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投稿バックナンバー(2015年)

同窓生 日展 入選のお知らせ   24期  尾坂富美子         2015年12月投稿

西尾さん日展
24期西尾クニ子さん(旧姓 山内) 町田在住
2015年改組 新 第2回日展第5科書部門 (かな)
皆様にお目出度いお知らせをします。西尾さんとは高校3年の時クラスを一緒に過ごしました。クラス会、同期会、書道展などでお話しする友人です。
【改組 新 第2回 日展】 は12月6日(日)まで国立新美術館で開催中です。
【国立新美術館】 東京都港区六本木7-22-2 
東京メトロ千代田線乃木坂駅 青山霊園方面改札6出口(美術館直結)
都営大江戸線六本木駅7出口から徒歩約4分
東京メトロ日比谷線六本木駅4a出口から徒歩約5分

戦前の思い出   26期 岩瀬和子                  2015年11月投稿

 JR常磐線三河島の南側は再開発により大きなビルが建ちました。私は懐かしい店があったので、どうなるかと思っていましたが新しいビルに私の思い出の店の名前が見当たりません。
主人のいとこの家へ行く時バスで通るので、再開発されるまでずっとありました。そのお店の名前は「國末パン屋」さんです。
 戦前、祖母と散歩の時に寄るお店が二ヶ所ありました。家の近くにあった「おしるこ」屋さんと「國末パン屋」さんでした。 國末パン屋さんはお店の奥にソファがあって、そこでバナナの形をしたパンケーキと多分紅茶だったと思います。それがお決まりでした。カップの周りについたこげ茶色の市松模様が深く印象に残っています。社会人になって銀座のお店で同じ柄のカップを見た時、とても懐かしく思いました。
 
 國末パン屋さんに戦後入ったことはありませんでしたが、中学校の学区域だったので前を通ったりする時、なんとなく懐かしいと思っていました。私が行っていた頃より七十年間位はやっていました。どこか近所でやっているのか、それとも再開発でお店をやめてしまったのか、ちょっと寂しく思っています。時間のある時バスを降りて歩いてみようと思っています。
 
 もう一ヶ所のおしるこ屋さんにはおもしろい話があります。母とお使いに行った時、私が前を通りがかった質屋さんに入りたいと急に母に云ったそうです。その時の母は何で私が入ろうと云ったのか分かりませんでしたが、質屋さんにかかっていたのれんと似たものが、おしるこ屋さんにもかかっていたので、私が質屋さんをおしるこ屋さんと思ったんじゃないかと、後に家族で大笑いをしたそうです。

33期徳堂賢司さんのボランティア    編集部              2015年11月投稿

 33期佐久間保人さんが編集している佃リバーシティ自治会広報紙「天空新聞」は当自治会だけではなく佃地区の高層マンションや月島・勝どき・晴海まで一万部宅配されている地域コミュニティ紙です。14号11月1日発行に地域活動・ボランティアデビューガイド特集に33期徳堂賢司さんのボランティアが紹介されていました。転載させていただきます。
また希望すれば無料で電子版をメルマガで送付してくれるそうです。申込みは0120-559-251天空新聞まで

キャプチャ

カーブス歴八年          26期 岩瀬和子           2015年9月投稿

女性の方ならご存知の方も多いと思いますが、カーブスとは女性だけの三十分フィットネスクラブです。

私は八月で満八年になりました。初回体重が53kgありました。一時は48kgになったこともあり、友人からどこか悪いの?と聞かれたくらいでした。現在は50kg弱です。ウエストもスカート、パンツがゆるくなりました。

今は週四、五日通っています。

三商レスリング部の思い出   23期 三矢和久              2015年8月投稿

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昭和二十七年ヘルシンキで開催されたオリンピックの花形は水泳であった。世界記録を連発した古橋選手が期待されていたのである、然し、全盛期を過ぎていて残念な結果になってしまった。その中で知られていなかったレスリングが、フライ級で北野裕秀選手が銀メタルそしてバンタム級で石井庄八選手が金メダルと誰もが想像していなかった大活躍をしたのである。当時はプロレスブームでもあった。

その中昭和二十九年に宮脇清自先生が日本体育大学から三商に赴任された。私が二年の時である。先生は予選の決勝で敗れてオリンピックにいけなかった人で、まだ現役バリバリのひとでした。後になって、東京及びメキシコ五輪にコーチとして参加し、また商科短大の学長にも就任した異色の先生でもあった。

先生は早速レスリングの普及活動を始め、私は中学の先輩から目をつけられ勧誘され、入会した。入会してびっくりした。宮脇先生は熱心な人で、顔が会うと場所を選ばず組みついてくるのである。特に、運動場で組み伏せられるのが嫌だったし、泥だらけになり、情けなかった。

発足時のメンバーは三年三名・二年七人・一年一名の十一名で同好会として発足した。練習場は体育館の隅で、アンコの満足にないマットでした。アンコの無いシートだけの部分でのブリッジは頭にこたえた。苦しい時の合言葉は

「三商ファイト」で社会に出ても唱えた。

23期三矢02

また、宮脇先生からは対外試合をしたら、朝礼時に発表することを命令されていたが、誰も嫌がり、結局私が行った。学校に断りも無く、朝礼台に駆け上り発表して、あとで担当に叱られていた。部への昇格でも職員室にも入ったことの無い私が伊澤校長に決死の思いでお願いにあがった。多分我々の年代で校長室に入った生徒はいないと思う。今思うとなつかしい。

合宿は当時、遠くに行くことは考えもつかない時代であり、また、白米が潤沢に出るので嬉しかった。現在では想像もできない事である。

体重に心配の無い連中はモリモリ食い、減量の連中はそれを横目で見ているのが可哀想だった。レスリング部の全盛期は昭和三十五年前後だったか、インターハイで優勝し、アメリカに遠征した人や、大学の教授になった部員が二名もおり、文武両道の部だと誇りに思っている。

宮脇先生は,十年程前に亡くなり、宝仙寺で福田協会会長や松浪現日体大学長の参列の許に盛大に葬儀は行われました。

レスリング部は昭和四十四年卒で部員不在となり廃部となった。解散式は九段下のグランドパレスで盛大に行い幕を閉じた。

「三商ファイト

在籍者は四十八名であった。

ペットに振り回されています  26期 岩瀬和子              2015年8月投稿

娘達が小学生の頃から我が家にはペットがいました。

初めは従業員が植え込みにうずくまっていた仔猫を拾ってきて「もらい手がつくまで預かって」と言われたのが始まりでした。その後、またその従業員がアメリカンショートヘアーの猫を拾ってきました。

その後、長女が犬が欲しいと言うので、また従業員が犬猫病院からもらってきてくれました。クリスマスイヴに来たので「イヴ」と名付けました。

数年後、今度は次女が犬猫病院から犬をもらってきました。雨の日に拾われたそうで「レイン」とすでに名前がついていました。

猫二匹に犬二匹。四匹とも十八、九年我が家で生活し、大往生でした。今は回向院で眠っています。

 

二年程前、次女がもらったブリーダー犬を孫の男の子が部屋で面倒を見ていたのですが、見切れなくなり我が家に来ました。太ったチワワの老犬で吠えないおとなしい犬でした。ある日あまりよく寝ているので見てみたら死んでいました。夕方の事だったので、慌てて回向院へ連れて行きました。あっけない別れでした。

今年の初めに次女家族が家を移ることになり、新しい所は犬がダメだから預かってほしいとチワワが二匹やってきました。他に拾い猫が十三匹いるのでペット可の借家は見つからないと思っていました。

動物愛護協会も調べたのですが、殺処分されてしまうから嫌だと言われました。

七、八年前に娘たちは私たちの住まいの上の階に住んでいました。娘にとって幸いなことに、その部屋が空いていたので、そこへ引っ越してくることになりました。預かった犬を返せると思ったら、ヤンチャな猫四匹を預かってくれと頼まれてしまいました。仕方なく使っていない六畳の一間に預かる事にしました。

 

壁をガリガリ、押し入れの戸を開かなくしたらガリガリと、穴を開けてしまい仕方なく薄い板を張り、鍵をつけました。部屋から勝手に出られないように中の戸は籐の長椅子で押さえ、外から突っ張り棒を置きました。それでも長椅子を動かし出てくるので、そこにカギをつけました。

空気の入れ替えが出来るようにとサッシの小窓を開けておいたら、カーテンをよじ登りベランダに出てしまいました。

私たちの部屋付きの南側のベランダから猫の鳴き声がするので見てみたら、猫がいたのにびっくり。猫たちのいる東側のベランダとは建物の角で途切れているので、どうやって南側まで来たのか私たちの部屋は五階なので、考えただけでぞっとしました。

暑い季節となり、猫部屋にはクーラーが無いので娘が冷風機を買ってきてくれました。しかし、日当たりが良い部屋なのであまり効果がありません。仕方がないので、朝食が終わったらクーラーのきいたリビングに連れてくることにしました。

猫部屋を開けると一斉に出てきます。リビングに入っても少しすると部屋を出たがり、戸をガリガリするので、各部屋の戸を少し開けて、出入りを自由にしました。ベランダの戸だけはしっかり締めて、出入りをする時も十分気をつけました。

せっかくクーラーが効いている部屋に入れたのに、浴槽のふたの上に寝そべったり、クーラーの冷気が届かない所に寝そべったりで、全くの気まぐれです。のちに猫は暑さに強いと友人に言われました。

夕食前になると冷風機に氷を入れ、凍ったペットボトルを三本送風口の前に置き、餌とお水を準備して猫部屋に戻します。すんなり戻ってくれるものの、すぐ出たがります。仕方がないのでベランダの戸を閉め、寝室は犬が粗相をしてしまうのでここも閉めて、自由にさせてみましたがうるさくてダメでした。結局、夜は猫部屋に閉じ込めることになりました。

寝室と猫部屋は壁一枚の隣りあわせ。夜中によく鳴き声が聞こえるので寝不足になりそうです。犬は犬で来客や電話の呼び出し音に度々うるさく吠え、猫は外に出せと鳴き・・・。

一日中ペットたちに振り回されている日々です。

林 美雄さんを知っていますか その1   29期 浅野 隆       2015年5月投稿

29期浅野隆さんからこんなメールを頂戴しました。

昨年夏に同期の放送部の部長・・・林美雄くん・・・の記事が掲載されていました。
在学中の3年時には放送部のインターハイNHKのアナウンス部門で1位   三菱地所に就職後、早田大学に入り直し、念願のTBSに入社。久米宏・小島一慶、共々TBSの若手三羽烏と言われました。今年になり「ビジネス現代」誌に亡くなってから13年経つというのに載っていましたので紹介します。都立三商の名前もシッカリと出てきます。

gendai.ismedia.jp/articles/-/38077

以下はHP委員より     2号にわたり 林 美雄さんをご紹介いたします。
TBSパック・イン・ミュージックのパーソナリティだった
林 美雄さんが三商の同窓生だったことは同期の皆さんから聞いていましたが、浅野さんの紹介記事の他にも2013年12月にはTBSラジオの年末特別番組で「林 美雄 空白の3分16秒」が放送されています。    https://www.youtube.com/watch?v=lT3nsQNegoc
またTBSで同期入社だった久米宏さんの2013年9月27日「ラジオなんですけど」でも林さんの事が取り上げられています。
https://www.youtube.com/watch?v=a_WRvXdgvrw

浅野さんの投稿をきっかけに改めてこの追悼番組を聴き、時代を作った偉大な先輩「林 美雄」さんをもっと多くの同窓生の皆さんお知らせしたく、2号にわたって久米宏の「ラジオなんですけど」を要約してご紹介します。

林美雄

1943年8月生まれ 浅草寿町 精華小学校から蔵前中学へ 小さい時から都電の運転手のマネをしながら実況放送をしていたそうです。1955年小学生5年の時TBSのこどもの日企画の「少年アナウンサー」に選ばれました。プロのアナウンサーの指導でプロ野球「巨人・大洋戦」を中継する趣向でした。自分の声で野球の興奮を全国に伝えられることで自分の夢は「アナウンサー」になることと決めていきました。

野球少年であった林さんは当時来日してニューヨークヤンキーズのミッキーマントル選手から指導を受ける幸運もつかんだそうです。蔵前中学二年にはTBSが公募した「相撲の豆解説者」にもなりました。1959年都立三商に入学し、三筋町の祖父母の家から三商に通いました。高校時代は家計を助けるためアルバイトに精を出し、デパートの中元歳暮の配達やガソリンスタンドを行いながら放送部の活動にも熱心でした。

放送部

野球部の練習試合にはグランドに机を出して実況の練習をしていたそうです。3年では放送部の部長となり1961年NHK杯全国高校放送コンテスト、アナウンス部門で優勝し、アナウンサーの道にさらに近づきました。しかし放送局に入るには大学卒業資格が必要でしたが、実家には進学する金銭的余裕がなく、三菱地所に入社することとなりました。

しかしアナウンサーの道をあきらめることなく、一年後1963年「早稲田第二法学部」夜間に入学しました。池袋の深夜喫茶でDJのアルバイト等をしながら1967年念願のTBSに入社することとなりました。    来月に続く・・・・

三商の学帽                21期 髙野 昇         2015年4月投稿

21期の髙野さんが三商会館にお見えになり、学生当時の貴重なお話をしてくださいました。中でも学生帽のお話があり、後日詳しく記述していただいたので、掲載させていただきます。


制帽は巷では「慶応型」と呼ばれ、下町でこの制帽を被っている子は三商生であることが一目でわかり、それが一寸した誇りでもありました。帽子周りには蛇腹のテープが巻かれ少しツバが大きく、内緒でてっぺんにポマードを薄く塗り、防水の為と称しながら実は隠れたオシャレでした。写真は1953年11月の文化祭の時、小生は手前です。帽子を作っていた業者は確か田端にいた本田さんと言うかたで、購買の売店も担当していました。妹さんが一期したに在学していた記憶があります。

 
集合写真は小生の入学時のもの(1951年)、なぜか今村校長は居らず清田教頭が座り、担任は横山先生で小生は3列目女子生の隣り、前列左から4人目が野中郁次郎です
21期

東京大空襲と疎開            26期 岩瀬和子        2015年4月投稿

 私は昭和十五年七月荒川区日暮里(現在の東日暮里)JR常磐線三河島駅の近くで生まれました。昭和二十年一月六日に弟が生まれましたが、わずか一か月余りの二月十四日に肺炎で亡くなってしまい、祖母、両親と私の四人暮らしでした。

 戦禍も激しくなってきた昭和二十年三月十日、その夜も空襲の警戒警報が鳴り私は壁に掛けてある真っ赤なフェルトに黄色いひよこのアップリケのついた肩掛けカバンをかけ、頭巾を被り、父は出かけていたので母と祖母の三人で自宅玄関の畳を上げて作った防空壕に入りました。

 肩掛けカバンの中には私が紀元(皇紀)二千六百年に生まれた記念の生命保険証書と「この子を拾った人は育ててください」と書かれた手紙と二百円が入れてあったそうです。

 少しすると父が戻り、外の防空壕へ移るよう云われました。外の防空壕はお隣との共用で、壕の両側から入れるようになっていて、既にお隣の人達が入っていました。また少しすると父から今度は出て行くよう云われ、私は母に背負われ褞袍(どてら)をかけてもらい、自宅をあとにして少し離れた広場へ向かいました。広場には何人もの人があちこちに座っていて、私たちも腰をおろしました。

 燃えさかる東京の街を反射した赤い空の中を、黒い貨物列車が駅の方へ走っているのが印象的で、私は列車が燃えながら走っていると思っていました。

 そのうち私は眠ってしまったようで、助かった私たち家族は朝になって家に戻りました。

 しかし自宅のあった周辺は焼け野原になっていました。ただ工場のあったところに今で云うプラスチックのようなエボナイトという材料が燃え尽きず白い煙をあげて燻っていたのを覚えています。又、裏の洗い場にタライいっぱいの食器が焼けずに残っていました。きっと水を少し出していたのかもしれません。このタライは私が産湯を使ったタライで裏には寿に生年月日と私の名前が書かれていて、中学生ぐらいまであったように憶えています。

家の無くなった家族は、とりあえず父の兄が住む草加へ行き、それから母の実家の千葉へ移りました。半年ほどいたかと思いますが、その後父の仕事関係の工場が新潟県新津にあったので、新津の温泉旅館の離れに住まわせてもらい、父は技術指導者として仕事に就きました。

 温泉旅館といっても観光旅館ではなく、行商の人が利用するような旅館でした。父は仕事が終わると釣りをしたり、証城寺の狸ばやしで始まる英語講座(私達はカムカム英語と云っていました)を聞いたりしていました。雪が多い所なので、わら靴を買ってもらい、みかん箱に竹をつけたそりを作ってもらい、冬に雪が降るのを楽しみにしていましたが、その冬は何年かぶりで雪が少ししか降りませんでした。

 新潟で私は冬なのに腸チフスになってしまいました。その時の母は私をおぶって隔離病院へ行く途中、悲観のあまり橋から飛び降りようか、踏切でも入ろうかと思っていると、いつも人が居て踏みとどまり、いつの間にか病院に着いてしまったと云っていました。入院している時は、国会議事堂が描かれた拾円札を見せてもらった事が記憶の中に残っています。また、この病院で食べた卵の黄身に粉ミルクをかき混ぜたおやつと、家の炬燵で作ってもらう甘酒がとてもおいしかったのを憶えています。

 初め父は、十年くらいすれば東京も落ち着くだろうから、そうしたら帰ろうとのんびり構えていましたが、所用で度々東京へ帰る時の切符が思い通りに手に入らない事や、その所用が頻繁になるなど状況が変ってきました。二十一年十一月になって、三河島の下水処理場の横に空いた皮工場の一角を借りる事ができ、父の思いよりずいぶん早く東京へ帰ってきました。

 そして二十二年四月に荒川区の瑞光小学校へ入学しました。

その時に背負っていたのは今のようなランドセルでなく、チョコレート色をした小さな穴があいた皮のランドセルを、父の友人が買ってきてくれたものでした。そこでの生活も一年くらいで、今の実家のある荒川区西日暮里へ移り住み、やっと落ち着く事ができました。

 

大人になって振り返れば、あの頃の父は家族を守るため、生きるために大変だっただろうとつくづく思います。

19期 散歩会と大関会 同行記                編集部   2015年2月投稿

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2月19日に以前にご紹介しました19期の散歩会と大関会に参加してきました。

前日の悪天候が嘘のような日差しの中、19期の方たちを中心に、編集子を含む13名が若者の街原宿に集合しました。約束の時間に原宿駅表参道口に向かえば、10代~20代の人ごみの中、70代・80代の集団はすぐわかります。まとめ役の森莞さんに本日の参加目的(ホームページの取材)を告げご挨拶すると、笑顔で歓迎してくれて、本日のコースマップを頂きました。

ほどなく出発の時間となり、原宿駅を後にします。やはり、のんびりと歩かれるのかと思っていたら、その歩様の早い事!!写真を撮るのに皆さんの正面にまわりこむ事もあるので、少し早足で歩かなければ追いつかないシーンもありました。

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原宿駅前から神宮橋の交差点を渡り、表参道を歩きます。おしゃれなショップが立ち並びますが、あまり興味はないようで、みなさん黙々と歩を進めています。明治通りを渡り、出来上がって間もない表参道ヒルズの最東端から鋭角に左に折れ、裏通りへ。上ってきた表参道の坂を裏通りからゆるゆると下っていきます。ここは神小通りと言って、やがて神宮前小学校の裏手に出ます。中からは元気な子供たちの嬌声が響いています。おしゃれなモードの街にミスマッチな子供の声。東京の一面かも知れません。

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裏路地を右へ左へと歩いていくと、明治通り竹下口の交差点に出ます。若者の巣鴨と呼ばれる(?)この通りも、平日の午前中ではあまり人影を見ません。明治通りを再度渡り、右に折れるとすぐ東郷神社の入り口です。手前の東郷会館に目を遣りながら参道を登り、神社の成り立ちの説明を読んだり、参拝をしたり、ほころんだ紅梅を写真に収めたりと、思い思いの時間一頻り過ごしたのちに出発です。途中、道を確認しながら今度は神宮前の街を東にしばらく行くと、間もなく熊野神社に到着です。

実は、熊野神社には立ち寄らず、手前を迂回してキラー通りを通り、ブラジル大使館の前を通り熊野通りから国道246号青山通りに抜ける予定だったのですが、熊野神社にまっすぐ来てしまったので、そのまま小休止。ここでも境内の片隅で梅の花がほころんでいました。本来の方向とは逆に黄色い壁が目を引くブラジル大使館の前を通り、青山三丁目の交差点に出ます。青山通りでは予定になかったのですが、通りの反対側に渡り、梅窓院に立ち寄ります。江戸時代初期に青山地区を興した青山宗家の墓参をしていきました。名前のとおり梅の花が各所に咲いていて、澄んだ青空に映える赤い花弁が目を楽しませます。

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再度、青山通りを渡り、神宮外苑前に着きました。裸の銀杏並木のもとを歩き、モダンな絵画館を遠くに見やりながら右手へ抜け、外苑東通り権田原の交差点を渡れば赤坂御用地。ダラダラとした坂道をまた昇りながら、ある人は黙々と、一緒に参加した女性陣二人は尽きる事無くおしゃべりをしながら歩を進めていきます。坂を上りきると空が広く明るくなりました。迎賓館前に着いたようです。ここでみんなで記念撮影。もう行程の半分以上を歩いてきました。ベンチで休憩していると、サーターアンダーギーを持ってきた人がみんなに配っています。毎回恒例となっているそうで、編集子も頂戴しました。軽く疲れの出た所で甘いものを口にすると体に沁みていく感じです。

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本来はこのまま新宿通りまで北上し、上智大学脇の桜並木を下っていく予定でしたが、この後の大関会(両国)へ移動する関係上、四ツ谷駅をゴールとするために、迎賓館から外堀通りを下るコースに変えました。高速道路の脇を今度はつらつらと長い間下っていきます。通りの名が示す通り外堀があった場所。一部は埋め立てられてラクビーの練習場などグラウンドになっています。しかし、さらに下ると高速道路の下にあおこで緑色の水面を湛えたお堀が見えてきます。このような景色は歩かないと到底気づかないものでしょう。下りきった弁慶橋からまた上り坂です。有数の高級ホテルの間を上りながら、ゴールの四ツ谷駅を目指します。上智大学の脇に差し掛かると、いよいよ心臓破りと言えそうな急坂です。さすがにこりゃシンドイとの声も聞こえますが、皆一気に登っていきます。御年81歳、戦前生まれの人達はやはり体の造りが違うようです。やがて、四ツ谷駅が見えてきて、ここが今日のゴールです。しかし、そのまま駅舎に入り、黄色い総武線に乗って両国へ移動です。ここからは大関会になります。第一回酒場放浪記でお馴染みの、19期大関さんのお蕎麦屋さんに向かうと、大関会から参加の人も加わり、既に店内は賑やかに沸いています。

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乾杯の発声もそこそこに、酒宴の始まりです。おでんや酒の肴に舌鼓を打ちながら、テーブルごとに話の花が咲いています。とにかく賑やかで、元気です。毎月開かれている19期の大関会ですが、決して話の尽きる事無く、やはり若き日の友に会うと心も体もその時間まで引き戻されるのでは無いでしょうか?だいぶ酔いも回ってきた辺りで締めのおそばが配られます。ほとんどの方が朝から随分歩いてきたので、あっという間に食べきってしまいます。店主の大関さんは定位置の厨房入口に腰掛け、みんなの様子を楽しげに見ています。ふと目を遣るとお客さん向けに置いてある書棚に同期の編集・文芸評論家の大村彦次郎さんの著書が置かれていました。同期の絆をこんな所でも感じさせます。お腹も話も満腹になった所でお開きとなりました。このような催しが驚くことに毎月開かれています。19期の皆さんのバイタリティにはただただ脱帽です。二代前の同窓会長、木戸さんもこのようにお元気に参加されていらっしゃいます。49期の編集子とはちょうど30歳の開きがあり、30年後に仲間が集まり、同じように歩き、飲み食べ、語り合う事ができるのでしょうか?・・・少し自信が無いのですが、偉大な先輩を目標にしていこうと、思いを新たにした取材記になりました。

35期 長谷川誠さん 三商バンド「BGC」ライブ開催      編集部   2015年2月投稿

BGC地図

35期同期会ではこの35期バンドの二次会ライブがあります。今回ライブがありますのでご紹介します。(画像は拡大します。
BGCというバンドでギター4人が35期生で同期会で演奏しようと結成したバンドです。
選曲はオールディーズが中心でグループ・サウンド、ビートルズの曲からなるべく多くの人が知っている曲を選んでいます。
3月29日(日曜日)出演時間 13:50より14:20
場所 BIG SHIP 4Fホール 墨田区本所1-13-4 本所地域プラザ 03-6658-4601
ぜひ同窓生の皆さん、遊びに来てください。入場券がありますので13:30頃に一階に来ていただければ無料でお渡しします。35期長谷川誠(写真左)

メールでの投稿です 19期散歩会2015年スケジュール 19 期 森 莞   2015年1月投稿

19期散歩会

以前から実施されていた19期の散歩会のスケジュールをご紹介いたします。
約一時間半から二時間程度ゆっくりと都内各地を散策いたします。
距離にして5~6キロの行程です。同期以外の方も参加自由ですので、ぜひご参加ください。
  期日     集合場所             コース
2月19日(木) JR原宿表参道口   表参道~東郷神社~赤坂迎賓館~赤坂見附
3月19日(木) JR市谷駅正面口   東郷公園~ローマ法王大使館~平川門~東御苑
4月17日(金) JR東京八重洲中央口 歌舞伎発祥地~築地小劇場跡~芥川龍之介生誕地~佃島
5月19日(火) JR浜松町北口    増上寺~東京タワー~虎ノ門
6月19日金)  JR新宿西口    都庁~新宿御苑~千駄ヶ谷
9月18日金)  地下鉄表参道    明治神宮~代々木公園~原宿
10月19日月) JR渋谷ハチ公前  松涛公園~能楽堂~NHK放送センター
11月19日木) 小田急豪徳寺    豪徳寺~世田谷代官屋敷~松蔭神社
12月18日(金)JR浅草橋東口   お蔵跡~首尾の松~吉良邸
以上集合時間は毎回午前10時30分です。

メールでの投稿です。 21期同期会を企画しよう!  21期 高野 昇  2015年1月

 21期生は同輩共々今年は傘寿を迎えます。同窓会の会館も牡丹町に落成し、この機会に傘寿を祝して21期同窓会を開催しようではありませんか。日程等は全くの未定ですがお心当たりの方や、お身内に21期の方が居られたら下記Eメールにご連絡をお願いします  drafannov21@ybb.ne.jp   髙野です

萩・津和野城下町散策と安芸の宮島歴史紀行三日間<後篇> 26期 岩瀬 和子 2015年1月投稿

会長投稿H26.12(3)

ホテルに着いて、これから昼食や拝観料でお金がかかるのでみんなから一万円ずつ預かる事にしました。ママはキャリーバックの下にお金を入れたはずと、バックの中身を全部ベッドの上に出したが思った場所に無い。やがて一つ一つ持ってきたものを調べ始めました。やっとのことでティッシュ入れの布製のカバーの中からお金が見つかりました。「不愉快な思いをさせてしまった」とママはしきりに謝ってくれましたが、取ったと疑われたわけでも無いし、あれが無いこれが無いは毎度のことで、もう気にならなくなっていました。ところが、今度は持ってきたはずの靴が見あたら無いと言いだしました。お金を探す時あれだけ荷物を調べたのだから、持ってきていれば分りそうなものなのに…。

広島では萩焼を買いたいとママ。明日に萩焼の窯元に行くと説明しました。以前ご主人が買ってきた湯呑はモノがいいので勿体無いのでしまい、普段使う湯呑を買いたいと、気に入ったものを買っていました。しかし、次の売店でまた湯呑を買いたいと言い出します。さっき買ったでしょと言ったのですが、何か納得のいかない顔をしています。これには友人と思わず顔を見合わせてしまいました。

秋芳洞では下りから入ったので楽でしたが、下が濡れていて、ママは例のスタイルなので滑ったら大変と、友人が片手を手すりに、もう片方でママの手を握り歩いてくれました。

行く先々ではママが「来てよかった」と喜んでくれていたのですが、最後の頃に「この旅行誘われた時、迷惑をかけるから止そうかと思った」「もう連れて来てもらえない」としんみり言われました。自分でもボケてきたのかなと思ったのかと感じましたが、後日会った時にケロッとして「また誘ってね」とも言われそうです。

ともあれ、何事も無く羽田に帰る事ができたのでホッとしました。

空港で遅い夕食をとって帰る事にしました。改札でもママは持っていたバックの中のスイカのカードが見当たらないと言いました、仕方がないので窓口で切符を買ってきたものの、来た時と違うルートの切符を買って戻ってきました。不安がるママに、駅で説明すれば大丈夫だからと説明し、一番先の駅まで乗るために降りる駅を何度もしっかりと教え、着いた頃を見計らって、友人が帰宅確認の電話をして私たちの旅は終わりました。

今回の旅でママはボケたのかな?と思える様子がみられ、友人は十年経ったら私もああなるのかとショックを受けていました。いつも三人でママに気を遣い、旅情に浸るところではありませんでした。今回は友人にマをい気の毒な思いをさせてしまった旅行となってしまいました。

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