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投稿バックナンバー2019

燦笑繁話32  🏈準決  ・決勝戦🏈 思うがまま      21期 細田武  2019年12月投稿

🏈準決・決勝戦🏈     思うがまま

予想どおりの展開、2年前の、いや一度も勝てなかったイングランドがニュージランド( OB) に極端に言うとワンサイドで勝利した。過去に日本を率いたエデイはOBの[ハカ] に対しセンターラインを越えて、レフリーに注意されながらの[V ]の字の人文字を作る心理的な敵愾心を煽った。ターノーバーは16対5、グランド占有率6対4、ラインアウトも80%止まり、ノーサイド寸 前にOBの主力の手が頭の後ろに回り既に戦意は失せていた。これでは史上初の3連覇は無理と感じたのは私だけかな⁉。受けて立つチームが歴史と必死さと期待を背負ったら?  

OBのハンセンHCは悔しさに、(一人の力ではどうにもなら無い🙇)と元王者らしからぬ振り返りのコメント😭。

さて、27日は南アとウェールズ。期待はウェールズのFWに期待。

19時33分、ウェールズのキャプテンの選択はゴール前のスクラムの選択だった。ワントライ、ワンゴール差の9ー16、左りサイドをつく見事なトライ🏈。ゴールも決め同点☺。フランスの時と同じ展開に成るのか⁉72分DG失敗するも攻める。併し、75分ノットリリースのオフサイドからの南アにゴールを決められ3点のリード。残り2分、イリーガルボールのオフサイドでノーサイド。19ー16の熱戦に終止符が打たれたが、両チームが見せてくれたマッチに決勝戦に期待する大きな感動を与えてくれました。ところでこの準決勝から各スポーツ新聞の扱いが4、5面になりそれもカラー印刷から黒インクに変わった。新聞も俄かよ😭。11月1日は3位決定戦。地力とゲーム運びに勝るオールブラッックスが黒の誇りを取り戻し、狭いサイドを突きオフロードパスを駆使し前後半通して加点。辛くも3位を確保。

11月2日🏈ラグビー母国のイングランド、迎え撃つRSA(南アフリカ)  南アは過去2回決勝進出、自国開催の1995年初制覇し、2007年、2回ともトライを取ったことも取られたこともない歴代希な、且つ不思議なチームだがキック主体のゲーム運びに勝機を近ずけるだろう。自分の予想はイングランド🏈。前半2分、プロップのシンクラーの退場🆘、セットプレーの要の交代がこれ程まで苦しめられることは予想しなかった。セットプレーの重みが前半4ヶのPGを許し12ー6とリードを許し後半へ、南アの終了間際の防御が目立った。

トライの無いまま、後半26分待望の、トライ🏈、34分キックからの二つ目のトライ🏈予想外の展開と南アの意識の改革、アパルトヘイトとの戦いを🏈ラグビー発祥国のイングランドとの戦略転換が効を奏した形だ。南アの3度目の優勝に賛辞を贈ると共に イングランドが銀メタルの授与を巡りスポーツマン、英国紳士らしからぬ振る舞いが折角の東京開催にケチをつけるようで、各国チームの各地でのボランティアや応援団の熱気溢れる応援に水を差すようなことが、日本中を盛り上げた中での汚点にならなければ‼   今回の盛況が一過性のものでなく清宮さんが提唱する日本🏈ラグビー界のプロ化に取り組み、社会人リーグ、企業スポーツからの脱却が望まれる。このブームが日本の地に深く根付いて欲しいものです。

老朗好日-第四回- 私の中の名画と名優たち(その3)                    「第三の男」とオーソン・ウェルズ       21期 髙野 昇  2019年12月投稿

老朗好日4

第四回
 私の中の名画と
名優たち(その3)

「第三の男」とオーソン・ウェルズ

▼第2次大戦後、連合国軍(米・英・仏・ソ)に共同統治されていたウイーンを舞台にしたサスペンスものでこの映画、主役でも二枚目でもなく悪党役なのになぜか姿、形がいい俳優が出ていた。相手を小馬鹿にした笑みを浮かべながらのニヒルなハリー・ライムという役、オーソン・ウェルズ演じる偽ペニシリンを捌くこの闇のボス。後に米・英両国の超名優であることと論客である事を知った。主演のジョセフ・コットンを完全に喰ってしまい、J・コットンを単なる添え物にしてしまっていた。晩年、貫禄も出て日本のTVコマーシャル(ビール会社)に出たり、そのテーマ音楽がどこかの駅(恵比寿だったか)の発車ミュージックになっていた。彼の映画は「第三の男」意外殆ど見ていないが「白鯨」(G・ペック主演)で牧師の役で観たかな。「市民ケーン」なる映画で主演しオスカー賞をとっている。

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▼この映画の盛り上がり場面の殆どが夜間で、照明を効果的に使った撮影の場面展開など素晴らしい魅力に溢れている。この時代(舞台は1946年頃)ウイーンの夜の街角を照らすあれほどの電力がある訳はないが、そこは映画、風船売りが建物の影に現れその姿は見えずとも照明の影が建物の壁に映り、風船売りの人影がだんだんと大きくなる、その数秒間の時間が観客にスリルと緊張感を与える。ハリー・ライムが初めてこの映画に出現する場面、野良猫が薄明かりに照らされた靴紐にジャレつく、カメラが上に行き、そこに真向かいのアパートに住む老婆が開いた窓の灯りに照らされた顔、O・ウエルズ扮する交通事故で死んだはずのハリー・ライムが現れ、薄笑いを浮かべたこの登場の仕方は正にサスペンス、そしてまた地下水道に姿を消してゆくシーンはカラー映画では絶対表現できないもので、モノクロだけのもの、スクリーン内でのアングルも芸術的で、現在も映画に関わる演出家、カメラ、照明に携わる若い人達に教科書的な存在として引き継がれていると思う。ラスト近く、ライムが地下水道で友人と英国取締官らに追い詰められ、友人の拳銃で倒れる地下水道の中での照明とカメラワーク、拳銃の発射音の響き、地下水道の煉瓦を斜めに射す照明、マンホールの蓋を下から上げようともがく両手の指だけがスクリーンに映る、この地下水道での逃避と追跡の場面は素晴らしく、音響・照明・カメラ・O・ウェルズのおびえた演技が一体となっている凄い画面の連続。凶悪闇人間の最後らしい見事な場面だったと思う。

▼この映画でのバックに流れる曲、全てが地元ウィーンのチターの演奏家のアントン・カラスが作曲、映画ではこの楽器以外は使われていなかった。映画のタイトルにそのチターの数十本の弦が映りテーマ曲の演奏そのままに弦が動き、曲が流れる。当時誰もが知ってしまったこのメロディーは未だに名曲の極致の地位を確保し、ジャズではない、クラシックでもないし、オーストリアの民族音楽が基本にあってのことか。A・カラス自身の作曲で民族楽器のチターの名を世界中に轟かし、A・カラスもその後世界的に著名となった。改めて聴くとチターの音色と共に映画の一場面、白黒映画の素晴らしさが偲ばれる。前記したが駅の発車音楽としてアチコチの駅で使われていて、大阪の梅田駅で聴いたと鉄チャンの友人から聞いたことがある。私は日比谷線「恵比寿」で聴いている。実家近くの「パチンコ屋」もしばらく流していたがパチンコとはそぐわないかのか、元の「軍艦マーチ」にいつしか戻っていた。あのメロディーとパチンコ屋とはアンマッチである。

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▼この映画の見處の一つにラストシーンが有名である。H・ライムの葬式墓地から彼の恋人が去る場面、見向きもせず遠方から撮影のカメラの脇に消えるまでの長い時間のワンカット、画面左隅に彼女を待つ男、ライムの友人で最後彼を射殺してしまったこの男を許せなかったのか、全く無視して去って行く、ただそれだけの1分10秒のワンカットで絵画を思わせる綺麗なシーンで、そしてENDマークとなる。このシーンを真似ての映画は数多い。有名な遊園地の観覧車の中で二人が初めて友人同士として話す場面がある。H・ライムが「イタリア・ボルジア時代の悪政はミケランジェロやダビンチなどルネッサンスを生んだ、スイスの平和と中立は鳩時計だけを生んだ」との台詞はO・ウェルズ自ら考えた台詞で、初見時の私には深い意味合いは理解できなかった。が大戦後の荒廃、国連4ヵ国に統治された虚しさ、荒廃した街、蔓延した闇商人と取引、軍病院から盗んだペニシリンを薄めて売る闇屋の元締めをする自分をミケランジェロごとき存在だと自虐的に言ったのか?後に名台詞である事と知った。そこまで役者に自由に言わせた監督キャロル・リードも凄い。

▼公開翌年の年のアカデミー賞の撮影賞を受賞(白黒部門)、カンヌ映画祭でもグランプリ受賞。製作50年後の1999年、日本の映画雑誌「キネマ旬報」で映画評論家による戦後洋画100選の1位となっている。「鳩時計だけ・・・」の台詞のあの観覧車(プラタール公園)も健在、アントン・カラスがオーナーだったチターの生演奏が聴ける店も健在とか。昨日DVDを改めて見たがストーリーはともかくこの「第三の男」はカメラワーク、照明、BGM、脇役を含む俳優、監督などが全てにおいて、私の観た外国映画の中のNo.1の秀作である。

燦笑繁話31   🏈 桜🌸  ノーサイド🏈     21期 細田武   2019年11月投稿

🏈 桜🌸  ノーサイド🏈

      

10月の投稿は、日本のベストエイト進出でファーフタイム☺、決勝トーナメントの初戦は前回大会で奇跡的な勝利を納めたといわれるRSA( 南アフリカ)10月20日、飛田給の東京スタジアム。

死力を尽くしての王者への挑戦です。予選のスコットランド戦、TV視聴率予想どうりの40%、PVやパブ等の飲み族を含め、日本中がラガー好きの民族になり👊😄📢応援のボルテージはいやが上にも盛り上がったようです。同日4時から開始の大分のフランス対ウエールズ戦。フランスが後半ラフプレーによるレッドカードで一人足りないなかウエールズ、トライを奪えなかったが30分過ぎにスクラムを押し込みノーサイド寸前のトライ、ゴールによりウエールズに1点差の大逆転。興奮冷めやらずの後に7時15分南アフリカ戦のキックオフ。

南アフリカは95年に第3回W杯開催国。アパレトヘイト政策の撤廃後初の黒人大統領マンデラ氏のもと開催された国で、前回の大会で同国に勝利したのも因縁とも思える。TVで見ただけでも体格の差異を感じ🍀先日浅草で見た南アフリカの選手でない応援団の親爺や、派手な格好の高齢女性に異様さも感じる威圧感に圧倒されました。多くの国のゲストも見るがかなりの違いを感じました。試合は前半3分、狭いサイドの田村をかわしトライ🏈、早くも5点(  ゴール成らず)。ここで南ア、ムタワリラがハイタックルで10分間のシンビン( 退場)。

前半20分、スクラムを押し込み反則をとり田村の30M,PG成功。前半は5ー3、南アのリードで終了☺。前半、審判の目を欺く経験の差を思わせる出足の早さをペナルティとしないと感じたのは自分だけか⁉。前半が点差のわりに体力面で使ったジャパンは後半3分、8分PG、22分ムーアのハイタックルの反則で得たPGとたて続きのゴールを決められる。25分銀髪を靡かせたデクラークに中央トライ、ゴール🚩🙌🚩。29分にもターンオーバーから11番マビンビのトライ、80分に及ぶジャパンの抵抗も3ー26(南ア) という結果。

日本中を一縷の望み👍という夢をみさせてくれたone-for-oll,oll-for-one、one  teamに👏拍手を贈りたい。

田村の前半での退場、日本のラインアウトでは半分取られ、スクラムを崩されて反則を誘われ、リーチの孤軍奮闘も、松嶋・福岡ラインが南アの早い潰しに前進を阻まれた。

ジョセフHCじゃないが若い選手が成長し、個々のブロックの自発的なコネクトが取れてきた。この一言世界に向かって胸を張れ🙆

ターフ以外でも各国チームはもてなし以上の親善を尽くしてくれた。

釜石、大分、横浜など各地でふれあいノーサイドの見本を見せてくれた。もうひとつ 、ゲスな話ですがすがあの大きなこの大会のチーム優勝賞金は0円で、ウェップ・エリス( 🏈ラグビー発明🏈👏)の名を冠した黄金の優勝カップだけである。

ジャパンのメンバー含めスタッフの報酬を聞くと優勝賞金は500万円、ベストエイト100万円と聞く。品位、情熱、結束、規律、尊重をモットーとする🏈ラグビーの真髄のようです。ワールドランクが6位から8位になったが日本中をTV浸けにし、ジャージーやペイント用品の売り上げに寄与し、ビール会社の株価の値上がりに影響を与え、各方面にブームを呼んだことは否定しない🙇。ちなみに各会場のビールはスポンサー契約のハイネケンビール🍻(キリン製造) のみでした。ここまでジャパン関係、取り敢えず忘れないように送ります🍀

26、27日の準決はイングランドと南アフリカが勝ち上がり、11月2日の決勝はイングランドが栄冠を取ると思います。

老朗好日-第三回- 私の中の名画と名優たち(その2)   ジェイムス・スチュアートと「グレン・ミラー物語」                    21期 髙野 昇  2019年11月投稿

第三回
 私の中の名画と
名優たち(その2)

老朗好日3

ジェイムス・スチュアートと  「グレン・ミラー物語」

▼私達が若い頃、映画を夢中で観ていた当時の俳優は殆どが戦前からの役者たちだ。J・スチュアートしかり。少年時代から飛行機のパイロットを夢見ており、のち飛行免許を取得、そんな彼が「翼よ!あれが巴里の灯だ」で飛行士リンドバーグを演じたのを生涯最高の役だったと自叙伝に書いている。第2次大戦では現役のパイロットに志願し、B24爆撃機を操縦しドイツ軍と戦い活躍、のち空軍少佐の勳賞をうけている。バンドを率いて戦線の各地を回り指揮を執っていた軍服姿がカッコよく、十数年後のアカデミー賞でのプレゼンターとして登場した時は軍服を着て仲が良かったゲイリー・クーパーに賞を渡していた。大戦後の活躍の中では戦争映画にはオファーが来ても一切出演を拒否したとも書いていた。いかにも彼の思想、人への思いやりなど「アメリカの良心」と言われていたのにも納得できる。演劇スクール時代に気ごころを通じ合った友人にヘンリー・フォンが居た。

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▼「グレン・ミラー物語」は1955年頃の正月にロードショーされた筈で日本でのアメリカンポピュラー曲の全盛期でG・ミラーサウンドはFEN(for east network・在日外人向けの放送)でB・グッドマンとともに良く聞いていたので、より公開が待ち遠しかった。ドラマーのB・ポラック(この映画に自ら出演)に認められ、またひょっとした事で生まれたG・ミラーサウンド、フルバンドの基本であるトランペットとサックスとのミックスをふとしたキッカケでサックスとクラリネットとの穏やかに流れるようなミックスと音色に気付き、あのG・ミラーサウンドが出来上がる。そういえば彼の曲には静かでリスリング的気分を多分に含んでいて「コーヒーをもう一杯」飲みたくなる気持ちを誘う要素がある。禁酒時代のジャズクラブでのルイ・アームストロング、ジーン・クルーパー、そこにG・ミラーが加わってのジャムセッション、当人の音は勿論吹替ではあったが、築地の「東劇」でみた1955年頃の正月、観おわって劇場を出た夕暮の銀座の街並、その楽しさと感動とスクリーン上での雰囲気は、今もDVDで再現し楽しんでいる。劇中、結婚記念日を祝うパーティーで二人がジルバを踊る場面、私が大好きなシーンで今も時折DVDでそのシーンだけを観ることがある。J・アリスンのスカートの回転の鮮やかさ、美しさは「ペンシルバニア6-5000」のリズミカルさとマッチして楽しいシーンだった。

▼共演したジューン・アリスンについて少し。彼女はJ・スチュアートとの共演が多く、私が最初に観たのは「甦る熱球」というメジャーリーグ野球をあつかった映画、怪我をし大リーグ復活に全力をそそいだ夫婦愛のものだが、あまり詳しいストーリーは記憶にない。マーガレット・オブライエンやジャネット・リーと共演の「若草物語」、ジーン・ケリー主演の「三銃士」など鼻の上に小皺を寄せての笑い顔が素敵。少ししゃ枯れていた何とも言えぬセクシーな声。目立った映画は少なかったが「甦る熱球」「グレン・ミラー物語」は印象深い。なんとも言えぬ夫婦愛を演じさせたら、この二人を置いて居ないと思う。私はこのご両人が私生活でも本当のご夫婦と思い込んでいた時期があった 。2006年88歳で逝去。

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▼J・スチュアートはあのヒチコック監督にも気に入られ、「裏窓」「知りすぎていた男」などにも起用され、「裏窓」ではモナコ王妃となったグレース・ケリーと共演、車椅子に乗っているだけの演技で犯人を突き止める役、「知りすぎ・・・」ではドリス・デイが共演して歌った・・・♬ケ・セラセラ・・・が大ヒットした。私の観たお気に入り名画のおよそ5・60本の記憶メモ帖に記載されている中にはJ・スチュアートの映画がおよそ20本、ヘンリ―・フォンダが10本ある。「アメリカの良心」と言われていた二人、自分の、映画に対する愛情がこの二人が教えてくれたものだったとしみじみと思う。異色西部劇の「リバティ―バランスを射った男」なども印象が強く、1997年89歳で逝去。

還付金サギ                26期 岩瀬和子      2019年10月投稿

 8月26日還付金サギにあいました。お恥ずかしいことです。私のような事にならないように、書いています。

 「区役所の○○ですが、青い封筒届きませんでしたか」と聞かれ届いていませんと答えました。「書類の〆切は過ぎていますが、忘れた人や紛失して届いていない人に電話しています」との事でした。振込先はどこですかと聞かれ信金と云いましたところ、銀行にしてくれと云われましたので、「みずほ銀行」と云いました。「みずほ銀行へ連絡しておきます。今後のために二人登録した方がいいですよ」と云われました。私は書類がないので、区役所へ電話して聞こうと思い電話しました。何課もわからず還付金のことで云ったら繋いでくれましたが○○さんと云ったらそういう人はいないと云われました。何課もわからなかったので仕方がないと思い切りました。もし、居ませんがどういうご用件ですか、と聞いてくれていれば未然に防げたのにと後で思いました。すると「みずほ銀行の○○です」と電話がありました。キャッシュカードを持って行ってくれと云われたので、事務所へ行くのですかと聞いたところ「ATMで出来るのですが、どこの支店ですか」と聞かれ、緑町の支店というと「そこのATMで出来るか調べますので少々お待ちください」との事でした。しばらくすると「緑町のATMは古いので、錦糸町の東武レバントホテルの横のみずほのATMへ行き着いたら電話下さい。操作方法を教えます」との事でした。電話すると、押すところの指示がありました。

 主人の確認がとれないので、他行のカードがありませんかと聞かれ、無いと答え、私の他行のカードありませんかと云われ、千葉銀、三井住友、三菱UFJがあると云ったら「そのカードでやってみてくれ」と云われ家に取りに戻りました。往復歩いて疲れたのでタクシーで行きました。ATMに着いたら電話してくれと云われ、指示通りやりましたが「三菱UFJが確認とれないので、電話を切らずにアルカキットの三菱UFJのATMへ行ってくれ」と云われました。そこで指示通り操作しました。すると「三菱UFJに定期か何かありますか」と聞かれ定期が十万円あると云ったら振込金額98,326円と指示されました。私は随分還付されるんだなあと思いながら帰りました。後で考えますと幸いなことにみな残高が何百円しかなく、三菱UFJだけ定期を入れると十万円超えたので使われたのだと思いました。私が居ない時は主人が電話に出たがらないので留守電にしています。フィットネスクラブから帰った時、留守電のランプが点滅していましたが、呼び出し音が鳴っていたので出ました。すると三菱UFJからの電話でした。

 「変な振込みがあるので、記帳して、警察へ行ってください」との事でした。留守電は三菱UFJからの電話でした。すぐ記帳に行きました。ATMのところだけ開いていました。女性の行員さんが、仕事していたので、私還付金サギに遭ったみたいです、と云うと事務室へ入れてくれました。ちょっとお待ちくださいと云われ、銀行でも対処しているらしく、暫くすると女性の行員さんが、書類を持って近くの交番へ一緒に行きました。おまわりさんに事の顛末を話しました。署から二人刑事さんが来られ、おまわりさんからメモをもらい、車で私の家に寄り、家電の着信履歴をみたり、家の周りを写真に撮ったり、錦糸町の三菱UFJのATMで私が指差ししている写真を撮ったり設置してある建物の写真を撮りました。それから署に行き、私の携帯の発信履歴を撮ったり、私の前後の姿の写真を撮りました。おまわりさんから貰ったメモをもう一度聞かれました。そして、お金は返らないと思うと云われ、被害届を出しました。三菱UFJへ記帳に行った時から教えますと、三時間以上かかりました。被害者なのに加害者みたいでした。

 翌日みんなに話したところ「あなたがひっかかるとは思わなかった」と云われましたが、実は電話のサプリメントや海産物のセールスで何度か失敗しています。

老朗好日-第二回- 私の中の名画と名優たち (その1) ヘンリー・フォンダと「荒野の決闘」    21期 髙野 昇                            2019年10月投稿

第二回
 私の中の名画と
名優たち(その1)


老朗好日2

ヘンリー・フォンダと
「荒野の決闘

▼邦題に惹かれて見に行った人には期待外れ。そんな中、お馴染みの牛泥棒と保安官兄弟の因縁のストーリーだが、ラスト以外には西部劇のドンパチも少なく、邦画名「荒野の決闘」は題名負けで、実際は詩情豊かに西部を描いた作品だった。元医師で賭博師のドク・ホリデイとの友情、朴訥で口下手な保安官役のH・フォンダが一目惚れした女性クレメンタインをダンスに誘う場面や、ラストシーンで「~I love you~」が言えず「私はクレメンタインと言う名前が大好きです」と言い町を去る別れのシーンは哀愁と郷愁を込めて描かれ、その風景は一片の詩であった。この映画の邦題「荒野の・・」は観客動員増を狙った配給会社の策略で本来の「愛しのクレメンタイン」とするのが正解だと今も思っている。あの「♬オーマイダーリン・・・クレメンタイン♬」はこの映画のBGM、日本ではダークダックスの「雪山賛歌♬~雪よ岩よ我らが・・・~♬」として有名になってしまった。

▼H・フォンダは役を彼らしくそのままを演じていた感じで、あの有名な実存したワイアット・アープの存在感、拳銃の持ち方、話し方、歩き方全てが画になっていた。この映画はあえて活劇部分を少な目にし、先にも書いたが邦題が示すような”西部活劇”ではなくドラマであった。何千頭の牛を運ぶ途中に寄ったアリゾナ・トムストーンで牛泥棒に遭遇し、盗まれた牛と、銃撃で殺害された兄弟に復讐を誓い保安官として立ち上がる。大筋のストーリーは至極当り前の展開でしかない。しかし内容をさり気なくキャラクターの描写で表し、圧倒的な美しい日常描写で展開させるJ・フォードの演出は「荒野の決闘」の邦題に疑問を感じる内容の見事さとみた。日本の赤穂浪士の話のように、米国では史実として語り継がれているストーリーである。

老朗好日2-2

▼本題の”My darling clementine”  は開拓時代に娘を事故で亡くした人が作った悲哀と哀愁のこもった悲しい曲。それを巧く映画のストーリーに組こんでいた。西部という舞台の中でのドラマであっても人間的な要素を入れ、やたら銃を抜く西部劇とは一線を引き、心に秘めた復讐、元歯科医で理由あっての賭博師に転落したドク・ホリデーとの友情、その婚約者に抱くアープの切ないまでの愛、惹きつけられながらもとても素直に振る舞うことが出來ないアープが思い切りクレメンタインをダンスに誘うシーンは見ている方がもどかしくなり、そして美しい。全てが終わり彼女との別れの場面、「私はクレメンタインと言う名前が大好きです」といって彼女の頬に精一杯のKISS、馬上の人となって町を去って行くこのシーンは彼の愛の深さと誠実さを精一杯心の底から出した愛の告白でもあった。そのシーンがモノクロであったからこそ見る人を惹きつけたと思う。悲哀と哀愁・詩情と西部らしい簡素な風景・人への想い、素晴らしい映画だった。忘れることが出来ないラストでのあの台詞「わたしはクレメンタインと言う名前が大好きです」

▼J・フォードがこの作品を構想し始めた頃、長命であったW・アープ(1929年没)に数回面談し親交があったと後日映画評論家の故荻昌弘氏がTVで語っていた。J・フォードは大戦前に「駅馬車」を撮り世にジョン・ウエインを送り出し、そしてH・フォンダをこの映画で名優として作り上げた。後のH・フォンダは「12人の怒れる男」「ミスターロバーツ」や晩年の「黄昏」でも注目を集め1981年史上最高齢アカデミー受賞者となり翌年77歳で亡くなった。

燦笑繁話30   🏈ブレイブブロッサム日本🌸     21期 細田武   2019年10月投稿

🏈ブレイブ
      ブロッサム日本🌸

2019、10、13日   19号台風の悪禍がTVの画面にいっぱい流されている😵多くの被災者の皆様にお見舞い致します🍀。お陰さまで病状は落ち着き、商売も9月で引退閉店しました。ご厚誼を感謝します🙇

日本中が紅白のジャージーを着た俄🏈ラグビーファン 😷😅失礼  

パブリックビューも日本中がステージになり67,000名の横浜日産スタジアムの観客の90%はジャパン🌸。多分TV視聴率40%  確実か⁉( 未発表 )    

 台風の河川氾濫のニュースは7時30分まで※ 6時間前開催発表等、変則的な運営に多方面からクレームもあったが、4年前の屈辱を、また主催国としてのプライドにかけてゲームは勝ちに行く4年間の待ちに待った瞬間を家内とTVの前で待った❗🏈

ファーフタイムを挟んで100分。被災者の皆様にお詫びをしながら何処ともなく力が入り、ゲームの虜になりました。家内も俄ですが "そこそこ" '🏈あ~あ" 等一人前です。前半開始6分スコットランド・トライ[  5-0  G成功 7-0  ]。17分オフロードパスで松嶋幸太郎トライ🏈田村のゴール成功で同点。25分初出場の稲垣のゴール中央へのトライ🏈。攻められてもオフサイドを誘い、これでもかの二人がかりのタックルでガッツリ防備👏前半終了間際このシリーズ全開の福岡がキックパスをキャッチし、タックルをかわしトライ、ゴール🚩🙌🚩。

前半終了時、21ー 7 のリードで後半へ☺  誰もこれなら楽勝👩か⁉

堅固なスクラム、捕虫網にかかった虫のようにへたる敵のFW,CTBのラファエラのキック、田村の的確なゴール🚩🙌🚩キック。でも後半2分40メートル独走またもや福岡のトライ、ゴール🚩🙌🚩28ー12としたが敵もさるもの9分FWの押し込みでトライ、ゴール🚩🙌🚩14分メンバー入れ替わりの後にクイックスローの後の速攻トライ、ゴール。28ー21となりました❗

後24分🙋持つかねー❗我慢😣併し今のジャパンはその必要は無かった。攻められても二人、三人で絡み、ラックから相手の反則を誘い長いと感じた26分を短く感じさせ8O分を攻め、守り、4年 間の雪辱以上の勝利に向けての練習と[  ワンチーム]というキャッチフレーズ以上のゲームを成し遂げノーサイドを迎えた。ゲーム中一触即発の場面も終わればノーサイド。リーチ・マイケルや国籍変更の外国選手の日本人化?、ジョセフHCに依る作戦面の変化に対応できたベテランと 若手のジョイントが結実したようです。新聞記事みたいですが過去、旧国立競技場で🈵🚻🚻の満員の早慶、早明戦、東大阪の花園の高校選手権、秩父宮の社会人選手権等のゲームを観戦し、🏈ラグビーフットボール後援会も入会している爺さんです。三商同窓会にも好きな人もいると思いますがベストエイト進出が決まった13日、夜を徹してメールしました❗決勝トーナメントは来月投稿致します🍀

乞う、御期待を🙇   

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)   23期 市川忠義      2019年9月投稿

後記

自分を育て上げてくれた“バレーボール”其の技術と精神(哲学)について!

 自分の歴史を省みて以下述べて行きます。

履歴として・・・バレーボールとの出会いは、中学二年生の時に行われた全校球技大会。高校(都立第三高等学校)に進学してバレー部の門を叩きバレー人生が始まりました。この高校の先輩には1964年(昭和38年)第18回東京五輪で主将を務めた出町さんがいました。

高校時代は神奈川県の藤沢高校はインターで日本一に輝く名門!二度ほど合宿でお世話になりました。

相手の選手を見て驚きを感じた。皆上手にボールを扱っているのに感心した覚えがあります。そこで先ず初めに選手のまねから自分とどこが違うのか疑問を解消すべく、彼らの動きを観察(眼を皿にして・・・特に足の運びについて・・・)自分の出来る限りの挑戦で、自分流の開発に心がけ、パスの重要性を知り、日々研鑽の結果現在までに育ててくれ大きな財産となりました。

そして体重移動に気が付き可能となる。次にコントロールに就き体重移動の大切さを更に極め、タイミング・テンポについての究明に取り掛かる。バレーボールと言う競技はリズムとテンポが肝心!それと間!バレーボール競技は、このパスをつなげる事が大切だが、そのパスを心を込めてこのパスで一点取るぞ!の気持ちがなければならない。この事を次の選手に伝える技術がさらに寛容、そして次の選手に伝える力、攻撃につなげる事が大切な競技です。このように攻めてほしい事を予測しての練習が大きな力となって育ててくれている。今では大いに感謝しています。

バレーボールは心をつなぐ競技であることを改めて意識した。これにはバレーボールに対しての有名な言葉があります。この言葉を耳にしたのは1962年の第4回アジア大会(インドネシア)日本代表時代の頃でした。話をしていた先輩は東京大学卒業の大先輩である大槻さん(当時専売公社の副総裁の方)でした。

その言葉は…“彼から彼へそして第3の彼へ!”簡単な言葉に思うが奥の深さには理解するまでに時間がかかりました。理解する事が出来、それから自分の心の支えとして大いに役立ったと思っています。

不思議な縁として…高校、大学、実業団に至り同じ釜の飯を共にした先輩(1964年の東京五輪の主将を務めた)出町先輩とは15歳から指導を受け、今日の自分を育ててくれた大事な人。同じ環境でのJAPAN(一期生)は残り少ない人材となりました。先輩たちが去り、後輩の減少にはさびしい思いです。生き残りとしては出町先輩が長男、次の年になりました。次男坊の位置に来ています。後輩の佐藤君、中村君、南君そして猫田君もこの世を去ってしまいましたが、いつまで存命するか判りませんがバレーに対する情熱は今持って志は今まで以上と思っています。バレーボールに恩返しする事が自分たちの使命ではと考えています。

今後の普及にどれほど役立てるかは判りませんが。出来る限りの恩返しをと思っています。この年になり大病に襲われ大変な時期を過ごしまして皆さんに大変ご心配をかけましたが元気を取り戻す事が出来たことに感謝の気持ちでいっぱいです。

以上私の半生としてまとめてみました。

平成最後の年!今年は元号改正に皆さんのご幸福を祈ってこの事に代えさせて頂きます。
皆さんお元気で…

2019年吉日        
元明治大学コーチ:市川忠義

突然の出来事              26期 岩瀬和子      2019年9月投稿

 4月11日に主人が緊急搬送されました。観たいテレビがない夜は、7時から9時迄ひと眠りします。その夜は8時に起きてきました。苦しくて寝られないと云って、テレビを観ていて、9時にインシュリン注射を打ち牛乳を飲んで10時迄テレビを観ていました。10時になり、床につきましたが、また苦しくて寝られないと云って起きたので、これはただごとではないと思いました。

 墨東病院へ電話しました。何で来ますかと云われたので、タクシーで行きますといいました。娘も孫もいましたので、車で連れて行ってもらおうと頼んだところ、救急車で行かなければダメと云われました。#7119へ電話せず119番へ電話しました。すぐ来てくれました。

 墨東へ電話をしたことを話したので連絡してくれましたが診察券がないのでダメとのこと、同愛は緊急の患者がいるので30分後ならと云われ、三井記念病院へ掛けてくれたところ4万円の部屋なら空いていますとのことでした。

 済生会病院へ糖尿病で通院していたので連絡してくれました。ところが検査してくれたところ、済生会ではダメで同愛病院へ紹介状を書いて下さり同愛へ向かいました。検査の結果そのまま入院になりました。

 カテーテルを挿入し、造影剤を注入し、右冠動脈閉塞、左冠動脈狭窄が見つかりました。病名は鬱血性心不全(急性心筋梗塞)でした。原因としてアルコールは飲まないけど、タバコと糖尿病のせいのようです。ICUに3日間、一段病棟へ15日間入院しました。その為、家の中で歩くことは出来ますが、外は無理なので、車椅子を借りました。退院後はタバコをやめました。

 主人の趣味は麻雀と競馬です。雀荘は階段があるので行けなくなり、競馬は私が買いに行っています。金、土曜日の夕方は予想新聞を買いに行き、土、日曜日は錦糸町へ馬券を買いに行っています。一日中テレビを観たり、ビデオを観ているだけではよくないので、馬券を買うには少し頭を使うのでいいかなと思っています。機械に入れてもダメで係の人に聞きました。このレースは頭数が少ないので次のまちがかもしれないと直しました。他のレースもダメで、結局3回目の時、係の人が下で新聞をもらっていくといいですよと教えてくれました。帰って話したら買った予想新聞が前日のものでした。翌日話したら、すみませんと云って、と新聞代500円を返してくれました。雨が降っていたので2往復をタクシーで行きました。車代どうしてくれるんだと云ってやりたいと思いました。

 その後は必ず新聞の日付を確かめるよう云われています。退院後はタバコをやめました。

 老朗好日-第一回- 「名曲”鈴懸の径“」 21期 髙野 昇       2019年9月投稿


第一回
名曲”鈴懸の径“

♫♫・・・鈴木章治というクラリネットのジャズ奏者をご存知だろうか。在学3年時の昭和28年銀座6丁目に「ジャズ喫茶テネシー」が開店した。コーヒーショップと名のってはいたが実際は小さなステージがあり、昭和27年頃からのジャズ(外来の曲は全てジャズといっていた)ブームでこのテネシーには生のバンド演奏が出来る小さなステージがあって、そこにいけばジャズの生ステージがコーヒーを飲みながら安く見られると噂が拡大、一躍「銀座にテネシーあり」の存在となった。学校帰りに三商の制帽を被ったまま学友と直行したこと十数度。与田輝男とシックスレモンズ、ジョージ川口とビッグフォー、渡辺晋とシックスジョーズなど、ボーカルのナンシー・梅木を見た記憶がある。ほかのバンドと共に週替わりで出演していたその中にクラリネット奏者の鈴木章治がいた。バンドのリーダーだったかは不明だがその演奏には何か心の琴線に触れる音色が在ったのか今思うに不思議であった。その頃ベニー・グッドマンのクラリネットソロの「シャイン」という曲が朝のラジオ番組のテーマ曲とし軽快に流れていて通学前に元気をもらっていたのが原因だったかもしれない。このジャズ喫茶ブームはやがて全国に広がりテネシーはその先駆けでもあった。

老朗好日1-2

♬・・・卒業後も私は彼が演奏するステージをサンケイホール、共立講堂、日比谷公会堂などへ追っかけをしていた。当時のメンバーにはビブラフォンの南部三郎、ピアノ秋満義孝など居て小生好み。そしてあの名曲「鈴懸の径」の名盤が昭和32年LPとして発売された。「鈴懸の径」は古い歌だが何処かモダンで、軍歌一色の戦時中の昭和17年に作られ、あの時代軍部がよくも許可したものと後日思ったものだ。詞は佐伯孝夫、曲は灰田晴彦、歌ったのが弟の勝彦で灰田兄弟が在籍していた立教大学構内の雰囲気そのままに曲が作られ立教大学の校舎、欧州風のキャンパスなどそして蔦の絡まる校舎、紅葉した鈴懸それぞれの色、この曲の歌詞やメロデイはあの厳しかった戦時中につくられたとは思えない。この翌年学徒動員令が発令されていた。優しくて長閑でスマートで同じ時期の曲にあった「新雪」と共に、戦後、兄がよく口ずさんで歌っていたのを私も憶え、その歌詞や灰田勝彦と共に思い出として残る。

♪・・・「リズムエース」というコンボのリーダーとなり、鈴木章治はこの3拍子の曲を4拍子の軽快なステップとリズムにアレンジ、その陰にはベニー・グッドマンのバンドにいたピーナッツ・ハッコー(あの”小さな花”の名演奏で名を挙げた)の存在がある。彼はこの曲を気に入り欧州演奏の際は「プラタナスロード」の曲名でこの曲を欧州でアッピールし「日本人の作った日本の曲」として欧州に響き渡り本場米国にも蔓延した。昭和32年、TBSのスタジオでP・ハッコーと共演、そして名盤として今もジャズファンの心に5分40秒のLP版として聴き継がれている。ビブラフォンとの跳ねるようなイントロから始まり、ピーナッツ・ハッコ―とのダブルの掛け合い演奏、松崎竜生のビブラフォン、弟敏夫のピアノなどP・ハッコーとの共演で完全なコンボスタイルの名盤となっている。33回転のLPレコードは今も私の宝として手元にある。

老朗好日1

🎼・・・昭和30年代後半、ビブラフォンをメインにした曲を平岡精二が作曲した「学生時代」というペギー・葉山の歌があった。かなりヒットしたがこれは平岡とペギーが卒業した青山学院を想いこんで作り歌われた曲で「鈴懸の径」の続編で立教大を謳ったものと誤解され、ペギーや平岡がTVで否定し、我が青山大がモデルであることを何度かアッピールしていたことを憶えている。立教大の池袋校舎の4号館前に「鈴懸の径」の記念碑がある。若い学生たちは見向きもせずにその存在や由来などには殆どが無関心。校歌以外の学園ソングでもあり、たまたま今春、孫が立大に入学したのを機にレコードを聞かせ、その時代の背景、鈴木章治への思いなど話してみようかと思っている。もし「日本ジャズの殿堂」としての記念館が有るのならば鈴木章治と共に築きあげた多くのメンバーと名曲「リズムエースの鈴懸の径」がバックに流れるホールで、若いプレーヤーやファンに是非耳にしてもらいたい名曲中の名曲、そして名演奏であることを知ってもらいたい。

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)   23期 市川忠義      2019年8月投稿

その後のバレーボールは?

 引退後は社業に専念していたが、母校が2部から3部に降格し、影のコーチとして1部復活に携わり何とか1部に戻る事が出来た。

 1956年の事…春リーグで3部に落ち、その年の秋リーグで2部へ昇格、翌年春2部で入れ替え戦の結果、現在の筑波大学を破り1部に復帰。この年のインカレでは3位となる。更にこの頃は大変忙しかった。日本リーグを目指していた日本電気(NEC)の影のコーチもしていた。監督の角田さんは出町さんと同期の先輩、自分は6人制の経験がないので頼まれての仕事だったが5年経過したときにはリーグに上がりVリーグを取るまでに育ってくれた。

 その後は“じじばばバレーで!”61歳までと50代に開催されていた国体のシニア部門で常に東京代表としてバレーを楽しんでいた。そして母校が再び3部に降格した時先輩からの依頼で明治の同期生だった海野(東レ)と共にスタッフの一員として海野監督のもとでコーチを務め現在の基盤を築いた。

 学校の選考基準が昔と変わり推薦制度が広がった事が大きく力となって今日の成績が出来上がり現在に繋がっている事は確かだ!

 来年は元号も新たに制定される年!古豪明治の復活も夢ではなくなって来た事は事実だ!“新しき歴史に向け進め!明治”の横断幕を是非とも実現してほしいと思っている。


 追加として今までの勝敗に関する思い出について記す!

 勝ち試合は多かったが、記憶に残るような戦いはほとんど憶えていない。おそらく勝率は学業と異なり最優秀と記憶している勝率としては9割を軽く超えているだろう。(バレーに関してはノーベル賞もの?)勝利記憶での戦いは卒業した年の天皇杯、ここで母校と戦い、何とか優勝した!フルセットの僅差での勝利が一番の思い出か?この他は負け試合!1958年の天皇杯では関西学院との準々決勝戦で自分が試合中に痙攣を起こしての敗退、先に記した4年生の時の天皇杯、そして1962年の天皇杯で東レと決勝が行われフルセットの接戦だったが、惜敗した原因は自分の単純ミスだった事(外へサーブを打った)アウトオブポジションのはずが認められなかった事がミスになる。相手のポジションが一つ違っていたにもかかわらず認めてもらえなかった事は残念!

 以上が自分の体験談として記憶に残っている。自分の足跡を見つめる機会が出来てバレーボールに感謝する事と思っている。今までの体験をもとに我々の仕事は次世代への語り部としての仕事ではなかろうか?と常に感じている。世の語り部として今後行脚を続けられるよう健康管理と共に働く事がこの上ない幸せと思っている。人はなぜそこまでのめり込んでいるのかとの意見を耳にするが、自分としての回答はいつもバレーが好きだと言い、一生バレー馬鹿に徹する事が出来ればこの上ない日本一の果報者として人生を送る事が最高の人生であろうと思っている。命ある事で今が有り、本当にありがたい事です。感謝!感謝!の気持ちを忘れず平常の生活を楽しみながらの今日この頃…2018年平成最後の年末に際してのコメントを記してみた。

2018-12-吉日
市川 忠義

*バレーボールの心を求めて、バレー哲学に魅せられての人生は悔いなきことと感じている今日この頃…

以上バレーボール中心に考えた自分史とも言えるコメントです。バレーボールの心!…“彼から彼へそして第3の彼へ!”この言葉の意味は奥が深い!

燦商閑話-第33回- 「”忘れられないあの日”」 21期 髙野 昇       2019年8月投稿

       ・・・この暑さ 記憶の底の 十五日・・・

暑い日差しの中、伯母の家の地續きにある利根川に仕掛けておいたウナギのビグに掛かっているウナギを収穫に行った。いつも2匹くらいは当たり前に取れ、この日もいつもどおりだった。昼にはまだ程遠い此の時間、空襲警報のサイレンもないまま幅広い利根川河口にほど近いこの椎柴村の川面10メーター程の水面すれすれに米艦載機のグラマンが佐原方面に向かって大爆音とともに通過していった。一瞬、身の丈ほどの葦に身を寄せたが何時もの飛来してくるグラマンとは様子がおかしいと直感した。いつもなら機銃掃射をしながら川面を飛びその高さもかなりの高さなのに、今日は違う。驚いたことにその内の2機が前翼を左右に大きく振りながら通過していった。操縦する米兵をこの目でしかとはっきりみたのは、一瞬ではあったがこの日が初めてであった。昭和20年8月15日のことである。その数時間後の正午、天皇の重大な放送があると小学生だった子供達は校庭に参集、あの天皇の声を直立不動で聴いてはいたものの何のことやらさっぱり判らず、ただ”耐えがたきを耐え、忍び難きをしのび・・”なる言葉だけが頭に残り、一億総決起の覚悟の激文とおもっていた。そしてその後すぐに「敗戦」を知った。・・・・その5日前、米軍の撒いた終戦を促がす”宣伝ビラ”を私が拾ったと誰かに密告され、校庭の朝礼があった8月12日全生徒の前で、代用教員の銚子中学5年生だった代用教員の輩に猛烈な往復ビンタ5・6発の制裁をうけた。敗戦3日前の悪夢のような鉄拳制裁、8月15日を境にしてのあの日はなんだったのか、70数年過ぎた今でもあの3日間の出来事に疑問が強く思われる。その晩になって「これで東京に居る親・兄妹のところにすぐに帰れる」と思ったものの実際に帰京したのはその歳の冬近く、東京の食糧事情の悪さのせいでもあった。その中学生の代用教員は後に大学をでて中学の教員になっていた。どの面下げて教壇に立っていたのか思いは募る。終戦記念の行事はともかく、私にとってこの日になっていつも思うのは武道館での式典ではなく、9歳4か月の時に体験した地獄の様な3日間と、8月15日に喜びを素直にみせながら洋上を飛び交ったグラマン戦闘機のパイロット、あの日のどこまでも蒼かった空の色は、良くも悪くも鮮烈で強烈な”青”として今も脳裏から離れない。そして時間と共に忘れ去られていくのだろうか。

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)  23期 市川忠義        2019年7月投稿

 明治大学を卒業後日本鋼管に入社、これからが大きな時代に…

 五輪に参戦、世界選手権の戦いなど世界に繋がるチームを結成して五輪を迎える事になる。実業団での成績については後で詳しく記す。これまでに至るもろもろについては…次のようなことである。

 先ず入社以前に鋼管の選手として海外遠征が行われ、新人として翌年から一人前の社会人となる自分たちを共に香港、台湾遠征に同行出来た事は大変ラッキーだった。

 社会人一年目の戦績は…初戦が例年行われている都市対抗戦、会場は常に大阪府立体育館と決まっていた。初戦は簡単に結果を出してきたが決勝戦は実業団チームで一番の八幡製鉄(現在の堺ブレーブス)2対1での惜敗だったが、この年は他の大会すべてに優勝を独占する事が出来た。日本一の戦いは今年から続き昭和の黄金時代を作り上げた。

 五輪種目として初めて選抜チームが結成され、女子はニチボウ貝塚単独チーム、男子はナショナルチームとして誕生その一期生となる。この中から第18回東京大会に選ばれる事を信じて世界と戦ってきたが、残念な事に五輪参加は夢に終わってしまった事は残念でならない。レバタラは言いたくないが、もし今のルールであればメンバーは14人、リベロとして活躍の場があった。ならば夢の優勝あってはいないに手が届いたかもしれない。今までにソ連に勝利したのは当時のメンバーのみ、ミュンヘンでは戦っていない。大型化を目的に選ばれていたころの事で仕方がないこととは思うが国の方針には逆らえない。

 当時のメンバーで現存している中では自分が年齢的には次男坊的存在!仲間の殆どの先輩たちは存在なく、五輪主将の出町さんに続いての歳となる。同期の仲間も少なくなり後輩達の減少には悲しい思い出で一杯な気持ちだ。

国体は5年連続出場し優勝3回、2位が2回と確立は一番だ!実業団選手権大会は現役中に3度の優勝、都市対抗は2回、天皇杯が2回ある。その他としてNHK杯の優勝、国内に関しては以上だが、国際試合での成績は、第4回アジア大会で6・9人制に参加して共に金メダルを獲得できた。当時最高峰であるソ連を招いて1963年にプレ五輪東京大会が開催、プレ五輪3対1での勝利を収めた。

1961年2ヶ月間に亘るヨーロッパ遠征は22戦全敗と不名誉な成績で帰国。そしてプレ五輪を経て1964年の本番を向かえ、結果3位の銅メダルを確保。東京に続いてメキシコ五輪の2位と上に向かっての進撃は続き、1972年のミュンヘンでは夢にまで見た優勝に手が届いた。これで3大会連続のメダル。3段跳びのホップ・ステップ・ジャンプができた事になる。その後においての五輪は惨憺たる結果だ!その後の現況はメダルには届かないありさま、参加も出来ない事はさみしい限り!東京五輪の後に日本の技術も認められたが、ルール改正が毎回のように行われた事で日本を弱くした一因だと思う。外国人向けの力のバレーに変貌してきた。やがて2回目の東京五輪2020年を迎える事になるが、果たして前回収めた結果が得られるとは考えられない。

 1967年日本リーグが発足!当時は6チームでの戦い…参加チームは八幡製鉄、松下電器、日本鋼管、専売広島、富士フィルム、住友金属…2部としての実業団リーグが結成された。一回目の成績順位は八幡製鉄が優勝し幕を閉じた!翌年からは日本鋼管新時代の幕開け第2期黄金時代となる。五輪以外の全てのメダルを手にして引退できた事は運の強さに加え、良き時代に生まれ結果このような環境になったと思う。バレーボールに大きく感謝している。

防災訓練に参加した           26期 岩瀬和子      2019年7月投稿

 6月7日に母校の宿泊防災訓練に参加しました。実は私70歳の停年まで本所消防署の女性消防団員でした。そして救命救急指導員の資格を持っていましたので、消防署で行われる初級の講習会では消防署の方のお手伝いをしたりしていました。防災訓練と聞くと参加したくなり、これまで6年参加しています。

 消防署の方々と、町会のボランティアの方々が指導して下さっていました。班ごとに分かれ、順番に救助方法をいろいろ体験します。楽しそうに訓練していました。その後災害時における食事の体験としてアルファ米の食事をします。そして宿泊、生徒さん達は教室で寝るそうです。

現在はAEDが普及し、救命に役立っています。AEDのふたをあけたらすぐ電源を入れます。倒れた人の胸を開け、汗をかいていたら拭き、ネックレスをしていたら横にずらし、パットは電極が向かい合うように貼ります。見ていて、いい加減だったように思いました。

一人でも多くの人が訓練に参加することによって、しいては自分の命も助かることになります。

燦商閑話-第32回- 「亀戸の下町の風」 21期 髙野 昇       2019年7月投稿

▼生まれも育ちも下町亀戸。戦前から同じ場所で育ち、戦前は2軒長屋、2階建て住まいの借家、その長屋から学童疎開にも行き、物価統制と配給制度のあおりで父の商売も頓挫。実家は大正末期からこの地で食料品店を始め、そして戦災の災禍にも屈せず復興させ、後を継ぐ兄(18期生)も食堂に商売替えをしながらも80歳近くで力尽きリタイア―。10数年前までは、商店が100軒以上在った歴史ある商店街で、商いをする親爺さんやおかみさんの顔をみるのが当たり前だったのに、今実家の近辺にあるのはそのころからの肉屋さんのみ。八百屋、パン屋、酒屋、魚やなど全てが姿を消し、戦前に在ったおでん屋、花屋、時計屋、めし屋・・・それらは大空襲で消滅、肖像画屋なんて言うのもあったっけ。兄が手放した実家の跡には4階だかの小さなビルとなり、どうみても流行りそうもないスナック。建築4.5年目でテナントの入れ替えも激しく既に3軒め。家主は居ても貸店舗のオーナーとなり小さな商売人の跡継ぎも居ず止むお得ない判断。シャッター通りにならないのがせめてもの救いかもしれない。

▼三商生の頃、詰襟に厚刺の前掛けをしめ大晦日の店の手伝い。どこの店も除夜の鐘が鳴り終わっても商いをし、ほかの店より早く店を閉めるのは恥ずかしいみたいな雰囲気があった。自分ちの商いを優先し、自分ちの正月の支度は大晦日の商いの後にやるのが当たり前、寒い夜半には母親が”タイ焼き”を奮発したり、風の吹き回しか、チャルメラの音に誘われて父から「中華そばでも食ってこい」と渡された35円の屋台のラーメンの味。きっと思ったより店の売り上げが良かったんだろうの勝手な判断をする。元日は香取神社と亀戸天神への初参り、2日は浅草六区街への映画見物、7日は皇居前に行き出初式見物、いつも決まったパターンの正月だった。

▼小学校(大戦中は国民学校と称した)は第一亀戸国民学校、同級のクラス仲間にあの”佐野の味噌や”の長男がいた。学童疎開に行く少し前だったか、彼の家に遊びに行った時、彼のお父さんから大豆の入った混ぜご飯のお結びをご馳走になったことがあった。当時はすでに物価統制と全てが配給制度に縛られており、白米の大豆入りのこんな旨いおむすびが食べられるなんて、さすが味噌やだけのことはあると思ったものだ。戦後の同窓会の集まりでその話をしたらあまり憶えていない様子だったが、小生の三商18期生の兄(故人)とは小学校の同窓会の役員として親しくしてもらっていたようだ。”佐野の味噌や”と共に亀戸名物といえば”船橋屋”。何とも言えぬ暖簾と佇まい、店先の藤棚、葛餅の黒蜜と黄な粉の何とも言えぬ具合のよさ、この5月天神様参りの際には店頭には長蛇の待ち客、その繫盛ぶりは葛餅の味とともに庶民は忘れていない。駅ビルなどでも販売されてはいても、本店店頭で買う気分はまたべつものの感あり。そうだ、”亀戸餃子”。今や語らなくてはならぬ存在。小生の実家のすぐ近くで同じ町会の同じ班、愛想のよかった亡くなった親爺さん、黙って座れば餃子2皿がデンときて、飲み物はビールだけ、70年もの味と、仕来たりも変えない店構え、戦後の亀戸の歴史ともいえる。ちなみにここの娘さんは私の珠算塾の生徒でした。学童疎開先だった山形県上山市には疎開でお世話になった感謝の記念として疎開30年を機に亀戸天神様の「藤」を植樹、今も立派な石誌とともに眺めの良い公園の一角で初夏を彩っている。

▼長い年月がとうり過ぎてもついつい横丁に曲がってみたくなる生まれた街、川があり山があるそんなふるさととは程遠く、戦前、戦後を挟んで生きた街、どぶ板をまたぎ、転んだりし、三輪車ごとドブにはまりこんだりした街、それが私の故郷である。

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)  23期 市川忠義        2019年6月投稿

 大学時代には日本のバレーの主体は9人制バレーボールだった。東京五輪に大学時代に新種目として登場したバレーボール、国技の柔道とともに登場する事に決まったのは1961年(昭和36年)である。

 学生時代の戦績は、リーグ戦7連覇、連勝記録を塗り替えた。全国大会としての記録は1年の時のインカレ決勝戦で関西学院に敗れた、その他関東綜合選手権大会や天皇杯に参加したが主だった記録は定かではない。1年生の時はほとんど球拾いの日々に追われていたが、2年生で補欠として全国大会に参加する事が出来た。3年生でレギュラー(中衛センターに抜擢され)として認められた。ここからが全盛期の戦いが始まる。

 リーグ戦はもちろん連覇街道まっしぐら…このような時代の中心で良い働きが出来た事は健康であったからだと思っている。インカレは残念な事に決勝戦ではまたまた宿敵関西学院に敗れてしまった。敗因については後で詳しく伝える。

 全国に繋がる大会での関東綜合、天皇杯の成績はベスト4以上の成績はおさめ、4年生では天皇杯準決勝戦で相手は当時の日本第1位の力のある住友金属、守護神の西田さんやアジア大会エースの松永さんなどの力あるメンバーと戦い惜敗した事が何時までも心に残っている。明治のエースとして活躍していた大砲役の当間君、速攻の名手だった川崎君の二人が今で言う熱中症により力は半減しての戦いが実に残念でならない。

 その結果が秋のリーグ戦につながり8連覇の夢が途切れた。これが原因で成績は7勝

3敗同率での2位となってしまった。以上が学生時代の戦績。この結果が認められて昭和の明治時代が築かれた事は事実!

次回へ続く・・・

燦商閑話-第31回- 「23期市川忠義君のこと」 21期 髙野 昇       2019年6月投稿

▼去る平成31年3月10日前後に、朝日新聞朝刊のスポーツ欄に”五輪をめぐる”というシリーズ記事が連載されていました。そのシリーズ記事はかっての「東洋の魔女」、あの女子バレーボールチームと大松監督との色々なエピソードや監督と選手との回転レシーブにまつわる選手との葛藤、軋轢、選手同士の行き違い、そして結束などが書かれ厚味のある10回シリーズで興味深く読んでいました。先輩後輩諸兄妹にも読んだ記憶の方もあると思われます。その中の記事に女子選手と親交があった「市川忠義氏云々・・・」と記された一文、たった4文字の市川忠義と記された名に思わずハットしました。もしかしたら三商バレー部にいたあの市川忠義君なのかなと直感、早速同窓会が平成8年に発行した同窓会名簿を紐解くとやっぱり2期下の市川君と同姓同名であることを確信しました。早速彼に手紙をしたためました。在学中に彼と接触したことなど一度も無く、ただバレー部の対外試合が土、日であればせっせと試合先に応援に行っていただけのこと。でも彼から即返事がきて確認できました。

▼在校2年生の時のクラス替えで担任が体育担当の吉岡鶴義先生となり三商12期生の先輩でもありました。新クラスにはやたらバレー部員が多く、そういえば吉岡先生はバレー部の顧問でコーチ、そうか、部の練習や活動には都合が良くなるとのクラス替えだったんだなと身勝手な判断をしていました。当時抜群に強くなっていたバレー部への清田教頭先生と宇梶先生の強い思いやりだと生徒間の一部でそんな噂もしていたものです。そんな穿った思いの中で、バレー部は出町豊先輩(20期)を中心とした堅固たるチーム作りで勝ち進み、山形県での第7回国民体育大会の東京代表となりました。クラスから岡田、都丸、松丸、森川、鹿野の各君が山形へ選手として参加、その時まだ市川君は入学しておらず、両国中学校の3年生だったと思います。

▼翌年はクラスメイトの岡田房義君がリーダーとして部長となり前年度程の活躍は無かったものの市川君が入学、彼は小さい身体ながら動きが良くセッターとしていずれ本校の中心的選手として期待できそうだとの思いで練習活動を見ていました。彼が三商3年の時は都内の大型強豪校の立教を破りインターハイにも出ており、卒業後は先輩出町氏を追うように明大~日本鋼管とバレーボールひと筋に邁進、明大での数度の優勝、鋼管入社後も活躍、東京五輪(1964年)では6人制バレーが種目競技に採択されていて、欧米では6人制、国内は9人制と混沌とした中で彼はプレ五輪メンバーに選ばれ、五輪への強化選手としてメンバー入り。出町氏を含め、もしかして三商生から2人の五輪選手が出る可能性に期待していましたが残念な結果となりました。しかしその後、鋼管の主力として、JAPANの中心選手としてアジア大会で金メタルを取っています。

▼市川君にはそんな数ある経緯やエピソード等があり、それを是非このホームページに記載したらとの私の提案を快く受けてくれ過日事務局へ同行訪問しました。そして先月、市川君の寄稿がホームページに載っていました。今後このホームページに彼の寄稿が度々記載されるはず、諸兄同窓生に是非読んで頂きたくお願いいたします。

写真…事務局訪問時(中央が市川君)

<連載> 吾が半生!(バレーボール人生)  23期 市川忠義        2019年5月投稿

<前文>
 人からよく言われます。元気ですね!バレーボールを続けられているのはなぜ?と…答えは簡単、バレーボールが好きだからですよ!

 14歳で出会ったバレーボール、既に60年もの歳月を経過している。明治大学で培ったバレーボール、この技術は勿論“バレーの心”を出来る限り多くの人達に伝えたいと思っている。この大きな財産を独り占めには出来ないとの気持ちから少しでも後輩たちに伝える意味から…そのためのボランティアと言うか宣教師のような気持ちでいまだにバレーから離れられない。数多く先輩たちから色々と教えていただいたことの一部でも、伝へる事が自分としての仕事ではなかろうか?と考えている。

 6人制バレーが本格的に日本に導入されたのは、1964年の東京五輪に正式種目として参入してから、それ以前にもごく一部で6人制も行われてはいたが…五輪参入後に全日本チームが結成された1961年、初めての海外遠征が行われた。男子チームは選抜、女子は当時強かったニチボウ貝塚単独チームだった。そして迎えた東京五輪、皆さんの記憶に残っていることでしょう。女子は金メダルに、一方男子は銅メダルでした。それからメキシコ大会では男子、女子共に銀メダル、更にミュンヘン大会で男子は金、女子が銀を取ることが出来た。その仲間たちも年を重ね同期の連中や、後輩たちも病魔に犯され、今では自分は上から二番目の年になったが皆の分まで働けたらと、年を忘れてボールを追っている。(因みに一番年上の方は、東京五輪男子チーム主将を務めた出町先輩・明治大学→日本銅管)

 モットモット後輩たちには上手くなってほしい。自分としては夢の途中だが、早く“このパスで1点を取る”ことの出来る選手の出現を願っている。


<我がバレーボール半生を省みて!>
 (出会い・現役時代・引退そして現代に至る…1951年から2018年)
我が人生を振り返っての物語の始まり…思い出をもとに記してみた。

バレーボールとの初対面は、中学2年(1951年=昭和26年)の校内球技大会だった。(当時は柔道部に所属)…ガキ大将の多かったクラスだった。そして高校に入り本格的なバレーと取り組んだ!高校は都内でも名門だった都立第三商業高校。先輩(出町さん)たちはインターハイ、国体に参加して卒業、1年の時は大した成績を修める事が出来なかったが、2年生でレギュラーとなり全ての大会では決勝戦まで進む事が出来たが全国大会までの力はなく過ごした。

 3年生の時には当時大型のチームとして全区大会の経験がある立教大学附属高校に勝利してインターハイに出場、2回戦で地元神戸高校に敗れた、この時の決勝戦は兵庫県同士の戦いで琴ヶ丘高校が優勝。このチームに所属していた深川君、奥君たちとの出会いが今日までバレーボールと向かい合って過ごしてこられた大きな原因・財産となっているものと思っている。

 卒業後明治大学に入学したのは1956年(昭和56年)の事。

次回へ続く・・・

燦笑繁話29  (令和が来た―)   騒々しい日本人     21期 細田武   2019年5月投稿

今回の年号改定に乗りやすい人が多い日本の姿をまともに見ました。平成の時代の上皇・上皇后の多方面に亘る功績は大きい事は否定しない🙇  譲位か退位はどちらでも好い。新しい天皇にも大いに国民と接してほしいのは望むところです。

安倍総理の薄っぺらな祝辞はこれから先が思いやられるし、もう既に現実になりつつある😭

平成の30年間、日本の企業で世界に通用する業界はありますか⁉

電気関係とくにスマホ・パソコン・カメラみんな中国韓国に持っていかれた。せめて自動車程度が残るがITや自動運転でも中国ドイツに負けそうだ。少子化の影響で外人の労働力をあてにしなければならない。不法な人種の入国は外国の例を見ても分かりすぎ、カジノで外貨を😱破産者の出現は必定です。街の小さななになに屋さん・本屋・米屋・魚屋;・八百屋・酒屋・洗濯屋・呉服屋・洋品屋等みんな無くなっちゃたね。只、風俗だけは不滅です😁

大きな災害が数多くあったこの(平成)でも、賢明な大部分の日本人は浮かれる事無く難関を乗り越えて来たと思います🙋併し、この平成31年の4月30日と令和元年の5月1日はマスコミも政府も何か変でした。気持ちや生活がおおきく変わるのが実感できない皆のハシャギ方に少なからず疑問を感じた変わり者。こんな歳寄りが一人いても良いかな。

燦商閑話-第30回- 「プロ野球雑言」 21期 髙野 昇           2019年5月投稿

▼83歳になった今でもプロ野球ファンである。初めて後楽園球場で野球を観たのは巨人VS阪神戦で小学生5年生の頃だったか。阪神の黒に縦縞のストライプの入ったユニフォームと背番号10の藤村を思い出す。藤村はなんとかファンを楽しませようとするこころ配りがあった。試合前のトスバッティングの時のおどけた風景が懐かしい。まだ1リーグ制で球場も後楽園と西宮だけ、一日2試合が行われるので4チームを見ることができた。国内の大きな施設などは米軍に接収されていたがアメリカ伝来の野球の普及にはマッカーサーも積極的でこの2つの球場の接収はしなかったようだ。巨人、阪神、中部日本、東急セネタース、太陽(大映)パシフィック、金星スターズ、阪急、グレートリングなど懐かしいチーム名、選手は戦前の人ばかりだったがそのプレーはさすが玄人と子供ながら感銘し陶酔していた。

▼懐かしい選手、藤村を始め川上、千葉、鶴岡(山本)、真田、常見、スタルヒン、大下、フライを臍の前で取る山田傳・通称ヘソ傳、監督には藤本定義、三原修、坪内道則など、戦前の活躍など全然知らなかったけれど、この時からしっかりと頭に刻み込んだ。水原茂がシベリアの抑留から復員し舞鶴から後楽園に直行、満員の後楽園球場で「水原茂、ただいま帰りました」と挨拶したあの昭和24年夏、たまたま私は球場にいっていた。その日は偶然か巨人とパシフィックの試合、太陽(大映)の監督は藤本定義(巨人創設期の初代監督?)投手はあのスタルヒン、巨人の監督は三原修、メンバーには千葉や川上、いずれも水原と同じかつての戦前の「東京巨人軍」のメンバーだった。

▼プロ野球の圧倒的な人気と集客力は各チームの黒字化を起こし、参画したい企業も多く、それを仕切っていたのが読売の正力松太郎か、ライバルの毎日新聞が名乗りを挙げてきたのに猛反対、これが2リーグ分裂への元となったとは当時のカストリ紙の”内外タイムス”で知った。昭和24年夏にあった”下山事件”で毎日は自殺説、読売と朝日が他殺説、両社の紙上での真っ向対立は世間を分断し、2リーグ分裂の素因も其処に有ったとの風評を聞いた憶えがある。毎日はその腹いせか、阪神のレギュラーの大半を引っこ抜く、若林、別当、土井垣、本堂、呉など、そして昭和25年の分裂後初の日本シリーズで小西得郎率いる松竹ロビンスを4勝2敗で看破し初の覇者となっている。それでも巨人、阪神の人気チームを持つセ・リーグに対しパ・リーグの人気は盛り上がらず、オールスターゲームに勝つことがせめてもの憂さ晴らしだった。パの高橋ユニオンズなどは観客数300人の時があったと、かつてユニオンズのレギュラーだった佐々木信也が「プロ野球ニュース」で語っていた。

▼小5年から70年、パフォーマンス豊で個性丸出しにした選手が活躍していた昭和30年代時から、今は”管理野球とデータ優先”の、どちらかといえば合理的、理論野球が当たり前となり、個性や性格を全面に表す選手はベンチウォーマーとなっているのが現実。良いか、悪いかは別として、あの広いグランドでたった18人の勝負事、もっと個性溢れる選手がいてもおかしくない。白黒のTV時代の阪神VS巨人戦で阪神の藤村が逆転のホーマーを打ち、もろ手を挙げてホームを踏む、その瞬間撃たれた巨人の捕手”藤尾”に手を出し握手、藤尾も思わず手を出してしまったあの場面、藤村の瞬間的パフォーマンスには今でも拍手喝采もので、あんな場面は後にも先にもない。翌日の新聞では藤尾がケチョンケチョンに書かれていて、気の毒と思ったのは私だけだったか。私事ながら子供の頃からのドラゴンズファンで昭和29年のシリーズ優勝時、天知監督と杉下投手との師弟愛、西沢選手の華麗な守備と打撃フォームは忘れられない。

 添付写真説明・・・藤村と物干し竿と言われた長いバット

燦笑繁話28  平成最後 の🌸神田川の桜🌸     21期 細田武     2019年4月投稿

台東区には各小学校を地域とした、コミュニティ委員会が全区内に置かれ、地域の町会や、学校・PTA・一般区民のスポーツや、文化活動の為にボランティアにより運営されて、老若男女を含め幅広く活動しています。

今回は小生が発足から参画して28年過ぎた( 大正小地区コミュニティ委員会 ) の 

[ 都電に乗って 🌸桜を観る会 ] の記事です。

その前に一寸自慢させて頂きます。当コミュニティには多くのサークルが加盟しています。文化活動では、華道・コーラス・書道・ヨガ・舞踊等10サークル😃スポーツはテニス・バド・卓球・ミニサッカービーチバレー等10サークル等、コミ祭りには小学3年生を招待、200名のクイズ、ゲーム大会を開催し、手造りの昼食で歓迎します。

尚、当地区の誇りに世界大会オリンピックで使用されたあの流麗な(  卓球台SAN-EI  ) をブラジルに20台プレゼントしてきた。太っ腹ですね、これが我が町の三英さん、各方面で大活躍です☺

今回の観桜会🌺 何回目かな❗「文学歴史散歩」と称し小生が都度企画し、各回とも元学校長さんや町会長さん等、含め30名ほどの参加を得ています。

地元の一葉女史の竜泉寺・本郷菊坂、芭蕉の深川・千住、谷根千の街巡り、築地・佃の隅田川下り、遠くは足利、川越、松戸・戸定亭から柴又、等々力渓谷・玉川大師。下水堀の北斎館、向島百花園等枚挙に暇⁉ はありますね。さて、平成最後の🌸🍶✨お花見🌸。3月31日( 日曜  )会員30名が下町の最後の路線、都電三ノ輪橋プラットフォームに参集👩👨。半分が都発行のシルバーパス( 70歳以上は都バス・都電・都営地下等無料)  を利用。あとはPASMO、スイカ、現金170円で面影橋まで50分🙇。始発につき全員座席へと思ったのは町屋駅まで。物凄い乗客に立たざるを得なくなる人も。思えばこの先、飛鳥山、巣鴨のお地蔵さんや 、学習院下等の桜を見に行く人で満席の車内🙇。面影橋で下車。既に橋の上から神田川の川面に垂れて流麗に咲く満開の桜に多くの人で溢れていました。

途中、過去40年ほど前までこの川を仕事場としていた 富田染物屋さんの資料館(  東京染ものがたり  )で小休息。

マンションの名前が( edo-komon )のオーナーさん。高い小紋のマフラー等只見るだけ。歩いて数分、新江戸川公園が綺麗に整備され(肥後細川公園)に改称され、池泉回遊式の庭園の、陽当たりのよい和室で一服の茶に甘露カンロ。殿塚橋から100段に及ぶ階段を見上げ、同行の旧三商のクラスメイト高野君ともう昇る(  彼の名前・高野  昇 ) 気もない83歳😅直ぐ上に[  永青文庫  ] が在るのに😱。椿山荘も混んでいる予想🌺上野までバス移動。高野君とは軽い昼飯。春日部へ🙆。会友たちと自由解散。寒さもなく心地好い観桜会だったと自負しました。

燦商閑話-第29回- 「消してはいけない下町の風景」・両国駅・ 21期 髙野 昇 2019年4月投稿

▼今、JR駅のホームなどは同じ佇まいと風景で、以前はホームの様子だけで「今〇〇駅だ」と判ったものだった。駅周辺の景色も数十年前とは眺めも変わり、久し振りに乗る路線ではうっかり乗り過ごしたりでボンヤリしていられない。亀戸生まれなので総武線の利用頻度が多かったせいもあるが今少しばかりかつての面影をしのばせる駅舎は両国駅の本屋(その駅の中心部を本屋という)だと思う。千葉県方面への東の玄関口で総武本線のターミナル駅だった。北の玄関口上野駅、西の玄関口新宿、南方面への玄関東京と昭和の香りを漂わせる各々が貫禄と風格があるものだった。東京駅は見事に復元したものの、上野駅は本屋自体はあるものの歩行者は上階を、車は地上をと完全に分離されて(近年この構造は乗降客の多い駅などにみられる)利便性優先となってしまった。

▼両国駅はかっては総武本線の銚子、房総半島の内房、外房各線の始発駅だった。両親の生まれ育ちが銚子に近い飯岡(現旭市)で、戦前は夏休みには必ず兄弟、従兄弟達と4・5日の九十九里浜際の祖母と伯父の居る家で過ごした。切符は亀戸―飯岡間しか買ってもらえない兄達(私はまだ未就学)は両国までは電車賃は別、したがって親の買った切符には逆らえずいつも省線(古い名称ですね))で真っすぐ千葉まで行ったものだ。千住に居た従兄達は間違いなく両国から汽車に乗って行く、入学前の私にはなんとも羨ましいものだった。

▼両国駅の正面の姿はあの当時とは殆ど変わっておらず現存。上野駅玄関の小型化風で、隅田川東の下町を走り抜けて行く短い本線の始発駅とは言え今も慄然とその風格と存在感を表している。幼き日、この駅の玄関口から改札を通り列車に乗り込みたい気分を味わいたいといつも思っていた。戦前は丸屋根の国技館があり、相撲部屋のほとんどがこの周辺に居り、駅のすぐ下にあった高砂部屋や立浪部屋が電車の窓から良く見えていた。元力士の経営する「双見ホテル」が戦後も存在していた。今の駅舎は当時とほとんど変化なく、駅前も立体化されず駅舎も大地にしっかりと根ざしていて、これがいい。新国技館の再建(場所は変わったが)で駅前広場は整備され、高層のホテルがありで、都電が全盛の頃、両国橋方面からの都電が千葉街道を左に曲がり駅本屋の真ん前が終点だった頃を懐かしく想い出す。12番系統(両国~新宿)だった筈。


▼現在の本屋のコンコースは大変身していて、なんとド真ん中に土俵があり初めて来た人はビックリもの。それを取り囲んで小粋な江戸風な飲食店が軒を連ねる。壁には優勝力士の大掲額が2枚、手形などを見ることができる。江戸小物作りの職人の手仕事の実演をやっていることもあり粋な駅だ。駅南側には「ちゃんこ料理屋」が多く、両国駅周辺は,相撲・すもう・スモウと昔と変わりなく、特に本場所中の賑わいは嬉しい。江戸東京博物館・青銅の国技館、このあたりはかってやっちゃば(青果市場)があった所、昔日の風景と重ね合わせながら駅を眺めるのは高齢者にとっては一服の清涼剤となる景色である。いつまでもこのままでいて欲しい。

愛犬の死   26期 岩瀬和子(旧姓:坂口)               2019年4月投稿

 以前にも書きましたが、娘が犬2匹、猫13匹を連れて帰ってきました。犬2匹プーとグーフィー、やんちゃな猫4匹ハート、マグビー、セシル、ラブを私の所で預ることになりました。

 平成28年4月、グーフィーがすごく苦しそうな息をしているので、夜間診療の病院へ連れて行きました。見るなりすぐ診察室へ連れて行かれ、もう1時間遅かったらダメだったかもしれないと云われ、診察料金が4万円位かかると云われました。2万円ちょっとしか持ち合わせがないと話すとカードで結構ですと云われました。

 1時間酸素の箱に入れますと云われ、いろいろ検査の資料を明日かかりつけの病院へ持って行くよう渡されました。診療費は34,560円でした。太りすぎて気管を圧迫しているので、手術で広げるのですが、麻酔がかけられるかどうかわからないと云われました。

 メタボリックス処方食を勧められ、病院で取り寄せてもらうので、その都度体重測定をし、いろいろ変えてみましたが、ほとんど変わりませんでした。フードを与える時は、はかりで計り、30分前に水に浸して与えていました。前にグーフィーの歩き方がおかしい時があったので、フローリングのせいかと思い敷物を敷いたり、最近は行動範囲の所にカーペットを敷いてやっていました。

 暮れの28日、グーフィー13歳、シーズーとチワワのミックス犬が急に歩けなくなりました。かかりつけの病院はあまり評判がよくないので友達に病院を紹介してもらいました。検査の結果頚椎に問題があると云われ、大きな整形外科で手術して歩けるようになった犬もいますが、50万円かかるそうです。でも心臓と腎臓の数値が悪いので、麻酔に耐えられるかどうかわからないと又云われ、薬をもらって帰って来ました。娘に話すと手術はしない、1月3日診察に行った時に先生に横になったまま荒い息をしているのではかわいそうなので楽にしてあげたいと話してみてと頼まれました。先生にお話をしたところ13歳だし、

1月6日に楽にしてあげましょうと云われました。おいしい物を食べさせようと、肉をゆで、手のひらにのせ口まで持っていって食べさせました。

 鳴くと夜中でも起き、かかえて水を飲ませたり、寝返りさせさすったり、オムツがダメなので、ペットシートの上に寝かせ、おしっこやうんちをみてやりました。3日夜、たびたび鳴くのでそれからずっと夜はそばで寝てやりました。

 夜間診療の病院へ連れて行ったり入院させたり、高いダイエットフードを与えたり、40万円以上かけて育てていたのに、こんな別れ方をするとは思っていませんでした。

 そのまま回向院へ連れて行きました。犬が4匹、猫が3匹すでに葬られています。皆大往生でした。

 一昨年秋に死んだプーと今頃仲良く遊んでいるでしょうか。友達に話すと良かったんじゃないと云ってくれますが、事情を知らない友達はどうしたのと云われるくらい、私、へこんでいます。

燦笑繁話27  (奇想の系譜)を観る        21期 細田武     2019年3月投稿

東京が冷蔵庫みたいな寒さのなか、上野公園の都美館で開催されている [  奇想の系譜,・日本美術を観る  ] を、それも高齢者無料開放の2月20日( 水 ) 出掛けて見ました。お年寄り  自分も含め頗る元気🙋 タダともなればなおのこと👍  偶々気温18度の予報を聞き、夕方の閉館間近が穴場とは、過去の大形展の通例。予想通り10分待ちで楽勝。15時過ぎの入館。

期待の作品は過去にも拝しましたが第1室から (  若沖  ) 👏と来るとこれまた人が多くてあとが心配 🆘 。小生、高校時代の長身・178㎝はあったが現在3㎝縮みながら他の観覧者より二人後でジックリの鑑賞、長身は身を助く、かな。

簫白・芦雪・又兵衞・山雪・若沖・白隠・国芳・其一のそうそうたる大御所が揃い踏み🌺   ナニ  北斎が居ない🙇  

同時に六本木ヒルズの森美術館でこれ又第イベント開催中です。👏

林 惟雄氏(美術史家)著作の[  奇想の系譜 ] の8人の侍の江戸ミラクルワールドの謳い文句にたぐわぬ作品展でした。若沖は兎も角、「曽我蕭白」の( 郡仙図屏風 )の龍の皮膚感や、波頭の細やかさ強烈でした。

「 長沢芦雪 」は同じ猿でも (郡猿図襖), 白襖を立てて書き墨の垂れが   あると隣の識者が教えてくれました。

「岩佐又兵衛」の( 山中常盤物語絵巻) 源氏の世のきらびやかさと、     舟木本の(洛中図屏風)等との対比が面白い。

「狩野山雪 」は( 梅花遊禽図襖  )に加納派の本髄を京の寺社( 妙心寺・天球院藏)贈った多くの作品の一つらしい。

「鈴木其一」は青山根津美術館でも鑑賞出来た( 夏秋渓流図屏風)檜の間の百合、江戸琳派の画面から迸る水の流れ。

「歌川国芳」( 相馬の古内裏 )ご存知の骸骨。もう一つ、(みかけハこハゐがとんだ・・) アルチンボルトの影響か⁉

「 白隠慧鶴」禅画の( 達磨図 ) 一筆書きの様な横向きの達磨。永青文庫で見たような気がするが豪快その物でした。

「 伊藤若沖 」(象と鯨図屏風  ) 六曲一双< 五尺Ⅹ二間 > 右に象、左に鯨の配置。好奇心や奇想の塊のような若沖ならではの作品でした。

数多い作品でしたが、なんか頭が重くなるような充実した都美館の展覧会でした。

燦商閑話 -第28回- ”消えた昭和の遺跡” 新大橋    21期 髙野 昇 2019年3月投稿

▼隅田川の数ある橋の中でかつての”新大橋”がその存在感や姿になぜか親しみを感じている。在学中、親が営んでいた食料品店の手伝いで自転車で築地市場まで行き、父が積みきれない荷を亀戸まで持ち帰る手伝いを時折して渡った橋である。生涯一番多く隅田川を跨いだ橋である。卒業後もオートバイ(ライラック)で渡った。明治通りを大島を右折し新大橋通りを真っすぐ行けば必ず渡る橋。

沢山の橋が架かる隅田川の橋、その中を江戸の東西の人の流れを促がした五橋、歴史的な両国橋から新大橋・永代・吾妻の順で建設されていった。新大橋は江戸時代に相撲が両国に腰を据え、両国広小路として栄えたのも橋のお陰。深川八幡の祭りであまりの人出に落下した永代橋など歴史とエピソードに事欠かない数々の橋。新大橋は江戸時代に消失、流失で二十数回架け替えられた凄い履歴を持っている。

▼家康が戦事上の方針で隅田に橋を架けなかった時代も過ぎ、当時大橋といわれていた両国橋に続く橋として元禄6年(1694年)に綱吉の生母桂昌院の進言で作られたとの説を聞いている。時の俳聖”芭蕉”は完成した橋を渡り「ありがたや いただいてふむ 橋の霜}と詠んだと芭蕉庵に記されている。私の知っている新大橋は明治45年に鉄骨橋梁として米国カーネギー社製(米国の鉄鋼王でN・Yのカーネギーホールで有名)の鉄鋼を用い、いかにも”これぞ鉄の橋!”と言わんばかりの頑建さ、その風貌はピントラスト式(写真)で組まれ、千住新橋と相似する。関東大震災にもビクともせず、東京大空襲にも焼け落ちず他の隅田の橋と共に下町の幾多の罹災者の人命を救っていた。関東大震災後、この橋を「おたすけ橋」とも云っていた事もあったと近所の小母さんからきいた微かな思い出がある。都電(36系統・錦糸堀―築地)も敷設されていて魚河岸に買出しにでる自転車、オート三輪が入り乱れ市場通リ(なぜか橋をわたって中央区に入ると市場通リと言ってしまう)の混雑はすごかった。

▼都電が廃線になる噂が出始めた頃、日比谷の映画街に映画を観に行くのにわざわざ錦糸堀から36番系統(写真)に乗り終点築地で降り月島通リを旧東劇、三原橋、歌舞伎座や尾張町を越して日劇を右に見て歩き映画街へ、それは新大橋を都電が渡る時のゴーゴーという音が何かほかの橋と違うと感じていたからで橋自体の構造のせいで何とも言えぬ胸騒ぎがした音だった。勝鬨橋の連結部でのゴットンの音も楽しみだったが。亀戸から日比谷は25番系統で行けば日比谷映画劇場の手前50Ⅿが終点なのに。余談だが三原橋の下に「ニュース映画」専門の映画館があったっけ。

▼そんな頑丈堅固の橋も戦後の交通量の増大で橋台の沈下が著しくなり、昭和40年後半には大型車の通行が禁止されていた筈(都電は可)で昭和52年に現在のモダン?な橋に架け替えられた。旧橋は貴重なデザインや歴史が貴ばれ、犬山市にある「明治村」に保存されている。30年前に明治村を訪れた際に見学、全体の八分の一くらいの20M程ものだったが都電のレールまで轢いてあり橋塔もあり感動した。アールヌーボー風、親柱の立派さは正に風格ある存在で明治生まれの橋とはいえ、昭和生まれの私には忘れられない”昭和の遺産”である。

燦笑繁話26  🏈 年末の花園🏈 結果         21期 細田武   2019年2月投稿

前号の結果🙇 我が子息の母校・本郷高校,は1回戦で尾道高校に惜敗、早稲田実業は沖縄名護高校に大勝、併し、2回戦、流経大付属柏にノートライ無得点で完敗 。正月の観戦希望も空しく来期の活躍を🏈

ところで、🏈 大学選手権は明治が早稲田を破り、天理が帝京の10連覇を阻む試合👏しかも認定トライも含む好試合。

1月半ばの天理対明治の決勝戦も楽しみです。その結果明治が22年ぶり13回目の優勝🏈(  後日付記 )

この原稿、🐗箱根駅伝🐗をTVで観戦しながら叩いてます👍。

🐗 往路、青学が失速 6位と低迷、東洋がダントツで箱根を独走🐗

🎍復路、東海大が8区の遊行寺で東洋を逆転首位。青学は4分差で3位、戸塚の中継所でも追い付けず😁9区も鶴見まで楽走🐗 ここで山梨、上武、神奈川大等4校が繰り上げスタートの悲運😱

青学は東洋を引き離したものの東海大学に届かず、一敗地にまみれた10区アンカー 郡司が銀座・日本橋を快走ゴールテープを切った。

東海大学は初参加以来47年目の初優勝❤レース前勝つのは150%と言われた青学はスピードの東海大学の前に屈した。

また、もう一つのサバイバル🐱10位なら来年連続出場の権利を獲得出きるが11位、予選会からの😣苦しい戦いが待っている😭

その中に過去優勝経験のある早稲田・中央大学等多くの名門校があり新進校の躍進に箱根駅伝の地図が大きく塗り替えられた新年の素晴らしい絵巻でした😃。

追記。1月26日、全豪☀🎾テニスは全米オープンに続き大阪なおみ選手が連続優勝☀🎾の快挙。世界ランキング第1位の世界女王へ🙆 

燦商閑話 -第27回- 消えた”昭和”の遺産② 蔵前国技館  21期 髙野 昇 2019年2月投稿

▼中学の頃大相撲の本場所を仮設会場の浜町公園へ体育の時間の一環として見に行った事は以前この欄で書いたと思う。丸太組み、筵(むしろ)掛けの小屋掛け風の酷いものだった。あの丸屋根の両国国技館は戦後GHQに接収されていた為、戦時中協会が持っていた土地(蔵前)に寄せ集めの鉄骨作りの仮設国技館をS25年頃に設けたと思う。三商在学中に12日目に必ず観戦に行っていたのはこの仮設時代(写真)だった。

▼越中島から23番に乗って石原で降り、蔵前橋を渡ればすぐ右手が国技館、場内の一般通路のすぐ脇に支度部屋があってちょいと覗くことが出来た。当時の横綱は東富士・千代乃山・鏡里だったか、私はだれが優勝するかにはあまり興味が無く、いわゆる取的で鮮やかな技を持つ力士を好んだ。いつも同行していた同期のT君も同じで彼は国登のファン、私は鶴ヶ嶺(元寺尾の父)と信夫山を好んだ。二人共双差しの巧者でたまたま観戦した日にこの両者が対戦、僅かに信夫の差しが早く勝負がついた。この取り組みは今でも解説できるくらいに良く覚えている。信夫山は「りゃんこの信夫」と言われ、りゃんことは武士の刀の両差しのこと。現力士は猛烈に突っ張てからの双差しで、信夫山は立ち合い直ぐに二本差ししていた印象あり。

▼横道にそれたがそんな力士が沢山いた蔵前であったがS29年の秋、本格的な建物となり「仮設」の名がとれた。すでに4本柱もなくなっていて2階の大衆席からの眺めも良く正面入口には力士の粋な幟旗も多くなり相撲の隆盛をますます感じたものだった。なにせ出入り口のすぐ前が蔵前橋通りで、車の往来が激しい時間帯で打ち上げ後の道路は想像を超える大混雑で大勢の警察官が整理にあたっていた。まだ高層な建物も無く、帰路蔵前橋から振り返って眺める国技館の夕方の風景は隅田の流れと合わせ何とも言えぬ風情であった。その蔵前橋の欄干には今、土俵入りのモニュメントが飾られ(写真)かつての蔵前国技館の存在を記憶させてくれている。映画007シリーズ「007は二度死ぬ」は日本が舞台、ボンドが蔵前で相撲観戦するシーンがあって佐田の山もちょこっと出ていた記憶がある。

▼60年、協会の夢だった”国技館を両国に”が実現。戦前からの丸屋根の国技館はメモリアルホール→日大講堂、そして解体されていった。当時の理事長春日野(元横綱栃錦)の辣腕で両国駅前の国鉄の土地と蔵前の土地と等価交換し現金払い5~60億円で現在の国技館が実現した。蔵前場所最後の優勝者は平幕”多賀竜”、新国技館初の勝者は北の富士,北の湖はこの場所で引退し明暗分けた杮おとしの場所だった。記録を紐解いでみると終戦を挟んでの覇者は羽黒山だけで37歳の高齢(於蔵前)での賜杯であった。観戦の帰路、橋を渡り川沿いに両国駅へ、同愛病院、震災記念堂、丸屋根青銅の両国公会堂(取り壊され今は刀剣博物館)、旧安田庭園、総武線らしからぬ厳たる両国駅舎(現存)、あの景色は今でも残して欲しかった昭和の風景遺産である。

燦笑繁話25 🏈  楕円形の[  ボール  ]        21期 細田武   2019年1月投稿

年末から、新春正月、東大阪と言うより花園の競技場で開かれる、🏈 春高ラグビーを数十年前から楽しんでます。🏈今年の東京都代表は、第一地区が早稲田実業・第二地区が本郷高校何かの繋がりで両高共々、我が二人の息子の卒業校なんです。本郷高校は長男、早実は次男の出身校です☺。長男はラグビーでなく陸上競技で3年生で部長を努め、都大会で総合優勝を遂げました。3年の時大浦先生率いるラグビー部が花園へ🙆 、準決勝で秋田工業と大接戦、フルタイム決着つかずノーサイド決勝進出の抽選になりました。両チームスタンド下のロッカールームへ。

[  🏈 出場権あり」の籤を当てたのは秋田工業でした。

スタンドの上からロッカーはどちらか分かりません😱

ワーツ👏と言う歓声と😭寂とした静な嗚咽が聞こえました。前日から大阪に泊り、素晴らしい試合を堪能させてくれた部員と長男たちにお礼を言って卒業させました。

また次男は、部活は体育系ではありませんけど、中学から高校まであらゆる物に興味を持ち、特に鉄道や一人旅等結構自由に学んでいました。スポーツの観戦も何でも好きで卒業後スポーツ用品のアートスポーツで営業担当主任を勤めて現在上野店長になっています。

色々自慢ばかりのようですが、小生戦前に集団疎開で福島へ1年間行き、その後埼玉の川越在に縁故疎開。

その折大井🏫✏🎒⚽小学校へ編入された折り、服部先生の下宿に早稲田大学卒業後、実業団に入り、三地区(  関東・関西・九州 )  対抗戦のオール九州のホワードで活躍の( 堀選手 )が変な形のボールを持ってきました。そのころ田舎野球ではボロキレを丸めてボールにし、バットは薪木でやってました。その堀選手が田舎の校庭で空高く蹴りあげたのが🏈ラグビーボール🏈だと知ったのはかなり後年のことでした。色々な想い出がありますがこの冬も時間を見計らい、本郷・早実のどちらかを花園まで👊😄📢応援に行きたいと思っています。 

燦商閑話 -第26回- 消えた”昭和”の遺産・・・通学時に時々乗った都電38番  21期 髙野 昇 2019年1月投稿

▼今は荒川線のみとなった”都電”についての記憶です。三商通学時は住まいの亀戸から25番(西荒川~日比谷)29番(境橋~須田町)ときおり来る38番(錦糸堀~日本橋)系統で一つ先の錦糸堀下車。この区間は途中停留所がなく国電の駅区間をそのまま走る都電の停留所区間としては珍しく長く、当時のマニアの間では話題になっていた。

▼錦糸堀車庫から出てくる28番(錦糸堀~都庁前)の始発に乗り換えて富岡町まで。28番は途中に高校が多く、千田町に化学工業高(現大江戸高)東陽町に深川高、富岡町の三商、その先の永代橋には私立中央商業があり通勤客を交えてかなりの混雑だった。そこで少し早く家を出た日は亀戸から逆方向の38番の日本橋行き乗っていた。定期券範囲外なので10円の運賃が必要だった。これだと錦糸堀で乗り換える事も無く真っすぐ富岡町へ。

▼38番は千葉街道(国道14号)を少し走り精工舎前の水神森を右折し専用道を走るものの専用道とはいえ人・自転車・軽三輪などは通用可、左右は民家。大島(オオジマ)に入る堅川を跨ぐ専用橋を通過(写真)する都電の姿はなんとも言えぬ風景だった。美しくも無い,きれいでもないこの景色は当時の庶民の生活そのままで今でも記憶に生きている。大島から一般道の明治通りに出て小名木川の進開橋を渡れば砂町で「砂町銀座」と知名度のある商店街は当時からあり、ごく普通の商人が軒を連ねる買い物通りだった。

▼仙気稲荷辺りから再び専用道に、ここは完全な専用道でかなりの急カーブがあり都電の窓スレスレに汽車製造会社があった。国鉄亀戸駅からここまで貨物専用の小名木川線(現・越中島線)が敷設されていてSLの製造・保守・点検などで江東区内では最大の工場、あの新幹線車輛の0系はここで製造された。この小名木川線の下を都電がくぐった時、偶然SLが白煙を穿いて走り去った光景は今も色褪せたセピア色となって頭に残る。現在は高層アパートが林立しかつての面影はなくともこの越中島線の下をくぐる場所は今遊歩道となって存在していてかつての38番の名物箇所として名を留めている。使用していた車両は当時の形としてはかなり古い物が使われ、都電のローカル線と言ったところ。それもまた”良し”と思いつつ時々乗って通学していた。

▼40数系統あった都電の8割近くは走破しているがその中でも身近を走っていた路線、38番と単独路線の26番(東小松川~今井)系統は印象に残る路線であった。S17年に都が買収するまでは私鉄の「城東電車」で私が生まれた時には錦糸町駅前の交差点に進出した「白木屋デパート」の一階が終点、今でいえばターミナル駅であった。その頃は車輛も木造で二本のポール、二軸四輪で通称マッチ箱、遊び仲間同士で「名前は上等(城東)電車はボロボロ」なんて言っていた。通学時に乗ったのは1500形のはず。都電について書き始めるとキリがない、この辺で。

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