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投稿バックナンバー2017

この英語文訳せますか 19期大関守さんの記事  その1 第30期 藤倉 久男  2017年1月投稿

先日30期の藤倉さんと33期細井さんが両国蕎麦店大関庵(19期大関守さん)を訪ねた時、読売新聞THE JAPAN NEWSが取材に来ていたとのこと。2回にわたって掲載します。まずは英文でご覧ください。

大関庵_Part3

では日本語訳を掲載します。次回は19期大関さんが英語に堪能な訳を掲載します。

◎SUMO abc 大関庵Ⅰ
◎国技館そばの大関庵は縁起がいい

 大相撲の聖地、東京・両国の国技館近くに大関庵(おおぜきあん)というそば屋がある。2代目主人は大関守(おおぜき・まもる)さん(83)。「大関を守る」という名前は、力士にとって、大変ありがたく、縁起がいい。

 創業は1952年で、両国に店を構えて64年を超えた。終戦後、進駐軍(GHQ)に接収されてメモリアルホールとなった旧両国国技館は、大関庵のすぐ南側にあった。その後は日大講堂となり、新しい国技館が蔵前に建てられた。再び両国に戻ったのが1985年。JR両国駅に挟んで店の北側に構える今の国技館だ。時期を同じくして、大関さんは2代目として店を切り盛りした。

 その頃は大関さんも52歳と若かった。「出前で日に何十回、店と国技館を往復したか当時も数え切れなかった」。相撲協会の役員室にも頻繁に顔を出した。「大鵬さん(元横綱)や清国さん(元大関)、安念山(羽黒山、元関脇)、鶴ヶ嶺さん(元関脇)ら、名力士として名をはせた親方衆が顔をそろえていた」と懐かしむ。

 ある日、役員室で聞かれた。「あんた、名前は大関守だって。それは本当の名か」と。しゃくに障った大関さんは運転免許証を取り出すと、テーブルの上にポンと置いた。「名前と一緒に、住所は正真正銘の両国2丁目とあるでしょう。本籍だって載っている。よく見てくれ」って息巻いた。すると疑っていた親方衆が「分かった、よく分かった」と納得してくれた。「それからかな、親方衆の私を見る目が変わった気がする。お相撲さんはね、懐に飛び込むと優しくなるんだよ。」忘れられない思い出の一つという。

 大関さんは、外国人のお客さんが来店した時、得意顔になる。「日本人は、相撲の大関と清酒大関で、皆さんが『おおぜき』の呼び名を知っている。だから、私も有名人」。滑らかな英語で説明し、お客さんを笑わせる。そば屋一筋の83歳はなぜ、英語が堪能なのだろう。次回のコラムで大関さんの秘話を紹介します。

燦笑繁話2 芝居噺1 「隅田川巻物観てきました」     第21期 細田 武  2017年1月投稿

午後一、2時間ばかり間がとれたので、思いきってすみだ北斎博物館にバイクでひとっ飛び、10人並びでちゃちなチケット売場💨

役所っぽいテケツ嬢😆  4階の常設会場からの鑑賞です。

今月の[  和 楽  ] 北斎特集、予め読み、観ていたので必ずしも新鮮味無し👌ただ(  隅田川巻物 )  は両国から始まり蔵前、駒形、吾妻橋、  待乳山、山谷堀、新吉原、対岸の国母寺、三迴さま、水戸屋敷など、詳細に水・緑・紅・草色など多様に屈指して一寸見応えがありました。

帰りが問題です。3階から下へ降りる階段がありません。2基のEV のみです。階段がないのかと聞くと非常階段しかありません!🆘  開館当日の混雑のときどの様に処理をしたか聞くと、大変ご迷惑をおかけしました。と平然と答え、 万が一の時にはどうなるの\(^^)/と腹が立ちました。オリックスの宮内が名誉館長です。

墨田区 の手を離れ 民間化されていますが、設計の段階からおかしいようです。バッテリー無し👌細田武です。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第9回-その1       第21期 高野 昇  2017年1月投稿

~あの頃の身近な世相~ 1年生の時

▼三商入学式の日は小雨の降る少し肌寒い日でした。昭和26年春、兄(16期)の使っていたお古の三商の制帽を被り母と一緒でした。母が学校に関する行事に来てくれたのは後にも先にもこの時だけ、だから雨が降るんだとうすうす思っていました。中学の担任の先生が「お前、本気で三商を受験する気か?」と少し屈辱的な言葉を言われましたが、入試の「アチューブメントテスト」で数学と国語、家庭科でかなりの高点をとっていたのが功をそうしたか、卒業生の兄二人を追うように入学にパスしました。入試の前に上の兄が私を連れて三商に清田教頭を訪ね挨拶に行きました。「怖そうな先生だな」と思ったのがその時の清田教頭の印象でした。在学中にその思いは払拭されていました。

▼三商に入学してまず驚いたことはトイレ(当時はWCと言ってました)がタイルぶきだったこと、講堂以外に体育館(床はあちこちと破れていましたが)と武道場があること、やたら広い運動場(今の新校舎なある場所は川岸運動場と言っていました)、地下室(地下水が溜まり使用していませんでしたが)があり、階段教室、屋上があり動かない時計がある時計台などでした。校舎の隣の商船大学には米軍が接収しており、正面入り口にカービン銃を捧げた歩哨兵が慄然と立っている様子には愕然としました。入学数400名、8組編成で1,2組は男女組(この言い方は年令のせい)で男女組の経験は小6年生の時以来なので少し戸惑いました。戦後6年、まだあちこちに戦災の傷跡が残り、まだらに建っている復活した家々もほとんどがトントン葺きでした。我が家もそうでした。屋根に葺く瓦やトタン板の代わりに杉皮を葺くのに職人が口にくわえた小さな釘を驚くほどの早業でトントンと葺き上げる、そんな屋根をトントン葺きといいました。

▼この前年「朝鮮戦争」が勃発しています。昭和25年6月25日のことでした。日曜日でした。その日、珠算の検定試験があり東大の25番教室で3級合格を目指して懸命にパチパチとやっており、結果3級に合格していたのでよく憶えています。そしてこの1年生の時、その指揮官だったマッカーサー元帥が北朝鮮に原爆を使用するとかの理由でトルーマン大統領から罷免されました。国電(JR)桜木町火災事件があり、63(ロクサン)型という木製の車両数両が燃え多数の死傷者がでました。日米講和条約が締結し今村校長先生の「これからは新しい日本に生まれ変わり君たちはその礎として社会に出るべき」との在校生へのメッセ―ジとともに「君が代」を歌った記憶があります。金へん景気が始まり糸へん景気もピークだったようです。そうだ、日本初の総天然色(いまは死語となりました)映画「カルメン故郷に帰る~木下恵介監督~」が高峰秀子主演で製作、上映されました。秋には三商のシンボルである時計台に真新しい時計が設定されました。

▼この年、民間放送《ラジオ)がはじまり関東でもラジオ東京(TBS)がスタート、有楽町駅前にあった毎日新聞社ビルの上階が放送局になっていました。なにかのクイズに当たり、私の氏名が放送されたと同級生の誰かが教えてくれたので局に賞品を受け取りに行きました。賞品はGAIANTSの川上哲治のサインいりのバットでしたが私はアンチ巨人でしたのであまり有難味や嬉しさはありませんでした。実家が建て増ししたり、立て直しをしている中で父が勝手に処分したらしく、今、持っていたらかなりの”お宝”でしたね。このビルの最上階には丸屋根のプラネタリュウムがありましたが戦後はやっていなかったかもしれません。今、思うに懐かしく、この近辺にはロードショーのスバル座やビデオホールがありました。ビデオホールといえばジャズバンドのあの「ビッグフォア―」の公開ラジオ放送を見に行き、番組スポンサーがトリスウイスキーでした。雨後の竹の子の様に沢山のバンドが出現した時でもあり、その中でもトップの人気を誇るビッグフォア―には感動。司会が江戸弁ペラペラのロイ・ジェイムスという明大野球部員の経歴をもつ、変な外人でしが素晴らしいMCでした。

~~年齢ゆえのわずかな記憶と古いメモなどを参考にしたもので誤記などありましたらはご容赦ください~

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