でいずれも開拓者でもあった。今、TVでの解説者やアナの放送を聞いていると前記5種のほかにチェンジアップ・シンカー・カットボール・ッーシームなどアナも解説者も「今のは○○ですね」等簡単に言っているがそんな細かい事が即見分けがつくのか疑問である。視聴者には投手の背面からの映像だけでは見分けがつかない。かつてのカーブと今のカーブでは全然球速が違い今はやたら山なりに投げている。過去カーブをあんな球速で投げる投手などあまり居ず、昔はこんなカーブを「ションベンカーブ」といい、打者の外側から入るカーブを「鉢巻き」と言っていた。フォークも私などからいわせれば昔のドロップに毛が生えたようなもので杉下、村田、佐々木のなどのドロップは懸河のドロップと言われ、杉下のフォークは打者から糸目がよく見えたとあの川上(巨人)が言っていたほどだ。こんなに僅かの違いと球種の多さではボールの握りも違うし肩の使い方などを思うと投手に故障者が多いのは当然である。高校球児までもが同じ様になってきており高野連はこの数多い変化球対策を検討する時ではないだろうか。

戯言21

<解説者>‥野球に限らずスポーツ中継には解説者は付き物。ルールや技量についての解説は知識の浅いスポーツを観る者にとってはありがたい存在、しかし野球ほどファンが多く子供でもあらかたのルールや知識を持っている。それはそれとして今のプロ野球放送にあれほどの解説者が必要なのだろうか。ほとんどの解説者は球種やどうでもいい話で私には「そんなことどうでもいいんじゃないか」の思いが強い。アナより余計に喋っていたり、結果論のみ喋り「だからこうなるんですよ」との給う。それに解説者が二人いたり、日によっては「野球選手と親しい」と誇らしげに語る芸能タレントが出ている。これは圧倒的に民放に多いが、こんなのは入場券を買って観戦したり有料のTVに金子を払っている我々ファンとはかけ離れ存在である。視聴率の競争に勝つための手段としてはかなりミーハー的。今は私はもっぱらTVは副音声で「場内音声」のみで観ている。

雑句‥‥梅雨篭り カフェーオレと モダンジャズ

********今月の「文芸春秋」に同期の野中郁次郎君の第二次大戦の日本軍についての座談が10ページ渡り記載されています。経済学者と戦争、面白いですよ*********

ささやかですが応援しますよ! 28期 若月健司 2022年5月投稿

令和4年5月5日

先月の9日(土)午後、光が丘駅前のIMAホールでのミュージカル「プロパガンダ・コックピット」を観る機会を得ました。ミュージカルなるものを観るのは初めての経験でしたが上演時間2時間余の間、楽しく過ごしました。ストーリーは別として多数の劇団員による合唱・ダンスそして会場の音響に圧倒されました。今回のきっかけは令和2年2月に両国で開催された三商同窓会の新年会でした。テーブルで三人の若い同窓生と偶然同席となり、その内の一人が68期の長瀬可織さんでした。彼女がミュージカルの劇団員との話が出たので「観に行くから連絡くださいよ」と気軽に話したのを覚えています。

その後、コロナ禍で公演不能が続きましたが、今年の2月に公演開催の連絡がありましたのでチケットを予約しました。しかし、コロナ禍が収まらず残念にも公演中止となりました。ところがしばらくして今回の公演の連絡が入り光が丘駅まで出掛ける次第となったのです。68期と言えば40歳程下の後輩ですが、私の娘と同年代ですので「コロナ禍の中で

頑張っているんだなあ」と気に掛けたくなります。これからも機会があれば出掛けます。

三商同窓会と言えば数年前に理事になったことから「三商講談会」を知り、開催される清澄庭園内凉亭に毎月出掛けています。この会の代表者は33期の細井新一さんです。3年程前に私が代表の某団体の総会のアトラクションに講談会をセットしましたが、その際

講談師を細井さんに紹介して頂きました。私が住まいする江戸川区出身の講談師である田辺一鶴さんの孫弟子に当たる田辺いちかさんです。当時は前座でしたがすぐに二つ目となり、現在活躍中です。「三商講談会」では毎回3~4人程講談師が来ますがその中で私の耳に心地よく響く講談師が一龍齋貞弥さんです。彼女は二つ目ですが今年の9月に真打ちに昇進すると聞いています。

私自身なにも出来ない無芸でせいぜいカラオケで懐メロ演歌を歌う程度です。一生懸命努力精進している長瀬可織さん・田辺いちかさん・一龍齋貞弥さんが将来必ず大成するものと期待すると共に尊敬の念を持っています。特に長瀬可織さんは三商の後輩でもあるので今後ともささやかですが応援していきたいと思っています。

以上。

17 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(15)道祖神社― 29期 仲田元昭 2022年5月投稿

HP投稿記事(2022.5)「17 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(15) 道祖神社」2 21期 仲田元昭

戯言&独言20 21期 髙野 昇 2022年5月投稿

▼終戦直後にみた映画「…‥五人男」正確な題名も出演者も失念し忘れてしまったが斎藤寅次郎の作品で喜劇が得意な監督だった。その中で焼け跡の中でかつてのお殿様の末裔かと思われるひとがドラム缶の風呂に入っているシーンがあった。その中で家来と思われるひとがドラム缶の湯を焚き乍ら唄う歌が♬♩・お殿様でも家来でもお風呂に入るときゃみなハダカ、裃(かみし)も脱いで袴(はかま)も捨てて・♩♫のシーンが何故か未だに思い出として口遊んでしまう。唄っていたのはあの頃歌を唄う喜劇役者は古川ロッパ(懐かしい名)くらいだからそうかもしれない。

▼当時戦後5年間くらいは間借りか借家住まいか、せめてもバラックの家、戦前から内湯のある家は少なかったが、風呂場のある家などは皆無にちかい。ならば近間の「銭湯」に行くしかないが焼け残った風呂やは遠くても行かざるを得ない、子供の頃は下町では「お湯やとか風呂や」と言っていたが凄い混雑で夕方の開店前には数十人の人が開店待ち、燃料不足で一日おきか三日に一度の営間隔が拍車をかける。したがって冒頭の五右衛門風呂風景がアチコチで見られた。

戯言20

▼当時入浴風景はまず“芋を洗うような”な風景は当たり前、まず「風呂敷」を持っていく、風呂やでの最大の問題は「盗難」だった。脱衣場で脱いだ衣服をこの風呂敷に包む。ロッカーなどある時代ではないのでパイ助とよばれた籐でできた篭を逆さにして床に向かってポンとたたく、虱が付いている時があるので。我が家はまず衣服を風呂敷にいれ、その上に新聞紙敷き下駄を乗せバッチリと四文字に結わく。持って来た石鹸(鯨油製)は頭の上に乗せ手拭を頬被りして固定、透明度など全くない湯に浸かりつつ洗い場にいても脱衣場のパイ助から目を離さず盗難予防に励むのである。

▼昔から風呂やは盗難の巣といわれ盗む方を「板の間稼ぎ」と言っており落語などにも登場している。一番被害の大きいのは衣類と履物でいい加減に篭に入れてあると100%被害者となっていた。私の兄(16期)は四文字に結んだ風呂敷包みからほんの少し首を出していた牛革のベルトが盗まれていた。ベルトはするすると抜け易かったか、包み方の悪さを父に叱責されていたことがあった。履物の被害は圧倒的に多く、衣類は丸ごとの被害と言うものは無かったと思うが履物は履いてきた下駄と少し見た目のいい下駄とが交換されているのが多く、チビた下駄と交換しただけの犯罪意識の全くない現象のようだった。盗んだのではない、取り替えただけ、咎められれば「アッ間違えて履いちゃったよ」とか衣類を一枚なにしても下に着こんでしまえば見つかりにくいとか、そういう現代の目では許されない事でも、あのいじましい時代の事として歴史の中の小さなページとして終いこむのはもったいない話。「やられたよ」「もっていかれちゃった」「これくらいいいだろう」、加害者も被害者もどこかあの難関の時を過ごす為の変な譲り合いだったのかも。警察沙汰になった話など聞いたこともなかった。

▼今は内風呂が当たり前で、結婚当初は6畳一間の安アパート住まい、家内と二人近所の「風呂や」に行き家内の出てくるのをコーヒー牛乳を飲みながら風呂やの前で待ちあの南こうせつの「神田川」の世界だった。貴重な思い出のページである。今は一人ゆっくりと湯舟に浸かり食卓には冷えたビールが待つ。一日の中で一番穏やかでついついあの「お殿様でも家来でも…」を口遊んでしまう。

防犯カメラ、基本は変わらないでしょう! 28期 若月健司 2022年4月投稿

最近のデジタル化にすべきの風潮の中でふと昔の防犯カメラの事を思い出しました。今から24,5年前に住まいする団地の管理組合理事を務めていました。当時敷地内の駐車場内で車がひっかき傷をつけられる事件が発生し対策が検討されました。「パトロール隊を組織して巡回すべし」「防犯カメラを設置すべし」「防犯カメラでプライバシーが侵される」などいろいろ意見が出ましたが「駐車場内を監視するだけの防犯カメラを設置する」に決定しました。その後数年経過するうちに痴漢やストーカーが出没することとなり防犯カメラを団地内の玄関や階段付近にも設置するようになりました。お蔭で最近は不心得者の話は皆無とは言いませんが少なくなり防犯カメラの効果はあったのかと思う次第です。その後この防犯カメラは地域の道路や駅前にも設置され、今や日本全国に拡がっているようです。

現在、「デジタルファシズム」(NHK出版新書・堤未果著)という本を読んでいます。副題として~日本の資産と主権が消える~としています。読み終わっていないのでなんとも言いようがないのですが「デジタル化の掛け声のもと、日本の公共財が民営化により諸々なデータが一部の企業に偏り主権(国民の生活)が消える」と主張しているのではと推測します。デジタル化推進は世界の趨勢であり、日本が出遅れていると指摘されていますので今後頑張る必要があります。只その際、メリットとデメリットがあることを念頭に進捗して欲しいのです。デジタル化で個人の行動や意識や経歴が何処かで管理・監視され悪用されるのには抵抗があります。

防犯カメラの設置がいたずらや犯罪防止に役立ったと思われる現在ですが、設置当初の「プライバシーが侵される」という意見は貴重です。今後デジタル化を進捗する際、この意見を基本にして欲しいと思います。 以上。

16 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(14)厳島神社 ― 29期 仲田元昭 2022年4月投稿

「厳島神社」

厳島神社は、江戸時代初期の創建と言われ、現在の本殿は、昭和4年に建立されました。 ルーツは、北九州の航海民が祀った宗像三神と伝えられており、本町4丁目(旧仲宿区)の守護神です。
御祭神は、海上安全の守護神、田心姫神(
ごりひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、多気津姫神(たぎつひめのかみ)の3女神で地元では「弁天様」と親しまれています。古くから航海安全、豊漁祈願が行われ 開運、商売繁盛、技芸上達の福徳があると信じられています。

「厳島神社鳥居からの社殿」

全国に神社は86千社程ありますが、厳島神社は約1,000社と多くはありません。中世からある古道である御殿通り1km程に、稲荷神社、猿田彦神社、道祖神社、厳島神社、御蔵稲荷神社の5社があります。しかし、今から400年程前の慶長19年(1614)に、徳川家康公の命で造成された東金御成街道向きの神社は、船橋市街地ではここ厳島神社だけです。

「歴史ある立派な狛犬 (左)口を閉じている吽形 (右)」口を開けている阿形」

「17 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(15)」道祖神社に続く 「2022-3-25寄稿」

戯言&独言19 21期 髙野 昇 2022年4月投稿

春爛漫・入學期
戯言19

▼4月は入学、入社などのシーズン。私が小学校(当時は国民学校)入学したのは昭和17年、亀戸水神学校で日米開戦の4か月後だった。ハワイやマレー沖海戦への奇襲作戦攻撃成功に国全体が歓喜、今思えば日本の悲惨な歴史がここから始まった。戦果ばかりが新聞・ラジオが報じてこの年太平洋上の海戦では日本はすでに空母4隻、航空機200機以上が失われていた事実が国民には一切知らされず、入學しての4月には米軍機による本土空襲(4月18日)がすでにあった。荒川区尾久に爆弾が落ちたとの話はこども心におぼえている。(写真①)2年生になると亀戸に新たな学校が築かれ通学域の変更で第一亀戸国民学校へ転校、政府、軍部による「勝った!かった!」のニュースの中、毎朝の朝礼では国旗掲揚、校長の訓話は戦争に関わる訓示ばかりで「戦地に居る兵隊さんを思えば…」で締めくくられていた。冬にはズボンのポケットに手を入れさせない為にポケットが縫い合わされた。担任の石毛先生が中折帽子の周りのツバを切り前ツバだけのこしてお手製の軍帽にしていた。その翌年学童疎開に行き、山形県の上の山国民学校に転入、入学2年数か月で2度目の転校となった。その後縁故疎開をし千葉県の椎柴国民学校に転校、終戦後に避難先の小岩小学校に転校して4年生にして4回目の転校を記録した。

▼敗戦から2年3か月後の昭和23年4月マッカーサーの新教育制度施行により新制中学生として避難先の江戸川区小岩の小岩一中入学、木造の木の香りがする新品の校舎だった。小学校では男女組(古い懐かしい言葉)だった女子生徒は近くの江戸川学園に間借りして別々になり少しガッカリしていた。江戸川がすぐ近くを流れ、毎年赤とんぼの大群が校庭を跳びまわり、僅かな河川敷には近在の人が作るトマトやキュウリなど今風の家庭菜園が一面にあり、時折拝借していた。というのも生活困窮で我が家は母に「今日は弁当ないよ」と言われ昼休みは自宅に昼飯を食いに行く振りをして江戸川の土手に寝そべり時間を過ごし時折キュウリなどを拝借、でもさすが子供心に気が咎めていた。そんな状況のクラスメイトが数人居り悲しく侘しく情けない一時期だったがその中の一人は故人になったがそんな事から友好関係で繋がり大手製薬会社の工場長を務めあげていた。クラス会の時「昼ナシメイト」だなぁと二人で涙ぐんで話した思い出が懐かしい。この年、A級戦犯の 7名に絞首刑が執行された。帝銀事件、ガンジーが暗殺され、ラジオから「異国の丘」が流れていた。

戯言19-2

▼昭和26年三商入学、入学式の日は雨でゴム長靴を履いて参列、母が付き添ったが後にも先にも学校関係の事で両親のどちらかが付き添い集会に出ることは一度も無かった。なので雨が降ったんだろう。合格入学が決まった翌日、兄(16期)が就職していた「三菱レイヨン」を辞め司法の勉学に向け進む報告を今村校長、清田教頭に告げに行くので私も同行、「兄に負けず頑張りなさい」と激励のお言葉を戴いた。すでに我が家は前年に戦前の土地にバラックを建て商売(食料品店)を始めていた。近隣はまだ焼け跡が多く配給制度もありながら6畳二間に7人の生活、でも少しずつ夢と希望を家族全員が持ち始めていたのは事実であった。兄が勉学資金調達の為、珠算塾を開設したのも私の三商入學と同時進行、私も中2の時に珠算2級を取っていたので下校後は兄の助手として手伝い、どこの部活にも入れず、今風にいえば・帰宅部・だった。塾生も多くそれに伴い兄から潤沢な「こずかい」が貰え、塾の休日には封切り映画三昧(写真②)を送ることが多かった。塾の運営には杉原先生から顔を合せるごとに励まされていた。今思うと以後40数年兄の後をついで珠算塾を続けて来た事に感無量、一度は斡旋された就職(兼松江商)も兄を助ける為に一年で辞めその都度清田先生に相談、いつも寛大な対応で励まされた。十数年後、私の長男が専修大学松戸高に入学した時の校長が清田栄一氏であったのは全くの奇遇であった。

▼この年、GHQ最高司令官マッカーサーが朝鮮戦争に対する意思の違いからかトルーマン大統領が解任、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の意味深な言葉を残した。大統領選に出馬する腹づもりがあったのか、共和党は欧州の指揮官だったアイゼンハワーを推挙した。敗戦日本を立て直してくれたマッカーサーが羽田を立つ日、沿道に沢山の国民が惜別の見送りに手をふっていた。私はいまも彼には感謝している。数年前、皇居前にある第一生命ビルのGHQのマッカーサー司令官の執務室が公開され拝見、机・椅子は修復せずそのまま、執務室から天皇の居る皇居がよく見えたとの説がウソであったのを確認できた。9月にはサンフランシスコ講和条約が国連で48か国の賛同を得て承認され、三商では校長の音頭で万歳三唱、君が代を唄い「これからの日本は君達が背負う」の今村校長の話、その日は未だに賛否両論がある「日米安保」も締結した。

▼戦時中を挟んでいたとはいえ小学校の6年間に4回の転校をしたのは私だけではないはずである。年度替わりの4月、入学したあの年を回顧してみた。

●写真説明①‥‥荒川区尾久にある東京初空襲による被弾地のパネル
●写真説明②‥‥1951年こんな超美人を見る‥Eテイラー

やっぱりぶつかって割れたか!! 28期 若月健司 2022年3月投稿

下記の文章は平成30年の2月にある団体の会報に投稿したものです。あれから4年経ってふと思いだして読み返してみました。そして現在の世界状況は危惧した通り、悪い方向に向かっています。

~シャボン玉が鉄球になる~

今年の冬は寒さが一段と厳しく感じられますが、会員の皆様におかれましてはご健勝のことと存じます。年初のある新聞記事で「世界はシャボン玉の集合体で構成されており、それぞれの玉が重なり合ったり、隣の玉の中を見ながら他山の石として連動していた。ところが最近その玉がシャボン玉から固い鉄球に変化してきたため、世界がギクシャクしてきた」といういうのです。この記事から連想するのはシャボン玉同士がぶつかっても、柔らかく対応できるが鉄球同士だとドカンとぶつかり衝撃が大きくなる。シャボン玉はその中が透けているので外から見え、安心感がある。鉄球は外から中の様子が見えず、疑心暗鬼になりやすい。

ここでいう世界とは国と国の関係だけでなく、政治・宗教・企業・地域社会・集団などに当てはまります。即ち、鉄球の中身は「自分達優先・自分達優秀・排除・分断など」です。人類は第二次世界大戦を経て、あの惨禍を再び犯すまいと今日まで営々と努力してきた筈ですが、どうも昨今は鉄球が多くなり、あちこちで激しくぶつかり合っています。歴史は繰り返すという言葉は死語にしたいものですが、その期待がはずれそうに思うのは時期尚早でしょうか。 以上。

ウクライナがシャボン玉とすればロシアは鉄球です。その鉄球がドカンとシャボン玉にぶつかり割ってしまったのです。このような事態がまかり通るようではSDGs推進・オリンピック開催・地球温暖化対策・共生社会実現などの活動自体がなんの意味も持たないのではないでしょうか? 以上。

15 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年3月投稿

JR船橋駅より徒歩10分程にある、御蔵稲荷神社をご案内します。江戸時代、ここには飢饉に備え穀物を蓄えていた郷御蔵がありました。

「御蔵稲荷神社 (九日市郷御蔵跡)」

寛永19年(1642)の寛永の飢饉以来、徳川幕府は関東各地に年貢米を一時的に保管したり、飢饉に備えて穀物を貯えたりするために、村々に倉庫を建てました。これを郷蔵(ごうくら)あるいは郷御蔵(ごうおくら)と呼びました。ここ船橋(九日市、船橋御殿跡)にも、九日市郷蔵が建てられました。

「御蔵稲荷神社」

九日市郷蔵は、230年程前の(寛政3年、1791)の津波で失われ、以降再建されませんでした。 延宝、享保、天明の飢饉には郷蔵によって村人は救われ、恩顧に報い稲荷様を祀りました。 これが御蔵稲荷神社です。

このあたりから東側は中世の頃には、海老川の河川敷だったと言われており、その川幅は200m程と広かったようです。

「御蔵稲荷神社は狛犬でなく稲荷神の神使の狐像で左右共に巻物をくわえている」

「16 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(14)厳島神社」に続く 「2022-2-25寄稿」

戯言&独言18 21期 髙野 昇 2022年3月投稿

■三月になると
戯言18

▼三月になるといろいろと思い返すことが数々あります。11年前の3月11日のあの東日本大震災の日にわが家族にとって初の女の孫が生まれました。出生時刻も大津波が三陸地方襲っていたあの時刻でした。PM2時過ぎの大揺れの時は前日から出産の為入院(さいたま市岩槻区)しており当日の地震は妊婦曰く「凄く怖かった」が数時間後の津波襲来とほぼ同時刻に女児が誕生しました。私達老夫婦も自宅前の空き地に近所の方々と共にへたり込み、孫が生まれそうだとの事もすっかり忘れており、父親になる三男の息子は本郷湯島にある勤務先から社員全員に早期帰宅令が出たもののアクセスや携帯が不通、40キロ近い道を岩槻の自宅まで徒歩帰宅、その時点で吾子が生まれたのを知らず、その足で産院を訪れ誕生を知ったそうです。その孫娘もあと数日で6年生、高齢者の私達夫婦がスマホのレクチャーを乞うほどになりました。

▼私の父は千葉県旭市(旧飯岡町)の生まれ、あの日この町も津波に襲われ父の実家は5M30cmの津波の襲来をうけ、普段から九十九里海岸の波音や波足の激しさは知ってはいたものの津波のその速さに逃げる余裕も無く、実家に住む従兄の長男は「家の中で溺死する寸前だった」と述懐していました。1階は壊滅し町では16名の命が奪われました。今だに東北三県の被害の大きさだけが連日報道されて、有名、無名を問わずボランティアが訪れていましたが千葉県にも同じ様な被害、犠牲者がいたことは数年後「朝日新聞」コラム欄で数回記載されていましたが知る人はあまり居なかったようです。孫は誕生日が来る度に震災の事を周りから語られ、被害に遭った方々から新たな生命を戴いた事に思い馳せ成長してもらいたいものです。

戯言18-2

▼3月10日は77年前に東京大空襲で下町が95%消失し壊滅した日です。私は集団疎開先(山形・かみのやま温泉)でその3日後に先生から知らされました。宿舎の旅館や先生にはかん口令がひかれていたらしく、その3日後に知らされました。その5日前に同宿の6年生6人(男4・女2)が卒業のため帰京していましたが内3名が家族と共に焼死してしまいました。宿泊先で寝起きを共にしていた担当の先生(女性)は自らの家族の住む上野小島町が心配でそそくさと教員を辞職し帰京してしまいました。疎開先に残っていた5年生以下3年生(私も3年生でした)は在京の家族の安否で夜も日も眠れずの1っか月、やっと詳しい情報が私の父からあり、4年生の女の子の家族が一家全滅の事も書いてありました。この人は2年後兵隊に行っていたお兄さんが復員、親類に預けられていた妹を引き取り、もとの実家(私の実家の裏)に戻り再会しました。バラック建物がボチボチ建ちならぶ昭和23年の事でした。

▼私の家内はこの時3歳数か月、大空襲の中、深川高橋(たかばし)から母の背に背負われ義母はリヤカーを引き舅の手をとり人の流れに従ったもののリヤカーの荷に火が付き目の前にあった「防火用水」に投げ込んで逃げたそうです。その時岩崎庭園(現清澄庭園)の門が開き大勢の人がここで一夜を明かしたそうです。義母が家内をおぶっていたその上に「綿入りねんねこ半天」を着ていて、その袖袋に入っていたのがこの写真の「体力手帳・・‥今は母子手帳」です。「体力手帳」とはいかにも戦時中らしい表示です。岩崎庭園で池の水を飲み顔を洗った時に気が付き袖の半分近くが燃えちぎられていたのに気付いたそうです。背中の子に火がつき焼死したのも知らずにいた方が多数いたのも後日知ったものです。幸い家内は火傷一つ受けず現在があります。彼女にとっては記憶にはない唯一の戦争体験の証拠であり、手帳の隅々の焼け焦げは空襲により焼死した方々への鎮魂の思いがこもった大切なものです。家内の父は当時群馬にあった航空機製造会社の下請で部品の設計図の仕事で深川には居ませんでした。義母は11歳の時に関東大震災にも被災し、この時も清澄庭園に避難し難を逃れています。清澄庭園の事を晩年まで「岩崎様のお庭」と言っていました。2度も命を助けて頂いた恩人の「岩崎様」なのです。

⁂写真説明‥‥家内が今も大切に持っている「母子手帖」

‥‥ ‥‥父の実家付近の震災2日後の写真

偶然か?日本の2022年は転換期!! 28期 若月健司 2022年2月投稿

年初にあたり、今年はどんな年になるのだろうかとふと思っていた時に「日本の2022年は転換期になる」という言葉に気を引かれました。理由を整理すると以下の様になるのですが思い当たる部分もあります。「歴史は繰り返す」という言葉もあるようですから日本の今後を見通すうえで少しは参考になるかもしれません。

明治維新が1868年と言われ、太平洋戦争敗戦が1945年です。その間が77年です。それから今年の2022年までがぴったりの77年です。まさに明治以降の77年と敗戦後の77年が一致するのです。そして両期間における歴史的な事象も共通する部分があり、今年以降の将来を考えるにあたり大いに参考になると思います。

明治維新から敗戦までの77年間

敗戦から今年までの77年間

明治

近代国家を目指し富国強兵

昭和中期

敗戦から経済大国へ

大正

大正ロマンを謳歌

昭和後期

経済高度成長 バブルを謳歌

昭和初期

軍備拡張から敗戦へ

平成令和

バブル崩壊経済低迷、国力低下

黒船来航という外的要因による富国強兵の結果、日清・日露戦争に勝利し列強の仲間に入った。それは敗戦という外的要因によって経済大国となったことと共通する。大正ロマンを経験したことは高度成長によるバブルを経験したことにも共通する。昭和初期に入り軍国化が進み敗戦に至った。そしてバブル崩壊のあと平成・令和と経済が低迷しているが、それは軍国化が進んだ昭和初期と重なる。

これまでの日本を考えると外的要因で国家が生まれ変わるという歴史的事実がある。そうであるならば今後どんな外的要因があるだろうか。

①異常なる気候変動~産業革命以降の化石燃料資源使用によるとされる異常なる気候変動で
大災害が発生し、それが大転換になるのだろうか?

②コロナ禍~今後益々コロナ禍の影響が大きくなり社会構造が転換するだろうか?

③核兵器による紛争~現在世界各地で一触即発の紛争が起きているが核兵器が
使用されることは
無いのだろうか?

④世界では民主国家と権威国家に分断されつつあるというが、それが武力衝突に至り
日本が巻き込
まれることはないのだろうか?

国内的要因も考えられる

①日本は現在超金利安だが、今後金利高になった場合、財政赤字への影響は大丈夫だろうか?

②円安がジワリと迫っており、物価高が心配されているが国民の生活は大丈夫だろうか?

③一強多弱の政治情勢の中、チェック機能が働かない結果政策に間違いが発生しないだろうか?

今後30年間に70%の確立で発生すると言われる東京湾北部大地震や戦争などによる「転換期」は望まないが、日本の国力が低迷している現在「何が正しいか、自分で考える」を念頭に置いて行動したいものです。 以上。

14 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(12) 慈雲寺― 29期 仲田元昭 2022年2月投稿

前回ご案内した西福寺より徒歩5分程にある、古刹で創建当時には広大な敷地に七堂伽藍を備えていた慈雲寺をご案内します。

「慈雲寺」

大峰山慈雲寺は、弘安2年(1279)北条時宗の招請で来朝した宋の僧、無学祖元和尚(鎌倉建長寺二世)を開山に迎え、北条時宗により臨済宗の寺院として創建されました。
本尊は釈迦牟尼仏。開山当初は、七堂伽藍の整った大寺であったそうです。
しかし、永禄七年(1564)の里見氏と北条氏との戦いにより伽藍は焼失しました。
その後北条氏政が再興し、天正18年(1572)に、曹洞宗に宗旨替えしています。
戊辰戦争でも本堂を焼失し、現在の本堂は、昭和50年(1975)に再建されました。

「慈雲寺 本堂」

「徳川家臣綿貫元吉の墓」

境内には、戊辰戦争で亡くなった徳川家臣兵士「綿貫元吉」の墓があります。

碑石は150年程経過し損傷が激しいですが、向かって左側に「造立主東京照降町亀屋清兵衛」とありますが、徳川家臣「綿貫元吉」との関係は明らかではありません。

「徳川家臣 渡貫元吉の墓」

「15 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社」に続く 「2022-1-25寄稿」

戯言&独言17 21期 髙野 昇 2022年2月投稿

「るい」とサッチモ
戯言17

▼今の朝ドラ「カムカム・エブリボディー」に少し夢中になっている。ルイアーム・ストロングからとった子の名が「るい」、その結婚相手がトランぺッター、そこでよくつかわれていた台詞や演奏曲の「sunyside of thestreet」とは私の中では結び付かないが、 シングルSP盤にあったかは記憶がない。アームストロング(略称サッチモ)を初めて聞き、SP盤を買ったのがアルゼンチンタンゴの名曲「エル・チョクロ」を今風に彼らしくアレンジしたもので、”KISS OF FIRE”で戦後日本で発売された初のサッチモのレコードがこれだと思う。かなりのレコード売上があったはずで、ラジオからも毎日のように聞こえてきた。あのペギー葉山が「渡辺弘とスターダスターズ」をバックにこの曲でデビュー、「sunysade…」をサッチモが唄い演奏していたとはこの朝ドラで初めて知った。サッチモのペットの音色、左手にもった白いハンカチ、汗を拭う姿、ダミ声と笑い声、あの顔、一度みたら忘れられない。映画「グレン・ミラー物語」[「五つの銅貨」「上流社会」などハリウッド映画にもよく出ていてどれもサッチモそのままの役で出演していたと思う。「上流社会」でのなかで♬ハイソサエティ♬を唄いこれがヒットしていた。他にも♬バラ色の人生やセッシーボン♬などのヒット曲があった。映画「グレンミラー物語」の中でドラムのジーン・クルーパーを交えてのセッション場面は特に素晴らしく、「これぞサッチモだ」を感じた。

▼ある「音楽雑誌‥195?年版」によると少年時代はかなりの悪で発砲事件で少年院に入り、そこで教えられたコルネットが縁で出所後、街のパレードなどで腕を上げプロとなりニューオルリンズで名がひろまり、デキシーランドジャズ全盛のど真ん中で活躍。デキシーランドジャズの代表的な曲は♬聖者の行進・タイガーラグ♬などがある。当時は演奏者が唄うのが当たり前でサッチモもその一人、私のすきなジャック・ティガーデンも渋い声で、LPを持っている。前記「音楽雑誌」によると唄の中で♬ズビズバブー・ダバダバヅ♬と楽器のように唄う事があり”スキャット”と言うが、これはサッチモが歌詞を忘れごまかす為に突然口ずさんだもので、共演が多かったエラ・フイジェラルドが冗談ぽく言っていたと書いてあり、このエラ小母さんと共演したDVDを見ると楽器の部分をテンポが速く全てスキャットで済ます素晴らしい場面もある。日本では由紀さおりの「夜明けの‥‥」があるがテンポが遅くスキャットには程遠い。

▼サッチモと名付けたのもこのエラ小母さんであの大きな口を小さなバッグの口金に見立てたらしい。195?年にGHQ兵士の慰問を兼ねて来日、その合間に浅草国際劇場で3日程公演、それも押し詰まった年の暮れの冬休み中、兄と観に行く予定が「この暮の忙しい時期に…」と親から文句が出てパーとなった。「キング・オブ・ジャズ」と讃えられ世界各地の公演で音楽大使と言われていた。時の大統領アイゼンハワーが人種差別に関心を示さず無反応さに「その心許さず」と公言をしたこともあったらしい。ベトナム戦争の悲惨さと悲しみの全世界に向かい名曲「WhotA Wondfulworld」と共通する願いであったと理解する。”sunyside…”は日本では、”明るい表通りで”と訳され表示されているが朝ドラの主人公とサッチモは”日向を前向きで進む”志を秘めてこの曲を歌い演奏し、ドラマの中で娘に「るい」と命名したのがじんわりとわかってきた。朝ドラの話からサッチモ賛歌になってしまい朝ドラの主人公たちがサッチモと今後どんな心の糸で繋がるのか楽しみである。高齢者ゆえの遠い昔の思い違いなどがあるかも知れずその点はご容赦の程を。

「SDGs」と「人新世と資本論」 28期 若月健司 2022年1月投稿

昨今、SDGsという言葉が国内外で盛んに使われています。私はこの言葉は約5年前から知っておりました。

2017年(平成29年)1月31日(火)朝日新聞朝刊に1頁にわたり「新しいものさしで考えよう」との見出しで掲載され、そこには「2030 SDGsで変える」との文字がありました。SDGsとは国連加盟国が2030年までに取り組む行動計画で2015年(平成27年)の国連総会で全会一致で採択されたのです。「誰も置き去りにしない」を共通の理念に、平等な教育、気候変動への対策など17分野からなります。具体的な目標は169項目に及びます。日本政府も2016年(平成28年)5月に安倍晋三首相を本部長とする「SDGs推進本部」を発足しています。翌年には実施計画を発表しています。

その朝刊の記事には「国谷裕子」さんのコメントがあり、2015年(平成27年)の国連総会での採択以来、この問題に彼女が熱心に取り組んできたかが掲載されています。彼女はNHKの「クローズアップ現代」のキャスターを2016年(平成28年)3月まで23年間務めましたが、その切り口鋭い指摘が災いとなりある筋からの圧力からキャスターを降板せざるを得なかったとも言われています。その彼女が逆境にめげずSDGsに取り組む姿に敬服します。

一方で2021年(令和3年)新書大賞1位に選ばれた「人新世の資本論」(集英社新書)があります。著者は斉藤幸平大阪市立大学大学院準教授です。「気候変動、コロナ禍は文明崩壊の危機。唯一の解決策は潤沢な脱経済成長だ」というのが主張です。~はじめ~の頁から「SDGsは大衆のアヘンである」とあり、レジ袋削減やマイボトル持参などで温暖化対策をしていると思い込んでいるのは現実から逃避していると断じます。化石燃料の使用による産業革命で大量生産大量消費が行われ経済が成長した結果、地球は汚染された。これからは経済成長を基盤とするのでなく脱経済成長を目指す新しい「人新世時代」へ突入すべきという。

日常生活でゴミの分別化、えどがわエコセンターでの子ども達への環境問題の啓蒙活動を行っているが昨今の気候変動に役立っているのだろうかと疑問に思うこともある。間に合わないのではと。ガソリン車の製造禁止や都心への乗り入れ規制、飛行機の便数削減、再生エネルギーへの予算拡大、後進国への思い切った援助、格差の縮小などいろいろ考えられるが抵抗も予想される。3.5%の人々が立ち上がれば社会を大きく変えられるというデータがあるという。それが正しければ私を含め一人ひとりが3.5%に入ることだろうか。 以上。

13 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(11) 西福寺― 29期 仲田元昭 2022年1月投稿

今年も船橋の魅力を発信してまいりますので、宜しくお願いします。これまで東金御成街道の海側の寺町にある寺社をご案内してきましたが、今回から街道の北側にある寺社をご案内します。

「西福寺」

船橋山(せんきょうざん)清浄心院西福寺、真言宗豊山派の寺院で、別名閻魔(えんま)寺とも呼ばれています。創建は鎌倉時代と言われ、門前に江戸時代の庚申塔、念仏講供養塔があります。本尊は阿弥陀如来で、本堂は戊辰戦争で焼け明治39年に再建されました。

「西福寺 本堂」

「五輪塔、宝篋印塔」

境内にある県指定文化財の石造五輪塔(上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪)は、安山岩製の高さ295cm県内で一番大きく、鎌倉を除いては関東地方でも数少ない優れた作品です。その古風さ、優美な姿に特色があり、律宗系の高僧の墓で南北朝時代の製作と推定されています。左の宝篋印塔は、鎌倉時代後期の製作と推定され、全高154cm、中世の宝篋印塔としては大型のもので、原形をよくとどめています。

「五輪塔、宝篋印塔(県指定文化財)」

「14 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(12)慈雲寺」に続く 「2021-12-25寄稿」

戯言&独言16 21期 髙野 昇 2022年1月投稿

戯言タイトル▼正月が過ぎて
戯言16

■コロナやらオミマクロやら慌ただしく過ぎた年末、年始、私は子供の頃からこの年末から年始にかけては嫌いだった。それは家の商売が食料品店のせいである。当時の食品店は御節料理を小商いの店で作り売り,近在の家庭では当たり前にお重を持って買い物に来る。商人(あきんど)としては1年の中の稼ぎ時、稼ぎいれ時でもある。その御節の準備は全てが前もって支度しなければならず、一家総動員、親類の女性まで寝泊まりを伴っての手助けを受け下ごしらえが暮の20日から始まる。ほとんどが手作りの時代、今はスーパーやインターネットで雅でお重も要らない体裁よくできた御節料理を手にする事が出来る時代だ。あの頃はまず店を閉めてから7人家族全員で「昆布巻き」を巻く。あらかじめ戻してある昆布を父が切った寸法の昆布に小幅の昆布に小女子を挟み巻いて干瓢でくくる、それを毎晩一人30本と決められ3日ほど続く。黒豆や田ずくりは当店の自慢の品で石油缶10本ほど作る。その煮炊きの火の番は私の仕事、おが屑を硬く詰め込んだ竈が三基あり父の指示で通風口を調整するのが難しかった。あとは野菜の煮っころがしの野菜切は兄(16期生)の役目で、親類から手伝いに来ていた女性は「なます」の千切り、私は「きんとん」のサツマイモを細かく切る役目を仰せつかっていた。数え上げればキリがない。兄が珠算塾をやっていた頃は教室はすでに冬休みで煮炊きの済んだ品は全て別棟の教室に収容、教室中煮物の匂いがしていた。冷蔵庫が普及していない時代なので押しつまった30・31日にお客が集中、下町は特にその色合いが強い。この暮の2日間は店売りの手伝い、当時は私服等持たないので詰襟の通学服に厚での前掛けをかけて店に出ていた。正月、その”報酬もお年玉”も無く兄の珠算塾を手伝っていたこともあり兄が「父ちゃん、母ちゃんに言うなよ」と小遣いをそっとくれていたのを今も正月になると思い出してしまう。あの暮の手伝いの猛烈な忙しさ、間違えれば父に怒鳴られ、母に怒られそんな思いが執念深く續き、よって未だに正月が好きになれない原因にある。ここ2・3年我が家のお節はインターネットで早めに注文。バラエティーに富み京料理の上品な味が高齢者に合うのか彩どりも良く、京料理の雅(みやび)さが偲ばれ贔屓となった。以外な事に正月に来訪してきた二男家族の孫(男)2名、「美味しい、旨い」と喜んで食べていった。食べ盛りとは言え正月2日で完食され私達夫婦の正月3日目の雑煮の膳には姿なく、心密かに嬉しく家内と笑いあった。

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