投稿バックナンバー2021
子供の名前 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年12月投稿
明治安田生命保険会社は2021年生まれの名前人気ランキングを発表しました。
私が子供につけた頃とは全然違っています。おもいもつかない名前ばかりでした。私は子供には姓名判断の本を参考に画数とか、子供が書きやすいことも考えに入れてつけました。
私には令和生まれのひ孫が4人います。
男の子の名前は綺一(あやと)愛翔(あいる)
女の子は紅愛(にいな)心遥(こはる)
孫達がどうしてつけたのかは聞いてはいませんが綺一をのぞいて3人は書きづらいだろうと思います。私なんか考えもつかない名前ばかりです。
12 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(10) 常磐神社 彫刻の美―
29期 仲田元昭 2021年12月投稿
船橋駅より徒歩15分程船橋大神宮境内にある、常磐神社本殿の魅力、極彩色漆塗り仕上げ彫刻の「匠の美」をご案内します。
「本殿最上部の千木の菊唐草文様」
「唐門上部の菊の御紋と葵の御紋」
「本殿(東南)柱上部の神獣」
「本殿(東)虹梁の彫刻 四神 青龍」
「本殿(南)虹梁の彫刻 四神 朱雀」
「本殿(東)虹梁の彫刻 飛龍」
「13 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(11)西福寺」に続く 「2021-11-25寄稿」
11 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(9) 常磐神社― 29期 仲田元昭 2021年12月投稿
船橋駅より徒歩15分程の船橋大神宮境内にある、常磐神社について2回に分けてご案内します。お正月3日間のみ公開される、本殿の素晴らしい極彩色漆塗り彫刻をご覧いただけます。お近くにお住いの皆さんお正月に参拝されては如何でしょうか。
「常磐神社」
今から400年程前、元和8年(1622)に二代将軍徳川秀忠公が、家康公を祀る常磐神社をここ船橋に造営しました。その当時の本殿は5間(約10m)四方の大きなものでしたが、戊辰戦争の市川船橋戦争で焼失してしまいました。
「極彩色漆塗り 菊の御紋と葵の紋がある立派な唐門と玉垣」
現在の神社は、平成27年(2015)に「徳川家康公没後400年祭記念事業」として、創建当時の日光東照宮にも並び称された壮麗な社殿を再現すべく、造営されました。
本殿は、間口3間、奥行2間、高さ25尺、極彩色漆塗り仕上げで、本殿最上部の千木には菊唐草の文様が彫られています。平成の大造営とも言えましょう。
本殿には、中央に日本武尊、左に徳川家康公と徳川四将(井伊直政、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政)、右に秀忠公と歴代将軍家をお祀りしています。
「本殿正面(極彩色漆塗り素晴らしい彫刻)」
「本殿南西(千葉県建築文化賞優秀賞受賞)」
「12 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(10)常磐神社 彫刻の美」に続く 「2021-11-25寄稿」
戯言&独言15 21期 髙野 昇 2021年12月投稿
■新コロナウイルス二言目にも新コロナウイルスの2年間、近年こんなに永く家籠りしたのは戦時中以来か。あの豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が昨年2月3日、日本に寄港してからの年月、一般市民は外出を控え様子を伺いながらもその収束も見えずトンネルを抜けられず、行政の対策の手遅れがアチコチに排出、当時のコロナ元請け安倍総理は「国民全員にマスクを配る」との安易な考えと”もり・かけ・桜”の難と共に体調悪しと{仮病かも?😜}逃げ、次の下請け菅総理に至っては役人の書いた文章を音読するのみ、小学生の国語の時間じゃあるまいし。10万円給付金とワクチンの手配や接種会場不足にアタフタで、職責を逃れる為か孫請けの岸田総理にバトンを渡す。この混乱期に戦時中の内閣ではあるまいし2年もたたぬうちに総理が3人も変わり、この異変な出来事で歴史上でも末代までの記憶となるだろう。その間の感染バイオリズムは3次、4次と進んでいく。孫請け総理、就任時の御題目の意気込みも日に日にあまり進捗もなくなんとなく元請け、下請の顔色をみながら肝心な所は地方自治体に丸投げの感がある。飲食店の時間緩和もどうかと思う。国民全部が飲食業でもなく、皆が外飲みを好んでいない。若山牧水ではないが「‥・・・酒は静かに呑むべかりけり」。この稿を書いている間にオミクロン株なる新型が参上、オミクロン株と聞いた時、どこかのIT企業が実績を上げ上場か二部に登録したのかと一瞬思った。それにしてもなぜ「株」が付くのか。
■新型コロナ禍の中16期の兄、三商生以来の盟友細田武君が黄泉(ヨミ)に召され悲しみの消えぬ中もう一人の盟友石塚芳君がこの4月に故人の後を追った。彼は下小岩小、私は小岩本校、良く下小岩小は横綱”栃錦”の卒業生である事を自慢していた。三商2・3年生の時からの同クラスで修学旅行も同じ班で同一行動、お互いの家にも出入りし毎夏仲の良いグループ5・6人と葉山の森戸海岸え海水浴、銀座のジャズ喫茶「テネシー」に故細田君も交えて行ったり、細田君と共に遊び、学び青春の入口を楽しんだ。協和銀行(現りそな)に就職し上野支店勤務の頃は毎週の様に木曜日(私がやっていた珠算塾は木曜が休み)に誘い、誘われていた。後楽園球場のナイター、あちこちのジャズコンサート、登山、銀行の保養施設など・銀座の「すき焼き店」で2人は初めて本物の”すき焼きを食した。20歳の頃だ。ほかに不二家のビーフシチュウやソフトアイス、上野精養軒でのこれぞ”肉"と気がついたステーキなど初物喰いはいつも彼と一緒だった。江の島・鎌倉行きには上野支店の女性陣数名も加わり、その中の一人が今、私の家内、石塚君もその中の一人と婚約中だった。彼が亡くなったその日の昼、奇遇か偶然か彼から電話が掛かってきた。家内が電話を取りしばし歓談、その後で私と「おう、おう元気かい、しばらくだなあ」と他愛のない会話が小一時間、家族の近況や孫の話、Tigersはいつも尻切トンボで終わる(彼は虎ファン)、私は中日ファンでプロ野球の話、在校時代から二人はアンチ巨人で共通していた。奥さんは介護度が高く電話には出ず、電話を取った家内に「リンパ腫で凄く首が痛い時があるんだ」と言っていたとか。私は以前からそれは知っていた。その夜、9時過ぎ娘さんから「一時間程前に風呂場で倒れそのまま逝ってしまいました」続けて「夕食の時、”今日は髙野と芳子さん(家内の名)と久し振りに長い時間喋れて良かった」と楽しそうに語っていたのでその様子からまず私に電話したと申され家内と二人電話の前でしばし呆然、静寂の中、家内のすすり泣きだけが僅かに聞こえていた。逝くことへの神の計らいとしか思えぬ悲しい惜別の電話であった。合掌
■よかったなあと思うことが一つ。このHPの10月寄稿の中に孫が通学している高校の野球部員として出場していたことを書いた。秋季大会は都予選に170余校(東西合同)の中、トーナメントの前に予備戦まであり孫の高校(都立城東高校)はトーナメント出場権を得て立ち上がり6戦目で東京の雄、関東一高に3点のリードをしていながら惜敗、悔しさは勿論あるが、公立校に専用グラウンドなどあるわけもなく、他の部活と共用の校庭グランドで週4日だけの練習、都の厳しい規制でpm7時には帰宅しなくてはならず、そんな中での健闘ぶりは、打倒強豪私立高に燃えた下町っこの心意に感動と感謝の10月・11月だった。
■気忙しい年の暮、60年近く連れ添った家内と二人の暮や正月にも慣れたものだが、コロナ禍の中、息子家族が来るか、来ないか。とは言いながらおせち料理はインターネットで京都料亭に注文済み、後は年賀はがきのプリントアウト、年々喪中はがきが少しずつ増えるのは寂しい。14枚ある障子紙張り、若い時は一日で全部できたものが寄る年波には勝てず一年おきの半分ずつになった。年内最後の作業は「東芝もちっこ」による「餅搗き」この”もちっこ”は我が家の家電の再古参の40数年物、息子3人が居た時期は5升も搗いたものだが今はひっそりと2枚だけ。この”もちっこ”赤飯を炊くにも便利。孫達に上げる「お年玉」も年末に現金書留でおくる変な流れの暮と正月、そんな中オミクロン株なる新顔が現れ最初聞いた時は新鋭のIT企業が 株取引に上場したかと思ったが。なぜ「株」が付くのか分からない。この分で行くと2年連続の寝正月、間違いなし。HPご覧の諸兄方々佳き歳の暮と良き正月を。
:::雑句
●とりあえず 会釈してみる マスクごし
●ジャンボくじ 果報をまちて 寝正月
10 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(8) 圓蔵院― 29期 仲田元昭 2021年11月投稿
今回は、7月号でご案内した覚王寺より徒歩2分程にある、地元で何でも願い事を叶えてくれると有名な因果地蔵尊のある圓蔵院をご案内します。
「圓蔵院」
真言宗豊山派の寺院で海岸山圓蔵院といい、今から460年程前の戦国時代後期 永禄元年(1558)の開基と言われ、当時は、海岸山と言う山号から山門の近くまで海岸であったと思われます。 ご本尊は不動明王です。
本堂は、戊辰戦争で焼失し、明治33年(1900)に再建され, 現在の本堂は平成17年(2005)に立派な鉄筋コンクリート造に建て替えられました。
「圓蔵院 山門(市HPより)」
「因果地蔵尊」
この石造 因果地蔵尊は、願い事が叶うことで知られ地域の信仰は篤く、遠方からも参拝者が多く香華が絶えません。 「因果地蔵尊」は、三代目住職の秀範が安土桃山時代 天正年間(1573~1591)に建てたと伝えられ、高さは 180cm程もあります。
地元漁師町では「いんが地蔵」でなく「えんが地蔵」と訛ります。願い事が叶うと、お礼にと小さな地蔵尊を奉納し、今ではその数は千体程にもなります。
「因果地蔵尊」
「11 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(9)西福寺」に続く 「2021-10-25寄稿」
戯言&独言14 21期 髙野 昇 2021年11月投稿
●若い後輩諸兄にはあまり西部劇映画は馴染みが薄いと思われるが、かって1960年代ごろまでは西部劇全盛期、観る方の私達も若かった。私の好きな「西部劇」はやはりJ・フォード監督、J・ウエイン主役ものだ。ウエインはフォードにみいだされて「駅馬車」で人気を博し、これはダイナミズムを秘めた西部劇の名作である。後年、日本映画の黒澤明と三船敏郎の存在と似ている。ドンパチやるのが西部劇の楽しみかも知れないが、この2人の作品にはそれを超えた愛・友情・哀愁・郷愁・尊敬などがそれとなく滲み出ている作品が多い。機会があったらお薦めしたいのはこのコンビの”騎兵隊三部作”それは「アパッチ砦」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」だ。
●「アパッチ砦」では本部から左遷されてきたヘンリー・フォンダ扮する司令官が現場環境も分からず最後はアパッチにやぶれ壊滅、それでもJ・ウエインの少尉が戦死した司令官を責めることもなく英雄として讃える、男の心丈夫と心意気は感動もの。この映画で斥候役の騎兵隊員の役をやったベン・ジョンソンという俳優は数ある西部劇俳優の中で乗馬の巧みさはNO1と言われており、これもJ・フォードが見だした名優で、その後も数ある西部劇に出ていた。
●「「黄色いリボン」 この映画、映画もそうだが挿入曲も大ヒット、日本でも久慈あさみがレコードで唄い ♬あの女の黄色いリボン‥‥イエロリー,イエロリー…♬ と唄っていたが実際は"she wore a yellow ribbon”だったはず。映画のなかであのミッチイミラー合唱団が唄いTVがモノクロの時代ミラー合唱団の番組も有った。数日後に定年退役する最後の仕事として駅馬車を護衛する役目が原住民との戦いで苦い敗北をするという展開、年老いた指揮官がメガネをかけ直して文書を読むJ・ウエインのショットは今思うに、現在の自分と重なり何か愛おしい。夕日を背に受けて亡き妻の墓に手折ってきた野花を添えるシーンは美しく、悲しくこれまた愛おしいシーンだった。この映画にもベン・ジョンソンが出ていた。隊員皆が黄色いリボンを首にまいていたのは監督の遊び心らしいと評論家の荻昌弘が「キネマ旬報」に書いていたと思うが定かではないと付け加えている。たしか砦の上官の娘が黄色のリボンをつけていたと思う。
●「リオグランデの砦」 駐在している砦に新兵としてなんと自分の息子が赴任してくる。おまけに息子は士官学校の落第生で、出來不足の息子の成長を厳しくある時は温かくたたき上げる様がアチコチのシーンで見られハラハラしながらJ・ウエインのやり方に喧嘩もする母親(モーリン・オハラ)の姿もあって教育ママは何時の時代どこの国にもあるんだという事を冷ややかな気持ちで観たと思う。やがて息子は原住民との戦に作戦勝ち。頼もしく思う父親はこんな結果に一面寂しく、溺愛息子の活躍にただただ喜ぶ母親、ちょっと西部劇らしからぬ展開ものだった。
●三作品はあの「駅馬車」の様な胸のすく西部劇ではない。人間臭い、誰でもが持つ感情、舞台が西部なるが故に戦死した一兵卒、同僚同輩、上官に対する敬意と哀愁が漂う。モニュメントバレーの山岳を背景にどれもダンスや合唱があり、ユーモアあり、喧嘩あり、恋も失恋もあり、短い時間ながらインデアンとの壮絶なスピード感は監督の磨かれた手腕で見せ場を心得ていてニクイ・にくい。ドンパチ的西部劇フアンに物足りない三部作だったと思われる。「OK牧場の決闘」や「リオ・ブラボー」や「荒野の七人」などはドンパチ溢れる楽しい西部劇映画でこれもまた良し・・・・・・脇役もいつもの顔ぶれ、ちょっと太めのビクター・マララグレン、ユーモアと真面目?な部下の役が多く、いずれも先のB・ジョンソンと共に三作に出演、B・ジョンソンはあの「シェーン」では主演のシェーンに敵わぬと判断し、シェーンに相手方の出方を吐露して去る役をやっていた。
▼添付写真説明 「アパッチ砦」ヘンリーフォンダと・・
後方にB・ジョンソンが見える
9 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(7) 了源寺― 29期 仲田元昭 2021年10月投稿
今回は、前回ご案内した東光寺より徒歩10分程にある、本堂が老中松平定信の寄進と伝えられる了源寺と市文化財の鐘楼堂跡をご案内します。
「了源寺」
光雲山伝翁院了源寺は、430年程前の天正年間の創建と伝えら、船橋では珍しい浄土真宗 本願寺派の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。
戊辰戦争の際、新政府軍の宮崎・砂土原藩が駐屯したために戦火を免れました。本堂は白河藩三代藩主、老中松平定信(御三卿・田安家)の寄進と伝えられています。
「立派な山門からの本堂」
「了源寺 鐘楼堂跡」
本堂の脇に、市指定文化財の鐘楼堂跡(附 和時計 蜀山人筆掛軸)があります。 ここには、300年程前の享保6年(1721)から15年(1730)に徳川幕府が大砲の試射を行った台座がありました。
試射は10年程度で終わり、その後は代官の勧めで鐘楼堂を建て、幕府から「時の鐘」と認められ明治4年(1871)に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていました。現在の鐘楼堂は、昭和42年に再建されたものです。
「鐘楼堂跡(市文化財)」
「10 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(8) 圓蔵院」に続く 「2021-9-25寄稿」
戯言&独言13 21期 髙野 昇 2021年10月投稿
●”新型コロナウイルス”なるものが豪華船と共に日本に上陸して以来1年10ヵ月、国全体が振り回され、ワクチンが足りるの、足りないのから始まり、全てにおいて初期段階での中央行政の取り組みの甘さと緩慢さは誰もが認める處でしょう。感染者が何名になったとかが何人に対して何人なのか、埼玉が200人を割ったとか報道されても県民人口全体の中での感染者の数か、検診を受けに来た人から算出した数字か、高齢・老朽化した頭脳の私には何処から出てくる数字なのか理解ができません。魔術師のトリックに騙されているのに似た思いも無きにしもあらず。自粛、自粛のこの中で感染者数の減少で人の心が和らぐのは事実ながら、警戒解除とともにやたら人出が増加、各自の自粛、抑制、我慢はしなくてはなりませんね。あてにできる出口はまだみつかっていません。しかし飲食関係業ばかりが被害を受けているわけでもなく、もう少しひっそりと自粛奨励に協力している高齢者にも改めて何等かの対策を講じるのも新内閣の御役目の一つではないでしょうか。
●普段であれば月に1・2度好きな電車に乗り都内の降車したことが無かった駅で降り周辺を散歩、そんな日以外は自宅周辺を7・8キロは歩いていました。長男がいる菩提寺(松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立つ最初の宿)までは片道3.5キロ、週一に訪れていましたが。今は勿論外出自粛厳守、自宅周りを1・2キロをちょろっと歩き、買い物も重い物など、家内に頼まれてザックを背負ってでかけます。家内は”大腿骨頭部壊死”で人工骨が挿入されており長い時間の徒歩は無理、大手のスーパーに行くときはクルマで同伴、そういえばどこのスーパーや大手薬局など男手一人での買い物客(私も含めて)が多いですね。他にもパソコンに向かう、それも日に2時間程度、このコロナ禍のなかメル友の細田 武大兄が逝き、相談相手の兄(16期)が逝きこの人達とのメールのやり取りがなくなりました。来年度の年賀状の見本を6枚作りあげ、これは”プリントゴッコ”以前からの趣味で飽きません。あとは下手な”絵手紙”の下絵書きですが数十枚溜まってますが色あげもしてないものあり季節的なものは来年回し、定期的な病院通いは欠かせず、そんな毎日諸兄は如何なる日送りをしてますか。|
●そんな中で、一つの楽しみが出現、都立高校に在学している孫(2年)が野球部に居り東京秋季大会で東西250余校の予備戦を勝ち抜き、本戦64校の本予選の1回戦では孫の超ファインプレーがきっかけとなりサヨナラ勝ち、球場が遠く、自粛中故観戦はならず、PCのバーチャル放映で経過を知り「バンザイ」を雄叫び、あの(白鵬)のバンザイとは中身も意味も違います。過去2000年代に入り2度甲子園に行っている高校で”公立の星”と言われている高校ですが、肝心の本人曰く「野球は全員が楽しくやる」がモットーで、これは長い人生で大事なものの一つと思い影ながら応援しています。孫に改めて人生の生き方を再確認させてもらいました。
●雑句です‥‥‥‥‥
▼部屋灯り 消せばやさしき 月さえて
▼もう誰も 見ざるアルバム 秋が来る
▼一つ灯に 二人それぞれ 八十路ゆく
8 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(6) 東光寺― 29期 仲田元昭 2021年9月投稿
今回は、船橋を代表する船橋大神宮から東側台地(宮本台地)へ徒歩2分程にある、斬新なデザインの本堂で有名な東光寺をご案内します。
「東光寺」
慈明山阿舎(じめいざんあしゃ)羅院(らいん)東光寺(西福寺の末寺)と言い、創建は室町時代後期、480年程前天文年間と伝えられています。 本尊は薬師如来です。
現本堂は昭和40年(1965)に再建され、設計は地元船橋出身の建築士 長大作氏の斬新なデザインが、寺院の本堂としては大変珍しいです。
「斬新なデザインの東光寺本堂」
「道標を兼ねた廻国塔」
境内には、石造物が数多くあり、中でも道標を兼ねた廻国塔は 宝永6年(1709)製作の市内で最古の道標です。 左右に左ハさくら道 ・ 右ハかつさ道と刻まれています。その昔には、街道筋にありましたが、道路拡張工事の際、東光寺に移されました。
また戊辰戦争で亡くなられた旧幕府方の脱走様墓碑(3名連記)があります。市内には戊辰戦争で亡くなられた新政府方と旧幕府方の数多くの墓碑があります。
「道標左成田道、右上総道」
「9 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(7) 了源寺」に続く 「2021-8-25寄稿」
戯言&独言12 21期 髙野 昇 2021年9月投稿
◆あの日の「トウキョウ」と「お・も・て・な・し」の言葉、会場に居た参列者のあの狂気な騒ぎも、今思えば何か虚しい空騒ぎでした。東日本大震災、各地の豪雨による被害、、そして02年の開催年度に発生した新型コロナの蔓延、なんの巡り合わせか一気に災難に巡り会った日本でした。自然の災害はともかくコロナに対する初期対応の緩慢さは現状の感染者の数が伸長していてこの時点で中止か延期が深く検討されるべきと思っていました。インフルエンザより少し強い程度の感覚か、錯覚か。。五輪関係者はお題目を「「復興オリンピック」と唱えを変え始めましたが津波や他の震災に会い未だに仮設住宅に住む人達や仕事の再興の悩みなどどんな思いでこの五輪を観て何を感じていたでしょうか。被災地の復興と言う名目と目的とは矛盾する各種のトラブルミス、競技場建設入札、エンブレムの偽装?、トップに立つあの人の女性軽視失言、「安心・安全」を呪文の如く唱える偉い人、そんな中、60%以上が開催中止を求めていたにも拘わらず全て無視しての開催は私的には納得できないものでした。
◆何がなんでも「五輪ありき」で五輪終了後も感染者は増え、60%以上が開催を中止か延期にと言っている社会を無視し「コロナ禍の中、大会は成功」との給うたIOCの・・ぼったぐりバッハ・・や国内五輪関係者、特に五輪大臣丸川女史の発言は疑問です。総理の「五輪は成功裡に終了した」とか女性知事が「TVの視聴率も良く、自粛の協力度も良く‥」など発言、実態はどこのTV局も五輪・五輪、ここも五輪かよでチャンネル選択の余地がなく、全くのナンセンス発言には呆れました。
◆64年の五輪の成功はマスコミなど、市民の間でも語り草で未来の期待度も高く神話化されました。あの昭和の五輪を神話のままに便乗したものの「緊急事態…」はコロナだけではなく五輪にも適用してほしいと思っていました。どこをみても聞いても安全対策化が徹底した五輪とは程遠く化けの皮が剥がれた感じの五輪であったと思います。自然災害は止む負ない避けられない現象でしたが運営や市民に対する対応は一考の予知があったと思います。身内に豊洲の選手村をマンションとして買い付けていた人がコロナ禍の選手村だったのを鑑み後始末もしていない住居を解約すると言っていました。日本という国は十数年に一度五輪をやってきたみたいです。お祭り好きな日本人は64年の東京から札幌、長野と今度で四回目、八十代後期の歳で五輪を四回観たのは幸せですがどっちかといえば個人的にはあのラグビーW杯のほうが盛り上がりました。特別ラグビーファンではありませんが。
◆主催都市・国として入賞者が沢山いたのは各アスリートの揺るぎない努力、精進、忍耐の尊い賜で感動と感謝を戴きましたが、これは五輪の中止や延期とは別の問題と勝手に理解しています。女子ボクシングの優勝者の入江選手の明るさと話し方が面白く印象的、後日のあるTV番組の司会者が「あれだけ打ち合っても顔が腫れていませんが」の問いに「大会前はもっと美人だったんですよ」といった笑いながらのユーモアはすばらしい。そんなユーモアが理解できないあの張本氏の知的センスの無さ。
◆「お・も・て・な・し」は結果、表(おもて)が無くこの開催には間際になり色々あって「う・ら((裏)・が・あ・る」でしたね。うまい!自画自賛の戯言です。
前回のオリンピックの思い出 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年8月投稿
書道塾の1年後輩が交通公社に勤務していました。オリンピックの入場券があると云ってくれました。何でもいいから思い出に観戦しようと思いました。中学生だった弟をつれて国立競技場で馬術を観戦し、そして1人で横浜の男子バレーボール、対アメリカ戦だったと思います。観戦しました。日本生命の本社の友人にも声をかけてあげ、大変よろこばれました。
まえもって開会式の夜から、奥穂へ行く計画をたてていました。山男の友達と会社の同僚(女性)3人で行くことにしていましたが、直前に遭難の記事が2件あり、友人の1人が行かないと言い出し、3人で行くことになりました。
一緒に行く彼女は1年後輩で私がさそうとどこへでもついてくる人でした。友達もいそうもなく、大人しい人でした。夏は仕事帰りに千駄ヶ谷のプールへ時々行っていました。私も特別泳げるわけでもありませんでしたが、彼女は一生懸命練習していました。
私は冬スキーが好きで、週末はほとんどスキー場にいる程でした。同僚達とスキーに行くことになり、彼女も行きたいと云い出し、衣服はととのえ、スキーは現地で借りることにしました。1日スキー教室で練習をしてもらい翌日は1人でやることになり、同僚達はゲレンデを滑り降りるより登る方が速いと笑われながらも一生懸命やっていました。
オリンピック開会式の日、私は昼間、日本橋の白木屋でお茶会があり、お手前の合間をぬけ、屋上でブルーインパルスの五輪を見ました。
その夜、夜行に乗りバスで上高地へ行き上高地のバスターミナルを後に梓川左岸の遊歩道を、明神徳沢をすぎ、横尾へ着きました。
涸沢小屋へ行くのには横尾大橋を渡り、本格的な登山になります。樹々のあいだから時々涸沢小屋がみえかくれするのになかなか着かずとてもきつい登りでした。やっと小屋に着いても登山者が大勢でした。寝る時は互い違いに休み、思うように身動きが出来ない状態でした。私達は奥穂高岳(本邦第三位)を登るだけなので、ゆっくり起きて出発しました。穂高山荘までは、涸沢小屋へ行った時と違い割と楽だったように記憶していますが、友人がここで休んでいると云い出し、彼にアイゼンをつけてもらい頂上を目指しました。
頂上はせまかったと思います。お天気が良く、四方八方みわたせ素晴らしい眺めで苦労のかいがあったと思いました。明神池の小屋で泊まることにしていたので下山しましたが、行きと違い楽でした。
翌日上高地を散策して帰ってきました。
7 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(5) 八剱神社― 29期 仲田元昭 2021年8月投稿
今回は8月号につき、夏祭りのご案内です。船橋駅より徒歩15分程の漁師町(湊町)にあった八剱(やつるぎ)神社で7月に執り行われる夏祭りをご案内します。
「八釼神社の夏祭り」
漁師町である湊町の守り神の八剱神社は、江戸時代には前回ご案内した覚王寺の南東近くにありましたが、何度か火災にあい、明治41年(1908)に意富比神社(船橋大神宮)境内の金毘羅神社に合祀されました。
船橋 八剱神社の夏祭りは、江戸時代より約300年、漁師たちの海上安全・大漁祈願等の願いも込めて、雄大に執り行われてきました。
「船橋 八釼神社の神輿・ゆすり込み」
「深川富岡八幡宮との比較」
深川 富岡八幡宮と同じ、祭礼は3年に一度行われる例大祭(本祭り)とその間の2年間に行われる陰祭(かげまつり)、陰祭では神輿渡御は行われず、式典だけが行われます。
深川は、水掛け祭りと言われていますが、八剱神社の夏祭りは神輿を左右に大きく揺さぶる迫力ある担ぎ方「ゆすり込み」で、昔は負傷者が出るほど、漁師らしく荒っぽい担ぎで有名です。
(「深川 富岡八幡宮水掛祭り」江東区HPより)
「8 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(6) 東光寺」に続く 「2021-7-25寄稿」
戯言&独言11 21期 髙野 昇 2021年8月投稿
▼8月は遠いあの日の熱い日差しの中、76年前の15日の日を思わずにはいられない。学童疎開(山形かみのやま温泉)先での上級生のイジメに耐えきれず、両親に懇願し千葉県椎柴村(現銚子市)の伯母の家にまた一人で縁故疎開|。東京の家は大空襲で焼失していたので避難先の小岩での6畳一間での家族7人の間借り生活は無理。病弱の児童以外は東京に居る事も許されない状況の中での縁故疎開だった。戦争終結はこの地で迎えた。食糧事情が悪い東京へはすぐには帰らず、伯母の計らいでこの年の11月まで居候、おかげで3度のご飯は麦飯ながら3回食べられ、利根川や銚子に近い事もあり「鰻・イワシ・かつお・シジミ」など比較的恵まれた食事にありつけていた。伯母宅には大きな防空壕があり、かなりの米や麦、醤油、砂糖が隠蔽してあった。
▼帰京した翌年、「上野アメ横で小豆マメを売っている」との情報を得て母は弟を背負い、私は妹の手を引いて上野に向かった。大改札を出て階段を降り南口(当時は動物園口だったか)の地下道をアメ横へと向かう。その地下道には戦災で家族や住家をを失った人、戦争孤児などが広い通路に溢れ、濃い鼠色の汚れたコンクリートの壁に張り付くがごとくしゃがみ込み気力のい目、やせ細ったあばら骨、子供がてらにタバコを喫っている同年配の児、誰かに追われ逃げ足鋭く逃げる輩、そんな戦争孤児の大勢屯する中に学童疎開時に別れたK君が居た。この件については「同窓会報・2000年10月」に寄稿してありますが8月15日になると親子ずれであの地下道を歩いていた自分と、K君の恨めしそうな目ではなく、鋭い眼光が自分の頬に突き刺さった痛さは忘れられない。縁故疎開に行ったのか、お互い疎開に行く夏休み中に仲間で砂町へザリガニを獲りに行っていた。K君のその後の消息は不明である。私は綺麗になっている今のあの地下通路を今も歩くことが出来ない。
▼もう一人、これは一緒に学童疎開に行った同学年のA君、終戦後学童疎開先の山形から帰省した時、上野駅で引率の先生が「それでは此処で解散」と言って自らは山梨県の故郷に帰った話。A君はあの空襲で家族が全滅しており、疎開孤児とも言われ、地元農家の養女として山形で晩年まで過ごした仲間もいた。彼はそれを承知での帰省であったが、あてにしていた叔父宅も一家全滅、落胆の結果焼け落ちた自宅前の風呂屋のボイラーの中で2年近く過ごし、もちろん学校にも行かず上野やアメ横を食を求めてカッパライ、置き引き、同世代へのカツアゲなどで彷徨い、夜はボイラー釜の中へ帰る。ある日通学する小学生をみて目覚め、わざと浮浪児狩り(いやな言葉です)に遭遇し保護された。以後2年遅れの義務教育と3度の食事にも恵まれ、中卒後自動車整備屋に住み込み、同じ施設にいた同じ境遇の2歳年下の女性と結婚し後年埼玉で自動車整備の仕事で自立、彼の自叙伝的な波乱に満ちた話はドラマにでもなりそうだと何回かの集まりで話をしていた。孫数人を残し70代後半で逝き、前述のK君の思いと併せ8月15日は悲しい思いが蘇ってくる。時の国家は「戦争孤児」「疎開孤児」を見捨てた。
▼疎開時、国民学校3年生だった自分、戦地で無残な戦いに召集された人、空襲の中家族を引き連れて逃げまくった母や父、その方々も高齢で語り部の役をする人も残り少なくなってきた。思えば生まれた時からキナ臭い時代だった。2.26事件・日中戦争・日米開戦・焼け跡・原爆投下・敗戦、この8月15日は私にとっては「終戦記念日」ではなく300万人の犠牲者を悼み 「敗戦・終戦記憶日」 であり記念日ではない。時の流れと共にいずれ 「へー?そんな事があったんだ」 と言われる時代が来てしまうのか。
▼戦後直ぐの夕刊紙にこんな”戯言”が載っていたのを兄が面白可笑しく話してくれたことがあった。
〇天皇陛下の言葉 ・・・・・・・・・・・・・「あっ、そうー」・・・戦後各地を回った際のi会話での言葉
〇東久邇総理の言葉に国民は・・・・「うっそうー」・・・・・・戦後直ぐの首相東久邇総理が「敗戦は国民一人一人にも責任あり」 といい国民に責任を転嫁
〇国民の怒りは・・・・・・・・・・・・・「クッソうー」・・・・・・国民感情を逆なでる無責任発言に8000万民衆の声
・・・・いずれも「う」がつき、かなりの戯言とみた・・・・
▼・・八月は 六日九日 十五日・・・・・(詠み人知らず)
6 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(4) 覚王寺― 29期 仲田元昭 2021年7月投稿
今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内した不動院より2分程にある、文化財の灘陀龍王堂がある覚王寺をご案内します。覚王寺周辺300m程に7つのお寺があり地元では寺町とも呼んでいます。
「覚王寺」
覚王寺は、真言宗豊山派で長命山金剛院と号しています。 創建は450年程前室町時代後期と言われ、本尊は大日如来、9ケ寺の末寺(不動院、圓蔵院他)を持つ小本寺格です。
「覚王寺灘陀龍王堂(文化財)」
灘陀龍王堂は、総欅造・1間社流造で、寛永3年(1850)覚王寺により再建されました。
「覚王寺 本堂」
船橋は、戊辰戦争・市川船橋局地戦で官軍兵の砲撃と放火により街の大半と多くの神社仏閣も焼失しましたが、灘陀龍王堂は焼失を免れた数少ない江戸時代の建造物で市指定文化財です。
正面の龍、北・東・西面の彫刻は仙人や仙女が彫られ立体感ある表現で躍動感にあふれています。龍王堂には、海上守護の神、灘陀竜王が祀られ、毎年4月には護符が配られ、漁師町の人々の信仰を集めてきました。
「灘陀龍王堂と見事な龍の彫刻」
「7 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(5) 八剱神社」 に続く 「2021-6-25寄稿」
戯言&独言10 21期 髙野 昇 2021年7月投稿
■白井義男・・・・・前回の水泳の古橋広之進選手は戦後直ぐその名を轟かせ、私が中学生だった頃から現在に至るまで日本のスポーツ界の偉人といっても過言ではないと思っています。今のように企業とのプロ契約もなくアマチュアとしで生涯をおくっていました。今回はプロとはいえ特異なプロボクサーとして、水泳の古橋と同じゅうして戦後のあの時代に華々しく君臨した白井義男は「日本人!ここに有り」を全国民に知らせたやはり偉大なスポーツマンでした。世紀の一戦、伝統の一戦など安っぽく聞こえる事が多い昨今、営業の為の商業的な言葉になっているが、昭和のあの頃(小生の三商在学中)|の白井義男の切磋琢磨による奮闘は金字塔でした。戦前のボクサー(当時は拳闘家と言っていた)については父からピストン堀口やヤリの笹崎など話には聞いていましたが何れも終戦前のボクサーでした。白井にはいつもカーン博士と言う人物が付いていて後日談としてカーン氏の存在がいかに白井の活躍に貢献していたかを知った次第です。白井は荒川区三河島の生まれ、戦後は軽い腰痛を持った無名のボクサーとしてコレと言うジムにも属さず、王子駅前に有った「王子百貨店」内にあったリンクで4回戦ボーイをやっていたそうです。ボクシング好きのカーンがたまたま王子でみた白井の動きにセンスを見出し、付き合いが始まったとか。カーンは生物學の大学教授だったのをGHQに懇願され敗戦国日本人の栄養改善や補給の仕事に就いていたようです。その為に牛肉をたっぷりと食べさせカルシュウムの補強による腰痛の克服、筋力の充実など今までの日本のボクシング界では考えられなかった科学的トレーニングから実行。あの時代牛肉などやたらに食する時代ではなかったはずだがそこはGHQ勤務のカーン、GHQのマッカーサーに直接懇願し、快諾を得てのことで、この点マッカーサ―は日本国民への思いが偲ばれます。「打たれたら打ち返す」と言う今までのこの世界の常識を「打たせないで打ち倒す」を基本とし、徹底したボクシングの基本,動作、駆け引き、試合後半でのアウトボクシングの展開、そして生活態度などを教えこみました。GHQ の引き合いもあり当時の世界チャンピオンのマりノをハワイから呼び白井に挑戦させたがあえなく判定負け、半年後にはこれもGHQの援助もあって今度はハワイに向かい再度マりノに挑みTKOで勝ち選手権への挑戦権を獲得しました。
■昭和27年5月19日後楽園球場に特設リンクが設けられ4万5千人の観衆を集め、リンクサイトの観覧席は3500円とポスターにありました。今考えると特設リンクとはいえ全くのお粗末な設備で、町内会の盆踊りの櫓舞台とあまり変わらぬ印象がありました(写真)。TV放送は始まっていたものの受像機の普及台数は極めてわずか、繁華街にある街頭TVに人が群がりました。江東楽天地内の街頭TVも黒山の人でその中の1人が三商2年生の私でした。父は店番の為ラジオで聞いており担当アナの志村正順がかなり興奮気味の中継放送をしていたらしく「そういえば志村アナは荒川の三ノ輪の生まれだ、白井と同じ荒川区なら興奮するはずよ」 と父は言っていました。 試合内容は前半はクリンチが多く、背の高い白井と低いマリノではクリンチになるのは当然、 リーチのある白井のストレートやフックにあまり有効打が無くTV前の聴衆からも私を含めて溜息が出る雰囲気が充満していた憶えがあります。当時の世界戦は15回戦制で、後半に入りカーンの指示か白井は相手との距離をあけクリンチを避けるがごとくアウトボクシングの体制を取り始めストレート、フックが少しずつ的確、有効になていたようです。”打たせないで打ち倒す”これは数十年後の白井の著書にも書いてあり、最初からこの索をカーンから指示されていたとか。街頭TVの前に大歓声が挙がり3-0の判定、日本初の世界チャンピオンが生まれました。歴史的な日、昭和27年5月19日の出来事でした。この日を境に今までの拳闘と言っていた用語・言葉が日本から完全にボクシングと言う言葉に変わったと思います。肉体の改良、科学的に基ずいたメンタルトレーニングによる精神力の向上と充実などボクシングの全く経験のないカーンの理論的指導法が功をそうし、以後のスポーツ界にも滲みわたり世界に承認された瞬間でもありました。
■聞くところ、カーンはボクシングの経験は全くなく、大学で体育講師時代の体験だけの知識と理論からのものだったようです。白井は年齢、腰痛などで引退寸前状態でありカーンの理論には否定的であったがカーンの情熱と姿勢に専属契約をしたようです。カーンの「科学的トレーニング」に白井は自らの能力向上に目覚めていったと白井の著書にも書いてありました。肉類を大量に摂取、これはカーンがGHQ勤務で食糧事情の悪い国内では手にできない不可能を可にしたようです。試合後半、相手のスタミナ落ちをみてアウトボクシングに切り替える作戦は功を奏し世界チャンピオンになっています。数年後パスカル・ペレスに敗れ引退しましたが、身内の居なかったカーンは全てのマネージメント料を白井に與え、白井も彼の熱意、指導に家族共々感謝感動し彼が死に至るまで一緒に生活を送っていたようです。晩年、認知症になった彼を家族全員で幇助し、彼の精神、愛情と人間的な崇高さは忘れることが無いと白井の著書に記されています。
■戦後復興にまだ遠いこの時期、国民に立ち上がる力と勇気を施したカーン博士は1971年1月に79歳で、白井氏は2003年12月に80歳で黄泉に入り共に同じ墓所で師弟愛をそのままに眠りついている筈です。
5 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(3) 不動院― 29期 仲田元昭 2021年6月投稿
今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内しました浄勝寺から徒歩2分程にある不動院と、門前で毎年2月28日に行われる市無形民俗文化財の、大仏追善供養のご案内です。
「不動院」
不動院は、真言宗豊山派の寺院で総本山が奈良の長谷寺、関東大本山が東京の護国寺です。号は海応山、開基は700年程前の南北朝時代と伝えられ、本尊は不動明王です。
現在の本堂は、昭和7年(1932)造営で、屋根の両端の飾り瓦は珍しい鴟尾(しび)です。
「不動院 本堂」
「大仏追善供養」(市無形民俗文化財)
不動院の前にある、この石造釈迦如来坐像は、地元では飯盛大仏とも呼び、今から270年程前の江戸時代中期に、津波によって亡くなられた人々の供養のため、地元の方の寄付で建立されました。
その後、漁場の境界をめぐる争い中に船橋の漁師が、相手方の船に乗っていた徳川一橋家の武士を殴打したため、漁師総代3人が入牢、2人が亡くなる事件が起き、先の津波で亡くなられた霊と共に供養を行うこととなりました。
毎年2月28日に行われる大仏追善供養の行事は、大仏に白米の飯を盛り上げるように塗り付けます。これは、牢内で食が乏しく、ひもじい思いをしたのを償うためと言われています。
「大仏追善供養の行事で白米が塗り付けられた 石造釈迦如来坐像」
「6 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(4) 覚王寺」に続く 「2021-5-25寄稿」
戯言&独言9 21期 髙野 昇 2021年6月投稿
■古橋広之進・・・・・私の年代は勿論、戦後のあの時代に育った方々には忘れられない輝かしい人物です。戦後の水泳競技において数々の世界新記録を打ち立て、敗戦による落ち込みの激しかった国民に勇気と元気を与え、「日本人、ここに有り」を世界に示した人物で、それは政治家でもなく、科学者でもなく、戦時下の少年時代に浜名湖の岸に作られていた木枠だけのプール?で「魚より早く泳いでみたい」との思いで覚えた泳ぎの術を体得してのスタート。戦後日大在学中の日本選手権で自由形400米で4”38”4の世界新記録で優勝、しかし敗戦日本国の記録ゆえ公認記録として世界新として認められず1947年のロンドンオリンピックへも敗戦国の日本とドイツの参加はできませんでした。49年、国際水連復帰が認められ、これは古橋選手の全ての記録の功績大だった思います。この歳に古橋、橋爪、浜口など今では懐かしい選手が全米選手権へ招待され参加、これは当時のGHQ司令官マッカーサ―元帥の力添えで実現したと中学の担任先生から聞いていました。その裏ずけとして古橋らは司令部に呼ばれマッカーサ―元帥から「勝ってきてくれ、それが日本国民の心の糧になる」と言われたと十数年後の新聞のインタビューで語っていました。戦後日本人をジャップと呼び、日本のプールは距離が短いとか敗戦でストップウォッチも無いなど云われていた時期に彼らは活躍、古橋は400米・800米・1500米自由形ですべて世界新、この時「フジヤマのトビウオ・・The Flying Fish of Fujiyama」と米紙は絶賛したようです。今もTVの水泳競技放送で記録を言う場面で「‥‥フラット」と聞くと古橋広之進と言う名が自然と頭に沸いてきます。ここで記録した古橋の当時の1500米の世界記録”18”19”00というタイムは今この歳になっても記憶にはっきりと残っており最後の”00”をフラットと表現されていた言葉が今も心に残っています。
■1952年、日本は戦後初の北欧ヘルシンキ五輪参加が認められましたが彼は思うような記録を持たぬまま選手としてピークを過ぎている中での五輪参加だった様です。その原因の一つに、かって米国への招待遠征中、宿泊先のホテルの部屋に用意されていた水を飲み、それが原因で「アメーバー赤痢」に感染しました。抗生物質薬などない時代、故郷での友人との語らいの中で「外国では飲み水には気を付けろ」と言われたことが頭をよぎったそうです。400米決勝では8人中の8位、フランスのボアトウ選手が優勝、感窮まったボアトウの父親がプールに飛び込み倅に抱きついている姿をニュース映画でみました。一瞬、敗れた古橋のカットもありその顔が印象的でした。布団の中で兄弟そろってこの実況放送聞いていました。この時、NHKで実況を担当していた飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の偉大な足跡と活躍なくして戦後の日本の発展は在り得なかったのであります。日本の皆様、温かい気持ちを持って古橋を迎えてやって下さい。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」私は布団にもぐり泪しました。翌日の教室ではもっぱらこの話題が中心で「橋爪ががんばるよ」と皆で話したものでした。HRでも担任の吉岡先生が古橋の健闘を讃えていました。数あるスポーツ放送はあるけれどこの飯田アナの放送は日本国民全員に感謝の思いと感銘を与えた言葉であり名放送だったと今も思います。この翌日にあった自由形1500米決勝で盟友橋爪四郎選手が銀メタルをとりながらも虚しく敗れた古橋を思い表彰台で悲しくて顔を挙げることが出来なかったとYOUTUBUで語っており、銀メタルも一切公開せず押し入れにしまいこんだとも語っていました。古橋は勝っても決してガッツポーズなどせず、スポーツの栄光と挫折は平等であると考え、ガッツポーズ、それは敗れた選手を思えば出来る物ではないとの心情とスポーツは謙虚に真っすぐに、明るく、強く、豪快に済ますべきのモットーを持っていました。ちなみにこのヘルシンキ五輪での日本の金メタルはレスリング・フリースタイルフェザー級の石井庄八選手の1個でした。古橋は引退後も水泳界発展の活躍も多く各種役員、国際委員などを経て五輪選手として文化勲章を拝受しています。古川勝、田口信教、鈴木大地、北島康介など世界的選手の礎となり、残念ながら2009年国際水連総会の在ったローマのホテルで心不全で亡くなりました。後日国内での葬儀にはスポーツ選手の葬儀でこれほどの葬列者が集い歴史的な告別の儀であったとスポーツ紙は報じていました。コロナ禍の中、東京五輪の開催の有無を古橋広之進氏は天国でどのように思っているでしょうか。私見ですが彼の精神を鑑みれば、このコロナ禍の中、人の命の重さの方が尊しと思っているでしょう。
4 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(2) 浄勝寺― 29期 仲田元昭 2021年5月投稿
船橋には、50山(全国約77千山)の寺院があります。今回は、船橋駅より徒歩10分程にある徳川家康公が船橋で最初に休憩したと言われている浄勝寺のご案内です。
浄勝寺は、芝増上寺の末寺で山号は西光山、今から520年程前 室町時代後期 明応5年(1496)に、浄土宗の念仏道場として、旧九日市漁師町に創建されました。
広大な敷地(約2万坪)に、伽藍(鐘楼堂他)を有する大きな寺院でした。
「浄勝寺 本堂」
江戸時代には、徳川家康公の鷹狩の休息所として使われ、天正19年(1591)家康より10石の寺領の寄進を(御朱印状)賜っています。
墓地には、戊辰戦争が終結した後、新政府より船橋周辺の警備を命ぜられ、九日市に捨置いていた兵糧米の調査の為出張中、脱走した賊徒が旅館に乱入し、賊徒に襲われ亡くなられた尾張藩磅礴隊(ほうはくたい)3名の合葬墓があります。
合葬墓は、尾張藩磅礴隊の武士が中心となり、ここ浄勝寺に埋葬されました。
「尾張藩磅礴隊の墓」
「5 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(3) 不動院」 に続く 「2021-4-25寄稿」
戯言&独言8 21期 髙野 昇 2021年5月投稿
●「セコハン‥‥」兄弟や身内、近所の方などから譲られた衣類や道具のこと。私は小六の卒業式や遠足の際は総領の兄(私は四男)が着ていた慶応型制服と言われていた紺色のサージの生地の上着を着ていた。総領の長兄((大正14年生・6年生で逝去)の中学進学のため両親が大枚をはたいて買い求めたものだろう。いつも母は「よそ行きなんだからね」と念を押すように言い、二男、三男の兄2人も着ていた。小生は四代目でこれぞ・セコハン・の窮まり。兄弟の「お譲り」を着る・使うのは当たり前の時代だった。私が三商に入学の時に着帽していた制帽は五歳上の兄(16期生)が入学時に購入したもので私は三商二年生の2学期まで被っていた。帽子のツバがボール紙で出来ており雨の日は被らないようにし、最後は生地もツバもボロボロになっていた。戦後に笠置シズ子が「セコハン娘」と言う歌を唄いヒットしていた。
●「逢いびき‥‥」今で言うデイト。{逢いびき}というイギリス映画があった。刹那さと哀愁を感じる「逢びき」とか「逢う瀬」とか「忍び逢い」など漢字を交えて書くと切なさ・遣る瀬ない思い・人目を忍ぶ仲など情緒と哀愁と秘めた情熱があふれる何かを感じさせる。軽い気持ちでの今風の男女交際には全く合わない言葉となった。
●「お湯屋‥‥」何時ごろからか銭湯と言い出したのか。銭湯なる名は昔から知っているが下町では「お湯屋」とか「お風呂屋」と言うのが通常だった。お湯屋の煙突には必ずお湯屋の名が書いてあった。私の育った亀戸辺りでは子供仲間や家庭の会話では「おいや」と言っていた。戦前の亀戸の住まいの半径500米以内に4軒の「おいや」があった。有料で背中を流して軽く肩を叩いてくれる裏方の小父さんが居て「三助」といっていた。水っぽい女性などは風呂に行くのは「おぶに行く」などと言い、親が幼子に水や白湯(さゆ)を与える時なども「おぶ」と言っていた。
●「やっちゃ場‥‥」野菜卸市場のこと。下町には神田市場、両国・千住等にあり今神田市場の跡地はヨドバシが建つ。最近スーパーの野菜売り場で「やっちゃ場市」と銘打っている処がある。
●「タッパ‥‥」タッパがいいねなど、体格が良くで背が高く格好のいい人などに使われ、今でも建築関連で高さの事を「タッパは○○メートル・・」など使われている。余談だが先日、昔出入りしていた大工さんに久し振りに会ったが当時と変わらぬタッパの良さは昔と変わらず小粋な老人になっていた。
●「停留所・停車場(テイシャバ)‥‥」バスや都電の乗降客が乗り降りする場所。都電の停留所(写真)は道路の真ん中にあり一段高くしてあり、夜には独特なデザインの標識灯に灯りがともり停留所名が良く分かったものだ。停車場は主に始発駅を停車場といっていたかも。下町では上野や両国(かっては千葉県内を走る総武本線の始発駅)など。バス停などの言葉は今風。
●「カムカム英語‥‥」戦後直ぐに夜6時頃から放送された平川唯一氏の英会話指導番組で”証誠寺の狸ばやし”のメロディーに「♫カムカムエーブリボディー♬・・」と英語の替え歌で始まる番組。彼は元NHKのアナで、米国に住んでいた事はあっても英語教師の経験も資格もないズブの素人で終戦のあの日、天皇の詔勅を自ら翻訳し世界各国に向けこれも自ら朗読し電波にのせた凄い人。放送の中で「英会話は口真似で覚えるのが一番良い」と言っていたのが記憶にある。この番組で会話をマスターした人は皆無だろうが替え歌だけは子供同士の間ではやたらに流行り今も口ずさめる。私が最初に覚えた英会話は「ギブミィーチョコレイト アンド チューインガム・・」と「サンキューベリマッチ・・」だった。
●「あたい‥‥」自身の事をこう言っていた。男女の区別なしの言葉で「僕」とか「私」なんて言葉は小さいこども同士で下町で使うのはタブー。「かっこつけやがって!」と言われるのがオチ。幼少期からそう言っており小學高学年あたりから小さな声で「俺」なんて言い始め年下の子に少し偉ぶったものだ。職人や商人(あきんど)が多かった下町では子供達が当たり前に使っていた一人称。その親たち大人は亭主や話相手のことを「あんた」と称し略して「あーた」だった。
●「手拭(てぬぐい)‥‥」今、正月用の「お年賀」の挨拶代わりにタオルがあるが、以前は手拭が圧倒的でタオルは高級品だった。利用範囲の広い30㎝×70cmくらいの大きさで木綿の染物。風呂には当たり前に使用、半分に切って台所の布巾にも。少し使い古したものは赤ん坊のおむつになり2枚使う。使い古した手拭は柔らかく赤ん坊の柔らかなお尻には最適。我が家は商売をやっていたので盆・暮には仕入れ先の問屋が2.・3本ずつ持ってくるので、いつもトランク一杯の手拭が有った。父親や子供達の寝巻はいつも新品の手拭で母が仕立てた寝巻になっていた。夫々の問屋の名入りのものがまちまちにあり、背中に鰹節問屋、前身ごろに漬物問屋、裾には佃煮メーカーなど色とりどり。小中学に通学の際、きちんと折り畳んで腰のベルトにはさみ下げていた。今の我が家には紺地の染に白ヌキの吉原繋ぎの粋な紋様が入った染手拭がインテリアとして飾ってある(写真)。亡き細田武兄から三社祭りの記念に戴いたもの(写真)豆絞りの手拭と共に江戸の祭りには欠かせない。浅草仲見世には専門店もある。手拭はその使命を済ませ民芸品化しつつあり、タオルにその使命を譲ったけど、そのほとんどが中国製。
●「アッパッパアー‥」カーちゃん、オバちゃんらの主に夏用のワンピース。洋装のつもりでもなく下駄かサンダルでちょいとそこまで的なワンピース型の女性用夏の簡単服。木綿なので洗濯簡単、お袋などは下着のシャツもつけず直に着用し商売をしていた。首回りには手拭を架けていた。今若い人がロング目のワンピースがはやっているが、私から言えば「今風アッパッパァ」。サザエさんの母のフネさんが着ている時もあった
●「おいら‥‥」複数形の言葉らしからぬ自身のことを表現するのに使用していた。映画、裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の中の唄に「♫おいらはドラマー、…おいらが叩けば嵐を呼ぶぜ‥♬」とある。ビート・たけしが今でも良く使っている。個人、複数人どちらにも使ってはいたが個人の表現に使っていたが「俺は‥」が「おいらは」になちゃったか。
●「ガリ版・謄写版・そしワラ半紙・・・・」これは完全な死語。手書きの原稿、校内試験問題や父兄への連絡事項、生徒への通達など蝋引きの原紙に鑢(ヤスり)を下敷きに鉄筆のペンで書きこむ。それを謄写版にセットして1枚ずつ用紙に手刷り印刷?。今思えば原始的でも画期的な用具で職場、学校には必ず有った。その用紙がワラ半紙 わずかに黒っぽく薄いグレーっぽい、時折5ミリくらいのワラと思える屑が入っていた。実際にはワラは使用せずぼろきれ繊維が使われていたらしい。楮(こおぞ)などから和紙を梳いていた歴史からワラを思いついた人は素晴らしい。À3まで可能だったか。今はA4コピー用紙全盛がとって変わった。
3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮― 29期 仲田元昭 2021年4月投稿
船橋には、70社の神社(全国約85千社)があります。今回から、船橋駅より2時間程の街歩きのご案内です。街中コースにある15の神社仏閣を巡る街歩きの出発です。最初のご案内は、船橋駅より徒歩15分程にある、船橋を代表する神社、船橋大神宮です。
創建は、今から1900年程前と伝えられ、史書「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(延長5年=927)に意(お)富比(おひ)神社(じんじゃ)の名がある船橋市を代表する神社です。
いつの頃からか「船橋大神宮」と呼ぶようになりました。主祭神は天照皇大神で、南の鳥居の右に「延喜式内社意富比神社」の大きな石碑があり、平安時代に官社として認定されていた由緒ある神社です。
「船橋大神宮 門・玉垣」
天正19年(1591)徳川家康より「常磐の箱」に開運の旗と陣弓を本殿に納められ、江戸開府の頃より家康公は度々参詣され、50石の社領の寄進が十四代将軍家茂まで続きました。
戊辰戦争では、旧幕府軍の本陣が置かれ、新政府軍との戦いで神社と周辺は戦火にあい焼失しました。現在の本殿は、明治になり造営された建造物です。
「船橋大神宮 拝殿、神明造り、本殿は更に奥にあり」
「4 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(2) 浄勝寺」 に続く 「2021-3-25寄稿」
戯言&独言7 21期 髙野 昇 2021年4月投稿
▼インフレと食糧難、住居難、失業と全てに困窮の最中の1945年(昭和20年)からの5年間近く、庶民にとっての唯一の娯楽はラジオであった。「リンゴの唄」は終戦の2・3か月後に封切られた松竹映画の挿入歌。空襲の焼け出されにはラジオなど無かった時代、焼け残った小岩のラジオ屋の店頭から流れたこの曲は圧倒的な勢いで全国を風靡した。教科書も進駐軍に没収されていて、音楽の時間には先生のオルガンの伴奏で「リンゴの唄」や、他に「みかんの花咲く丘」なども授業中で歌った記憶がある。「リンゴの唄」の作詞者サトーハチローの詞は勝つぞ!とか皇国ニッポン!などもなく、はっきり言えば内容的にはなにを言わんか未だに疑問だが彼は後にあの「長崎の鐘」や「小さい秋みつけた」などを作詞し純真でユーモアに溢れ、泪脆い人だった。GHQは放送に厳しい規制を引き戦時歌謡は姿を消し、学校帰りに4・5人で「暁に祈る」を唄っていたら道すがらの酒屋の小父さんに「そんな歌、唄ってるとMP(米軍警察)に捕まるぞ」と笑いながら注意された。「リンゴの唄」は戦時中、「♬天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の‥‥♪」なる歌を学童疎開先で唄っていた半年後の明るい歌だった。
▼番組のテーマ曲は全てがクラシック系でGHQの意向そのままに「真相はこうだ!」と言う番組があった。旧日本軍の各地での戦闘を「実はこうだった」風にGHQが制作し放送、アナの語りで旧日本の暴走・暴虐・無謀を暴く番組だった。国民の誰もが真意はともかく納得したものだった。今になって戦争史と比してみると戦勝国のプロパガンダが含まれていたとは言えほぼ当たっていたかも。夜の放送を家族揃って聴いていた兄が「ガダルカナル海戦は負けていたんだ」と言っていた言葉を今になって昨日のように思う。復員だより・尋ね人の時間・配給だよりなど、「尋ね人」の放送で何人の人が、何組の家族が再会できたのか。「配給だより」では毎日が「○○の3班、スケソウタラ」なるニュースが續き、今もタラコを食する度に思い出してしまう。
▼「のど自慢」「産業の夕べ・炭鉱へ送る夕べ・農家へ送る夕べ」・・(♫農家の皆さんこんばんわ‥♪)など復興をめざして各地で働く労働者に送る番組が多々あった。内容はどれもほぼ変わらずタイトルのみが記憶にある。芸人が2・3出ての物であったが「のど自慢」だけはよく聴いていた。一小節で鐘が一つ鳴り不合格、少し長く唄わせ鐘が三つ以上鳴れば合格。楽しい放送であの美空ひばりも出場参加していたとか。「異国の丘」はこの番組から発信され、のちに数多くの参加者がこの番組で歌っていた。「鐘の鳴る丘」と「異国の丘」は唄えぬ人は誰一人として居ず、当時のベストヒットソングだった。漫才コンビの内海突破・並木一路が良くラジオに出ていて内海突破が驚いた時に言っていた「ギョッ!」なる言葉、子供同士の会話の中で下町でははやった事がある。
▼「進駐軍放送」・・米軍兵士向けの放送(WVTR)が始まり軽やかなアメリカンポップスが流れそのころはそれらを全てJAZZといっていた。今までさんざん聴かされた戦時歌謡や股旅ものなどとは違う、沈んでいる心が少し浮かれ、リズムの軽快さなどが子供心にもなにか永い呪縛から解き放された感を憶えさせる放送だった。街の若者達のアマチュアバンドが現れ避難先の小岩の街にも出現し、家屋疎開跡地の空き地の広場での演奏を兄弟で見に行くのが楽しみだった。そのアマバンドのテーマ曲が1930年代の米国のヒット曲「素敵なあなた」 ♬バイ・ミー・ビスト・ドウ・シェン…♪ でこの時憶えたメロディは私にとって最初のJAZZだった。数年後、ラジオ東京の朝番組のテーマ曲がB/グッドマン・コンボが奏でる「シャイン」でこの曲に送り出されるように三商への登校に向かった。懐かしい名曲、軽やかでリズミカル、今でもYOUTUBUで見たり聴いたりしている。銀座の「テネシー」と言うJAZZ喫茶に通っていた三商時代、そして今もってJAZZが好きで好きでいられるのはあの時以来の延長なのである。
▼「話の泉」・・その時々の時事の話題をゲストを交えてのトーク番組。クイズ的な所があっても今の様に正解者を表彰することなく解答者の蘊蓄や雑学的な知識を出し合うもの。司会アナはあの和田信賢で戦前からの名アナ。8月15日の天皇の終戦詔勅、いわゆる玉音放送の時のアナでもあった。日本が戦後初の五輪参加(昭和27年)の際ヘルシンキに中継放送の為に派遣され、その開催中に逝去。昔日、相撲の双葉山の連勝記録が消えたときの実況アナでもあった。彼は戦後直ぐの大相撲の放送をし相撲には戦前からかなりの蘊蓄を持ち著書もある。報道、スポーツに長けたアナだった。話の泉の解答者は徳川無声・サトーハチロー・山本嘉次郎(黒澤明の師匠)・渡邉紳一郎(朝日の記者?)などで、かなり知的な番組で兄二人がよく聴いていた。東京五輪の頃まで続いていたと思うが司会は高橋圭三アナに代わっていた筈である。かなり知的な番組であった。
▼「とんち教室」・・「大喜利」のはしりのような番組だった。司会の青木一雄アナを先生として解答者は全員落第生と称され、でもその解答振りはユーモアと駄洒落・戯言などが色濃く、粋な側面と笑いのセンスを持ち合わせた楽しみな時間だった。落第生、イヤ生徒は石黒敬七(元柔道家、いつもサングラス姿)落語家の柳橋、三味線豊吉(端唄、俗曲などの三味線弾き)など、今のバライティ等には決して見られない,聴けない駄洒落と粋なユーモアに、それこそトンチンカン満載のお笑い番組だった。今のお笑いタレントのバカバカしさと比べて雲泥の差を感じる。
▼[向こう三軒両隣」・・月~土の夕方に毎日放送されていた。人力車引きの坂東亀造さん(巌金四郎)や山田のおばあちゃん(伊藤智子)など、どうってことはない日常の生活ぶりを、戦争の暗い闇から解き放された市井の庶民の生活ぶりを、明るいホームドラマを通じて新旧の考え方が混りつつある世相をそれとなく教え、時には皮肉ったりしてくれた番組。亀造さんの仕事に行く時の「あらよっと!」の元気な声が印象に残る。TVが始まり毎夕「バス通り裏」と言う15分の夕ドラ番組があったが「無こう三軒・・・」の時代から少しずつ進捗していくのが判った。
▼{カムカム、エブリボディ・・」 「證誠寺の狸ばやし」のメロディーに英語をかぶせ、平川唯一なる先生が英会話を指導。世間ではカムカム英語と言っていたがこの放送で英会話をマスターした人は恐らく皆無だったろうが、子供の間ではこの英語の替え歌だけは流行っていた。あの頃の我が家では、確か夕方の5時か6時からの放送だったので、母が夕食の菜っ葉や大根や芋入りの「雑炊」を支度する時間の時計がわりだった。小生カムカム英語の英文替え歌のテーマを今でも最後まで唄えてしまう。かなり長い年月の放送だったようだが中学時代の英語教師のU先生は「平川は英語は”耳から憶えるのが基本”など放送でよく言っているが英語の基本は発音から始まるものだ」と唱えていた。鉛筆をペンシルと皆が言っていたら「それが大間違いだ、正確に発音すれば”ペンソウ”だ」だと言い、生徒としては「どっちでもいい事なんだけど」の判断、そのU先生の綽名は以後・・ペンソウ・・となった。余談だがこの先生は後日レッドパージと言うGHQの社会主義的公務員の公務追放で教職を追われ、最後の別れの挨拶で言った言葉は「英語を学んで世界を見ろ」だった。私が最初に覚えた英語?は小学校4・5年生の頃か「give me chocolate」だったのが何故か侘しい。平川唯一自体英語の指導の経歴はまったく無く、親の仕事の関連で数年ほど米国に居住していただけ、開戦前に帰国しNHKに入り、あの8月15日の玉音放送を自ら翻訳して世界の電波に自らの英語の音声で放送した人物とか。玉音放送の陰の主役であったことを20数年前か「文藝春秋」主催の講演会で故半藤一利氏が語っていたのを紀尾井町の”文藝春秋ホール”で聴いたのを半藤氏の逝去(令和3年1月)を聞き改めて思い出した次第である。藤倉アナの「街頭録音」なんかも思い出す。「三木鶏朗の日曜娯楽版」は世相を皮肉るお笑いコメディだったがGHQの圧力で短命で消えた。この番組に三木のり平が出ていた。
写真説明・・・・かつてのNHK(千代田区内幸町)|
77歳8ヶ月 29期 土方敏之 2021年4月投稿
今朝の夢、覚えているのは、柳田が隣に座っている。右の方から連なって歩いてきた中に、30代の痩せている私の父親がいる。ぐるっと回って私のそばにきた時に、柳田に父を紹介した。そこで目が覚めた。1時半だった。あと続きをみようとしたがつながらなかった。
私の父は、30代に築地市場で「大六」という問屋で働いていた。そして直腸ガンにかかり痩せていった。その頃の写真の顔が夢に見た顔だった。術後は太らせろ、との医者の言葉に、甘いもの、天ぷらとドンドン食べさせ、61歳で他界するまで太っていた。私が三商で柳田に会った時はもう太っていたので、痩せていた父の顔をよく知らなかった。5時に起きて神棚、仏壇と水を替え「おはようございます、今日一日よろしくお願いします」と祈ります。仏壇の脇においた柳田の戒名「貫雲慈保信士」の前で「柳田、おはよう」と挨拶をする。
今日は、孫が新中学生になる入学式の日。今日一日何があるのか楽しみだ。
初節句 26期岩瀬和子 2021年3月投稿
初節句 26期岩瀬和子 2021年3月投稿
この写真は80年前の私の初節句の写真です。のびた手は母の手だそうです。
私は母が結婚して5年目に生まれました。初の内孫だったので、祖父、おば達にとても可愛がってもらいました。19期の中山さんの瓦版をいただくと、戦前鶯谷駅の近くでもらったなつかしい味を思い出します。内裏雛が二対あるのは、知り合いから一対と大きな羽子板をいただいたそうです。少し大きくなり羽根つきをしようとしましたが、大きく重たくて出来ませんでした。
こんな古い写真よくあったとお思いでしょう。『実は花嫁道具、高く買います』というチラシがありました。結婚する時、友人の家具屋さんから、良いのを買ったのでいずれ処分しなければならないので高く買ってくれればと思い電話しました。
査定に来てくれましたが大きくて売れない、と云われ六万五千円で引き取ると云われ、粗大ゴミのほうが安いのでやめました。その時和服のタンスを整理していて、封筒に入った写真が出てきました。この写真は母の実家のおじが、私達は空襲で焼けて無いだろうとくれた写真です。父が写真屋さんで複写してもらいましたが、セピア色した当時の写真もあります。結婚する時、持ってきたものです。
写真館で写したお宮参り、3歳のお祝いの写真、父の友人が写してくれた多分誕生日でしょう。着物を着て、きれいなゆだれかけをかけ、父に抱かれたのと、一人の写真、父の出征の時に家の前で映した、祖父母、おじ、おば達、母と私。兵隊の面会日の写真、祖母、おじの知り合いの人、母と私、おぼえていませんが、なつかしい人たちの写真です。
私にとって貴重な写真、あの世へ持ってゆきたいと思います。
2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)― 29期 仲田元昭 2021年3月投稿
街歩きのご案内の前に、船橋の歴史についてご説明します。
「古代」
船橋は、約15,000年前縄文時代より人々が住み、昭和7年に竪穴式住居跡や炉穴が日本で最初に発掘された市の史跡である7,000年程前の飛ノ台遺跡(市の史跡、東武新船橋駅より徒歩5分程)他、市内には150を超える遺跡が発掘されており、千葉県は日本一遺跡の多い県です。
北部の小室台遺跡は、市内で初めての前方後円墳が発見、また発掘で小さなバイオリン形「土偶」も発見され、平成30年春の東京国立博物館の特別展に展示され、秋にはパリ「縄文展」に展示されました。
「中世前半(平安時代、鎌倉時代)」
中世には内陸部との交通の要所として、また東京湾では鎌倉の外港六浦を中心に海上交通による交易により、人や物資の動きが活発に行われ、船橋湊、二子浦(葛飾浦)この港から鎌倉や伊勢神宮の安農津に物資が輸送されていたようです。
「中世後半(戦国時代)」
15世紀後半、房総では千葉氏の内紛が起こり衰退すると共に、里見氏や武田氏、北条氏が台頭し、国府台合戦が起こりました。市内には、夏見城址、金杉城址等16の中世の城跡の土塁が発見されています。
「江戸時代」
徳川家康が江戸入府後、早々に家康公より船橋大神宮に50石の社領、浄勝寺に10石の寺領が寄進され、船橋大神宮に家康公は4回程参拝されたと言われています。
その後、家康公の東金方面への鷹狩の宿泊場所として慶長19年(1614)頃に船橋御殿が造営され、大坂夏の陣が終わったその年、元和元年(1615)11月25日、鷹狩の帰りに千葉県で最後の宿泊場所が船橋御殿です。
その際、漁民達が生魚・貝を献上してきたことに喜び家康公は、船橋の漁民に独占漁業権を与えられ、その後新鮮な魚介類を江戸城に献上する等船橋は徳川将軍家と大変関係の深い誇り高い街です。
船橋御殿には、家康公が2回、二代将軍秀忠が10回、三代将軍家光が1回宿泊及び休憩をされたと伝えられています。
「3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮―」に続く
「2021-2-25 寄稿」
戯言&独言6 「闇市」 21期 髙野 昇 2021年3月投稿
君達は[戦後]を知っていますか(その2)
▼戦後とか終戦後とかなる言葉も今や“死語”となりつつある。1945年つまり昭和20年8月15日以後からのこと。その日は皇国、軍国主義がひと晩で変わり、私は国民学校4年生であった。歳を重ねて記憶もまた薄らいでゆく中で、あの時代に生きた人間がそれも子供の眼で見た「こんなだった」時代は年老いても忘れる事が出来ない鮮明な時の流れでもある。かなり以前に孫に「終戦って、いつの、どの戦争のこと?」と聞かれた事があったが、そういえば私が生まれる以前から日本は戦争ばかりだった。
●闇市…‥‥都内、及びその近郊の国鉄(JR)の駅前には必ずあり、戦時中は駅周辺の建物は空襲爆撃の延焼防止の為、建物は取り壊されこれを当時は建物疎開といっていた。建物にロープをかけ人力で倒す、この時代、疎開は人だけではなかった。駅前は、それが戦後の”闇市”広場となる。下町の大空襲で焼け出され小岩に避難生活していた頃で小岩駅前の駅前通り(現フラワーロード)が小岩の闇市通リであった。煮炊きしたものはあまり見かけなかったが鍋・釜・しゃもじ・軍隊で使用していた軍靴・靴下・衣服などの復員兵が持ち帰った物等の新品中古は問わず、他にするめ・ふかし芋、野菜類など、統制令の徹底で米・麦・等はさすが店頭にないけれど、一寸横丁の路地に入ったしもた家(普通の民家の事でこれも今や死語)等で、知り合いの家庭には醤油や、やたらショッパイ味噌・軍隊で使用していた濃縮醤油がもちろんヤミ値で分けてもらえた。店を出さずにヤミ屋をやっていたのである。大宅壮一がTVの発展時に唱えた「一億総白痴化」ではないが「一億総ヤミ屋」であった。
●我が家も市川に居た酒屋さんからヤミ醤油を週5・6本仕入れ母は弟を背負い、綿入りのねんねこ半天の大き目の袂に1升瓶2本を隠し持ち、私も学校カバン(旧軍隊のヤミで買った払い下げ物)にヤミ醤油を隠しもって小岩ー市川間の千葉街道に架かる江戸川の市川橋を渡った。踏切りと同じゲイトがあり警官の検査と検問に時々遭遇したがいつも巧くパス、両親曰く「子供や子供連れは…検問の対象にしていない…子供連れは捕まらない」といっていたので何時も私が同行していた。よって私も醬油のヤミ屋の一員で、手助けをしていた事になる。醤油は知り合いの注文があって仕入れに行くので在庫はせず、ヤミ市場で捌く事はなかった。当時のクラス仲間のA君が「うちの父ちゃん、時々ヤミ市でロウソク売ってんだ」と言い見に行った事があった。どこで仕入れたのか、A君の母の実家が埼玉在のお寺の娘だったんだと後のクラス同窓会で聞いた。仏壇用の5㎝位のロウソクを5本に束ね3束で10円で売っていた憶えがある。当時は夜間の停電は日常でロウソクは貴重品だった。ある日”卵”を売っているのを私が見つけ急遽母に教えて母が駆けつけてよく見てみるとそれはピンポン玉だった。このエピソードは母が亡くなるまでよく笑いながら喋っていたのを思い出す。卓球用のピンポン玉が卵に見えてしまった悲しい思い出である。
●都内の大きい闇市で有名だったのは新橋、新宿、渋谷、上野あたりでその後の渋谷などを含め戦前の悪質な香具師などが進出、身寄りもなく帰る処のない復員兵(軍隊の帰還兵)や予科練崩れの輩などを組員にして一家をなしたヤクザ組織が多かった。今も渋谷・新宿辺りに「〇〇横丁」と言う狭い路地の飲み屋街があるがその殆どが当時のヤミ市の名残の土地だろうか。上野の「アメ横」のルーツもここにあるが、その後の健全な連帯意識と組織を築き上げ庶民に親しまれて築地の場外市場の賑わいに負けない、築地にはない「なんでもあり」の賑わいがある。
●駅前を走るジープを見付ければ「ギブミーチョコレイト!」と叫びながら友人とジープを追いかけたあの日、昭和21年頃の小学校4・5年生の頃の自分の風景である。いつも一緒にジープを追っかけていた同輩のM君が米兵が投げたチョコレートを食べ乍ら「アメリカはこんな旨い物喰ってりゃ戦争に勝つョ」と言った。正にそのとうりで頷ける、今に思えば正論だった。戦争は酷いもの、戦後もまた酷いものだった。
77歳7ヶ月 29期 土方敏之 2021年3月投稿
老いとは 筋肉が無くなり踏ん張りが効かなくなることか 物事を考えられなくなる事か 視野が狭くなる事か ひとりで生活できる事か 今朝はそんな事を考え、また眠ってしまい、起きるのが1時間遅くなってしまった。確かに筋肉のない状態は腕を曲げてもこぶはできないしお知りのソフトさも触ると感じる。反応も遅いし出来ない時がある。
考えるのもじっくり考えないで答えを出してしまう。口が先に反応してしまう。新聞を読んで何がどうなっているのか突き詰めていこうと思っても、題だけで中に突き進めない。
ひとりで生活する 時間とすることを大雑把に考えると出来るとなる。朝起きて掃除、洗濯、朝食、新聞を読み、今日一日の計画、昼食、3時のコーヒータイム、夕食(飲んで食べるので時間は1時間)、夕刊を読んでテレビを観て寝る。これはこれで良いと思う。しかし、これを続けることは耐えられない。食事の中身が問題だ。朝は夕食の残りか昼はパンか 夕食は身体の事を考えると野菜と魚と肉の料理。出来ない やはり妻に もう少し生きていて貰うしかない。となる。
1 我が街 船橋を歩く―船橋のご紹介(1)― 29期 仲田元昭 2021年2月投稿
街歩きのご案内に入る前に、船橋の魅力、歴史を2回にわたりご紹介致します。
船橋市は、人口64万人を超える千葉県で初の中核市となり東京から約20km、総武快速線にて25分と近く、首都圏の通勤圏として昭和30年代後半より人口が増加した、歴史ある自然溢れる今でも首都近郊で江戸時代より唯一漁業がおこなわれている街です。
住宅街、農業、漁業、商工業とバランスよく融合した、首都圏で若い方が是非住みたい街のトップになったことのある街(民間の調査機関)でもあります。
最近、市内で開発された約1500世帯の「森のシティ」住宅街が(AGC-旧旭硝子-船橋工場跡地)、平成28年世界で
初めて国連が提唱する「エコカルティ」認証制度(環境配慮型住宅地区)を受賞しました。
この住宅街は、電柱を地下に埋蔵し高さ11階建てに統一、景観・省資源・環境に配慮した街で、船橋市の駅北部の工業地帯が素敵な住宅街・商業施設へと変身中の、歴史の詰まった魅力ある街です。
「灯明台 (県指定有形文化財)」 (船橋大神宮境内 明治13年建造 当時最新鋭の官営の私設灯台)
「2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)―」に続く
2021-1-25寄稿
戯言&独言5 「預金封鎖」 21期 髙野 昇 2021年2月投稿
君達は[戦後]を知っていますか(その1)
▼食糧難・買出し・預金封鎖・ヤミ市…日本の最も長かったあの苦難の五年間、常識や良識が全く通じなかった時代。しかし昭和31年の経済白書の序文に「もう戦後ではない」と書かれ、当時の流行語にもなっていた。昭和25年からの朝鮮戦争による特需で戦後の復興政策から一歩前にでた様子を言っていたのか。「あの時代はもう忘れろ」と国民に無理強いしているとしか私には受け取れなかった。
●超インフレ‥‥食糧難と同時に襲ってきたのが天井知らずのインフレだ。戦時中に費やした膨大な軍事費、戦勝国への賠償などで超貧乏国に陥ったので当然のインフレとなる。終戦一年後、当時父がメモ的に書いた家計簿を兄達と子供心にチラッとみた事があったが、(我が家は7人家族)兄の計算では支出が1ヵ月720円とあった。貨幣価値など知らぬ私が判る訳もなく、親にどの程度の余裕や郵便貯金があったのか知る能力も予知もなかったが長兄だけは少し行く末に不安をもっていたようだ。当時兄は三商4年生(16期)で、後に公認会計士になった素地があったんだなと後年思った次第である。PCで当時の物価を調べてみるとリンゴが2個10円、大根1本8円、‥等々、煙草のピースが7円でただし販売は日曜日・休日のみ、ガソリン1Lが1円20銭、国家公務員初任給大卒で540円、ただし首相は3000円、議員1500円とあり国鉄(JR)初乗りが20銭(一円の五分の一)とある。煙草愛煙家はトウモロコシの毛を乾燥し英和辞典のインディアンペーパーのページを破きそれに巻いて手製の巻煙草を作り喫っていた。捨てられた”吸い殻”はそれを拾い集め寄せ集めのヤミ煙草を作りヤミ市などで再販、棒の先に針をくくり”吸い殻”拾いの専門の輩もいた。
●預金の封鎖‥‥終戦半年後、突然各自の個人預金が封鎖された。ほとんど貯金もなく、父はかっての食料品店の縁で醤油統制会社の配給関係の仕事で僅かな給与を貰っていたが、なんせ7人家族、兄2人は三商の中学生(当時は旧制5年制)で零細な僅かの預金での食いつなぎの中での突然の預金封鎖で自由に引き出せない非常事態が発生した。旧紙幣の使用期間は一か月のみ、その為各人は手元の10円以上の紙幣は全て口座に入れ新紙幣で引き出す。その間の生活費は1世帯500円、1人ではなく1世帯500円であったと思う。この寝耳に水の発令で、預金封鎖は政府がその後の「新円切替え」を半年後と決めた為で、しかし新円紙幣印刷が間に合わず止むをえず旧紙幣に切手の様なシールを貼る緊急手段をとった。父はわずかばかりの手持ちの紙幣を握りしめ小岩駅前に有った当時の「国民貯蓄銀行」に駆けつけ長蛇の列と待ち時間の洗礼の中、持ち込み紙幣の100円札枚数と同じ数のシールをうどん粉の糊と唾でベタベタと舐めながら母と二人で旧紙幣に張っていた様子をボンヤリと眺めていた。
●新円切り替え‥‥なにゆえの新円切り替えだったのか。旧紙幣が使えなくなるので全ての現金が強制的に金融機関に預け入れられ、これにより流通紙幣全てを把握、代用のシールを相当分の旧紙幣に貼る、有価証券、保険契約などの紙幣に表せないものは税務署に届ける事が義務付けられるなど、この政策により国民の財産のほとんどを国が把握できる事になる。この短期的な暴虚は酷いもの、はたまた止む負えない政策だったのか、GHQの陰の影響もあったろうが時の首相幣原喜重郎に乞われての当時の渋沢大蔵大臣(渋沢栄一の孫)の苦慮・苦痛はいかばかりか、のちの資料を読むと彼は若い頃より民俗学に才長け,多くの後輩に知的、経済的な援助を惜しまず民俗学の維持、発展などに寄与していたという。そして今彼の祖父渋沢栄一が新紙幣の肖像に登場する時代となった。
●‥‥写真の新10円札の図柄は他の新紙幣の図柄と違い「米国」と読めると皮肉られたが、案外GHQの指示と思われてならない。写真の100円札は旧紙幣で新札の印刷が間に合わず旧紙幣の右上にシールを貼って一時しのぎ。新札は民間の印刷会社に依頼した為紙幣独自の「透かし」が入らずニセ札が出回ったとの噂もあった。
77歳6ヶ月 29期 土方敏之 2021年2月投稿
風が冷たくなりました。お元気ですか。
近頃は午前1時半頃目が覚めて、それからは眠っているのか夢を見ているのかわからないが、昔の事が毎日頭の中に浮かんでくる。築地市場で海老の仲卸業をしていた父の代の時、私が18~20歳の頃に勤めていた人と一緒に仕事をしている在り様とか、もっと前の青空市場のような場所で配達している姿とか、店に戻る歩きとか、4・5年前の働いている様子まで5時に起きるまで続いている。
これらが何を意味するのか解らないけれど、以前には、母親の実家のそばのドブ川を魚がたくさん泳いでいる場面とか、を見たこともあった。
今は、暗くて狭い場所に人がいる時は行かないようにしている。逆に花が咲いてきれいな場所にも行かないようにしている。今朝は覚えていない。
「我が街 船橋を歩く」連載に当たって(1) 29期 仲田元昭 2021年1月投稿
2020-12-28 29期 仲田元昭
29期の仲田元昭と申します。同窓会の総務をご担当の土方さんと同期です。
自己紹介です。小生は、財閥系総合電機企業に定年まで勤務し、その後これまでの経験を活かし、経済産業省のマネジメントメンター制度に登録し、昨年まで多くの中小企業様の経営改善に取り組んでまいりました。
同時に、平成26年度に「ふなばし市民大学校マイスター学科」(先輩講師の講座もあり受講、後で判明、世間は狭いものです。)を修了し、その後、船橋市観光協会の「街歩きスクール」で1年間、計2年間勉強し、平成28年4月に「ふるさと案内マイスター」の認証を頂き、現在船橋の歴史、文化、産業遺産等の魅力を市民や周辺の県民の皆様にご紹介すべく、ボランティアガイドをしております。
そこで、船橋の魅力を同窓会の皆様にもご紹介したく、「我が街 船橋を歩く」の投稿を考えている旨、事務局にご相談しましたら、是非連載で投稿願いたいとのご依頼を頂きました。
船橋には、小生が承知しているだけでも、医師、経営者、上場企業役員、大企業管理者等々で活躍された、先輩・同期生・後輩数十名の同窓生が暮らしていると聞いております。
船橋は、徳川将軍家と拘わりの深い街で、江戸時代初期、今から400年程前の元和元年(1615)11月25日に徳川家康公が、東金方面への鷹狩の帰りに千葉県で最後に宿泊した船橋御殿があった街です。
また、江戸時代中期には、江戸の庶民に広がった成田詣の宿場町としても栄え、幕末には、江戸城無血開城後の戊辰戦争の最初の戦い「市川・船橋戦争」があった街でもあり、多くの歴史の詰まった魅力ある街です。
それでは、次回より何回かのシリーズに分けて船橋の歴史、文化、神社仏閣等のご案内をさせていただきます。
同窓会の皆様にとって、船橋の魅力再発見になれば幸いでございます。
次回は「我が街 船橋を歩くー船橋の歴史(2)―」
戯言&独言4 21期 髙野 昇 2021年1月投稿
▼インフレと食糧難、住居難、失業と全てに困窮の最中の1945年(昭和20年)からの5年間近く、庶民にとっての唯一の娯楽はラジオであった。「リンゴの唄」は終戦の2・3か月後に封切られた松竹映画の挿入歌。空襲の焼け出されにはラジオなど無かった時代、焼け残った小岩のラジオ屋の店頭から流れたこの曲は圧倒的な勢いで全国を風靡した。教科書も進駐軍に没収されていて、音楽の時間には先生のオルガンの伴奏で「リンゴの唄」や、他に「みかんの花咲く丘」なども授業中で歌った記憶がある。「リンゴの唄」の作詞者サトーハチローの詞は勝つぞ!とか皇国ニッポン!などもなく、はっきり言えば内容的にはなにを言わんか未だに疑問だが彼は後にあの「長崎の鐘」や「小さい秋みつけた」などを作詞し純真でユーモアに溢れ、泪脆い人だった。GHQは放送に厳しい規制を引き戦時歌謡は姿を消し、学校帰りに4・5人で「暁に祈る」を唄っていたら道すがらの酒屋の小父さんに「そんな歌、唄ってるとMP(米軍警察)に捕まるぞ」と笑いながら注意された。「リンゴの唄」は戦時中、「♬天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の‥‥♪」なる歌を学童疎開先で唄っていた半年後の明るい歌だった。
▼番組のテーマ曲は全てがクラシック系でGHQの意向そのままに「真相はこうだ!」と言う番組があった。旧日本軍の各地での戦闘を「実はこうだった」風にGHQが制作し放送、アナの語りで旧日本の暴走・暴虐・無謀を暴く番組だった。国民の誰もが真意はともかく納得したものだった。今になって戦争史と比してみると戦勝国のプロパガンダが含まれていたとは言えほぼ当たっていたかも。夜の放送を家族揃って聴いていた兄が「ガダルカナル海戦は負けていたんだ」と言っていた言葉を今になって昨日のように思う。復員だより・尋ね人の時間・配給だよりなど、「尋ね人」の放送で何人の人が、何組の家族が再会できたのか。「配給だより」では毎日が「○○の3班、スケソウタラ」なるニュースが續き、今もタラコを食する度に思い出してしまう。
▼「のど自慢」「産業の夕べ・炭鉱へ送る夕べ・農家へ送る夕べ」・・(♫農家の皆さんこんばんわ‥♪)など復興をめざして各地で働く労働者に送る番組が多々あった。内容はどれもほぼ変わらずタイトルのみが記憶にある。芸人が2・3出ての物であったが「のど自慢」だけはよく聴いていた。一小節で鐘が一つ鳴り不合格、少し長く唄わせ鐘が三つ以上鳴れば合格。楽しい放送であの美空ひばりも出場参加していたとか。「異国の丘」はこの番組から発信され、のちに数多くの参加者がこの番組で歌っていた。「鐘の鳴る丘」と「異国の丘」は唄えぬ人は誰一人として居ず、当時のベストヒットソングだった。漫才コンビの内海突破・並木一路が良くラジオに出ていて内海突破が驚いた時に言っていた「ギョッ!」なる言葉、子供同士の会話の中で下町でははやった事がある。
▼「進駐軍放送」・・米軍兵士向けの放送(WVTR)が始まり軽やかなアメリカンポップスが流れそのころはそれらを全てJAZZといっていた。今までさんざん聴かされた戦時歌謡や股旅ものなどとは違う、沈んでいる心が少し浮かれ、リズムの軽快さなどが子供心にもなにか永い呪縛から解き放された感を憶えさせる放送だった。街の若者達のアマチュアバンドが現れ避難先の小岩の街にも出現し、家屋疎開跡地の空き地の広場での演奏を兄弟で見に行くのが楽しみだった。そのアマバンドのテーマ曲が1930年代の米国のヒット曲「素敵なあなた」 ♬バイ・ミー・ビスト・ドウ・シェン…♪ でこの時憶えたメロディは私にとって最初のJAZZだった。数年後、ラジオ東京の朝番組のテーマ曲がB/グッドマン・コンボが奏でる「シャイン」でこの曲に送り出されるように三商への登校に向かった。懐かしい名曲、軽やかでリズミカル、今でもYOUTUBUで見たり聴いたりしている。銀座の「テネシー」と言うJAZZ喫茶に通っていた三商時代、そして今もってJAZZが好きで好きでいられるのはあの時以来の延長なのである。
▼「話の泉」・・その時々の時事の話題をゲストを交えてのトーク番組。クイズ的な所があっても今の様に正解者を表彰することなく解答者の蘊蓄や雑学的な知識を出し合うもの。司会アナはあの和田信賢で戦前からの名アナ。8月15日の天皇の終戦詔勅、いわゆる玉音放送の時のアナでもあった。日本が戦後初の五輪参加(昭和27年)の際ヘルシンキに中継放送の為に派遣され、その開催中に逝去。昔日、相撲の双葉山の連勝記録が消えたときの実況アナでもあった。彼は戦後直ぐの大相撲の放送をし相撲には戦前からかなりの蘊蓄を持ち著書もある。報道、スポーツに長けたアナだった。話の泉の解答者は徳川無声・サトーハチロー・山本嘉次郎(黒澤明の師匠)・渡邉紳一郎(朝日の記者?)などで、かなり知的な番組で兄二人がよく聴いていた。東京五輪の頃まで続いていたと思うが司会は高橋圭三アナに代わっていた筈である。かなり知的な番組であった。
▼「とんち教室」・・「大喜利」のはしりのような番組だった。司会の青木一雄アナを先生として解答者は全員落第生と称され、でもその解答振りはユーモアと駄洒落・戯言などが色濃く、粋な側面と笑いのセンスを持ち合わせた楽しみな時間だった。落第生、イヤ生徒は石黒敬七(元柔道家、いつもサングラス姿)落語家の柳橋、三味線豊吉(端唄、俗曲などの三味線弾き)など、今のバライティ等には決して見られない,聴けない駄洒落と粋なユーモアに、それこそトンチンカン満載のお笑い番組だった。今のお笑いタレントのバカバカしさと比べて雲泥の差を感じる。
▼[向こう三軒両隣」・・月~土の夕方に毎日放送されていた。人力車引きの坂東亀造さん(巌金四郎)や山田のおばあちゃん(伊藤智子)など、どうってことはない日常の生活ぶりを、戦争の暗い闇から解き放された市井の庶民の生活ぶりを、明るいホームドラマを通じて新旧の考え方が混りつつある世相をそれとなく教え、時には皮肉ったりしてくれた番組。亀造さんの仕事に行く時の「あらよっと!」の元気な声が印象に残る。TVが始まり毎夕「バス通り裏」と言う15分の夕ドラ番組があったが「無こう三軒・・・」の時代から少しずつ進捗していくのが判った。
▼{カムカム、エブリボディ・・」 「證誠寺の狸ばやし」のメロディーに英語をかぶせ、平川唯一なる先生が英会話を指導。世間ではカムカム英語と言っていたがこの放送で英会話をマスターした人は恐らく皆無だったろうが、子供の間ではこの英語の替え歌だけは流行っていた。あの頃の我が家では、確か夕方の5時か6時からの放送だったので、母が夕食の菜っ葉や大根や芋入りの「雑炊」を支度する時間の時計がわりだった。小生カムカム英語の英文替え歌のテーマを今でも最後まで唄えてしまう。かなり長い年月の放送だったようだが中学時代の英語教師のU先生は「平川は英語は”耳から憶えるのが基本”など放送でよく言っているが英語の基本は発音から始まるものだ」と唱えていた。鉛筆をペンシルと皆が言っていたら「それが大間違いだ、正確に発音すれば”ペンソウ”だ」だと言い、生徒としては「どっちでもいい事なんだけど」の判断、そのU先生の綽名は以後・・ペンソウ・・となった。余談だがこの先生は後日レッドパージと言うGHQの社会主義的公務員の公務追放で教職を追われ、最後の別れの挨拶で言った言葉は「英語を学んで世界を見ろ」だった。私が最初に覚えた英語?は小学校4・5年生の頃か「give me chocolate」だったのが何故か侘しい。平川唯一自体英語の指導の経歴はまったく無く、親の仕事の関連で数年ほど米国に居住していただけ、開戦前に帰国しNHKに入り、あの8月15日の玉音放送を自ら翻訳して世界の電波に自らの英語の音声で放送した人物とか。玉音放送の陰の主役であったことを20数年前か「文藝春秋」主催の講演会で故半藤一利氏が語っていたのを紀尾井町の”文藝春秋ホール”で聴いたのを半藤氏の逝去(令和3年1月)を聞き改めて思い出した次第である。藤倉アナの「街頭録音」なんかも思い出す。「三木鶏朗の日曜娯楽版」は世相を皮肉るお笑いコメディだったがGHQの圧力で短命で消えた。この番組に三木のり平が出ていた。
写真説明・・・・かつてのNHK(千代田区内幸町)|
77歳5ヶ月 29期 土方敏之 2021年1月投稿
1月5日 心友、柳田保之が他界した。高校生活はほとんど一緒だった。毎朝彼はあんこを配達して学校へ。私は家から学校へ。そこだけが違っていた。放課後は写真部で暗室に入って写真の現像や引き伸ばしをやっていた。定時制の学生が帰っても暗室にいたことも多々あった。卒業してからは同期会開催の準備を2人でやった。そこで生まれたのが記念誌の「石壮」だ。在学時の校長先生が石田壮吉先生なので「石壮」とつけた。なるべく遠くに居る同期生の原稿を載せようとか気になる同期生を載せようとか、言いながら組んで最初は鉄筆の謄写版刷りで発行。次は同期生の印刷屋さんに頼んだりしたが、同期会の幹事を各クラス代表に任せようということになり、2人も8組なので、8組(三盛会)の代表に任せようと幹事から離れた。それから「石壮」も廃刊となってしまった。結婚してからも家族旅行や飲みに行ったりした。ここ2年位あまり行き来が無くなっていたがまた、皆で集まろうということになり、昨年花見会を開催する事を計画していたが、新型コロナウイルスの影響で、いつやるか、いつやるかと身構えていた。ところに訃報が知らされた。今日1月7日泉沢と駆けつけた。きれいな顔だった。 ありがとう青春時代から後期高齢者時代まで 俺はあと20年生きたいな 俺を呼ばないでそちらで友をさがして楽しんでください さようなら