会員皆様の投稿記事

~同窓会ホームページ・個人投稿原稿に関するお知らせ~
日頃より三商同窓会ホームページの閲覧・ご投稿ありがとうございます。
理事会において決まりました投稿規程として、近年携帯からスマホへの移行が多くなり
小さなスマホを利用してホームページを閲覧される方が増えておりますので
文章を読みやすいよう一回の記事は<1000文字程度>とさせていただきます。
それ以上の文字数のご投稿の場合は次号に分けて連載になります。ご了承ください。

今村直人校長先生の思い出                       19期 細田安治    2024年3月投稿

木鐸会 生き残り
細田安治

◇三商100周年まであと4
我が母校三商も令和10年(2008年)に100周年を迎える。
筆者の属する19期琴冨貴会(木鐸会の延長)は92歳から89歳まで3年の差があるものが集まっている。戦後の混乱期で、入学遅れなどが出たため変則的なになっている。当時の今村直人校長が、戦後の混乱期に「三商で勉強しようと入学を希望していたものは可能な限り入学させよう」と温かいお気持ちにより入学することが出来た、その為「同学年年齢差3年開き」という変則な学年が出来てしまったが今思うと、今村校長の「教育は国民が平等に受けることが出来る権利」との信念に基づいてなされたものである。今村校長の信念のお陰様でいまの我々19期会が存在している。と思う次第である。このことは19期会の会合で年齢の話、入学時の話が出るたびに話題になっている。そこで、偉人今村直人先生の信念をご紹介したい。写真-1三商の玄関にある今村直人校長先生の胸像

◇同窓会報第5919期特集号より
2021年に同窓会報第59号「19期特集号」を、三商会、同窓会ほか皆様のご指導、ご好意により発行することが出来ました。19期会一同心より感謝申し上げる次第でございます。有難うございました。お陰様で、母校三商を中心とした19期同窓生の「きずな」を益々強めることが出来ました。さて、今村校長の話に戻れば、第59号の10ページに大関守のとっておき話をからお人柄に触れてみたい。。

 ◇大関守のとっておき話 (原文の通り)
自分の受験番号はいまでもはっきり覚えている。何故かと言えば、三商に入学願書を出して、正面玄関から生徒通門途中の塀側を歩いていたら、(当時、2月中旬の午後)、後ろから声をかけられた。「君は三商を受験したのか」それで「君の受験番号は何番」と聞かれた。いったいこの人はどんな人か?なぜ聞くのか?と不思議に思ったが、聞かれるままに私の受験番号は「245番」です。と答えた。「245番か、随分遅い番号だな。だが心配ない。全員合格できる」と言われた。この人は一体誰だろう。何故受験番号を聞き、全員合格、等と言われたのかと不思議だった。実はこの人は三商の校長今村直人先生で、荻窪の自宅へ帰宅の途中、たまたま声をかけてくれたのではないか。びっくりしたが、このことだけでも、今村直人先生は温情溢れる立派な人物であったのではないか。この一言で願書受付番号は245番とはっきり記憶した。尚19期中学の入学人数は一組50人で6クラス300人ぐらいだった。

◇今村直人校長先生の受験生に対する強い思い
誰でも知っている有名な話だが、今村先生への感謝の気持ちを込めてここに書きます。戦後の混乱期に三商を希望するのは優秀な子供達だろう。「よくぞ、三商を選んでくれた。全員合格させよう」。このことは、今村校長独自の強い思いであった。このような立派な校長がいる三商へ入学し、勉強できたことが幸せだった。写真-2大関 守経営の蕎麦店・大関庵で第一回19期会 白い板前姿は大関守

◇以上が大関守君の今村校長先生への想いである。19期生が90歳を超え91歳となった。今年の三商の卒業生も91期と聞いた。何と表現したらよいか「数字が逆転する誠に珍しい現象」「それだけ長生き出来た」という事か。いずれにしてもこんな嬉しいことはない。19世の実感である。それもこれも、三商で学び今村校長先生を始め諸先生方、同窓会のご指導、そして19期の旧友たちが、お互いに励まし合い切磋琢磨したことのお陰様と心得ている。級友もにとこの調子を続け、まず三商100年を多数の出席で祝い、更に100歳を超えるまで健康で元気で頑張れると確信した次第でございます。19期一同深い感謝の念をささげてこの稿を閉じる。完

戯言&独言41                                          21期 髙野 昇        2024年3月投稿

政治 乱れっぱなしの昨今の政府、与党、裏金の有無を問われ「しらなかった、存じなっかた」とだれもが共通の答えで逃げる。一般国民であれば当然脱税に等しい金銭の流れに税務署は厳しい重税を課すのに国会議員には優しい。パー券(1件20000円)の売り過ぎた分はその会派や議員にキックバック、それが裏金だとおもうが当事者達はその場逃れの返答ばかり。時間ばかりが流れ有耶無耶にする気配が首相の答弁に見え隠れしている。与党議員は立法はどうでもよい、その前に金儲けの出納帳を議会場の机に置いているのか。最初の大元締め森元総理の証人喚問に国民として僅かな期待と野党の厳しい追求を期待したい。場逃れの返答ばかり。時間ばかりが流れ有耶無耶にする気配が首相の答弁に見え隠れしている。与党議員は立法はどうでもよい、その前に金儲けの出納帳を議会場の机に置いているのか。最初の大元締め森元総理の証人喚問に国民として僅かな期待と野党の厳しい追求を期待したい。

快い若者 のドジャーズ大谷選手の奥さんが突然にPC上にあらわれビックリし.た。何とも言えぬ清々しさ、明朗さ、普通の人らしさ、いかにも大谷選手が選んだそれらしい美人。スッピンであの綺麗さは私生活でも変わらぬ筈。そのままで生涯添い遂げて欲しい。記者の「入籍は何時でしたか」のバカな質問に〖言う必要があるんですか」の返事も素晴らしいく、大きなお世話そのもの。大谷夫妻に幸多かれ。通訳の水原一平さんご夫婦もきれいきれい。

大相撲 これが読まれる頃は大阪場所がおわっているか。横綱、大関の活力無しはまず照ノ富士の引退もありかも、あの両足の膝のサポーターも以前からかなり厳重で中に板状なものが入っているらしい。今場所は特に腰に力が無く低く押されてしまうと反撃ができずに寄り切られしまっている。それでも関脇陣、前頭上位の面々の奮闘、活躍は素晴しい。阿炎、熱海冨士、大の里、宇良、若元春など期待度は高い。大関貴景勝の土俵を下がる際の一礼はけしからん。首が痛いといっているが一礼は首でするのではなく腰を何度かに前に倒してするのが礼儀、豊真将(錣山部屋)の端麗で礼儀ただしさが懐かしい。若元春の兄、十両の若隆景の復帰を目指す奮闘に目が離せない。この二人の祖父はかっての立浪部屋の若葉山、足取りの名人と言われていた。歴代最多の優勝回数を誇った宮城野部屋親方元白鵬、部屋内暴力事件をめぐり「師匠としての素質、自覚が大きく欠けている」として協会は懲戒処分を発した。どこの企業、組織はかなり以前からコンプライス遵守、スポーツ界等では今もプロ・高校野球その他の事件が起こればスポーツ紙の見出しを賑わせる。今回の事件では暴力力士北青鵬を高卒で取得するには多分な労力と金銭を使い入門させたの協会内の噂もあるようだ。力士の数年後に期待し「金の成る木」との判断で全ての行動を把握しながら目をつむっていたのだろうか。理事を狙っていた親方は2階級降下、部屋の閉鎖も考えられる。

悩ましい”樽俎折衝そんそせっしょう)” 28期 若月健司    2024年3月投稿 

令和6年3月
28期 若月健司

悩ましい樽俎(そんそ)折衝(せっしょう)

現在、「三国志」第6巻(著者:宮城谷昌光 発行:文藝春秋)を読んでいますが、その特別付録の中に「樽俎折衝」という言葉があります。出典は中国春秋時代の斉の「晏子春秋」からとのことです。説明として「樽は酒だるで、俎はまないたである。外国の使者と酒を飲み、料理を食べている場から出ないで、外国と交渉して国際紛争をおさめてしまう外交の名手とは、春秋時代の斉の晏子のことである」とあります。即ち、軍事的衝突を避けて、国威をしめす外交交渉のことを樽俎折衝というのです。

中国春秋時代といえば皇帝のガバナンスがきかず、群雄割拠の結果各地で軍事紛争が起き戦乱の世となったのです。そのような軍事紛争の中で「樽俎折衝」を行う人物が尊ばれて歴史に残ったのでしょう。

その後、人類は第一次世界大戦・第二次世界大戦などを経て紛争はあるものの国連中心に一定の小康を保ってきたと思います。日本は日米安保条約の故か、曲がりながらも78年余平和を保って来ました。ところが昨今、台湾問題・北朝鮮のミサイル・ウクライナ紛争などの影響か軍事予算の増額が為されています。外交交渉には軍事力が必要という評論家もいます。その場合、各国が軍拡競争に走るでしょう。

国民に軍事費調達のための増税・徴兵制度承認などへの覚悟はあるでしょうか?しかし、現実の情勢は厳しく「樽俎折衝」は空想論と言われそうですが晏子のような人物はいないのでしょうか?

「三国志」第6巻はいよいよ三国に収れんする段階です。中原を支配して皇室を擁する曹操・南東方面を支配する孫権・西方面を支配する劉表を破る劉備に固まりそうです。「三顧の礼」で有名な劉備と諸葛亮孔明の結びつきが丁度始まったのです。これから佳境に入ります。 以上。

40 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(11)伝統文化(4)―水神祭―
 29期 仲田元昭   2024年3月投稿

三商で育てられ、三商を育てる <後編>47期評議員・三商教諭加藤 美喜雄    2024年3月投稿

配属先は三商に、でも…
1985年3月に採用先が三商に決まりました。しかし三商は三商でも定時制課程、在職した8年間は授業が始まる17時台に、定時制職員室の窓から下校する全日制の生徒の後姿を、毎日指を咥えて見ていました。

定時制では、かけ算九九がまともに言えない者、足し引き算を指で計算しようとする者、そんな生徒の相手もしなければならず、自分が描いていた珠算の指導とは大違いでした。それでも、生徒の中には上級取得者も少なからずおり、定時制の珠算全国大会では、団体・個人で入賞するなど、何とか結果を残すことができました。今にして思えば、私と一緒に着任された校長:谷幸夫先生が珠算界の重鎮であり、珠算教育のよき理解者であったことがとても大きかったです。

三商定時制では2年目に1学年担任となり、4年後に卒業生を出した後に全日制の学校に異動するはずでした。しかし、4年生の卒業を間近にしていた1990年1月、三商の先輩で在学時の恩師・同僚でもあった渡辺勝彦先生の逝去により珠算指導者が私一人となり、全日制への異動は立ち消え、全日制に異動できたのは、3年後の1993年4月でした。

全日制過程に異動、珠算部の顧問として全国大会出場を目指す
1993年に四谷商(現稔ヶ丘)に着任、一商・五商・芝商・荒川商(現小台橋)・四商と渡り歩きました。都立の商業科は世界が狭く『加藤=珠算』という構図が出来上がっていたようで、勤務した全ての学校で珠算部顧問を任されました。なかには珠算特別推薦枠を設け『全国大会出場』を目標に掲げていた学校もあり、正顧問なら最低でも「全商が主催する全国高等学校珠算競技大会東京都予選で上位入賞し、全国大会出場権を取らなければならない。」という宿命を背負わされ、ものすごいプレッシャーを感じた事もありましたが、上位段位取得者をはじめとする優秀な部員たちに恵まれたおかげで、四谷商・一商・五商・芝商では全国大会出場を果たし、個人での入賞者を出すこともできました。平成初期までは珠算の全盛期で珠算中心の指導を行ってきましたが、「近い将来に商業計算が珠算から電卓に移行する。」これが21世紀に入ると年ごとに現実味を帯びるようになっていきました。そして、商業科の必修科目から『珠算』が消滅し、私にとって新たな選択を迫られることになるなど、当時はまったく予想していませんでした。

珠算から電卓・PC主流の時代へ、日商簿記1級にチャレンジ
やがて、時代は昭和から平成へ、計算用具も電卓・PCが主流となり、珠算を指導する機会は徐々になくなっていきました。それでも、三商定時制に在職中に、全日制の商業科の先生から「加藤さん、1991年4月に会計科ができるんだよ。うち以外でも会計科を置く学校が出てくるから、定時制に勤務している間に日商簿記1級(2級は大学時代に取得済み)を勉強しておいた方がいいよ。あなたはこれからの人だし、チャレンジしてみてはどうだい。」とのアドバイスを受け、3年6か月、7回目の受験で日商簿記1級に合格しました。税理士を目指すわけでもないのに「こんな勉強をする必要があるのか?」と思いながら始めた日商簿記1級の勉強でしたが、実際に合格してみると満足感でいっぱいでした。

残念ながら学科改変により『ビジネス科』に統一されたことで、日商簿記1級を指導する機会はほとんどありませんが、「日商簿記1級を取得したい。」とアドバイスを受けに来る生徒がおり、私の実体験により日商簿記検定1級がどれほど難関な資格試験かを話すことができ、合格までに費やした時間は無駄ではなかったと、今でもそう思っております。

母校三商に着任、今やろうとしていること
2022年4月、ついに母校三商全日制に着任となりました。三商全日制の一員となるのは在学時以来、実に42年ぶりのことです。校舎(1983年の教育実習時はすでに現校舎)・制服・学校周辺の街並み(特に豊洲)など、私が在学した当時と比べると大きな変化を遂げており、昔と変わっていないのは校章と校歌ぐらいでしょうか。

私が生徒として過ごした3年間は充実した毎日で、体育祭・三商祭とも活気に満ち溢れていました。特に三商祭のフィナーレを飾る応援団の演舞と応援歌の大合唱は、青春の1ページとして今も記憶に残っています。今三商にいて寂しいと感じるのは、応援団が存在しておらず、ほとんどの生徒・教職員が応援歌を知らないという事実です。

昨年の三商祭では、私自らリーダーとなり、1日限りの応援団復活で3年生2人を従えてのステージ公演を行なったところ概ね好評で、「応援団員をやりたい」という生徒も現れており、次年度も継続して応援団の演舞を行う確約が取れました。体育祭・三商祭では、昨年を上回るスケールで応援団の演舞を披露したいと考えております。

おわりに
私がこの先三商に何年いられるかわかりませんが、三商在職中は生徒全員が立派な大人として社会に貢献できるよう、教科・生活面で指導するなど学校運営はもちろん、100周年に向けた完全なる応援団の復活と全校生徒による校歌・応援歌の大合唱を実現できるよう努力してまいります。

同窓生のみなさま、よろしくご協力・ご声援のほどお願い申し上げます。

2024年2月吉日
都立三商同窓会第47期評議員
加藤 美喜雄(都立三商全日制教諭)

松坂大輔トークショー                       19期 細田安治    2024年2月投稿

20240205
木鐸会 生き残り
細田安治

松坂大輔トークショー

松坂大輔

平成の怪物「松坂大輔」のトークショーが新木場木材会館だーホールで開催された。写真-1松坂大輔

松坂大輔

◇野球との出会い
小学3年生で江東区のリトルリーグ東陽フェニックスに入団初日、代打ホームランで首位を驚かせた。

◇中学時代
東陽中学校3年の時に全日本代表に選ばれた。チームメートに誘われ横浜高校への進学を決める。

◇横浜高校時代、試合が楽しい
「練習量が多く試合の日は「(らく)」横浜高校で試合は楽しい、「だから野球が好きだ」を教えられた。

◇サボリの松
「試合が楽しい」練習嫌い」猛練習が基本にあり、試合は「楽できる」彼なりの表現ではないだろうか。
・練習が第一
野球選手にとって野球選手に限らずすべてのスポーツ選手にとって「練習が最も大事な基本」である。

◇試合が好き、野球が好き

◇サボ松奮起3年生時に球速150 km/h超を記録は甲子園で初めて平成の怪物」注目される。

◇歴史に残る名勝負

3年のとき、1998第70高等学校野球大会春の選抜では他校を寄せ付けず優勝する。

第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝でPL学園高校との対戦は歴史に残る名勝負だった。9回まで55で延長戦に入り11661797PL学園を下した。松坂はに延長17長丁場の試合250球を投げ完投勝利した。

・準決勝で四国の名門明徳義塾と対戦8回まで62とリードされていたが8回裏2点を取り、64、と差を縮め9回表松坂登板で横浜高校選手の闘志に火が付き9回裏逆転し76劇的な勝利をもぎ取った。

・決勝の京都成章戦で松坂登板なんとノーヒットノーランで抑え優勝。念願の春夏連覇を達成。

1997年秋季県大会ブロック予選からかながわ・ゆめ国体決勝までの公式戦44連勝を記録した。

◇松坂のマネジメント

渡辺元智監督と野球部長の小倉清一郎氏である。教わり大切にしている言葉。「目標がその日を支配する」。小さな目標で満足すればそこまでだ。目標は大きく持て、そして、その日の目標を言葉に出せ、言葉が決意となる。言葉に出すことが目標に近づくことだ。言葉を大切にせよ

◇プロでメジャーでの活躍

西武での八年間10860敗奪三振1556と驚異的な成績をあげ、メジャーレッドソックスに入団したレッドソックスの65037敗、メッツの2年間66敗合計5643敗、メジャー通算5643敗、奪三振609の好成績であった。日米通算の成績は170108敗奪三振2130防御率3.53の好成績である。WORLD BASEBALL CLASSICでは。60敗防御率1.95 2006年、2009年のMVPに輝く。

・自信が確信形がむしゃらに突き進んだ。1999年西武に入団プロ入りした。プロ1年目、プロでやっていけると、確信した場面は忘れられない。片岡選手とイチロー選手を速球で三振に討ち取った。この時からプロでやっていける自信が確信になった。「よし行けるところまで行くぞ」がむしゃらに突っ走った

◇野球を楽しむ試合で投げることが楽しい。

◇プロ1年目のキャンプ、かならずローテーション入りを果たす。と決意通り16勝とゴールデングローブ賞を。2年目14勝、3年目15勝で沢村賞を。自分は、「勝ちに拘り最後まで投げ切る」。先発完投型で最後まで責任を持ってやりぬくことだが、その通りやりぬいた。

◇メジャーレッドソックスで15勝、18勝、WBC優勝

データで教えられた。日本とメジャーの違いは、データ重視、日本は監督コーチが細かく指導をするが、レッドソックスはデーター重視GMの指示通りに動く、データ重視の為、従わざるを得ない。必ず勝つ投手として、2006年決勝戦に勝ち投手になった。ところが、アテネで「肝心なところで勝てない投手」のレッテルを張られてしまったが、レッテルを張られて気が付いた。そうだ、ここで「落ち込まず、ふてくされず、ワクワクしろ。楽しめ、嬉しがれば結果はついて来る」を実行した。楽しんで投げ、次のオリンピック雪辱を果たした。プレッシャー対策は兎に角緊張せずワクワクしながら楽しむことだ。

猛練習が試合を楽しくする。

日々厳しい練習、横浜高校練習量が多いのは、試合の方が楽、休める。ずっと試合をやっていてほしい。だから試合が楽しい。なるほどこれか、解った。高校時代の経験させて貰ったことが、オリンピックで負けた時でも、次で取り戻せる。2015.16年コールされ声援があった。予想していたことが起きた。小学校時代も国際試合も同じことだ。ここで抑えればコールされる。カッコいい。この例はイチロー選手にも当てはまる。イチローもWBCの決勝戦で一打逆転のチャンスに登場し見事逆転打を放った、試合後のインタビューで言葉は、松坂大輔と全く同じ、「今ここで自分が打てば球場の人、テレビを視ている世界中の人から喝さいを浴びる。こんなうれしい事はない。絶対打つ」と思ってワクワクしながら打席に入り、見事打つことが出来喝さいを浴びた。こんなうれしい事はない。ワクワク楽しく打席に入ったからだ。この言葉と、松坂の言葉は全く一緒である。

◇今後の抱負は小学校時代に辰巳に野球場建設計画があったが、高素行道路の建設で取りやめになった。子供たちのために野球場を作りたい。

このトークショーは112日主催東京木場製材協同組合・共催東京木材問屋協同組合、東京原木協同組合によるものだ。松坂大輔は江東区出身、中学時代から名を上げ、横浜高校で球史に残る大活躍、鳴り物入りでプロ野球西武で大活躍、更にメジャーでも記録を残し平成の怪物とも称された。地元江東区の誇りとして区民から親しまれている。筆者は地元でありながら松坂と生で接する機会もなかったが、組合の企画により松坂の生の声に接することが出来た。組合の企画に感謝しつつこの筆をおく。完

戯言&独言40                                          21期 髙野 昇        2024年2月投稿

タイトル2 子供の頃のオールデイズ

▼星のながれに・・菊池章子ー小学生から中学生の頃にベーゴマがものすごく流行っていました。バケツの上に畳の切れはしか防水シート引きトントンと床たたいて、「せーの」で4人位で一斉に床にベーゴマを投入、そんな時なんとなんとなく口ずさんでいたのがこの曲、当時は”こんな女に誰がした”と言う曲名だったのが何時のまにか”星の流れに”に「変わっていた。後日談で知った事だが反米感情に気をもむGHQが曲名の変更を求めたとか。子供が唄う歌ではないが敗戦への思いと怒り、やるせない気持ちを娼婦として生きるしかない悲しみを切々と菊池章子が唄いあげていた。悲しいオールデイズです。♬飢えて今頃妹はどこに…一目会いたいお母さん…♬ 今の朝ドラ「ブギウギ」の中で”楽町のおミネ”として出てきた有楽町界隈の進駐軍相手の夜の女、実存だった「楽町のお時、ガード下のお時」さんがモデルなのがすぐにわかった。笠置シズ子の応援団であったのは当時の東京新聞{夕刊専門紙)で知っていた。

菅原都々子の歌…・彼女独特の声と哀愁漂うビブラート、今だ現役でTVで拝見できる高齢者でありながら、あの声でエレジー歌を唄わせたら実感そのまま。なんと言っても♫月がとっても青いから…・が大ヒット。田端義夫の前座から大出世となった。ひと時古賀政男の養女になっていたがレコード会社の関係で別れ♬連絡船の唄、江の島エレジー、月がとっても青いから…・など、あの哀愁漂う独特のビブラート、ちなみにNHKの紅白の第1回の放送(ラジオのみ)のTOPバッターだったそうです

岡晴夫…・通称〟”おかっぱる”で我々の年代では♬あこがれのハワイ航路だがわたしのオールデイズは♬会いたかったぜ。‥‥親友の作曲家上原げんと3年ぶりに同じレコード会社になった時の記念曲。

こんな経験は誰にでもあるはずで歌詞では故郷を離れて3年、心の友と再会と共に♬男同士で酒酌みかわす 街の場末の縄暖簾…・哀切と郷愁のメロディーは心を揺する。岡晴夫もこの歌の時はマドロスのではなく♬ァー東京の花売り娘…・雰囲気もなく良い歌謡曲だった。カラオケに友人と行くと必ず誰かが唄い出す曲です。

高峰秀子の銀座カンカン娘…・この映画も見たし服部良一のジャズナイズされたメロディーは生活が豊かでなかったこの時代、心だけを豊にしてくれた楽しい曲だった。映画ではデコちゃんはじめ灰田勝彦、笠置シズ子、岸井明、落語家の志ん生などでていた・歌詞の中でひとつグラスにストローが二本…・ここがいいですね。

最近の私の読書 28期 若月健司    2024年2月投稿 

令和6年2月
28期 若月健司

~最近の私の読書~

傘寿を超えて第三の人生(自由気まま)に入った最近の私の読書はまさに自由気ままです。読む時間もジャンルも場所も気の赴くままに読み始めます。従って一冊を読み終わらないうちに別の本を読み始めます。現在の読みかけ中の本は四冊です。

*「太陽を曳く馬」上巻~著者:高村薫 発行所:(株)新潮社 発行日:2009年7月25日 402頁
・合田雄一郎刑事が主人公の殺人事件の物語 「人はなぜ描き、なぜ殺すのか」を根底に、宗教・狂気・裁判・警察についてが描かれる。まだ上巻の三分の二ほどしか読んでいないが高村薫特有の粘っこい描き方に引き込まれる一方、そのしつこさ?に読んでいるとくたびれる。
・読む場所は私の部屋の机上です。この本は我が家の本棚の中からたまたま取り出したのがきっかけです。

*「葛西一族」~著者:河北新報社編集局 発行所:河北新報社 発行日:平成3年3月25日 217頁
・源頼朝の挙兵に味方した葛西清重がその功績により奥羽の北上川周辺(宮城県北部・岩手県南部)を治めることとなる。しかし、400年に渡って支配してきた葛西一族は豊臣秀吉の奥羽仕置きにより滅びた。この本は400年間の葛西一族の盛衰を細かく描いている。現在はその葛西一族内の自滅的な争い部分を読みかけ中である。葛西一族が支配したのが400年、滅んでから現在までがほぼ400年ということがきっかけで当地の郷土史家などの努力で発行したようです。
・私の住む江戸川区の歴史上の支配者として葛西清重の名前が必ず出て来ます。その話をある友人にしたところ「葛西一族」という本を持っていると言って貸してくれたのです。彼は某社の仙台支店に転勤となりこの本を手に入れたのです。借りた本ですからいずれ返さねばなりません。近所の図書館で調べたところ江戸川区の図書館には置いていない本です。
・読む場所は私の机上で「太陽を曳く馬」と交互に読んでいます。

*「三国志」第5巻~著者:宮城谷昌光 発行所:(株)文藝春秋 発行日:平成18年9月30日 354頁
・昨年12月のメルマガ「四知と裏金騒動」いう投稿文の中で「三国志読本」という本を読みかけ中ということでしたが、完読したところで宮城谷昌光氏の「三国志」を読みたくなりました。三国志というと魏(曹操)・蜀(劉備)・呉(孫権)の三国で蜀が中心となっている、いわゆる「三国志演義」の世界ですが、宮城谷昌光の「三国志」は後漢末期から始まり曹操が中心で動いています。現在は第5巻を読みかけ中ですが、宦官の三代目に当たる曹操がようやく檜舞台に登場する段階です。全12巻ですから先は長いのでじっくりと楽しみたいと思っています。登場人物が多く、地名も中国なので覚えにくく使われている漢字も難しく苦労します。
・読む場所は居間です。食事後とかちょっとの時間空きの時に読みます。図書館からの借入期間が二週間程ですので少々追いかけられる気分で読んでいます。

*「日本の先史時代」~著者:藤尾慎一郎 発行所:中央公論新社 発行日:2021年8月25日 299頁
・副題として「旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読み直す」ということですが、最初の頁の「時代とは何か」の言葉に惹かれ購入しました。一口に何々時代と言いますがその根拠も中身は複雑です。まだ第1章「土器の定着、人々の定住」ですが、根気よく読むつもりです。
・外出時のショルダーバック内に入れて電車の中や待ち時間中に読んでいます。

晴耕雨読の境地に入りたいと思いますが、目先の雑事に追われ本を読む時間が過ぎ去って行くようです。

以上。

39 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(10)伝統文化(3)―大仏追善供養―
 29期 仲田元昭   2024年2月投稿

三商で育てられ、三商を育てる <前編>47期評議員・三商教諭加藤 美喜雄    2024年2月投稿

三商との出会い
中学3年生当時の私は、多摩地区の吉祥寺(東京都武蔵野市)に在住していました。
もともと高卒で就職を考えていたので、高校は都立で普通科よりも在学中に資格を取得できる商業科志望だったのですが、一次入試で受験した学校が不合格となり、二次募集で人数枠が多く交通の便が良い三商を受験し合格、晴れて三商生の一員となりました。

(吉祥寺からJR中央緩行線・東京地下鉄東西線直通電車で門前仲町まで約40分)

三商に入学するまで下町には全く無縁だったので、先生や同級生からは「近くに五商や桜水商(現杉並総合)があるのに、なんでわざわざ三商に来たんだ?」と不思議に思われることが多かったです。『多摩っ子』の私にとって、三商というより下町の雰囲気に慣れていなかったため、入学後の3か月間はとても苦労しました。地方から上京して下町の相撲部屋に入門するお相撲さんの心境とはこういうものでしょうか。ただ、幸いなことに、1・2年時担任の大貫一博先生がかつて武蔵境(吉祥寺と同じ武蔵野市)に居住していて多摩地区の土地勘が詳しかったことと、同じクラスで仲の良い友人に出会えたことで、無事に三商を卒業することができましたが、三商で過ごした3年間は紆余曲折の連続でした。
※その後、大貫先生は1979年3月で東京都を退職、郷里の栃木県に戻り同年4月から商業科の教員に着任されました。私が東京都教員になってからも、公私にわたり何度かお会いしております。最後は校長まで上り詰めたそうです。

未経験の珠算でつまずく
私が三商に在学していた当時は、どこの商業高校にも1年の必修科目に『計算実務』(のち『計算事務』)という珠算を学ぶ科目が置かれていました。珠算の経験は小学生の頃に算数の授業で少し習った程度で、ほとんど素人同然のレベルでした。そんな調子でしたから、1年生の1学期中間考査の計算実務の答案は赤点すれすれ、その答案を親に見つかり、7月から半ば強制的に地元:吉祥寺の珠算塾に通うことになりました。
珠算塾ではほとんどが小中学生、一人の小学3年生男子から「お兄さん5級なの? 僕は3級だよ。」と散々馬鹿にされる始末、「このまま馬鹿にされっぱなしでいられるか。」と発奮し、入塾3か月後の10月に日商珠算検定3級を1回で合格、ここから私の人生は大きく変わることになりました。

※三商の先輩でもある岩瀬源先生・渡辺勝彦先生・柘植章宣先生にはたいへんお世話になりました。

珠算に目覚め大学に進学、心は珠算の指導者へ
珠算を本格的に始めてわずか3か月後に3級を取得、これがきっかけで1年生では中より下の成績が2年生になると上位に顔を出し、珠算には一層磨きがかかり三商在学中に日商珠算検定2級を取得、珠算に並行して簿記への関心も高まり、上級学校で会計の専門的知識を学び、珠算の指導者になりたいということになり、三商の商業科の先生から「大学に進学して教職課程を受講し、高校商業の教員免許を取得、東京都教員採用試験に合格したら珠算の指導者になれるぞ。」というアドバイスを受け、高卒の進路も就職から大学進学に路線変更、大学進学に反対だった親には「大卒でなければなれない進路を目指す。」「大卒後に就職したら、学費にかかったお金を10倍にして返す(実行しました)。」という約束で何とか説得させ、教員養成に実績があると聞かされていた拓殖大学(拓大)商学部に入学しました。
大学入学後も珠算は継続し大学2年で日商珠算検定1級に合格、自分では珠算はもう充分と思いましたが、「1級で終わりにしないで段位を目指してみろ。」との周囲からの後押しで、とりあえず初段までは目指そうと継続することにしました。

拓大を卒業後、1年間の就職浪人を経て、1985年度の東京都教員採用試験に合格、2月には日本珠算連盟段位認定試験珠算初段を取得、あとは採用先を待つだけでした。

※その後、珠算は4段まで、暗算は3段まで昇段しております。

2024年2月吉日
都立三商同窓会第47期評議員
加藤 美喜雄(都立三商全日制教諭)

戯言&独言39                                          21期 髙野 昇        2024年1月投稿

タイトル2 映画の中で奏でられたオールデイズ
戯言39

「荒野の決闘」でのヘンリー・フォンダと「わが愛しのクレメンタイン」、♬「オーマイダーリン…‥」、愛する人に思いが告げられない保安官ワイアット・アープのH・フォンダの演技とこの曲のテンポ、西部劇ではなく西部詩劇であってラストシーンの別れのシーンはこの曲にあわせたのか、この曲があってのラストシーンだったのかH・フォンダの素朴な演技とピッタリな名曲と思う。

「シェーン」のなかでBGM的に流れていたあの曲、アラン・ラッドの寡黙で冷静な役どころはかっては”大根”と言われていた俳優とは思えない。背景のワイオミングの山並みが開拓者を応援するかのごときこの緩やかでダイナミックなメロディーはビクター・ヤングらしいいつまでも記憶に残るオールデイズ。映画の邦題とレコードの曲名「遥かなる山の呼び声」も映画とレコードにピッタリ・ラストシーンで「カンバックシェーン…・グッバイシェーン」の声が山並みにこだまして主題曲が静かに流れ印象に残る。

他にも「鉄道員」、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」等…・日本映画では映画の内容と曲が有名になっていない。あえて私的に言わせてもらえれば原節子の「青い山脈」で彼女がスクリーンの表れるとながれていた「恋のアマリリス」だろうか。過去投稿したした分と重なる部分がありご容赦を。

戯言39-2

「ピクニック」という映画でウイリアム・ホールデンとキム・ノバグが主演して、流れ者の男と地元の娘の恋物語だったか。ストーリーは全くおぼえがない。街中でのパーティーでこの二人が踊る場面で流れていたのが「ムーングロー」というスローテンポのフォックストロット、ウッドベースの響きがやたらに印象的で、その後シングル盤のレコードも販売された。評論家の淀川長治さんも「これはホンモノのJAZZ、素晴らしい」とTVの中で言っていた。10年ほど前、あるJAZZ喫茶でリクエストしてみたがセクステッドのメンバー誰一人知っていなかった。プロが知らずとも私にとってはあのダンスの画面と曲のマッチング、いまも思い出す。

「第三の男」私が一押しの外国映画のNO1、アントン・カラスのツイターだけで最初からラストシーンまで流れ忘れられない名曲で、軍艦マーチ一色のパチンコ屋まで店内でながしていた事は以前この欄でかいたことがある。オーソン・ウェルズが暗闇からドアップで薄笑いを浮かべてスクリーンに現れる瞬間のツィターの強い調べ、ラストシーンの超ロングカットでの静かに流れていたのが同じ曲とは思えない演出と曲の遣い方に感動を覚えた作品と名曲であった。

~古典に学ぶ~「風姿花伝を通読する講座」を終えて 28期 若月健司    2024年1月投稿 

令和6年1 28期 若月健司

~古典に学ぶ~
「風姿花伝を通読する講座」を終えて

コロナ禍で外出自粛ニュースが流れていた令和3年(2021年)3月に私の所属する「NPO法人新現役ネット」で~古典を学ぶ~という講座の募集があり、運動不足の解消がてら申し込みました。月に1回の開催で受講料は準会員の私は1回あたり1500円です。場所はJR田町駅近くの同法人の事務局会議室です。時間は午前10時30分から12時までの90分です。講師は水野聡先生(古典翻訳家・能文社代表)。参加者数の平均はリアルが5名程度(男性2名女性3名)オンラインも5名程度(男性2名女性3名)で全てが高齢者です。

初回は4月6日(火)に始まり、テーマは「武士道の聖典”葉隠”を読む」でした。第2回のテーマは「はじめて見る能狂言」でした。第3回のテーマは「茶道・千利休 侘茶の世界」でした。そしてコロナ禍の休会を挟んでいよいよ9月21日(火)からテーマ「風姿花伝を通読する」の第1回がスタートしました。教本は各自が事前に用意した岩波文庫の「風姿花伝」(世阿弥著 野上豊一郎・西尾実校訂 昭和33年第1刷発行)です。因みに私が購入したのは第88刷発行で520円でした。「序」の部分から始まり小節ごとに講師の指名により1人が声を出して読み上げて終わると講師の解説が始まるのです。途中での質疑応答もあり、終了10分前に全体的な質疑応答時間も設けられました。以降、3回毎に区切りをつけて講座参加の意志確認が行われました。当初、この講座がいつまで続くのか不安もありましたが、「風姿花伝を通読する講座」が終了したのが令和5年11月21日(火)でした。1月や8月の休会を除いて通算24回開催されました。私は真面目に出席して皆勤賞でした。最終回に残ったのはリアルでは男性1名(私)と女性2名、オンラインは男性2名と女性2名でした。

*受講して印象に残ったこと
・「風姿花伝」とは室町時代の世阿弥が亡父観阿弥の遺訓を基に著した日本最古の能楽理論書であること。
・「風姿花伝」は一子相伝の秘伝書ゆえ観世家に深く秘蔵されていたが明治末に吉田東吾博士が「世阿弥十六部集」として発刊、昭和2年岩波文庫版「花伝書」が上梓されたことによりひろく一般読者の知ることとなった。
・「花」と「幽玄」が根本と言われるが言葉で表現するのが難しい。
・室町時代から今日まで日本の芸能として存在している理由も分かっているようで分からない。
・古典芸能に留まらず、美・芸術・人生についての示唆が言葉で綴られている。
・面をつけるより直面(ひためん)で演ずるのが難しい。

~強さとハリ 男女を超えて~ 能楽シテ方観世流 鵜澤光
・能は老若男女をそれらしく演じるのではなく、性をも取り払った所に存在する。
・能の声は高低ではなく強くハリのある声が必要である。声と息を離すこと。
・能は男性の体によって形作られたが女性の能役者はいる。しかし男女の区別はない。
・能の詞章を「謡」というが「歌」ではない。はじめに言葉があり情景描写や感情の抑揚が強くなって、やがて「節」になっている。従って能には男声女声の区別はない。
・「それらしさ」がないところから立ち上がるのが能です。老人でも腰をかがめない。
・能は声も演技も「型」を通す。単にリアルな演技でなく役者の生き方がリアルティをもって舞台に現れる。

そもそも私は現実の能舞台を観たことがない。この2年間にわたる講座を受講しただけでは能のほんの一部分に触っただけでしょう。この講座で得たものを確認すべく今年は能舞台を観る機会を作ろうと思います。

以上。

38 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(9)伝統文化(2)―梯子乗りと木遣り歌―      29期 仲田元昭   2024年1月投稿

百歳を超える                      19期 細田安治    2024年1月投稿

頌春
皆様にはつつがなく新年をお迎えのことと存じます。
俺たち19期生は揃って元気で新年を迎え、元日には電話会話の交換でお互いの健康を確認している。など元気者が不思議と多い。何故かと言えばその一つ、月一回19日の同期会に集まり気勢を上げている。

◇校歌・応援歌の合唱とフレフレ三商の連呼
12月19日は19期元気者10人、25期.26期同窓会の会長はじめ役員が参加し合計13人が集まった。12月3日には代々木スポーツセンターでコロナのため中断していた都立高校の校歌祭が行われた。この流れで同窓会の役員が参加し大いに盛り上げたことに19期として感謝申し上げます。校歌祭の詳細については三商会の会長よりご報告がありますのでここでは割愛します。尚この日の19期会では、校歌、応援歌を歌い、フレフレ三商を連呼し気勢を上げた。校歌応援歌を歌いフレフレ三商は、三商時代を思い出し実にいい気分である。

◇九が三つ巡る歳
さて、今年は19期生にとっていくつか19の数字が並ぶ目出度い歳だ。

・一つ目は、今年の誕生日が来る19期生は91歳を迎える。百歳まで一桁に迫っている。あと九年で百歳になることになる。昨年90歳の卒寿を過ぎた。卒寿とは、「目出度い壽を卒業」と読める。世間の風潮である。壽を卒業設らその先はないのか。では寂しい限りだ。そこで19期会では、「一旦卒業し新しい壽が始まる歳」と解釈し、新しい壽を目指している。

・二つ目は、その新しい壽とは何かと言えば、次は干支が8回巡ってくる96歳 が目標干支8巡り誠に目出度いことである。

・三っ目の19は、今年三商を卒業する生徒の卒業期と言えば91期と聞いた。学校で確かめたので間違いないことだ。

・三商での学習・同期生との交流・同窓会の応援

ざっと数えても9が三つが関係するこんな目出度い歳はない。ここまで元気でいられ先が見通すことのできる歳まで元気でいられるのは、何といっても、三商で学んだおかげでございます。在校中教えて頂いた先生方と19期の同期生との交流、同窓会の援助、と応援があったればこそと存じております。

◇次の目標

先ず4年後の95歳まで19期は一人の落後者もなく元気で進む。
次が前述の干支8廻りの酉歳の96歳までくれば
百歳まで僅かに4年となる。もうすぐだ。

・古きを訪ね 今を知り 今を知って未来を見通す。

木鐸会
19期生き残り
細田安治

新年の教訓                      19期 細田安治    2024年1月投稿

◇能登半島地震
新年を目出度くお迎えのことと存じます。今年は元日から自然災害と人為的災害で思いもよらぬ波乱の幕開けとなった。能登半島地震が発生しお正月の目出度い団欒を一瞬にして地獄のような状況に変えてしまった。上空からは見渡す限り木片と「がれきの山」となり、その上方々で火の手が上がっている凄まじく正に地獄である。この地獄は1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の状況と全く同じに見えた。
木造家屋を燃えやすいようにバラバラにし火付けし方々で火事を起こしている。地震とは自然による放火ではないか。と思う次第です。

怖さの譬(たとえ)に昔から、「地震,雷,火事、親父」とあるが、最近の親父は「あまり怖くない」もっと怖いのは、地震から発生する火事が一番怖い。もっと怖いのは津波だが、今回の地震では今のところ津波による大きな被害となっていない。これは不幸中の幸いかな。
被災地の方々にお見舞い申し上げるととともに一日も早い復興を願う次第です。

◇羽田空港衝突事故
次に1月2日の5時50分頃、滑走路に着陸した日航機と、滑走路上にいた海上保安庁の輸送機との信じられないような衝突事故が発生した。日航機の乗員乗客379人全員は脱出したが海保の乗務員5人は死亡した。
事故原因は現在調査中だが、この1月5日時点の調査では、海保機が管制塔の許可を得て滑走路に侵入した公算が高い。と報じられている。つまり日航機の着陸滑走路に管制官が進入の許可をだしたことが原因らしい。この事故は明らかに人災事故でありヒューマンエラーよるものである。
民間のテレビ局による日航機乗員乗客全員救出の模様が放映された。この報道によると、日航機はいついかなる時に起こる不測の事故に備え、機体が地上にある時の事故に備え、「90秒ルール」と称する訓練を実行している。万一の事故発生時に90秒で全員が脱出する訓練である。この訓練が功を奏し、今回の事故では一人の犠牲者も出さず、全員無事に脱出することが出来た。
人命を預かる乗務員たちはこのような厳しい訓練により今回の事故では一人の犠牲者も出さず全員を救助することが出来た。日航による厳しい訓練と、乗務員たちの人命を預かる使命感によるものと推察する。
一方同じ人命を預かる大きさでは、比較にならぬほどの責任ある立場の管制官に、ややすると気のゆるみがあったのではないか。もしそうだとすれば、あおりを食った形になり死亡した5人の海保の乗務員は全く浮かばれない。ひどい話となる。事故原因の徹底的な解明を求め、二度とこのようなヒューマンエラーが起きないようが願っている。完

2024年1月6日
細田安治

新年おめでとうございます                                          21期 髙野 昇        2024年1月投稿

今年も沢山の親類、縁者、友人、趣味友などから100通近い年賀状を戴きました。有難い事です。小学校2年生からの友人Ù君とは75年来のやり取りでその間、おたがいにLINEやメールも欠かしていません。年齢からして差し出す賀状が少なくなるのは当然です。例によって「本年を以て賀状を遠慮させて…・」が5通ありました。中には40歳代の人もいました。年賀はがきの発行枚数が年々減少しなにがなんでもスマホが手放せない若い人、めんどくさいと思う人、様々な背景の中、35期Y・A君からの賀状にはいつも感心しています。丁寧な手書きの文字、最近はじめたスマホに頼らずしっかりと書かれています・わたしも発送する賀状には相手の顔を思い浮かべ手書きの拙文を添えています。これは何十年来変わりません。この先何年出来るやら、「お前100までわしゃ99まで…」手作りの賀状を以て諸兄へのご挨拶申し上げます。

初めてのエイジシュート!!!                      28期 川村雅昭    2024年1月投稿

令和5年12月11日(月曜日)
プレーしたゴルフ場:佐倉カントリー倶楽部

当日は朝方は曇り、昼頃に晴れ間が出ましたが、途中から曇り、風が3メートル程度吹きました。
6か月ぶりのゴルフでしたので、練習不足でショットに不安がありました。
アウトコーススタートで、1番ホールから6番ホールまで連続ボギーでした。
7番のロングホールでパー、8番ショートホールのティショットはダフリましたが、アプローチショットはチップインバーディでした。
9番ホールのドライバーショットは220ヤード飛び、セカンドショットもナイスショットでした。楽々スコアはパーでした。
アウトコースのスコアは41でした。
この時点では、エイジシュートの意識はありませんでした。
インコースはドライバーショットが良くなり、スコアも14番ホールが終わった時点で、3オーバーでした。この時点で同伴者も気が付き、エイジシュートが可能だからガンバレと言われました。
そして、15番ミドルパー、16番ショートパー、17番ロングバーディ、18番ミドルボギー、グロス39で上がり、
アウト41:イン39=グロス80 (エイジシュート達成)

(この日の1番)
実は17番ホールのドライバーショットが若干ホローの風に乗り250ヤード飛びました。セカンドショットは5番ウッドで190ヤード飛び、アプローチショットは50度のウエッジでピン2メートル登りのラインにつけ、バーディパットは真っすぐのラインを入れました。(この日のベストショットが3打続いたのが一番うれしかったです。)

☆私は今年で、満81歳です。(昭和17年11月25日生)
来年の5月開催予定の興栄会ゴルフコンペに参加し、2回目のエイジシュートをチャレンジしたいと思っています。

私の新しいクラブは、ウッド系はブリジストンB2、アイアンはPINです。
パターはスコティッシュキャメロンピンタイプです。
ボールはBSーBXです。

37 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(8)伝統文化(1)―神楽―      29期 仲田元昭   2024年1月投稿

木鐸 第四号                      19期 細田安治    2023年12月投稿

◇代々木の森で

東京の高校生が集い、校歌、応援歌を歌い継ぎ青春の思い出から、若人は活力ある活動を、壮年は更なる活力を、老年の元気を永遠につなげよう。をスローガンとした東京校歌祭がコロナで3年余り中断されていたが、今年は18校の参加を得て12月3日代々木の森、国立オリンピック記念青少年総合センターで華々しく挙行した。

◇同窓会・現役生徒

多数の同窓会からの参加が期待されたが、残念ながら同窓会から役員を数えて20人足らずであった。救いの神は山田校長先生が、ピチピチの現役の女子生徒10名引率され参加されたことであった。お陰様でなんとか格好がついたが、仮に同窓会だけだったら・・・・・

◇校歌とは「気分をアクティヴにする」を共有

同窓会長はじめ役員はタクトを振る指揮者、写真撮影、籏持ち、場内案内、などそれぞれのご苦労なお役があり、合唱者は、数少ない。ピアノ弾く音楽の女史先生を忘れていた。ごめんなさい。タクトを振るのは同窓会長とピアノの伴奏に合わせて練習を始めた。当初はぎこちなかったが、段々気分が高揚しメンバーが乗ってきた。これが不思議だ。

左手に歌詞をもち、右腕を振りながら校歌と応援歌を交互に歌う。何とも言えぬ気分が盛り上がったのが不思議だ。カラオケとはまた違う気分の高揚であった。

特に応援歌がよろしかった。作詞者の多田宏は我が19期同期生である。

写真-1三商メンバーの元気の良い合唱

校歌祭写真

◇フレフレ三商を共有

練習中に気分が盛り上がり、校歌とは気分をアクティブにかえる効果があることに気が付いた。応援団の真下さんの音頭で進行し最後に「フレフレ三商」、これが良かった。ここで最高潮となった。この気分は同窓会で共有しなければ勿体ないと思いますがいかがでしょうか・・・・

◇参加者100人目標

以前に校歌祭の参加者目標を「100人しよう」との呼びかけがあった。

終了後の反省会で三商会杉本会長より、「100人目標を」とも呼びかけもあり参加者を増やさねばと思う。

◇山田校長先生に感謝

最後ではありますが山田校長の指導力、行動力に感謝申し上げこの稿を終わります。

写真-2終了後記念写真

校歌祭集合写真

”四知(しち)”と”裏金騒動” 28期 若月健司    2023年12月投稿 

令和5年12 28期 若月健司

先日、散歩の途中ふらりと近所の図書館を久しぶりに訪ねました。各種の新聞を読んだ後、好きな作家である宮城野昌光のコーナーから「三国志読本」(文藝春秋発行 2014年5月15日第1刷)を取り出し借りてきました。

本の構成 ①ロング・インタビュー・・・私の「歴史小説」
*壮大な作品群の背後にある歴史感と小説感、今後の展望を語っている。

②自作解説・・・三国志の世界
*前漢→曹操と劉備 ”四(し)知(ち)”という言葉が魅力的→警世の言葉

③対談・・・歴史小説を語る 対談者~水上勉 井上ひさし 宮部みゆき
吉川晃司 江夏豊 五木寛之
*吉川晃司・江夏豊は別世界の人と思われるがお二人の博識に驚く。

④講義&対談・・・中国古代史の魅力
中国古代史入門 項羽と劉邦の激動の時代
対談者~白川静 平岩外四 藤原正彦 秋山駿 マイケル・レドモンド
*残念ながら④の部分はこれから読みます。

③まで読んだ頃、あの自民党の「裏金騒動」が発生したのです。そこで”四知”の言葉が浮かんできました。

”四(し)知(ち)”~「天知る 地知る 我知る 子(汝)知る」→「後漢書」によると後漢の名臣、楊震(ようしん)が賄賂を持参した者に発した言葉です。誰も見ていないからといって賄賂を受け取ったら「天も地も見ている、私もあなたも知っている。誰も知らないことがあろうか」とその賄賂を拒否したとのことです。

今回の「裏金騒動」ではパーティー券の売上金を記録に残さず着服したようですが、その行為は賄賂を受け取る行為と何ら変わらないでしょう。関係者として派閥の会長・事務総長・会計責任者そして当該国会議員側がいますが、この一連の流れを「おかしい」と感じた筈です。子どもの頃、「お天道さまが見ているから悪いことはできないよ」と言われたものです。選良と言われる人たちが所謂「ネコババ」的なことをやるとは信じられないのですが、現況から裏金騒動は現実らしいです。

この本の中に「昨今の日本の世上を賑わしている事件なども、人に知られなければいいというか、内々の論理や密室の合意が横行する結果だという気がします。それを思うとこの”四(し)知(ち)”という言葉に警世の響きを感じるんですが」とあります。この本は9年程前に発行されていますがこの間、今日まで色々ありました。第2次安倍政権の発足・アベノミックス・一強多弱の政治体制・もりかけ問題・公文書の改ざん・桜を観る会事件・拉致事件と北方領土交渉の停滞・集団自衛権承認・旧統一教会と政治の癒着などを考えると日本の国際的地位が低下するのも当然の感があります。

この本は読みかけ中ですが、この先が楽しみです。 以上。

36 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(7)家康と船橋(7)―家康の側近 成瀬家の菩提寺 宝成寺―      29期 仲田元昭   2023年12月投稿

戯言&独言38                                          21期 髙野 昇        2023年12月投稿

タイトル2 ▲今年の光と、闇と陰

相も変わらずコロナ禍への不安は収まらず、7回目の予防ワクチン接種は済んだとはいえこんな状態が何時まで続くのか。色々あったこの1年、自分なりに勝手に振り返ってみたい。光と闇、どちらかといえば闇と陰の方が多かったのは先輩、後輩諸兄も同感だと思う。

明るい話題に、二人の若者について語ります。まずプロ野球大リーガーの大谷翔平選手。大谷選手がWBCの決勝戦をまえに控え室で選手全員に語り掛けた言葉の中に「メジャーリーグに憧れるのは止めましょう。立場は対等…・」なんでもない短い言葉の中に前向きに、一歩後退・二歩前進の強い彼のひたむきなココロずもりが表れていました。年長のダルビッシュ有投手が大きく拍手していたのが印象にのこります。監督も各コーチ連の拍手もお座なりのものでなくいかに力強いものであったか、ドキュメンタリーのCDを見て感じました。今や最高の大リーガーとなり、一挙手一投足に注目が集まりながら、奢ることなく全てにおいて顕著で控えめ、そして男前。野球は一瞬の判断で打つ、投げる、この瞬間的判断力に優れている大谷選手にMVPは当然。春先からコロナ云々の中で数々の話題を提供してくれたWBCでしたが素晴らしい好青年の来季の活躍に期待したいものです。そしてこの稿を書き上げたと同時にドジャースに移籍が決まりました。私の予想どうりで西海岸の暖かい土地にある球団を選んだのは投手として少し肘に不安を持つ彼としては懸命だったと思います。10年契約1000億円の契約も凄いが、それでもあまりを語らずさらに驚くべきは代理人に10年間に50億円の手間賃?を払うなど、これから10年間、ドジャースのユニフォームを着た彼の姿を見られるの楽しみです。

▲も一人の若者、将棋界の藤井聡太棋士。ビッグタイトルの全てを獲り八冠王となりました。野球の三冠王どころではないとんでもない記録の達成でした。私自身、将棋はできるが子供のころは”まわり将棋”や”はさみ将棋”など学童疎開先の山形で来る日も来る日も冬ごもりの中でさんざんやっていました。そういえば将棋駒の産地は天童市で疎開先の近くでした。坂東妻三郎の映画「王将」は大阪の名人棋士坂田三吉を扱ったいい映画でした。話がそれました、藤井聡太棋士の八冠は凄いですね。昔はこんなに沢山タイトル戦は無かった筈ですが、それを総なめしての最上位は若干20歳を思うと、どんな脳みそ構造なのか、高校も中京地区のかなりの偏差値の高い学校を中退しての大名人は頭脳明晰、冷静沈着、10手先までは当たり前に読める世界、野球とは違い長考が許される世界とはいえ、それ故に判断に誤りが許されず、どう考えても20歳の若者の許容範囲とは思えない強者です。それにしても将棋界はスポンサー(新聞社など)があるとはいえお金があるのも知りました。…・この二人の若者の爽やかさは私達の心の中に記録と記憶として残る筈です。この若者二人に…あっぱれ!…を。

▲闇と陰では宝塚事件、日大アメフット、楽天の安楽投手etc宝塚と楽天の件はいずれも先輩、後輩という悪い縦関係の組織が底辺にみえます。先輩、後輩などの言葉や発言は私達の在学中は卒業生の諸兄に対して言うもので在校中の上級生には○○さんと言っていました。今は中学入学と同時に部活に入れば先・後輩など当たり前に言っているようです。上の者は絶対、そんな意識が早々と脳裏に埋め込まれいくのですね。以前から高校野球や相撲の世界がそうであるようについに女性だけの宝塚にもあったなんて。昔、宝塚劇場の前を歩いていたら女性ばかりの人だかり、何事かと思いきや楽屋口からタカラジェンヌが宿舎に帰るのでファンが整然とならび前列の子は全員片膝つき、それを差配する年配の女性もいて驚いたことがありました。団員の上・下だけの関係だけでお辞儀の角度が悪い、先輩の前で笑うなどでイチャモンをつけ体罰的な陰険行為に走る、これはかっての軍隊の宿舎などで行われていた下級兵士に対する”イジメ”と同格ではないでしょうか。安楽投手然り、それを笑って見ていた田中将も悪い。日大アメフットの話も”闇と陰、それらに…喝…を数発。

岸田バックマージン内閣、喝・喝・喝・喝…‥‥‥‥‥‥

29期3年1組有志 第2回街歩き      29期 仲田元昭   2023年11月投稿

3年1組有志第2回街歩き1
3年1組有志第2回街歩き2

木鐸 第三号                      19期 細田安治    2023年11月投稿 

木と暮らし写真

◇木場のイベント目白押し

10月はイベントが目白押し木場公園の広場も連日のようにイベントが行われている。毎年の事であるがイベントの都度思うことを述べたい。

◇イベントに思うこと

・一つは1日ないし2日のイベントに、準備と後片付けを入れて、4から5日から大きなイベントでは1週間かかっている。主催者側はイベント会社に請け負わせ、言葉を変えれば丸投げして業者のペースで進めている。

商売人が考えれば、設営に1日あれば十分できる。場所の制約なしで広いところで組み立てするだけである。なぜ、この程度の仕事に数日を要するのか。疑問を持っている。

・二つ目は、イベント続きの為、参加する区民の側がなれるというか、飽きてしまい、イベントの目的であるインパクトが薄れてしまう。季節のいい時期を狙ってやるわけなので集中してしまう。分散できないのだろうか

・三っ目は、イベント自体が新しいものは殆どない。ないどころか,皆無ではないか。マンネリ化のため区民を始め参加者が飽きてしまう。新しいイベントを発案すべきと思考する。

木と暮しチラシ2

◇第40回木と暮らしのふれあい展

・こんなことを言いながら、木材関係の主催者側の一人として参加した。なのでいくつかご紹介したい。

「木材や」にとっての最大イベントである第40回「木と暮らしのふれあい展」と銘打ち10月21日、22日に行った。木材の需要拡大を目的にして官民一体となって全国的に展開している。各都道府県別に開催している。今年で第40回となった。ということは40年前の昭和48年から始めたことになる。石油ショック後の需要の落ち込みで木材業界は苦境にあえいでいた時代だ。第一回は日比谷公園に集合し、木場から木材の製品や原木をトラックに積み込んで大雨のなか、びしょ濡れで銀座通りをデモ行進したことが始まりだ。その後新築なった現在の東京都庁の中庭などで開催していたが、平成4年旧木場移転完了し、木場公園の整備がなった木場公園に会場を移した。木場公園を会場にしてから30数年経過している。

イベントの目玉は、木材の需要開拓まず気を知ってもらい、そして使っていただくことが目的だ。そこで、木の無料配布持ち運びができるように小さくしてお持ちいただきやすいように工夫した。実用品の販売俎板、お箸、本立て、本箱等々お買い上げいただく。次の大目玉として、木で作品を作って頂くこと、つまり日曜大工経験して頂く」。そばには木場のものが付き添ってお手伝いしながら作品を仕上げていく。これが大人気となっている。小さなお子さん小学生中学生のお子さんたちが親御さん一緒に、鋸を使い板や棒を切り、区議を売って仕上げていく。これが面白く毎年大人気となっている。

実は、三商へポスターとチラシを持参し是非「学校の行事として参加してください」とお願いしてきたが、いまだ実現していない。粘り強く母校三商への啓もう活動を続けていきたい。この続きはまだまだあるも、同総会より字数出来るだけ減らして、と言われている。ので今号はこの辺で失礼する。

科博のCFに思う・・・ 28期 若月健司    2023年11月投稿 

令和5年1 28期 若月健司

先日(11月7日)の新聞紙上で上野の国立科学博物館がCF(クラウドファンディング)で予定額の1億円を上回る約9億2千万円を集めたとの記事がありました。大きなクジラの模型がある同館にはこれまで何回か見学に行きましたので、馴染みがありました。そこで

ふと思ったのは「独立行政法人とはいえ国立の博物館がCFを行わざるを得ないのか?」という疑問でした。記事によれば国からの運営交付金が2022年度は25億4千万円、2023年度は28億4千万円が交付されています。しかし最近のコロナ禍での入場者の減少や円安による光熱費の急激な高騰での財政悪化対策と共に収蔵庫の整備費の調達が今回のCFを行った目的とあります。確かに公立館の7、8割は収蔵庫が満杯になっているようです。

国は外国人観光客を集めるのに躍起になっていますが、その基本となる博物館への対応が少し疎かになっていないでしょうか?博物館などの箱物建設に対する抵抗感が強いのは

理解できますが先人の残した貴重な遺物が倉庫の片隅に積み上げられたり、博物館の廊下に置かれたりしているのも耳にします。2019年に文化財保護法が改正され従来からの

文化財の保護に文化財の活用が加えられました。当然それには博物館等への予算増額が為されねばなりません。今回の記事を読んでまだまだ日本の文化行政への遅れが感じられます。CFを行なわなくても良いほどの国からの運営交付金の増額を望みます。

この記事から私の住む江戸川区のことを連想しました。江戸川区のグリーンパレスという建物の3階に「郷土資料室」というフロアーがあり江戸川区の歴史的なものが展示されています。上小岩遺跡の土器・葛西沖の海苔づくりの材料・れんこん作りの様子・昭和30年代の部屋の様子・江戸時代の寺小屋・板碑・貝や魚の採り方などがワンフロアーに展示され、

区内の小学生3年生が学校単位で見学に来ます。その展示説明に「文化財・郷土資料室ボランティアの会」の私を含めたスタッフが当たります。見学時間が1時間程度で制限され、展示物もワンフロアーの中に展示されていますので窮屈で、子ども達に理解されているのだろうかといつも気になります。展示されているほかに学校の空教室に収蔵されている文化財が何千点もあると聞かされています。江戸川区は昔からゼロメートル地帯で水害対応で

手一杯という事情は理解しますが、そろそろもう少し広い展示場を確保し、文化の面でも他区に追いつくよう望みます。

以上。

35 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(6)家康と船橋(6)船橋大神宮と常磐神社―      29期 仲田元昭   2023年11月投稿

戯言&独言37                                          21期 髙野 昇        2023年11月投稿

タイトル2 オールデイズ

私にとってはなんといっても「長崎の鐘」である。医師永井隆博士のエッセイ集「この子を残して」からサトーハチーローが作詞し曲はあの古関裕而、藤山一郎がいつも熱唱していた曲。詩を書いたサト-ハチローは書き上げたその日、泪がボロとあふれたとTVで徳川無声との対話で話していた。このエッセイを中学の時、担任のK先生が一部読んで聞かせてくれ、残される二人の児の内、長男の方が私達と同学年であったこともありクラス全員が泪し、読んでいた先生も胸にせまる様子が私達にも伝わっていた。作詞、作曲、歌手ともにすでに鬼籍に入り、今以てリメイクして唄う歌手は居ない。私はあの8月9日には拙いハ―モニカで静かに奏でる慣習があり最近は泪脆くなったせいか最後もで奏でることができない。…♪慰め励まし長崎のアァ長崎の鐘は鳴る。

田端義夫の「かえり船」は敗戦から2年後くらいの歌だったとおもう。外地にいた邦人や復員兵が氷川丸などの大型船で帰国、それを田端義夫が唄いヒットした。レコード屋、電気店の店先で聴き少し哀しい歌と感じた。後に藤圭子がリメイクし「TUTAYA」から借りたCD版に「かえり船」が入っており、改めて本家の田端義夫の唄いかたの違いを知った次第。田端義夫はなんとなくマドロス的なそれらしい唄い方で、外地でさんざん苦労して引揚げてきた内容の歌詞としては藤圭子のドスのきいた低音で唄い心にしみこむ唄い方がすきである。彼女は男心を唄うにはふさわしい低音と声の良さで、引揚船中の人と岸壁で待つ家族の感情を見事に唄いあげ、私はこの曲はご本家の田端義夫より藤圭子がいいと思う。…♪カモメ行くなら男の心 せめてあの娘に伝えてよ。

「東京ブギ」朝ドラで人気。いずれ番組の中で唄い出すはずのこの歌、笠置シズ子が全国区として認知されたのはこの歌からだと思う。父が敗戦後の貧乏生活の中買い求めた「4球スーパーラジオ」から流れていた。有楽町日劇で実演を見たことやオーケストラボックスに唄いながら落ちたのを見たことはいつぞやのHPに書いた。沈みがちなあの当時の日本の現況、焼け跡、ヤミ市、パンパン、カストリ、ヒロポン、浮浪者、予科練がえり、かつぎ屋、戦犯などが氾濫していた時代、床屋にゆくにも石鹸・手拭持参の時代でもあった。あの快活元気、陽性な磊落な笑い声、この歌を聴いている時間だけでも全ての暗さを忘れさせてくれていた。中學時代のあのころ貧乏と焼け跡に元気をくれたこの歌の後にも「買い物ブギ」「ホームランブギ」などがヒット。「ジャングルブギ」の作詞はあの黒澤明氏であることはあまり知られていない。後日談として彼女がシングルマザーだったのを知ったが、銀座辺りを商売にしていたパンパンから絶大な応援をうけていたのも頷ける。昭和の喜劇王エノケンにも気に入られ数々の映画、舞台で共演、あの笑い顔と関西弁が庶民的で親しみを覚えた。朝ドラの中で彼女に扮しているのがあの伊藤蘭と水谷豊の愛娘であることも最近知ってビックリしている…♪世紀の歌、心の歌東京ブギウギ。

20歳台の頃社交ダンスが流行っていて、わずかばかりのステップを憶え友人が勤務する銀行のクリスマス時の社内パーティーやグループ同士のパーティーに時折参加させていただいていた。そして心に残るオールデイズは林伊佐緒自作の「ダンスパーティーの夜」である。そんな雰囲気の中、この曲にはなにか期待感と大人の恋、哀切が籠められていて懐かしい曲である。作曲者の林伊佐緒は歌手でもあったが他に数々のヒット曲があった。新橋にあった「フロリダホール」にも友人と何度か行ったが相手のダンサーに払う料金が高く、結果2階の喫茶室で聞いているタンゴバンドやフルバンドの生演奏の方が楽しかった思い出がある。ここで初めてフランク永井を見た。肝心のこの曲の中で「♬踊りつかれて二人で、ビルのテラスに出て見れば、星がきれいな夜だった」ビルのテラスなどの洒落たモダンさ、3番の別れを告げる彼女になんにも言えぬ自身の虚しさ、やるせなさ、そして最後のなんともなんとも愛おしく泣かせる歌詞、自分の青春時代の思いと少し重なり忘れられない曲である。…♬はかない夢と諦めて、別れましょうと言ったきみ。

木鐸 第二号                      19期 細田安治    2023年10月投稿 

写真-1琴冨貴前で元気者

◇木鐸会の生き残りは二人

前号でも述べたが木鐸会の生き残りとしては、今は2人となり寂しい限りだ。そこで2代目木鐸会として勝手に19期会が引き継ぎ発信をし続けようと企んでいる。

◇百歳迄が百歳越えて頑張るぞ

何度も述べるが19期会は毎月19日に会合を開き「生き残りの同志」が集い気勢を上げている10月期は19日に集合し百歳を超えて頑張るぞと盛り上がっている。一人づつだけでなく長い人生の歩んできた三商時代のとっておきの話や、今は「無き友」との交流を披露、合いの手がはいったりして、掛け合い漫才のような雰囲気もうまれこのようなおしゃべりを「はなしのさかな」にして、「百歳迄頑張るぞ」がいつの間にか、「百歳を越えるぞ」に変わった。どこまで元気なのかこの連中は、いったい「お前のトシはいくつなんだ」。と聞きたくなるような元気さである。写真-1琴冨貴前で元気者

写真-2第40回木と暮らしのふれあい展

この連中に何か書かせたいが、いざ自分で書くとなると、「アアデモナイ」「コウデモナイ」と言って、面倒くさがって筆を執らない、そこでとりあえず細田が、つなぎとして、代弁者として発信を進めるのでよろしく

◇第40回木と暮らしのふれあい展 10月21日・22日

昨日江東区深川木場公園で上記イベントが行われた。江東区を代表する「木材や」が、この日は気の良さを知ってもらうとして全国一斉に行う。このイベントは40回、40年前から全国的に木の良さを訴える運動である。

写真-2 第40回木と暮らしのふれあい展

写真-3緑いっぱいの山々と川の流れ

◇木は地球を救う

ここで木と水の関係を説明し、「木は地球を救う」として説明したい。そもそも山の樹は二酸化炭素を吸収し酸素を吐き出す。山は雨を貯え土砂崩れなどの災害を防ぐ、地球と人間の生活にとって最も重要な資源である。

◇水と樹木と大地のかかわり

樹木の本来の機能は、山林から始まる。樹木は二酸化炭素と酸素を交換して大気を清浄化する機能に加え、山岳地帯にしっかり根を下ろし、雨水を吸収し、髄管を通って浄化する。さらに樹根全体で水をしっかり包み込む形で貯留し、樹根の細胞タンクが満杯になれば放出する。樹木の根元から地中に地下水となって貯留され放出される。根元から地下へ雫が流れ出す。この雫が集まり森の中にせせらぎを生み、数多くのせせらぎが集まり小川をつくる。小川は山から里に向かって流れる。里には農業灌漑用の堰(せき)がつくられ、水は田畑を潤す。このように人間の生活に最も必要な水を守っているのが樹木即ち木であり、木は地球を救う所以である。

この水の流れの中で、水はそれぞれの場で山を守ってきた。樹木の根元をしっかりと固め、山崩れを防いで来た。

日本の気候、春夏秋冬の季節のなかで、このように水は山をそして国土を守っている。

写真-3 緑いっぱいの山々と川の流れ

SDGs折り返し、大丈夫か? 28期 若月健司    2023年10月投稿 

令和5年10月 28期 若月健司

昨年の6月に「確認したい三つの未来!!」というテーマで寄稿しました。そのうちの未来で「SDGsが目指す2030年頃の未来」があります。国連でSDGs(持続可能な開発目標)が採択されてから今年でおよそ半分が経過しました。SDGs活動の様子がメディアでも盛んに取り上げられています。その進捗状況はどうなっているのだろうかと思っていたところ、先月の25日付朝日新聞朝刊に達成状況の記事がありました。

~日本のSDGs達成状況と2022年からの進み具合~
(持続可能な開発ソリューション・ネットワークによるリポートから)
→ 停滞 ⤴ 適度に改善した ↑ 改善または達成を維持している ・ 情報なし

1 貧困をなくそう

2 飢餓をゼロに

3 すべての人に健康と 福祉を

4 質の高い教育を
みんな

5 ジェンダー平等を 実現しょう

6 安全な水とトイレを 世界中に

7 エネルギーをみんなにそしてクリーンに

8 働ぎがいも経済成長も

9 産業と技術革新の基盤をつくろう

10 人や国の不平等を なくそう ・

11 住み続けられる まちづくりを

12 つくる責任つかう
責任

13 気候変動に具体的な
対策を

14 海の豊かさを守ろう

15 陸の豊かさも守ろう

16 平和と公正を
すべての人に →

17 パートナーシップで目標を達成しょう

 

 

 

*2022年との比較で →5ヶ ⤴10ヶ ↑1ヶ ・1ヶ となり、全体的に適度に改善したように見えるがどうでしょうか?

*同リポートによると国別の達成度ランキングでは日本は21位である。過去は2017年が11位、2022年は19位で年々後退している。

*低評価の課題として①ジェンダー平等②つくる責任つかう責任③気候変動対策④海の環境保全⑤陸の環境保全が上げられる。

*SDGs達成を阻む要因として①男女の賃金格差②女性の国会議員の少なさ③製品や原材料の輸入に伴う二酸化炭素の排出量の多さ④廃棄される小型家電やプラスチックの多さが指摘される。

日常生活で特に感じること
気候変動対策~メディアでは集中豪雨や地震などの被害は報じるが、その根本原因となる地球温暖化を防ぐ対策を報じるべきと思います。
少子化対策~異常なる少子化対策というが、目先の給付などのバラマキでなく安定した家庭生活が営まれる社会を構築する政策を図るべきと思います。

SDGs達成まであと7年余り、健康に留意して私自身も達成に努力し、達成を確認したいと思います。

以上。


34 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(5)家康と船橋(5)船橋御殿跡―      29期 仲田元昭   2023年10月投稿

戯言&独言36                                          21期 髙野 昇        2023年10月投稿

タイトル2
戯言36

▼あの東京五輪
10月となると1964年、日本初の東京オリンピックからこの10月で早や59年の歳月がたった。その後も冬季の札幌オリンピック、長野オリンピックがありそして一向に盛り上がらなかったこの間のオリンピック。70代すぎの我々からしたら64年の大会は戦後の復興から高度経済成長に移行していた日本にとっては先進国への仲間入りを前世界に告げる絶好のチャンスであった。高速道路、新幹線、モノレールなど五輪前の完成めざし、新幹線は開催(10月10日)9日前に運転を開始している。競技に使用された計時用時計も機械式ではないクオーツ式を採用、計測に関わるトラブルエラーゼロの快挙だったのを後日セイコー勤務の友人から聞いた。衛星による生中継が初めて行われ、国内でまだ30%に満たないTV普及が一気に90%に上昇したのは凄い。そんな中、抜けるような紺碧の空の下、坂井選手の聖火点灯、オリンピックマーチの中での選手入場、この最後の日本選手の入場行進にわが三商の20期生の出町豊氏がいたことは同窓生としていまだに誇りに思い、オリンピックの開催ごとに必ず思い出すのである。パリー大会も近く日本の若い力とその技に期待したい。そういえばこの64年大会の前年に私共夫婦が結婚し、今春はダイヤモンド婚をむかえた。孫から「じーじは生きてる昭和史だね。また知ってる事教えて」と言われている。

▼監督交代
巨人の原監督が契約の1年を残して辞任。後任にはヘッドコーチだった阿部慎之介さんに決まった。伝統の巨人軍としては2年連続のBクラスとは許されない現実であったか。阿部新監督は浦安生まれ、安田学園、中央大学と当時としては球児のエリートコース歩み捕手として着々として立ち上がり、捕手で監督になった人は森、野村、上田などかなりの実績をつんだ人が多く巨人ファンの方々にはグーなことで、彼曰く「今年は”アレアレ”でしたが来年は”アべアベ”で」と言ったのは駄洒落としては巧い😃アンチ巨人の私としてはそれよりも中日の立浪監督の来年の手腕に期待したい。でも退団した3人がコーチと部署を替えて残留したのに荒木守備走塁コーチが退任したのには少し疑問あり。暫定的と言われながら井端新WBC監督が、かってのアライバコンビの実績をふまえてWBCのコーチにでもなるかと思いきやメンバーでには入っていずファンとしては少し残念。しかし根尾(桐蔭)・石橋(関東一高)の若いバッテリー、三振か本塁打かの細川、大島の後継となるかの岡林、また粋の良い若い投手陣に期待したい。どちらにしても監督は選手の心、技術力や思いをくみ取り、戦うのは監督ではなく選手なので自分の思うようにいかなければ選手を詰り罵倒や鉄拳、そんな指導の時代は通用しないとWBCや慶応高の甲子園の姿を見てつくずくと感じた

戯言36-2

▼笠置シズ子
朝ドラの 「ブギウギ」が始まった。私は笠置シズ子の実演(古い言葉、いまは死語)を有楽町にあった「日劇」で中学生の時と三商1年生の時と2度見にいっている。当時は歌謡ショーと封切り映画がセットになっており指定席ナシ、入替ナシの時代だった。最初に行ったのは父の職場(魚河岸の佃煮製造店)の友人の娘さんが日劇に勤務していた関係で2度とも「顔パス」入場、舞台に近い席には「演出関係者席」の張り紙がしてあった。その席でオーケストラボックスから前列4・5番目で父曰く「笠置シズ子の唄っているツバキが飛んできた」など言っていた。場内は物凄い人で溢れ熱気ムンムンだった記憶がある。まったくのかぶりつきで熱唱を聴け、笠置のあまりにも唄いながらの動きの凄さに圧倒された。そして見てしまったのである。笠置が舞台からオケボックスの中央にある幅90cmくらいの廊下(業会用語で出ベソといっていた?)を唄いながら客席の前え出てくる途中でオケボックスに転落してしまったのであった。辛うじてオーケストラ員の手助けで舞台に上がりその間でも「東京ブギ」の歌声は途切れなかった記憶が鮮明にのこっている。日劇勤務の娘さんは「時々落ちてました」と笑いながら後日言っていたそうだ。今思うとあの強烈な動きと歌唱は敗戦数年後の暗い世相の日本国内に目には見えない勇気と励ましをくれた歌とリズム、客席に居た4・5人の米兵が立ち上がって拍手していた姿を中3の私は奇異の目でみていた。世が世であれば彼女は吉本興業の後継者でオーナーになっていたはず。朝ドラが楽しみである。

▼ジャニーズ
NHKTVの「あさィチ」で数年MCを務めていた井ノ原 快彦さんが今回の騒動で矢面にたたされて苦戦している。NHKTVでの朝の放映ではイメージとして高感度な印象が強く,我々高齢者も好青年だなの思いがあった。しかし今回の事件で初代社長の性的な悪趣味で多数の被害者が出て暴露された。会見に同席していた東山 紀之さんとの見方の違いが感じられそんな事実があった事を知らなかった、被害もなかったと記憶にも噂にも聴いていないとおぼろ気な会見。吉井勇の「祇園小唄」じゃないが”♬記憶朧に東山”であった。その後も”質問させないNGジャーナリストの存在があったり、知っていながら知らない素振り、肝心の女社長が2度目の会見には姿を見せず、この元社長がこの社の株を100%持っている、後援会会員が1300万人おり年会費4000円で莫大な年収金、そんな有耶無耶の中、単なるタレントの2人がどんな手腕を発揮できるのだろうか期待は少し疑問が多大である。

木鐸                      19期 細田安治    2023年9月投稿 

「木鐸」とは、木の舌を持った金属製の鐘。古代中国では、鐘を鳴らし人々を集め政令などを交付した。八佾「論語」では、「天下これ道なきや久し。天まさに、天子を以て「木鐸」となさんとするごとし」などとあるように、これから転じ、世論を喚起し、民衆を教え導く人物をなぞらえる言葉となった。木鐸会のメンバー会長の亀井さんを始め、発足時から木場の「木材や」では一目も二目も置かれる存在であり、「木材や」論客として、「我こそは世の中の人々を目覚めさせ、正しい道へと導く者なり」であったであろうと推測する。尚余談だが、舌も金属製のものは金鐸と言って、軍事に関する件の布告に、用いられた。この会へ林さんを入会させたかったが、「意が通ぜず」今でも残念に思っている。もっともこの会のメンバーは、製材、問屋、小売りが主体で、上の方は問屋であったため銘木には関心が薄かった。だが残念だ。林さんが入会していればもっと盛り上がり、会も更に活性化し、世の中にもひいては都立三商にも貢献できたのではないか“。お付き合いがいかに大事かを痛感する。ここに、亀井さんの没後会長をされていた「木好会」亀井さんをしのぶ短歌を紹介しご冥福を祈念する。木好会 亀井会長をしのぶ

以下文宛短歌

・深川と木場を愛して木に惚れて翁のごとく浄土に旅たつ・これからは東木協の月報に木場好人の物語なし・上木場の旅行宴会亀井節木場シャンソンは二度と聞かれぬ・逢うたびに元気印の亀さんと呼びし先輩今宵浄土に・数々の功績残し世を去りし輝く巨星永久(とわ)に讃えん木好会亀井清蔵氏写真前列中央

氏名役職 卒業期 社名業態
亀井清蔵会長 1 亀井商店国産材原木
四倉栄次郎副会長材商副 2 四倉材木店港区小売り
榎戸 勇 11 山恵内外原木・製品・問屋
山﨑幹事長 堀貫木材外原木・製品
小池 小池木取り店国産材銘木盤木専門店
青木 青木木材ラワン製材地挽
一条 18 吉条木材米材原木製品問屋
川名省三 19 佐貫屋一般建築材卸問屋
木戸隆吉 19 ほまれソース新大橋ソースメーカー
細田安治 19 細田木材工業製材木工、乾燥、突板、集成材
岩瀬茂雄 23 三進木材ラワン製材工場

2023年令和5年9月16日

木鐸会の生き残り 細田安治

やはり、存在してたんだ!!~アーキビスト~ 28期 若月健司    2023年9月投稿 

令和5年8月 28期 若月健司

「モリカケ事件」や「イラク戦争時の自衛隊戦闘記録」、古くは「沖縄返還における密約」いわゆる西山事件、最近でも「旧統一教会の名称変更事件」など公文書(行政文書)の改ざんやら黒塗り公表が公然と行われています。そんな事件を知るたびにある「もやもや感」がありました。国民の知る権利がなぜ簡単?に改ざんなどされるのだろうかと思うのです。公文書を第三者が管理できないのだろうかと思うのです。ところが私の知識不足もありましたが令和2年頃に国立公文書館が人材育成に乗り出し、「アーキビスト」という専門職を認証したとのことです。このことを知ったきっかけは朝日新聞(令和5年3月29日付)の「多事奏論」というコーナー(記者:岡崎明子)です。そのコーナーの内容は

・欧米ではアーキビストが専門職として確立しているが、日本ではその存在さえほとんど知られていない。これまでアーキビストとして認証されたのは281人だけ。

・そのアーキビストはどこにいると言えば公文書館に66%、博物館・資料館に16%、行政機関に5%、省庁には数人。

・アーキビストの役割~常に公平・中立を守り、証拠を操作して事実を隠蔽・わい曲するような圧力に屈せずとある。

・日本の官僚マインドは明治時代に作られた「官吏服務規律」から脱し切れていない。記録を残すのは天皇の政府の先例を確かめるためで、国民に公開するためのものでなかった。

・元号が平成から令和に変わった時、御厨貴東大名誉教授に「令和の時代にまず取り組むべき課題は」と問うたときの答えは「それは公文書管理です」だった。

この「多事奏論」を読んで「もやもや感」が少し薄れました。ただ281人というアーキビストでは少なすぎますし、待遇改善や社会的認知を高める必要があります。また、アーキビストには圧力に負けない・忖度をしない独立意識の高い心が求められます。

以上。

33 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(4)徳川家康と船橋(4)―       29期 仲田元昭   2023年9月投稿

戯言&独言35                                          21期 髙野 昇        2023年9月投稿

タイトル2■私のオールデイズ<2>

オールデイズとは正しくは主に1950-1960年代に米・英などでヒットしたポプュラー曲の事を言うらしい。私のオールデイズは私なりに洋の東西、年代を問わず若い頃に印象に残った曲、演奏をオールディズとしています。

▼[Bei mir bist.du. schon」
日本での曲名は「素敵なあなた」です。東京大空襲で焼け出されて江戸川区小岩に避難生活をしていましたが、敗戦の1カ月後に駅に行く道すがらにあるレコード店から流れていた曲です。アメリカで30年代に大ヒット、特に女性コーラスが多く唄っていた様です。当時のレコード店はレコードの他にラジオや楽器、蓄音機なども扱っていましたが戦時中は外来の曲など売る事も出来ず温存してあった洋盤が終戦、敗戦のお陰で日の目を見る事が出来、店主がこの曲が戦前からのお気に入りだったと後の噂で知りました。その証拠に自らアマチュアバンドを作り街なかの空き地で週一ペースの演奏会を開き、そのバンドの開演テーマ曲がこの曲でした。そのメロディーにのって日本語で♬朗らかに唄いましょうみんなのAMC♪と唄い演奏が始まります。兄二人と3人で見に行くのが楽しく、曲名など知る訳もなく何か心がウキウキし帰路の足取りも軽くアイスキャンデーをなめながら帰宅していました。進駐軍向け放送(WVTR)で日長一日ラジオをからジャズが流れていたあの時代でした。

▼[Youare my sun shain]
この年齢で知らない諸兄は居ないと思う曲「ユーアーマイ サンシャイン」です。兄二人が敗戦後の学制改革前の府立三商の5年生と3年生でした。戦時中は英語の授業など有る訳もなく敗戦後も教師は戻ってきても教材も3人に1冊のペラペラのわら半紙のテキストが配られていたと兄達から聞いていました。そんな中、英語の先生が黒板に筆記体文字でこのユーアーマイ…・をいとも簡単にスラスラと書き生徒は全員「ホーッ」ととなえノートに写させ「分かり易く、憶え安い歌詞なので英和辞典で歌詞を翻訳し出来た人は後日先生に見せなさい」と言い英語の授業にも拘わらず先生が見事に何度も何度も唄ってくれたそうです。帰宅しても二人の兄が唄い小学生だった私も完全に覚えてしまい3人で合唱したりして隣の小母さんが「3人とも歌と英語が上手ね」と褒められ記憶があります。私が憶えた、唄えた初めての英語の歌です。3人の夫々の結婚式での披露宴では3人揃って必ず合唱した3人共々のオールデイズであり忘れられない曲です。

戯言35-2

「Shine」
ベニー・グッドマンセクステットが奏でる「シャイン」です。三商通学時の朝、am7:00過ぎにラジオ東京(現TBS)から番組のテーマ曲として曲のイントロ部分が流され軽やかで、覚えやすく何故か気分も良く、その番組を聴いて(イントロ部分が軽快)爽快な気分を貰い自宅から都電の停留所に向かいました。B/グッドマンが1957年に来日演奏、その公演を見に行きこの曲が奏でられた時はなぜか胸に迫るものがあり感動をもらいました。国内では「鈴木彰治とリズムエース」の演奏がよく、ドラムのジミー竹内の軽やかなブラッシングが素敵でした。

▼「On the sunny side of the street」
日本では「明るい表通りで」です。私にとってはイギリスのフルバンド「テッド・ヒース楽団」が奏でるものが最高で、ブラスセクションを自在に駆使した切れ味は抜群、メリハリの利いた端切れの良さ、すべてが素晴らしい。NHKの朝ドラ「カムカム・エブリボディー」でもバックに使われ、ルイ・アームストロングが唄っているので主人公の名が「ルィ」と名付けられたエピソードが放送の中でありました。日本でもフルバンドのコンサートでは必ずと言っていいほど演目にはいっています。ダンス曲としても少しテンポの早いフォックス・トロットか、若い人にはジルバも良し、これぞフルバンドのジャズらしいジャズです。

戯言35

▼Tennessee waltztと江利チエミ
ご存知の曲です。在学中のころからやたら巷にあふれ、TVの無いこの時代、ラジオから流れる野球中継と音楽が楽しみでしたが、敗戦後これほどまでに親しまれた洋盤が他にであったかなあと思います。本場アメリカでも大ヒットし唄っていたP/ページのレコードのプレスが追い付かなかったなどのニュースもありました。街のレコード屋さんも予約販売をしたりで大ヒット、街の小さなパチンコ屋まで店内で流し近所のパチンコ屋の小父さんが「ワルツは打ち玉のテンポに向かず客の回転も落ち、内の商売は軍艦マーチが一番だよ」と笑ながら言っていました。在学中のタイプの時間には先生の目を盗んで英文の歌詞を打ちこんで、ほとんどの生徒、同学年がやっていました。放送部が流す昼休みの校内放送もこればっかり、街なかの街宣、珈琲店や銀座の不二家でも、あの神田の三省堂の店内にも流れていたことがありました。其処へ彗星の如くあらわれたのが15・6歳だった江利チエミです。日本語と英語を混合して唄い私と仲間たちは「ジャズ歌謡」なんて言ってました。他の日本のジャズ歌手もこれぞと如く参戦、しかし江利の敵にはなれず、他のジャズ曲を「ジャズ歌謡」で唄い出していましたが、しかしどれもこれも江利の発音・発声・パワーには及んでいたとは思えずその後の江利の活躍はTV、ラジオ・ステージと順風満帆の活躍でした。高倉健との結婚で世間を驚かせ、豪邸の火災、身内からの不祥事、離婚、孤独死とあまりの数奇な人生は終焉となりました。同級の故細田武君との縁で彼女と多少の接触があった私としては彼女の歌謡曲「酒場にて 」は悲しい私のオールデイズです。

第29期同期会でのご縁(その2)                                      29期 仲田元昭   2023年8月投稿

29(2)

”人新世”という言葉が再び・・・ 28期 若月健司    2023年8月投稿 

令和5年8月 28期 若月健司

先月の13日(木)の朝日新聞朝刊で「人新世」という言葉に再び出会いました。その見出しは人間の活動 地球史揺るがすという大きなテーマでその記事の中で「人新」という言葉があったのです。

「人新」(ひとしんせい又はじんしんせい)という言葉は昨年の1月のメルマガの寄稿文に「SDGsと人新と資本論」という文章の中で記載しました。そのきっかけは「人新の資本論」という本(著者:斉藤幸平東大準教授)を読んだことからです。大量生産大量消費を基本とする成長経済から脱経済成長に転換すべきというのが大意と理解しました。経済の仕組みを転換し、地球の限界の中で持続可能にしていく、即ちこれからは「人新時代」に入るべきというのでした。

この度の記事では地球の地質年代を決める国際地質科学連合の人新作業部会(09年設立)が「国際標準模式地」としてカナダのクロフォード湖を選んだと発表したのです。誕生から46億年と言われる地球の年代はこれまで火山の爆発や地殻変動や大隕石の衝突などによる地層の特徴により決められていました。「代」から始まり「紀」「世」「期」と細かくなり100以上の年代に区分されています。ちなみに現代は「新生代・第四期・完新世・メガラヤン期」です。「クロフォード湖」が選ばれた理由は①無酸素で海流がない海底②水深の深い湖③鍾乳洞・サンゴ礁④年こう(堆積物が1年毎にしま模様を作る)などの条件に合致したようです。地球46億年の地質の中で1950年頃から人類による堆積物が急激に多くなったのです。即ち、①プルトニウムなどの放射性物質②化石燃料から生じるブラックカーボン(すす)③マイクロプラスチックなどです。模式地として日本の別府湾も候補に挙がりましたが別府湾は地震などにより堆積物が乱される可能性や年こうが明瞭でないことで外されました。堆積物だけでなく1950年頃を境に①世界の人口が20数億人から90億人に達する②肥料の消費量が0,2億トンから2億トン近くに増加③大気中の二酸化炭素が270ppmから400ppmに達する④陸域の生物多様性の減少が4%から15%に増加など地球の環境は悪化しています。

猛暑の過ごし方・台風の進路・有名人の不倫・マイナカードと保険証・政治家の汚職・政治家の観光旅行・官房副長官への疑惑・某大学の大麻事件・ウクライナ問題など話のタネは多くあります。そんな中で地球46億年を考えた時間はわずかですがすっきりしました。以前、地球カレンダーを作って講座を開いたことがあります。地球の46億年を1年間のカレンダーにすると産業革命以降の約250年は大晦日の31日23時59分58秒というのです。たった2秒間に我々は生きているのです。しかしその2秒間で化石燃料を使い温暖化を招き、核兵器使用を公言し、猿が支配する「猿の惑星」という映画を実現するかも知れないのです。

「人新代」のいう人間活動による堆積物の増加は地球史における一時的なイベントに過ぎないとする意見もありますが、今後この言葉は地質学だけでなく人文社会学や環境問題の分野などで広く用いられると思います。そして「人新」の意味を理解してこの地球と人類が永遠に続くことを祈念します。

以上。

32 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(3)徳川家康と船橋(3)―       29期 仲田元昭   2023年8月投稿

戯言&独言34                                          21期 髙野 昇        2023年8月投稿

タイトル2■8月に思うこと

▼8月も半ばを過ぎ私達年齢からしてみればやはりこの月は”8月6日9日15日”となってしまいます。8月6日は広島、9日は長崎への新型爆弾(当時はそう言ってました)の投下、そして15日は「敗戦忌」、米国では9月2日を大戦終結記念日としているようです。この日は戦艦ミズリー号艦上での締結調印式があった日でした。新型爆弾の恐ろしさは幾多の報道で知らされ、8月6日、9日には何処にいても黙祷を忘れたことはありません。それに8月は学童集団疎開や縁故での疎開に出発した月、私のいた国民学校は山形県上山温泉(現かみのやま温泉)へ500人近い集団疎開、3年生から6年生までの貸し切り夜行列車の大移動でした。

戯言34

私は疎開児対象のいちばん下の3年生でしたが上野駅での父兄の見送りは許されず、出発前の校庭での送別の式典が父兄との別れで、その後の東京大空襲(昭20年3月)で家族を失い最後の別れとなった友人も数多くいました。町の隣組、警防団、知人、親戚などが日の丸の小旗を振り私達はまるで戦地の赴く出征兵士のようでした。病弱の生徒以外は学童疎開か縁故疎開かの二者択一でしたがそんな友たちよくと小松川の中土手にツクシンボを獲りに行ったり、砂町の田圃へザリガニ(私達はエビガ二といってました)釣りやタニシやセリ獲りなどに行った事などはこの日この月が最後でした。当時よく一緒に遊び歩いた宇田川國一君は疎開は別々でしたが戦後避難先の小岩で再開、間借りの家もすぐ近所、小4から中3までクラスも一緒、奇遇な再会に手を取り合いました。今でもメール、電話のやり取りがあり8歳当時からの友人がいる事にお互いに感謝しています。当時の友人はこの宇田川君だけとなりました。

▼8月15日疎開先で聞いた天皇の詔勅、9歳の身で何の事やらサッパリ判らず敗戦を知ったのはその数時間後か翌日でした。「これで家族の処に帰れる」が頭に走ったのは確かです。同年11月に避難先の小岩に帰りました。6畳と3畳の二間に家族7人で起伏していましたが両親、兄妹と同じ屋根の下で暮らす戦争のない毎日の安心感に食糧難ではあったが幸せを感じました。敗戦以降マッカーサーが唱えた日本の非軍事化、民主化政策、婦人参政権など矢継ぎ早に指令を出し大きく国柄をかえました。先ず天皇は国威ではなく單なる象徴、主権は国民、財閥は解体、表現、結社、言論は自由、そして私が思うに「農地解放」と「教育改革」はその後の日本の在り方に大きな変革をもたらしたと思っています。

戯言34-2


▼6・3制の義務教育化などは最たるもので私達年齢層は”新制中学生”と呼ばれていました。三商最後の旧制中学5年生だった兄はこの改革で高校3年生になれたものを家庭の経済的事情で在校進学せず、学校の斡旋で新光レーヨン(現三菱マテリアル)に入社しました。新制中学の授業では歴史の授業は皆無となり新たにホームルーム、社会科、家庭科などが加えられましたが教材となる資料に乏しく音楽の時間では「リンゴの唄」を何度も唄っていたこともりました。ある友人が田端義夫の「帰り船」を皆で唄いたいと真面目な真剣な顔つきで先生に申し出ましたが勿論却下、この唄は復員船に乗り帰国は出来るものの、敗戦による虚しさ、悔しさ、帰国できるうれしさ、国敗れて山河ありの複雑な思いを船上に飛ぶカモメに語りかける哀愁を込めたメロディーと歌詞です。彼の父親は既にビルマで戦死しており仲間は皆そのことは知っていましたが、今思うと悲しく思い出す彼の顔、夏休み中の登校日にあったあの時の8月です。「農地改革」で有難みを受けた農家は食料不足で買出しに来る人々が増え、消費者は金がないので殆どが”物々交換”ですませ、農家は一時「農地大臣」とまでいわれていました。そして今、農業人口もグンと減り田畑が税金対策の「生産緑地」となっているものの草ボーボーの休耕田、自家消費のみの田畑の姿をよく見かけます。教育改革だけは周り径もあったけれど今以て維持され、現在の文化、教育、企業の発展などに大きく寄与しているのは事実だと思っています。

▼在学2年生の時の8月、気の合う友人と連れ立って葉山の森戸海岸に行き、3年生になってもそのメンバーでよく行ってました。当時はまだ今の様な高級リドート地ではなく混雑もなく夕日の沈む美しさを眺めてから帰宅しました。錦糸町駅前の「蕎麦屋」で皆で盛り蕎麦を食べ解散、盛り蕎麦が20円の時代でした。卒業後も数年つずいており各勤務先の保養地の温泉巡りも何年か続けていました。石塚芳男君、鹿野宗治君、西村義雄君、小枝昇邦君、8月になると思い出す懐かしいメンバーです。

雑句 ・青天に あの日八月 さまざまに

***写真説明…

■左から鹿野君・西村君・小枝君 後列は石塚君

「リンゴの唄」SP盤レコード(実家にかつて保存してあったもの)

イノシシ倶楽部 久しぶりに子ども達と・・・                     28期 若月健司    2023年7月投稿 

令和5年7月
28期 若月健司

コロナ禍騒ぎもようやく下火となり、私の所属する「イノシシ倶楽部」の活動が本格的となり、先月は2回にわたり子ども達に接する機会がありました。この倶楽部はNPO法人えどがわエコセンター内の会員20数名からなる団体です。出前講座や各種イベント出展やすくすくスクール(放課後授業)などで環境問題に関する啓蒙活動を行っています。

その1 「環境フェア」 6月4日(日)9:00~15:00 於:江戸川区総合文化センター

テーマ ~手作りCDコマを回そう~
材料は使い切ったCDとペットボトル(羽根部分)を組み合わせ、それに箸を通してコマを作 るのですがそのCDやペットボトルにサインペンで絵を描くのに子ども達は夢中になります。そして出来上がったコマを回した時の子ども達の達成感に満ちた顔をみると「ワ~やった~!」とみんなで拍手をします。昼時間を挟んだ長時間でしたが用意した80組がなくなりました。スタッフは6人でしたが高齢者が多く終わった時はぐったりの状態でした。

その2 「出前授業」 6月30日(金)9:30~12:10 於:西一之江小学校5年生

テーマ ~地球の環境問題って何だろう?~
体育館(全員) 画像・映像・クイズなどで地球温暖化の原因など説明→温暖化への取り組み→再生可能エネルギーって何だろう?
各教室(クラス毎) ~持てるかな?エネルギーのかばん~
1人1日当たりのエネルギー消費量を石油に換算した場合の重さをアメリカ・日本・中国別のカバンを用意して子ども達にそれぞれのカバンを持ってもらう体験授業。

私はこのかばんのテーマは初めての体験でしたので先輩スタッフの活動を見習うだけでした。

振返って
昨今、SDGsと言って環境問題に熱心になっていますが、江戸川区では20年近く前から「日本一のエコタウンを目指す!」として「NPO法人えどがわエコセンター」を立ち上げ人事の面や予算の面で支援しています。私もイノシシ倶楽部に所属して20年近くになります。子ども達を対象に活動してきましたがその子ども達もいまや成人になっていますので、私たち年代よりこれからは若い人たちに環境問題の改善に取り組んで欲しいと思います。

*すくすくスクール(放課後授業)の今年度予定 令和5年8月~令和6年2月
申込校:14校 スタッフメンバー10名程で対応予定
プログラム:手作り風車を回そう! 風力体感「エコ・凧作り」 手作りCDコマを回そう
えこちょいす(買い物ゲーム) E*カプセル(宝さがしゲーム)
ゼッタイ!エコガインダー(DVD視聴)

この活動がどれほど効果があるのかいつも?に思いますが、やらないで逃げるよりいいと思っています。

以上。

31 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(2)徳川家康と船橋(2)―       29期 仲田元昭   2023年7月投稿

戯言&独言33                                          21期 髙野 昇        2023年7月投稿

タイトル2魔球の杉下さん逝く

🥎プロ野球界のレジェント杉下茂さんが6月12日、98歳で他界されました。今でこそフォークボール(以下FBとします)は投手であれば誰でも投げる球種ですが杉下さんは日本球界のFBの元祖で魔球と呼ばれたFBの開拓者でした。私が初めて杉下さんを観たのは杉下さんが明治大学に在学中の、上井草球場だったと思います。友人の父親に誘われ友人と3人でいきました。対戦相手はどこの大学かは記憶にないのですが相手チームのユニホームが眩しいほどの白だったので早稲田大学かもしれません。ほとんどの選手が学徒動員で戦地に赴いた中、幸運にも前線で敗戦を迎え復員帰りだったと思います。早稲田の岡本,石井藤吉郎、慶応の大島、明治の大下、そして杉下、早稲田大が戦時中隠蔽していた100ダースほどのボールとマッカーサーから寄贈されたバットを使用していたそうです。今はボールに少しでも土や汚れが付くとすぐボール交換、75年前との環境の差をつくずく感じます。

戯言33

🥎帝京商業ー明大ー中日と機会あるごとに恩師天知俊一氏の恩恵を受け数ある投手の栄冠を全て受賞、天知氏から「FBという球種がメジャーリーグの投手の一部が投げている、指先の間隔が広い君には向いているかも」と指導を受けたとの事、杉下さんの著書にも書いてありました。杉下さんの人差し指と中指の間隔は90度は楽に開き、指の長さも人並み以上だったのでしょう。20年以上前か、ロッテに在た村田兆治氏(故人)とのTV対談で改めてその凄さを確認しました。FBは空振りを獲るための球種で、捕手の額を目掛けて投じホームベースにワンバウンドになり落差は80㎝から100cm、これがFBだとの話に村田氏も納得、「君のあの独特なマサカリ投法はそれにピッタリ」と賞賛しており村田氏は凄い感銘を受けたようでした。

🥎昭和27・8年頃だったか杉下さんは当時の西澤、服部選手(この両氏の背番号15と10は中日球団の欠番となっている)らと共に天知氏の自宅を訪問、「2・3年後には優勝したい」と監督復活を直接天知氏に懇願、天知、杉下の強力なラインが復活し昭和29年の日本シリーズで中西・豊田・大下・関口等を擁したパリーグの覇者西鉄を破り覇者となりました。セリーグのライバル巨人の川上哲治氏は「あのFBはボールの赤い糸目がはっきりと見え数回転しかせず、打者の2メートル手前で落ちる、それも全てワンバウンド、見逃しせず全てバットを出したがヒットを打った記憶は殆どない」と当時の「野球界」という雑誌で述べていました。西鉄の中西太さんも「同僚の稲尾も凄かったが杉下さんには程遠かった」と同誌で語っていました。TBSのTVやラジオの解説者としての発言で「現在の投手の投げるFB、あれはFBではなく昔のドロップで今のスライダーも私が投げていたカーブに近い、スライダーとは水平に曲がり打者のアウトサイドを鋭く衝くボールのことである」ことを何回も力説していました。そのとうりだと私は今でも思っています。

戯言33-2

🥎完投する中でFBは3・4球しか投げておらず直球とカーブで勝負、コントロールの抜群の杉下さんでした。在籍の長かったドラゴンズの後輩たちには毎年のキャンプに同行し、星野、小松、川上、山本昌、吉見などを臨時コーチとして育てていました。輝かしい中日での戦歴の中、背番号20は欠番にもならず(大毎オリオンズに移籍して4勝し他チームに移籍したためか欠番にならず)その後も阪神、巨人のコーチも務め杉下さんの寛大さ野球発展の為の寛容な思いに改めて感服する次第です。

🥎生涯成績は215勝123敗、防御率2,23で、高齢の野球評論家数人が曰く、「杉下さんに準ずるFBを投げたのは野茂、村田、佐々木くらいだろうか」と訃報を載せたスポーツ紙が書いていました。100歳近くまでプロ野球を愛し、輝かしい記録を残し天寿を全うした杉下茂氏、ご冥福を祈り合掌。

🥎日本シリーズMVPに国産乗用車が副賞として送られていましたが(今はどうなんでしょうか)第1回の受賞者が杉下さんでした。地元でもありトヨペットクラウンでしたが当時は豊田市(トヨタ本社がある)ではなく拳母市で立教出の長島氏と同期の杉浦投手(南海ホークス)の出身地、だから地元のよしみで愛知のチームからの受賞者で胸を撫でおろしたかも。豊田市は産業城下町のNO1ですね。

ガイドも楽し!!                      28期 若月健司    2023年6月投稿 

令和5年6月
28期 若月健司

コロナ禍もようやく落ち着いたせいか、街歩きの人達が多くなったようです。今月の6日(火)には老人クラブでサクランボ狩りを兼ねた甲府から河口湖周辺のバス旅行に行って来ました。その際のガイドさんの説明を聴くうちに私自身のガイドのことを思い出しました。これまでの主なガイド経験は三回あり、二つは過去の話で残りの一つは現在も行っています。

*その1 「歩こう会スペシャル」~所属する「くすのきクラブ」の主催で副会長の私がその担当責任者でした。前任者からの引継ぎで平成19年7月11日の第42回から平成31年2月27日の第84回までの42回を担当しました。途中、中止の回もありましたが年に4回実施ですからおよそ12年間にわたり担当したことになります。
日帰りの行事ですが実施日は年間行事予定で決まっています。行事の趣旨として「健康と教養の向上」ですから、それなりの行程となります。参加者は60歳以上の高齢者(男性1:女性2の割合)で平均30人程です。

気を使ったこと・適当な歩く距離・昼食場所の確保(平日の常連客を優先するため団体客の予約が難しい)・迷子と事故(幸い、発生せず)・訪問先の選定(観光でなく社会見学を主眼)

印象に残っているコース
・江戸川区内めぐり:江戸川区の無料バスを利用し、毎年2月に区内の施設をめぐる。6回実施するも残念ながら区の経費節減政策で無料バス廃止となる。今後の復活を期待する。

・第43回平成19年11月14日(水):世田谷八幡宮 豪徳寺 世田谷城址公園 郷土資料館 代官屋敷 勝国寺 若林公園 松陰神社 参加者(男性10名女性18名)
昼食場所が見当たらず小さな洋食レストランを無理に貸し切り状態とした。

・第46回平成20年7月23日(水):国会参議院 日比谷公園 参加者(男性14名女性21名)
昼食場所に予定した「日比谷松本楼」を予算不足で断念。

・第49回平成21年4月22日(水):上野公園内(清水観音堂 時わすれじの塔 時の鐘 東照宮 寛永寺 輪王殿 西洋美術館 その他) 参加者(男性12名女性22名)
昼食に評判の「韻松亭」の予約が取れて良かった。

・第50回平成21年7月8日(水):防衛省 お札と切手の博物館 参加者(男性16名女性26名)
極東軍事裁判の部屋と三島由紀夫演説バルコニー及び割腹の部屋が圧巻。

・第67回平成26年7月9日(水):皇居吹上御苑 東京駅丸ビル 参加者(男性17名女性30名)
予約手続き面倒、風雨の中大変だった。

・第68回平成27年2月25日(水):警視庁本部 法務省史料展示室 参加者(男性14名女性22名) あの”桜田門”に入り納得、赤煉瓦の建物と内部資料に歴史を体感。

・第75回平成28年11月30日(水):東京都庁 熊野神社 エコギャラリー 参加者(男性11名女性21名) 議会場や委員会室や防災センターを見学し、政治の密着を体感した。

*その2 「水輪会」~水輪会はNPO法人えどがわエコセンター内のボランティア団体であるイノシシ倶楽部に所属する会です。「水」に関心のある有志で平成20年から平成27年まで活動しました。会員は10名ほどで私は最初から所属し、平成25年から解散した平成27まで会長を務めました。親子連れを対象に水に関する講座や出前授業や講演会及びバス見学会を行いました。又、「水と私たち」という小冊子を発行し小学校の副読本としても利用してもらいました。

バス見学会
平成21年:①「首都圏外郭放水路・龍Q館」(埼玉県)&「水の科学館」(有明)
平成22年:①「船番所」(江東区)と「江戸川区の防災訓練 ②「浦山ダム」(埼玉県)
③「水の科学
館」と「虹の下水道館」(有明)・・・徒歩
平成23年:①「東村山浄水場」と「コカコーラ多摩工場」②「水道歴史館」・・・徒歩
平成24年:①「荒川知水資料館」と「ヤクルト茨城工場」②「関宿城博物館」と
「キッコーマンもの
知りしょうゆ館」
平成25年:①「花王東京工場」(亀戸)・・・徒歩 ②「足尾銅山」と「草木湖」
平成26年:①「忍野八海」と「富士湧水の水族館」と「花の都公園」
平成27年:①「JAXA宇宙科学研究所」と「ナッククリクラ研究所工場」

振返って
バス見学会は事前に訪問先の資料を配布したり、訪問先のガイドが就くので手数が掛からないのですが交通事故や病人の発生が心配でした。某年のバス旅行の帰りの高速道路で病人の発生があり、サービスエリアで小一時間待機したことがあります。その際、気付いたことですが「催事保険」の内容やバス会社の対応を事前にしっかり把握しておくことです。

*その3 「史跡ウオーク」~私の所属している「文化財・郷土資料室ボランティアの会」では江戸川区内の神社仏閣などを訪ねる史跡ウオークの際に参加者に訪問先の説明を行っています。企画・運営・準備などは主催者の江戸川区教育委員会郷土資料室が行います。春秋の各2コースと実踏(下見)があり、行程は午後の半日で約3キロ程歩きます。公募の参加者20名程と事務局員3名とボランティア5名ほどの構成です。説明は全員に用意された説明資料を基に行いますが、内容はオフィシャルに公開された説明文です。神社仏閣の開基者・中興の祖・由緒話・宗派・所有文化財などですが、私はそれに若干の話を付け加えます。例えば・鳥居は大きく分けると2種類ある・浅草寺と浅草神社は同じ漢字で読み方が違うのは何故か・別当寺とは・本地垂迹説とは・仏像の種類・参拝の作法・宗派の違いによる焼香・神社と寺の違い・第六天などです。又、時代背景を話して訪問先を立体的に説明することを心掛けています。

現在はその3の「史跡ウオーク」だけの活動ですが、体力の続く限り継続したいと思っています。

以上。

30 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(1)徳川家康と船橋―         29期 仲田元昭   2023年6月投稿

30(2

マップをクリックするとPDFの状態で表示され拡大できます。

戯言&独言32                                          21期 髙野 昇        2023年6月投稿

タイトル2弁当の友(弁友)

▼弁当の友などと言えばスーパーなど売っている冷凍食品かと思うでしょうが違います。昭和26年に三商に入学した時(1年2組担任は横山文夫先生)あてがわれた教室が校舎東の角にあった階段教室でした。理科の授業に使われた教室だろうと思いますが教室の片隅には水道が引いてあり(水はでなかった)黒板は上下式2段になっており初めてこんな黒板があるのを知りました。教壇から見ると生徒全員の顔が良く見え、生徒側からは実験の手元がよく見えていたはずです。教室の下は地下室で4・5段降りると濁水がたっぷりと溜まっていました。2学期にはいっても蚊が沸いていて教室にも入りこみまいりました。机は2名並びで数段、両サイドと間に2本の階段通路があり私の席は後ろから3段目でした。前の席のA君とはお喋りする機会も多く弁当の時間にA君の弁当がすっかり覗くことが出来、彼の弁当のオカズはかならずといっていいほどふっくらとした”卵焼き”が入っていました。

戯言32

▼私の知る限りの”卵焼き”はフライパンで焼き少し丸めたものしかしらなかったので「いつもすげーなー」と思ったものです。A君も時折わたしの弁当をふりかえって覗き「髙野はいつもいいオカズだね」などいっていました。実は我が家は食料品店をやっていて納豆を始め、塩乾物、缶詰、漬物、野菜の煮物、そして佃煮など販売しており朝の6時頃には店を開け夫々の家庭の朝のオカズ、弁当のオカズの買い物客で忙しく母親が弁当をつくってくれた記憶はほとんどなく全て自作自前の弁当でした。したがってオカズは店から好き勝手なものを多かれ少なかれ弁当箱にいれ今思えば贅沢で豪華だったのでしょか。海苔弁なども底に一枚、中間に一枚、さらに弁当の上にも、さらにご飯にアミの佃煮をまぶし、ウズラ豆の甘煮もたっぷりと添えていました。

▼ウズラ豆の甘煮は当店でのベストセラーだったので両親の目を盗んでたっぷりと弁当箱にいれていました。でこんな簡素な弁当がA君には美味そうに見えたのでしょうか。ある日カツオの角煮と貝のひも(赤貝)の佃煮のオカズの時、お互いに食べたいものだったのか半分ずつ交換しました。彼はよっぽど角煮の佃煮が旨かったらしく、私は彼のなんとも言えぬふっくらした卵焼きが食べたくオカズの交換が週に3回くらいあり、「鮭の塩焼きが喰いたいなァ」などリクエストしてきたりで私は注文に応えていましたが私はただただ彼の卵焼き一筋、ある日彼の母親が「お前が卵焼き好きなのはわかるけど滋養が偏るよ」と言ったとかで卵焼きとは暫くお別れ。でも小ぶりのシュウマイが入っていたり小さく揚げた小エビのてんぷら?などの時もありでオカズの全取り換えをした事もありました。シュウマイなどオカズに食べるなど、町中華で家族7人で一個ずつ食べた記憶しかない私にとってはラッキーでしたね。よく憶えているとおもわれますが勉強はさておき古い古い日記を紐解くとA君とのオカズ交換のことが時折書いてあり「アッそうだったなあ」と思い出す次第です。

▼今はワンコイン弁当が大はやり、どちらかと言えば肉系、特に鶏のから揚げなどバラエティーに富みオカズの多さに驚き、飽食の時代が慢性化しています。私達の時代からみれば豪華そのもの、昔の遠足は梅干しのおにぎり、小6の時の遠足で修学旅行と称して”江の島・鎌倉”に行きましたがふかし芋2本が私の弁当だったのが悲しいやら懐かしいやら、「衣食足りて礼節を知る」なんて言葉を当時は知ってはいたが礼節があったかは兎も角、オカズの交換で友人が出来たなんていい時代でした。彼の本名は勿論知っていますが2・3年生時にはクラスも別れ、時折廊下ですれ違う程度、弁当の話など無く卒業し就職したか、進学か自営か、それとも既にか…判りません。弁友だったのがA君の負担になるかなどの思いを巡らしあえてA君としました。

▼”入谷の朝顔市”が4年ぶりに開催。7月6・7・8日です
そこで雑句

色さえて 入谷の朝の 人だかり

戯言32-2

「言葉」は大切と思います・・・                       28期 若月健司    2023年5月投稿 

令和5年5月
28期 若月健司

先日、テレビを視ていた時にウクライナ紛争を描いたドキュメント映像で「言葉」の大切さを感じました。映像制作者の妻が発信した「彼は戦争によって殺されたのでなく、人間によって殺されたのだ」という言葉です。因みに夫である映像制作者はロシアによる爆撃で亡くなっています。私が特に感じたのは戦争によって殺されたというくだりにある戦争という単語です。戦争という単語で表現されると何か人間の手を離れた物体が襲来してきて人間を殺傷しているようなイメージが湧くのです。人間の手では遺憾ともしょうがない自然災害のような諦観が湧いて思考停止になるのです。

しかし少し考えるとそうではないのです。戦争は人間が引き起こすのです。防ぎようが難しい自然災害と違い防げるのです。まさに彼女の夫は人間によって殺されたのです。戦争による戦死者が〇〇名と発表されると「戦争だからなあ」とそこでへんに納得して思考停止になりがちです。戦争という言葉に「殺しても良い」という免罪符を与えていないでしょうか。「人間が〇〇名殺した」と聞くとギョッとします。

最近の話題の中にも「言葉」を大切に使って欲しいなあと思うことがあります。「新しい資本主義」の新しいとはどんな意味か私自身の不勉強のせいか良く理解できません。何か新しいという言葉を使えば将来が明るくなるということでしょうか。具体的にどうすればどうなるのかの説明が省かれているのです。「異次元の少子化対策」も然り、金銭的な対策でなく、30年以上も前から予想された少子化ですからもっと根本的な議論が必要と思います。異次元という言葉に惑わされています。「ヒロシマ・アクション・プラン」にも今更なんだという気持ちがあります。「G7」に便乗しての言葉遊びに見えるのです。八つ当たりかも知れませんがなぜカタカナですか?核兵器の被害国の日本が核兵器禁止条約にも参加しない現状では世界の国々が?に思うのは当然でしょう。

最近、メディアの世界でもアルファベット表示やカタカナ語表示が盛んです。何となく意味することは理解するのですが具体的に日本語で説明して欲しいと思うのも年のせいでしょうか?先週の日曜日には三年ぶりの地域まつりがあり老妻とちょっと覗いて来ました。すごい人出で模擬店の前は長い行列が続いていました。特に気が付いたのは若い人たちや子ども達の多さでした。そんな混雑に身を置くと逆に孤独感に襲われて「世代の交代」を感じ「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を思い出しました。この平和が長く続くことを祈っています。 以上。

29 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(27)山野浅間神社(2)―         29期 仲田元昭   2023年5月投稿

戯言&独言31                                           21期 髙野 昇        2023年5月投稿

タイトル2かみのやま温泉
戯言31

▼GWも押し詰まった5月6日、山形県”かみのやま温泉”を訪ねました。ここは戦時中の学童疎開で昭和19年8月から翌年5月まで過ごした思い出深い土地です。特別な観光地でもなく温泉宿が林立しているでもなく、駅前はGWとは思えない閑散さでした。疎開の日は夜行列車で12時間、初めて乗った夜行列車にみんな興奮気味で上野をでました。上の山で是非見ておきたい場所が2か所あり、単独で行くつもりでしたが高齢を心配して息子夫婦、それに家内の4人旅となりました。今は特急「つばさ」で2時間半、福島ー米沢にあった鉄道ファンにはたまらないスイッチバック3か所も今はすいすいと通過、豪雪地域でもあり列車の避難の為の”雁木”だけが当時の名残りのようにあり、それもアッという間に通過しました。

戯言31-2

▼昭和49年(1974)、お世話になった地元の方々に感謝の気持ちを込めて有志数十人で亀戸天神社の「藤」の苗木2本を上の山市内の月岡公園に植樹しました。あの日、市長をはじめ疎開児の寄宿先だった旅館の方々、私達20名ほどで盛大に植樹祭が行われ地元の新聞、TVの取材もあり、その数年後、市のご厚意よって記念の立派な石碑が建立されました。その「藤」もあれから50年近くたちましたが見事に成長しており、本家の「亀戸天神の藤」には及ばずとも東屋の棚に見事な紫色の房を見せていました。戦後復元された上の山城とのマッチングも素晴らしく亀戸天神とバックに見えるスカイツリーとの「親子藤」に感動しました。学童疎開を語り継ぐ先輩、同輩も残り少なく月岡公園に残る「藤」と石碑が無言の語りべとなって欲しいと願う思いでした。

戯言31-3

▼次に訪れたのは疎開時に宿泊していた温泉旅館です。かみのやま温泉の湯元にあり「湯町」と言っており当時は湯治客相手の二十軒ほどの旅館街でした。歌人斎藤茂吉の生家もこの中で「山城屋」という旅館をやっており、私達の亀戸第一国民学校の疎開児200名ほどがこの旅館街に寝泊まりし近在の地元の学校を借りて通学していました。私の居た旅館は「ふじ金」と言いその中でも一番小さく男女合わせて23名で寝起きをともにしていました。宿の主がとても優しく預かった子供達への気配り、目配りも良く、食事も規定外のものを時折出して頂き「鯉こく汁」や「鯉のあらい」など東京ではまず食しないものを時折いただきました。戦後も何度か家族や友人などで訪れて親交をさせていただきました。その時の部屋、風呂場、玄関など当時のまま残されており私自身の高齢もありこれが最後の訪問ときめ行った次第。息子さんの代に変わっていますが父親から疎開児の話は聞いていたそうで私達が寝泊まりで使用していた部屋や温泉の湯舟、毎朝「教育勅語」を唱和し食事をしていた十畳ほどの部屋が殆どそのままでした。息子さん夫婦も80歳を過ぎ宿泊客は取らず一日休憩のみになっていました。

▼小学3生9歳の時のあの寒さ、空腹、寂しさ、東京への望郷、昭和20年の3月5日に卒業で東京へ帰った6年生6名の内3人が4日後の東京大空襲で焼死してしまい残留していた5年生以下の中でも2人の同宿者の家族が一家全滅焼死していた報せをうけたのは一か月後でした。そして疎開学童は全員が近在の寺院にて移る(傷痍軍人が温泉治療で宿泊する為)ことになり 私達数名は親に頼んで縁故疎開を選択し昭和20年〔1945)5月にいったん帰省し私はその3日後に銚子の伯母の家に再疎開となりました。思い出ゴッコといわれればそれまでですが、各人それぞれの思い出は「自分史」であり小さな歴史でもあります。

▼以上二つの場所を拝見し、湯町を散策し日帰りの慌ただしい一日でしたが数々の思いとが脳裏を走馬灯のように走りその夜は興奮気味の一晩でした。

久しぶりのお花見で交流復活!!                        28期 若月健司    2023年4月投稿 

令和5年4月
28期 若月健司

今年のお花見は地球温暖化のせいか例年に比べ早くなりました。コロナ禍も落ち着いたこともありますがお花見と称して皆さんと集まる機会が3回ありました。

最初が3月24日(金)の「夢ぽすと」の集まりです。この集まりは「江戸川総合人生大学」のまちづくり学科3期生の私を含めた有志が在学中の平成19年に立ち上げた会です。趣旨は「ホッとする居場所づくり」で1~2ヶ月毎に講演会・新年会・忘年会・都内の街歩き・季節ごとの催事などを行って来ました。しかし、30名ほどの会員の中から高齢化が進んだり、認知症気味な方が出始めた為、令和4年3月をもって解散しました。その後、コアな有志だけでの集まりでもという声が出て今回の「お花見兼ランチ会」となったのです。私は当日の午後「くすのきクラブ」(老人会)の「カラオケ愛好会」の定例会がありランチ会のみで途中退席したのですが、出席の皆さんと久しぶりにお逢い出来楽しいひと時を過ごしました。特にI代表が連れてきたお孫さん二人が高校生・大学生となっているのに時の流れを強く感じました。この会を立ち上げた当時は二人とも小学生でした。コロナ禍でしばらく休会中でしたので尚、その成長ぶりに感無量になったのかも知れません。

2回目は3月25日(土)の「壇風会」のお花見です。この会は当団地内の有志での集まりで俗にいう飲み会が中心です。例年近くの公園で開いていたお花見会を久しぶりにやろうということでしたが、残念にも当日は雨でお花見が出来ず急遽団地内の「談話室」での宴会になりました。飛行場の元管制官のOさんが世話人です。高齢者ばかりの10人程ですがそれぞれが異業種出身ですので、その体験談を交えた話に盛り上がりました。

3回目は4月1日(土)午前の江戸川総合人生大学同窓会主催の「花見会」です。場所は江戸川区の「葛西臨海公園」です。午前10時にJR臨海公園駅前の噴水に31人が集合し先ず「パークトレイン」に乗って園内をガイド付で廻りました。そして「桜並木」をゆっくりと散策し、集合写真を撮り現地解散となりました。その後の昼食や観覧車乗車は各自の自由行動でした。コロナ禍の為同窓会の活動が自粛気味でしたので当日は先輩・後輩との久しぶりの会話が出来、楽しい半日でした。

以上。

28 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(26)山野浅間神社(1)―         29期 仲田元昭   2023年4月投稿

戯言&独言30                                           21期 髙野 昇        2023年4月投稿

タイトル2
戯言30

◎旅立ち
旅だちの4月、新しい職場や学校に向かい一歩前に進む姿は、見ている私達も心が弾んでしまう、ましてや家族や身内にそんな該当者がいれば尚更である。高校卒業生は入学から卒業までをマスクと共に過ごし、体育祭や文化祭もままならず、修学旅行もなく授業はリモーに。当たり前の事も出来ず「不条理」の世の中の3年間を終えて旅立って行った。可哀そうな世代と思って仕舞いながらも、それをステップに明るい未来と夢を描き乍ら前進する。「昨日があって今日がある、明日の日は今日より前へ」「一歩後退、二歩前進」。そんな思いを持って私が江商(現兼松)に入社したのは卒業式から3日目からだった。江商は一商と三商からしか採用せず当校から5人が受験、パスしたのは私だけだった。英語は自信がなかったが時事問題や珠算に高点が得られたと後日人事部長が教えてくれた。卒業式3日目に入社と言うより研修期間だったので珠算と簡単な英語のテスト的な毎日であった。ある日「今日は社長が諸君に会いたい」というので心して置くようにとの人事部長からの注意があった。社長は”駒村資正氏”と言い当時の「ジェトロ」の会長でもあった方で社長車はGHQ払い下げのリンカーンだった。一緒に入社した一商の二人とともに「わーっ!すげーなー」と目を丸くしたほどだった。ジェトロについては三商の社会科の時事問題の時間に習っていたので社長からの質問に難なく答えた記憶がある。背広など着ているわけもなく三人とも詰襟服でそのまま2か月くらいを過ごした。研修期間中の楽しみは毎日日替わりの仕出し弁当が提供され、その旨さと、もてなしは今も忘れ難い。現在の”コンビニ弁当”の比ではない豪華な昼食だった。4月に入り早々に人形町のこじんまりした料亭で高卒入社3人が呼ばれ是が入社式だった。今では考えられぬ粋でお洒落な式であった。それほどまでに新入社員を大切にする会社なんだと先輩入社していた19期石原さんからもうかがう事ができた。

戯言30-2

◎和暦と西暦
「昭和でいうと今年は何年なんだろうか」とフト思って仕舞う事がある。昭和に生きた50数年はその年代を西暦で言われたり読まされたりしても、歳のせいもあるが背景の社会の様子、世相がすぐには思い浮かばない。生まれたころから国内も世界もキナ臭く昭和11年2・26事件、同12年日支関係、同16年日米開戦、同19年学童疎開、20年の東京大空襲と敗戦、焼け跡‥‥いずれも和暦の昭和何年と正しく記憶している。昭和の年に25をプラスすればいいのに背景は他人事のように感じてしまう。私が西暦を身に感じ始めたのはあの「東京Olympic」のポスターが街中の公共機関に貼りだされたときからである。亀倉雄策氏の陸上の短距離のスタートをモチーフにした写真の秀逸さ、そして鮮明なデザインのもの、どれも昭和などの書き込みは無く大きな文字で”1964”とあった。そのころから西暦の確認、認証度は身近なものになってゆく。スマホでもパソコンでも生年月日は西暦、自分の事は兎も角、孫などのを入力する時はとまどう。平成・令和となりまたまた混乱。役所などは今もT・S・Hで少しほっとしている。その他にも昭和11年のベルリンオリンピック、15年の紀元2600年祭、ベルリンOPの時、父が新しくラジオを買ったと後年きかされた。紀元2600年祭の時、町内会の「隣組」の代表として父が皇居前の祭礼に出席、天皇拝謁ができるといって行っては見たものの天皇の「て」の字も見えず無駄足だったと母がいっていた記憶だある。三商入學は1951年というより昭和26年といってしまう。GHQ占領下であっても西暦はだれも使用せず、和暦が堂々としていた。そして昭和の60数年が終わった。

◎WBC
近年開催されたスポーツの世界選手権、ラグビーフットボール・サッカーも素晴らしかったがこの春のWBCはさらにその上を行った。優勝した事はもとより日本の日本人のもてなし、顕著さ、偏見の無さ、清潔感全てが世界の国、人々から賞賛され、こんな例は政治家の働きの数百倍の価値に価する。放送された映像で試合中でもベンチの中は塵一つゴミ一つ落ちていず、大リーグなど見ているとゴミ捨て場のような光景とは天と地の差、ボックスに入り「唾」をぺッぺッと吐く他国選手も多い中、侍ジャパンには誰もいない。品行方正、秩序の維持、礼儀正しさは本来の日本人がもっている当たり前の作法でもあるが、改めてTVから全国民に再認識させた効果は大である。決勝の日、大谷が「大リーガーとはいえ相手選手、チームに憧れてはいけない、ここに立てば力は同じ」名言だ。負けたチームにも選手一同拍手で送る、デッドボールをあたえた相手選手に菓子を沢山持って翌日謝意に行く美談の連続、今年の流行語大賞にはWBCからいくつ選ばれるか楽しみだ。

 

雑句三首

●花筏(いかだ)流れて先を争わず 

●河流れ 置きざれにされ花筏 

●墨堤や 雨も似合うか桜餅

私は”逃げ切り世代”か?    28期 若月健司 2023年3月投稿 

令和5年3月
28期 若月健司

昨年12月初旬に「私たちの地方自治」~とりもどそう、本当の地方自治~という講演を聴く機会がありました。講師は京都橘大学の岡田知弘教授です。地方自治についての話の内容は勉強になりましたが、その中で心に残った言葉があります。それは「未来が其の胸中に在る者之を青年と云う 過去が其の胸中に在る者之を老年と云う」と云う言葉です。これを残した人物は自由民権運動が盛んだった頃に活躍した高知出身の植木枝盛です。明治憲法制定までの天皇中心とする集権的国家運動と地方自治体を基本にした立憲主義にもとづく連邦的国家運動が対立していた頃です。

この言葉をその字句通りに読めば「青年は過去を知らず未来があるし、老年に未来はなく過去しか知らない」でしょう。しかし、これを残した植木枝盛の時代の人達の平均寿命は40歳代で彼自身は30歳半ばで逝去しています。まして明治維新に活躍した人達は20歳代前後の青年です。このことを考えると当時の老年に属する植木枝盛の云わんとすることは「自分を含めて老年よ、過去に浸らず未来の国造りに努力せよ!」ではないでしょうか。

これを現代に置き換えると平均寿命は倍になりましたが、国の環境は当時と似ているようです。明治維新(1868年)から太平洋戦争敗戦(1945年)までが77年間、それから昨年(2022年)までが77年間です。これからの77年間に何か大きな変動が発生する予感があります。昨年から今日まで国の根幹に大きく影響するような事象が頻繁に発生しています。

世界では*ウクライナ紛争から第3次世界大戦突入*核兵器使用も辞さずの雰囲気*軍事力拡大競争*温暖化による地球環境の悪化*台湾問題と米中対立

国内では*低支持率政府による政治の不安定*国民議論のない原発再稼働*隣国との外交悪化*軍事費倍増と少子化対策倍増のアンバランス*安倍・菅政権と日本の国力低下の因果関係検証不足*物価高による国民負担の増大*旧統一教会と政治の検証不足*財政規律からの高金利不安*言論の自由への圧力増大

いつの時代でも心配事はありますが、私の生きて来た今日までを振り返ると戦後のもの不足の時代がありましたが、高度成長を経験し、バブル時代も謳歌しました。幸い戦争は経験しませんでした。そして現在は年金生活で過ごしています。そのような中で子供や孫の顔を見るとこれからの社会が平和で推移していくのか気になります。私の年代はこのまま所謂「逃げ切り世代」になるのでしょうか?いや、子どもや孫も戦争などを経験しないように平和に暮らせるよう老年達が努力しなければならないと思います。前半の植木枝盛の言葉を思い出し老年も現在に安住せず未来を胸中に持つべきと思います。より良い社会の実現に努力したいものです。 以上。


27 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(25)龍神社(3)―         29期 仲田元昭   2023年3月投稿

戯言&独言29                                           21期 髙野 昇        2023年3月投稿

タイトルロゴ2022.06~仰げば尊し

▼まずは卒業した三商後輩の皆さんに”おめでとう”と申し上げます。この三年間マスクと共に過ごし、たまたまマスクをせずに校内の廊下で友人とすれちがっても誰だか分らなかったなどの冗談もありました。卒業式はどうだったか分からないが進学にせよ就職にせよ、いつもポケットにマスクをしのばせていることは必須です。

▼昔日の卒業式では“仰げば尊し””蛍のひかり”が当たり前のように奏でられ、泪ながらに唄った記憶があります。孫が小さい時「この歌って紅白歌合戦の歌だ」と思っていた時期がありました😃。”蛍のひかり”は兎も角”仰げば尊し”のメロディーと歌詞は心に滲みる曲で当時を振り返るのには懐かし曲です。新制中学時代、当時は戦後直ぐのせいもありどの教科も教材もなくB3位の印刷物を家庭に持ち帰りB5の大きさに各自が裁断し母に和綴じにしてもらい教科書にしていました。

戯言29

▼中学の3年間担任だったK先生は千葉師範出の方で全てにおいて教えて頂きました。体操の時間(当時はまだ体育とはいっていなかった)先ず野球の指導、ルールから始まり打撃技術といってもグローブやバットが有る訳もなく全て素手、ある日先生はバットをもって学校に来ました。実はK先生は師範生の頃野球部に属しその中の自前の貴重な一本でした。「このバットはルイスビル社製であのベーブ・ルースと同じものだよ」と言い甲子園の大会を目指していたそうです。伝説的なベーブ・ルースの話もこの時知りました。校内遠足で鳩ノ巣(奥多摩)に行ったときは”石”の存在年数や種類、夏休みは夜間に希望する生徒を集め校庭に寝転んで星座の名称や存在位置、江戸川の土手に生える雑草の名、小学校のプールを借りての日本泳法の伝統と指導などそれは限りなく3年間続きました。TVのクイズ番組で難問が出て私が難なく解答していると家内が「よく知ってるのね」と笑いながら言われる中でK先生から教えを賜ったものが数々あります。学業以外、K先が知っている限りの知識や思想などの考え方全てが私の日常生活の中で存在しているのを日々確認しています。仰げば尊師です。

▼卒業式の時に限らず日常的になっている「蛍のひかり」、この曲は英国の現国歌が制定される以前から国歌的存在であったらしいのです。蛍の灯りや雪明りで勉学に励む、詩としてはすばらしいが何か私には馴染めない部分がありました。そんな中、米映画「哀愁」(1943年作品、ロバート・テイラー、ビビアン・リー)を兄に誘われ日比谷映画劇場で見ました。そのなかで二人がダンス会場で踊る長いシーン、その時のバンドが奏でる曲が「蛍のひかり」でした。1小節が終わるごとにバンドマンがキャンドルを一つずつ消してゆく、このシーンの正にピッタリの画面と「蛍のひかり」のBGMでした。ビビアン・リーの美しさはイングリット・バーグマンと共に私の心に今も残っていますが、映画の中でのあのシーンはあらすじは兎も角今もって忘れられないシーンです。三商在学中の文化祭で映画上映が企画され全生徒の人気投票で「哀愁」が選ばれ講堂で上映されたほどでした。

▼今はユーミンの名曲”卒業写真”や先生方が壇上に上がり武田鉄矢の”送ることば”を唄う、そんな学校もあると聞き時代の趨勢には逆らえません。卒業生が新天地を目指して巣立ってゆく子供達の姿、見送る先生と卒業生が各自に別れの挨拶や握手で別れる、この光景こそ本来の姿ではないでしょうか。

写真は手作りの雛でです

第29期同期会でのご縁―60年ぶりの再会を果たす― 29期 仲田元昭   2023年2月投稿

年の初めにささやかな”ほっこり気分”    28期 若月健司 2023年2月投稿 

令和5年2月
28期 若月健司

毎年正月には昨年を振り返りつつ、今年はどんな年になるだろうかと新聞を読んだり、テレビを視ながら考えます。昨年は世界的にコロナ禍も終息せず、ウクライナ紛争も決着がつきそうに見えませんでした。地球の温暖化に伴う広範囲な自然災害が発生しました。米中対立も益々激しくなったり、アフリカなどを含む第三勢力が台頭してきたりして肝心の国連のガバナンス力が低下しています。

国内的には野球の大谷選手の活躍やサッカーの16強進出など明るい話題もありましたが、一方で7月の安倍元総理大臣銃撃事件、それに伴う旧統一教会と政治家の癒着問題が年を明けてもまだ尾を引いています。国民に範を示すべき大臣の更迭が多くあり、政治不信の波はじわじわと拡がっているようです。防衛費倍増や物価高や原発再稼働などの問題を抱えながらも我々の日常は過ぎていきます。

そんな中、昨年11月10日(木)に近所の「区立清新ふたば小学校」の三年生を対象に講師を依頼され務めてきました。依頼の経緯は学校の総合学習の時間に「自分達の住む清新町の歴史を知ろう」とのことで学校から「江戸川区郷土資料室事務局」に講師の紹介依頼が来たとのことです。そして「文化財・郷土資料室ボランティアの会」の会長で清新町に入居開始から40年住んでいる私に講師の話が来たのです。40年住んでいて清新町の変わり様は身を持って体験していますが、行政の専門家でもなく地域の研究家でもないので講師の資格はないと申しましたが、一住民の立場で良いからと言われ講師を引き受けました。

当日は10時30分から30分間ずつ3クラス(1クラス30数名)を廻りました。生徒たちは事前に質問事項を準備していたので「質疑応答形式」で行いました。私もそれなりに下調べをして臨みましたが、鋭い質問もあり、そこまで考えるのかと感心する場面もありました。

Q:誰が埋立地(清新町)を作ろうと決めたんですか?
A:東京都建設局

Q:埋立地はどのようにして作られたのですか?
A:ほかの土地から土を運んで埋めたり、ゴミや産業廃棄物などを埋めたりした。

Q:どうして若月さんは清新町に住んでいるんですか?
A:当時、住居を探していて偶然決めました。
住みやすいのでこれからも住みます。

Q:江戸川区の未来は人口が増えると思いますか?
A:少子化が進んでおり、このまま放っておくと
70万人から45~50万人に減ります。

Q:未来のために今、どんな計画を立てているか知っていますか?
A:知っています。江戸川区では
「2100年の江戸川区 共生社会ビジョン」という冊子を作り動いています。

Q:若月さんが来たときはどんなところでしたか?
A:最寄り駅の西葛西駅の周辺は畑だらけでした。

ほかにも数多くの質問を受けました。生徒たちは男女の区別なく活発で礼儀正しく好印象が残りました。そして年が明けた1月中旬に生徒たちから「お礼の手紙」がA4の用紙で22枚も届いたのです。字体こそ、つたないのですが内容は「ありがとう」の言葉が溢れていて正に「ほっこり」した気分になったのです。明日を担う子どもたちの為に平和な日本を引き継ぎたいと年初に気持ちを改めた次第です。以上。

26 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(24)龍神社(2)―         29期 仲田元昭   2023年2月投稿

戯言&独言28                                           21期 髙野 昇        2023年2月投稿

タイトルロゴ2022.06~日々是閑日

▼コロナ禍も4年目、一向に収束の影も形も伺えず、悠々自適ならず憂悠自粛の毎日、楽しい散策、好きな電車乗りもままならず困ったものである。その間、出掛けたのが二人の孫の進学成就のお参りで生まれ育った亀戸の「亀戸天満宮」に行った事、そして義弟の逝去の家族葬で船橋へ行った事、縁故疎開時(銚子市)にすごくお世話になった方二名がコロナ最中に亡くなり息子が車で「銚子市までつれて行くから」との親切心に甘え、ご家族に身に余る感謝をうけ少し胸の遣えも晴れた事。ついでに東日本大震災で3m近い津波に遭った父の実家(旭市飯岡)をみてきた事。家の中は滅茶苦茶らしいが新築後5年目くらいで外見は修復されされていたが空き家になっており家族は近所に転居、家の中で溺れそうになったことが家族全員がトラウマになっているとの事だった。

▼残念なことに三商時代からの親友、21期石塚芳男君の葬儀に参列できず、細田武君の告別式にも行けず、そして実兄清兄(16期)の葬儀にはご子息家族以外会葬者は一斉ご遠慮して欲しいとの連絡をうけた。コロナ2波、3波のころだった。年末には十数通の喪中はがきが届きこれも鬱の一つ。

▼昨年末、免許証の更新を済ませた。息子達は運転は止めたらというが高齢者二人の日常生活にはクルマは買い物や病院通いには無くてはならず自粛中とはいえ最低限度の外出道具である。雨・風・雪と夜間、繁華街・それに長距離運転は自粛している。高齢者の運転事故のニュースを見たり聞いたりするごとに胸が痛み安全運転を心に誓う日々を送っている。もっぱらの楽しみはパソコンかな。といってもゲームをするわけもなくYoutubuでJAZZや好きな中日dragonsのキャンプ中継を生で見たり時々通販で買い物、最近は電子レンジやホットプレートを買い変えた。コロナに入ってからは外食は一斉せずホットプレートは活躍している。

戯言28

▼そんな中、只々一つだけ心躍らせ熱くなった事がある。孫の一人が通学する城東高校(江東区)の硬式野球部が夏の高校野球の東東京予選で十数年来の宿命のライバルで東東京の優勝候補NO1と目されていた「関東第一高校」に勝った事である。それも1vs1の膠着状態の試合での8回表、走者2塁で孫がタイムリーヒットで勝利し準決勝進出を決めた。MXTVの中継をみて夫婦で興奮、抱き合ってしまった😄。翌日の各スポーツ紙東京版もかなり大きくページをさいていた。この大会の初戦(シード校なので3回戦から)にも9回表2死6vs8の敗退目前の劣勢時に孫が代打で起用されタイムリー同点2塁打、その後相手のミスがありサヨナラ勝ちしていた。結果は準決勝で日体大荏原に惜敗、しかし公立高校がベスト4に残ったのは快挙であった。コロナが無ければ当然神宮球場に行っているところだが孫曰く「神宮で思いきり打てて楽しかった」のひとこと。息子夫婦も子供の野球を応援して9年「これほど興奮した事はなかった」と語り私共高齢者夫婦も孫から最高のいい夏休みを貰ったと感謝。昨年7月の事であった。

▼まったくの独り言…‥コロナも第八波が襲来するか、昔「八波むと志」なるお笑いタレントがいて「脱線トリオ」というグループ。東北弁の由利徹、名古屋弁の南利明、東京言葉の八波むと志…由利徹の「チンチロリンのあっカックン」や「オシャ‥マンべー」面白かったな‥‥余計な独り言でした。

写真説明‥‥関東一高戦で勝ち越しタイムリーをうったときのtv映像

「頑張ろう21期」    21期 髙野 昇 2023年1月投稿 

21期生の髙野です。毎夏、発送されてくる「三商同窓会報」には一昨年、昨年と19期・20期の先輩諸兄の特集ページがありそれぞれの時代背景、校内の雰囲気など諸兄の心意気が拝読しながら伝わってきました。19期・20期ときたら今年は我々21期とおもいますが、同期諸兄、如何ですか。纏まったものを書くなどかしこまることなく「あの時、あいつとこんなことしてたなあ」とか登下校にみた風景、夫々のエピソード、先生との絆‥‥諸々なんでもいいので投稿してみたら如何なものでしょうか。手持ちの写真などは大歓迎されるでしょうね。

既に八十路の峠を越え語り合う仲間も少なくなりました。今年の「同窓会報」を盛り上げようと思う同輩諸兄、やってみましょう。

「あの時の文章を思い出します!!」    28期 若月健司 2023年1月投稿 

色々あった昨年の事件の中で大きいのは「安倍元首相の銃撃事件」です。それに伴って政治家と旧統一教会のつながりが日本の社会を混乱に陥れ、年が変わってもその影響は続くでしょう。新年に当たりふと思い出したのが数年前にある団体の会報に投稿した私の文章です。

~凡庸な悪が拡がっていないか?~

会長 若月健司

数年前に「凡庸な悪」という言葉を新聞などで知った時、なるほどなあと思いました。その時の事例としてナチスのユダヤ人大量虐殺の被告人であるアイヒマンが「上から言われたことをやっただけ」と述べたのです。これに対してハンナ・アーレントは巨悪は極悪人によってではなく、平凡な人間の「凡庸な悪」によって成されると指摘したのです。アイヒマンも家庭にあっては良き夫であり、良き父親で全く我々と同じ家庭人であったようです。

この言葉にぴったりと思われる事象が最近発生していると思うのは考えすぎでしょうか。そもそも「モリカケ事件」も安倍総理大臣の「私が関与していたら責任を取ります」と公言したことから財務省を始め自民・公明与党が忖度し、未だ解決に至っていません。公務員・議員も「安倍さんが責任を取るべき」と思っていても組織の一員に安住し、反論・諫言をしません。「桜を観る会事件」も同様です。明らかに税金を使っての有権者買収事件と思います。内閣府の公務員と野党議員とのヒヤリングでは公務員は板挟みの状態でしょう。彼らも家庭にあれば良き夫であり良き父親でしょう。

「投票率の低下」もいづれは民主主義を亡ぼす一因となります。自分1人ぐらい棄権してもということが「凡庸な悪」の始まりです。国民に範を示すべき総理大臣の行動がおかしいと言える人を期待するのは無理でしょうか。現在の状態が長く続くと「凡庸な悪」が「大きな悪」を呼び込むと予想するのはおかしいでしょうか。 以上。

この文章で連想するのが旧統一教会との接点を問われた議員が「そんな団体とは知らなかった」「旧統一教会の関連団体とは知らなかった」「選挙を手伝ってくれる有難い人」「頼まれれば祝電を打ったり挨拶も行う」等々、国政に携わる人間とは思えない回答振りです。中には「旧統一教会と接点があって何が問題ですか?」というのもありました。自分達の行動が旧統一教会の活動にお墨付きを与えている認識がまるでないのです。アイヒマンと同じとは言いたくありませんがその幼稚さに情けない心境です。

選挙事務所にはいろいろな人達が出入りします。「純粋に候補者を応援したい」「選挙活動マニア」「選挙活動が自己の仕事に役立つ」「議員から有力情報が得られる」「他候補からのスパイ」等、目的はそれぞれあります。従って候補者から見れば出入りする人の目的・経歴・能力などを把握するのは大事なことです。まして秘書や会計担当や幹部についてその身元を承知しておくのはいろはのいです。当然議員は旧統一教会の教義や合同結婚式や霊感商法などのことも承知していたと思います。

「自民党は旧統一教会との関係を断つ」と宣言し、問題はあるが「新法」も制定されたので今年から正常になることを期待します。 以上。

25 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(23)龍神社(1)―         29期 仲田元昭   2023年1月投稿

戯言&独言27                                            21期 髙野 昇        2023年1月投稿

タイトルロゴ2022.06~年賀状に思う
戯言27

▼令和5年用の年賀状ハガキの発行枚数がおよそ16億4千枚と日本郵便が発表した。20年前は40億枚を超えていたのが幻のようである。スマホの普及が急速に広まり若い人を中心にメールやLINEを利用する人が増え、高齢者の間で「終活」が広がり「断捨離」も増え、それらが減少の背景にあるのは紛れもなく事実である。宛名や手書きを書くのが面倒だからやめるとの本音がありながら「終活・断捨離」の名を借りてのチャンスに乗じて「年賀状始末」をした人、する人が増加したのも確かだとも思う。そろそろやめたいと思う人が増えた来たのは事実。

▼今年も100枚以上の年賀状を有難くいただいた。こちらからの賀状に答えて頂けなかった方も数名あり来年からからは出さない事を基本にしている。全ての相手とやめてしまうのには抵抗があり私もその一人、年賀状は日本の文化であり、正月の気分を満喫でき、一枚も賀状が来ない正月など私には想像が出来ない。”誰とも繋がりがなくなり精神的にもポッカリと穴があいた状態に落ち込む”こと然り、そんな事など感じ得ない方々は義理張りだけの思いの賀状投函だと勝手に思ってしまう。義理だけの賀状は私は数年前から出しておらず相手もそう思っている感もありそれはそれで縁切れになっても動揺はない。「やめる・やめない」の選択ではく自身の人間関係を整理し、出したい人、出さなくていい人をキチンと選別し数年かけて減らしていくのも知恵の一つであろう。現役時代の仲間、世話になった方々、学生時代に楽しく過ごした仲間、同一趣味で知り合った友人など私の場合はこれが基本となっている。

戯言27-2

▼小学4年生から始めた友人とは今だに賀状のやり取りが續き、お互いに当時の俗称で書き始め、一言添え書きがあるのは喜ばしい。大事なことは、送る人への人間関係を大切に維持することであり年賀状はその手段のひとつでもある。賀状に「今年で賀状はやめます」のハガキには「数十年つづいた交誼はなんだったのか」と悲しい思いをするのは私だけだろうか。”あなたとの繋がりはこれで終わり宣言”はなんとも虚しい。

▼私は中学生のころから木版画を彫るのが好きで朴木の板にあの当時3本しか買えなかった彫刻刀で出来上がりは兎も角30年近く彫っていた。その後、プリントゴッコが出現しこんないい物が作られたことに感激し早速購入、その後パソコンを少しいじり始めた今はPC用のソフトからのアレンジ、創作した背景や自らの絵手紙風などからのデザイン、これが秋になると「ない頭」の楽しみのひとつである。

▼昨年も「喪中はがき」が10枚近くあり、郵便受けを開ける手もままならない12月だったが、「ああしたこうした」のLINEは見るがいつの日か「喪中LINE」なるもるが存在する時代になるのか考えさせられる。

戯言27-3

「なまえ」 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口)            2022年12月投稿

先日、新聞に子供につける漢字が載っていました。私は女の子が二人なので図書館へ行って「姓名判断」の本を借りてきて、かきやすい字、そして女の子だから「子」をつけました。ひ孫が四人いますが孫達は思いのままです。男の子は綺人(あやと)、愛翔(あいる)、女の子は虹愛(にいな)、心遥(こはる)です。

何か思いがあってつけたのでしょうが、かきづらい字でかわいそうです。私の「和子」は両親が明治神宮でつけてもらった名前です。でも明治神宮では明子(あきこ)か和子(よしこ)と云われたそうです。でも両親は皇女和宮様だって「和」を「かず」とよませているのでなにも「和」を「よし」と読ませることがないといって「かずこ」にしたそうです。

おじの一人は名前に濁点がつくのはよくないと云って「かつこちゃん」と呼んでくれていました。大きくなって男性は「わこちゃん」「かずちゃん」と呼ばれていましたが、たいていの人は「かずこちゃん」と呼んでくれていました。

「コロナ禍の合間か、色々あった11月!!」    28期 若月健司 2022年12月投稿 

傘寿を迎え、名刺に「第3の人生に入ります」と記載し、これからは気の赴くままに過ごそうと気持ちを新たにしました。そんな今年ですが11月はコロナ禍の第7波と第8波の合間のせいか何かと出掛けることが多くありました。

1日(火)終日 「日帰りバス旅行」 くすのきクラブ(老人会)で箱根方面バス旅行 33名参加
鈴廣かまぼこ博物館・箱根神社・仙石原すすき群生地・長安寺・御殿場えびせんべい
の里など見学 *3千円のデジタルクーポン券利用

2日(水)午後 「清新ふたば小学校」訪問 10日の授業「清新町の歴史」についての打ち合わせ

3日(木)午後 「講演会」聴講 テーマ「世界の地震と火山に挑む」 主催:国立研究開発法人海
研究開発機構(JAMSTEC) 於:品川京急第7ビル
*海洋国家日本の海の研究を世界各地で実施中

4日(金)午後 かかり付け医院で年1回の健康診断(結果は月末) インフル予防注射接種
第5回目のワクチンを14日予約

5日(土)午後 「田の上いくこ都議の都政報告会」出席 於:葛西区民館
*中学生英語スピーキングテスト導入の是非 反対の田の上議員は会派から除名

6日(日)午前 「区内一斉美化運動」参加 通勤通学路のゴミ拾い
 午後 「一龍齋貞弥真打ち昇進披露講談会」出席 於:内幸町ホール
*「三商講談会」の主宰者細井進一さんのご逝去を知る

7日(月)午後 三商28期同級会幹事の打合せ会 於:京橋モルチェ 8名参加
*今年の開催は中止とし、来年は開催する予定

9日(水)午後 「秋の史跡ウオークその1」スタッフとして参加 規模縮小し、17名参加
*久しぶりに再開、「境川・小松川親水公園」に沿って歩き、途中のお寺を訪ねる
明治9年に江戸川区に初めて出来た小学校「善照寺」の説明役を担当する

10日(木)午前 「清新ふたば小学校」の授業講師役務める テーマ:清新町の歴史
*3年生3クラスを30分ごとに廻っての質疑応答形式 地域の勉強を熱心にやって
おり、するどい質問もあり勉強になった

11日(金)午後 「カラオケ愛好会」参加 主催:くすのきクラブ(老人会)
*「帰れないんだよ」「昔の名前で出ています」「無情の夢」を唄う

12日(土)午前 「ピアノとフルートの演奏会」出席 友人の息子の嫁さんがピアノ演奏者於:代々木
午後 「講演会」聴講 テーマ:「持続可能な未来へ」 講師:綿貫淳子(元南極越冬隊員)
主催:えどがわエコセンター *越冬地における環境と食品ロスの話

14日(月)午後 コロナワクチン接種 *過去4回は副作用無し、今回は若干だるさを感ずる
夜 「講演会」聴講 テーマ:「これからの幸せ」 講師:五木寛之 座談:田中優子
井上広法 戸松義晴 笑い飯哲夫 於:有楽町よみうりホール
*90歳の五木さんが立ったまま50分間の講演に驚く

15日(火)午前 「風姿花伝を通読する講座」聴講 風姿花伝は能に関する理論書 於:田町駅前
主催:新現役ネット 講師:水野聡
*本講座は昨年9月開始以来月1回で14回目「花」と「幽玄」を理解できるか
夜 「むらさきの会」(田の上いくこ後援会)役員打合せ 於:船堀植むら

17日(木)午後 金沢まゆみ(むらさきの会)会員との情報交換

19日(土)午後 「三菱電機グループ合唱団公演会」出席 友人が団員 於:板橋区立文化会館

20日(火)終日 「歩こう会スペシャル」参加 主催:くすのきクラブ(老人会) 国立競技場のフィールド
内・選手ロッカーなどの見学 国立能楽堂資料室見学 30名参加

25日(金)午後 「カラオケ愛好会」参加 「愛始発」「宗衛門町ブルース」「東京夜霧」を唄う

27日(日)午後 同上 年1回の懇親会「べにばな」を唄う 参加者の唄を録音し、自分の唄を確認

28日(月)午後 「文化財・郷土資料室ボランティアの会」月1の定例会出席 28名出席
*「文化財の保護と活用について」の思いを話す
夜 「読者会」出席 「がんばろう、日本!」の機関紙の月1開催 於:TH船堀
*区議会議員を交えての情報交換

今年もあとわずか、世界的にはウクライナ紛争・世界各地での温暖化による大災害などがなかなか収まりようがないようです。国内的にも旧世界統一教に関する新法制定・原発再稼働・防衛費の増額・物価高・財政規律・エネルギーや食糧の自給率など問題山積です。ドイツ・スペインを破ったサッカーは唯一の明るい材料ですが来年はどういう展望が広がるのでしょうか? 以上。

24 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(22)入日神社―         29期 仲田元昭   2022年12月投稿

「椿の里の瞽女唄ライブ15」を聴いて思い出すこと    28期 若月健司 2022年11月投稿

10月15日(土)「瞽女唄」を聴く機会がありました。江戸川区教育委員会教育推進課文化財係の主催で会場は「一之江名主屋敷」です。ライブは17時30分から18時30分の60分間です。2007年(平成17年)から始まり今年は15回目です。江戸川区学芸員の樋口政則さんと瞽女唄伝承者の月岡祐紀子さんのお二人のご努力で今回まで続いています。私はスタッフとして誘導などを務めた後、ライブ開始後は会場後方で瞽女唄を聴きました。

盲目で生まれた女の子の行く末を心配した親は生きる術を瞽女さんに託したのです。盲目の女の子が生きるのは厳しい時代であったと思います。それぞれでグループを作り厳しい掟で結束し、瞽女唄を唄いながら春夏秋冬門付けをしながら町や村を廻ったのです。

今年は自分の育った少年時代の新潟県刈羽郡内郷村時代をなぜか思い出したのです。昭和20年代から30年代の頃です。戦後10年を過ぎた頃ですが白衣で松葉杖の傷痍軍人さんや托鉢のお坊さんが軒先に訪れて来たのを覚えています。母が茶碗に白米を入れて渡していました。魚売りなどの行商人や鍋の底を修理する鋳掛やさん、富山の薬売りさんなどの物売りが季節季節の変わり目に来ていました。ただ、瞽女さんを見た記憶がないのです。越後の高田市(現上越市)や長岡市は多くの瞽女さんが存在していたと言われています。両市に親戚があったので子どもの頃遊びにも行きましたが、そちらでも瞽女さんは見掛けませんでした。

雪降る高田市内を3人の瞽女さんが瞽女唄を唄いながら歩く昭和時代の記録映画を先日視ました。周囲にカメラを持った人たちが撮影しているのが映っていましたが、その頃には瞽女さん自体が珍しい存在だったのでしょうか。その瞽女さんたちが羽織っているのはコートではなく「角巻」に見えました。「角巻」は当時私の母親をはじめ女性が日常的に羽織っていたのです。その映像を視て思わずジーンとなりました。

最後の瞽女さんと言われた小林ハルさんが105歳でなくなったのが平成17年です。その小林さんたちから瞽女唄を習い現在まで伝承活動を行っている月岡祐紀子さんや企画運営している樋口政則さんに敬意を表するとともにこの「瞽女唄」がいつまでも語り継がれていくことを祈ります。 以上。

23 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(21)海神念仏堂―         29期 仲田元昭   2022年11月投稿

HP投稿記事(2022.11)「我が街 船橋を歩く 神社仏閣」 21期 仲田元昭

戯言&独言26                                            21期 髙野 昇        2022年11月投稿

タイトルロゴ2022.06~私のオールデイズ

▼学童疎開中、宿舎で霧島昇の「誰か故郷を思はざる」を4・5人の仲間と唄っていたら同宿の先生(女性)から酷い叱責をうけたことがあった。朝の「教育勅語」斉唱、夕食前は何らかの「軍歌」の合唱、戦地の兵隊さんを想い心満たして唄うよう毎日の先生の指示、その先生は東京大空襲で台東区小島町の実家が焼失したのを知り早々に退職し帰京していった。自分勝手な先生だなと皆が思っていた。疎開仲間の全員の東京の家(亀戸)も全て焼失、東京に居る家族が焼死した仲間もいて

東京大空襲を知ったあとの宿舎は大混乱となった。ある晩ほとんど全員で泣きながら「誰か故郷を…」を唄った記憶がある。「‥‥♬幼馴染のあの友この友♫‥‥あの山、この河」亀戸には山も河もないけれど長屋・どぶ板:共同水道…全てが消えた。その三か月後、銚子市の伯母の家に縁故疎開しそこで敗戦の詔勅を聴き三カ月後に東京小岩(東京大空襲では被災していない)の家族の避難先に戻った。

戯言26

▼大戦は日本の敗北で終わった。ミズリー号での調印式のあと、駐留米軍兵、軍属、将校クラスの家族向けのラジオ放送が始まった。ラジオさえあれば日本人も聴くことできこれで多くの日本人が180度あの時代と変わった事を実感したはず。数日後、商店街のレコード店から流れてきたのがJAZZの「素敵は貴女」原名”BEI MIR BIST DU SCHON"であった。1935年頃の曲らしくアメリカ国内で大ヒット、戦時中はアメリの軽音楽など軍部の厳しい規制で聞くこともできずレコード店は密かに輸入盤を温存していたのだろうか。そこの店主の計らいか、店頭で素人楽団が演奏まではじめた。楽団名が”AMC"、テーマ曲までありそれがあの”素敵なあなた”だった。アマチュアミュ‐ジックサークルの略だったのか。店頭は凄い人だかりで、ついに近所の空き地に舞台らしきものを作り週1くらいのペースで定期開催、夜、兄二人と三人で連れ立って観に行き軽いリズムと軽快なテンポが日頃の飢餓と生活の息苦しさなどを払拭してくれて楽しいひとときであった。小学生の自分も兄二人(三商生)も曲名などわからずも何かウキウキした気分で帰宅した。夕方、幼い弟を背負い子守りを兼ねてよくレコード店や電気屋の店頭の前で聞き耳をたてていた。

戯言26-2

▼上の兄が三商4年生の頃か「YOUR MY SUNSHAIN」を英語で唄っていた。学校の英語の授業が始まり先生が「この歌の歌詞は君たちに憶えやすく、日本訳も判ってくるよ」と言い黒板に筆記体の英文歌詞を書いてくれたそうで、英語の教師なのにメロディーも伝授されたそうである。朝に晩に口遊み、隣の小母さんが「お兄ちゃんは上手に英語の歌が唄えるのね」と言っていた。三商に通学する頃か、ドリス・デイなどが歌う”センチ・メンタル・ジャニー”やライオネル・ハンプトンが奏でるビブラフォーンの音色、三商通学にAM7時過ぎに家を出る時、ラジオ東京(現TBS)から番組の合間に必ず流れていたB/グッドマントリオの”SHAIN”、この曲のテンポの良さに元気を貰い満員の都電の混雑も苦にならなかった。

▼在校中最も耳に入ってきたのが先輩同輩諸兄なら誰もが知っているあの”テネシーワルツ“だった。この英文歌詞をタイプライターの実習授業中に先生の目を盗み殆どの仲間がタイピング化していた。日本版ではあの「江利チエミ」が世にでて一躍名声を得たのが昨日のようである。パティー・ページのレコードもプレスが間に合わないとの噂もあった。自分はジョー・スタッフフォードの唄うこの曲の方が好きで、唄い方が少し投げやり的で、なにか説得力のある印象があって好きだった。彼女の”霧のロンドンブリッジ”も素晴らしい。

▼8月15日を境に180度の国内の大展開、軍歌を強制的に唄わされた時代は無くなり、心を開放させる軽音楽、JAZZが飢餓・住宅難・買出し・インフレをひと時忘れさせるカンフル剤でもあった。子供の頃や青春時代に聴いた夫々の軽音楽、当時は舶来の曲はJAZZといっていたが、人生の黄昏を感じ始めた時、元気を甦えさせてくれる存在でもある。視覚情報が無かったあの時代、ラジオやレコードは個人の内耳にしっかりと触れてくるメディアであった。

懐メロ カラオケ考                           28期 若月健司 2022年10月投稿

地域のくすのきクラブ(老人会)の「カラオケ愛好会」で懐メロを中心に唄っています。月の第二と第四の

金曜日と最終日曜日の計3回です。時間は午後1時30分から3時30分までの2時間です。参加者は男女半々ほどで7人から10人程です。1人3曲ですからちょうど2時間内で終了します。私は懐メロしか知りませんが、参加者の中には最新曲を唄っている方がいるので勉強しているのがよく分かります。

カラオケを初めて知ったのははっきりしませんが昭和56~57年頃と記憶しています。当時の職場の仲間でスナックに行き「ラブユウ東京」を唄ったのですが恥ずかしさで散々だった思いがあります。学校時代は音楽で3(普通)を取れば御の字でしたから人前で唄うなど考えられませんでした。しかし、カラオケが普及すると唄う機会が増え、下手は下手なりに唄えるようになり今日に至りました。今では人前で話すことは苦手ですがマイクを持つと不思議に声が出るようになりました。因みに「カラオケ愛好会」で唄った曲は以下の通りです。

表をクリックすると拡大できます。

HP投稿記事(2022.10)karaoke 21期 仲田元昭

以上が平成2年11月13日から平成4年7月22日までに「カラオケ愛好会」で唄った曲です。途中でコロナ禍による休会や欠席もありますが、ダブらないでよく唄ってきたものです。上手ではありませんが曲の雰囲気や歌詞を理解しながら唄うことを心掛けています。取り敢えず100曲を目標に頑張ります。
以上

22 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(20)大覚院―        29期 仲田元昭   2022年10月投稿

戯言&独言25                                            21期 髙野 昇        2022年10月投稿

タイトルロゴ2022.06~久し振りの外出

▲久しく外出を自粛していたが「スポーツの日」の10日、暫くぶりに生まれ育った亀戸に足を運んだ。孫二人が来春の大学、中学への入試挑戦を控え、地元にある「亀戸天満宮」に参拝し絵馬を奉納、学業成就の御守りを買い求めたが、境内は七五三の参拝ファミリーで大賑わい。祈祷の順番待ちが一時間と書き出されていた。私達兄妹や孫達のお宮参りや七五三はここ天神様ではなく300メートルほど東に寄った「亀戸香取神宮」で亀戸や隣り町の大島が氏子で「亀戸天満宮」の氏子は墨田区の人々でお祭りなどは地元亀戸の人は催事などには手は出せない。しかし亀戸で生まれ育った身としては子供のころ8月の祭日が楽しみで蔵前橋通りに処せましと並ぶ昼店、夜店を日長一日買いもせずに隅から隅まで観て歩くのが楽しみだった。ソフト帽子の洗濯や、七味唐辛子や、詰め将棋、なぜか泥にまみれた万年筆を売る泣き売やなど。

戯言25

▲反面、当時は地味でひっそりとしていた「亀戸香取神宮」も今や天神様に負けじと境内も整備され、最近はスポーツの必勝祈願の参拝者が多くそれがチームの選手全員を引き連れての参拝となると境内は大賑わい(写真・甲子園へ、東京予選必勝の参拝にきた城東高校のメンバー)香取鹿島を本宮と仰ぎ、本宮にはかっての阪東武者たちが戦勝・必勝祈願に訪れた歴史は受け継がれている。「香取」を「勝って取る」から香取というんだと父がよく言っていた。数多くの絵馬も○○大会に勝つとか、贔屓のプロ野球チームに優勝して欲しいとか様々、時節柄サッカー関連の絵馬が目立つ。学業成就が本意の天神様(写真・ここから見るスカイツリーは素晴らしい)とは対照的で水泳の池江選手が病に倒れたときの無事回復を祈願するものが多数あった。そういえば池江選手は地元亀戸2丁目にあるスイミングクラブの出身である。

▲蔵前橋通りと交差する明治通り、地元では十三間通りと言っているが、それをJR亀戸駅に向かう途中左手に中央道り商店街がある。入ってすぐ右手が私の生家があった処、かっては200店近い小売店がひしめき、戦前戦後ともに賑やかな街並みだった。戦前の我が家の店(食料品店)の両隣は布団やと自転車や、真向はクリーニング店、その隣は材木屋、20メートルも歩けば魚屋、豆腐屋、八百屋、お茶や、おでん屋、時計や、酒屋、床屋、焼き芋や(夏はアイスキャンデー)、ミルクホールや飯やもあった。生活環境は狭くともなんでも間に合う利便性に富んだ環境だった。

戯言25-2

▲あの大空襲ですべてが消失、我が家は戦後昭和24年に元の場所に借金をしてバラックを建て商売を復活、両隣も戦災犠牲者が出て、かっての商人は殆どが消息も分からずなかなか地元には戻ってこなかった。田舎に行ったきり戻らない人が多かったようだった。土地もほとんどの商人は借地か長屋のせいもあり、あらたな借地契約に戸惑い、あきらめたこともある。隣の自転車やの後にはあらたな八百屋が来て我が家の商いとマッチしてかなりの客集めに貢献したようである。昭和30年代バラックながらも戸建て住宅も増え新旧の商人も増え戦前の賑わいの商店街となった。夕刻の買い物の人々が多く7メートルほどの道幅を夕方かの歩行者、自転車以外の通行止めを警察に申請、許可されミニ歩行者天国となり今も実行されている。

▲昭和の五輪後を境に駅ビルや大手、中間の企業(特に食べ物関連)が進出が十三間通りや近辺の商人に異変を感じさせ、この賑やかな買い物商店街も個人経営の店は跡継ぎも居ず、客離れを見越しオーナーは隠居し店はテナントに貸し、人の流れは変わらないが今日散策してみると三商通学時代に見慣れた十三間通りではあの頃の酒屋が1軒あるのみ。かっての生活臭と下町人情が漂った街、今は若者向きの好みにあったキラキラの街、高齢者には少し眩しい商店街。どちらにしても”昭和は遠くなりにけり”少しの虚しさを秘め「船橋屋」の葛餅と「佐野の味噌や」の好みの味噌を手土産に家路についた。

”ことば”について思うこと                           28期 若月健司 2022年9月投稿

最近、私の周りで起こった事象の中で”ことば”について思うことがありました。

*毎年8月15日頃になると先の大戦時の映像がテレビで放映されます。その中で「5・15事件」を取り上げた番組がありました。首相官邸に乱入した青年将校が時の犬養毅総理大臣を襲ったのです。その時拳銃を向けた青年将校に「話せばわかる!」と言ったのですが青年将校は「問答無用!」と拳銃を発射し、それが原因で総理大臣は亡くなったそうです。その時に少しでも”ことば”が通じ合っていたら歴史は変わっていたかも知れません。この事件を契機に日本の政党政治は後退し、軍部が台頭してあの太平洋戦争にのめり込んだと思います。

*先月は私の身近でショックなことがありました。現役時代の同期生のI君とは住居が近いことから近所の喫茶店の常連客同志でした。コロナ禍と暑さの為しばらく遠のいていた喫茶店を久しぶりに訪れました。すると喫茶店のママが「若月さん、最近Iさんの様子がおかしいのよ、電話をしてくれないかしら」と言うのです。すぐ携帯電話するも出ません、固定電話でようやく本人が出たのですが、若月を名乗っても要領を得ないばかりか「どちら様でしょうか?」という有様です。その後、ママに確認したところ認知症らしいと言うのです。5~60年付き合ってきた人と”ことば”が通じないショックを受けたのです。

*安倍元首相が凶弾に倒れました。現在、国葬儀や旧統一教会とのつながりなどで騒がれています。安倍元首相が国葬儀に値するかどうかは別として故人の”ことば”として気になることがあります。平成29年初め森友事件が起こった際、「私や家内が関わっていたら総理大臣を退任します!」という意味の”ことば”を国会で感情的であったかもしれませんが発したのです。政治家の発言は「綸言、汗の如し」であって取り消しは出来ないものです。あの発言で忖度という言葉が使われ公文書の改ざん・赤木さんの自死などが発生しました。そのほか国会では118回の虚偽答弁があったとも言われています。政治家が旧統一教会のつながりについて説明していますがどうもあいまいで潔さがありません。分りづらい表現や後刻言い訳の余地を残した言い回しで逃れています。政治家は”ことば”が武器ですからもっと分かりやすく明確に語って欲しいものです。

*私の好きな小説家に宮城谷昌光さんがいます。古代中国を題材にした本が多いのですがあらすじはもちろん魅力なのですが、時々出てくる漢字による”ことば”に興味があります。現代は使われないのですが含蓄があるのです。

世路(せいろ)~世渡り 擢登(てきとう)~人を引き上げる 繁衍(はんえん)~子孫の繁栄

蔽晦(へいかい)~ごまかす 寇掠(こうりゃく)~財貨を奪う 悴容(すいよう)~やつれた顔

涅(でっ)すれども緇(くろ)まず~染めても染めても黒ずまないものが真の白いもの

間関流離(かんかんりゅうり)~度々苦難にあい諸方を放浪すること

手話や以心伝心など言葉がなくとも意志の疎通は出来ます。でも”ことば”は大切です。 以上。

21 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(19)船橋日枝神社―        29期 仲田元昭   2022年9月投稿

HP投稿記事(2022.9)「21 我が街 船橋を歩く 神社仏閣」 21期 仲田元昭

戯言&独言24                              21期 髙野 昇        2022年9月投稿

タイトルロゴ2022.06~高野連にひとこと

▼暑くて長い夏の甲子園の全国大会は”仙台育英高”が優勝、白河の関を優勝旗が通過したと話題も豊富、歌舞伎「勧進帳」の弁慶もさぞ喜んだはずである。近年公立高校の優勝など殆どなく地区による春、秋の大会なども私立高が優勝している。

▼そこに在る疑問点ついて考えてみたい。PCでこの甲子園大会(春・夏)の準々決勝以上に出場した過去も含めた学校の中から無作為に調べてみると他都道府県中学からの入学生が圧倒的多い。出場登録選手(18名~25名)中、強豪として超有名なOT学園18名中16人が他府県からの選手、東京の二高、T高なども13人で、ほぼ私立高校の登録の半数以上が他の都道府県からの寄留選手である。その後ろには地元府県の野球が大好きな選手、他都道府県から寄留してきたもののベンチ入りが出来ない生徒を含め数十名の部員がいるはずで他の都道府県から勧誘、越境入学になんの規制も無く野球部員として寄宿舎から通学させる現実を高野連は何ら対応も対策もなく”知らん顔の半兵衛”である。

戯言24

▼そこで一案、出場選手登録の中で他都道府県中学から入学してきた生徒・選手の数を5名までとし、もっと厳しく規制する案として学校所在の都道府県の隣接の都道府県からの寄留以外は認めない。地元府県から入学してくる野球少年、生徒・選手に機会を与える。郷土愛とはそこで生まれ、育ち、仲間と睦まじくその地を愛おしく思う心ではないだろうか。規制するなら球界ではベンチ入りの選手に外人の員数制限があり相撲界でも外人のお相撲さんは各部屋何人との規制をつくった。ある例としてかって鹿児島の中卒の野球選手がはるばる大阪府の超有名高校野球部に入部したり、北陸育ちで地元の少年野球で名をあげた選手が結果、東北の私立高に入っていた。地元の野球好きはこんな現況を知ってはいても、親子丼を頼んではみたが出てきたのはじつは他人丼なんだとの思いは否めないとおもう。

▼今は少子化時代、子供を中心に野球離れあり、野球人口の低迷、野球は金がかかる、そんな問題を含めサッカーに親や子の目が向いてしまうの現実、私立高の野球部コーチなどが各地の中学生を対象とした「ボーイズリーグ」等を回りスカウトに走り回っているとか、相撲部屋の弟子スカウトと同じである。高校までの各スポーツの公式戦は全てがトーナメントで勝ちぬかなければならない宿命でもある。そこで管理者、監督、同僚などからのハラ―スメントがくすぶる。柔道連盟では小・中の大会をすべて開かなおい方針に向かい出した。春の選抜野球選手権(毎日新聞)では文武両道はもとより、街中のゴミ拾い、練習時間の厳守、その他諸々、など実績とは別に加味され、これは公立高校に多く、本大会でこの選ばれた高校に負けたチームの監督が「なんであんな高校に負けるんだ!」と選手を叱責とあった。この監督こそ自らの人間性を叱責すべきである。越境入学者を揃え春夏連覇したなど唱える学校にはいつも違和感を覚えてしまう。

ほおずき市 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2022年8月投稿

夕飯を食べに浅草へ行ったら、その日はほおずき市でした。浅草寺をお参りすると四万六千日お詣りしたご利益があるそうなので、お詣りしました。

子供の頃、父は弟二人と私をつれて、ほおずき市と羽子板市へよくつれてきてくれたことを思い出しました。弟達はおもちゃを買ってもらうのが楽しみで、私は家に帰ってほおずきを作るのが楽しみでした。中の種をよくもみほぐさないとうまくほおずきが出来ません。

ある年近所に住む従妹が一緒に行くことになりました。父は弟達と一緒に従弟は旅行に行ったりしていましたが、従妹と出かけるのは初めてでした。食事はいつも「セキネ」でした。今でもあるので通るとなつかしく思います。従妹に何食べると聞いたら「ラーメン」と云いました。運ばれてきたのは五目ソバでした。すると、従妹が「おじちゃん、これラーメンじゃない」と云い出しました。ラーメンは茶色のおつゆですが、五目ソバは白いので、従妹は間違ったのかと思ったのかもしれません。父は「おいしいから食べてみな」と云いました。私は父が外で従妹と食事することがないので、ごちそうしたのだと思いました。家へ帰ってきて皆で大笑いをしました。父は云われた時ちょっとびっくりしたと云っていました。

~我が畏友~ 長谷川 勇 のこと 28期 若月健司 2022年8月投稿

先月、小学校・中学校までの同級生である長谷川勇から「あゆみ」と題する冊子(自分史)が届きました。彼は今日まで地元である新潟県柏崎市西山町別山に住んでいます。彼とは現在、年賀状だけの友人ですが、同級会などで帰郷した折には地元で一目置かれているのは感じていました。森林管理や地元コミュニティの中心人物であるとは聞いていました。

その彼から昨年初に「昔の暮らし文集」を発行するので「別山時代の思い出」と題する原稿の依頼がありました。別山時代は昭和30年前後の貧しい頃です。私は当時の遊びや友達のことを思い出しながら原稿にして彼に送りました。その文集が届いたのが昨年末でした。そこへ先月に届いたのが「あゆみ」です。以下は彼への届いた旨の礼状です。


勇さんへ
令和4年7月
健司   

拝啓、先日は冊子「あゆみ」をお送り頂き、誠に有難うございました。あれからじっくりと読ませて頂きましたが勇さんのこれまでの人生に驚きと感激を抱くばかりです。最近には「昔の暮らし文集」を発行されたばかりで、この度は自分史にあたる「あゆみ」を発行されるエネルギーもさることながら「自分の人生」を振り返る強い思いに驚嘆します。「昔の暮らし文集」にあるように戦後の貧しい時代を過ごした同級生がそれぞれの環境から別れ離れになり、傘寿を迎えた現在まで違った人生を送ったのだという思いに至りました。

私自身はこれまで流れるように生きて来たような思いがあり、勇さんのようなとても充実した内容ではありません。しかし、最近は自分の人生を三分割しています。即ち、会社勤め時代を第1の人生、還暦を過ぎた頃から傘寿までを第2の人生そして現在から死ぬまでを第3の人生としています。

第1の人生は還暦をはさんで45年間程ですが家庭と勤務先の往復が主でした。第2の人生は①地域の役員(管理組合・自治会・老人クラブなど)②東京都議会議員の後援会会長③ボランティア活動(江戸川総合人生大学・環境団体での活動・江戸川区の文化財・郷土資料室など)④プライベート(高校母校の同窓会理事及び同期会幹事・NPO法人新現役ネット内団体世話人など)この第2の人生は多忙でしたが充実した頃でした。傘寿を迎え、体力や知力の衰えを感じたことから第3の人生に入るべく責任あるポストから離れ現在はひいきの講談師の講談を聴いたり、子どもの頃からのファンの阪神タイガースをテレビ応援したり、「古典を学ぶ」という講座で「能」について勉強しています。老人会では一会員として健康麻雀やカラオケに興じています。

平和な時代が続くことを祈るばかりですが、「歴史は繰り返す」ようで困ったことです。安倍元首相が凶弾で倒れる・政治と宗教の癒着・コロナ禍の第7波・ウクライナ紛争・地球の温暖化・政治の右傾化・円安・物価高・財政の健全化などなど数え上げたらきりがないほど問題が山積しています。

老人の愚痴話になったようですが、ここまで戦争もなく生きて来たのだからあと20年は平和であって欲しいものです。 敬具。

*勇さんの主な経歴

昭和43年:全国山林業経営発表会県代表として発表(上智大学にて)
昭和44年11月:
林野庁長官賞受賞
昭和45年10月:礼拝郵便局職員となる
昭和61年3月:新潟高等学校通信制卒業
昭和63年度:別山小学校PTA会長
平成3年4月:西山町林業愛好会設立

平成9年12月:真宗同朋会推進員となる
平成10年~12年:信越郵政局為替貯金事業最高優績表彰受ける
平成13年6月:荒谷さとやま保存会立上げ
平成14年4月:別山カタクリ保存会立上げ
平成17年度:荒谷農家組合長
平成19年4月:三条真宗学院入学
平成20年3月:得度僧籍簿に登載(釈縁静)
平成20年7月:別山コミセンセンター長

平成22年11月:林野庁長官賞受賞
平成23年4月:新潟県高齢者大学入学

平成30年4月:荒谷あじさいの会(老人クラブ)代表
令和3年11月:「昔の暮らし文集」

発行 令和4年5月:自分史「あゆみ」発行

合併により柏崎市内となりましたが、実際は部落が存在する片田舎です。そこで生まれ育ち地元郵便局に勤めながら森林保護に当たったり、さとやま保存会・カタクリ保存会など地域の発展に貢献しています。個人としても得度僧籍を得たり、高齢者大学で勉強に励んでいます。そして傘寿を迎えるにあたり自分の人生を記録する自分史を発行する旧き友人に敬意を表するとともに誇りに思います。

以上。

20 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(18)西向地蔵― 29期 仲田元昭 2022年8月投稿

戯言&独言23 21期 髙野 昇 2022年8月投稿

タイトルロゴ2022.06~8月になると

▼暑い8月、どうしても思い起こしトラウマの様に心に現れるのが77年前の6日、9日の原爆投下、「原子爆弾」などの言葉ではなく新聞は「新型爆弾」と書き庶民は「ピカドン」と言いその恐ろしさは数日後に巷に拡がった。次は東京だとの風聞の中での15日の天皇の詔勅、夏休み中に急遽校庭に集合、村の人々や校舎に駐屯していた軍隊(総員30名ほど)なども集結した。初めて聞く天皇の声は音声も悪く文言もあらかたの人には意味不明、ただ「堪え難きを堪え凌ぎがたきをしのぎ‥‥」の文言の部分だけは小4の自分には理解したと思い「力の限りガンバレ」の檄文と思い込んだ。結果はあのとうり、まず頭をよぎったのはこれで東京の家族の処に帰れるの思いだった。

戯言23

▼10日ほど過ぎると最終列車で内地勤務の復員兵が沢山の荷物を担ぎ駅に降り私の従兄も3人9月に戻ってきた。村に駐屯していた部隊もMPが早々にやってきて武装解除、階級章ももぎ取られ三八銃が20丁くらい(どう考えても駐屯兵員数と会わない)機関銃2機がトラックに積まれ運ばれてゆくのを見た。MP全員の肩には黒い自動小銃、この光景で勝てる戦ではないのがよく判ってきた。この日の20日程前、空襲にきたB29が高射砲で撃墜され搭乗員の1人が落下傘で脱失、なぜかこの村の芋畑に落ち近在の農民4・5人にめった打ちにされ血まみれとなりその翌日に憲兵隊に引き渡された光景も見た。終戦後の数日後MPがジープで来村して来て加害した農民の調査をし関係者を束縛、C級戦犯となり3年後くらいに釈放されたと疎開先の伯父が教えてくれた。その話は近在の村民の間ではタブーとなっているとの事だった。大きな事、小さなこと全てがこの8月に思い出す。私にとってこの日は終戦記念日ではなく敗戦記憶日なのである。

戯言23-2

▼夏休み中とはいえ殆ど毎日が登校日、勉強ではなく芋畑の草むしりと松根油(松脂)集め、そのあと教室に集まり中学4・5年生の代用教員による軍人精神や各地での戦況の話、すでに沖縄は陥落してたなど彼等も生徒も知らず内心いつ少年兵として赤紙がくるか?そんな不安を纏いながらの思いからかつまらぬ事でやたら生徒にビンタの雨を降らし、特に私を含め東京からの縁故疎開児には酷かった。16日からは登校日には行かず代用教員の姿も村の中で見る事もなくこの180度の転換を大人も子もなんだったのか。伯父宅に寄宿していた(軍医・少尉)は「実際のとこら薬とし十分あるのは征露丸と包帯だけ」と言いその殆どを伯父宅に譲り、敗戦2か月後に故郷津田沼に帰り駅まで送って行った記憶がある。風聞が多く男は奴隷として収監され異国に送られるなど伯父は「勝って官軍、負けて賊軍」など口走っていた。私にとって敗戦は東京の6畳と3畳の二間の7人家族の一員になれる事、5歳下の妹が喋らずとも最高の笑顔で迎えてくれた事、忘れられない。

▼必勝を信じて向かった一年前の学童疎開、その後の縁故疎開、私にとっては波瀾万丈の一年であったが敗戦後の「ギブミ―チョコレート」の時いみじくも言った友人の「こんな旨いもの食べているアメ公に勝てるわけがない」の言葉、つくずくと思い出す8月である。学童疎開のあの日の夜行列車から見たやたら大きま「スーパームーン」、この稿を書き上げた今夜も良い月夜だ。ウクライナの国民に思いを馳せながらも一方で「核」を持つ国の多さ、主導者は「核戦争に勝者はいない」の格言を肝に銘じ末永い平和を祈念するのみである。

雑句‥‥ 近ずきて やがてすぎ行く 十五日

阪神ファン70年余、変わりません!! 28期 若月健司 2022年7月投稿

私は小学生時代から70年余ず~と阪神ファンです。関西出身でもないし、関西に住んだこともありません。思い起こすと小学生時代に過ごした新潟県柏崎市西山町の頃、隣家にいた2級上の餓鬼大将が大の阪神ファンだったからでしょう。当時、メンコ遊びが流行っていました。平均5センチ程の丸や四角な厚紙のメンコで相手のメンコをひっくり返すと自分のものに出来る遊びでした。そのメンコにプロ野球の選手の写真が貼ってあったのです。阪神の藤村兄弟、別当、土井垣などを今でも覚えています。
以来、弱い阪神、強い阪神(あまりないのですが)を心変わりすることなく応援しています。そんな中で記憶に残ることがいくつかあります。

・昭和37年(1962年)の優勝
藤本定義監督 1塁:藤本(島倉千代子と結婚)2塁:鎌田(地味だが堅実)3塁:三宅(超鉄壁)
遊撃:吉田(今牛若丸)外野:並木(意外性あり)投手:小山(抜群な制球力)
村山(ザトペック投法)

・昭和39年(1964年)の優勝
藤本定義監督 投手:バッキー、村山の2本柱 日本シリーズで野村克也を擁する南海に惜敗、特に投手のスタンカに敗けた。この年、王の55本本塁打新記録 東京オリンピック開催
その頃、社会人の成り立てで勤め先のある新橋の居酒屋で阪神ファンの先輩たちに混じって優勝祝いで気勢をあげたことを昨日のように覚えています。

・昭和60年(1985年)の優勝(21年振り)
吉田義男監督 掛布、バース、岡田の三者連続のバックスクリーン本塁打(巨人の槇原から)
投手:ゲイル チーム本塁打219本 初の日本一となる バースの三冠王

・平成15年(2003年)の優勝
星野仙一監督 今岡、赤星、金本の打撃陣(チーム打率0,287) 井川、伊良部、下柳の投手陣

・平成17年(2005年)の優勝
岡田彰布監督 今岡、赤星、金本、シーツ、鳥谷の打撃陣
JFK(久保田、ウイリアムス、藤川)
の救援陣

その頃、第2の職場のオーナー会長が大の阪神ファンで各地の球場に二人で応援に行きました。特に思い出深いのは高知県安芸のタイガータウンの春のオープン戦観戦に2回出掛けたことです。そのうちの1回は阪神選手と同じホテルに同宿した折、当時の黒人選手が共同風呂に前も隠さず堂々と入ってきたのですが、その立派な体格に感心(?)しました。帰京の途中で大阪の阪急ホテルに泊まり翌日阪神・淡路大震災の1年後の復興状況を見てきました。もちろん甲子園球場の巨神戦を観戦してきました。他にも昔の後楽園球場のグランドでの野球試合、オーナー会長の野球観戦の奇行、横浜ファンの友人との観戦談、近所の人達との阪神ファンの会設立などいろいろありますが紙面の都合上割愛します。現在は体力の衰えにより球場まで出掛けませんがテレビで阪神の全試合を観戦できる便利な時代です。虎キチとまでいきませんが、弱い阪神でも末永くささやかに応援するつもりです。 以上。

19 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(17)稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年7月投稿

戯言&独言22 21期 髙野 昇 2022年7月投稿

タイトルロゴ2022.06~19期の三人の先輩

▼昨夏の「同窓会報」は19期諸兄の特集で19期の先輩方の纏まりの良さに感服しました。毎月1回本所の「蕎麦処琴冨貴」で集まり更なる親睦を深めている様子、私も幹事の細田安治先輩とは同窓会の集まりでたまたま同じ卓の席になりそのご縁もあり一度同席させていただきました。19期生で私の記憶に残っていたのは中野貞二氏、石原博氏の二名の方でした。

▼特に中野氏は16期の兄と当時の小岩の珠算塾の仲間で、地元の三商在学生の諸先輩も多数通塾していたらしく、当時はまだ旧制中学で六三制が施行される前だったと思います。私はまだ小学生だったはずです。そんは中野先輩が時折「琴冨貴」の集まりに見えると細田先輩から聞き2年後輩ながら集まりに参加させていただきました。逝きし兄との色々な思い出話、兄に映画見物に誘われたエピソードたのしいひと時でした。ソロバン日本一になった中野さんをすごく誇らしげ語り16期の吉羽亀之氏が来訪の際には(よく遊びに来てました)近所の寿司屋で祝杯を挙げ、わたしも同席し楽しく過ごしました。

中野先輩…70年ぶりに会いました

戯言22

石原先輩…54年江商時代の社内旅行・前列左端が石原先輩、後方左端が小生

戯言22-2

▼石原氏は在学中確か生徒会の副会長をやっていたでしょうか。私は就職も既に「日本長期信用銀行」に決まっていたのに校長、清田教頭からの懇願で改めて「江商…‥現兼松」を受けて見ろと言われ私は「江商」なる商事会社など知らず「珠算と簿記に長けて、英語は少しばかりできれば良いから」と言われ、校長・教頭の意のままに受験、三商から3人が受けましたが私一人のみが内定を受けました。珠算1級、簿記2級の資格がきいたのでしょうか。後日清田教頭がわざわざ我が家に両親に了解を得るために来訪「長銀」にも了解を得た旨と、報告を受けました。「江商」は戦前からの”関西五棉…江商・丸紅・伊藤忠・東棉・日棉”の一社であることも知りました。入社3日目に石原先輩から声がかかりました。

日本橋本石町にあった「鰻の登亭」で1対1の歓迎会をして頂きました。18歳に成るまでこんな本格的な蒲焼を食したのは初めてで2人でバヤリースオレンジをのんで乾杯したおもいでは忘れられません。先輩はとても優しく、社内の評判も「石原に聞くとよくわかるよ」と言われガンガン営業をやっている諸兄(殆どが軍隊生活経験者で)は縦系列を重んじる傾向の中、石原さんにはずいぶんたすけられました。秋にあった五棉対抗野球大会にも石原さんと一緒に選手として出場、社員旅行に昇仙峡に行った時も同室で三商の思い出話にが華さきました。私は事情があって1年と少しで退社、その時も石原さんの旗振りで経理部十数人で人形町の料亭で送別会をして頂き身に余る光栄に感謝あるのみでした。同時入社の一商の2名の友人はその後インドネシアや台湾に転勤、その内の一人は転勤先で病死してしまいました。「日本に早く帰りたい」との手紙も何通も貰いそんなこともあっての早逝でした。高卒にしては英語に優れていましたが残念でなりません。そんな思いが残る19期の二人の先輩でした。

▼もうひと方、在学中から今まで顔を合わせた事も無く過ごしていましたが一昨年に逝去された北村重雄 先輩です。私が幹事の一人として務めた21期の同期会の事を知り妹(大倉貴美子さん)の事を宜しくとの手紙を戴きました。それがきっかけとなり頂いた手紙の交換は30回近くあり、手紙にはいつも違う篆刻が押印され、その説明の由意も必ず添付されていました。文章のさい最後には必ず「妹を宜しく」とあり兄妹愛が溢れていました。京都在住のせいもあり松坂屋デパートを退職後、趣味が嵩じて京都の神社仏閣の関係者の篆刻の仕事で生涯を務めていました。私のみの篆刻を頂いた時は感動、印影だけでしたが「何かの時にお使いあれ」との手紙が最後でした。妹さんの大倉さんとは1年生の時が同じクラスでもあり、今は親しくさせて頂きお住まいも私の生まれた亀戸で、これもなにかと北村先輩の御縁かと思っています。

北村先輩…私個人に作ってくれました

戯言22-3

確認してみたい三つの未来!! 28期 若月健司 2022年6月投稿

~その1~ SDGsが目指す2030年頃の未来

現在、日本中で「SDGs」で騒いでいます。私の住む江戸川区でも国から「SDGs推進未来都市」の指定を受け役所内に「SDGs推進部」やSDGsおよび共生社会実現するための「ともに生きるまち推進課」を設置して動いています。私の所属する江戸川総合人生大学同窓会では5月21日に「SDGs ともに生きるまちづくり」をテーマにした講演会をコロナ禍の中でしたが感染対策をしっかりやり、講演時間も1時間以内に収めて40名を集めて行いました。講師は役所のSDGs担当課長で講演後のアンケートの評価は上々でした。私は司会進行役を務めましたが終了後ふと思いました。SDGsの17項目は現在の我々が抱えている課題ですが2030年頃になって果たしてどのくらい改善されているか確認したいのです。あと8年後ですから何とか頑張りたいと思います。

~その2~ 孫が成人になる2040年頃の未来

私には3歳の女の子と1歳の男の子の孫がいます。近所に住んでいるので時々顔を見ますが可愛いのは確かです。その時、ふと思います。この子たちが成人になる頃の日本は平和だろうかと?私の年代は戦後の窮乏時代や高度成長期やバブル崩壊などを経験してきましたが戦争に巻き込まれることなく生きてきました。ところが昨今、地球温暖化による異常気象での災害発生、また30年以内での東京湾北部大地震発生も噂されています。自然災害はともかく人類が引き起こす人災も気になります。ロシアによるウクライナ侵攻での核兵器使用が取り沙汰され、日本も過剰反応して核所有・軍備増強論などが流布する有様です。7日(火)にくすのきクラブ(老人会)で新木場にある「第五福竜丸」を見学しました。

1954年にビキニ環礁での水爆実験で放射能を浴びたマグロ漁船です。あれから70年程経っても人類はいまだに核兵器にこだわっており、日本は核兵器禁止条約にもそっぽを向いています。国内的にも年金制度は維持できるのか、財政は大丈夫か、少子化はどうか、日本の地位低下はどうか、など心配事はいろいろあります。人生100年と言いますが、あと20年弱、よほど頑張らなくては2040年は無理かなあと思いつつもしかしたらと健康に気を付けています(笑)

~その3~ 2100年頃における江戸川区の未来

今年の3月に江戸川区では「共生社会ビジョン」の素案を発表しました。SDGs推進と併せて共生社会の実現を目指そうというのです。現状のままの成り行きに任せると江戸川区の人口は約70万人から45万人に減少する。そうなると歳入も減り、役所の職員も減り、当然住民サービスも低下するというのです。その対応として「共生社会ビジョン」の素案を策定したのです。策定に当たり区民や有識者の意見・提案を取り入れた会議などをいくつか実施しました。その中で「みんなのえどがわ大会議ワークショップ」があります。これは1グループに区職員2名、区議会議員2名、3団体の代表3名の計7名による会議です。分野毎に9グループに別れますので全体では63名が参加しました。私が会長を務める「文化財・郷土資料室ボランテァの会」にも団体としての参加要請がありましたので私が参加しました。ところが昨年の9月に会議が予定されていたのですが、コロナ禍の為会議は中止となり文書(ワークシート)による提出となり残念でした。これからは「共生社会ビジョン」の素案の中身を充実していくことを期待します。あと約80年後の2100年の江戸川区は絶対に確認することは出来ませんが、子どもや孫が平和に暮らしているに違いないと願う今日この頃です。 以上。

18 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(16)三峰神社― 29期 仲田元昭 2022年6月投稿

HP投稿記事(2022.6)「18 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(16)三峰神社」 21期 仲田元昭

戯言&独言21 21期 髙野 昇 2022年6月投稿

タイトルロゴ2022.06~■プロ野球あれこれ

<球種>‥かつては昭和30年代頃までの投手が投げる球種と言えば直球・カーブ・シュート・ドロップ・スライダー・時折にフォークボールくらいだった。特にスライダーとフォークはごく一部の優れた投手か投げ、フォークは杉下(中日)スライダーは藤本(巨人)シュートは河村(中日)西本(巨)でいずれも開拓者でもあった。今、TVでの解説者やアナの放送を聞いていると前記5種のほかにチェンジアップ・シンカー・カットボール・ッーシームなどアナも解説者も「今のは○○ですね」等簡単に言っているがそんな細かい事が即見分けがつくのか疑問である。視聴者には投手の背面からの映像だけでは見分けがつかない。かつてのカーブと今のカーブでは全然球速が違い今はやたら山なりに投げている。過去カーブをあんな球速で投げる投手などあまり居ず、昔はこんなカーブを「ションベンカーブ」といい、打者の外側から入るカーブを「鉢巻き」と言っていた。フォークも私などからいわせれば昔のドロップに毛が生えたようなもので杉下、村田、佐々木のなどのドロップは懸河のドロップと言われ、杉下のフォークは打者から糸目がよく見えたとあの川上(巨人)が言っていたほどだ。こんなに僅かの違いと球種の多さではボールの握りも違うし肩の使い方などを思うと投手に故障者が多いのは当然である。高校球児までもが同じ様になってきており高野連はこの数多い変化球対策を検討する時ではないだろうか。

戯言21

<解説者>‥野球に限らずスポーツ中継には解説者は付き物。ルールや技量についての解説は知識の浅いスポーツを観る者にとってはありがたい存在、しかし野球ほどファンが多く子供でもあらかたのルールや知識を持っている。それはそれとして今のプロ野球放送にあれほどの解説者が必要なのだろうか。ほとんどの解説者は球種やどうでもいい話で私には「そんなことどうでもいいんじゃないか」の思いが強い。アナより余計に喋っていたり、結果論のみ喋り「だからこうなるんですよ」との給う。それに解説者が二人いたり、日によっては「野球選手と親しい」と誇らしげに語る芸能タレントが出ている。これは圧倒的に民放に多いが、こんなのは入場券を買って観戦したり有料のTVに金子を払っている我々ファンとはかけ離れ存在である。視聴率の競争に勝つための手段としてはかなりミーハー的。今は私はもっぱらTVは副音声で「場内音声」のみで観ている。

雑句‥‥梅雨篭り カフェーオレと モダンジャズ

********今月の「文芸春秋」に同期の野中郁次郎君の第二次大戦の日本軍についての座談が10ページ渡り記載されています。経済学者と戦争、面白いですよ*********

ささやかですが応援しますよ! 28期 若月健司 2022年5月投稿

令和4年5月5日

先月の9日(土)午後、光が丘駅前のIMAホールでのミュージカル「プロパガンダ・コックピット」を観る機会を得ました。ミュージカルなるものを観るのは初めての経験でしたが上演時間2時間余の間、楽しく過ごしました。ストーリーは別として多数の劇団員による合唱・ダンスそして会場の音響に圧倒されました。今回のきっかけは令和2年2月に両国で開催された三商同窓会の新年会でした。テーブルで三人の若い同窓生と偶然同席となり、その内の一人が68期の長瀬可織さんでした。彼女がミュージカルの劇団員との話が出たので「観に行くから連絡くださいよ」と気軽に話したのを覚えています。

その後、コロナ禍で公演不能が続きましたが、今年の2月に公演開催の連絡がありましたのでチケットを予約しました。しかし、コロナ禍が収まらず残念にも公演中止となりました。ところがしばらくして今回の公演の連絡が入り光が丘駅まで出掛ける次第となったのです。68期と言えば40歳程下の後輩ですが、私の娘と同年代ですので「コロナ禍の中で

頑張っているんだなあ」と気に掛けたくなります。これからも機会があれば出掛けます。

三商同窓会と言えば数年前に理事になったことから「三商講談会」を知り、開催される清澄庭園内凉亭に毎月出掛けています。この会の代表者は33期の細井新一さんです。3年程前に私が代表の某団体の総会のアトラクションに講談会をセットしましたが、その際

講談師を細井さんに紹介して頂きました。私が住まいする江戸川区出身の講談師である田辺一鶴さんの孫弟子に当たる田辺いちかさんです。当時は前座でしたがすぐに二つ目となり、現在活躍中です。「三商講談会」では毎回3~4人程講談師が来ますがその中で私の耳に心地よく響く講談師が一龍齋貞弥さんです。彼女は二つ目ですが今年の9月に真打ちに昇進すると聞いています。

私自身なにも出来ない無芸でせいぜいカラオケで懐メロ演歌を歌う程度です。一生懸命努力精進している長瀬可織さん・田辺いちかさん・一龍齋貞弥さんが将来必ず大成するものと期待すると共に尊敬の念を持っています。特に長瀬可織さんは三商の後輩でもあるので今後ともささやかですが応援していきたいと思っています。

以上。

17 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(15)道祖神社― 29期 仲田元昭 2022年5月投稿

HP投稿記事(2022.5)「17 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(15) 道祖神社」2 21期 仲田元昭

戯言&独言20 21期 髙野 昇 2022年5月投稿

▼終戦直後にみた映画「…‥五人男」正確な題名も出演者も失念し忘れてしまったが斎藤寅次郎の作品で喜劇が得意な監督だった。その中で焼け跡の中でかつてのお殿様の末裔かと思われるひとがドラム缶の風呂に入っているシーンがあった。その中で家来と思われるひとがドラム缶の湯を焚き乍ら唄う歌が♬♩・お殿様でも家来でもお風呂に入るときゃみなハダカ、裃(かみし)も脱いで袴(はかま)も捨てて・♩♫のシーンが何故か未だに思い出として口遊んでしまう。唄っていたのはあの頃歌を唄う喜劇役者は古川ロッパ(懐かしい名)くらいだからそうかもしれない。

▼当時戦後5年間くらいは間借りか借家住まいか、せめてもバラックの家、戦前から内湯のある家は少なかったが、風呂場のある家などは皆無にちかい。ならば近間の「銭湯」に行くしかないが焼け残った風呂やは遠くても行かざるを得ない、子供の頃は下町では「お湯やとか風呂や」と言っていたが凄い混雑で夕方の開店前には数十人の人が開店待ち、燃料不足で一日おきか三日に一度の営間隔が拍車をかける。したがって冒頭の五右衛門風呂風景がアチコチで見られた。

戯言20

▼当時入浴風景はまず“芋を洗うような”な風景は当たり前、まず「風呂敷」を持っていく、風呂やでの最大の問題は「盗難」だった。脱衣場で脱いだ衣服をこの風呂敷に包む。ロッカーなどある時代ではないのでパイ助とよばれた籐でできた篭を逆さにして床に向かってポンとたたく、虱が付いている時があるので。我が家はまず衣服を風呂敷にいれ、その上に新聞紙敷き下駄を乗せバッチリと四文字に結わく。持って来た石鹸(鯨油製)は頭の上に乗せ手拭を頬被りして固定、透明度など全くない湯に浸かりつつ洗い場にいても脱衣場のパイ助から目を離さず盗難予防に励むのである。

▼昔から風呂やは盗難の巣といわれ盗む方を「板の間稼ぎ」と言っており落語などにも登場している。一番被害の大きいのは衣類と履物でいい加減に篭に入れてあると100%被害者となっていた。私の兄(16期)は四文字に結んだ風呂敷包みからほんの少し首を出していた牛革のベルトが盗まれていた。ベルトはするすると抜け易かったか、包み方の悪さを父に叱責されていたことがあった。履物の被害は圧倒的に多く、衣類は丸ごとの被害と言うものは無かったと思うが履物は履いてきた下駄と少し見た目のいい下駄とが交換されているのが多く、チビた下駄と交換しただけの犯罪意識の全くない現象のようだった。盗んだのではない、取り替えただけ、咎められれば「アッ間違えて履いちゃったよ」とか衣類を一枚なにしても下に着こんでしまえば見つかりにくいとか、そういう現代の目では許されない事でも、あのいじましい時代の事として歴史の中の小さなページとして終いこむのはもったいない話。「やられたよ」「もっていかれちゃった」「これくらいいいだろう」、加害者も被害者もどこかあの難関の時を過ごす為の変な譲り合いだったのかも。警察沙汰になった話など聞いたこともなかった。

▼今は内風呂が当たり前で、結婚当初は6畳一間の安アパート住まい、家内と二人近所の「風呂や」に行き家内の出てくるのをコーヒー牛乳を飲みながら風呂やの前で待ちあの南こうせつの「神田川」の世界だった。貴重な思い出のページである。今は一人ゆっくりと湯舟に浸かり食卓には冷えたビールが待つ。一日の中で一番穏やかでついついあの「お殿様でも家来でも…」を口遊んでしまう。

防犯カメラ、基本は変わらないでしょう! 28期 若月健司 2022年4月投稿

最近のデジタル化にすべきの風潮の中でふと昔の防犯カメラの事を思い出しました。今から24,5年前に住まいする団地の管理組合理事を務めていました。当時敷地内の駐車場内で車がひっかき傷をつけられる事件が発生し対策が検討されました。「パトロール隊を組織して巡回すべし」「防犯カメラを設置すべし」「防犯カメラでプライバシーが侵される」などいろいろ意見が出ましたが「駐車場内を監視するだけの防犯カメラを設置する」に決定しました。その後数年経過するうちに痴漢やストーカーが出没することとなり防犯カメラを団地内の玄関や階段付近にも設置するようになりました。お蔭で最近は不心得者の話は皆無とは言いませんが少なくなり防犯カメラの効果はあったのかと思う次第です。その後この防犯カメラは地域の道路や駅前にも設置され、今や日本全国に拡がっているようです。

現在、「デジタルファシズム」(NHK出版新書・堤未果著)という本を読んでいます。副題として~日本の資産と主権が消える~としています。読み終わっていないのでなんとも言いようがないのですが「デジタル化の掛け声のもと、日本の公共財が民営化により諸々なデータが一部の企業に偏り主権(国民の生活)が消える」と主張しているのではと推測します。デジタル化推進は世界の趨勢であり、日本が出遅れていると指摘されていますので今後頑張る必要があります。只その際、メリットとデメリットがあることを念頭に進捗して欲しいのです。デジタル化で個人の行動や意識や経歴が何処かで管理・監視され悪用されるのには抵抗があります。

防犯カメラの設置がいたずらや犯罪防止に役立ったと思われる現在ですが、設置当初の「プライバシーが侵される」という意見は貴重です。今後デジタル化を進捗する際、この意見を基本にして欲しいと思います。 以上。

16 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(14)厳島神社 ― 29期 仲田元昭 2022年4月投稿

「厳島神社」

厳島神社は、江戸時代初期の創建と言われ、現在の本殿は、昭和4年に建立されました。 ルーツは、北九州の航海民が祀った宗像三神と伝えられており、本町4丁目(旧仲宿区)の守護神です。
御祭神は、海上安全の守護神、田心姫神(
ごりひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、多気津姫神(たぎつひめのかみ)の3女神で地元では「弁天様」と親しまれています。古くから航海安全、豊漁祈願が行われ 開運、商売繁盛、技芸上達の福徳があると信じられています。

「厳島神社鳥居からの社殿」

全国に神社は86千社程ありますが、厳島神社は約1,000社と多くはありません。中世からある古道である御殿通り1km程に、稲荷神社、猿田彦神社、道祖神社、厳島神社、御蔵稲荷神社の5社があります。しかし、今から400年程前の慶長19年(1614)に、徳川家康公の命で造成された東金御成街道向きの神社は、船橋市街地ではここ厳島神社だけです。

「歴史ある立派な狛犬 (左)口を閉じている吽形 (右)」口を開けている阿形」

「17 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(15)」道祖神社に続く 「2022-3-25寄稿」

戯言&独言19 21期 髙野 昇 2022年4月投稿

春爛漫・入學期
戯言19

▼4月は入学、入社などのシーズン。私が小学校(当時は国民学校)入学したのは昭和17年、亀戸水神学校で日米開戦の4か月後だった。ハワイやマレー沖海戦への奇襲作戦攻撃成功に国全体が歓喜、今思えば日本の悲惨な歴史がここから始まった。戦果ばかりが新聞・ラジオが報じてこの年太平洋上の海戦では日本はすでに空母4隻、航空機200機以上が失われていた事実が国民には一切知らされず、入學しての4月には米軍機による本土空襲(4月18日)がすでにあった。荒川区尾久に爆弾が落ちたとの話はこども心におぼえている。(写真①)2年生になると亀戸に新たな学校が築かれ通学域の変更で第一亀戸国民学校へ転校、政府、軍部による「勝った!かった!」のニュースの中、毎朝の朝礼では国旗掲揚、校長の訓話は戦争に関わる訓示ばかりで「戦地に居る兵隊さんを思えば…」で締めくくられていた。冬にはズボンのポケットに手を入れさせない為にポケットが縫い合わされた。担任の石毛先生が中折帽子の周りのツバを切り前ツバだけのこしてお手製の軍帽にしていた。その翌年学童疎開に行き、山形県の上の山国民学校に転入、入学2年数か月で2度目の転校となった。その後縁故疎開をし千葉県の椎柴国民学校に転校、終戦後に避難先の小岩小学校に転校して4年生にして4回目の転校を記録した。

▼敗戦から2年3か月後の昭和23年4月マッカーサーの新教育制度施行により新制中学生として避難先の江戸川区小岩の小岩一中入学、木造の木の香りがする新品の校舎だった。小学校では男女組(古い懐かしい言葉)だった女子生徒は近くの江戸川学園に間借りして別々になり少しガッカリしていた。江戸川がすぐ近くを流れ、毎年赤とんぼの大群が校庭を跳びまわり、僅かな河川敷には近在の人が作るトマトやキュウリなど今風の家庭菜園が一面にあり、時折拝借していた。というのも生活困窮で我が家は母に「今日は弁当ないよ」と言われ昼休みは自宅に昼飯を食いに行く振りをして江戸川の土手に寝そべり時間を過ごし時折キュウリなどを拝借、でもさすが子供心に気が咎めていた。そんな状況のクラスメイトが数人居り悲しく侘しく情けない一時期だったがその中の一人は故人になったがそんな事から友好関係で繋がり大手製薬会社の工場長を務めあげていた。クラス会の時「昼ナシメイト」だなぁと二人で涙ぐんで話した思い出が懐かしい。この年、A級戦犯の 7名に絞首刑が執行された。帝銀事件、ガンジーが暗殺され、ラジオから「異国の丘」が流れていた。

戯言19-2

▼昭和26年三商入学、入学式の日は雨でゴム長靴を履いて参列、母が付き添ったが後にも先にも学校関係の事で両親のどちらかが付き添い集会に出ることは一度も無かった。なので雨が降ったんだろう。合格入学が決まった翌日、兄(16期)が就職していた「三菱レイヨン」を辞め司法の勉学に向け進む報告を今村校長、清田教頭に告げに行くので私も同行、「兄に負けず頑張りなさい」と激励のお言葉を戴いた。すでに我が家は前年に戦前の土地にバラックを建て商売(食料品店)を始めていた。近隣はまだ焼け跡が多く配給制度もありながら6畳二間に7人の生活、でも少しずつ夢と希望を家族全員が持ち始めていたのは事実であった。兄が勉学資金調達の為、珠算塾を開設したのも私の三商入學と同時進行、私も中2の時に珠算2級を取っていたので下校後は兄の助手として手伝い、どこの部活にも入れず、今風にいえば・帰宅部・だった。塾生も多くそれに伴い兄から潤沢な「こずかい」が貰え、塾の休日には封切り映画三昧(写真②)を送ることが多かった。塾の運営には杉原先生から顔を合せるごとに励まされていた。今思うと以後40数年兄の後をついで珠算塾を続けて来た事に感無量、一度は斡旋された就職(兼松江商)も兄を助ける為に一年で辞めその都度清田先生に相談、いつも寛大な対応で励まされた。十数年後、私の長男が専修大学松戸高に入学した時の校長が清田栄一氏であったのは全くの奇遇であった。

▼この年、GHQ最高司令官マッカーサーが朝鮮戦争に対する意思の違いからかトルーマン大統領が解任、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の意味深な言葉を残した。大統領選に出馬する腹づもりがあったのか、共和党は欧州の指揮官だったアイゼンハワーを推挙した。敗戦日本を立て直してくれたマッカーサーが羽田を立つ日、沿道に沢山の国民が惜別の見送りに手をふっていた。私はいまも彼には感謝している。数年前、皇居前にある第一生命ビルのGHQのマッカーサー司令官の執務室が公開され拝見、机・椅子は修復せずそのまま、執務室から天皇の居る皇居がよく見えたとの説がウソであったのを確認できた。9月にはサンフランシスコ講和条約が国連で48か国の賛同を得て承認され、三商では校長の音頭で万歳三唱、君が代を唄い「これからの日本は君達が背負う」の今村校長の話、その日は未だに賛否両論がある「日米安保」も締結した。

▼戦時中を挟んでいたとはいえ小学校の6年間に4回の転校をしたのは私だけではないはずである。年度替わりの4月、入学したあの年を回顧してみた。

●写真説明①‥‥荒川区尾久にある東京初空襲による被弾地のパネル
●写真説明②‥‥1951年こんな超美人を見る‥Eテイラー

やっぱりぶつかって割れたか!! 28期 若月健司 2022年3月投稿

下記の文章は平成30年の2月にある団体の会報に投稿したものです。あれから4年経ってふと思いだして読み返してみました。そして現在の世界状況は危惧した通り、悪い方向に向かっています。

~シャボン玉が鉄球になる~

今年の冬は寒さが一段と厳しく感じられますが、会員の皆様におかれましてはご健勝のことと存じます。年初のある新聞記事で「世界はシャボン玉の集合体で構成されており、それぞれの玉が重なり合ったり、隣の玉の中を見ながら他山の石として連動していた。ところが最近その玉がシャボン玉から固い鉄球に変化してきたため、世界がギクシャクしてきた」といういうのです。この記事から連想するのはシャボン玉同士がぶつかっても、柔らかく対応できるが鉄球同士だとドカンとぶつかり衝撃が大きくなる。シャボン玉はその中が透けているので外から見え、安心感がある。鉄球は外から中の様子が見えず、疑心暗鬼になりやすい。

ここでいう世界とは国と国の関係だけでなく、政治・宗教・企業・地域社会・集団などに当てはまります。即ち、鉄球の中身は「自分達優先・自分達優秀・排除・分断など」です。人類は第二次世界大戦を経て、あの惨禍を再び犯すまいと今日まで営々と努力してきた筈ですが、どうも昨今は鉄球が多くなり、あちこちで激しくぶつかり合っています。歴史は繰り返すという言葉は死語にしたいものですが、その期待がはずれそうに思うのは時期尚早でしょうか。 以上。

ウクライナがシャボン玉とすればロシアは鉄球です。その鉄球がドカンとシャボン玉にぶつかり割ってしまったのです。このような事態がまかり通るようではSDGs推進・オリンピック開催・地球温暖化対策・共生社会実現などの活動自体がなんの意味も持たないのではないでしょうか? 以上。

15 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年3月投稿

JR船橋駅より徒歩10分程にある、御蔵稲荷神社をご案内します。江戸時代、ここには飢饉に備え穀物を蓄えていた郷御蔵がありました。

「御蔵稲荷神社 (九日市郷御蔵跡)」

寛永19年(1642)の寛永の飢饉以来、徳川幕府は関東各地に年貢米を一時的に保管したり、飢饉に備えて穀物を貯えたりするために、村々に倉庫を建てました。これを郷蔵(ごうくら)あるいは郷御蔵(ごうおくら)と呼びました。ここ船橋(九日市、船橋御殿跡)にも、九日市郷蔵が建てられました。

「御蔵稲荷神社」

九日市郷蔵は、230年程前の(寛政3年、1791)の津波で失われ、以降再建されませんでした。 延宝、享保、天明の飢饉には郷蔵によって村人は救われ、恩顧に報い稲荷様を祀りました。 これが御蔵稲荷神社です。

このあたりから東側は中世の頃には、海老川の河川敷だったと言われており、その川幅は200m程と広かったようです。

「御蔵稲荷神社は狛犬でなく稲荷神の神使の狐像で左右共に巻物をくわえている」

「16 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(14)厳島神社」に続く 「2022-2-25寄稿」

戯言&独言18 21期 髙野 昇 2022年3月投稿

■三月になると
戯言18

▼三月になるといろいろと思い返すことが数々あります。11年前の3月11日のあの東日本大震災の日にわが家族にとって初の女の孫が生まれました。出生時刻も大津波が三陸地方襲っていたあの時刻でした。PM2時過ぎの大揺れの時は前日から出産の為入院(さいたま市岩槻区)しており当日の地震は妊婦曰く「凄く怖かった」が数時間後の津波襲来とほぼ同時刻に女児が誕生しました。私達老夫婦も自宅前の空き地に近所の方々と共にへたり込み、孫が生まれそうだとの事もすっかり忘れており、父親になる三男の息子は本郷湯島にある勤務先から社員全員に早期帰宅令が出たもののアクセスや携帯が不通、40キロ近い道を岩槻の自宅まで徒歩帰宅、その時点で吾子が生まれたのを知らず、その足で産院を訪れ誕生を知ったそうです。その孫娘もあと数日で6年生、高齢者の私達夫婦がスマホのレクチャーを乞うほどになりました。

▼私の父は千葉県旭市(旧飯岡町)の生まれ、あの日この町も津波に襲われ父の実家は5M30cmの津波の襲来をうけ、普段から九十九里海岸の波音や波足の激しさは知ってはいたものの津波のその速さに逃げる余裕も無く、実家に住む従兄の長男は「家の中で溺死する寸前だった」と述懐していました。1階は壊滅し町では16名の命が奪われました。今だに東北三県の被害の大きさだけが連日報道されて、有名、無名を問わずボランティアが訪れていましたが千葉県にも同じ様な被害、犠牲者がいたことは数年後「朝日新聞」コラム欄で数回記載されていましたが知る人はあまり居なかったようです。孫は誕生日が来る度に震災の事を周りから語られ、被害に遭った方々から新たな生命を戴いた事に思い馳せ成長してもらいたいものです。

戯言18-2

▼3月10日は77年前に東京大空襲で下町が95%消失し壊滅した日です。私は集団疎開先(山形・かみのやま温泉)でその3日後に先生から知らされました。宿舎の旅館や先生にはかん口令がひかれていたらしく、その3日後に知らされました。その5日前に同宿の6年生6人(男4・女2)が卒業のため帰京していましたが内3名が家族と共に焼死してしまいました。宿泊先で寝起きを共にしていた担当の先生(女性)は自らの家族の住む上野小島町が心配でそそくさと教員を辞職し帰京してしまいました。疎開先に残っていた5年生以下3年生(私も3年生でした)は在京の家族の安否で夜も日も眠れずの1っか月、やっと詳しい情報が私の父からあり、4年生の女の子の家族が一家全滅の事も書いてありました。この人は2年後兵隊に行っていたお兄さんが復員、親類に預けられていた妹を引き取り、もとの実家(私の実家の裏)に戻り再会しました。バラック建物がボチボチ建ちならぶ昭和23年の事でした。

▼私の家内はこの時3歳数か月、大空襲の中、深川高橋(たかばし)から母の背に背負われ義母はリヤカーを引き舅の手をとり人の流れに従ったもののリヤカーの荷に火が付き目の前にあった「防火用水」に投げ込んで逃げたそうです。その時岩崎庭園(現清澄庭園)の門が開き大勢の人がここで一夜を明かしたそうです。義母が家内をおぶっていたその上に「綿入りねんねこ半天」を着ていて、その袖袋に入っていたのがこの写真の「体力手帳・・‥今は母子手帳」です。「体力手帳」とはいかにも戦時中らしい表示です。岩崎庭園で池の水を飲み顔を洗った時に気が付き袖の半分近くが燃えちぎられていたのに気付いたそうです。背中の子に火がつき焼死したのも知らずにいた方が多数いたのも後日知ったものです。幸い家内は火傷一つ受けず現在があります。彼女にとっては記憶にはない唯一の戦争体験の証拠であり、手帳の隅々の焼け焦げは空襲により焼死した方々への鎮魂の思いがこもった大切なものです。家内の父は当時群馬にあった航空機製造会社の下請で部品の設計図の仕事で深川には居ませんでした。義母は11歳の時に関東大震災にも被災し、この時も清澄庭園に避難し難を逃れています。清澄庭園の事を晩年まで「岩崎様のお庭」と言っていました。2度も命を助けて頂いた恩人の「岩崎様」なのです。

⁂写真説明‥‥家内が今も大切に持っている「母子手帖」

‥‥ ‥‥父の実家付近の震災2日後の写真

偶然か?日本の2022年は転換期!! 28期 若月健司 2022年2月投稿

年初にあたり、今年はどんな年になるのだろうかとふと思っていた時に「日本の2022年は転換期になる」という言葉に気を引かれました。理由を整理すると以下の様になるのですが思い当たる部分もあります。「歴史は繰り返す」という言葉もあるようですから日本の今後を見通すうえで少しは参考になるかもしれません。

明治維新が1868年と言われ、太平洋戦争敗戦が1945年です。その間が77年です。それから今年の2022年までがぴったりの77年です。まさに明治以降の77年と敗戦後の77年が一致するのです。そして両期間における歴史的な事象も共通する部分があり、今年以降の将来を考えるにあたり大いに参考になると思います。

明治維新から敗戦までの77年間

敗戦から今年までの77年間

明治

近代国家を目指し富国強兵

昭和中期

敗戦から経済大国へ

大正

大正ロマンを謳歌

昭和後期

経済高度成長 バブルを謳歌

昭和初期

軍備拡張から敗戦へ

平成令和

バブル崩壊経済低迷、国力低下

黒船来航という外的要因による富国強兵の結果、日清・日露戦争に勝利し列強の仲間に入った。それは敗戦という外的要因によって経済大国となったことと共通する。大正ロマンを経験したことは高度成長によるバブルを経験したことにも共通する。昭和初期に入り軍国化が進み敗戦に至った。そしてバブル崩壊のあと平成・令和と経済が低迷しているが、それは軍国化が進んだ昭和初期と重なる。

これまでの日本を考えると外的要因で国家が生まれ変わるという歴史的事実がある。そうであるならば今後どんな外的要因があるだろうか。

①異常なる気候変動~産業革命以降の化石燃料資源使用によるとされる異常なる気候変動で
大災害が発生し、それが大転換になるのだろうか?

②コロナ禍~今後益々コロナ禍の影響が大きくなり社会構造が転換するだろうか?

③核兵器による紛争~現在世界各地で一触即発の紛争が起きているが核兵器が
使用されることは
無いのだろうか?

④世界では民主国家と権威国家に分断されつつあるというが、それが武力衝突に至り
日本が巻き込
まれることはないのだろうか?

国内的要因も考えられる

①日本は現在超金利安だが、今後金利高になった場合、財政赤字への影響は大丈夫だろうか?

②円安がジワリと迫っており、物価高が心配されているが国民の生活は大丈夫だろうか?

③一強多弱の政治情勢の中、チェック機能が働かない結果政策に間違いが発生しないだろうか?

今後30年間に70%の確立で発生すると言われる東京湾北部大地震や戦争などによる「転換期」は望まないが、日本の国力が低迷している現在「何が正しいか、自分で考える」を念頭に置いて行動したいものです。 以上。

14 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(12) 慈雲寺― 29期 仲田元昭 2022年2月投稿

前回ご案内した西福寺より徒歩5分程にある、古刹で創建当時には広大な敷地に七堂伽藍を備えていた慈雲寺をご案内します。

「慈雲寺」

大峰山慈雲寺は、弘安2年(1279)北条時宗の招請で来朝した宋の僧、無学祖元和尚(鎌倉建長寺二世)を開山に迎え、北条時宗により臨済宗の寺院として創建されました。
本尊は釈迦牟尼仏。開山当初は、七堂伽藍の整った大寺であったそうです。
しかし、永禄七年(1564)の里見氏と北条氏との戦いにより伽藍は焼失しました。
その後北条氏政が再興し、天正18年(1572)に、曹洞宗に宗旨替えしています。
戊辰戦争でも本堂を焼失し、現在の本堂は、昭和50年(1975)に再建されました。

「慈雲寺 本堂」

「徳川家臣綿貫元吉の墓」

境内には、戊辰戦争で亡くなった徳川家臣兵士「綿貫元吉」の墓があります。

碑石は150年程経過し損傷が激しいですが、向かって左側に「造立主東京照降町亀屋清兵衛」とありますが、徳川家臣「綿貫元吉」との関係は明らかではありません。

「徳川家臣 渡貫元吉の墓」

「15 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社」に続く 「2022-1-25寄稿」

戯言&独言17 21期 髙野 昇 2022年2月投稿

「るい」とサッチモ
戯言17

▼今の朝ドラ「カムカム・エブリボディー」に少し夢中になっている。ルイアーム・ストロングからとった子の名が「るい」、その結婚相手がトランぺッター、そこでよくつかわれていた台詞や演奏曲の「sunyside of thestreet」とは私の中では結び付かないが、 シングルSP盤にあったかは記憶がない。アームストロング(略称サッチモ)を初めて聞き、SP盤を買ったのがアルゼンチンタンゴの名曲「エル・チョクロ」を今風に彼らしくアレンジしたもので、”KISS OF FIRE”で戦後日本で発売された初のサッチモのレコードがこれだと思う。かなりのレコード売上があったはずで、ラジオからも毎日のように聞こえてきた。あのペギー葉山が「渡辺弘とスターダスターズ」をバックにこの曲でデビュー、「sunysade…」をサッチモが唄い演奏していたとはこの朝ドラで初めて知った。サッチモのペットの音色、左手にもった白いハンカチ、汗を拭う姿、ダミ声と笑い声、あの顔、一度みたら忘れられない。映画「グレン・ミラー物語」[「五つの銅貨」「上流社会」などハリウッド映画にもよく出ていてどれもサッチモそのままの役で出演していたと思う。「上流社会」でのなかで♬ハイソサエティ♬を唄いこれがヒットしていた。他にも♬バラ色の人生やセッシーボン♬などのヒット曲があった。映画「グレンミラー物語」の中でドラムのジーン・クルーパーを交えてのセッション場面は特に素晴らしく、「これぞサッチモだ」を感じた。

▼ある「音楽雑誌‥195?年版」によると少年時代はかなりの悪で発砲事件で少年院に入り、そこで教えられたコルネットが縁で出所後、街のパレードなどで腕を上げプロとなりニューオルリンズで名がひろまり、デキシーランドジャズ全盛のど真ん中で活躍。デキシーランドジャズの代表的な曲は♬聖者の行進・タイガーラグ♬などがある。当時は演奏者が唄うのが当たり前でサッチモもその一人、私のすきなジャック・ティガーデンも渋い声で、LPを持っている。前記「音楽雑誌」によると唄の中で♬ズビズバブー・ダバダバヅ♬と楽器のように唄う事があり”スキャット”と言うが、これはサッチモが歌詞を忘れごまかす為に突然口ずさんだもので、共演が多かったエラ・フイジェラルドが冗談ぽく言っていたと書いてあり、このエラ小母さんと共演したDVDを見ると楽器の部分をテンポが速く全てスキャットで済ます素晴らしい場面もある。日本では由紀さおりの「夜明けの‥‥」があるがテンポが遅くスキャットには程遠い。

▼サッチモと名付けたのもこのエラ小母さんであの大きな口を小さなバッグの口金に見立てたらしい。195?年にGHQ兵士の慰問を兼ねて来日、その合間に浅草国際劇場で3日程公演、それも押し詰まった年の暮れの冬休み中、兄と観に行く予定が「この暮の忙しい時期に…」と親から文句が出てパーとなった。「キング・オブ・ジャズ」と讃えられ世界各地の公演で音楽大使と言われていた。時の大統領アイゼンハワーが人種差別に関心を示さず無反応さに「その心許さず」と公言をしたこともあったらしい。ベトナム戦争の悲惨さと悲しみの全世界に向かい名曲「WhotA Wondfulworld」と共通する願いであったと理解する。”sunyside…”は日本では、”明るい表通りで”と訳され表示されているが朝ドラの主人公とサッチモは”日向を前向きで進む”志を秘めてこの曲を歌い演奏し、ドラマの中で娘に「るい」と命名したのがじんわりとわかってきた。朝ドラの話からサッチモ賛歌になってしまい朝ドラの主人公たちがサッチモと今後どんな心の糸で繋がるのか楽しみである。高齢者ゆえの遠い昔の思い違いなどがあるかも知れずその点はご容赦の程を。

「SDGs」と「人新世と資本論」 28期 若月健司 2022年1月投稿

昨今、SDGsという言葉が国内外で盛んに使われています。私はこの言葉は約5年前から知っておりました。

2017年(平成29年)1月31日(火)朝日新聞朝刊に1頁にわたり「新しいものさしで考えよう」との見出しで掲載され、そこには「2030 SDGsで変える」との文字がありました。SDGsとは国連加盟国が2030年までに取り組む行動計画で2015年(平成27年)の国連総会で全会一致で採択されたのです。「誰も置き去りにしない」を共通の理念に、平等な教育、気候変動への対策など17分野からなります。具体的な目標は169項目に及びます。日本政府も2016年(平成28年)5月に安倍晋三首相を本部長とする「SDGs推進本部」を発足しています。翌年には実施計画を発表しています。

その朝刊の記事には「国谷裕子」さんのコメントがあり、2015年(平成27年)の国連総会での採択以来、この問題に彼女が熱心に取り組んできたかが掲載されています。彼女はNHKの「クローズアップ現代」のキャスターを2016年(平成28年)3月まで23年間務めましたが、その切り口鋭い指摘が災いとなりある筋からの圧力からキャスターを降板せざるを得なかったとも言われています。その彼女が逆境にめげずSDGsに取り組む姿に敬服します。

一方で2021年(令和3年)新書大賞1位に選ばれた「人新世の資本論」(集英社新書)があります。著者は斉藤幸平大阪市立大学大学院準教授です。「気候変動、コロナ禍は文明崩壊の危機。唯一の解決策は潤沢な脱経済成長だ」というのが主張です。~はじめ~の頁から「SDGsは大衆のアヘンである」とあり、レジ袋削減やマイボトル持参などで温暖化対策をしていると思い込んでいるのは現実から逃避していると断じます。化石燃料の使用による産業革命で大量生産大量消費が行われ経済が成長した結果、地球は汚染された。これからは経済成長を基盤とするのでなく脱経済成長を目指す新しい「人新世時代」へ突入すべきという。

日常生活でゴミの分別化、えどがわエコセンターでの子ども達への環境問題の啓蒙活動を行っているが昨今の気候変動に役立っているのだろうかと疑問に思うこともある。間に合わないのではと。ガソリン車の製造禁止や都心への乗り入れ規制、飛行機の便数削減、再生エネルギーへの予算拡大、後進国への思い切った援助、格差の縮小などいろいろ考えられるが抵抗も予想される。3.5%の人々が立ち上がれば社会を大きく変えられるというデータがあるという。それが正しければ私を含め一人ひとりが3.5%に入ることだろうか。 以上。

13 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(11) 西福寺― 29期 仲田元昭 2022年1月投稿

今年も船橋の魅力を発信してまいりますので、宜しくお願いします。これまで東金御成街道の海側の寺町にある寺社をご案内してきましたが、今回から街道の北側にある寺社をご案内します。

「西福寺」

船橋山(せんきょうざん)清浄心院西福寺、真言宗豊山派の寺院で、別名閻魔(えんま)寺とも呼ばれています。創建は鎌倉時代と言われ、門前に江戸時代の庚申塔、念仏講供養塔があります。本尊は阿弥陀如来で、本堂は戊辰戦争で焼け明治39年に再建されました。

「西福寺 本堂」

「五輪塔、宝篋印塔」

境内にある県指定文化財の石造五輪塔(上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪)は、安山岩製の高さ295cm県内で一番大きく、鎌倉を除いては関東地方でも数少ない優れた作品です。その古風さ、優美な姿に特色があり、律宗系の高僧の墓で南北朝時代の製作と推定されています。左の宝篋印塔は、鎌倉時代後期の製作と推定され、全高154cm、中世の宝篋印塔としては大型のもので、原形をよくとどめています。

「五輪塔、宝篋印塔(県指定文化財)」

「14 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(12)慈雲寺」に続く 「2021-12-25寄稿」

戯言&独言16 21期 髙野 昇 2022年1月投稿

戯言タイトル▼正月が過ぎて
戯言16

■コロナやらオミマクロやら慌ただしく過ぎた年末、年始、私は子供の頃からこの年末から年始にかけては嫌いだった。それは家の商売が食料品店のせいである。当時の食品店は御節料理を小商いの店で作り売り,近在の家庭では当たり前にお重を持って買い物に来る。商人(あきんど)としては1年の中の稼ぎ時、稼ぎいれ時でもある。その御節の準備は全てが前もって支度しなければならず、一家総動員、親類の女性まで寝泊まりを伴っての手助けを受け下ごしらえが暮の20日から始まる。ほとんどが手作りの時代、今はスーパーやインターネットで雅でお重も要らない体裁よくできた御節料理を手にする事が出来る時代だ。あの頃はまず店を閉めてから7人家族全員で「昆布巻き」を巻く。あらかじめ戻してある昆布を父が切った寸法の昆布に小幅の昆布に小女子を挟み巻いて干瓢でくくる、それを毎晩一人30本と決められ3日ほど続く。黒豆や田ずくりは当店の自慢の品で石油缶10本ほど作る。その煮炊きの火の番は私の仕事、おが屑を硬く詰め込んだ竈が三基あり父の指示で通風口を調整するのが難しかった。あとは野菜の煮っころがしの野菜切は兄(16期生)の役目で、親類から手伝いに来ていた女性は「なます」の千切り、私は「きんとん」のサツマイモを細かく切る役目を仰せつかっていた。数え上げればキリがない。兄が珠算塾をやっていた頃は教室はすでに冬休みで煮炊きの済んだ品は全て別棟の教室に収容、教室中煮物の匂いがしていた。冷蔵庫が普及していない時代なので押しつまった30・31日にお客が集中、下町は特にその色合いが強い。この暮の2日間は店売りの手伝い、当時は私服等持たないので詰襟の通学服に厚での前掛けをかけて店に出ていた。正月、その”報酬もお年玉”も無く兄の珠算塾を手伝っていたこともあり兄が「父ちゃん、母ちゃんに言うなよ」と小遣いをそっとくれていたのを今も正月になると思い出してしまう。あの暮の手伝いの猛烈な忙しさ、間違えれば父に怒鳴られ、母に怒られそんな思いが執念深く續き、よって未だに正月が好きになれない原因にある。ここ2・3年我が家のお節はインターネットで早めに注文。バラエティーに富み京料理の上品な味が高齢者に合うのか彩どりも良く、京料理の雅(みやび)さが偲ばれ贔屓となった。以外な事に正月に来訪してきた二男家族の孫(男)2名、「美味しい、旨い」と喜んで食べていった。食べ盛りとは言え正月2日で完食され私達夫婦の正月3日目の雑煮の膳には姿なく、心密かに嬉しく家内と笑いあった。

子供の名前 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年12月投稿

明治安田生命保険会社は2021年生まれの名前人気ランキングを発表しました。

私が子供につけた頃とは全然違っています。おもいもつかない名前ばかりでした。私は子供には姓名判断の本を参考に画数とか、子供が書きやすいことも考えに入れてつけました。

私には令和生まれのひ孫が4人います。

男の子の名前は綺一(あやと)愛翔(あいる)

女の子は紅愛(にいな)心遥(こはる)

孫達がどうしてつけたのかは聞いてはいませんが綺一をのぞいて3人は書きづらいだろうと思います。私なんか考えもつかない名前ばかりです。

12 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(10) 常磐神社 彫刻の美―
29期 仲田元昭 2021年12月投稿

船橋駅より徒歩15分程船橋大神宮境内にある、常磐神社本殿の魅力、極彩色漆塗り仕上げ彫刻の「匠の美」をご案内します。

「本殿最上部の千木の菊唐草文様」

「唐門上部の菊の御紋と葵の御紋」

「本殿(東南)柱上部の神獣」

「本殿(東)虹梁の彫刻 四神 青龍」

「本殿(南)虹梁の彫刻 四神 朱雀」

「本殿(東)虹梁の彫刻 飛龍」

「13 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(11)西福寺」に続く 「2021-11-25寄稿」

11 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(9) 常磐神社― 29期 仲田元昭 2021年12月投稿

船橋駅より徒歩15分程の船橋大神宮境内にある、常磐神社について2回に分けてご案内します。お正月3日間のみ公開される、本殿の素晴らしい極彩色漆塗り彫刻をご覧いただけます。お近くにお住いの皆さんお正月に参拝されては如何でしょうか。

「常磐神社」
今から400年程前、元和8年(1622)に二代将軍徳川秀忠公が、家康公を祀る常磐神社をここ船橋に造営しました。その当時の本殿は5間(約10m)四方の大きなものでしたが、戊辰戦争の市川船橋戦争で焼失してしまいました。

「極彩色漆塗り 菊の御紋と葵の紋がある立派な唐門と玉垣」
現在の神社は、平成27年(2015)に「徳川家康公没後400年祭記念事業」として、創建当時の日光東照宮にも並び称された壮麗な社殿を再現すべく、造営されました。
本殿は、間口3間、奥行2間、高さ25尺、極彩色漆塗り仕上げで、本殿最上部の千木には菊唐草の文様が彫られています。平成の大造営とも言えましょう。

本殿には、中央に日本武尊、左に徳川家康公と徳川四将(井伊直政、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政)、右に秀忠公と歴代将軍家をお祀りしています。

「本殿正面(極彩色漆塗り素晴らしい彫刻)」

「本殿南西(千葉県建築文化賞優秀賞受賞)」

「12 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(10)常磐神社 彫刻の美」に続く 「2021-11-25寄稿」

戯言&独言15 21期 髙野 昇 2021年12月投稿

▼いろいろあったなあ‥この一年

■新コロナウイルス二言目にも新コロナウイルスの2年間、近年こんなに永く家籠りしたのは戦時中以来か。あの豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が昨年2月3日、日本に寄港してからの年月、一般市民は外出を控え様子を伺いながらもその収束も見えずトンネルを抜けられず、行政の対策の手遅れがアチコチに排出、当時のコロナ元請け安倍総理は「国民全員にマスクを配る」との安易な考えと”もり・かけ・桜”の難と共に体調悪しと{仮病かも?😜}逃げ、次の下請け菅総理に至っては役人の書いた文章を音読するのみ、小学生の国語の時間じゃあるまいし。10万円給付金とワクチンの手配や接種会場不足にアタフタで、職責を逃れる為か孫請けの岸田総理にバトンを渡す。この混乱期に戦時中の内閣ではあるまいし2年もたたぬうちに総理が3人も変わり、この異変な出来事で歴史上でも末代までの記憶となるだろう。その間の感染バイオリズムは3次、4次と進んでいく。孫請け総理、就任時の御題目の意気込みも日に日にあまり進捗もなくなんとなく元請け、下請の顔色をみながら肝心な所は地方自治体に丸投げの感がある。飲食店の時間緩和もどうかと思う。国民全部が飲食業でもなく、皆が外飲みを好んでいない。若山牧水ではないが「‥・・・酒は静かに呑むべかりけり」。この稿を書いている間にオミクロン株なる新型が参上、オミクロン株と聞いた時、どこかのIT企業が実績を上げ上場か二部に登録したのかと一瞬思った。それにしてもなぜ「株」が付くのか。

戯言15

■新型コロナ禍の中16期の兄、三商生以来の盟友細田武君が黄泉(ヨミ)に召され悲しみの消えぬ中もう一人の盟友石塚芳君がこの4月に故人の後を追った。彼は下小岩小、私は小岩本校、良く下小岩小は横綱”栃錦”の卒業生である事を自慢していた。三商2・3年生の時からの同クラスで修学旅行も同じ班で同一行動、お互いの家にも出入りし毎夏仲の良いグループ5・6人と葉山の森戸海岸え海水浴、銀座のジャズ喫茶「テネシー」に故細田君も交えて行ったり、細田君と共に遊び、学び青春の入口を楽しんだ。協和銀行(現りそな)に就職し上野支店勤務の頃は毎週の様に木曜日(私がやっていた珠算塾は木曜が休み)に誘い、誘われていた。後楽園球場のナイター、あちこちのジャズコンサート、登山、銀行の保養施設など・銀座の「すき焼き店」で2人は初めて本物の”すき焼きを食した。20歳の頃だ。ほかに不二家のビーフシチュウやソフトアイス、上野精養軒でのこれぞ”肉"と気がついたステーキなど初物喰いはいつも彼と一緒だった。江の島・鎌倉行きには上野支店の女性陣数名も加わり、その中の一人が今、私の家内、石塚君もその中の一人と婚約中だった。彼が亡くなったその日の昼、奇遇か偶然か彼から電話が掛かってきた。家内が電話を取りしばし歓談、その後で私と「おう、おう元気かい、しばらくだなあ」と他愛のない会話が小一時間、家族の近況や孫の話、Tigersはいつも尻切トンボで終わる(彼は虎ファン)、私は中日ファンでプロ野球の話、在校時代から二人はアンチ巨人で共通していた。奥さんは介護度が高く電話には出ず、電話を取った家内に「リンパ腫で凄く首が痛い時があるんだ」と言っていたとか。私は以前からそれは知っていた。その夜、9時過ぎ娘さんから「一時間程前に風呂場で倒れそのまま逝ってしまいました」続けて「夕食の時、”今日は髙野と芳子さん(家内の名)と久し振りに長い時間喋れて良かった」と楽しそうに語っていたのでその様子からまず私に電話したと申され家内と二人電話の前でしばし呆然、静寂の中、家内のすすり泣きだけが僅かに聞こえていた。逝くことへの神の計らいとしか思えぬ悲しい惜別の電話であった。合掌

戯言15-2

■よかったなあと思うことが一つ。このHPの10月寄稿の中に孫が通学している高校の野球部員として出場していたことを書いた。秋季大会は都予選に170余校(東西合同)の中、トーナメントの前に予備戦まであり孫の高校(都立城東高校)はトーナメント出場権を得て立ち上がり6戦目で東京の雄、関東一高に3点のリードをしていながら惜敗、悔しさは勿論あるが、公立校に専用グラウンドなどあるわけもなく、他の部活と共用の校庭グランドで週4日だけの練習、都の厳しい規制でpm7時には帰宅しなくてはならず、そんな中での健闘ぶりは、打倒強豪私立高に燃えた下町っこの心意に感動と感謝の10月・11月だった。

戯言15-3

■気忙しい年の暮、60年近く連れ添った家内と二人の暮や正月にも慣れたものだが、コロナ禍の中、息子家族が来るか、来ないか。とは言いながらおせち料理はインターネットで京都料亭に注文済み、後は年賀はがきのプリントアウト、年々喪中はがきが少しずつ増えるのは寂しい。14枚ある障子紙張り、若い時は一日で全部できたものが寄る年波には勝てず一年おきの半分ずつになった。年内最後の作業は「東芝もちっこ」による「餅搗き」この”もちっこ”は我が家の家電の再古参の40数年物、息子3人が居た時期は5升も搗いたものだが今はひっそりと2枚だけ。この”もちっこ”赤飯を炊くにも便利。孫達に上げる「お年玉」も年末に現金書留でおくる変な流れの暮と正月、そんな中オミクロン株なる新顔が現れ最初聞いた時は新鋭のIT企業が 株取引に上場したかと思ったが。なぜ「株」が付くのか分からない。この分で行くと2年連続の寝正月、間違いなし。HPご覧の諸兄方々佳き歳の暮と良き正月を。

:::雑句

●とりあえず 会釈してみる マスクごし

●ジャンボくじ 果報をまちて 寝正月

10 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(8) 圓蔵院― 29期 仲田元昭 2021年11月投稿

今回は、7月号でご案内した覚王寺より徒歩2分程にある、地元で何でも願い事を叶えてくれると有名な因果地蔵尊のある圓蔵院をご案内します。

「圓蔵院」

真言宗豊山派の寺院で海岸山圓蔵院といい、今から460年程前の戦国時代後期 永禄元年(1558)の開基と言われ、当時は、海岸山と言う山号から山門の近くまで海岸であったと思われます。 ご本尊は不動明王です。

本堂は、戊辰戦争で焼失し、明治33年(1900)に再建され, 現在の本堂は平成17年(2005)に立派な鉄筋コンクリート造に建て替えられました。

「圓蔵院 山門(市HPより)」

「因果地蔵尊」

この石造 因果地蔵尊は、願い事が叶うことで知られ地域の信仰は篤く、遠方からも参拝者が多く香華が絶えません。 「因果地蔵尊」は、三代目住職の秀範が安土桃山時代 天正年間(1573~1591)に建てたと伝えられ、高さは 180cm程もあります。

地元漁師町では「いんが地蔵」でなく「えんが地蔵」と訛ります。願い事が叶うと、お礼にと小さな地蔵尊を奉納し、今ではその数は千体程にもなります。

「因果地蔵尊」

「11 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(9)西福寺」に続く 「2021-10-25寄稿」

戯言&独言14 21期 髙野 昇 2021年11月投稿

■映画・騎兵隊3部作

●若い後輩諸兄にはあまり西部劇映画は馴染みが薄いと思われるが、かって1960年代ごろまでは西部劇全盛期、観る方の私達も若かった。私の好きな「西部劇」はやはりJ・フォード監督、J・ウエイン主役ものだ。ウエインはフォードにみいだされて「駅馬車」で人気を博し、これはダイナミズムを秘めた西部劇の名作である。後年、日本映画の黒澤明と三船敏郎の存在と似ている。ドンパチやるのが西部劇の楽しみかも知れないが、この2人の作品にはそれを超えた愛・友情・哀愁・郷愁・尊敬などがそれとなく滲み出ている作品が多い。機会があったらお薦めしたいのはこのコンビの”騎兵隊三部作”それは「アパッチ砦」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」だ。

戯言14

●「アパッチ砦」では本部から左遷されてきたヘンリー・フォンダ扮する司令官が現場環境も分からず最後はアパッチにやぶれ壊滅、それでもJ・ウエインの少尉が戦死した司令官を責めることもなく英雄として讃える、男の心丈夫と心意気は感動もの。この映画で斥候役の騎兵隊員の役をやったベン・ジョンソンという俳優は数ある西部劇俳優の中で乗馬の巧みさはNO1と言われており、これもJ・フォードが見だした名優で、その後も数ある西部劇に出ていた。

●「「黄色いリボン」 この映画、映画もそうだが挿入曲も大ヒット、日本でも久慈あさみがレコードで唄い ♬あの女の黄色いリボン‥‥イエロリー,イエロリー…♬ と唄っていたが実際は"she wore a yellow ribbon”だったはず。映画のなかであのミッチイミラー合唱団が唄いTVがモノクロの時代ミラー合唱団の番組も有った。数日後に定年退役する最後の仕事として駅馬車を護衛する役目が原住民との戦いで苦い敗北をするという展開、年老いた指揮官がメガネをかけ直して文書を読むJ・ウエインのショットは今思うに、現在の自分と重なり何か愛おしい。夕日を背に受けて亡き妻の墓に手折ってきた野花を添えるシーンは美しく、悲しくこれまた愛おしいシーンだった。この映画にもベン・ジョンソンが出ていた。隊員皆が黄色いリボンを首にまいていたのは監督の遊び心らしいと評論家の荻昌弘が「キネマ旬報」に書いていたと思うが定かではないと付け加えている。たしか砦の上官の娘が黄色のリボンをつけていたと思う。

戯言14-2

●「リオグランデの砦」 駐在している砦に新兵としてなんと自分の息子が赴任してくる。おまけに息子は士官学校の落第生で、出來不足の息子の成長を厳しくある時は温かくたたき上げる様がアチコチのシーンで見られハラハラしながらJ・ウエインのやり方に喧嘩もする母親(モーリン・オハラ)の姿もあって教育ママは何時の時代どこの国にもあるんだという事を冷ややかな気持ちで観たと思う。やがて息子は原住民との戦に作戦勝ち。頼もしく思う父親はこんな結果に一面寂しく、溺愛息子の活躍にただただ喜ぶ母親、ちょっと西部劇らしからぬ展開ものだった。

●三作品はあの「駅馬車」の様な胸のすく西部劇ではない。人間臭い、誰でもが持つ感情、舞台が西部なるが故に戦死した一兵卒、同僚同輩、上官に対する敬意と哀愁が漂う。モニュメントバレーの山岳を背景にどれもダンスや合唱があり、ユーモアあり、喧嘩あり、恋も失恋もあり、短い時間ながらインデアンとの壮絶なスピード感は監督の磨かれた手腕で見せ場を心得ていてニクイ・にくい。ドンパチ的西部劇フアンに物足りない三部作だったと思われる。「OK牧場の決闘」や「リオ・ブラボー」や「荒野の七人」などはドンパチ溢れる楽しい西部劇映画でこれもまた良し・・・・・・脇役もいつもの顔ぶれ、ちょっと太めのビクター・マララグレン、ユーモアと真面目?な部下の役が多く、いずれも先のB・ジョンソンと共に三作に出演、B・ジョンソンはあの「シェーン」では主演のシェーンに敵わぬと判断し、シェーンに相手方の出方を吐露して去る役をやっていた。


▼添付写真説明 「アパッチ砦」ヘンリーフォンダと・・

後方にB・ジョンソンが見える

9 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(7) 了源寺― 29期 仲田元昭 2021年10月投稿

今回は、前回ご案内した東光寺より徒歩10分程にある、本堂が老中松平定信の寄進と伝えられる了源寺と市文化財の鐘楼堂跡をご案内します。

「了源寺」

光雲山伝翁院了源寺は、430年程前の天正年間の創建と伝えら、船橋では珍しい浄土真宗 本願寺派の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。

戊辰戦争の際、新政府軍の宮崎・砂土原藩が駐屯したために戦火を免れました。本堂は白河藩三代藩主、老中松平定信(御三卿・田安家)の寄進と伝えられています。

「立派な山門からの本堂」

「了源寺 鐘楼堂跡」

本堂の脇に、市指定文化財の鐘楼堂跡(附 和時計 蜀山人筆掛軸)があります。 ここには、300年程前の享保6年(1721)から15年(1730)に徳川幕府が大砲の試射を行った台座がありました。

試射は10年程度で終わり、その後は代官の勧めで鐘楼堂を建て、幕府から「時の鐘」と認められ明治4年(1871)に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていました。現在の鐘楼堂は、昭和42年に再建されたものです。

「鐘楼堂跡(市文化財)」

「10 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(8) 圓蔵院」に続く 「2021-9-25寄稿」

戯言&独言13 21期 髙野 昇 2021年10月投稿

◆日なが一日、秋の夜長

●”新型コロナウイルス”なるものが豪華船と共に日本に上陸して以来1年10ヵ月、国全体が振り回され、ワクチンが足りるの、足りないのから始まり、全てにおいて初期段階での中央行政の取り組みの甘さと緩慢さは誰もが認める處でしょう。感染者が何名になったとかが何人に対して何人なのか、埼玉が200人を割ったとか報道されても県民人口全体の中での感染者の数か、検診を受けに来た人から算出した数字か、高齢・老朽化した頭脳の私には何処から出てくる数字なのか理解ができません。魔術師のトリックに騙されているのに似た思いも無きにしもあらず。自粛、自粛のこの中で感染者数の減少で人の心が和らぐのは事実ながら、警戒解除とともにやたら人出が増加、各自の自粛、抑制、我慢はしなくてはなりませんね。あてにできる出口はまだみつかっていません。しかし飲食関係業ばかりが被害を受けているわけでもなく、もう少しひっそりと自粛奨励に協力している高齢者にも改めて何等かの対策を講じるのも新内閣の御役目の一つではないでしょうか。

戯言13

●普段であれば月に1・2度好きな電車に乗り都内の降車したことが無かった駅で降り周辺を散歩、そんな日以外は自宅周辺を7・8キロは歩いていました。長男がいる菩提寺(松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立つ最初の宿)までは片道3.5キロ、週一に訪れていましたが。今は勿論外出自粛厳守、自宅周りを1・2キロをちょろっと歩き、買い物も重い物など、家内に頼まれてザックを背負ってでかけます。家内は”大腿骨頭部壊死”で人工骨が挿入されており長い時間の徒歩は無理、大手のスーパーに行くときはクルマで同伴、そういえばどこのスーパーや大手薬局など男手一人での買い物客(私も含めて)が多いですね。他にもパソコンに向かう、それも日に2時間程度、このコロナ禍のなかメル友の細田 武大兄が逝き、相談相手の兄(16期)が逝きこの人達とのメールのやり取りがなくなりました。来年度の年賀状の見本を6枚作りあげ、これは”プリントゴッコ”以前からの趣味で飽きません。あとは下手な”絵手紙”の下絵書きですが数十枚溜まってますが色あげもしてないものあり季節的なものは来年回し、定期的な病院通いは欠かせず、そんな毎日諸兄は如何なる日送りをしてますか。|

●そんな中で、一つの楽しみが出現、都立高校に在学している孫(2年)が野球部に居り東京秋季大会で東西250余校の予備戦を勝ち抜き、本戦64校の本予選の1回戦では孫の超ファインプレーがきっかけとなりサヨナラ勝ち、球場が遠く、自粛中故観戦はならず、PCのバーチャル放映で経過を知り「バンザイ」を雄叫び、あの(白鵬)のバンザイとは中身も意味も違います。過去2000年代に入り2度甲子園に行っている高校で”公立の星”と言われている高校ですが、肝心の本人曰く「野球は全員が楽しくやる」がモットーで、これは長い人生で大事なものの一つと思い影ながら応援しています。孫に改めて人生の生き方を再確認させてもらいました。

●雑句です‥‥‥‥‥

▼部屋灯り 消せばやさしき 月さえて

▼もう誰も 見ざるアルバム 秋が来る

▼一つ灯に 二人それぞれ 八十路ゆく

8 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(6) 東光寺― 29期 仲田元昭 2021年9月投稿

今回は、船橋を代表する船橋大神宮から東側台地(宮本台地)へ徒歩2分程にある、斬新なデザインの本堂で有名な東光寺をご案内します。

「東光寺」

慈明山阿舎(じめいざんあしゃ)羅院(らいん)東光寺(西福寺の末寺)と言い、創建は室町時代後期、480年程前天文年間と伝えられています。 本尊は薬師如来です。

現本堂は昭和40年(1965)に再建され、設計は地元船橋出身の建築士 長大作氏の斬新なデザインが、寺院の本堂としては大変珍しいです。

「斬新なデザインの東光寺本堂」

「道標を兼ねた廻国塔」

境内には、石造物が数多くあり、中でも道標を兼ねた廻国塔は 宝永6年(1709)製作の市内で最古の道標です。 左右に左ハさくら道 ・ 右ハかつさ道と刻まれています。その昔には、街道筋にありましたが、道路拡張工事の際、東光寺に移されました。

また戊辰戦争で亡くなられた旧幕府方の脱走様墓碑(3名連記)があります。市内には戊辰戦争で亡くなられた新政府方と旧幕府方の数多くの墓碑があります。

「道標左成田道、右上総道」


「9 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(7) 了源寺」に続く 「2021-8-25寄稿」

戯言&独言12 21期 髙野 昇 2021年9月投稿

●戦いすんで、日が暮れて

◆あの日の「トウキョウ」と「お・も・て・な・し」の言葉、会場に居た参列者のあの狂気な騒ぎも、今思えば何か虚しい空騒ぎでした。東日本大震災、各地の豪雨による被害、、そして02年の開催年度に発生した新型コロナの蔓延、なんの巡り合わせか一気に災難に巡り会った日本でした。自然の災害はともかくコロナに対する初期対応の緩慢さは現状の感染者の数が伸長していてこの時点で中止か延期が深く検討されるべきと思っていました。インフルエンザより少し強い程度の感覚か、錯覚か。。五輪関係者はお題目を「「復興オリンピック」と唱えを変え始めましたが津波や他の震災に会い未だに仮設住宅に住む人達や仕事の再興の悩みなどどんな思いでこの五輪を観て何を感じていたでしょうか。被災地の復興と言う名目と目的とは矛盾する各種のトラブルミス、競技場建設入札、エンブレムの偽装?、トップに立つあの人の女性軽視失言、「安心・安全」を呪文の如く唱える偉い人、そんな中、60%以上が開催中止を求めていたにも拘わらず全て無視しての開催は私的には納得できないものでした。

戯言12

◆何がなんでも「五輪ありき」で五輪終了後も感染者は増え、60%以上が開催を中止か延期にと言っている社会を無視し「コロナ禍の中、大会は成功」との給うたIOCの・・ぼったぐりバッハ・・や国内五輪関係者、特に五輪大臣丸川女史の発言は疑問です。総理の「五輪は成功裡に終了した」とか女性知事が「TVの視聴率も良く、自粛の協力度も良く‥」など発言、実態はどこのTV局も五輪・五輪、ここも五輪かよでチャンネル選択の余地がなく、全くのナンセンス発言には呆れました。

◆64年の五輪の成功はマスコミなど、市民の間でも語り草で未来の期待度も高く神話化されました。あの昭和の五輪を神話のままに便乗したものの「緊急事態…」はコロナだけではなく五輪にも適用してほしいと思っていました。どこをみても聞いても安全対策化が徹底した五輪とは程遠く化けの皮が剥がれた感じの五輪であったと思います。自然災害は止む負ない避けられない現象でしたが運営や市民に対する対応は一考の予知があったと思います。身内に豊洲の選手村をマンションとして買い付けていた人がコロナ禍の選手村だったのを鑑み後始末もしていない住居を解約すると言っていました。日本という国は十数年に一度五輪をやってきたみたいです。お祭り好きな日本人は64年の東京から札幌、長野と今度で四回目、八十代後期の歳で五輪を四回観たのは幸せですがどっちかといえば個人的にはあのラグビーW杯のほうが盛り上がりました。特別ラグビーファンではありませんが。

◆主催都市・国として入賞者が沢山いたのは各アスリートの揺るぎない努力、精進、忍耐の尊い賜で感動と感謝を戴きましたが、これは五輪の中止や延期とは別の問題と勝手に理解しています。女子ボクシングの優勝者の入江選手の明るさと話し方が面白く印象的、後日のあるTV番組の司会者が「あれだけ打ち合っても顔が腫れていませんが」の問いに「大会前はもっと美人だったんですよ」といった笑いながらのユーモアはすばらしい。そんなユーモアが理解できないあの張本氏の知的センスの無さ。

◆「お・も・て・な・し」は結果、表(おもて)が無くこの開催には間際になり色々あって「う・ら((裏)・が・あ・る」でしたね。うまい!自画自賛の戯言です。

前回のオリンピックの思い出 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年8月投稿

書道塾の1年後輩が交通公社に勤務していました。オリンピックの入場券があると云ってくれました。何でもいいから思い出に観戦しようと思いました。中学生だった弟をつれて国立競技場で馬術を観戦し、そして1人で横浜の男子バレーボール、対アメリカ戦だったと思います。観戦しました。日本生命の本社の友人にも声をかけてあげ、大変よろこばれました。

まえもって開会式の夜から、奥穂へ行く計画をたてていました。山男の友達と会社の同僚(女性)3人で行くことにしていましたが、直前に遭難の記事が2件あり、友人の1人が行かないと言い出し、3人で行くことになりました。

一緒に行く彼女は1年後輩で私がさそうとどこへでもついてくる人でした。友達もいそうもなく、大人しい人でした。夏は仕事帰りに千駄ヶ谷のプールへ時々行っていました。私も特別泳げるわけでもありませんでしたが、彼女は一生懸命練習していました。

私は冬スキーが好きで、週末はほとんどスキー場にいる程でした。同僚達とスキーに行くことになり、彼女も行きたいと云い出し、衣服はととのえ、スキーは現地で借りることにしました。1日スキー教室で練習をしてもらい翌日は1人でやることになり、同僚達はゲレンデを滑り降りるより登る方が速いと笑われながらも一生懸命やっていました。

オリンピック開会式の日、私は昼間、日本橋の白木屋でお茶会があり、お手前の合間をぬけ、屋上でブルーインパルスの五輪を見ました。

その夜、夜行に乗りバスで上高地へ行き上高地のバスターミナルを後に梓川左岸の遊歩道を、明神徳沢をすぎ、横尾へ着きました。

涸沢小屋へ行くのには横尾大橋を渡り、本格的な登山になります。樹々のあいだから時々涸沢小屋がみえかくれするのになかなか着かずとてもきつい登りでした。やっと小屋に着いても登山者が大勢でした。寝る時は互い違いに休み、思うように身動きが出来ない状態でした。私達は奥穂高岳(本邦第三位)を登るだけなので、ゆっくり起きて出発しました。穂高山荘までは、涸沢小屋へ行った時と違い割と楽だったように記憶していますが、友人がここで休んでいると云い出し、彼にアイゼンをつけてもらい頂上を目指しました。

頂上はせまかったと思います。お天気が良く、四方八方みわたせ素晴らしい眺めで苦労のかいがあったと思いました。明神池の小屋で泊まることにしていたので下山しましたが、行きと違い楽でした。

翌日上高地を散策して帰ってきました。

7 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(5) 八剱神社― 29期 仲田元昭 2021年8月投稿

今回は8月号につき、夏祭りのご案内です。船橋駅より徒歩15分程の漁師町(湊町)にあった八剱(やつるぎ)神社で7月に執り行われる夏祭りをご案内します。

「八釼神社の夏祭り」

漁師町である湊町の守り神の八剱神社は、江戸時代には前回ご案内した覚王寺の南東近くにありましたが、何度か火災にあい、明治41年(1908)に意富比神社(船橋大神宮)境内の金毘羅神社に合祀されました。

船橋 八剱神社の夏祭りは、江戸時代より約300年、漁師たちの海上安全・大漁祈願等の願いも込めて、雄大に執り行われてきました。

「船橋 八釼神社の神輿・ゆすり込み」

「深川富岡八幡宮との比較」

深川 富岡八幡宮と同じ、祭礼は3年に一度行われる例大祭(本祭り)とその間の2年間に行われる陰祭(かげまつり)、陰祭では神輿渡御は行われず、式典だけが行われます。

深川は、水掛け祭りと言われていますが、八剱神社の夏祭りは神輿を左右に大きく揺さぶる迫力ある担ぎ方「ゆすり込み」で、昔は負傷者が出るほど、漁師らしく荒っぽい担ぎで有名です。

(「深川 富岡八幡宮水掛祭り」江東区HPより)


「8 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(6) 東光寺」に続く 「2021-7-25寄稿」

戯言&独言11 21期 髙野 昇 2021年8月投稿

8月15日
戯言11

▼8月は遠いあの日の熱い日差しの中、76年前の15日の日を思わずにはいられない。学童疎開(山形かみのやま温泉)先での上級生のイジメに耐えきれず、両親に懇願し千葉県椎柴村(現銚子市)の伯母の家にまた一人で縁故疎開|。東京の家は大空襲で焼失していたので避難先の小岩での6畳一間での家族7人の間借り生活は無理。病弱の児童以外は東京に居る事も許されない状況の中での縁故疎開だった。戦争終結はこの地で迎えた。食糧事情が悪い東京へはすぐには帰らず、伯母の計らいでこの年の11月まで居候、おかげで3度のご飯は麦飯ながら3回食べられ、利根川や銚子に近い事もあり「鰻・イワシ・かつお・シジミ」など比較的恵まれた食事にありつけていた。伯母宅には大きな防空壕があり、かなりの米や麦、醤油、砂糖が隠蔽してあった。

▼帰京した翌年、「上野アメ横で小豆マメを売っている」との情報を得て母は弟を背負い、私は妹の手を引いて上野に向かった。大改札を出て階段を降り南口(当時は動物園口だったか)の地下道をアメ横へと向かう。その地下道には戦災で家族や住家をを失った人、戦争孤児などが広い通路に溢れ、濃い鼠色の汚れたコンクリートの壁に張り付くがごとくしゃがみ込み気力のい目、やせ細ったあばら骨、子供がてらにタバコを喫っている同年配の児、誰かに追われ逃げ足鋭く逃げる輩、そんな戦争孤児の大勢屯する中に学童疎開時に別れたK君が居た。この件については「同窓会報・2000年10月」に寄稿してありますが8月15日になると親子ずれであの地下道を歩いていた自分と、K君の恨めしそうな目ではなく、鋭い眼光が自分の頬に突き刺さった痛さは忘れられない。縁故疎開に行ったのか、お互い疎開に行く夏休み中に仲間で砂町へザリガニを獲りに行っていた。K君のその後の消息は不明である。私は綺麗になっている今のあの地下通路を今も歩くことが出来ない。

戯言11-2

▼もう一人、これは一緒に学童疎開に行った同学年のA君、終戦後学童疎開先の山形から帰省した時、上野駅で引率の先生が「それでは此処で解散」と言って自らは山梨県の故郷に帰った話。A君はあの空襲で家族が全滅しており、疎開孤児とも言われ、地元農家の養女として山形で晩年まで過ごした仲間もいた。彼はそれを承知での帰省であったが、あてにしていた叔父宅も一家全滅、落胆の結果焼け落ちた自宅前の風呂屋のボイラーの中で2年近く過ごし、もちろん学校にも行かず上野やアメ横を食を求めてカッパライ、置き引き、同世代へのカツアゲなどで彷徨い、夜はボイラー釜の中へ帰る。ある日通学する小学生をみて目覚め、わざと浮浪児狩り(いやな言葉です)に遭遇し保護された。以後2年遅れの義務教育と3度の食事にも恵まれ、中卒後自動車整備屋に住み込み、同じ施設にいた同じ境遇の2歳年下の女性と結婚し後年埼玉で自動車整備の仕事で自立、彼の自叙伝的な波乱に満ちた話はドラマにでもなりそうだと何回かの集まりで話をしていた。孫数人を残し70代後半で逝き、前述のK君の思いと併せ8月15日は悲しい思いが蘇ってくる。時の国家は「戦争孤児」「疎開孤児」を見捨てた。

▼疎開時、国民学校3年生だった自分、戦地で無残な戦いに召集された人、空襲の中家族を引き連れて逃げまくった母や父、その方々も高齢で語り部の役をする人も残り少なくなってきた。思えば生まれた時からキナ臭い時代だった。2.26事件・日中戦争・日米開戦・焼け跡・原爆投下・敗戦、この8月15日は私にとっては「終戦記念日」ではなく300万人の犠牲者を悼み 「敗戦・終戦記憶日」 であり記念日ではない。時の流れと共にいずれ 「へー?そんな事があったんだ」 と言われる時代が来てしまうのか。

▼戦後直ぐの夕刊紙にこんな”戯言”が載っていたのを兄が面白可笑しく話してくれたことがあった。

〇天皇陛下の言葉 ・・・・・・・・・・・・・「あっ、そうー」・・・戦後各地を回った際のi会話での言葉

〇東久邇総理の言葉に国民は・・・・「うっそうー」・・・・・・戦後直ぐの首相東久邇総理が「敗戦は国民一人一人にも責任あり」 といい国民に責任を転嫁

〇国民の怒りは・・・・・・・・・・・・・「クッソうー」・・・・・・国民感情を逆なでる無責任発言に8000万民衆の声

・・・・いずれも「う」がつき、かなりの戯言とみた・・・・

▼・・八月は 六日九日 十五日・・・・・(詠み人知らず)

6 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(4) 覚王寺― 29期 仲田元昭 2021年7月投稿

今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内した不動院より2分程にある、文化財の灘陀龍王堂がある覚王寺をご案内します。覚王寺周辺300m程に7つのお寺があり地元では寺町とも呼んでいます。

「覚王寺」
覚王寺は、真言宗豊山派で長命山金剛院と号しています。 創建は450年程前室町時代後期と言われ、本尊は大日如来、9ケ寺の末寺(不動院、圓蔵院他)を持つ小本寺格です。

「覚王寺灘陀龍王堂(文化財)」
灘陀龍王堂は、総欅造・1間社流造で、寛永3年(1850)覚王寺により再建されました。

「覚王寺 本堂」

船橋は、戊辰戦争・市川船橋局地戦で官軍兵の砲撃と放火により街の大半と多くの神社仏閣も焼失しましたが、灘陀龍王堂は焼失を免れた数少ない江戸時代の建造物で市指定文化財です。

正面の龍、北・東・西面の彫刻は仙人や仙女が彫られ立体感ある表現で躍動感にあふれています。龍王堂には、海上守護の神、灘陀竜王が祀られ、毎年4月には護符が配られ、漁師町の人々の信仰を集めてきました。

「灘陀龍王堂と見事な龍の彫刻」


「7 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(5) 八剱神社」 に続く 「2021-6-25寄稿」

戯言&独言10 21期 髙野 昇 2021年7月投稿

あの人・この人・・・印象に残るスポーツ選手(2)
戯言10

■白井義男・・・・・前回の水泳の古橋広之進選手は戦後直ぐその名を轟かせ、私が中学生だった頃から現在に至るまで日本のスポーツ界の偉人といっても過言ではないと思っています。今のように企業とのプロ契約もなくアマチュアとしで生涯をおくっていました。今回はプロとはいえ特異なプロボクサーとして、水泳の古橋と同じゅうして戦後のあの時代に華々しく君臨した白井義男は「日本人!ここに有り」を全国民に知らせたやはり偉大なスポーツマンでした。世紀の一戦、伝統の一戦など安っぽく聞こえる事が多い昨今、営業の為の商業的な言葉になっているが、昭和のあの頃(小生の三商在学中)|の白井義男の切磋琢磨による奮闘は金字塔でした。戦前のボクサー(当時は拳闘家と言っていた)については父からピストン堀口やヤリの笹崎など話には聞いていましたが何れも終戦前のボクサーでした。白井にはいつもカーン博士と言う人物が付いていて後日談としてカーン氏の存在がいかに白井の活躍に貢献していたかを知った次第です。白井は荒川区三河島の生まれ、戦後は軽い腰痛を持った無名のボクサーとしてコレと言うジムにも属さず、王子駅前に有った「王子百貨店」内にあったリンクで4回戦ボーイをやっていたそうです。ボクシング好きのカーンがたまたま王子でみた白井の動きにセンスを見出し、付き合いが始まったとか。カーンは生物學の大学教授だったのをGHQに懇願され敗戦国日本人の栄養改善や補給の仕事に就いていたようです。その為に牛肉をたっぷりと食べさせカルシュウムの補強による腰痛の克服、筋力の充実など今までの日本のボクシング界では考えられなかった科学的トレーニングから実行。あの時代牛肉などやたらに食する時代ではなかったはずだがそこはGHQ勤務のカーン、GHQのマッカーサーに直接懇願し、快諾を得てのことで、この点マッカーサ―は日本国民への思いが偲ばれます。「打たれたら打ち返す」と言う今までのこの世界の常識を「打たせないで打ち倒す」を基本とし、徹底したボクシングの基本,動作、駆け引き、試合後半でのアウトボクシングの展開、そして生活態度などを教えこみました。GHQ の引き合いもあり当時の世界チャンピオンのマりノをハワイから呼び白井に挑戦させたがあえなく判定負け、半年後にはこれもGHQの援助もあって今度はハワイに向かい再度マりノに挑みTKOで勝ち選手権への挑戦権を獲得しました。

戯言10-2

■昭和27年5月19日後楽園球場に特設リンクが設けられ4万5千人の観衆を集め、リンクサイトの観覧席は3500円とポスターにありました。今考えると特設リンクとはいえ全くのお粗末な設備で、町内会の盆踊りの櫓舞台とあまり変わらぬ印象がありました(写真)。TV放送は始まっていたものの受像機の普及台数は極めてわずか、繁華街にある街頭TVに人が群がりました。江東楽天地内の街頭TVも黒山の人でその中の1人が三商2年生の私でした。父は店番の為ラジオで聞いており担当アナの志村正順がかなり興奮気味の中継放送をしていたらしく「そういえば志村アナは荒川の三ノ輪の生まれだ、白井と同じ荒川区なら興奮するはずよ」 と父は言っていました。 試合内容は前半はクリンチが多く、背の高い白井と低いマリノではクリンチになるのは当然、 リーチのある白井のストレートやフックにあまり有効打が無くTV前の聴衆からも私を含めて溜息が出る雰囲気が充満していた憶えがあります。当時の世界戦は15回戦制で、後半に入りカーンの指示か白井は相手との距離をあけクリンチを避けるがごとくアウトボクシングの体制を取り始めストレート、フックが少しずつ的確、有効になていたようです。”打たせないで打ち倒す”これは数十年後の白井の著書にも書いてあり、最初からこの索をカーンから指示されていたとか。街頭TVの前に大歓声が挙がり3-0の判定、日本初の世界チャンピオンが生まれました。歴史的な日、昭和27年5月19日の出来事でした。この日を境に今までの拳闘と言っていた用語・言葉が日本から完全にボクシングと言う言葉に変わったと思います。肉体の改良、科学的に基ずいたメンタルトレーニングによる精神力の向上と充実などボクシングの全く経験のないカーンの理論的指導法が功をそうし、以後のスポーツ界にも滲みわたり世界に承認された瞬間でもありました。

■聞くところ、カーンはボクシングの経験は全くなく、大学で体育講師時代の体験だけの知識と理論からのものだったようです。白井は年齢、腰痛などで引退寸前状態でありカーンの理論には否定的であったがカーンの情熱と姿勢に専属契約をしたようです。カーンの「科学的トレーニング」に白井は自らの能力向上に目覚めていったと白井の著書にも書いてありました。肉類を大量に摂取、これはカーンがGHQ勤務で食糧事情の悪い国内では手にできない不可能を可にしたようです。試合後半、相手のスタミナ落ちをみてアウトボクシングに切り替える作戦は功を奏し世界チャンピオンになっています。数年後パスカル・ペレスに敗れ引退しましたが、身内の居なかったカーンは全てのマネージメント料を白井に與え、白井も彼の熱意、指導に家族共々感謝感動し彼が死に至るまで一緒に生活を送っていたようです。晩年、認知症になった彼を家族全員で幇助し、彼の精神、愛情と人間的な崇高さは忘れることが無いと白井の著書に記されています。

■戦後復興にまだ遠いこの時期、国民に立ち上がる力と勇気を施したカーン博士は1971年1月に79歳で、白井氏は2003年12月に80歳で黄泉に入り共に同じ墓所で師弟愛をそのままに眠りついている筈です。

5 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(3) 不動院― 29期 仲田元昭 2021年6月投稿

今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内しました浄勝寺から徒歩2分程にある不動院と、門前で毎年2月28日に行われる市無形民俗文化財の、大仏追善供養のご案内です。

「不動院」

不動院は、真言宗豊山派の寺院で総本山が奈良の長谷寺、関東大本山が東京の護国寺です。号は海応山、開基は700年程前の南北朝時代と伝えられ、本尊は不動明王です。

現在の本堂は、昭和7年(1932)造営で、屋根の両端の飾り瓦は珍しい鴟尾(び)です。

「不動院 本堂」

「大仏追善供養」(市無形民俗文化財)

不動院の前にある、この石造釈迦如来坐像は、地元では飯盛大仏とも呼び、今から270年程前の江戸時代中期に、津波によって亡くなられた人々の供養のため、地元の方の寄付で建立されました。

その後、漁場の境界をめぐる争い中に船橋の漁師が、相手方の船に乗っていた徳川一橋家の武士を殴打したため、漁師総代3人が入牢、2人が亡くなる事件が起き、先の津波で亡くなられた霊と共に供養を行うこととなりました。

毎年2月28日に行われる大仏追善供養の行事は、大仏に白米の飯を盛り上げるように塗り付けます。これは、牢内で食が乏しく、ひもじい思いをしたのを償うためと言われています。

「大仏追善供養の行事で白米が塗り付けられた 石造釈迦如来坐像」


「6 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(4) 覚王寺」に続く 「2021-5-25寄稿」

戯言&独言9 21期 髙野 昇 2021年6月投稿

あの人・この人・・・印象に残るスポーツ選手(1)
戯言9

■古橋広之進・・・・・私の年代は勿論、戦後のあの時代に育った方々には忘れられない輝かしい人物です。戦後の水泳競技において数々の世界新記録を打ち立て、敗戦による落ち込みの激しかった国民に勇気と元気を与え、「日本人、ここに有り」を世界に示した人物で、それは政治家でもなく、科学者でもなく、戦時下の少年時代に浜名湖の岸に作られていた木枠だけのプール?で「魚より早く泳いでみたい」との思いで覚えた泳ぎの術を体得してのスタート。戦後日大在学中の日本選手権で自由形400米で4”38”4の世界新記録で優勝、しかし敗戦日本国の記録ゆえ公認記録として世界新として認められず1947年のロンドンオリンピックへも敗戦国の日本とドイツの参加はできませんでした。49年、国際水連復帰が認められ、これは古橋選手の全ての記録の功績大だった思います。この歳に古橋、橋爪、浜口など今では懐かしい選手が全米選手権へ招待され参加、これは当時のGHQ司令官マッカーサ―元帥の力添えで実現したと中学の担任先生から聞いていました。その裏ずけとして古橋らは司令部に呼ばれマッカーサ―元帥から「勝ってきてくれ、それが日本国民の心の糧になる」と言われたと十数年後の新聞のインタビューで語っていました。戦後日本人をジャップと呼び、日本のプールは距離が短いとか敗戦でストップウォッチも無いなど云われていた時期に彼らは活躍、古橋は400米・800米・1500米自由形ですべて世界新、この時「フジヤマのトビウオ・・The Flying Fish of Fujiyama」と米紙は絶賛したようです。今もTVの水泳競技放送で記録を言う場面で「‥‥フラット」と聞くと古橋広之進と言う名が自然と頭に沸いてきます。ここで記録した古橋の当時の1500米の世界記録”18”19”00というタイムは今この歳になっても記憶にはっきりと残っており最後の”00”をフラットと表現されていた言葉が今も心に残っています。

戯言9-2

■1952年、日本は戦後初の北欧ヘルシンキ五輪参加が認められましたが彼は思うような記録を持たぬまま選手としてピークを過ぎている中での五輪参加だった様です。その原因の一つに、かって米国への招待遠征中、宿泊先のホテルの部屋に用意されていた水を飲み、それが原因で「アメーバー赤痢」に感染しました。抗生物質薬などない時代、故郷での友人との語らいの中で「外国では飲み水には気を付けろ」と言われたことが頭をよぎったそうです。400米決勝では8人中の8位、フランスのボアトウ選手が優勝、感窮まったボアトウの父親がプールに飛び込み倅に抱きついている姿をニュース映画でみました。一瞬、敗れた古橋のカットもありその顔が印象的でした。布団の中で兄弟そろってこの実況放送聞いていました。この時、NHKで実況を担当していた飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の偉大な足跡と活躍なくして戦後の日本の発展は在り得なかったのであります。日本の皆様、温かい気持ちを持って古橋を迎えてやって下さい。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」私は布団にもぐり泪しました。翌日の教室ではもっぱらこの話題が中心で「橋爪ががんばるよ」と皆で話したものでした。HRでも担任の吉岡先生が古橋の健闘を讃えていました。数あるスポーツ放送はあるけれどこの飯田アナの放送は日本国民全員に感謝の思いと感銘を与えた言葉であり名放送だったと今も思います。この翌日にあった自由形1500米決勝で盟友橋爪四郎選手が銀メタルをとりながらも虚しく敗れた古橋を思い表彰台で悲しくて顔を挙げることが出来なかったとYOUTUBUで語っており、銀メタルも一切公開せず押し入れにしまいこんだとも語っていました。古橋は勝っても決してガッツポーズなどせず、スポーツの栄光と挫折は平等であると考え、ガッツポーズ、それは敗れた選手を思えば出来る物ではないとの心情とスポーツは謙虚に真っすぐに、明るく、強く、豪快に済ますべきのモットーを持っていました。ちなみにこのヘルシンキ五輪での日本の金メタルはレスリング・フリースタイルフェザー級の石井庄八選手の1個でした。古橋は引退後も水泳界発展の活躍も多く各種役員、国際委員などを経て五輪選手として文化勲章を拝受しています。古川勝、田口信教、鈴木大地、北島康介など世界的選手の礎となり、残念ながら2009年国際水連総会の在ったローマのホテルで心不全で亡くなりました。後日国内での葬儀にはスポーツ選手の葬儀でこれほどの葬列者が集い歴史的な告別の儀であったとスポーツ紙は報じていました。コロナ禍の中、東京五輪の開催の有無を古橋広之進氏は天国でどのように思っているでしょうか。私見ですが彼の精神を鑑みれば、このコロナ禍の中、人の命の重さの方が尊しと思っているでしょう。

4 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(2) 浄勝寺― 29期 仲田元昭 2021年5月投稿

船橋には、50山(全国約77千山)の寺院があります。今回は、船橋駅より徒歩10分程にある徳川家康公が船橋で最初に休憩したと言われている浄勝寺のご案内です。

浄勝寺は、芝増上寺の末寺で山号は西光山、今から520年程前 室町時代後期 明応5年(1496)に、浄土宗の念仏道場として、旧九日市漁師町に創建されました。

広大な敷地(約2万坪)に、伽藍(鐘楼堂他)を有する大きな寺院でした。

「浄勝寺 本堂」

江戸時代には、徳川家康公の鷹狩の休息所として使われ、天正19年(1591)家康より10石の寺領の寄進を(御朱印状)賜っています。

墓地には、戊辰戦争が終結した後、新政府より船橋周辺の警備を命ぜられ、九日市に捨置いていた兵糧米の調査の為出張中、脱走した賊徒が旅館に乱入し、賊徒に襲われ亡くなられた尾張藩磅礴隊(ほうはくたい)3名の合葬墓があります。

合葬墓は、尾張藩磅礴隊の武士が中心となり、ここ浄勝寺に埋葬されました。

「尾張藩磅礴隊の墓」


「5 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(3) 不動院」 に続く 「2021-4-25寄稿」

戯言&独言8 21期 髙野 昇 2021年5月投稿

最近殆ど使われなくなった言葉、私達の年齢(1935生)で下町育ちは当たり前に使っていた話しことば、今は「死語」となりつつある言葉など思いつくままに記します。

●「セコハン‥‥」兄弟や身内、近所の方などから譲られた衣類や道具のこと。私は小六の卒業式や遠足の際は総領の兄(私は四男)が着ていた慶応型制服と言われていた紺色のサージの生地の上着を着ていた。総領の長兄((大正14年生・6年生で逝去)の中学進学のため両親が大枚をはたいて買い求めたものだろう。いつも母は「よそ行きなんだからね」と念を押すように言い、二男、三男の兄2人も着ていた。小生は四代目でこれぞ・セコハン・の窮まり。兄弟の「お譲り」を着る・使うのは当たり前の時代だった。私が三商に入学の時に着帽していた制帽は五歳上の兄(16期生)が入学時に購入したもので私は三商二年生の2学期まで被っていた。帽子のツバがボール紙で出来ており雨の日は被らないようにし、最後は生地もツバもボロボロになっていた。戦後に笠置シズ子が「セコハン娘」と言う歌を唄いヒットしていた。

戯言8

●「逢いびき‥‥」今で言うデイト。{逢いびき}というイギリス映画があった。刹那さと哀愁を感じる「逢びき」とか「逢う瀬」とか「忍び逢い」など漢字を交えて書くと切なさ・遣る瀬ない思い・人目を忍ぶ仲など情緒と哀愁と秘めた情熱があふれる何かを感じさせる。軽い気持ちでの今風の男女交際には全く合わない言葉となった。

●「お湯屋‥‥」何時ごろからか銭湯と言い出したのか。銭湯なる名は昔から知っているが下町では「お湯屋」とか「お風呂屋」と言うのが通常だった。お湯屋の煙突には必ずお湯屋の名が書いてあった。私の育った亀戸辺りでは子供仲間や家庭の会話では「おいや」と言っていた。戦前の亀戸の住まいの半径500米以内に4軒の「おいや」があった。有料で背中を流して軽く肩を叩いてくれる裏方の小父さんが居て「三助」といっていた。水っぽい女性などは風呂に行くのは「おぶに行く」などと言い、親が幼子に水や白湯(さゆ)を与える時なども「おぶ」と言っていた。

●「やっちゃ場‥‥」野菜卸市場のこと。下町には神田市場、両国・千住等にあり今神田市場の跡地はヨドバシが建つ。最近スーパーの野菜売り場で「やっちゃ場市」と銘打っている処がある。

●「タッパ‥‥」タッパがいいねなど、体格が良くで背が高く格好のいい人などに使われ、今でも建築関連で高さの事を「タッパは○○メートル・・」など使われている。余談だが先日、昔出入りしていた大工さんに久し振りに会ったが当時と変わらぬタッパの良さは昔と変わらず小粋な老人になっていた。

●「停留所・停車場(テイシャバ)‥‥」バスや都電の乗降客が乗り降りする場所。都電の停留所(写真)は道路の真ん中にあり一段高くしてあり、夜には独特なデザインの標識灯に灯りがともり停留所名が良く分かったものだ。停車場は主に始発駅を停車場といっていたかも。下町では上野や両国(かっては千葉県内を走る総武本線の始発駅)など。バス停などの言葉は今風。

戯言8-2

●「カムカム英語‥‥」戦後直ぐに夜6時頃から放送された平川唯一氏の英会話指導番組で”証誠寺の狸ばやし”のメロディーに「♫カムカムエーブリボディー♬・・」と英語の替え歌で始まる番組。彼は元NHKのアナで、米国に住んでいた事はあっても英語教師の経験も資格もないズブの素人で終戦のあの日、天皇の詔勅を自ら翻訳し世界各国に向けこれも自ら朗読し電波にのせた凄い人。放送の中で「英会話は口真似で覚えるのが一番良い」と言っていたのが記憶にある。この番組で会話をマスターした人は皆無だろうが替え歌だけは子供同士の間ではやたらに流行り今も口ずさめる。私が最初に覚えた英会話は「ギブミィーチョコレイト アンド チューインガム・・」と「サンキューベリマッチ・・」だった。

●「あたい‥‥」自身の事をこう言っていた。男女の区別なしの言葉で「僕」とか「私」なんて言葉は小さいこども同士で下町で使うのはタブー。「かっこつけやがって!」と言われるのがオチ。幼少期からそう言っており小學高学年あたりから小さな声で「俺」なんて言い始め年下の子に少し偉ぶったものだ。職人や商人(あきんど)が多かった下町では子供達が当たり前に使っていた一人称。その親たち大人は亭主や話相手のことを「あんた」と称し略して「あーた」だった。

●「手拭(てぬぐい)‥‥」今、正月用の「お年賀」の挨拶代わりにタオルがあるが、以前は手拭が圧倒的でタオルは高級品だった。利用範囲の広い30㎝×70cmくらいの大きさで木綿の染物。風呂には当たり前に使用、半分に切って台所の布巾にも。少し使い古したものは赤ん坊のおむつになり2枚使う。使い古した手拭は柔らかく赤ん坊の柔らかなお尻には最適。我が家は商売をやっていたので盆・暮には仕入れ先の問屋が2.・3本ずつ持ってくるので、いつもトランク一杯の手拭が有った。父親や子供達の寝巻はいつも新品の手拭で母が仕立てた寝巻になっていた。夫々の問屋の名入りのものがまちまちにあり、背中に鰹節問屋、前身ごろに漬物問屋、裾には佃煮メーカーなど色とりどり。小中学に通学の際、きちんと折り畳んで腰のベルトにはさみ下げていた。今の我が家には紺地の染に白ヌキの吉原繋ぎの粋な紋様が入った染手拭がインテリアとして飾ってある(写真)。亡き細田武兄から三社祭りの記念に戴いたもの(写真)豆絞りの手拭と共に江戸の祭りには欠かせない。浅草仲見世には専門店もある。手拭はその使命を済ませ民芸品化しつつあり、タオルにその使命を譲ったけど、そのほとんどが中国製。

●「アッパッパアー‥」カーちゃん、オバちゃんらの主に夏用のワンピース。洋装のつもりでもなく下駄かサンダルでちょいとそこまで的なワンピース型の女性用夏の簡単服。木綿なので洗濯簡単、お袋などは下着のシャツもつけず直に着用し商売をしていた。首回りには手拭を架けていた。今若い人がロング目のワンピースがはやっているが、私から言えば「今風アッパッパァ」。サザエさんの母のフネさんが着ている時もあった

●「おいら‥‥」複数形の言葉らしからぬ自身のことを表現するのに使用していた。映画、裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の中の唄に「♫おいらはドラマー、…おいらが叩けば嵐を呼ぶぜ‥♬」とある。ビート・たけしが今でも良く使っている。個人、複数人どちらにも使ってはいたが個人の表現に使っていたが「俺は‥」が「おいらは」になちゃったか。

●「ガリ版・謄写版・そしワラ半紙・・・・」これは完全な死語。手書きの原稿、校内試験問題や父兄への連絡事項、生徒への通達など蝋引きの原紙に鑢(ヤスり)を下敷きに鉄筆のペンで書きこむ。それを謄写版にセットして1枚ずつ用紙に手刷り印刷?。今思えば原始的でも画期的な用具で職場、学校には必ず有った。その用紙がワラ半紙 わずかに黒っぽく薄いグレーっぽい、時折5ミリくらいのワラと思える屑が入っていた。実際にはワラは使用せずぼろきれ繊維が使われていたらしい。楮(こおぞ)などから和紙を梳いていた歴史からワラを思いついた人は素晴らしい。À3まで可能だったか。今はA4コピー用紙全盛がとって変わった。

77歳9ヶ月 29期 土方敏之 2021年5月投稿

まず、謝らなければならない事をしてしまったので、謝ります。

前回のホームページの原稿を掲載する時に、Aさんの原稿をどうしますか、との問いに、1掲載に1,000字以内と解っていたが、載せて良い、と指示しました。

それにより掲載されました。 先日、夢を見ていてその件が出てきました。してはいけない事をした。それも規則を破って。これは罪であり罰を受けるべき。と何回も出てきました。

よって、今回はその罪に対し罰をどうするか。結果、罰として投稿を止める事。そして規則を守る事。が浮かんできました。よって、自己申告なのでこれで許してもらいたいと思います。

同窓生の考え、思い、行動等をこのホームぺ―ジを利用して、発してもらい、読んだ同窓生が自分の考え、思い、行動と合わせて考えて、安心したり、感心したりする。そして思いが通じ結束につながる。同窓生の皆様、ホームページを利用してください。あなたの思い、考え、行動の原稿をFAXやメールで連絡お願い申し上げます。

3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮― 29期 仲田元昭 2021年4月投稿

船橋には、70社の神社(全国約85千社)があります。今回から、船橋駅より2時間程の街歩きのご案内です。街中コースにある15の神社仏閣を巡る街歩きの出発です。最初のご案内は、船橋駅より徒歩15分程にある、船橋を代表する神社、船橋大神宮です。

創建は、今から1900年程前と伝えられ、史書「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(延長5年=927)に意(お)富比(おひ)神社(じんじゃ)の名がある船橋市を代表する神社です。

いつの頃からか「船橋大神宮」と呼ぶようになりました。主祭神は天照皇大神で、南の鳥居の右に「延喜式内社意富比神社」の大きな石碑があり、平安時代に官社として認定されていた由緒ある神社です。

「船橋大神宮 門・玉垣」

天正19年(1591)徳川家康より「常磐の箱」に開運の旗と陣弓を本殿に納められ、江戸開府の頃より家康公は度々参詣され、50石の社領の寄進が十四代将軍家茂まで続きました。

戊辰戦争では、旧幕府軍の本陣が置かれ、新政府軍との戦いで神社と周辺は戦火にあい焼失しました。現在の本殿は、明治になり造営された建造物です。

「船橋大神宮 拝殿、神明造り、本殿は更に奥にあり」


「4 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(2) 浄勝寺」 に続く 「2021-3-25寄稿」

戯言&独言7 21期 髙野 昇 2021年4月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その3)

▼インフレと食糧難、住居難、失業と全てに困窮の最中の1945年(昭和20年)からの5年間近く、庶民にとっての唯一の娯楽はラジオであった。「リンゴの唄」は終戦の2・3か月後に封切られた松竹映画の挿入歌。空襲の焼け出されにはラジオなど無かった時代、焼け残った小岩のラジオ屋の店頭から流れたこの曲は圧倒的な勢いで全国を風靡した。教科書も進駐軍に没収されていて、音楽の時間には先生のオルガンの伴奏で「リンゴの唄」や、他に「みかんの花咲く丘」なども授業中で歌った記憶がある。「リンゴの唄」の作詞者サトーハチローの詞は勝つぞ!とか皇国ニッポン!などもなく、はっきり言えば内容的にはなにを言わんか未だに疑問だが彼は後にあの「長崎の鐘」や「小さい秋みつけた」などを作詞し純真でユーモアに溢れ、泪脆い人だった。GHQは放送に厳しい規制を引き戦時歌謡は姿を消し、学校帰りに4・5人で「暁に祈る」を唄っていたら道すがらの酒屋の小父さんに「そんな歌、唄ってるとMP(米軍警察)に捕まるぞ」と笑いながら注意された。「リンゴの唄」は戦時中、「♬天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の‥‥♪」なる歌を学童疎開先で唄っていた半年後の明るい歌だった。

▼番組のテーマ曲は全てがクラシック系でGHQの意向そのままに「真相はこうだ!」と言う番組があった。旧日本軍の各地での戦闘を「実はこうだった」風にGHQが制作し放送、アナの語りで旧日本の暴走・暴虐・無謀を暴く番組だった。国民の誰もが真意はともかく納得したものだった。今になって戦争史と比してみると戦勝国のプロパガンダが含まれていたとは言えほぼ当たっていたかも。夜の放送を家族揃って聴いていた兄が「ガダルカナル海戦は負けていたんだ」と言っていた言葉を今になって昨日のように思う。復員だより・尋ね人の時間・配給だよりなど、「尋ね人」の放送で何人の人が、何組の家族が再会できたのか。「配給だより」では毎日が「○○の3班、スケソウタラ」なるニュースが續き、今もタラコを食する度に思い出してしまう。

戯言7

▼「のど自慢」「産業の夕べ・炭鉱へ送る夕べ・農家へ送る夕べ」・・(♫農家の皆さんこんばんわ‥♪)など復興をめざして各地で働く労働者に送る番組が多々あった。内容はどれもほぼ変わらずタイトルのみが記憶にある。芸人が2・3出ての物であったが「のど自慢」だけはよく聴いていた。一小節で鐘が一つ鳴り不合格、少し長く唄わせ鐘が三つ以上鳴れば合格。楽しい放送であの美空ひばりも出場参加していたとか。「異国の丘」はこの番組から発信され、のちに数多くの参加者がこの番組で歌っていた。「鐘の鳴る丘」と「異国の丘」は唄えぬ人は誰一人として居ず、当時のベストヒットソングだった。漫才コンビの内海突破・並木一路が良くラジオに出ていて内海突破が驚いた時に言っていた「ギョッ!」なる言葉、子供同士の会話の中で下町でははやった事がある。

▼「進駐軍放送」・・米軍兵士向けの放送(WVTR)が始まり軽やかなアメリカンポップスが流れそのころはそれらを全てJAZZといっていた。今までさんざん聴かされた戦時歌謡や股旅ものなどとは違う、沈んでいる心が少し浮かれ、リズムの軽快さなどが子供心にもなにか永い呪縛から解き放された感を憶えさせる放送だった。街の若者達のアマチュアバンドが現れ避難先の小岩の街にも出現し、家屋疎開跡地の空き地の広場での演奏を兄弟で見に行くのが楽しみだった。そのアマバンドのテーマ曲が1930年代の米国のヒット曲「素敵なあなた」 ♬バイ・ミー・ビスト・ドウ・シェン…♪ でこの時憶えたメロディは私にとって最初のJAZZだった。数年後、ラジオ東京の朝番組のテーマ曲がB/グッドマン・コンボが奏でる「シャイン」でこの曲に送り出されるように三商への登校に向かった。懐かしい名曲、軽やかでリズミカル、今でもYOUTUBUで見たり聴いたりしている。銀座の「テネシー」と言うJAZZ喫茶に通っていた三商時代、そして今もってJAZZが好きで好きでいられるのはあの時以来の延長なのである。

▼「話の泉」・・その時々の時事の話題をゲストを交えてのトーク番組。クイズ的な所があっても今の様に正解者を表彰することなく解答者の蘊蓄や雑学的な知識を出し合うもの。司会アナはあの和田信賢で戦前からの名アナ。8月15日の天皇の終戦詔勅、いわゆる玉音放送の時のアナでもあった。日本が戦後初の五輪参加(昭和27年)の際ヘルシンキに中継放送の為に派遣され、その開催中に逝去。昔日、相撲の双葉山の連勝記録が消えたときの実況アナでもあった。彼は戦後直ぐの大相撲の放送をし相撲には戦前からかなりの蘊蓄を持ち著書もある。報道、スポーツに長けたアナだった。話の泉の解答者は徳川無声・サトーハチロー・山本嘉次郎(黒澤明の師匠)・渡邉紳一郎(朝日の記者?)などで、かなり知的な番組で兄二人がよく聴いていた。東京五輪の頃まで続いていたと思うが司会は高橋圭三アナに代わっていた筈である。かなり知的な番組であった。

戯言7-2

▼「とんち教室」・・「大喜利」のはしりのような番組だった。司会の青木一雄アナを先生として解答者は全員落第生と称され、でもその解答振りはユーモアと駄洒落・戯言などが色濃く、粋な側面と笑いのセンスを持ち合わせた楽しみな時間だった。落第生、イヤ生徒は石黒敬七(元柔道家、いつもサングラス姿)落語家の柳橋、三味線豊吉(端唄、俗曲などの三味線弾き)など、今のバライティ等には決して見られない,聴けない駄洒落と粋なユーモアに、それこそトンチンカン満載のお笑い番組だった。今のお笑いタレントのバカバカしさと比べて雲泥の差を感じる。

▼[向こう三軒両隣」・・月~土の夕方に毎日放送されていた。人力車引きの坂東亀造さん(巌金四郎)や山田のおばあちゃん(伊藤智子)など、どうってことはない日常の生活ぶりを、戦争の暗い闇から解き放された市井の庶民の生活ぶりを、明るいホームドラマを通じて新旧の考え方が混りつつある世相をそれとなく教え、時には皮肉ったりしてくれた番組。亀造さんの仕事に行く時の「あらよっと!」の元気な声が印象に残る。TVが始まり毎夕「バス通り裏」と言う15分の夕ドラ番組があったが「無こう三軒・・・」の時代から少しずつ進捗していくのが判った。

▼{カムカム、エブリボディ・・」 「證誠寺の狸ばやし」のメロディーに英語をかぶせ、平川唯一なる先生が英会話を指導。世間ではカムカム英語と言っていたがこの放送で英会話をマスターした人は恐らく皆無だったろうが、子供の間ではこの英語の替え歌だけは流行っていた。あの頃の我が家では、確か夕方の5時か6時からの放送だったので、母が夕食の菜っ葉や大根や芋入りの「雑炊」を支度する時間の時計がわりだった。小生カムカム英語の英文替え歌のテーマを今でも最後まで唄えてしまう。かなり長い年月の放送だったようだが中学時代の英語教師のU先生は「平川は英語は”耳から憶えるのが基本”など放送でよく言っているが英語の基本は発音から始まるものだ」と唱えていた。鉛筆をペンシルと皆が言っていたら「それが大間違いだ、正確に発音すれば”ペンソウ”だ」だと言い、生徒としては「どっちでもいい事なんだけど」の判断、そのU先生の綽名は以後・・ペンソウ・・となった。余談だがこの先生は後日レッドパージと言うGHQの社会主義的公務員の公務追放で教職を追われ、最後の別れの挨拶で言った言葉は「英語を学んで世界を見ろ」だった。私が最初に覚えた英語?は小学校4・5年生の頃か「give me chocolate」だったのが何故か侘しい。平川唯一自体英語の指導の経歴はまったく無く、親の仕事の関連で数年ほど米国に居住していただけ、開戦前に帰国しNHKに入り、あの8月15日の玉音放送を自ら翻訳して世界の電波に自らの英語の音声で放送した人物とか。玉音放送の陰の主役であったことを20数年前か「文藝春秋」主催の講演会で故半藤一利氏が語っていたのを紀尾井町の”文藝春秋ホール”で聴いたのを半藤氏の逝去(令和3年1月)を聞き改めて思い出した次第である。藤倉アナの「街頭録音」なんかも思い出す。「三木鶏朗の日曜娯楽版」は世相を皮肉るお笑いコメディだったがGHQの圧力で短命で消えた。この番組に三木のり平が出ていた。

写真説明・・・・かつてのNHK(千代田区内幸町)|

77歳8ヶ月 29期 土方敏之 2021年4月投稿

今朝の夢、覚えているのは、柳田が隣に座っている。右の方から連なって歩いてきた中に、30代の痩せている私の父親がいる。ぐるっと回って私のそばにきた時に、柳田に父を紹介した。そこで目が覚めた。1時半だった。あと続きをみようとしたがつながらなかった。

私の父は、30代に築地市場で「大六」という問屋で働いていた。そして直腸ガンにかかり痩せていった。その頃の写真の顔が夢に見た顔だった。術後は太らせろ、との医者の言葉に、甘いもの、天ぷらとドンドン食べさせ、61歳で他界するまで太っていた。私が三商で柳田に会った時はもう太っていたので、痩せていた父の顔をよく知らなかった。5時に起きて神棚、仏壇と水を替え「おはようございます、今日一日よろしくお願いします」と祈ります。仏壇の脇においた柳田の戒名「貫雲慈保信士」の前で「柳田、おはよう」と挨拶をする。

今日は、孫が新中学生になる入学式の日。今日一日何があるのか楽しみだ。

初節句 26期岩瀬和子 2021年3月投稿

この写真は80年前の私の初節句の写真です。のびた手は母の手だそうです。

私は母が結婚して5年目に生まれました。初の内孫だったので、祖父、おば達にとても可愛がってもらいました。19期の中山さんの瓦版をいただくと、戦前鶯谷駅の近くでもらったなつかしい味を思い出します。内裏雛が二対あるのは、知り合いから一対と大きな羽子板をいただいたそうです。少し大きくなり羽根つきをしようとしましたが、大きく重たくて出来ませんでした。

こんな古い写真よくあったとお思いでしょう。『実は花嫁道具、高く買います』というチラシがありました。結婚する時、友人の家具屋さんから、良いのを買ったのでいずれ処分しなければならないので高く買ってくれればと思い電話しました。

査定に来てくれましたが大きくて売れない、と云われ六万五千円で引き取ると云われ、粗大ゴミのほうが安いのでやめました。その時和服のタンスを整理していて、封筒に入った写真が出てきました。この写真は母の実家のおじが、私達は空襲で焼けて無いだろうとくれた写真です。父が写真屋さんで複写してもらいましたが、セピア色した当時の写真もあります。結婚する時、持ってきたものです。

写真館で写したお宮参り、3歳のお祝いの写真、父の友人が写してくれた多分誕生日でしょう。着物を着て、きれいなゆだれかけをかけ、父に抱かれたのと、一人の写真、父の出征の時に家の前で映した、祖父母、おじ、おば達、母と私。兵隊の面会日の写真、祖母、おじの知り合いの人、母と私、おぼえていませんが、なつかしい人たちの写真です。

私にとって貴重な写真、あの世へ持ってゆきたいと思います。

2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)― 29期 仲田元昭 2021年3月投稿

街歩きのご案内の前に、船橋の歴史についてご説明します。

「古代」

船橋は、約15,000年前縄文時代より人々が住み、昭和7年に竪穴式住居跡や炉穴が日本で最初に発掘された市の史跡である7,000年程前の飛ノ台遺跡(市の史跡、東武新船橋駅より徒歩5分程)他、市内には150を超える遺跡が発掘されており、千葉県は日本一遺跡の多い県です。

北部の小室台遺跡は、市内で初めての前方後円墳が発見、また発掘で小さなバイオリン形「土偶」も発見され、平成30年春の東京国立博物館の特別展に展示され、秋にはパリ「縄文展」に展示されました。

「中世前半(平安時代、鎌倉時代)」

中世には内陸部との交通の要所として、また東京湾では鎌倉の外港六浦を中心に海上交通による交易により、人や物資の動きが活発に行われ、船橋湊、二子浦(葛飾浦)この港から鎌倉や伊勢神宮の安農津に物資が輸送されていたようです。

「中世後半(戦国時代)」

15世紀後半、房総では千葉氏の内紛が起こり衰退すると共に、里見氏や武田氏、北条氏が台頭し、国府台合戦が起こりました。市内には、夏見城址、金杉城址等16の中世の城跡の土塁が発見されています。

「江戸時代」

徳川家康が江戸入府後、早々に家康公より船橋大神宮に50石の社領、浄勝寺に10石の寺領が寄進され、船橋大神宮に家康公は4回程参拝されたと言われています。

その後、家康公の東金方面への鷹狩の宿泊場所として慶長19年(1614)頃に船橋御殿が造営され、大坂夏の陣が終わったその年、元和元年(1615)11月25日、鷹狩の帰りに千葉県で最後の宿泊場所が船橋御殿です。

その際、漁民達が生魚・貝を献上してきたことに喜び家康公は、船橋の漁民に独占漁業権を与えられ、その後新鮮な魚介類を江戸城に献上する等船橋は徳川将軍家と大変関係の深い誇り高い街です。

船橋御殿には、家康公が2回、二代将軍秀忠が10回、三代将軍家光が1回宿泊及び休憩をされたと伝えられています。

「3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮―」に続く

「2021-2-25 寄稿」

戯言&独言6 「闇市」 21期 髙野 昇 2021年3月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その2)

▼戦後とか終戦後とかなる言葉も今や“死語”となりつつある。1945年つまり昭和20年8月15日以後からのこと。その日は皇国、軍国主義がひと晩で変わり、私は国民学校4年生であった。歳を重ねて記憶もまた薄らいでゆく中で、あの時代に生きた人間がそれも子供の眼で見た「こんなだった」時代は年老いても忘れる事が出来ない鮮明な時の流れでもある。かなり以前に孫に「終戦って、いつの、どの戦争のこと?」と聞かれた事があったが、そういえば私が生まれる以前から日本は戦争ばかりだった。

●闇市…‥‥都内、及びその近郊の国鉄(JR)の駅前には必ずあり、戦時中は駅周辺の建物は空襲爆撃の延焼防止の為、建物は取り壊されこれを当時は建物疎開といっていた。建物にロープをかけ人力で倒す、この時代、疎開は人だけではなかった。駅前は、それが戦後の”闇市”広場となる。下町の大空襲で焼け出され小岩に避難生活していた頃で小岩駅前の駅前通り(現フラワーロード)が小岩の闇市通リであった。煮炊きしたものはあまり見かけなかったが鍋・釜・しゃもじ・軍隊で使用していた軍靴・靴下・衣服などの復員兵が持ち帰った物等の新品中古は問わず、他にするめ・ふかし芋、野菜類など、統制令の徹底で米・麦・等はさすが店頭にないけれど、一寸横丁の路地に入ったしもた家(普通の民家の事でこれも今や死語)等で、知り合いの家庭には醤油や、やたらショッパイ味噌・軍隊で使用していた濃縮醤油がもちろんヤミ値で分けてもらえた。店を出さずにヤミ屋をやっていたのである。大宅壮一がTVの発展時に唱えた「一億総白痴化」ではないが「一億総ヤミ屋」であった。

戯言6

●我が家も市川に居た酒屋さんからヤミ醤油を週5・6本仕入れ母は弟を背負い、綿入りのねんねこ半天の大き目の袂に1升瓶2本を隠し持ち、私も学校カバン(旧軍隊のヤミで買った払い下げ物)にヤミ醤油を隠しもって小岩ー市川間の千葉街道に架かる江戸川の市川橋を渡った。踏切りと同じゲイトがあり警官の検査と検問に時々遭遇したがいつも巧くパス、両親曰く「子供や子供連れは…検問の対象にしていない…子供連れは捕まらない」といっていたので何時も私が同行していた。よって私も醬油のヤミ屋の一員で、手助けをしていた事になる。醤油は知り合いの注文があって仕入れに行くので在庫はせず、ヤミ市場で捌く事はなかった。当時のクラス仲間のA君が「うちの父ちゃん、時々ヤミ市でロウソク売ってんだ」と言い見に行った事があった。どこで仕入れたのか、A君の母の実家が埼玉在のお寺の娘だったんだと後のクラス同窓会で聞いた。仏壇用の5㎝位のロウソクを5本に束ね3束で10円で売っていた憶えがある。当時は夜間の停電は日常でロウソクは貴重品だった。ある日”卵”を売っているのを私が見つけ急遽母に教えて母が駆けつけてよく見てみるとそれはピンポン玉だった。このエピソードは母が亡くなるまでよく笑いながら喋っていたのを思い出す。卓球用のピンポン玉が卵に見えてしまった悲しい思い出である。

●都内の大きい闇市で有名だったのは新橋、新宿、渋谷、上野あたりでその後の渋谷などを含め戦前の悪質な香具師などが進出、身寄りもなく帰る処のない復員兵(軍隊の帰還兵)や予科練崩れの輩などを組員にして一家をなしたヤクザ組織が多かった。今も渋谷・新宿辺りに「〇〇横丁」と言う狭い路地の飲み屋街があるがその殆どが当時のヤミ市の名残の土地だろうか。上野の「アメ横」のルーツもここにあるが、その後の健全な連帯意識と組織を築き上げ庶民に親しまれて築地の場外市場の賑わいに負けない、築地にはない「なんでもあり」の賑わいがある。

●駅前を走るジープを見付ければ「ギブミーチョコレイト!」と叫びながら友人とジープを追いかけたあの日、昭和21年頃の小学校4・5年生の頃の自分の風景である。いつも一緒にジープを追っかけていた同輩のM君が米兵が投げたチョコレートを食べ乍ら「アメリカはこんな旨い物喰ってりゃ戦争に勝つョ」と言った。正にそのとうりで頷ける、今に思えば正論だった。戦争は酷いもの、戦後もまた酷いものだった。

77歳7ヶ月 29期 土方敏之 2021年3月投稿

老いとは 筋肉が無くなり踏ん張りが効かなくなることか 物事を考えられなくなる事か 視野が狭くなる事か ひとりで生活できる事か 今朝はそんな事を考え、また眠ってしまい、起きるのが1時間遅くなってしまった。確かに筋肉のない状態は腕を曲げてもこぶはできないしお知りのソフトさも触ると感じる。反応も遅いし出来ない時がある。

考えるのもじっくり考えないで答えを出してしまう。口が先に反応してしまう。新聞を読んで何がどうなっているのか突き詰めていこうと思っても、題だけで中に突き進めない。

ひとりで生活する 時間とすることを大雑把に考えると出来るとなる。朝起きて掃除、洗濯、朝食、新聞を読み、今日一日の計画、昼食、3時のコーヒータイム、夕食(飲んで食べるので時間は1時間)、夕刊を読んでテレビを観て寝る。これはこれで良いと思う。しかし、これを続けることは耐えられない。食事の中身が問題だ。朝は夕食の残りか昼はパンか 夕食は身体の事を考えると野菜と魚と肉の料理。出来ない やはり妻に もう少し生きていて貰うしかない。となる。

1 我が街 船橋を歩く―船橋のご紹介(1)― 29期 仲田元昭 2021年2月投稿

街歩きのご案内に入る前に、船橋の魅力、歴史を2回にわたりご紹介致します。

船橋市は、人口64万人を超える千葉県で初の中核市となり東京から約20km、総武快速線にて25分と近く、首都圏の通勤圏として昭和30年代後半より人口が増加した、歴史ある自然溢れる今でも首都近郊で江戸時代より唯一漁業がおこなわれている街です。

住宅街、農業、漁業、商工業とバランスよく融合した、首都圏で若い方が是非住みたい街のトップになったことのある街(民間の調査機関)でもあります。

最近、市内で開発された約1500世帯の「森のシティ」住宅街が(AGC-旧旭硝子-船橋工場跡地)、平成28年世界で

初めて国連が提唱する「エコカルティ」認証制度(環境配慮型住宅地区)を受賞しました。

この住宅街は、電柱を地下に埋蔵し高さ11階建てに統一、景観・省資源・環境に配慮した街で、船橋市の駅北部の工業地帯が素敵な住宅街・商業施設へと変身中の、歴史の詰まった魅力ある街です。

「灯明台 (県指定有形文化財)」 (船橋大神宮境内 明治13年建造 当時最新鋭の官営の私設灯台)

「2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)―」に続く
2021-1-25寄稿

戯言&独言5 「預金封鎖」 21期 髙野 昇 2021年2月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その1)

▼食糧難・買出し・預金封鎖・ヤミ市…日本の最も長かったあの苦難の五年間、常識や良識が全く通じなかった時代。しかし昭和31年の経済白書の序文に「もう戦後ではない」と書かれ、当時の流行語にもなっていた。昭和25年からの朝鮮戦争による特需で戦後の復興政策から一歩前にでた様子を言っていたのか。「あの時代はもう忘れろ」と国民に無理強いしているとしか私には受け取れなかった。

戯言5

●超インフレ‥‥食糧難と同時に襲ってきたのが天井知らずのインフレだ。戦時中に費やした膨大な軍事費、戦勝国への賠償などで超貧乏国に陥ったので当然のインフレとなる。終戦一年後、当時父がメモ的に書いた家計簿を兄達と子供心にチラッとみた事があったが、(我が家は7人家族)兄の計算では支出が1ヵ月720円とあった。貨幣価値など知らぬ私が判る訳もなく、親にどの程度の余裕や郵便貯金があったのか知る能力も予知もなかったが長兄だけは少し行く末に不安をもっていたようだ。当時兄は三商4年生(16期)で、後に公認会計士になった素地があったんだなと後年思った次第である。PCで当時の物価を調べてみるとリンゴが2個10円、大根1本8円、‥等々、煙草のピースが7円でただし販売は日曜日・休日のみ、ガソリン1Lが1円20銭、国家公務員初任給大卒で540円、ただし首相は3000円、議員1500円とあり国鉄(JR)初乗りが20銭(一円の五分の一)とある。煙草愛煙家はトウモロコシの毛を乾燥し英和辞典のインディアンペーパーのページを破きそれに巻いて手製の巻煙草を作り喫っていた。捨てられた”吸い殻”はそれを拾い集め寄せ集めのヤミ煙草を作りヤミ市などで再販、棒の先に針をくくり”吸い殻”拾いの専門の輩もいた。

戯言5-2

●預金の封鎖‥‥終戦半年後、突然各自の個人預金が封鎖された。ほとんど貯金もなく、父はかっての食料品店の縁で醤油統制会社の配給関係の仕事で僅かな給与を貰っていたが、なんせ7人家族、兄2人は三商の中学生(当時は旧制5年制)で零細な僅かの預金での食いつなぎの中での突然の預金封鎖で自由に引き出せない非常事態が発生した。旧紙幣の使用期間は一か月のみ、その為各人は手元の10円以上の紙幣は全て口座に入れ新紙幣で引き出す。その間の生活費は1世帯500円、1人ではなく1世帯500円であったと思う。この寝耳に水の発令で、預金封鎖は政府がその後の「新円切替え」を半年後と決めた為で、しかし新円紙幣印刷が間に合わず止むをえず旧紙幣に切手の様なシールを貼る緊急手段をとった。父はわずかばかりの手持ちの紙幣を握りしめ小岩駅前に有った当時の「国民貯蓄銀行」に駆けつけ長蛇の列と待ち時間の洗礼の中、持ち込み紙幣の100円札枚数と同じ数のシールをうどん粉の糊と唾でベタベタと舐めながら母と二人で旧紙幣に張っていた様子をボンヤリと眺めていた。

●新円切り替え‥‥なにゆえの新円切り替えだったのか。旧紙幣が使えなくなるので全ての現金が強制的に金融機関に預け入れられ、これにより流通紙幣全てを把握、代用のシールを相当分の旧紙幣に貼る、有価証券、保険契約などの紙幣に表せないものは税務署に届ける事が義務付けられるなど、この政策により国民の財産のほとんどを国が把握できる事になる。この短期的な暴虚は酷いもの、はたまた止む負えない政策だったのか、GHQの陰の影響もあったろうが時の首相幣原喜重郎に乞われての当時の渋沢大蔵大臣(渋沢栄一の孫)の苦慮・苦痛はいかばかりか、のちの資料を読むと彼は若い頃より民俗学に才長け,多くの後輩に知的、経済的な援助を惜しまず民俗学の維持、発展などに寄与していたという。そして今彼の祖父渋沢栄一が新紙幣の肖像に登場する時代となった。

●‥‥写真の新10円札の図柄は他の新紙幣の図柄と違い「米国」と読めると皮肉られたが、案外GHQの指示と思われてならない。写真の100円札は旧紙幣で新札の印刷が間に合わず旧紙幣の右上にシールを貼って一時しのぎ。新札は民間の印刷会社に依頼した為紙幣独自の「透かし」が入らずニセ札が出回ったとの噂もあった。

77歳6ヶ月 29期 土方敏之 2021年2月投稿

風が冷たくなりました。お元気ですか。

近頃は午前1時半頃目が覚めて、それからは眠っているのか夢を見ているのかわからないが、昔の事が毎日頭の中に浮かんでくる。築地市場で海老の仲卸業をしていた父の代の時、私が18~20歳の頃に勤めていた人と一緒に仕事をしている在り様とか、もっと前の青空市場のような場所で配達している姿とか、店に戻る歩きとか、4・5年前の働いている様子まで5時に起きるまで続いている。

これらが何を意味するのか解らないけれど、以前には、母親の実家のそばのドブ川を魚がたくさん泳いでいる場面とか、を見たこともあった。

今は、暗くて狭い場所に人がいる時は行かないようにしている。逆に花が咲いてきれいな場所にも行かないようにしている。今朝は覚えていない。

「我が街 船橋を歩く」連載に当たって(1) 29期 仲田元昭 2021年1月投稿

2020-12-28 29期 仲田元昭

29期の仲田元昭と申します。同窓会の総務をご担当の土方さんと同期です。

自己紹介です。小生は、財閥系総合電機企業に定年まで勤務し、その後これまでの経験を活かし、経済産業省のマネジメントメンター制度に登録し、昨年まで多くの中小企業様の経営改善に取り組んでまいりました。

同時に、平成26年度に「ふなばし市民大学校マイスター学科」(先輩講師の講座もあり受講、後で判明、世間は狭いものです。)を修了し、その後、船橋市観光協会の「街歩きスクール」で1年間、計2年間勉強し、平成28年4月に「ふるさと案内マイスター」の認証を頂き、現在船橋の歴史、文化、産業遺産等の魅力を市民や周辺の県民の皆様にご紹介すべく、ボランティアガイドをしております。

そこで、船橋の魅力を同窓会の皆様にもご紹介したく、「我が街 船橋を歩く」の投稿を考えている旨、事務局にご相談しましたら、是非連載で投稿願いたいとのご依頼を頂きました。

船橋には、小生が承知しているだけでも、医師、経営者、上場企業役員、大企業管理者等々で活躍された、先輩・同期生・後輩数十名の同窓生が暮らしていると聞いております。

船橋は、徳川将軍家と拘わりの深い街で、江戸時代初期、今から400年程前の元和元年(1615)11月25日に徳川家康公が、東金方面への鷹狩の帰りに千葉県で最後に宿泊した船橋御殿があった街です。

また、江戸時代中期には、江戸の庶民に広がった成田詣の宿場町としても栄え、幕末には、江戸城無血開城後の戊辰戦争の最初の戦い「市川・船橋戦争」があった街でもあり、多くの歴史の詰まった魅力ある街です。

それでは、次回より何回かのシリーズに分けて船橋の歴史、文化、神社仏閣等のご案内をさせていただきます。

同窓会の皆様にとって、船橋の魅力再発見になれば幸いでございます。

次回は「我が街 船橋を歩くー船橋の歴史(2)―」

戯言&独言4 21期 髙野 昇 2021年1月投稿

NHKの朝ドラ「エール」が終わった。回を重ねるごとに関心を持ち一部フィクションとはいえこの年齢の同輩、先輩諸兄には馴染みの作曲家古関裕而の話。中学生の頃神宮球場に六大学野球をよく見に行っていた頃、早大の応援席に座りながら唄っていた「紺碧の空」が古関の作曲と知ったのは早実の荒木大輔が活躍したいた頃だった。

戯言4

長男が早大に入学、早慶・早明戦を一緒に観にゆくごとにチャンスに奏でるこのメロディーはいつも新鮮、雄大、快活で軽快、心躍るマーチ。戦時中の学童疎開中に散々歌った、歌わされた「露営の歌」「暁に祈る」「予科練の歌」などもそうだった。戦意高揚の曲ではあったが故国、ふる里、親や子への思いの郷愁と哀愁があのメロディーにこもられていた。不思議なことにこれらの曲は前奏から全て口ずさめるのはなぜだろうか。戦後の「長崎の鐘」を作詞した詩人のサトウ・ハチローが晩年語っていたが「戦後の”リンゴの唄”やこの”長崎の鐘”そして”ちいさい秋みつけた”のこの3つが詩人として自慢できるものである」と文学誌に書いていた。永井博士の「この子を残して」と言う長文の随筆は中学生の時、担任のK先生が読んで聞かせてくれ、クラスメイトの殆どが泣いてしまった思い出がある。

戯言4-2

戦中時から放射線の無限の恐ろしさと平和利用を研究し、被爆以前から研究の為に自ら白血病となり、皮肉にも長崎原爆を浴び二人の子を残し1951年に他界。戦争による放射能の使用、被爆はどんなに無念だったことか。亡くなるまで寝起きしていた「如己堂(にょこどう」は現存している。古関の集大成としての「オリンピックマーチ」の素晴らしさ、NHKの番組の数々のテーマ曲、ラジオの「昼の憩い」や森繁久弥、加藤道子の語り口による「日曜名作座」、スポーツ放送のテーマ曲。高校野球を機会あるたびに観ているとついあの「栄冠は君に輝く」を口ずさむのは私だけだろうか。二番目の孫が都代表として二度甲子園に行った公立校に入学、文武両立を目指し野球部に入り、そんな事もあり偶然とはいえ嬉しく思い「エール」を見ていた。””投球に、打球にこめて、青春の賛歌を連ね””いい歌、いいメロディーだ。古関のオリンピックマーチが轟く国立競技場の入場行進の中に先輩出町豊氏(20期)も居たはずでこれもまた感無量である。

77歳5ヶ月 29期 土方敏之 2021年1月投稿

1月5日 心友、柳田保之が他界した。高校生活はほとんど一緒だった。毎朝彼はあんこを配達して学校へ。私は家から学校へ。そこだけが違っていた。放課後は写真部で暗室に入って写真の現像や引き伸ばしをやっていた。定時制の学生が帰っても暗室にいたことも多々あった。卒業してからは同期会開催の準備を2人でやった。そこで生まれたのが記念誌の「石壮」だ。在学時の校長先生が石田壮吉先生なので「石壮」とつけた。なるべく遠くに居る同期生の原稿を載せようとか気になる同期生を載せようとか、言いながら組んで最初は鉄筆の謄写版刷りで発行。次は同期生の印刷屋さんに頼んだりしたが、同期会の幹事を各クラス代表に任せようということになり、2人も8組なので、8組(三盛会)の代表に任せようと幹事から離れた。それから「石壮」も廃刊となってしまった。結婚してからも家族旅行や飲みに行ったりした。ここ2年位あまり行き来が無くなっていたがまた、皆で集まろうということになり、昨年花見会を開催する事を計画していたが、新型コロナウイルスの影響で、いつやるか、いつやるかと身構えていた。ところに訃報が知らされた。今日1月7日泉沢と駆けつけた。きれいな顔だった。 ありがとう青春時代から後期高齢者時代まで 俺はあと20年生きたいな 俺を呼ばないでそちらで友をさがして楽しんでください さようなら

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