投稿バックナンバー(2016年)

燦笑繁話1   [ 芝 居 噺 ]              第21期 細田 武  2016年12月投稿

21期卒業の細田武です。[  燦商閑話  ]で素晴らしい寄稿をしている高野  昇君と同期で色々と御世話になってます。小生タブレットをいじりはじめて1年半、やっとメールが打てる様になりました。今回本当の筆下ろしです。御笑話下さい。

さて、去る11月20日、八代目中村芝翫の襲名披露、顔見世歌舞伎の夜の部を老妻と観に行きました。新歌舞伎座の柿落としのときも観劇し、古い歌舞伎座の65年前の舞台も高野君と同道し、先々代中村勘三郎が(もしほ) のとき  [ 法界坊 ]や[  高  杯  ] 等を観に足繁く通いました。

当時、母校の通学には自転車で浅草・入谷辺りから平気で行きました。授業が終わると越中島から佃島へ渡り、佃住吉神社の隅田川から、自転車も乗れる無料の渡船で明石町へ渡り、歌舞伎座の横に自転車を置き、当時大道具の長谷川さんの知り合いにちょっとクスリを利かせ、舞台裏から奈落をくぐり抜け、三階へ上がり高見の見物。その頃、「大  向」[三階での声がけ]  の歌声会の浅草橋の魚屋さんから御誘いがあり色々と勉強させられました。

役者さんの出 !! 長  唄~・清元・義太夫のチョボ~  舞台の書き割り 回り舞台・すっぽん・花道の七三・中でも女形の化粧、 隈取り等色々先輩の中に国学院大学出身の山川静夫さんがいました。後にNHKで 山形・大阪等地方を回り、劇場中継の大御所となられたのは万人の知るところです。因に彼は静岡市の浅間神社 の宮司 の出です。今回の芝翫さんの盛綱陣屋・助演の時蔵、染五郎・子役の尾上左近 の慈味ある芝居ぶり、心情深い芝居に優しい声援を贈りました。

若い歌舞伎の世界に新風を送り込むみ、伝統を守り育て行く各界の大きな声援となればと寄稿しました。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第8回-        第21期 髙野 昇  2016年12月投稿

江利ちえみ

◎江利チエミさんのこと

▼60歳以降の方なら誰でも知っている歌手です。彼女は類まれなる歌姫として一世を風靡し、今も私達の心に残り生き続けています。今風に言えば最高のエンターテナーでした。昭和57年に45歳という花盛りに悲しくも生涯を終えました。「テネシーワルツ」から始まり東京キュ―バンボーイズ、シャープス&フラッツ、ビッグフォア―をなどをバックにジャズやポピュラーソングを、と思いきや歌謡曲、民謡、俗曲、端唄とレパートリーが広く、TV、映画に主演し主題歌を歌い和でも洋でも何でも来い、英語の発音はともかく、声量、小節、明るさ、哀愁などあの雰囲気は日本ポップス界最高のスターでした。

 ▼三商同期の細田武氏はそんな彼女とは幼馴染でした。彼の住まい(旧台東区光月町~戦前は入谷町)でこの近辺はかって浅草芸人が大勢すんでいた所で、すぐ傍にチエミさんの家族も住んでいました。2歳年下の彼女は「タケちゃん、タケちゃん」と慕っていたそうです。そんなチエミさんが昭和27年、私達が三商1年生の時にキングレコードからデビューし、A面に「テネシーワルツ」B面が「カモン、ナ、マイハウス」が発売、これが大ヒットしたのは諸兄はご存知のはず。2年生の時の12月、浅草国際劇場(現浅草ビュ-ホテル)にあの「ジョージ川口とビッグフォア―」と共演していたのを機に細田氏に誘われ楽屋訪問する機会に恵まれました。人気絶頂の両者の共演を舞台袖から観ることができ、その上楽屋でお喋りができる、私にとって夢のまた夢の誘いでした。国際劇場は客席数、舞台の大きさ、回転舞台の径の大きは東洋一を誇る劇場でした。

▼まず仲見世のマルベル堂でサイン用のプロマイドを買い国際劇場へ、楽屋入り口から4階の彼女の楽屋に向かい「わーッ、タケちゃん!」の歓迎の大きな声と共に紹介された後、開演までの小一時間を親しく歓談。当時は実演(古い言葉ですが)と封切り映画の二本立てで、映画上映中はステージ出演者は休憩時間、チエミさんと話しができる貴重な時間でスターを目の前にしてかなりの興奮度だったとの憶えがあります。開演時間が迫りEVで舞台袖へ、その時一緒にEVに乗り込んできたのがあの「ビッグフォア―」の四人、共演しているとはいえまさかEVのなかで天下の歌手とビッグフォア―のメンバーと一緒に居る現実に興奮度はさらにヒートアップしていました。EVの中でベースの小野満さんから「君たち、どこの高校?」と聞かれ都立三商ですと答えましたが「海老原啓一郎さん(12期アルトサックスジャズ奏者)の後輩です」と余計なことを喋り、内心「あッ!しまった」と思いましたが彼が他のメンバーに「エビちゃんの後輩だって」と言い、そして「なんか楽器やってんの」と聞かれ、ただただ首を横に振るだけでした。EVの中で印象的だったのはチエミさんの飾り気のない人柄とにこやかな微笑み、ジョージ川口の豪快な笑い声、松本英彦の目の細さ、中村八大の口元、小野満のハンサムぶりでした。

▼昭和34年、あの高倉健さんと結婚はしたもののマネージャーをしていた異父姉の不審な行動から借金返済の責任をとり、やむなく離婚、その前年には瀬田にあった自宅が火災に遭ったものの本格的ミュ―ジカル「マイ・フェアー・レディ」で主演、高島忠夫や益田キートンと共演し数々の演劇賞を獲得しました。この時、細田武氏夫妻が宝塚歌劇場(終戦以後しばらくは米軍専用のアーニーパイル劇場)の楽屋をおとずれ再会しています。細田氏はTVのチエミさんの幼友達としてどこかのTV局に出演したこともありました。離婚後の誤嚥による不慮の死はショックでした。その数日前にホテルニュージャパンの大火災があり彼女の死を挟んで日航機逆噴射墜落事故があったりと、その為にメディアは彼女の死を大きく扱わず彼女は一人寂しく旅立って逝きました。高倉健がその命日に幾度も墓参りをしているエピソードはご存じかと思います。NHK紅白の女性陣の司会として昭和63・4年と2度務めています。英語と日本語を織り交ぜてジャズやポピュラーを歌う数々の歌手のなかでの草分けで、小節を利かせての民謡、端唄、俗曲など下町っ子らしいあの色気も忘れ難く、高倉健を想っての歌詞かと感じさせる「酒場にて」にある~♬♬ 家に帰る時が怖い私よ、あのドアーを開けてみったてあなたは居まい ♬♬~は彼女の切なく、哀しい、寂しい胸の内を奏で語る名曲として心に浸みる名曲です。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第7回-         第21期 髙野 昇  2016年11月投稿

七人の侍

「あのころの…映画**巨匠小津と黒澤 #2」

▼日本-映画の誇る監督、黒澤の名を知らぬ人は我々の年代(昭和生まれ)では居ないはずです。小津とは正反対のダイナミックな画面構成とストーリーは彼を「世界の黒澤」に押し上げました。彼の最高傑作は「七人の侍」でしょう。「激突」「ジョーズ」「ジュラシックパーク」のS・スピルバーグも彼に多大な影響を受けています。黒澤の処女作は「姿三四郎―1941年作 主演藤田進」でした。時代背景からして戦意高揚を思わせ、当時の「心・技・体を以って米国を凌駕する」まさに国威に合った軍部にとっては思いどおりの映画だったのでしょう。実際は相手倒す、ただそれだけの「柔術」を、精神を高揚し相手を想い煩い、礼に始まり、礼を以って終わる「柔道」を切り開く嘉納治五郎の思いを軸にしたものでした。

 ▼当時は国による映画・演劇の検閲が厳しくなり、その検閲の委員の一人に小津がいました。小津は「この映画は100点満点中、120点と評価した」と戦後の映画雑誌「キネマ旬報」にのっていました。がその記事の中「戦意高揚の意味でそう言ったのではなく、自分では絶対作れない別の面の映画の在り方を描いた黒澤を褒めたかった」と語っていました。映画人としての小津の本意だったのでしょう。

 ▼作品のため撮影の邪魔になる家屋を買い上げ取り壊したり、特急列車を一編成借りきる(天国と地獄)、プロ野球の公式戦中にスタンドでロケを敢行しクレームをつけられたり(野良犬)、「椿三十郎」では全ての俳優に真剣と同じ重さの擬刀を持たせ、三十郎が二十数人を一気に切り倒す場面ではノーカットで撮り、その凄まじさは黒澤イズムの象徴的な場面でした。「七人の侍」での雨中での戦う場面では数台のカメラを同時に回すなど縦横無尽に動き、製作費に限りがなく契約先の東宝を泣かせ、とうとう自ら独立プロを立ち上げる事になります。黒澤をはじめこれら作品に起用された俳優の人たちもほとんどが鬼籍に入り、あわせて昔日の日本の映画界の素晴らしかった頃を思うこの頃です。

15期小嶋皓一さんと同窓会事務局のやりとり その2            2016年10月投稿

15期の小嶋晧一様からお預かりした貴重な写真のお話の続きです。
まずこのページの下にある「その1」をご覧ください。

>「朝香師団長宮様」が昭和8年10月26日に三商でご閲兵なさった・・・
>小嶋様の画像もその時のものと想定されます。

>どうも15期の小嶋さんがこの写真の昭和8年とは時代が10歳近く経っているはずなのです。
>小嶋さんはどうしてこの写真を持っていたのでしょうか?
>この後も小嶋様とのやりとりが続きます・・・・  次回にこの謎は解けます。

とお知らせしてしましたが。。。。この件について小嶋様に聞いてみました。

「この写真は音楽部の部室にあったものなのです。時計台の下の部室でした」(ブラスバンド部と思われます)
「そこに写真の束があってそこから無断で私が持ち出したものなのです」

それで納得しました。
○昭和8年「朝香師団長宮様」が三商で閲兵なさった。その模様が撮影された。
○その写真は他の写真とともに、時計台の下の音楽部の部室に保管されていた。
○昭和23年当時、在校していた15期小嶋少年がそれを見つけ、いたずら心で持ち出した。
○それから60数年、その写真が小嶋様より事務局に託された。

この話の後日談。
懐かしくなった小嶋様が三商を訪ねたそうです。中山校長がわざわざ校内をご案内いただいた
そうです。感激した小嶋さんはさらに懐かしくなり11期の先輩(当時は5年制)、横浜在住の
大森敏雄さんを訪問しました。90歳を超える大森さんも懐かしがっていましたが同窓会のことはあまり
ご存知ないとのこと、事務局からご連絡をして同窓会会報のバックナンバーをお送りしました。
それにFAXによるメルマガ会員登録も行いました

小嶋様の一通のメールから三商の昔と今がつながることが出来ました。大変うれしいことでした。

身障者福祉用シャツのご紹介          同窓会副会長 篠﨑 清  2016年10月投稿

先般、読売新聞を読んでいた際、私の都立三商の後輩で[34期]の亀戸にて事業を展開しております白石シャツ㈱の社長、白石一俊君の会社が身障者向けの、シャツを開発販売したことが大きく報道されて居りましたので同窓生の皆様にもお知らせした次第です。

彼とは両国に事務所が在ります東京都布帛製品工業協同組合と云う衣料品に関する会社が加入しております団体で役員として私共々頑張っている間柄です。また、この組合の事務局長も三商出身という事で身の回りに同窓生がいらっしゃる事で私も元気付けられております。

新聞の影響は多大でありまして今現在はイトーヨーカ堂さんと取引でき、取扱店舗も徐々に増えているそうです。同窓生の皆さんの周りでこの商品を必要とされているかたが居られましたらお力添えをお願い致します。商品に関しましてはあくまでも福祉用という事で特別に紹介させていただきました。今後ともmade in Japanの衣料品をよろしくお願い申し上げます。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第6回-後編      第21期 髙野 昇  2016年10月投稿

「あのころの…映画**巨匠小津と黒澤 #1」

▼そして常連の笠智衆はあの独特な訛りの強いアクセントと、何とも言えぬ風貌、ゆったりとした台詞と物腰、「東京物語」の中でのはとバスで東京見物をするシーンでの中折帽子の被りかたは、いかにも都会の混雑と人の多さに戸惑う田舎の老人の姿で、小津の演出の極みの一つと感じます。
この映画の中で山村総扮する長男が開業している町医者の所在地に近い駅が、東武鉄道の東武スカイツリーラインの「堀切駅」です。荒川土手に沿って在るこの駅は、今もスクリーンの中とあまり変わらぬ風情を残しています。都内でも数少ない木造の駅舎で鉄道ファンには知られている駅です。この近辺はTV「金八先生」の舞台にもなりましたが、あの「桜中学」のロケ校となった区立中学は廃校になり、今は東京未来大学となっています。 

▼日本家屋の様式美を重んじての数々の画面の中で、家の中でのシーンのカメラはいつもローアングルでこれは畳に座って居る位置での目線、会社の事務所などの場面でのカメラの方向の目線は机に向かう椅子に座って居る高さ、あのたどたどしい台詞も、日本語の美しさや正しい会話を求めての成行きと聞きました。
「東京物語」のラストで「寂しくなったでしょう」と声を掛けられた笠智衆が、背をまるめて頷くところは映画だけが表現できる生きることえの寂しさのシーンで胸に迫りました。秋の 芸術祭参加作品 のみの一年一作を貫きとうしたピケ帽子とチョビ髭の小津、今は天世であの原節子と仲良く映画の話でもしている事でしょう。 

15期小嶋皓一さんと同窓会事務局のやりとり その1            2016年9月投稿

2016年8月初旬、15期の小嶋皓一さんより事務局にお電話がありました。
戦前の軍事教練が三商で行われた時の写真が手元にあるので、是非同窓会でも保管してもらいたいとのことでした。
頂いた貴重な写真4枚が下記の画像です。
画像クリックで拡大できます。

その後 事務局から小嶋さんにメールをいたしました。

15期 小嶋皓一様
今回は貴重な資料をお送りいただき誠にありがとうございました。
ホームページには「三商アーカイブ」というページがございます。
三商アーカイブス
「私の三商アーカイブス」は皆さんの貴重な三商関係資料を永久保存してまいります。

だんだん四散してしまう貴重な資料をぜひ事務局にお貸しください
電子化して資料はお返しいたします。
このページに小嶋様が投稿いただいた画像を掲載させていただきます。9月初旬掲載予定
http://tcsaa.jp/information/data/
以前三商会会計人会 10期帆足様より5期であったお兄様帆足幸作様が所蔵なさってい
5期の卒業アルバムを掲載いたしました。http://tcsaa.jp/files/files20130627235518.pdf
そのアルバムによりますと「朝香師団長宮様」が昭和8年10月26日に三商でご閲兵なさったとの
掲載がございました。小嶋様の画像もその時のものと想定されます。ぜひそちらもご覧ください。
小嶋様のFBも拝見させていただきました。ご高齢でいらっしゃるのにFBへの投稿や
メールなど感服いたします。
今回はご連絡をいただき誠にありがとうございました。

どうも15期の小嶋さんがこの写真の昭和8年とは時代が10歳近く経っているはずなのです。
小嶋さんはどうしてこの写真を持っていたのでしょうか?

この後も小嶋様とのやりとりが続きます・・・・  次回にこの謎は解けます。

軍事1
軍事2
軍事3
軍事4

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第6回-前編       第21期 髙野 昇  2016年9月投稿

「あのころの…映画**巨匠小津と黒澤 #1」

▼小津安二郎の映画は「つまらない」 「面白くない」 「画面に変化がない」など、とくに若い方には不評のようです。アニメやバーチャル系の映画が全盛の今、満足感がないのでしょうか。小津は松竹映画がまだ蒲田に有った頃からの映画人ゆえ、その作風を晩年まで持ち続けたオーソドックスな監督、演出家だったのです。カメラアングルは固定したまま、パン(カメラを左右または上下に振る)もせず、台詞などは喋る俳優を一人ひとり比較的アップで撮り、少し斜めに構えさせてカメラを廻す、こんな作りが小津流のやり方ですね。あの「東京物語」の原節子が笠智衆や東山千恵子との会話するシーンがいい例だと思います。小津作品は当たり障りのない市井(しすい)の暮らしを台詞の中で描き、言いたいことをあまり語らず、まずは建前を喋る日本人独特の、相手を直に傷つけない話し方など、これは初期のTVドラマなどの根本ではなかったでしょうか。画面に汚いものは映さず、ただただ台詞とカメラワークとストーリーの清潔さにこだわり、いわゆる 小津調 ですね。「映画はドラマであってアクションではない」」の持論を生涯守り通した明治人でした。

▼小津安二郎は私たちと縁のある深川は萬年町の生まれ、江東区常盤二丁目に今もある萬年橋の辺りでしょうか。萬年橋といえば「奥の細道」の松尾芭蕉が奥州に旅立った時の江戸最後の庵「採茶庵(さいとあん)」があった處、現在も「芭蕉庵」として記念館があります。*余談ですがここ萬年橋と旧芭蕉庵辺りから観る清洲橋の眺めはすばらしいです。とくにライトアップの夜間は格別です* 小津は明治小学校(尋常小学校)に入学し、その後4年生のころ父の生地の三重・松坂に転校しています。作品に出てくる俳優も笠智衆・原節子・佐田啓二・佐分利信・中村伸郎・東野栄治郎・杉村春子・三宅邦子・高橋豊子などほぼ同じ顔ぶれ、当時の人気女優の司葉子・岡田茉莉子、岩下志麻なども各作品のヒロインとして登用し、ヒロインにはあくまで清純さを求めていたようです。

次回へ続きます。

隅田川花火大会                    26期 岩瀬和子  2016年9月投稿

 7月30日(土)に隅田川花火大会が開催されました。

私はスカイツリー450mの天望回廊から花火を見ました。皆から花火は下から見上げるので上から見たって面白くないと云われましたが、ぜひ見たいと思って行って来ました。

 隅田川花火大会は江戸時代から伝統のある「両国の川開き」を受け継ぎ、1978年(昭和53年)に復活されました。

 350mの天望デッキでも450mの天望回廊でも自由ですが、天望デッキの方が混みそうなので、天望回廊へ行きました。人がまばらなので案内の若いイケメンにどこがベストスポットか聞き、第一会場の花火打ち上げ場所と第二会場の打ち上げ場所の中央に立って見ることにしました。時間が経つにつれ、周りに人が多くなりましたが、動かずじっとしていました。

 6時15分に両会場から開催合図の花火が打ち上げられ、第一会場は7時5分、第39回墨田川花火大会お祝いの1,158発の花火と第二会場は開幕大花火五色の彩典の1,150発のお祝いの花火が打ち上げられました。

 第一会場の花火は国内の優秀な花火メーカー10社によるコンクールが行われ、パンフレットを見ながらネーミングを参考に見ました。趣向を凝らした作品が見られ、時々歓声があがっていました。

 8時25分終わりに第一会場は2,048発、第二会場は2,050発の花火が打ち上げられ、とても豪華できれいでした。第一会場で打ち上げられた花火の数は9,505発、第二会場は10,650発だったそうです。

 覗き込む感じで見ましたが、クーラーが効いて涼しいし、音は聞こえるようになっていましたし、立ちっぱなしなので足が疲れましたがそれなりに楽しめました。来年は350mの天望デッキで早く場所を確保して見たいと思います。

 我が家の屋上から第一会場の花火が見られ、子供が小さい時は友人達も呼んでバーベキューをしたりしていましたが、最近は見なくなりました。下の階の人が見たいと云うので「どうぞうどうぞ勝手に上がって見て下さい。物置にイスやござが入っていますのでご自由に使って下さい」と云ってあげました。ご夫婦の親御さん達も呼び、とてもよく見えてよかったと喜んでくれました。

フォークソング世代                  33期 佐久間保人  2016年8月投稿

28.8 佐久間さん画像1

 21期高野昇先輩の投稿「あのころのJAZZ&ポピュラーミュージック」を楽しく読ませていただいています。

 12歳年上に当たる高野先輩の思い出がJAZZ&ポピュラーミュージックとすれば、私たちの世代は「フォークソング」と「ビートルズ」ではないでしょうか。ビートルズの来日50周年記念にあたる今年はTVでもビートルズの特集が多く組まれています。当時、エレキギターは不良って言われていたりして、せいぜいマッシュルームカットの長髪をするくらいでした。(同期の浦田君の髪型です)

 その頃アメリカのフォークソングが入ってきました。ウエスタンカントリーでもなく、都会的なセンスがあったモダンフォークってやつです。「ブラザースフォー」男性四人組で「花はどこにいったの」「グリーンフィールズ」などのヒット曲で大学生の香りがするグループでした。同じようなグループでキングストントリオもいましたね。同じころ出てきたのが、ボブ・ディラン、ジョン・バエズ、ピーター・ポール&マリーなどで特に社会性のあるシンガーソングライターでした。

チラシ最終版 (リサイズ済み)

 ピーター・ポール&マリー(PP&M)は珍しい男性2人と女性1人のコーラスグループで二台のギターとベースのサポートが入る構成でした。ヒット曲では「パフ」が小学校音楽の教科書にも載るほどでした。金髪のマリー・トラヴァースは2009年に亡くなっています。日本にも多く来日公演し、たくさんのPP&Mファンがいます。
 当時私たちもアコースティックギターを買い、
PP&Mとそっくりに歌おうと耳コピで何回もLPを聴き、ギターを練習したものです。でも一緒に歌ってくれる女子がいなくて残念ながら男三人でやっていました。それに英語の苦手な三人ですから「Don't Think Twice, It's All Right」もうまく歌えません。でも「500マイル」は比較的簡単な英語でしたからなんとか・・・・

 そのピーター・ポール&マリー(PP&M)のライブを昨年10月に江東区文化センターで三商生の仲間と見に行きました。正確にはPP&Mのコピーバンド大会です。PP&Mをコピーして唄うPP&Mの熱烈なグループとそのファンたちに集いです。
今年もPP&Mフェスタ2016が開催されます。ぜひフォークソング世代の皆さんご一緒しましょう。

10月8日土曜日13時開演 江東区文化センター(東陽町区役所横) なんと無料なのです。パンフレット画像をクリックすると大きくなります。チケットも必要ありませんから当日会場にお越しください。

燦商閑話(さんしょうかんわ)-第5回-           第21期 髙野 昇 2016年8月投稿

「あのころの…8月15日」

▼またあの八月十五日がやってきました。敗戦記念日、休戦記念日、終戦記念日、言い方はいろいろありますが人夫々のその時の立場から、言い方がまちまちになるのでしょう。この一年前の八月十日に私は学童疎開に出発しました。私はまだ9歳9か月の三年生、疎開児童対象の中での最下級生で在学時の江東区第一亀戸国民学校は山形県のかみのやま温泉が疎開先となり、出発当日の夕刻、校庭に集まった多数の父兄が振る日の丸の小旗に見送られて上野駅から夜行列車に乗り現地に向かいました。車窓からいまだに見た事もないような、やたらに大きな赤い月が見えました。宿泊先は湯治場のちいさい旅館で25人はどの仲間との共同生活が始まりました。

到着4・5日は遠足、キャンプ気分でいましたが十日もすると全員が無口となり、夜、布団を被っての泣き声があちこちから聞こえていました。預かり主の旅館の主人がとても親切でいろいろと慰めてもらっていました。私は6年生の兄と一緒でいつも同じ布団だったのであまり泣いた記憶はありません。その6年生が翌春、卒業のため帰京し一週間のあと東京大空襲に遭遇、罹災し、おなじ宿の7人の6年生の内3人が焼死し残った私達も深い悲しみに沈みました。帰省できる6年生を羨ましく思い、できたらなんらかのウソでもいいから理由をつけて一緒に帰りたいあの思い・・こども心にも紙一重の運命を感じました。

▼三月十日に罹災した我が家は避難先の小岩に居ましたが、兄が卒業後、疎開先での上級生からのこっぴどい いじめ に合い、どうしても疎開先を縁故先に変えるとの理由で迎えに来てほしいと父に内緒の手紙 (当時は手紙は先生が全て検閲) を出し、願いが叶い20年5月、一旦小岩の家族の元に帰りました。その日灯火管制下の暗い家の布団の上に、まだ4歳だった妹がチョコンと座りにこにこした顔で私を迎えてくれ、あの時の妹のおだやかな可愛い顔は今も懐かしく思い出します。その妹も後期高齢者となりました。小岩にいた一か月の間、毎晩空襲に怯え、B29の編隊が落とす焼夷弾や真っ赤な夜空など恐ろしい日々でした。まもなく叔母の住む千葉県の椎柴(現銚子市)に縁故疎開、そこで終戦をむかえました。玉音放送は意味も分からず、「忍び難きを忍び・・耐えがたきを耐え・・」の部分で、あーもっと頑張れと言ってるんだと思っていたら大人達が泣いている姿を見て終戦を知りました。そしてまた思った事は「これで小岩の家に帰れる、妹にも会える」ただそれだけでした。

▼終戦の十日ほど前、私は生徒全員の前で強烈な往復ビンタをくいました。2・3メートル吹っ飛んだと思います。米軍のB29が撒いた~敗戦間近を知らせる~物で私が拾ったという事でした。誰かが言いつけたもので、ビンタをくれた先生は代用教員の中学四年生で銚子中学(現市立銚子高校)の生徒です。日頃から疎開児に対し「おまえら俺たちの事、田舎っぺと言ってるんだろう、勉強はできるが体ができてない、鍛えぬいてやる、性根が悪い」など言い、軍馬用のくさ取りや松根油 (松のヤニを精製し飛行機の燃料とする) 採りの割り当ても疎開ッ子に多く割り当てが目的とうり出来なければ罰として用務員室の風呂の水汲みまでやらされました。劣等感・優越感・軍国少年ら入り混じってのビンタだったのか。生涯ただ一度のビンタ経験でした

 

H28.8 高野さん投稿写真

ゴルフコンペで優勝しちゃいました            26期 岩瀬和子  2016年8月投稿

7月10日(日)扶桑カントリー倶楽部で第20回タートルストーンコンペがあり、その時の出来事です。飲み屋放浪記で訪ねたことのある「鳥義」さんは30期柔道部だった氏家さんがご夫婦とお子さんとやっているお店です。息子さんが消防団に入っていて、地域の消防団員とその友人達でゴルフコンペを年3回位やっています。参加者は20人くらいです。パーティは車を置いてきて鳥義さんで行っています。名称は亀沢町と石原町の人が中心なので「タートルストーン」と名付けられています。このコンペに参加すると、入賞しない時はハンデが2つ増えていきます。私は初めからハンデが多かったのと、ためにため今回は66ありました。

ハンデが多いのでいつも馬券にからむのじゃないかと皆さん期待されていますが、期待に応えられませんでした。私自身でさえ買う気になりません。でも今回は7月6日に同期のゴルフコンペがあり、ブービーでしたが、練習が出来たので、ちょっと自信がありました。なにせハンデが66もあるのですから。今回は自分から買おうかなと思いました。が、やはり自信がありませんでした。でも結果私の一人取りでした。まさか買っていたとは思いませんでした。2位の人は今もこないだろうと思ったのでしょう。馬券25000円、優勝賞金5000円でした。気温も思ったより高くなく、さわやかな風が吹き、いい一日でした。

スコアは62、63、グロス125、ハンデ66、ネット59でした。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第4回-後編       第21期 髙野 昇  2016年7月投稿

あのころのJAZZ&ポピュラーミュージック#1

▼ドラムをバックに演奏する曲も必ずといってよいほど「ドラムブギ」「スウィング・スウィング……」でジョージ川口とビッグフォアーの演奏するドラムブギは松本英彦のテナーサックスとの噛みあいが素晴らしく、2つのベースドラムとともに今でも印象に残ります。クラリネットのピーナッツ・ハッコーと共に演奏、録音した鈴木章治とリズムエースの「鈴懸けのみち」とともに日本人ジャズメンの名演奏だと思います。

▼フランキー堺はのちに俳優としても成功し映画「幕末太陽伝」、テレビの「私は貝になりたい」などで名演技、東宝の社長シリーズでも常連、白木秀雄は上野の芸大出、裕次郎の日活映画「嵐を呼ぶ男」でのドラムは、実は彼がアテレコをやり、そのレコード盤のドラムは白木自身の音でした。水谷良重(現水谷八重子)との結婚も短く、彼の終焉は壮絶なものでした。ホラ吹きジョージといわれていたジョージ川口は米軍キャンプ時代に米軍将校に可愛がられ航空機1機をもらったが置く場所がなく沖縄に置いてきたというホラはいまも伝説として有名です。ジョージ川口については亡くなる一ヶ月前の2003年春に亀戸のカメリアホールで演奏会があり拝観し、その秋に訃報を知り驚きました。76歳でした。今はあのBIG FOUR(ジョージ川口、小野満、中村八大、松本英彦)も全てのメンバーが鬼籍の人となりました。南 広というドラマーが居ましたが東映の俳優になり「点と線」の刑事役で評判をとり、数多くの映画・TVに出ていました。ジャズメッセンジャーズのアート・ブレイキーも忘れ難い奏者です。

▼ドラマーではないのですが我が母校の先輩で12期の海老原啓一郎氏も忘れられません。昭和19年に12期生として卒業、軍楽隊に入隊したものの翌年に終戦、進駐軍のクラブで演奏したのちアルトサックス奏者として与田輝夫とシックスレモンズに入り、それは銀座5丁目にあったジャズ喫茶の「テネシー」で拝見したと思います。その後はあまり表には出ず赤坂の「ニューラテンクォーター」のジャズバーにレギュラーとして出演しており、ジャズの本場の外人客から人気が抜群だったと噂で聞きました。その後も音楽制作会社などを作りましたが平成4年6月に67歳で彼岸をわたりました。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第4回-前編       第21期 髙野 昇  2016年6月投稿

あのころのJAZZ&ポピュラーミュージック#1

▼中学生のころ、兄が口ずさんでいた曲に“You are my sunshine”があります。ご存知の人も多いと思います。どこからか英文の歌詞を書きうつし拙劣な英語で私も小声で口ずさんでいました。当時は進駐軍(米軍)向けにラジオ放送があり、WVTR放送(770kc)と呼んでいました。いつも軽い音楽が流れ、そんな時はラジオ店の店先で立ち聞きをし、父や母がいつもラジオで聞いている歌謡曲とは少し違う感触、さらさらとした明るい音色、リズム感、わくわく感、なんとも複雑な気持ちを抱き乍らの平和への安堵感、きっとそこには希望に似たなにかが有ったのです。そんな思いの心に踊っていたのがWVTR(後のFEN)でした。“You are my sunshine”をはじめその頃のアメリカから入ってくる曲は全て“JAZZ”といっていましたが今はポピュラーミュージックです。次に覚えたのがドリス・デイの“A sentimental journey”でした。子供心になんとなく哀愁が漂うスローなメロディが好きでした。私の在学中はパティ・ペイジの唄う“Tennessee waltz”がおおいに流行りどこのラジオのダイヤルをまわしても♪I was waltzing……♪♪~が流れていました。

▼そんなことから当時のJAZZに入れ込みはじめました。三商在学中の頃、我が家の前に有る電気屋さんのお兄さんに頼んで[電気蓄音機]をつくってもらい、レコードや進駐軍放送を比較的いい音で聴く機会となりました。LPレコードが出始めたころで、兄が奮発して買ったLP(白鳥の湖-33回転)をSPの78回転でかけ、ダメにした事もありました。進駐軍放送から流れる本格的なバンド演奏、ベニー・グッドマン、ハリー・ジェイムスなどのスイングジャズに夢中な時を過ごしました。ラジオでは“S盤アワー”があり帆足まり子のアナウンスとペレス・プラドの“マンボジャンボ”のテーマ曲がいまでも頭に残っています。

▼国内でも駐留軍のキャンプで演奏活動をしていた邦人ジャズメンがラジオの普及と共に街に出現するようになり、いろんなコンボやフルバンドが出現、JAZZ演奏の楽器の中で特に興味があったのが“ドラム”です。昭和27・8年、本場アメリカから“JATP”というジャズ奏者の一大興行団体(Jazz at the philharmonic)で、ユニオン的なグループが来日し、これが日本におけるジャズブームの走りのきっかけとなったのではないかと思います。そのメンバーの一員としてJ・Cハードというドラマーがおり、相前後してあのジーン・クルパーバンドも来日、日本劇場などで公演、この辺りがきっかけとなり日本人ジャズメンから多くのドラマーが輩出しました。ジョージ川口、猪俣猛、白木秀雄、フランキー堺、ジミー竹内など、あちこちの劇場や公会堂でドラム合戦と銘打ってファンを呼び込み、東京では日比谷公会堂、井立講堂、有楽町にあったビデオホールなど後楽園競輪場でも開催しており、司会やMCはだいたいトニー谷かロイジェームスそれにEHエリックでした。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第3回-後編       第21期 髙野 昇  2016年5月投稿

▼満員の「都電」は堅川の橋を渡り毛利町を過ぎます。左手の毛利小学校には三商の二部(当時は夜間部といっていた)が開設されていたと思います。その裏手に猿江恩賜公園、大きなガスタンクが見えました。次は「住吉町二丁目」、ここで同じ路線を走る36番系統(築地行き)が右折し新大橋通りに入ります。28番は小名木川を渡ると「千田町」で、化工高生が下車しますが車内は一向に空きません。この辺りは都心に通勤、通学するには都電を利用する他に手段がなく路線バスなどはありません。都電が全てでした。

この先を豊住橋、井住橋と渡り、この近辺は橋ばかりです。「東陽公園前」で深川高生が降り永代通りを都電が右折。左手に“洲崎パラダイス”のネオン式看板を見て三つ目通りを越せばもう木場三丁目と一丁目。木の香りと鋸屑(おがくず)の匂いを感じたらもう下車停留所の「富岡町」です。登校時はここで下車しますが、下校時は同クラスの友達と一緒のこともあり「不動前」から乗りました。ここから徒歩でまた東富、琴平、釣舟橋の三橋をやり過ごし、校門前にある“日進印刷”?という看板を見て校舎右手の生徒出入り口を入ります。亀戸の自宅から50分近く掛かって校門をくぐる昔日の日常でした。▼

*****深川近辺はご存じの様に掘割りが多く江戸時代から交通網の担い手。木場の材木の貯木場でもあった訳ですが、今歩きながら改めて眺めてみると、材木問屋が新木場に移転してからはその跡地は高層マンション、大型ショッピングモール、公園などと化しています。2020年のパラリンピック、オリンピックの会場が江東区にかなり多くあることを思うと益々変化していくかもと、あちこち寄り道しながら考えました。猿江には“猿江恩賜公園”が有り、“恩賜”がつく公園はここと上の恩賜公園くらいでしょうか。若い人から“恩賜”ってなんですか?と聞かれそうです。立派な野球グランドもありノンプロ東京ガスの野球チームのグランドになっていました。

小名木川橋を過ぎるとこの辺りに“ミツウロコ練炭”の工場があり、近所のおじさんが勤めていました。“練炭”なんて今は殆ど死語ですね。豊洲橋を過ぎると江東区役所が見えます。以前は清澄庭園の前の三好町にあったのがこちらに移転、所内には在学当時の担任だった横山文夫先生の彫った彫像があります。途中下車して暫し眺めました。昔、日活映画で「洲崎パラダイス・赤信号」という芝木好子原作、三橋達也主演の作品があり、スクリーンの中では永代通りを行き交う都電が多く登場し、懐かしくスカパーで拝見しました。三つ目通りも今や都内の主要道路となり交通量の多さにビックリです。頭の上を高速道路が走っています。元の「富岡町」停留所で下車、徒歩で南に向かい、また三つの橋、東富、琴平、釣舟橋とその名も懐かしい橋の名も現存です。釣舟橋の袂にかつて「釣り宿」がありました。ハゼ釣りの客が寒い中、朝から大勢店先にいました。生海苔を簾の型に流し込んで天日干している仕事もやっていたのを何度か見、その手さばきの鮮やかさがとても粋だったのが記憶にあります。その釣舟屋さん(富士見)が今も営業しているんです。感動でした。

深川三中の火災が当時ありましたが、三中の脇を「不動前」に向かう途中に“宝盛庵”という蕎麦屋があり土曜日の下校中に時々寄り、もり蕎麦を食べ、その頃はもり蕎麦一杯17円の記憶があります。校門前には地下に京葉線が走っていますが、旧校舎の地下室はいつも濁った水が溜まり、海抜ゼロメートルなら当たり前だと思っていたあの頃…なんとも想像できません(笑)。帰路は旧商船大学のキャンパス内を散策、「明治丸」をあらためて眺めそのあと京葉線に乗り、都心をブラブラと歩きおよそ20000歩近い一日でした。*****

●過ぎし日の 名残求めし深川の 渡りし橋の名は今もあり

33期生 歌門俊雄氏 の同窓会報記載の(今昔物語)の都電の写真、懐かしく拝覧、私が通学の時期とは15年近くの年差がありますが当時の面影が数々偲ばれました。感謝!



33期 歌門俊雄さんの投稿記事
はこちらからご覧いただけます。
外部リンク(YouTube)に動画がありますので併せて見るとより楽しめると思います。

忘れないで夢を こぼさないで涙           26期 岩瀬和子  2016年5月投稿

忘れないで

 私は小学三年生の時、近所の幼友達に書道塾に誘われ、字が下手(今でもペン字は下手ですが)なので、誘いに従いました。しかし彼女は中学生になった時辞めてしまいましたが、私は続けていました。

 三商へ入学した時、テニス部に入りましたが、健康診断で再検査になり、担任の山脇先生より、運動部はやめた方がいいと言われ、書道部に入りました。再検査の結果、異常なしだったので二年生の時、生徒会主導のもと女子バレー部が発足され、クラスメイトに誘われて女子バレー部の一期生となりました。

 社会人になり、塾へ十年通ったので辞めました。そのあと時間が出来たので区の施設の書道教室に通いましたが、二・三年で先生が体調を崩され終わりました。3、4年前、区報で高齢者の「生きがい趣味の教室」を知り、書道教室に入りました。毎年十一月に作品発表があります。先生が参考のお手本になるよういろいろな本を持ってきてくださいました。私は表題の相田みつを言葉と字の太細の変化の面白さに惹かれ書きました。

 先生や友人達に評判が良く、どこかへ飾れと云われて校長先生にお話したところ、校長室へ飾ってくださいました。作品にはお習字をやっているのを知ったてん刻がご趣味の十九期北村さんが作ってくださった、名前の落款を押させてもらいました。

 校長室を訪ねた生徒さんたちが退室する時、必ず読むよう校長先生が云ってくださっているそうです。嬉しいことです。

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第3回-前編       第21期 髙野 昇  2016年4月投稿

 ◎65年前、三商に通学していた頃のルートを徒歩で辿りました。◎

当時は住まいの“江東区亀戸”から同区内の越中島までは全て「都電」で通学、同区内とはいえかなり時間を要しました。「京葉道路(その頃は千葉街道と言ってた)」の「亀戸駅前」から「都電」の25番系統(西荒川~ひびや)29番系統(葛西橋~須田町)38番系統(錦糸町~日本橋)のどれかで錦糸堀まで行き、始発の28番系統の「東京駅」行きに乗り換えます。

 錦糸堀の停留所は千葉街道を渡った南にあり、今でいえば“三井住友銀行”の前あたりです。左角に焼け残ったビルがあり、戦前の白木屋デパートで、子供の頃このビルの一階が「城東電車○○私鉄」の始発駅でした。いま風にいえばターミナルステーションです。車両の屋根の上のポールはそのころは二本有りました。この路線は大正7・8年頃に敷設されたらしく、それ以前、すでに小松川(荒川)を挟んだ東西に路線を持っていました。 昭和16・7年頃に東京市に買収されました。

 昭和30年以降、JRの駅前に停留所が移動し都電の方向板も錦糸堀から錦糸町と、いつの間にか変わっていました。当時、乗降客の半分以上が高校生で、沿線には三商生はもちろん化工高校(千田町)、深川高校(東陽公園前)、私立中央商業(永代橋)などがあり、車内で他校に通う中学時代の同級生に会うことができるのが楽しみでもありました。東京大空襲による土台だけを残した焼け跡残る「四つ目どおり」「永代通り」を走りぬけ、錦糸堀からおよそ30分近く掛け、「富岡町」で下車します。

****65年も時間が経過すれば人も町並みも変わるのが当然です。下校後の寄り道で錦糸町の江東楽天地の本所映画館、江東劇場、きんげき、花月劇場等で映画を観たり、まだ珍しかったテレビが楽天地内の屋外にあり、つまり街頭テレビです。そこで白井義男のボクシング世界フライ級タイトルマッチを見て興奮したのは昭和27年のことでした。楽天地も全てが建て替えられ、ビルの上階に温泉まであります。

 かつて本所映画、江東劇場が道路に面して立ち並んでいた姿は浅草六区の旧大勝館と並び、その佇まいは立派なものだったと今も思います。時折、「亀戸駅前」から38番系統に乗り、乗り換え無しで登校しましたが、本数が少なく遅刻の恐れが有りました。この路線は「亀戸水神」から旧亀戸精工舎(現サンストリート)の横の専用軌道を進み、大島(おおじま)を抜けてまたまた砂町(南砂)から専用軌道を汽車製造会社の脇を大きく曲がり永代通りに出ます。この路線は上記の城東電車の戦前の軌道です。*****

 高野様の第3回都電の話は力作です。次回に分割して掲載させていただきます。 編集部

しりとり短歌                  27期 島村春徳     2016年4月投稿

27期の島村さんから、同窓会報54号をお送りして、そのご挨拶を頂きました。
その中で、ご趣味の短歌をしりとりにしてお作りになった作品を、44首お送りいただきました。
「あ」から「わ」まで語尾が次の短歌になるように1首ずつ読み上げ、ぐるりと一周するようにつくられています。
当ホームページでも新しい試みとして、島村さんの作品を毎月5首ずつご紹介しておりましたこの「しりとり短歌」も
今回で最後となりました。毎月楽しみにされていた方々、大作を送っていただいた島村さんに心より御礼申し上げます。
俳句色紙9

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第2回-          第21期 髙野 昇  2016年3月投稿

明治丸

 メルマガ2月号の”編集後記”に三商校舎に隣接する「商船大学・ー・現海洋大学」に就いての記載がありました。小生が三商に入学したのが昭和26年、当時の商船大学はアメリカ軍(国連軍)によって強制接収されていました。第2次大戦後、米軍による占領政策として国内の大きな建物、学校、病院、工場等は強制接収され、日比谷の帝国ホテルや宝塚劇場(占領中はアー二ーパイルシアター)、丸の内の第一生命ビル(占領中は占領軍聡司令本部・ー・聡司令官はマッカーサー元帥)、下町のシンボルで大相撲のメッカであったあの丸屋根の両国の旧国技館等と共に商船大学も接収され米軍が駐屯していました。正門前にはヘルメットを凛々しく被り、カービン銃を構えた衛兵が歩哨として2名立っていました。

歩哨の前の歩道を通るときはなるべく目をあわせず恐る恐る急ぎ足で通りすぎた憶えがあります。或る日教室の窓から荘厳な音色の音楽が聞こえてきました。だれ彼となくそれが「アメリカ国歌」であることを知りました。おそらく占領軍の高官が施設を訪れ、国旗掲揚と共に国歌を吹奏したのでしょう。

 当時の三商旧校舎の屋上からの展望すばらしく、遠く東京湾、手前に勝鬨橋、右手方面に相生橋とけい留されている[明治丸」の帆柱、月島の造船所の焼け跡、空襲で焼け残った月島の一部の住宅などがよく見えたものです。勝鬨橋は日に3度、9時、12時、3時に開閉しその度にサイレンが鳴っていました。12時の時は「あーもう少しで弁当だ、昼休みだ」の合図にもなりました。あの橋の上を都電が走り渡っていたなんて若い方々には想像がつくでしょうか。

 1年生の時の部活の友人だったM君とはよく放課後屋上でおしゃべりをしてました。そんな会話の中で彼の11歳年上の兄(三商卒生ではありません)は優秀な成績で商船大学に入学し、海軍に召集後、輸送船に乗務して沖縄沖で戦死したと話してくれました。その年の9月にサンフランシスコ講和条約が締結、接収されていた施設が順次返還され商船大学も数年後?に返還されました。今は海洋大学越中島キャンパスとなりました。

 10数年前、キャンパスをおとずれる機会がありましたが、1号館の歴史を語る佇まい、2棟の天文台、おそらくこの場所から昔日の商船大学生の諸兄らが三商の時計台を見ていたかもと思うと感無量のひと時でした。現在は常時オープンキャンパスかと思います。機会をみて訪れること、お奨めです。

詩人 加島祥造氏 (8期)逝去            第21期 髙野 昇  2016年2月投稿

マスコミ新聞等で発表されていましたが、加島先輩の訃報が三大紙に載っていました。十数年前どこかの出版社の集まりだったか機会があって拝顔し、ほんの少しお話を聞くことがあり、マーク・トーエンやテレビでお馴染みだった「87分署」の翻訳をしたこともその時知りました。。詩集「求めないーー」はあまりにも有名です。大先輩のご冥福を祈ります。     合掌

 以前26期の古田さん加島祥造より加島祥造氏についての投稿を頂いていました。
こちらよりご覧になれます。⇒ 「名門 三商讃歌!!」

加島祥造 氏  Wikipedia

燦商閑話(さんしょうかんわ) -第1回-         第21期 髙野 昇  2016年2月投稿

紅干し柿

 柿のシーズンも終わり、スーパーの店頭はみかん、早生のイチゴが並ぶ季節となりました。小生、柿が好きで毎年柿のシーズンが待ちどうしく楽しく食していますが二月ともなればさすがその姿は消えました。千疋屋などで一個2000円もする代物などはともかく、スーパーなどでは100円前後の美味しいものが簡単に手に入りました。ビタミンCが豊富で昔から「柿が赤くなると医者が青くなる」と言われています
 ●そして今は干し柿が店頭にならんでいます。干し柿はいわばドライフルーツの元祖のようなもの、あんぽ柿、市田柿、紅干し柿など値段も種類もまちまち、生の柿とこうも値段が違うのは、出来るまでの時間と手間がかかっている為でしょうか。そしてある文献でその中の紅干し柿が山形県上山市の特産品であることを知りました。上山市といえば小生があの大戦中の学童疎開先で、その後縁故疎開で千葉にいくまでの八カ月、間親元を離れて暮らした地でした
 ●同輩の方でしたらあの辛い、虚しい体験を思い出す方も多いはず。育ち盛りで毎日空腹を抱えていたあの頃、小生らはその干し柿を作るために廃棄される皮を完全乾燥させたものを買い求めていました。今思えば柿の栄養価、とくに乾燥による糖度の強さは優れており、甘いものが欲しくてたまらなかった当時の子供にはなんとも貴重なお八つでもありました。勿論タダのはずもなく内緒で持っていたなけなしの小遣いで買っていました。農家にとっては廃棄処分するはずの柿の皮が疎開児童が、われ先に買いに来るよい副収入だったでしょうね。歌人齊藤茂吉(上山市出身)も食し、愛した上山の干し柿、その干し柿の皮で飢えをしのぎ、恋こがれた糖分を満たしたあの頃、干し柿が店頭に並ぶ季節になるといつも思うことです
 ●仲間の中には木に生る柿を盗み獲りし食したら渋くて渋くて食べられる代ものではなかったとか。当たり前、渋柿はすべて干し柿にする実であることをその時知りました。上山市は蔵王特有の寒風の中、自然乾燥させ、柿の木も地下水の深さが微妙に関連しているとのこともこの歳で知りました。はかの市田柿やあんぽ柿などにも夫々のどんな歴史や製法、個個の想いが有るのか、店頭に並ぶ干し柿を見て思いめぐらす季節です。

第38期 大川一男君のこと             第21期 高野 昇   2016年1月投稿

28.1 高野昇

38期大川一男君は平成25年2月26日、突然の「間質性肺炎」で逝去しました。38期439名の方々共に卒業し、晴れて社会人として一途に仕事と家庭を愛しながら奥様と二人の娘さんをのこし定年を数年後に控えての無念な他界でした。

彼の死は私共家族にとって、私個人にとっても深くて大きなショックでありました。 彼と私の深く強い繋がりは彼が小学校4年生の時から始まりました。私が三商入学した4月、兄 (16期) が珠算塾を始めました。その後私が後を継いだのが昭和30年、その時入塾してきたのが近所に住む彼でした。幼少期は近所では有名?なイタズラ坊主でしたが小学生になってからはイタズラもすっかり影を潜め真面目な児となっていました。中学生の時彼が「そろばんが上手いと三商に行くことができるか」と質問され「学力が伴えばだよ」と言っておきましたが、後日談でしたがあの言葉で学力に力を入れたと申してました。ところがその時期にお母さんが亡くなりました。彼の家庭は母子家庭で、突然に一人ぼっちの環境になり、その時点で彼の三商入学の夢が醒めました。お母さんはちいさな住まいを兼ねた居酒屋を営み人柄の良いお母さんでした。そのお母さんから顔を合わせるたびに「一男をよろしくお願いします」と言われており、いつも少し気にかけていました。そんな或る日父親と思われる方の訪問をうけ「一男をなんとか希望どうりの三商に入れたいので精神的な力添えを」と頼まれました。三商への夢も実現し、部活のない日はほとんど教室に顔を出しちいさな生徒の面倒見も良く、人気者で私も助かりました。時折、一緒に食事に誘ったりプロ野球を観戦したり、そんな中就職シーズンを迎え私は銀行を勧め彼はそのとうり安田信託銀行に就職しました。私の親友がたまたま同行に居りお互い本店勤務なので親友にも「よろしく」頼むことができました。

彼が21歳の時結婚の仲人を頼みに来ました。お相手は同じうちの教室の生徒だったR子さん、彼とは幼稚園、小、中とずーっと一緒でソロバンも教室で机を並べていた人。すでに第一銀行 (現みずほ)員になっていました。福島、千葉と転勤を重ね二人の娘さんにも恵まれ、何回となく我が家にも家族連れで遊びに来られ、うちの3人の愚息共といつも楽しく遊んでいました。

私は平成元年に塾を閉鎖し、縁あって富士銀行の支店に総務課員として従事していた或る日、安田信託上野支店から顧客への信託勧誘のためアドバイザーとして来店してきたのが、なんと彼、大川君でした。何年ぶりかの偶然の再会にお互いにビックリ、同席していた支店長はじめこちらもその彼と私の深い関わりと奇遇さに驚いていました。 思えば彼と顔を合わせた最後の時でもありました。

すでに三回忌も過ぎ、遺族となられたご家族には電話と時候の挨拶のみのこの2年間、申し訳ないと思いながらも、三商の後輩、よく塾をお手伝いしてくれた生徒、訴えるような目でなんでも相談にきたかわいい弟のような存在だった大川一男君、君はいつも私の心に居ます。                                                合掌

第21期 野中郁次郎氏 日本学士院会員に     第21期 髙野 昇   2016年1月投稿

21期髙野氏野中氏

21期の髙野です。去る12月14日に同期の 野中 郁次郎君 が栄えある日本学士院会員に選ばれました。同期として、1年生時に同クラスだった事も有り、三商生として誠に誇らしく思います。1年時の写真です。後列右端が彼、前列左が小生。

【日本学士院】

学術上功績顕著な科学者を優遇するための機関とし、学術の発達に寄与するため必要な事業を行う、文部科学省の特別機関。1879年に福沢諭吉を初代会長として創設され、その歴史は古い。会員は終身であり150名で構成される。二つの部、七つの分科に別れ、欠員が出ると分科ごとの会員の投票によって新会員が選定され、会員に選ばれる事は日本の学者にとって大変栄誉のあることとされる。

野中郁次郎氏 日本経営学者一橋大学名誉教授日本学士院会員知識経営の生みの親として知られる2002年紫綬褒章受章。 ウィキペディアではこう紹介されています。

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