会員皆様の投稿記事
~同窓会ホームページ・個人投稿原稿に関するお知らせ~
日頃より三商同窓会ホームページの閲覧・ご投稿ありがとうございます。
理事会において決まりました投稿規程として、近年携帯からスマホへの移行が多くなり
小さなスマホを利用してホームページを閲覧される方が増えておりますので
文章を読みやすいよう一回の記事は<1000文字程度>とさせていただきます。
それ以上の文字数のご投稿の場合は次号に分けて連載になります。ご了承ください。
木鐸 19期 細田安治 2023年9月投稿
「木鐸」とは、木の舌を持った金属製の鐘。古代中国では、鐘を鳴らし人々を集め政令などを交付した。八佾「論語」では、「天下これ道なきや久し。天まさに、天子を以て「木鐸」となさんとするごとし」などとあるように、これから転じ、世論を喚起し、民衆を教え導く人物をなぞらえる言葉となった。木鐸会のメンバー会長の亀井さんを始め、発足時から木場の「木材や」では一目も二目も置かれる存在であり、「木材や」論客として、「我こそは世の中の人々を目覚めさせ、正しい道へと導く者なり」であったであろうと推測する。尚余談だが、舌も金属製のものは金鐸と言って、軍事に関する件の布告に、用いられた。この会へ林さんを入会させたかったが、「意が通ぜず」今でも残念に思っている。もっともこの会のメンバーは、製材、問屋、小売りが主体で、上の方は問屋であったため銘木には関心が薄かった。だが残念だ。林さんが入会していればもっと盛り上がり、会も更に活性化し、世の中にもひいては都立三商にも貢献できたのではないか“。お付き合いがいかに大事かを痛感する。ここに、亀井さんの没後会長をされていた「木好会」亀井さんをしのぶ短歌を紹介しご冥福を祈念する。木好会 亀井会長をしのぶ
以下文宛短歌
・深川と木場を愛して木に惚れて翁のごとく浄土に旅たつ・これからは東木協の月報に木場好人の物語なし・上木場の旅行宴会亀井節木場シャンソンは二度と聞かれぬ・逢うたびに元気印の亀さんと呼びし先輩今宵浄土に・数々の功績残し世を去りし輝く巨星永久(とわ)に讃えん木好会亀井清蔵氏写真前列中央
氏名 | 役職 | 卒業期 | 社名 | 業態 |
---|---|---|---|---|
亀井清蔵 | 会長 | 1期 | 亀井商店 | 国産材原木 |
四倉栄次郎 | 副会長材商副 | 2期 | 四倉材木店 | 港区小売り |
榎戸 勇 | 11期 | 山恵 | 内外原木・製品・問屋 | |
山﨑 | 幹事長 | 堀貫木材 | 外原木・製品 | |
小池 | 小池木取り店 | 国産材銘木盤木専門店 | ||
青木 | 青木木材 | ラワン製材地挽 | ||
一条 | 18期 | 吉条木材 | 米材原木製品問屋 | |
川名省三 | 19期 | 佐貫屋 | 一般建築材卸問屋 | |
木戸隆吉 | 19期 | ほまれソース | 新大橋ソースメーカー | |
細田安治 | 19期 | 細田木材工業 | 製材木工、乾燥、突板、集成材 | |
岩瀬茂雄 | 23期 | 三進木材 | ラワン製材工場 |
2023年令和5年9月16日
木鐸会の生き残り 細田安治
やはり、存在してたんだ!!~アーキビスト~ 28期 若月健司 2023年9月投稿
令和5年8月
「モリカケ事件」や「イラク戦争時の自衛隊戦闘記録」、古くは「沖縄返還における密約」いわゆる西山事件、最近でも「旧統一教会の名称変更事件」など公文書(行政文書)の改ざんやら黒塗り公表が公然と行われています。そんな事件を知るたびにある「もやもや感」がありました。国民の知る権利がなぜ簡単?に改ざんなどされるのだろうかと思うのです。公文書を第三者が管理できないのだろうかと思うのです。ところが私の知識不足もありましたが令和2年頃に国立公文書館が人材育成に乗り出し、「アーキビスト」という専門職を認証したとのことです。このことを知ったきっかけは朝日新聞(令和5年3月29日付)の「多事奏論」というコーナー(記者:岡崎明子)です。そのコーナーの内容は
・欧米ではアーキビストが専門職として確立しているが、日本ではその存在さえほとんど知られていない。これまでアーキビストとして認証されたのは281人だけ。
・そのアーキビストはどこにいると言えば公文書館に66%、博物館・資料館に16%、行政機関に5%、省庁には数人。
・アーキビストの役割~常に公平・中立を守り、証拠を操作して事実を隠蔽・わい曲するような圧力に屈せずとある。
・日本の官僚マインドは明治時代に作られた「官吏服務規律」から脱し切れていない。記録を残すのは天皇の政府の先例を確かめるためで、国民に公開するためのものでなかった。
・元号が平成から令和に変わった時、御厨貴東大名誉教授に「令和の時代にまず取り組むべき課題は」と問うたときの答えは「それは公文書管理です」だった。
この「多事奏論」を読んで「もやもや感」が少し薄れました。ただ281人というアーキビストでは少なすぎますし、待遇改善や社会的認知を高める必要があります。また、アーキビストには圧力に負けない・忖度をしない独立意識の高い心が求められます。
以上。
33 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(4)徳川家康と船橋(4)― 29期 仲田元昭 2023年9月投稿
戯言&独言35 21期 髙野 昇 2023年9月投稿

▼オールデイズとは正しくは主に1950-1960年代に米・英などでヒットしたポプュラー曲の事を言うらしい。私のオールデイズは私なりに洋の東西、年代を問わず若い頃に印象に残った曲、演奏をオールディズとしています。
▼[Bei mir bist.du. schon」
日本での曲名は「素敵なあなた」です。東京大空襲で焼け出されて江戸川区小岩に避難生活をしていましたが、敗戦の1カ月後に駅に行く道すがらにあるレコード店から流れていた曲です。アメリカで30年代に大ヒット、特に女性コーラスが多く唄っていた様です。当時のレコード店はレコードの他にラジオや楽器、蓄音機なども扱っていましたが戦時中は外来の曲など売る事も出来ず温存してあった洋盤が終戦、敗戦のお陰で日の目を見る事が出来、店主がこの曲が戦前からのお気に入りだったと後の噂で知りました。その証拠に自らアマチュアバンドを作り街なかの空き地で週一ペースの演奏会を開き、そのバンドの開演テーマ曲がこの曲でした。そのメロディーにのって日本語で♬朗らかに唄いましょうみんなのAMC♪と唄い演奏が始まります。兄二人と3人で見に行くのが楽しく、曲名など知る訳もなく何か心がウキウキし帰路の足取りも軽くアイスキャンデーをなめながら帰宅していました。進駐軍向け放送(WVTR)で日長一日ラジオをからジャズが流れていたあの時代でした。
▼[Youare my sun shain]
この年齢で知らない諸兄は居ないと思う曲「ユーアーマイ サンシャイン」です。兄二人が敗戦後の学制改革前の府立三商の5年生と3年生でした。戦時中は英語の授業など有る訳もなく敗戦後も教師は戻ってきても教材も3人に1冊のペラペラのわら半紙のテキストが配られていたと兄達から聞いていました。そんな中、英語の先生が黒板に筆記体文字でこのユーアーマイ…・をいとも簡単にスラスラと書き生徒は全員「ホーッ」ととなえノートに写させ「分かり易く、憶え安い歌詞なので英和辞典で歌詞を翻訳し出来た人は後日先生に見せなさい」と言い英語の授業にも拘わらず先生が見事に何度も何度も唄ってくれたそうです。帰宅しても二人の兄が唄い小学生だった私も完全に覚えてしまい3人で合唱したりして隣の小母さんが「3人とも歌と英語が上手ね」と褒められ記憶があります。私が憶えた、唄えた初めての英語の歌です。3人の夫々の結婚式での披露宴では3人揃って必ず合唱した3人共々のオールデイズであり忘れられない曲です。
▼「Shine」
ベニー・グッドマンセクステットが奏でる「シャイン」です。三商通学時の朝、am7:00過ぎにラジオ東京(現TBS)から番組のテーマ曲として曲のイントロ部分が流され軽やかで、覚えやすく何故か気分も良く、その番組を聴いて(イントロ部分が軽快)爽快な気分を貰い自宅から都電の停留所に向かいました。B/グッドマンが1957年に来日演奏、その公演を見に行きこの曲が奏でられた時はなぜか胸に迫るものがあり感動をもらいました。国内では「鈴木彰治とリズムエース」の演奏がよく、ドラムのジミー竹内の軽やかなブラッシングが素敵でした。
▼「On the sunny side of the street」
日本では「明るい表通りで」です。私にとってはイギリスのフルバンド「テッド・ヒース楽団」が奏でるものが最高で、ブラスセクションを自在に駆使した切れ味は抜群、メリハリの利いた端切れの良さ、すべてが素晴らしい。NHKの朝ドラ「カムカム・エブリボディー」でもバックに使われ、ルイ・アームストロングが唄っているので主人公の名が「ルィ」と名付けられたエピソードが放送の中でありました。日本でもフルバンドのコンサートでは必ずと言っていいほど演目にはいっています。ダンス曲としても少しテンポの早いフォックス・トロットか、若い人にはジルバも良し、これぞフルバンドのジャズらしいジャズです。
▼Tennessee waltztと江利チエミ
ご存知の曲です。在学中のころからやたら巷にあふれ、TVの無いこの時代、ラジオから流れる野球中継と音楽が楽しみでしたが、敗戦後これほどまでに親しまれた洋盤が他にであったかなあと思います。本場アメリカでも大ヒットし唄っていたP/ページのレコードのプレスが追い付かなかったなどのニュースもありました。街のレコード屋さんも予約販売をしたりで大ヒット、街の小さなパチンコ屋まで店内で流し近所のパチンコ屋の小父さんが「ワルツは打ち玉のテンポに向かず客の回転も落ち、内の商売は軍艦マーチが一番だよ」と笑ながら言っていました。在学中のタイプの時間には先生の目を盗んで英文の歌詞を打ちこんで、ほとんどの生徒、同学年がやっていました。放送部が流す昼休みの校内放送もこればっかり、街なかの街宣、珈琲店や銀座の不二家でも、あの神田の三省堂の店内にも流れていたことがありました。其処へ彗星の如くあらわれたのが15・6歳だった江利チエミです。日本語と英語を混合して唄い私と仲間たちは「ジャズ歌謡」なんて言ってました。他の日本のジャズ歌手もこれぞと如く参戦、しかし江利の敵にはなれず、他のジャズ曲を「ジャズ歌謡」で唄い出していましたが、しかしどれもこれも江利の発音・発声・パワーには及んでいたとは思えずその後の江利の活躍はTV、ラジオ・ステージと順風満帆の活躍でした。高倉健との結婚で世間を驚かせ、豪邸の火災、身内からの不祥事、離婚、孤独死とあまりの数奇な人生は終焉となりました。同級の故細田武君との縁で彼女と多少の接触があった私としては彼女の歌謡曲「酒場にて 」は悲しい私のオールデイズです。
第29期同期会でのご縁(その2) 29期 仲田元昭 2023年8月投稿
”人新世”という言葉が再び・・・ 28期 若月健司 2023年8月投稿
令和5年8月
先月の13日(木)の朝日新聞朝刊で「人新世」という言葉に再び出会いました。その見出しは”人間の活動 地球史揺るがす”という大きなテーマでその記事の中で「人新世」という言葉があったのです。
「人新世」(ひとしんせい又はじんしんせい)という言葉は昨年の1月のメルマガの寄稿文に「SDGsと人新世と資本論」という文章の中で記載しました。そのきっかけは「人新世の資本論」という本(著者:斉藤幸平東大準教授)を読んだことからです。大量生産大量消費を基本とする成長経済から脱経済成長に転換すべきというのが大意と理解しました。経済の仕組みを転換し、地球の限界の中で持続可能にしていく、即ちこれからは「人新世時代」に入るべきというのでした。
この度の記事では地球の地質年代を決める国際地質科学連合の人新世作業部会(09年設立)が「国際標準模式地」としてカナダのクロフォード湖を選んだと発表したのです。誕生から46億年と言われる地球の年代はこれまで火山の爆発や地殻変動や大隕石の衝突などによる地層の特徴により決められていました。「代」から始まり「紀」「世」「期」と細かくなり100以上の年代に区分されています。ちなみに現代は「新生代・第四期・完新世・メガラヤン期」です。「クロフォード湖」が選ばれた理由は①無酸素で海流がない海底②水深の深い湖③鍾乳洞・サンゴ礁④年こう(堆積物が1年毎にしま模様を作る)などの条件に合致したようです。地球46億年の地質の中で1950年頃から人類による堆積物が急激に多くなったのです。即ち、①プルトニウムなどの放射性物質②化石燃料から生じるブラックカーボン(すす)③マイクロプラスチックなどです。模式地として日本の別府湾も候補に挙がりましたが別府湾は地震などにより堆積物が乱される可能性や年こうが明瞭でないことで外されました。堆積物だけでなく1950年頃を境に①世界の人口が20数億人から90億人に達する②肥料の消費量が0,2億トンから2億トン近くに増加③大気中の二酸化炭素が270ppmから400ppmに達する④陸域の生物多様性の減少が4%から15%に増加など地球の環境は悪化しています。
猛暑の過ごし方・台風の進路・有名人の不倫・マイナカードと保険証・政治家の汚職・政治家の観光旅行・官房副長官への疑惑・某大学の大麻事件・ウクライナ問題など話のタネは多くあります。そんな中で地球46億年を考えた時間はわずかですがすっきりしました。以前、地球カレンダーを作って講座を開いたことがあります。地球の46億年を1年間のカレンダーにすると産業革命以降の約250年は大晦日の31日23時59分58秒というのです。たった2秒間に我々は生きているのです。しかしその2秒間で化石燃料を使い温暖化を招き、核兵器使用を公言し、猿が支配する「猿の惑星」という映画を実現するかも知れないのです。
「人新世代」のいう人間活動による堆積物の増加は地球史における一時的なイベントに過ぎないとする意見もありますが、今後この言葉は地質学だけでなく人文社会学や環境問題の分野などで広く用いられると思います。そして「人新世」の意味を理解してこの地球と人類が永遠に続くことを祈念します。
以上。
32 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(3)徳川家康と船橋(3)― 29期 仲田元昭 2023年8月投稿

戯言&独言34 21期 髙野 昇 2023年8月投稿

▼8月も半ばを過ぎ私達年齢からしてみればやはりこの月は”8月6日9日15日”となってしまいます。8月6日は広島、9日は長崎への新型爆弾(当時はそう言ってました)の投下、そして15日は「敗戦忌」、米国では9月2日を大戦終結記念日としているようです。この日は戦艦ミズリー号艦上での締結調印式があった日でした。新型爆弾の恐ろしさは幾多の報道で知らされ、8月6日、9日には何処にいても黙祷を忘れたことはありません。それに8月は学童集団疎開や縁故での疎開に出発した月、私のいた国民学校は山形県上山温泉(現かみのやま温泉)へ500人近い集団疎開、3年生から6年生までの貸し切り夜行列車の大移動でした。
私は疎開児対象のいちばん下の3年生でしたが上野駅での父兄の見送りは許されず、出発前の校庭での送別の式典が父兄との別れで、その後の東京大空襲(昭20年3月)で家族を失い最後の別れとなった友人も数多くいました。町の隣組、警防団、知人、親戚などが日の丸の小旗を振り私達はまるで戦地の赴く出征兵士のようでした。病弱の生徒以外は学童疎開か縁故疎開かの二者択一でしたがそんな友たちよくと小松川の中土手にツクシンボを獲りに行ったり、砂町の田圃へザリガニ(私達はエビガ二といってました)釣りやタニシやセリ獲りなどに行った事などはこの日この月が最後でした。当時よく一緒に遊び歩いた宇田川國一君は疎開は別々でしたが戦後避難先の小岩で再開、間借りの家もすぐ近所、小4から中3までクラスも一緒、奇遇な再会に手を取り合いました。今でもメール、電話のやり取りがあり8歳当時からの友人がいる事にお互いに感謝しています。当時の友人はこの宇田川君だけとなりました。
▼8月15日疎開先で聞いた天皇の詔勅、9歳の身で何の事やらサッパリ判らず敗戦を知ったのはその数時間後か翌日でした。「これで家族の処に帰れる」が頭に走ったのは確かです。同年11月に避難先の小岩に帰りました。6畳と3畳の二間に家族7人で起伏していましたが両親、兄妹と同じ屋根の下で暮らす戦争のない毎日の安心感に食糧難ではあったが幸せを感じました。敗戦以降マッカーサーが唱えた日本の非軍事化、民主化政策、婦人参政権など矢継ぎ早に指令を出し大きく国柄をかえました。先ず天皇は国威ではなく單なる象徴、主権は国民、財閥は解体、表現、結社、言論は自由、そして私が思うに「農地解放」と「教育改革」はその後の日本の在り方に大きな変革をもたらしたと思っています。
▼6・3制の義務教育化などは最たるもので私達年齢層は”新制中学生”と呼ばれていました。三商最後の旧制中学5年生だった兄はこの改革で高校3年生になれたものを家庭の経済的事情で在校進学せず、学校の斡旋で新光レーヨン(現三菱マテリアル)に入社しました。新制中学の授業では歴史の授業は皆無となり新たにホームルーム、社会科、家庭科などが加えられましたが教材となる資料に乏しく音楽の時間では「リンゴの唄」を何度も唄っていたこともりました。ある友人が田端義夫の「帰り船」を皆で唄いたいと真面目な真剣な顔つきで先生に申し出ましたが勿論却下、この唄は復員船に乗り帰国は出来るものの、敗戦による虚しさ、悔しさ、帰国できるうれしさ、国敗れて山河ありの複雑な思いを船上に飛ぶカモメに語りかける哀愁を込めたメロディーと歌詞です。彼の父親は既にビルマで戦死しており仲間は皆そのことは知っていましたが、今思うと悲しく思い出す彼の顔、夏休み中の登校日にあったあの時の8月です。「農地改革」で有難みを受けた農家は食料不足で買出しに来る人々が増え、消費者は金がないので殆どが”物々交換”ですませ、農家は一時「農地大臣」とまでいわれていました。そして今、農業人口もグンと減り田畑が税金対策の「生産緑地」となっているものの草ボーボーの休耕田、自家消費のみの田畑の姿をよく見かけます。教育改革だけは周り径もあったけれど今以て維持され、現在の文化、教育、企業の発展などに大きく寄与しているのは事実だと思っています。
▼在学2年生の時の8月、気の合う友人と連れ立って葉山の森戸海岸に行き、3年生になってもそのメンバーでよく行ってました。当時はまだ今の様な高級リドート地ではなく混雑もなく夕日の沈む美しさを眺めてから帰宅しました。錦糸町駅前の「蕎麦屋」で皆で盛り蕎麦を食べ解散、盛り蕎麦が20円の時代でした。卒業後も数年つずいており各勤務先の保養地の温泉巡りも何年か続けていました。石塚芳男君、鹿野宗治君、西村義雄君、小枝昇邦君、8月になると思い出す懐かしいメンバーです。
▼雑句 ・青天に あの日八月 さまざまに
***写真説明…
■左から鹿野君・西村君・小枝君 後列は石塚君
「リンゴの唄」SP盤レコード(実家にかつて保存してあったもの)
イノシシ倶楽部 久しぶりに子ども達と・・・ 28期 若月健司 2023年7月投稿
令和5年7月
28期 若月健司
コロナ禍騒ぎもようやく下火となり、私の所属する「イノシシ倶楽部」の活動が本格的となり、先月は2回にわたり子ども達に接する機会がありました。この倶楽部はNPO法人えどがわエコセンター内の会員20数名からなる団体です。出前講座や各種イベント出展やすくすくスクール(放課後授業)などで環境問題に関する啓蒙活動を行っています。
その1 「環境フェア」 6月4日(日)9:00~15:00 於:江戸川区総合文化センター
テーマ ~手作りCDコマを回そう~
材料は使い切ったCDとペットボトル(羽根部分)を組み合わせ、それに箸を通してコマを作 るのですがそのCDやペットボトルにサインペンで絵を描くのに子ども達は夢中になります。そして出来上がったコマを回した時の子ども達の達成感に満ちた顔をみると「ワ~やった~!」とみんなで拍手をします。昼時間を挟んだ長時間でしたが用意した80組がなくなりました。スタッフは6人でしたが高齢者が多く終わった時はぐったりの状態でした。
その2 「出前授業」 6月30日(金)9:30~12:10 於:西一之江小学校5年生
テーマ ~地球の環境問題って何だろう?~
体育館(全員) 画像・映像・クイズなどで地球温暖化の原因など説明→温暖化への取り組み→再生可能エネルギーって何だろう?
各教室(クラス毎) ~持てるかな?エネルギーのかばん~
1人1日当たりのエネルギー消費量を石油に換算した場合の重さをアメリカ・日本・中国別のカバンを用意して子ども達にそれぞれのカバンを持ってもらう体験授業。
私はこのかばんのテーマは初めての体験でしたので先輩スタッフの活動を見習うだけでした。
振返って
昨今、SDGsと言って環境問題に熱心になっていますが、江戸川区では20年近く前から「日本一のエコタウンを目指す!」として「NPO法人えどがわエコセンター」を立ち上げ人事の面や予算の面で支援しています。私もイノシシ倶楽部に所属して20年近くになります。子ども達を対象に活動してきましたがその子ども達もいまや成人になっていますので、私たち年代よりこれからは若い人たちに環境問題の改善に取り組んで欲しいと思います。
*すくすくスクール(放課後授業)の今年度予定 令和5年8月~令和6年2月
申込校:14校 スタッフメンバー10名程で対応予定
プログラム:手作り風車を回そう! 風力体感「エコ・凧作り」 手作りCDコマを回そう
えこちょいす(買い物ゲーム) E*カプセル(宝さがしゲーム)
ゼッタイ!エコガインダー(DVD視聴)
この活動がどれほど効果があるのかいつも?に思いますが、やらないで逃げるよりいいと思っています。
以上。
31 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(2)徳川家康と船橋(2)― 29期 仲田元昭 2023年7月投稿
戯言&独言33 21期 髙野 昇 2023年7月投稿

🥎プロ野球界のレジェント杉下茂さんが6月12日、98歳で他界されました。今でこそフォークボール(以下FBとします)は投手であれば誰でも投げる球種ですが杉下さんは日本球界のFBの元祖で魔球と呼ばれたFBの開拓者でした。私が初めて杉下さんを観たのは杉下さんが明治大学に在学中の、上井草球場だったと思います。友人の父親に誘われ友人と3人でいきました。対戦相手はどこの大学かは記憶にないのですが相手チームのユニホームが眩しいほどの白だったので早稲田大学かもしれません。ほとんどの選手が学徒動員で戦地に赴いた中、幸運にも前線で敗戦を迎え復員帰りだったと思います。早稲田の岡本,石井藤吉郎、慶応の大島、明治の大下、そして杉下、早稲田大が戦時中隠蔽していた100ダースほどのボールとマッカーサーから寄贈されたバットを使用していたそうです。今はボールに少しでも土や汚れが付くとすぐボール交換、75年前との環境の差をつくずく感じます。
🥎帝京商業ー明大ー中日と機会あるごとに恩師天知俊一氏の恩恵を受け数ある投手の栄冠を全て受賞、天知氏から「FBという球種がメジャーリーグの投手の一部が投げている、指先の間隔が広い君には向いているかも」と指導を受けたとの事、杉下さんの著書にも書いてありました。杉下さんの人差し指と中指の間隔は90度は楽に開き、指の長さも人並み以上だったのでしょう。20年以上前か、ロッテに在た村田兆治氏(故人)とのTV対談で改めてその凄さを確認しました。FBは空振りを獲るための球種で、捕手の額を目掛けて投じホームベースにワンバウンドになり落差は80㎝から100cm、これがFBだとの話に村田氏も納得、「君のあの独特なマサカリ投法はそれにピッタリ」と賞賛しており村田氏は凄い感銘を受けたようでした。
🥎昭和27・8年頃だったか杉下さんは当時の西澤、服部選手(この両氏の背番号15と10は中日球団の欠番となっている)らと共に天知氏の自宅を訪問、「2・3年後には優勝したい」と監督復活を直接天知氏に懇願、天知、杉下の強力なラインが復活し昭和29年の日本シリーズで中西・豊田・大下・関口等を擁したパリーグの覇者西鉄を破り覇者となりました。セリーグのライバル巨人の川上哲治氏は「あのFBはボールの赤い糸目がはっきりと見え数回転しかせず、打者の2メートル手前で落ちる、それも全てワンバウンド、見逃しせず全てバットを出したがヒットを打った記憶は殆どない」と当時の「野球界」という雑誌で述べていました。西鉄の中西太さんも「同僚の稲尾も凄かったが杉下さんには程遠かった」と同誌で語っていました。TBSのTVやラジオの解説者としての発言で「現在の投手の投げるFB、あれはFBではなく昔のドロップで今のスライダーも私が投げていたカーブに近い、スライダーとは水平に曲がり打者のアウトサイドを鋭く衝くボールのことである」ことを何回も力説していました。そのとうりだと私は今でも思っています。
🥎完投する中でFBは3・4球しか投げておらず直球とカーブで勝負、コントロールの抜群の杉下さんでした。在籍の長かったドラゴンズの後輩たちには毎年のキャンプに同行し、星野、小松、川上、山本昌、吉見などを臨時コーチとして育てていました。輝かしい中日での戦歴の中、背番号20は欠番にもならず(大毎オリオンズに移籍して4勝し他チームに移籍したためか欠番にならず)その後も阪神、巨人のコーチも務め杉下さんの寛大さ野球発展の為の寛容な思いに改めて感服する次第です。
🥎生涯成績は215勝123敗、防御率2,23で、高齢の野球評論家数人が曰く、「杉下さんに準ずるFBを投げたのは野茂、村田、佐々木くらいだろうか」と訃報を載せたスポーツ紙が書いていました。100歳近くまでプロ野球を愛し、輝かしい記録を残し天寿を全うした杉下茂氏、ご冥福を祈り合掌。
🥎日本シリーズMVPに国産乗用車が副賞として送られていましたが(今はどうなんでしょうか)第1回の受賞者が杉下さんでした。地元でもありトヨペットクラウンでしたが当時は豊田市(トヨタ本社がある)ではなく拳母市で立教出の長島氏と同期の杉浦投手(南海ホークス)の出身地、だから地元のよしみで愛知のチームからの受賞者で胸を撫でおろしたかも。豊田市は産業城下町のNO1ですね。
ガイドも楽し!! 28期 若月健司 2023年6月投稿
令和5年6月
28期 若月健司
コロナ禍もようやく落ち着いたせいか、街歩きの人達が多くなったようです。今月の6日(火)には老人クラブでサクランボ狩りを兼ねた甲府から河口湖周辺のバス旅行に行って来ました。その際のガイドさんの説明を聴くうちに私自身のガイドのことを思い出しました。これまでの主なガイド経験は三回あり、二つは過去の話で残りの一つは現在も行っています。
*その1 「歩こう会スペシャル」~所属する「くすのきクラブ」の主催で副会長の私がその担当責任者でした。前任者からの引継ぎで平成19年7月11日の第42回から平成31年2月27日の第84回までの42回を担当しました。途中、中止の回もありましたが年に4回実施ですからおよそ12年間にわたり担当したことになります。
日帰りの行事ですが実施日は年間行事予定で決まっています。行事の趣旨として「健康と教養の向上」ですから、それなりの行程となります。参加者は60歳以上の高齢者(男性1:女性2の割合)で平均30人程です。
気を使ったこと・適当な歩く距離・昼食場所の確保(平日の常連客を優先するため団体客の予約が難しい)・迷子と事故(幸い、発生せず)・訪問先の選定(観光でなく社会見学を主眼)
印象に残っているコース
・江戸川区内めぐり:江戸川区の無料バスを利用し、毎年2月に区内の施設をめぐる。6回実施するも残念ながら区の経費節減政策で無料バス廃止となる。今後の復活を期待する。
・第43回平成19年11月14日(水):世田谷八幡宮 豪徳寺 世田谷城址公園 郷土資料館 代官屋敷 勝国寺 若林公園 松陰神社 参加者(男性10名女性18名)
昼食場所が見当たらず小さな洋食レストランを無理に貸し切り状態とした。
・第46回平成20年7月23日(水):国会参議院 日比谷公園 参加者(男性14名女性21名)
昼食場所に予定した「日比谷松本楼」を予算不足で断念。
・第49回平成21年4月22日(水):上野公園内(清水観音堂 時わすれじの塔 時の鐘 東照宮 寛永寺 輪王殿 西洋美術館 その他) 参加者(男性12名女性22名)
昼食に評判の「韻松亭」の予約が取れて良かった。
・第50回平成21年7月8日(水):防衛省 お札と切手の博物館 参加者(男性16名女性26名)
極東軍事裁判の部屋と三島由紀夫演説バルコニー及び割腹の部屋が圧巻。
・第67回平成26年7月9日(水):皇居吹上御苑 東京駅丸ビル 参加者(男性17名女性30名)
予約手続き面倒、風雨の中大変だった。
・第68回平成27年2月25日(水):警視庁本部 法務省史料展示室 参加者(男性14名女性22名) あの”桜田門”に入り納得、赤煉瓦の建物と内部資料に歴史を体感。
・第75回平成28年11月30日(水):東京都庁 熊野神社 エコギャラリー 参加者(男性11名女性21名) 議会場や委員会室や防災センターを見学し、政治の密着を体感した。
*その2 「水輪会」~水輪会はNPO法人えどがわエコセンター内のボランティア団体であるイノシシ倶楽部に所属する会です。「水」に関心のある有志で平成20年から平成27年まで活動しました。会員は10名ほどで私は最初から所属し、平成25年から解散した平成27まで会長を務めました。親子連れを対象に水に関する講座や出前授業や講演会及びバス見学会を行いました。又、「水と私たち」という小冊子を発行し小学校の副読本としても利用してもらいました。
バス見学会
平成21年:①「首都圏外郭放水路・龍Q館」(埼玉県)&「水の科学館」(有明)
平成22年:①「船番所」(江東区)と「江戸川区の防災訓練 ②「浦山ダム」(埼玉県)
③「水の科学館」と「虹の下水道館」(有明)・・・徒歩
平成23年:①「東村山浄水場」と「コカコーラ多摩工場」②「水道歴史館」・・・徒歩
平成24年:①「荒川知水資料館」と「ヤクルト茨城工場」②「関宿城博物館」と
「キッコーマンもの知りしょうゆ館」
平成25年:①「花王東京工場」(亀戸)・・・徒歩 ②「足尾銅山」と「草木湖」
平成26年:①「忍野八海」と「富士湧水の水族館」と「花の都公園」
平成27年:①「JAXA宇宙科学研究所」と「ナッククリクラ研究所工場」
振返って
バス見学会は事前に訪問先の資料を配布したり、訪問先のガイドが就くので手数が掛からないのですが交通事故や病人の発生が心配でした。某年のバス旅行の帰りの高速道路で病人の発生があり、サービスエリアで小一時間待機したことがあります。その際、気付いたことですが「催事保険」の内容やバス会社の対応を事前にしっかり把握しておくことです。
*その3 「史跡ウオーク」~私の所属している「文化財・郷土資料室ボランティアの会」では江戸川区内の神社仏閣などを訪ねる史跡ウオークの際に参加者に訪問先の説明を行っています。企画・運営・準備などは主催者の江戸川区教育委員会郷土資料室が行います。春秋の各2コースと実踏(下見)があり、行程は午後の半日で約3キロ程歩きます。公募の参加者20名程と事務局員3名とボランティア5名ほどの構成です。説明は全員に用意された説明資料を基に行いますが、内容はオフィシャルに公開された説明文です。神社仏閣の開基者・中興の祖・由緒話・宗派・所有文化財などですが、私はそれに若干の話を付け加えます。例えば・鳥居は大きく分けると2種類ある・浅草寺と浅草神社は同じ漢字で読み方が違うのは何故か・別当寺とは・本地垂迹説とは・仏像の種類・参拝の作法・宗派の違いによる焼香・神社と寺の違い・第六天などです。又、時代背景を話して訪問先を立体的に説明することを心掛けています。
現在はその3の「史跡ウオーク」だけの活動ですが、体力の続く限り継続したいと思っています。
以上。
30 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(1)徳川家康と船橋― 29期 仲田元昭 2023年6月投稿

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戯言&独言32 21期 髙野 昇 2023年6月投稿

▼弁当の友などと言えばスーパーなど売っている冷凍食品かと思うでしょうが違います。昭和26年に三商に入学した時(1年2組担任は横山文夫先生)あてがわれた教室が校舎東の角にあった階段教室でした。理科の授業に使われた教室だろうと思いますが教室の片隅には水道が引いてあり(水はでなかった)黒板は上下式2段になっており初めてこんな黒板があるのを知りました。教壇から見ると生徒全員の顔が良く見え、生徒側からは実験の手元がよく見えていたはずです。教室の下は地下室で4・5段降りると濁水がたっぷりと溜まっていました。2学期にはいっても蚊が沸いていて教室にも入りこみまいりました。机は2名並びで数段、両サイドと間に2本の階段通路があり私の席は後ろから3段目でした。前の席のA君とはお喋りする機会も多く弁当の時間にA君の弁当がすっかり覗くことが出来、彼の弁当のオカズはかならずといっていいほどふっくらとした”卵焼き”が入っていました。
▼私の知る限りの”卵焼き”はフライパンで焼き少し丸めたものしかしらなかったので「いつもすげーなー」と思ったものです。A君も時折わたしの弁当をふりかえって覗き「髙野はいつもいいオカズだね」などいっていました。実は我が家は食料品店をやっていて納豆を始め、塩乾物、缶詰、漬物、野菜の煮物、そして佃煮など販売しており朝の6時頃には店を開け夫々の家庭の朝のオカズ、弁当のオカズの買い物客で忙しく母親が弁当をつくってくれた記憶はほとんどなく全て自作自前の弁当でした。したがってオカズは店から好き勝手なものを多かれ少なかれ弁当箱にいれ今思えば贅沢で豪華だったのでしょか。海苔弁なども底に一枚、中間に一枚、さらに弁当の上にも、さらにご飯にアミの佃煮をまぶし、ウズラ豆の甘煮もたっぷりと添えていました。
▼ウズラ豆の甘煮は当店でのベストセラーだったので両親の目を盗んでたっぷりと弁当箱にいれていました。でこんな簡素な弁当がA君には美味そうに見えたのでしょうか。ある日カツオの角煮と貝のひも(赤貝)の佃煮のオカズの時、お互いに食べたいものだったのか半分ずつ交換しました。彼はよっぽど角煮の佃煮が旨かったらしく、私は彼のなんとも言えぬふっくらした卵焼きが食べたくオカズの交換が週に3回くらいあり、「鮭の塩焼きが喰いたいなァ」などリクエストしてきたりで私は注文に応えていましたが私はただただ彼の卵焼き一筋、ある日彼の母親が「お前が卵焼き好きなのはわかるけど滋養が偏るよ」と言ったとかで卵焼きとは暫くお別れ。でも小ぶりのシュウマイが入っていたり小さく揚げた小エビのてんぷら?などの時もありでオカズの全取り換えをした事もありました。シュウマイなどオカズに食べるなど、町中華で家族7人で一個ずつ食べた記憶しかない私にとってはラッキーでしたね。よく憶えているとおもわれますが勉強はさておき古い古い日記を紐解くとA君とのオカズ交換のことが時折書いてあり「アッそうだったなあ」と思い出す次第です。
▼今はワンコイン弁当が大はやり、どちらかと言えば肉系、特に鶏のから揚げなどバラエティーに富みオカズの多さに驚き、飽食の時代が慢性化しています。私達の時代からみれば豪華そのもの、昔の遠足は梅干しのおにぎり、小6の時の遠足で修学旅行と称して”江の島・鎌倉”に行きましたがふかし芋2本が私の弁当だったのが悲しいやら懐かしいやら、「衣食足りて礼節を知る」なんて言葉を当時は知ってはいたが礼節があったかは兎も角、オカズの交換で友人が出来たなんていい時代でした。彼の本名は勿論知っていますが2・3年生時にはクラスも別れ、時折廊下ですれ違う程度、弁当の話など無く卒業し就職したか、進学か自営か、それとも既にか…判りません。弁友だったのがA君の負担になるかなどの思いを巡らしあえてA君としました。
▼”入谷の朝顔市”が4年ぶりに開催。7月6・7・8日です
そこで雑句
色さえて 入谷の朝の 人だかり

「言葉」は大切と思います・・・ 28期 若月健司 2023年5月投稿
令和5年5月
28期 若月健司
先日、テレビを視ていた時にウクライナ紛争を描いたドキュメント映像で「言葉」の大切さを感じました。映像制作者の妻が発信した「彼は戦争によって殺されたのでなく、人間によって殺されたのだ」という言葉です。因みに夫である映像制作者はロシアによる爆撃で亡くなっています。私が特に感じたのは戦争によって殺されたというくだりにある戦争という単語です。戦争という単語で表現されると何か人間の手を離れた物体が襲来してきて人間を殺傷しているようなイメージが湧くのです。人間の手では遺憾ともしょうがない自然災害のような諦観が湧いて思考停止になるのです。
しかし少し考えるとそうではないのです。戦争は人間が引き起こすのです。防ぎようが難しい自然災害と違い防げるのです。まさに彼女の夫は人間によって殺されたのです。戦争による戦死者が〇〇名と発表されると「戦争だからなあ」とそこでへんに納得して思考停止になりがちです。戦争という言葉に「殺しても良い」という免罪符を与えていないでしょうか。「人間が〇〇名殺した」と聞くとギョッとします。
最近の話題の中にも「言葉」を大切に使って欲しいなあと思うことがあります。「新しい資本主義」の新しいとはどんな意味か私自身の不勉強のせいか良く理解できません。何か新しいという言葉を使えば将来が明るくなるということでしょうか。具体的にどうすればどうなるのかの説明が省かれているのです。「異次元の少子化対策」も然り、金銭的な対策でなく、30年以上も前から予想された少子化ですからもっと根本的な議論が必要と思います。異次元という言葉に惑わされています。「ヒロシマ・アクション・プラン」にも今更なんだという気持ちがあります。「G7」に便乗しての言葉遊びに見えるのです。八つ当たりかも知れませんがなぜカタカナですか?核兵器の被害国の日本が核兵器禁止条約にも参加しない現状では世界の国々が?に思うのは当然でしょう。
最近、メディアの世界でもアルファベット表示やカタカナ語表示が盛んです。何となく意味することは理解するのですが具体的に日本語で説明して欲しいと思うのも年のせいでしょうか?先週の日曜日には三年ぶりの地域まつりがあり老妻とちょっと覗いて来ました。すごい人出で模擬店の前は長い行列が続いていました。特に気が付いたのは若い人たちや子ども達の多さでした。そんな混雑に身を置くと逆に孤独感に襲われて「世代の交代」を感じ「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を思い出しました。この平和が長く続くことを祈っています。 以上。
29 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(27)山野浅間神社(2)― 29期 仲田元昭 2023年5月投稿
戯言&独言31 21期 髙野 昇 2023年5月投稿

▼GWも押し詰まった5月6日、山形県”かみのやま温泉”を訪ねました。ここは戦時中の学童疎開で昭和19年8月から翌年5月まで過ごした思い出深い土地です。特別な観光地でもなく温泉宿が林立しているでもなく、駅前はGWとは思えない閑散さでした。疎開の日は夜行列車で12時間、初めて乗った夜行列車にみんな興奮気味で上野をでました。上の山で是非見ておきたい場所が2か所あり、単独で行くつもりでしたが高齢を心配して息子夫婦、それに家内の4人旅となりました。今は特急「つばさ」で2時間半、福島ー米沢にあった鉄道ファンにはたまらないスイッチバック3か所も今はすいすいと通過、豪雪地域でもあり列車の避難の為の”雁木”だけが当時の名残りのようにあり、それもアッという間に通過しました。
▼昭和49年(1974)、お世話になった地元の方々に感謝の気持ちを込めて有志数十人で亀戸天神社の「藤」の苗木2本を上の山市内の月岡公園に植樹しました。あの日、市長をはじめ疎開児の寄宿先だった旅館の方々、私達20名ほどで盛大に植樹祭が行われ地元の新聞、TVの取材もあり、その数年後、市のご厚意よって記念の立派な石碑が建立されました。その「藤」もあれから50年近くたちましたが見事に成長しており、本家の「亀戸天神の藤」には及ばずとも東屋の棚に見事な紫色の房を見せていました。戦後復元された上の山城とのマッチングも素晴らしく亀戸天神とバックに見えるスカイツリーとの「親子藤」に感動しました。学童疎開を語り継ぐ先輩、同輩も残り少なく月岡公園に残る「藤」と石碑が無言の語りべとなって欲しいと願う思いでした。
▼次に訪れたのは疎開時に宿泊していた温泉旅館です。かみのやま温泉の湯元にあり「湯町」と言っており当時は湯治客相手の二十軒ほどの旅館街でした。歌人斎藤茂吉の生家もこの中で「山城屋」という旅館をやっており、私達の亀戸第一国民学校の疎開児200名ほどがこの旅館街に寝泊まりし近在の地元の学校を借りて通学していました。私の居た旅館は「ふじ金」と言いその中でも一番小さく男女合わせて23名で寝起きをともにしていました。宿の主がとても優しく預かった子供達への気配り、目配りも良く、食事も規定外のものを時折出して頂き「鯉こく汁」や「鯉のあらい」など東京ではまず食しないものを時折いただきました。戦後も何度か家族や友人などで訪れて親交をさせていただきました。その時の部屋、風呂場、玄関など当時のまま残されており私自身の高齢もありこれが最後の訪問ときめ行った次第。息子さんの代に変わっていますが父親から疎開児の話は聞いていたそうで私達が寝泊まりで使用していた部屋や温泉の湯舟、毎朝「教育勅語」を唱和し食事をしていた十畳ほどの部屋が殆どそのままでした。息子さん夫婦も80歳を過ぎ宿泊客は取らず一日休憩のみになっていました。
▼小学3生9歳の時のあの寒さ、空腹、寂しさ、東京への望郷、昭和20年の3月5日に卒業で東京へ帰った6年生6名の内3人が4日後の東京大空襲で焼死してしまい残留していた5年生以下の中でも2人の同宿者の家族が一家全滅焼死していた報せをうけたのは一か月後でした。そして疎開学童は全員が近在の寺院にて移る(傷痍軍人が温泉治療で宿泊する為)ことになり 私達数名は親に頼んで縁故疎開を選択し昭和20年〔1945)5月にいったん帰省し私はその3日後に銚子の伯母の家に再疎開となりました。思い出ゴッコといわれればそれまでですが、各人それぞれの思い出は「自分史」であり小さな歴史でもあります。
▼以上二つの場所を拝見し、湯町を散策し日帰りの慌ただしい一日でしたが数々の思いとが脳裏を走馬灯のように走りその夜は興奮気味の一晩でした。
久しぶりのお花見で交流復活!! 28期 若月健司 2023年4月投稿
令和5年4月
28期 若月健司
今年のお花見は地球温暖化のせいか例年に比べ早くなりました。コロナ禍も落ち着いたこともありますがお花見と称して皆さんと集まる機会が3回ありました。
最初が3月24日(金)の「夢ぽすと」の集まりです。この集まりは「江戸川総合人生大学」のまちづくり学科3期生の私を含めた有志が在学中の平成19年に立ち上げた会です。趣旨は「ホッとする居場所づくり」で1~2ヶ月毎に講演会・新年会・忘年会・都内の街歩き・季節ごとの催事などを行って来ました。しかし、30名ほどの会員の中から高齢化が進んだり、認知症気味な方が出始めた為、令和4年3月をもって解散しました。その後、コアな有志だけでの集まりでもという声が出て今回の「お花見兼ランチ会」となったのです。私は当日の午後「くすのきクラブ」(老人会)の「カラオケ愛好会」の定例会がありランチ会のみで途中退席したのですが、出席の皆さんと久しぶりにお逢い出来楽しいひと時を過ごしました。特にI代表が連れてきたお孫さん二人が高校生・大学生となっているのに時の流れを強く感じました。この会を立ち上げた当時は二人とも小学生でした。コロナ禍でしばらく休会中でしたので尚、その成長ぶりに感無量になったのかも知れません。
2回目は3月25日(土)の「壇風会」のお花見です。この会は当団地内の有志での集まりで俗にいう飲み会が中心です。例年近くの公園で開いていたお花見会を久しぶりにやろうということでしたが、残念にも当日は雨でお花見が出来ず急遽団地内の「談話室」での宴会になりました。飛行場の元管制官のOさんが世話人です。高齢者ばかりの10人程ですがそれぞれが異業種出身ですので、その体験談を交えた話に盛り上がりました。
3回目は4月1日(土)午前の江戸川総合人生大学同窓会主催の「花見会」です。場所は江戸川区の「葛西臨海公園」です。午前10時にJR臨海公園駅前の噴水に31人が集合し先ず「パークトレイン」に乗って園内をガイド付で廻りました。そして「桜並木」をゆっくりと散策し、集合写真を撮り現地解散となりました。その後の昼食や観覧車乗車は各自の自由行動でした。コロナ禍の為同窓会の活動が自粛気味でしたので当日は先輩・後輩との久しぶりの会話が出来、楽しい半日でした。
以上。
28 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(26)山野浅間神社(1)― 29期 仲田元昭 2023年4月投稿
戯言&独言30 21期 髙野 昇 2023年4月投稿

◎旅立ち
旅だちの4月、新しい職場や学校に向かい一歩前に進む姿は、見ている私達も心が弾んでしまう、ましてや家族や身内にそんな該当者がいれば尚更である。高校卒業生は入学から卒業までをマスクと共に過ごし、体育祭や文化祭もままならず、修学旅行もなく授業はリモーに。当たり前の事も出来ず「不条理」の世の中の3年間を終えて旅立って行った。可哀そうな世代と思って仕舞いながらも、それをステップに明るい未来と夢を描き乍ら前進する。「昨日があって今日がある、明日の日は今日より前へ」「一歩後退、二歩前進」。そんな思いを持って私が江商(現兼松)に入社したのは卒業式から3日目からだった。江商は一商と三商からしか採用せず当校から5人が受験、パスしたのは私だけだった。英語は自信がなかったが時事問題や珠算に高点が得られたと後日人事部長が教えてくれた。卒業式3日目に入社と言うより研修期間だったので珠算と簡単な英語のテスト的な毎日であった。ある日「今日は社長が諸君に会いたい」というので心して置くようにとの人事部長からの注意があった。社長は”駒村資正氏”と言い当時の「ジェトロ」の会長でもあった方で社長車はGHQ払い下げのリンカーンだった。一緒に入社した一商の二人とともに「わーっ!すげーなー」と目を丸くしたほどだった。ジェトロについては三商の社会科の時事問題の時間に習っていたので社長からの質問に難なく答えた記憶がある。背広など着ているわけもなく三人とも詰襟服でそのまま2か月くらいを過ごした。研修期間中の楽しみは毎日日替わりの仕出し弁当が提供され、その旨さと、もてなしは今も忘れ難い。現在の”コンビニ弁当”の比ではない豪華な昼食だった。4月に入り早々に人形町のこじんまりした料亭で高卒入社3人が呼ばれ是が入社式だった。今では考えられぬ粋でお洒落な式であった。それほどまでに新入社員を大切にする会社なんだと先輩入社していた19期石原さんからもうかがう事ができた。
◎和暦と西暦
「昭和でいうと今年は何年なんだろうか」とフト思って仕舞う事がある。昭和に生きた50数年はその年代を西暦で言われたり読まされたりしても、歳のせいもあるが背景の社会の様子、世相がすぐには思い浮かばない。生まれたころから国内も世界もキナ臭く昭和11年2・26事件、同12年日支関係、同16年日米開戦、同19年学童疎開、20年の東京大空襲と敗戦、焼け跡‥‥いずれも和暦の昭和何年と正しく記憶している。昭和の年に25をプラスすればいいのに背景は他人事のように感じてしまう。私が西暦を身に感じ始めたのはあの「東京Olympic」のポスターが街中の公共機関に貼りだされたときからである。亀倉雄策氏の陸上の短距離のスタートをモチーフにした写真の秀逸さ、そして鮮明なデザインのもの、どれも昭和などの書き込みは無く大きな文字で”1964”とあった。そのころから西暦の確認、認証度は身近なものになってゆく。スマホでもパソコンでも生年月日は西暦、自分の事は兎も角、孫などのを入力する時はとまどう。平成・令和となりまたまた混乱。役所などは今もT・S・Hで少しほっとしている。その他にも昭和11年のベルリンオリンピック、15年の紀元2600年祭、ベルリンOPの時、父が新しくラジオを買ったと後年きかされた。紀元2600年祭の時、町内会の「隣組」の代表として父が皇居前の祭礼に出席、天皇拝謁ができるといって行っては見たものの天皇の「て」の字も見えず無駄足だったと母がいっていた記憶だある。三商入學は1951年というより昭和26年といってしまう。GHQ占領下であっても西暦はだれも使用せず、和暦が堂々としていた。そして昭和の60数年が終わった。
◎WBC
近年開催されたスポーツの世界選手権、ラグビーフットボール・サッカーも素晴らしかったがこの春のWBCはさらにその上を行った。優勝した事はもとより日本の日本人のもてなし、顕著さ、偏見の無さ、清潔感全てが世界の国、人々から賞賛され、こんな例は政治家の働きの数百倍の価値に価する。放送された映像で試合中でもベンチの中は塵一つゴミ一つ落ちていず、大リーグなど見ているとゴミ捨て場のような光景とは天と地の差、ボックスに入り「唾」をぺッぺッと吐く他国選手も多い中、侍ジャパンには誰もいない。品行方正、秩序の維持、礼儀正しさは本来の日本人がもっている当たり前の作法でもあるが、改めてTVから全国民に再認識させた効果は大である。決勝の日、大谷が「大リーガーとはいえ相手選手、チームに憧れてはいけない、ここに立てば力は同じ」名言だ。負けたチームにも選手一同拍手で送る、デッドボールをあたえた相手選手に菓子を沢山持って翌日謝意に行く美談の連続、今年の流行語大賞にはWBCからいくつ選ばれるか楽しみだ。
雑句三首
●花筏(いかだ)流れて先を争わず
●河流れ 置きざれにされ花筏
●墨堤や 雨も似合うか桜餅
私は”逃げ切り世代”か? 28期 若月健司 2023年3月投稿
令和5年3月
28期 若月健司
昨年12月初旬に「私たちの地方自治」~とりもどそう、本当の地方自治~という講演を聴く機会がありました。講師は京都橘大学の岡田知弘教授です。地方自治についての話の内容は勉強になりましたが、その中で心に残った言葉があります。それは「未来が其の胸中に在る者之を青年と云う 過去が其の胸中に在る者之を老年と云う」と云う言葉です。これを残した人物は自由民権運動が盛んだった頃に活躍した高知出身の植木枝盛です。明治憲法制定までの天皇中心とする集権的国家運動と地方自治体を基本にした立憲主義にもとづく連邦的国家運動が対立していた頃です。
この言葉をその字句通りに読めば「青年は過去を知らず未来があるし、老年に未来はなく過去しか知らない」でしょう。しかし、これを残した植木枝盛の時代の人達の平均寿命は40歳代で彼自身は30歳半ばで逝去しています。まして明治維新に活躍した人達は20歳代前後の青年です。このことを考えると当時の老年に属する植木枝盛の云わんとすることは「自分を含めて老年よ、過去に浸らず未来の国造りに努力せよ!」ではないでしょうか。
これを現代に置き換えると平均寿命は倍になりましたが、国の環境は当時と似ているようです。明治維新(1868年)から太平洋戦争敗戦(1945年)までが77年間、それから昨年(2022年)までが77年間です。これからの77年間に何か大きな変動が発生する予感があります。昨年から今日まで国の根幹に大きく影響するような事象が頻繁に発生しています。
世界では*ウクライナ紛争から第3次世界大戦突入*核兵器使用も辞さずの雰囲気*軍事力拡大競争*温暖化による地球環境の悪化*台湾問題と米中対立
国内では*低支持率政府による政治の不安定*国民議論のない原発再稼働*隣国との外交悪化*軍事費倍増と少子化対策倍増のアンバランス*安倍・菅政権と日本の国力低下の因果関係検証不足*物価高による国民負担の増大*旧統一教会と政治の検証不足*財政規律からの高金利不安*言論の自由への圧力増大
いつの時代でも心配事はありますが、私の生きて来た今日までを振り返ると戦後のもの不足の時代がありましたが、高度成長を経験し、バブル時代も謳歌しました。幸い戦争は経験しませんでした。そして現在は年金生活で過ごしています。そのような中で子供や孫の顔を見るとこれからの社会が平和で推移していくのか気になります。私の年代はこのまま所謂「逃げ切り世代」になるのでしょうか?いや、子どもや孫も戦争などを経験しないように平和に暮らせるよう老年達が努力しなければならないと思います。前半の植木枝盛の言葉を思い出し老年も現在に安住せず未来を胸中に持つべきと思います。より良い社会の実現に努力したいものです。 以上。
27 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(25)龍神社(3)― 29期 仲田元昭 2023年3月投稿
戯言&独言29 21期 髙野 昇 2023年3月投稿

▼まずは卒業した三商後輩の皆さんに”おめでとう”と申し上げます。この三年間マスクと共に過ごし、たまたまマスクをせずに校内の廊下で友人とすれちがっても誰だか分らなかったなどの冗談もありました。卒業式はどうだったか分からないが進学にせよ就職にせよ、いつもポケットにマスクをしのばせていることは必須です。
▼昔日の卒業式では“仰げば尊し””蛍のひかり”が当たり前のように奏でられ、泪ながらに唄った記憶があります。孫が小さい時「この歌って紅白歌合戦の歌だ」と思っていた時期がありました😃。”蛍のひかり”は兎も角”仰げば尊し”のメロディーと歌詞は心に滲みる曲で当時を振り返るのには懐かし曲です。新制中学時代、当時は戦後直ぐのせいもありどの教科も教材もなくB3位の印刷物を家庭に持ち帰りB5の大きさに各自が裁断し母に和綴じにしてもらい教科書にしていました。
▼中学の3年間担任だったK先生は千葉師範出の方で全てにおいて教えて頂きました。体操の時間(当時はまだ体育とはいっていなかった)先ず野球の指導、ルールから始まり打撃技術といってもグローブやバットが有る訳もなく全て素手、ある日先生はバットをもって学校に来ました。実はK先生は師範生の頃野球部に属しその中の自前の貴重な一本でした。「このバットはルイスビル社製であのベーブ・ルースと同じものだよ」と言い甲子園の大会を目指していたそうです。伝説的なベーブ・ルースの話もこの時知りました。校内遠足で鳩ノ巣(奥多摩)に行ったときは”石”の存在年数や種類、夏休みは夜間に希望する生徒を集め校庭に寝転んで星座の名称や存在位置、江戸川の土手に生える雑草の名、小学校のプールを借りての日本泳法の伝統と指導などそれは限りなく3年間続きました。TVのクイズ番組で難問が出て私が難なく解答していると家内が「よく知ってるのね」と笑いながら言われる中でK先生から教えを賜ったものが数々あります。学業以外、K先が知っている限りの知識や思想などの考え方全てが私の日常生活の中で存在しているのを日々確認しています。仰げば尊師です。
▼卒業式の時に限らず日常的になっている「蛍のひかり」、この曲は英国の現国歌が制定される以前から国歌的存在であったらしいのです。蛍の灯りや雪明りで勉学に励む、詩としてはすばらしいが何か私には馴染めない部分がありました。そんな中、米映画「哀愁」(1943年作品、ロバート・テイラー、ビビアン・リー)を兄に誘われ日比谷映画劇場で見ました。そのなかで二人がダンス会場で踊る長いシーン、その時のバンドが奏でる曲が「蛍のひかり」でした。1小節が終わるごとにバンドマンがキャンドルを一つずつ消してゆく、このシーンの正にピッタリの画面と「蛍のひかり」のBGMでした。ビビアン・リーの美しさはイングリット・バーグマンと共に私の心に今も残っていますが、映画の中でのあのシーンはあらすじは兎も角今もって忘れられないシーンです。三商在学中の文化祭で映画上映が企画され全生徒の人気投票で「哀愁」が選ばれ講堂で上映されたほどでした。
▼今はユーミンの名曲”卒業写真”や先生方が壇上に上がり武田鉄矢の”送ることば”を唄う、そんな学校もあると聞き時代の趨勢には逆らえません。卒業生が新天地を目指して巣立ってゆく子供達の姿、見送る先生と卒業生が各自に別れの挨拶や握手で別れる、この光景こそ本来の姿ではないでしょうか。
写真は手作りの雛でです
第29期同期会でのご縁―60年ぶりの再会を果たす― 29期 仲田元昭 2023年2月投稿
年の初めにささやかな”ほっこり気分” 28期 若月健司 2023年2月投稿
令和5年2月
28期 若月健司
毎年正月には昨年を振り返りつつ、今年はどんな年になるだろうかと新聞を読んだり、テレビを視ながら考えます。昨年は世界的にコロナ禍も終息せず、ウクライナ紛争も決着がつきそうに見えませんでした。地球の温暖化に伴う広範囲な自然災害が発生しました。米中対立も益々激しくなったり、アフリカなどを含む第三勢力が台頭してきたりして肝心の国連のガバナンス力が低下しています。
国内的には野球の大谷選手の活躍やサッカーの16強進出など明るい話題もありましたが、一方で7月の安倍元総理大臣銃撃事件、それに伴う旧統一教会と政治家の癒着問題が年を明けてもまだ尾を引いています。国民に範を示すべき大臣の更迭が多くあり、政治不信の波はじわじわと拡がっているようです。防衛費倍増や物価高や原発再稼働などの問題を抱えながらも我々の日常は過ぎていきます。
そんな中、昨年11月10日(木)に近所の「区立清新ふたば小学校」の三年生を対象に講師を依頼され務めてきました。依頼の経緯は学校の総合学習の時間に「自分達の住む清新町の歴史を知ろう」とのことで学校から「江戸川区郷土資料室事務局」に講師の紹介依頼が来たとのことです。そして「文化財・郷土資料室ボランティアの会」の会長で清新町に入居開始から40年住んでいる私に講師の話が来たのです。40年住んでいて清新町の変わり様は身を持って体験していますが、行政の専門家でもなく地域の研究家でもないので講師の資格はないと申しましたが、一住民の立場で良いからと言われ講師を引き受けました。
当日は10時30分から30分間ずつ3クラス(1クラス30数名)を廻りました。生徒たちは事前に質問事項を準備していたので「質疑応答形式」で行いました。私もそれなりに下調べをして臨みましたが、鋭い質問もあり、そこまで考えるのかと感心する場面もありました。
Q:誰が埋立地(清新町)を作ろうと決めたんですか?
A:東京都建設局
Q:埋立地はどのようにして作られたのですか?
A:ほかの土地から土を運んで埋めたり、ゴミや産業廃棄物などを埋めたりした。
Q:どうして若月さんは清新町に住んでいるんですか?
A:当時、住居を探していて偶然決めました。住みやすいのでこれからも住みます。
Q:江戸川区の未来は人口が増えると思いますか?
A:少子化が進んでおり、このまま放っておくと70万人から45~50万人に減ります。
Q:未来のために今、どんな計画を立てているか知っていますか?
A:知っています。江戸川区では 「2100年の江戸川区 共生社会ビジョン」という冊子を作り動いています。
Q:若月さんが来たときはどんなところでしたか?
A:最寄り駅の西葛西駅の周辺は畑だらけでした。
ほかにも数多くの質問を受けました。生徒たちは男女の区別なく活発で礼儀正しく好印象が残りました。そして年が明けた1月中旬に生徒たちから「お礼の手紙」がA4の用紙で22枚も届いたのです。字体こそ、つたないのですが内容は「ありがとう」の言葉が溢れていて正に「ほっこり」した気分になったのです。明日を担う子どもたちの為に平和な日本を引き継ぎたいと年初に気持ちを改めた次第です。以上。
26 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(24)龍神社(2)― 29期 仲田元昭 2023年2月投稿
戯言&独言28 21期 髙野 昇 2023年2月投稿

▼コロナ禍も4年目、一向に収束の影も形も伺えず、悠々自適ならず憂悠自粛の毎日、楽しい散策、好きな電車乗りもままならず困ったものである。その間、出掛けたのが二人の孫の進学成就のお参りで生まれ育った亀戸の「亀戸天満宮」に行った事、そして義弟の逝去の家族葬で船橋へ行った事、縁故疎開時(銚子市)にすごくお世話になった方二名がコロナ最中に亡くなり息子が車で「銚子市までつれて行くから」との親切心に甘え、ご家族に身に余る感謝をうけ少し胸の遣えも晴れた事。ついでに東日本大震災で3m近い津波に遭った父の実家(旭市飯岡)をみてきた事。家の中は滅茶苦茶らしいが新築後5年目くらいで外見は修復されされていたが空き家になっており家族は近所に転居、家の中で溺れそうになったことが家族全員がトラウマになっているとの事だった。
▼残念なことに三商時代からの親友、21期石塚芳男君の葬儀に参列できず、細田武君の告別式にも行けず、そして実兄清兄(16期)の葬儀にはご子息家族以外会葬者は一斉ご遠慮して欲しいとの連絡をうけた。コロナ2波、3波のころだった。年末には十数通の喪中はがきが届きこれも鬱の一つ。
▼昨年末、免許証の更新を済ませた。息子達は運転は止めたらというが高齢者二人の日常生活にはクルマは買い物や病院通いには無くてはならず自粛中とはいえ最低限度の外出道具である。雨・風・雪と夜間、繁華街・それに長距離運転は自粛している。高齢者の運転事故のニュースを見たり聞いたりするごとに胸が痛み安全運転を心に誓う日々を送っている。もっぱらの楽しみはパソコンかな。といってもゲームをするわけもなくYoutubuでJAZZや好きな中日dragonsのキャンプ中継を生で見たり時々通販で買い物、最近は電子レンジやホットプレートを買い変えた。コロナに入ってからは外食は一斉せずホットプレートは活躍している。
▼そんな中、只々一つだけ心躍らせ熱くなった事がある。孫の一人が通学する城東高校(江東区)の硬式野球部が夏の高校野球の東東京予選で十数年来の宿命のライバルで東東京の優勝候補NO1と目されていた「関東第一高校」に勝った事である。それも1vs1の膠着状態の試合での8回表、走者2塁で孫がタイムリーヒットで勝利し準決勝進出を決めた。MXTVの中継をみて夫婦で興奮、抱き合ってしまった😄。翌日の各スポーツ紙東京版もかなり大きくページをさいていた。この大会の初戦(シード校なので3回戦から)にも9回表2死6vs8の敗退目前の劣勢時に孫が代打で起用されタイムリー同点2塁打、その後相手のミスがありサヨナラ勝ちしていた。結果は準決勝で日体大荏原に惜敗、しかし公立高校がベスト4に残ったのは快挙であった。コロナが無ければ当然神宮球場に行っているところだが孫曰く「神宮で思いきり打てて楽しかった」のひとこと。息子夫婦も子供の野球を応援して9年「これほど興奮した事はなかった」と語り私共高齢者夫婦も孫から最高のいい夏休みを貰ったと感謝。昨年7月の事であった。
▼まったくの独り言…‥コロナも第八波が襲来するか、昔「八波むと志」なるお笑いタレントがいて「脱線トリオ」というグループ。東北弁の由利徹、名古屋弁の南利明、東京言葉の八波むと志…由利徹の「チンチロリンのあっカックン」や「オシャ‥マンべー」面白かったな‥‥余計な独り言でした。
写真説明‥‥関東一高戦で勝ち越しタイムリーをうったときのtv映像
「頑張ろう21期」 21期 髙野 昇 2023年1月投稿
21期生の髙野です。毎夏、発送されてくる「三商同窓会報」には一昨年、昨年と19期・20期の先輩諸兄の特集ページがありそれぞれの時代背景、校内の雰囲気など諸兄の心意気が拝読しながら伝わってきました。19期・20期ときたら今年は我々21期とおもいますが、同期諸兄、如何ですか。纏まったものを書くなどかしこまることなく「あの時、あいつとこんなことしてたなあ」とか登下校にみた風景、夫々のエピソード、先生との絆‥‥諸々なんでもいいので投稿してみたら如何なものでしょうか。手持ちの写真などは大歓迎されるでしょうね。
既に八十路の峠を越え語り合う仲間も少なくなりました。今年の「同窓会報」を盛り上げようと思う同輩諸兄、やってみましょう。
「あの時の文章を思い出します!!」 28期 若月健司 2023年1月投稿
色々あった昨年の事件の中で大きいのは「安倍元首相の銃撃事件」です。それに伴って政治家と旧統一教会のつながりが日本の社会を混乱に陥れ、年が変わってもその影響は続くでしょう。新年に当たりふと思い出したのが数年前にある団体の会報に投稿した私の文章です。
~凡庸な悪が拡がっていないか?~ 会長 若月健司 数年前に「凡庸な悪」という言葉を新聞などで知った時、なるほどなあと思いました。その時の事例としてナチスのユダヤ人大量虐殺の被告人であるアイヒマンが「上から言われたことをやっただけ」と述べたのです。これに対してハンナ・アーレントは巨悪は極悪人によってではなく、平凡な人間の「凡庸な悪」によって成されると指摘したのです。アイヒマンも家庭にあっては良き夫であり、良き父親で全く我々と同じ家庭人であったようです。 この言葉にぴったりと思われる事象が最近発生していると思うのは考えすぎでしょうか。そもそも 「投票率の低下」もいづれは民主主義を亡ぼす一因となります。自分1人ぐらい棄権してもということが「凡庸な悪」の始まりです。国民に範を示すべき総理大臣の行動がおかしいと言える人を期待するのは無理でしょうか。現在の状態が長く続くと「凡庸な悪」が「大きな悪」を呼び込むと予想するのはおかしいでしょうか。 以上。 |
この文章で連想するのが旧統一教会との接点を問われた議員が「そんな団体とは知らなかった」「旧統一教会の関連団体とは知らなかった」「選挙を手伝ってくれる有難い人」「頼まれれば祝電を打ったり挨拶も行う」等々、国政に携わる人間とは思えない回答振りです。中には「旧統一教会と接点があって何が問題ですか?」というのもありました。自分達の行動が旧統一教会の活動にお墨付きを与えている認識がまるでないのです。アイヒマンと同じとは言いたくありませんがその幼稚さに情けない心境です。
選挙事務所にはいろいろな人達が出入りします。「純粋に候補者を応援したい」「選挙活動マニア」
「自民党は旧統一教会との関係を断つ」と宣言し、問題はあるが「新法」も制定されたので今年から
25 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(23)龍神社(1)― 29期 仲田元昭 2023年1月投稿

戯言&独言27 21期 髙野 昇 2023年1月投稿


▼令和5年用の年賀状ハガキの発行枚数がおよそ16億4千枚と日本郵便が発表した。20年前は40億枚を超えていたのが幻のようである。スマホの普及が急速に広まり若い人を中心にメールやLINEを利用する人が増え、高齢者の間で「終活」が広がり「断捨離」も増え、それらが減少の背景にあるのは紛れもなく事実である。宛名や手書きを書くのが面倒だからやめるとの本音がありながら「終活・断捨離」の名を借りてのチャンスに乗じて「年賀状始末」をした人、する人が増加したのも確かだとも思う。そろそろやめたいと思う人が増えた来たのは事実。
▼今年も100枚以上の年賀状を有難くいただいた。こちらからの賀状に答えて頂けなかった方も数名あり来年からからは出さない事を基本にしている。全ての相手とやめてしまうのには抵抗があり私もその一人、年賀状は日本の文化であり、正月の気分を満喫でき、一枚も賀状が来ない正月など私には想像が出来ない。”誰とも繋がりがなくなり精神的にもポッカリと穴があいた状態に落ち込む”こと然り、そんな事など感じ得ない方々は義理張りだけの思いの賀状投函だと勝手に思ってしまう。義理だけの賀状は私は数年前から出しておらず相手もそう思っている感もありそれはそれで縁切れになっても動揺はない。「やめる・やめない」の選択ではく自身の人間関係を整理し、出したい人、出さなくていい人をキチンと選別し数年かけて減らしていくのも知恵の一つであろう。現役時代の仲間、世話になった方々、学生時代に楽しく過ごした仲間、同一趣味で知り合った友人など私の場合はこれが基本となっている。

▼小学4年生から始めた友人とは今だに賀状のやり取りが續き、お互いに当時の俗称で書き始め、一言添え書きがあるのは喜ばしい。大事なことは、送る人への人間関係を大切に維持することであり年賀状はその手段のひとつでもある。賀状に「今年で賀状はやめます」のハガキには「数十年つづいた交誼はなんだったのか」と悲しい思いをするのは私だけだろうか。”あなたとの繋がりはこれで終わり宣言”はなんとも虚しい。
▼私は中学生のころから木版画を彫るのが好きで朴木の板にあの当時3本しか買えなかった彫刻刀で出来上がりは兎も角30年近く彫っていた。その後、プリントゴッコが出現しこんないい物が作られたことに感激し早速購入、その後パソコンを少しいじり始めた今はPC用のソフトからのアレンジ、創作した背景や自らの絵手紙風などからのデザイン、これが秋になると「ない頭」の楽しみのひとつである。
▼昨年も「喪中はがき」が10枚近くあり、郵便受けを開ける手もままならない12月だったが、「ああしたこうした」のLINEは見るがいつの日か「喪中LINE」なるもるが存在する時代になるのか考えさせられる。

「なまえ」 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2022年12月投稿
先日、新聞に子供につける漢字が載っていました。私は女の子が二人なので図書館へ行って「姓名判断」の本を借りてきて、かきやすい字、そして女の子だから「子」をつけました。ひ孫が四人いますが孫達は思いのままです。男の子は綺人(あやと)、愛翔(あいる)、女の子は虹愛(にいな)、心遥(こはる)です。
何か思いがあってつけたのでしょうが、かきづらい字でかわいそうです。私の「和子」は両親が明治神宮でつけてもらった名前です。でも明治神宮では明子(あきこ)か和子(よしこ)と云われたそうです。でも両親は皇女和宮様だって「和」を「かず」とよませているのでなにも「和」を「よし」と読ませることがないといって「かずこ」にしたそうです。
おじの一人は名前に濁点がつくのはよくないと云って「かつこちゃん」と呼んでくれていました。大きくなって男性は「わこちゃん」「かずちゃん」と呼ばれていましたが、たいていの人は「かずこちゃん」と呼んでくれていました。
「コロナ禍の合間か、色々あった11月!!」 28期 若月健司 2022年12月投稿
傘寿を迎え、名刺に「第3の人生に入ります」と記載し、これからは気の赴くままに過ごそうと気持ちを新たにしました。そんな今年ですが11月はコロナ禍の第7波と第8波の合間のせいか何かと出掛けることが多くありました。
1日(火)終日 「日帰りバス旅行」 くすのきクラブ(老人会)で箱根方面バス旅行 33名参加
鈴廣かまぼこ博物館・箱根神社・仙石原すすき群生地・長安寺・御殿場えびせんべい
の里など見学 *3千円のデジタルクーポン券利用
2日(水)午後 「清新ふたば小学校」訪問 10日の授業「清新町の歴史」についての打ち合わせ
3日(木)午後 「講演会」聴講 テーマ「世界の地震と火山に挑む」 主催:国立研究開発法人海洋
研究開発機構(JAMSTEC) 於:品川京急第7ビル
*海洋国家日本の海の研究を世界各地で実施中
4日(金)午後 かかり付け医院で年1回の健康診断(結果は月末) インフル予防注射接種
第5回目のワクチンを14日予約
5日(土)午後 「田の上いくこ都議の都政報告会」出席 於:葛西区民館
*中学生英語スピーキングテスト導入の是非 反対の田の上議員は会派から除名
6日(日)午前 「区内一斉美化運動」参加 通勤通学路のゴミ拾い
午後 「一龍齋貞弥真打ち昇進披露講談会」出席 於:内幸町ホール
*「三商講談会」の主宰者細井進一さんのご逝去を知る
7日(月)午後 三商28期同級会幹事の打合せ会 於:京橋モルチェ 8名参加
*今年の開催は中止とし、来年は開催する予定
9日(水)午後 「秋の史跡ウオークその1」スタッフとして参加 規模縮小し、17名参加
*久しぶりに再開、「境川・小松川親水公園」に沿って歩き、途中のお寺を訪ねる
明治9年に江戸川区に初めて出来た小学校「善照寺」の説明役を担当する
10日(木)午前 「清新ふたば小学校」の授業講師役務める テーマ:清新町の歴史
*3年生3クラスを30分ごとに廻っての質疑応答形式 地域の勉強を熱心にやって
おり、するどい質問もあり勉強になった
11日(金)午後 「カラオケ愛好会」参加 主催:くすのきクラブ(老人会)
*「帰れないんだよ」「昔の名前で出ています」「無情の夢」を唄う
12日(土)午前 「ピアノとフルートの演奏会」出席 友人の息子の嫁さんがピアノ演奏者於:代々木
午後 「講演会」聴講 テーマ:「持続可能な未来へ」 講師:綿貫淳子(元南極越冬隊員)
主催:えどがわエコセンター *越冬地における環境と食品ロスの話
14日(月)午後 コロナワクチン接種 *過去4回は副作用無し、今回は若干だるさを感ずる
夜 「講演会」聴講 テーマ:「これからの幸せ」 講師:五木寛之 座談:田中優子
井上広法 戸松義晴 笑い飯哲夫 於:有楽町よみうりホール
*90歳の五木さんが立ったまま50分間の講演に驚く
15日(火)午前 「風姿花伝を通読する講座」聴講 風姿花伝は能に関する理論書 於:田町駅前
主催:新現役ネット 講師:水野聡
*本講座は昨年9月開始以来月1回で14回目「花」と「幽玄」を理解できるか
夜 「むらさきの会」(田の上いくこ後援会)役員打合せ 於:船堀植むら
17日(木)午後 金沢まゆみ(むらさきの会)会員との情報交換
19日(土)午後 「三菱電機グループ合唱団公演会」出席 友人が団員 於:板橋区立文化会館
20日(火)終日 「歩こう会スペシャル」参加 主催:くすのきクラブ(老人会) 国立競技場のフィールド
内・選手ロッカーなどの見学 国立能楽堂資料室見学 30名参加
25日(金)午後 「カラオケ愛好会」参加 「愛始発」「宗衛門町ブルース」「東京夜霧」を唄う
27日(日)午後 同上 年1回の懇親会「べにばな」を唄う 参加者の唄を録音し、自分の唄を確認
28日(月)午後 「文化財・郷土資料室ボランティアの会」月1の定例会出席 28名出席
*「文化財の保護と活用について」の思いを話す
夜 「読者会」出席 「がんばろう、日本!」の機関紙の月1開催 於:TH船堀
*区議会議員を交えての情報交換
今年もあとわずか、世界的にはウクライナ紛争・世界各地での温暖化による大災害などがなかなか収まりようがないようです。国内的にも旧世界統一教に関する新法制定・原発再稼働・防衛費の増額・物価高・財政規律・エネルギーや食糧の自給率など問題山積です。ドイツ・スペインを破ったサッカーは唯一の明るい材料ですが来年はどういう展望が広がるのでしょうか? 以上。
24 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(22)入日神社― 29期 仲田元昭 2022年12月投稿
「椿の里の瞽女唄ライブ15」を聴いて思い出すこと 28期 若月健司 2022年11月投稿
10月15日(土)「瞽女唄」を聴く機会がありました。江戸川区教育委員会教育推進課文化財係の主催で会場は「一之江名主屋敷」です。ライブは17時30分から18時30分の60分間です。2007年(平成17年)から始まり今年は15回目です。江戸川区学芸員の樋口政則さんと瞽女唄伝承者の月岡祐紀子さんのお二人のご努力で今回まで続いています。私はスタッフとして誘導などを務めた後、ライブ開始後は会場後方で瞽女唄を聴きました。
盲目で生まれた女の子の行く末を心配した親は生きる術を瞽女さんに託したのです。盲目の女の子が生きるのは厳しい時代であったと思います。それぞれでグループを作り厳しい掟で結束し、瞽女唄を唄いながら春夏秋冬門付けをしながら町や村を廻ったのです。
今年は自分の育った少年時代の新潟県刈羽郡内郷村時代をなぜか思い出したのです。昭和20年代から30年代の頃です。戦後10年を過ぎた頃ですが白衣で松葉杖の傷痍軍人さんや托鉢のお坊さんが軒先に訪れて来たのを覚えています。母が茶碗に白米を入れて渡していました。魚売りなどの行商人や鍋の底を修理する鋳掛やさん、富山の薬売りさんなどの物売りが季節季節の変わり目に来ていました。ただ、瞽女さんを見た記憶がないのです。越後の高田市(現上越市)や長岡市は多くの瞽女さんが存在していたと言われています。両市に親戚があったので子どもの頃遊びにも行きましたが、そちらでも瞽女さんは見掛けませんでした。
雪降る高田市内を3人の瞽女さんが瞽女唄を唄いながら歩く昭和時代の記録映画を先日視ました。周囲にカメラを持った人たちが撮影しているのが映っていましたが、その頃には瞽女さん自体が珍しい存在だったのでしょうか。その瞽女さんたちが羽織っているのはコートではなく「角巻」に見えました。「角巻」は当時私の母親をはじめ女性が日常的に羽織っていたのです。その映像を視て思わずジーンとなりました。
最後の瞽女さんと言われた小林ハルさんが105歳でなくなったのが平成17年です。その小林さんたちから瞽女唄を習い現在まで伝承活動を行っている月岡祐紀子さんや企画運営している樋口政則さんに敬意を表するとともにこの「瞽女唄」がいつまでも語り継がれていくことを祈ります。 以上。
23 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(21)海神念仏堂― 29期 仲田元昭 2022年11月投稿
戯言&独言26 21期 髙野 昇 2022年11月投稿

▼学童疎開中、宿舎で霧島昇の「誰か故郷を思はざる」を4・5人の仲間と唄っていたら同宿の先生(女性)から酷い叱責をうけたことがあった。朝の「教育勅語」斉唱、夕食前は何らかの「軍歌」の合唱、戦地の兵隊さんを想い心満たして唄うよう毎日の先生の指示、その先生は東京大空襲で台東区小島町の実家が焼失したのを知り早々に退職し帰京していった。自分勝手な先生だなと皆が思っていた。疎開仲間の全員の東京の家(亀戸)も全て焼失、東京に居る家族が焼死した仲間もいて
東京大空襲を知ったあとの宿舎は大混乱となった。ある晩ほとんど全員で泣きながら「誰か故郷を…」を唄った記憶がある。「‥‥♬幼馴染のあの友この友♫‥‥あの山、この河」亀戸には山も河もないけれど長屋・どぶ板:共同水道…全てが消えた。その三か月後、銚子市の伯母の家に縁故疎開しそこで敗戦の詔勅を聴き三カ月後に東京小岩(東京大空襲では被災していない)の家族の避難先に戻った。

▼大戦は日本の敗北で終わった。ミズリー号での調印式のあと、駐留米軍兵、軍属、将校クラスの家族向けのラジオ放送が始まった。ラジオさえあれば日本人も聴くことできこれで多くの日本人が180度あの時代と変わった事を実感したはず。数日後、商店街のレコード店から流れてきたのがJAZZの「素敵は貴女」原名”BEI MIR BIST DU SCHON"であった。1935年頃の曲らしくアメリカ国内で大ヒット、戦時中はアメリの軽音楽など軍部の厳しい規制で聞くこともできずレコード店は密かに輸入盤を温存していたのだろうか。そこの店主の計らいか、店頭で素人楽団が演奏まではじめた。楽団名が”AMC"、テーマ曲までありそれがあの”素敵なあなた”だった。アマチュアミュ‐ジックサークルの略だったのか。店頭は凄い人だかりで、ついに近所の空き地に舞台らしきものを作り週1くらいのペースで定期開催、夜、兄二人と三人で連れ立って観に行き軽いリズムと軽快なテンポが日頃の飢餓と生活の息苦しさなどを払拭してくれて楽しいひとときであった。小学生の自分も兄二人(三商生)も曲名などわからずも何かウキウキした気分で帰宅した。夕方、幼い弟を背負い子守りを兼ねてよくレコード店や電気屋の店頭の前で聞き耳をたてていた。

▼上の兄が三商4年生の頃か「YOUR MY SUNSHAIN」を英語で唄っていた。学校の英語の授業が始まり先生が「この歌の歌詞は君たちに憶えやすく、日本訳も判ってくるよ」と言い黒板に筆記体の英文歌詞を書いてくれたそうで、英語の教師なのにメロディーも伝授されたそうである。朝に晩に口遊み、隣の小母さんが「お兄ちゃんは上手に英語の歌が唄えるのね」と言っていた。三商に通学する頃か、ドリス・デイなどが歌う”センチ・メンタル・ジャニー”やライオネル・ハンプトンが奏でるビブラフォーンの音色、三商通学にAM7時過ぎに家を出る時、ラジオ東京(現TBS)から番組の合間に必ず流れていたB/グッドマントリオの”SHAIN”、この曲のテンポの良さに元気を貰い満員の都電の混雑も苦にならなかった。
▼在校中最も耳に入ってきたのが先輩同輩諸兄なら誰もが知っているあの”テネシーワルツ“だった。この英文歌詞をタイプライターの実習授業中に先生の目を盗み殆どの仲間がタイピング化していた。日本版ではあの「江利チエミ」が世にでて一躍名声を得たのが昨日のようである。パティー・ページのレコードもプレスが間に合わないとの噂もあった。自分はジョー・スタッフフォードの唄うこの曲の方が好きで、唄い方が少し投げやり的で、なにか説得力のある印象があって好きだった。彼女の”霧のロンドンブリッジ”も素晴らしい。
▼8月15日を境に180度の国内の大展開、軍歌を強制的に唄わされた時代は無くなり、心を開放させる軽音楽、JAZZが飢餓・住宅難・買出し・インフレをひと時忘れさせるカンフル剤でもあった。子供の頃や青春時代に聴いた夫々の軽音楽、当時は舶来の曲はJAZZといっていたが、人生の黄昏を感じ始めた時、元気を甦えさせてくれる存在でもある。視覚情報が無かったあの時代、ラジオやレコードは個人の内耳にしっかりと触れてくるメディアであった。
懐メロ カラオケ考 28期 若月健司 2022年10月投稿
地域のくすのきクラブ(老人会)の「カラオケ愛好会」で懐メロを中心に唄っています。月の第二と第四の
金曜日と最終日曜日の計3回です。時間は午後1時30分から3時30分までの2時間です。参加者は男女半々ほどで7人から10人程です。1人3曲ですからちょうど2時間内で終了します。私は懐メロしか知りませんが、参加者の中には最新曲を唄っている方がいるので勉強しているのがよく分かります。
カラオケを初めて知ったのははっきりしませんが昭和56~57年頃と記憶しています。当時の職場の仲間でスナックに行き「ラブユウ東京」を唄ったのですが恥ずかしさで散々だった思いがあります。学校時代は音楽で3(普通)を取れば御の字でしたから人前で唄うなど考えられませんでした。しかし、カラオケが普及すると唄う機会が増え、下手は下手なりに唄えるようになり今日に至りました。今では人前で話すことは苦手ですがマイクを持つと不思議に声が出るようになりました。因みに「カラオケ愛好会」で唄った曲は以下の通りです。
表をクリックすると拡大できます。
以上が平成2年11月13日から平成4年7月22日までに「カラオケ愛好会」で唄った曲です。途中でコロナ禍による休会や欠席もありますが、ダブらないでよく唄ってきたものです。上手ではありませんが曲の雰囲気や歌詞を理解しながら唄うことを心掛けています。取り敢えず100曲を目標に頑張ります。
以上
22 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(20)大覚院― 29期 仲田元昭 2022年10月投稿

戯言&独言25 21期 髙野 昇 2022年10月投稿

▲久しく外出を自粛していたが「スポーツの日」の10日、暫くぶりに生まれ育った亀戸に足を運んだ。孫二人が来春の大学、中学への入試挑戦を控え、地元にある「亀戸天満宮」に参拝し絵馬を奉納、学業成就の御守りを買い求めたが、境内は七五三の参拝ファミリーで大賑わい。祈祷の順番待ちが一時間と書き出されていた。私達兄妹や孫達のお宮参りや七五三はここ天神様ではなく300メートルほど東に寄った「亀戸香取神宮」で亀戸や隣り町の大島が氏子で「亀戸天満宮」の氏子は墨田区の人々でお祭りなどは地元亀戸の人は催事などには手は出せない。しかし亀戸で生まれ育った身としては子供のころ8月の祭日が楽しみで蔵前橋通りに処せましと並ぶ昼店、夜店を日長一日買いもせずに隅から隅まで観て歩くのが楽しみだった。ソフト帽子の洗濯や、七味唐辛子や、詰め将棋、なぜか泥にまみれた万年筆を売る泣き売やなど。

▲反面、当時は地味でひっそりとしていた「亀戸香取神宮」も今や天神様に負けじと境内も整備され、最近はスポーツの必勝祈願の参拝者が多くそれがチームの選手全員を引き連れての参拝となると境内は大賑わい(写真・甲子園へ、東京予選必勝の参拝にきた城東高校のメンバー)香取鹿島を本宮と仰ぎ、本宮にはかっての阪東武者たちが戦勝・必勝祈願に訪れた歴史は受け継がれている。「香取」を「勝って取る」から香取というんだと父がよく言っていた。数多くの絵馬も○○大会に勝つとか、贔屓のプロ野球チームに優勝して欲しいとか様々、時節柄サッカー関連の絵馬が目立つ。学業成就が本意の天神様(写真・ここから見るスカイツリーは素晴らしい)とは対照的で水泳の池江選手が病に倒れたときの無事回復を祈願するものが多数あった。そういえば池江選手は地元亀戸2丁目にあるスイミングクラブの出身である。
▲蔵前橋通りと交差する明治通り、地元では十三間通りと言っているが、それをJR亀戸駅に向かう途中左手に中央道り商店街がある。入ってすぐ右手が私の生家があった処、かっては200店近い小売店がひしめき、戦前戦後ともに賑やかな街並みだった。戦前の我が家の店(食料品店)の両隣は布団やと自転車や、真向はクリーニング店、その隣は材木屋、20メートルも歩けば魚屋、豆腐屋、八百屋、お茶や、おでん屋、時計や、酒屋、床屋、焼き芋や(夏はアイスキャンデー)、ミルクホールや飯やもあった。生活環境は狭くともなんでも間に合う利便性に富んだ環境だった。

▲あの大空襲ですべてが消失、我が家は戦後昭和24年に元の場所に借金をしてバラックを建て商売を復活、両隣も戦災犠牲者が出て、かっての商人は殆どが消息も分からずなかなか地元には戻ってこなかった。田舎に行ったきり戻らない人が多かったようだった。土地もほとんどの商人は借地か長屋のせいもあり、あらたな借地契約に戸惑い、あきらめたこともある。隣の自転車やの後にはあらたな八百屋が来て我が家の商いとマッチしてかなりの客集めに貢献したようである。昭和30年代バラックながらも戸建て住宅も増え新旧の商人も増え戦前の賑わいの商店街となった。夕刻の買い物の人々が多く7メートルほどの道幅を夕方かの歩行者、自転車以外の通行止めを警察に申請、許可されミニ歩行者天国となり今も実行されている。
▲昭和の五輪後を境に駅ビルや大手、中間の企業(特に食べ物関連)が進出が十三間通りや近辺の商人に異変を感じさせ、この賑やかな買い物商店街も個人経営の店は跡継ぎも居ず、客離れを見越しオーナーは隠居し店はテナントに貸し、人の流れは変わらないが今日散策してみると三商通学時代に見慣れた十三間通りではあの頃の酒屋が1軒あるのみ。かっての生活臭と下町人情が漂った街、今は若者向きの好みにあったキラキラの街、高齢者には少し眩しい商店街。どちらにしても”昭和は遠くなりにけり”少しの虚しさを秘め「船橋屋」の葛餅と「佐野の味噌や」の好みの味噌を手土産に家路についた。
”ことば”について思うこと 28期 若月健司 2022年9月投稿
最近、私の周りで起こった事象の中で”ことば”について思うことがありました。
*毎年8月15日頃になると先の大戦時の映像がテレビで放映されます。その中で「5・15事件」を取り上げた番組がありました。首相官邸に乱入した青年将校が時の犬養毅総理大臣を襲ったのです。その時拳銃を向けた青年将校に「話せばわかる!」と言ったのですが青年将校は「問答無用!」と拳銃を発射し、それが原因で総理大臣は亡くなったそうです。その時に少しでも”ことば”が通じ合っていたら歴史は変わっていたかも知れません。この事件を契機に日本の政党政治は後退し、軍部が台頭してあの太平洋戦争にのめり込んだと思います。
*先月は私の身近でショックなことがありました。現役時代の同期生のI君とは住居が近いことから近所の喫茶店の常連客同志でした。コロナ禍と暑さの為しばらく遠のいていた喫茶店を久しぶりに訪れました。すると喫茶店のママが「若月さん、最近Iさんの様子がおかしいのよ、電話をしてくれないかしら」と言うのです。すぐ携帯電話するも出ません、固定電話でようやく本人が出たのですが、若月を名乗っても要領を得ないばかりか「どちら様でしょうか?」という有様です。その後、ママに確認したところ認知症らしいと言うのです。5~60年付き合ってきた人と”ことば”が通じないショックを受けたのです。
*安倍元首相が凶弾に倒れました。現在、国葬儀や旧統一教会とのつながりなどで騒がれています。安倍元首相が国葬儀に値するかどうかは別として故人の”ことば”として気になることがあります。平成29年初め森友事件が起こった際、「私や家内が関わっていたら総理大臣を退任します!」という意味の”ことば”を国会で感情的であったかもしれませんが発したのです。政治家の発言は「綸言、汗の如し」であって取り消しは出来ないものです。あの発言で忖度という言葉が使われ公文書の改ざん・赤木さんの自死などが発生しました。そのほか国会では118回の虚偽答弁があったとも言われています。政治家が旧統一教会のつながりについて説明していますがどうもあいまいで潔さがありません。分りづらい表現や後刻言い訳の余地を残した言い回しで逃れています。政治家は”ことば”が武器ですからもっと分かりやすく明確に語って欲しいものです。
*私の好きな小説家に宮城谷昌光さんがいます。古代中国を題材にした本が多いのですがあらすじはもちろん魅力なのですが、時々出てくる漢字による”ことば”に興味があります。現代は使われないのですが含蓄があるのです。
世路(せいろ)~世渡り 擢登(てきとう)~人を引き上げる 繁衍(はんえん)~子孫の繁栄
蔽晦(へいかい)~ごまかす 寇掠(こうりゃく)~財貨を奪う 悴容(すいよう)~やつれた顔
涅(でっ)すれども緇(くろ)まず~染めても染めても黒ずまないものが真の白いもの
間関流離(かんかんりゅうり)~度々苦難にあい諸方を放浪すること
手話や以心伝心など言葉がなくとも意志の疎通は出来ます。でも”ことば”は大切です。 以上。
21 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(19)船橋日枝神社― 29期 仲田元昭 2022年9月投稿

戯言&独言24 21期 髙野 昇 2022年9月投稿

▼暑くて長い夏の甲子園の全国大会は”仙台育英高”が優勝、白河の関を優勝旗が通過したと話題も豊富、歌舞伎「勧進帳」の弁慶もさぞ喜んだはずである。近年公立高校の優勝など殆どなく地区による春、秋の大会なども私立高が優勝している。
▼そこに在る疑問点ついて考えてみたい。PCでこの甲子園大会(春・夏)の準々決勝以上に出場した過去も含めた学校の中から無作為に調べてみると他都道府県中学からの入学生が圧倒的多い。出場登録選手(18名~25名)中、強豪として超有名なOT学園18名中16人が他府県からの選手、東京の二高、T高なども13人で、ほぼ私立高校の登録の半数以上が他の都道府県からの寄留選手である。その後ろには地元府県の野球が大好きな選手、他都道府県から寄留してきたもののベンチ入りが出来ない生徒を含め数十名の部員がいるはずで他の都道府県から勧誘、越境入学になんの規制も無く野球部員として寄宿舎から通学させる現実を高野連は何ら対応も対策もなく”知らん顔の半兵衛”である。
▼そこで一案、出場選手登録の中で他都道府県中学から入学してきた生徒・選手の数を5名までとし、もっと厳しく規制する案として学校所在の都道府県の隣接の都道府県からの寄留以外は認めない。地元府県から入学してくる野球少年、生徒・選手に機会を与える。郷土愛とはそこで生まれ、育ち、仲間と睦まじくその地を愛おしく思う心ではないだろうか。規制するなら球界ではベンチ入りの選手に外人の員数制限があり相撲界でも外人のお相撲さんは各部屋何人との規制をつくった。ある例としてかって鹿児島の中卒の野球選手がはるばる大阪府の超有名高校野球部に入部したり、北陸育ちで地元の少年野球で名をあげた選手が結果、東北の私立高に入っていた。地元の野球好きはこんな現況を知ってはいても、親子丼を頼んではみたが出てきたのはじつは他人丼なんだとの思いは否めないとおもう。
▼今は少子化時代、子供を中心に野球離れあり、野球人口の低迷、野球は金がかかる、そんな問題を含めサッカーに親や子の目が向いてしまうの現実、私立高の野球部コーチなどが各地の中学生を対象とした「ボーイズリーグ」等を回りスカウトに走り回っているとか、相撲部屋の弟子スカウトと同じである。高校までの各スポーツの公式戦は全てがトーナメントで勝ちぬかなければならない宿命でもある。そこで管理者、監督、同僚などからのハラ―スメントがくすぶる。柔道連盟では小・中の大会をすべて開かなおい方針に向かい出した。春の選抜野球選手権(毎日新聞)では文武両道はもとより、街中のゴミ拾い、練習時間の厳守、その他諸々、など実績とは別に加味され、これは公立高校に多く、本大会でこの選ばれた高校に負けたチームの監督が「なんであんな高校に負けるんだ!」と選手を叱責とあった。この監督こそ自らの人間性を叱責すべきである。越境入学者を揃え春夏連覇したなど唱える学校にはいつも違和感を覚えてしまう。
ほおずき市 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2022年8月投稿
夕飯を食べに浅草へ行ったら、その日はほおずき市でした。浅草寺をお参りすると四万六千日お詣りしたご利益があるそうなので、お詣りしました。
子供の頃、父は弟二人と私をつれて、ほおずき市と羽子板市へよくつれてきてくれたことを思い出しました。弟達はおもちゃを買ってもらうのが楽しみで、私は家に帰ってほおずきを作るのが楽しみでした。中の種をよくもみほぐさないとうまくほおずきが出来ません。
ある年近所に住む従妹が一緒に行くことになりました。父は弟達と一緒に従弟は旅行に行ったりしていましたが、従妹と出かけるのは初めてでした。食事はいつも「セキネ」でした。今でもあるので通るとなつかしく思います。従妹に何食べると聞いたら「ラーメン」と云いました。運ばれてきたのは五目ソバでした。すると、従妹が「おじちゃん、これラーメンじゃない」と云い出しました。ラーメンは茶色のおつゆですが、五目ソバは白いので、従妹は間違ったのかと思ったのかもしれません。父は「おいしいから食べてみな」と云いました。私は父が外で従妹と食事することがないので、ごちそうしたのだと思いました。家へ帰ってきて皆で大笑いをしました。父は云われた時ちょっとびっくりしたと云っていました。
~我が畏友~ 長谷川 勇 のこと 28期 若月健司 2022年8月投稿
先月、小学校・中学校までの同級生である長谷川勇から「あゆみ」と題する冊子(自分史)が届きました。彼は今日まで地元である新潟県柏崎市西山町別山に住んでいます。彼とは現在、年賀状だけの友人ですが、同級会などで帰郷した折には地元で一目置かれているのは感じていました。森林管理や地元コミュニティの中心人物であるとは聞いていました。
その彼から昨年初に「昔の暮らし文集」を発行するので「別山時代の思い出」と題する原稿の依頼がありました。別山時代は昭和30年前後の貧しい頃です。私は当時の遊びや友達のことを思い出しながら原稿にして彼に送りました。その文集が届いたのが昨年末でした。そこへ先月に届いたのが「あゆみ」です。以下は彼への届いた旨の礼状です。
拝啓、先日は冊子「あゆみ」をお送り頂き、誠に有難うございました。あれからじっくりと読ませて頂きましたが勇さんのこれまでの人生に驚きと感激を抱くばかりです。最近には「昔の暮らし文集」を発行されたばかりで、この度は自分史にあたる「あゆみ」を発行されるエネルギーもさることながら「自分の人生」を振り返る強い思いに驚嘆します。「昔の暮らし文集」にあるように戦後の貧しい時代を過ごした同級生がそれぞれの環境から別れ離れになり、傘寿を迎えた現在まで違った人生を送ったのだという思いに至りました。 私自身はこれまで流れるように生きて来たような思いがあり、勇さんのようなとても充実した内容ではありません。しかし、最近は自分の人生を三分割しています。即ち、会社勤め時代を第1の人生、還暦を過ぎた頃から傘寿までを第2の人生そして現在から死ぬまでを第3の人生としています。 第1の人生は還暦をはさんで45年間程ですが家庭と勤務先の往復が主でした。第2の人生は①地域の役員(管理組合・自治会・老人クラブなど)②東京都議会議員の後援会会長③ボランティア活動(江戸川総合人生大学・環境団体での活動・江戸川区の文化財・郷土資料室など)④プライベート(高校母校の同窓会理事及び同期会幹事・NPO法人新現役ネット内団体世話人など)この第2の人生は多忙でしたが充実した頃でした。傘寿を迎え、体力や知力の衰えを感じたことから第3の人生に入るべく責任あるポストから離れ現在はひいきの講談師の講談を聴いたり、子どもの頃からのファンの阪神タイガースをテレビ応援したり、「古典を学ぶ」という講座で「能」について勉強しています。老人会では一会員として健康麻雀やカラオケに興じています。 平和な時代が続くことを祈るばかりですが、「歴史は繰り返す」ようで困ったことです。安倍元首相が凶弾で倒れる・政治と宗教の癒着・コロナ禍の第7波・ウクライナ紛争・地球の温暖化・政治の右傾化・円安・物価高・財政の健全化などなど数え上げたらきりがないほど問題が山積しています。 老人の愚痴話になったようですが、ここまで戦争もなく生きて来たのだからあと20年は平和であって欲しいものです。 敬具。 |
*勇さんの主な経歴
昭和43年:全国山林業経営発表会県代表として発表(上智大学にて)
昭和44年11月:林野庁長官賞受賞
昭和45年10月:礼拝郵便局職員となる
昭和61年3月:新潟高等学校通信制卒業
昭和63年度:別山小学校PTA会長
平成3年4月:西山町林業愛好会設立
平成9年12月:真宗同朋会推進員となる
平成10年~12年:信越郵政局為替貯金事業最高優績表彰受ける
平成13年6月:荒谷さとやま保存会立上げ
平成14年4月:別山カタクリ保存会立上げ
平成17年度:荒谷農家組合長
平成19年4月:三条真宗学院入学
平成20年3月:得度僧籍簿に登載(釈縁静)
平成20年7月:別山コミセンセンター長
平成22年11月:林野庁長官賞受賞
平成23年4月:新潟県高齢者大学入学
平成30年4月:荒谷あじさいの会(老人クラブ)代表
令和3年11月:「昔の暮らし文集」
発行 令和4年5月:自分史「あゆみ」発行
合併により柏崎市内となりましたが、実際は部落が存在する片田舎です。そこで生まれ育ち地元郵便局に勤めながら森林保護に当たったり、さとやま保存会・カタクリ保存会など地域の発展に貢献しています。個人としても得度僧籍を得たり、高齢者大学で勉強に励んでいます。そして傘寿を迎えるにあたり自分の人生を記録する自分史を発行する旧き友人に敬意を表するとともに誇りに思います。
以上。
20 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(18)西向地蔵― 29期 仲田元昭 2022年8月投稿
戯言&独言23 21期 髙野 昇 2022年8月投稿

▼暑い8月、どうしても思い起こしトラウマの様に心に現れるのが77年前の6日、9日の原爆投下、「原子爆弾」などの言葉ではなく新聞は「新型爆弾」と書き庶民は「ピカドン」と言いその恐ろしさは数日後に巷に拡がった。次は東京だとの風聞の中での15日の天皇の詔勅、夏休み中に急遽校庭に集合、村の人々や校舎に駐屯していた軍隊(総員30名ほど)なども集結した。初めて聞く天皇の声は音声も悪く文言もあらかたの人には意味不明、ただ「堪え難きを堪え凌ぎがたきをしのぎ‥‥」の文言の部分だけは小4の自分には理解したと思い「力の限りガンバレ」の檄文と思い込んだ。結果はあのとうり、まず頭をよぎったのはこれで東京の家族の処に帰れるの思いだった。
▼10日ほど過ぎると最終列車で内地勤務の復員兵が沢山の荷物を担ぎ駅に降り私の従兄も3人9月に戻ってきた。村に駐屯していた部隊もMPが早々にやってきて武装解除、階級章ももぎ取られ三八銃が20丁くらい(どう考えても駐屯兵員数と会わない)機関銃2機がトラックに積まれ運ばれてゆくのを見た。MP全員の肩には黒い自動小銃、この光景で勝てる戦ではないのがよく判ってきた。この日の20日程前、空襲にきたB29が高射砲で撃墜され搭乗員の1人が落下傘で脱失、なぜかこの村の芋畑に落ち近在の農民4・5人にめった打ちにされ血まみれとなりその翌日に憲兵隊に引き渡された光景も見た。終戦後の数日後MPがジープで来村して来て加害した農民の調査をし関係者を束縛、C級戦犯となり3年後くらいに釈放されたと疎開先の伯父が教えてくれた。その話は近在の村民の間ではタブーとなっているとの事だった。大きな事、小さなこと全てがこの8月に思い出す。私にとってこの日は終戦記念日ではなく敗戦記憶日なのである。
▼夏休み中とはいえ殆ど毎日が登校日、勉強ではなく芋畑の草むしりと松根油(松脂)集め、そのあと教室に集まり中学4・5年生の代用教員による軍人精神や各地での戦況の話、すでに沖縄は陥落してたなど彼等も生徒も知らず内心いつ少年兵として赤紙がくるか?そんな不安を纏いながらの思いからかつまらぬ事でやたら生徒にビンタの雨を降らし、特に私を含め東京からの縁故疎開児には酷かった。16日からは登校日には行かず代用教員の姿も村の中で見る事もなくこの180度の転換を大人も子もなんだったのか。伯父宅に寄宿していた(軍医・少尉)は「実際のとこら薬とし十分あるのは征露丸と包帯だけ」と言いその殆どを伯父宅に譲り、敗戦2か月後に故郷津田沼に帰り駅まで送って行った記憶がある。風聞が多く男は奴隷として収監され異国に送られるなど伯父は「勝って官軍、負けて賊軍」など口走っていた。私にとって敗戦は東京の6畳と3畳の二間の7人家族の一員になれる事、5歳下の妹が喋らずとも最高の笑顔で迎えてくれた事、忘れられない。
▼必勝を信じて向かった一年前の学童疎開、その後の縁故疎開、私にとっては波瀾万丈の一年であったが敗戦後の「ギブミ―チョコレート」の時いみじくも言った友人の「こんな旨いもの食べているアメ公に勝てるわけがない」の言葉、つくずくと思い出す8月である。学童疎開のあの日の夜行列車から見たやたら大きま「スーパームーン」、この稿を書き上げた今夜も良い月夜だ。ウクライナの国民に思いを馳せながらも一方で「核」を持つ国の多さ、主導者は「核戦争に勝者はいない」の格言を肝に銘じ末永い平和を祈念するのみである。
雑句‥‥ 近ずきて やがてすぎ行く 十五日
阪神ファン70年余、変わりません!! 28期 若月健司 2022年7月投稿
私は小学生時代から70年余ず~と阪神ファンです。関西出身でもないし、関西に住んだこともありません。思い起こすと小学生時代に過ごした新潟県柏崎市西山町の頃、隣家にいた2級上の餓鬼大将が大の阪神ファンだったからでしょう。当時、メンコ遊びが流行っていました。平均5センチ程の丸や四角な厚紙のメンコで相手のメンコをひっくり返すと自分のものに出来る遊びでした。そのメンコにプロ野球の選手の写真が貼ってあったのです。阪神の藤村兄弟、別当、土井垣などを今でも覚えています。
以来、弱い阪神、強い阪神(あまりないのですが)を心変わりすることなく応援しています。そんな中で記憶に残ることがいくつかあります。
・昭和37年(1962年)の優勝
藤本定義監督 1塁:藤本(島倉千代子と結婚)2塁:鎌田(地味だが堅実)3塁:三宅(超鉄壁)
遊撃:吉田(今牛若丸)外野:並木(意外性あり)投手:小山(抜群な制球力)
村山(ザトペック投法)
・昭和39年(1964年)の優勝
藤本定義監督 投手:バッキー、村山の2本柱 日本シリーズで野村克也を擁する南海に惜敗、特に投手のスタンカに敗けた。この年、王の55本本塁打新記録 東京オリンピック開催
その頃、社会人の成り立てで勤め先のある新橋の居酒屋で阪神ファンの先輩たちに混じって優勝祝いで気勢をあげたことを昨日のように覚えています。
・昭和60年(1985年)の優勝(21年振り)
吉田義男監督 掛布、バース、岡田の三者連続のバックスクリーン本塁打(巨人の槇原から)
投手:ゲイル チーム本塁打219本 初の日本一となる バースの三冠王
・平成15年(2003年)の優勝
星野仙一監督 今岡、赤星、金本の打撃陣(チーム打率0,287) 井川、伊良部、下柳の投手陣
・平成17年(2005年)の優勝
岡田彰布監督 今岡、赤星、金本、シーツ、鳥谷の打撃陣
JFK(久保田、ウイリアムス、藤川)の救援陣
その頃、第2の職場のオーナー会長が大の阪神ファンで各地の球場に二人で応援に行きました。特に思い出深いのは高知県安芸のタイガータウンの春のオープン戦観戦に2回出掛けたことです。そのうちの1回は阪神選手と同じホテルに同宿した折、当時の黒人選手が共同風呂に前も隠さず堂々と入ってきたのですが、その立派な体格に感心(?)しました。帰京の途中で大阪の阪急ホテルに泊まり翌日阪神・淡路大震災の1年後の復興状況を見てきました。もちろん甲子園球場の巨神戦を観戦してきました。他にも昔の後楽園球場のグランドでの野球試合、オーナー会長の野球観戦の奇行、横浜ファンの友人との観戦談、近所の人達との阪神ファンの会設立などいろいろありますが紙面の都合上割愛します。現在は体力の衰えにより球場まで出掛けませんがテレビで阪神の全試合を観戦できる便利な時代です。虎キチとまでいきませんが、弱い阪神でも末永くささやかに応援するつもりです。 以上。
19 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(17)稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年7月投稿
戯言&独言22 21期 髙野 昇 2022年7月投稿

▼昨夏の「同窓会報」は19期諸兄の特集で19期の先輩方の纏まりの良さに感服しました。毎月1回本所の「蕎麦処琴冨貴」で集まり更なる親睦を深めている様子、私も幹事の細田安治先輩とは同窓会の集まりでたまたま同じ卓の席になりそのご縁もあり一度同席させていただきました。19期生で私の記憶に残っていたのは中野貞二氏、石原博氏の二名の方でした。
▼特に中野氏は16期の兄と当時の小岩の珠算塾の仲間で、地元の三商在学生の諸先輩も多数通塾していたらしく、当時はまだ旧制中学で六三制が施行される前だったと思います。私はまだ小学生だったはずです。そんは中野先輩が時折「琴冨貴」の集まりに見えると細田先輩から聞き2年後輩ながら集まりに参加させていただきました。逝きし兄との色々な思い出話、兄に映画見物に誘われたエピソードたのしいひと時でした。ソロバン日本一になった中野さんをすごく誇らしげ語り16期の吉羽亀之氏が来訪の際には(よく遊びに来てました)近所の寿司屋で祝杯を挙げ、わたしも同席し楽しく過ごしました。
中野先輩…70年ぶりに会いました
石原先輩…54年江商時代の社内旅行・前列左端が石原先輩、後方左端が小生
▼石原氏は在学中確か生徒会の副会長をやっていたでしょうか。私は就職も既に「日本長期信用銀行」に決まっていたのに校長、清田教頭からの懇願で改めて「江商…‥現兼松」を受けて見ろと言われ私は「江商」なる商事会社など知らず「珠算と簿記に長けて、英語は少しばかりできれば良いから」と言われ、校長・教頭の意のままに受験、三商から3人が受けましたが私一人のみが内定を受けました。珠算1級、簿記2級の資格がきいたのでしょうか。後日清田教頭がわざわざ我が家に両親に了解を得るために来訪「長銀」にも了解を得た旨と、報告を受けました。「江商」は戦前からの”関西五棉…江商・丸紅・伊藤忠・東棉・日棉”の一社であることも知りました。入社3日目に石原先輩から声がかかりました。
日本橋本石町にあった「鰻の登亭」で1対1の歓迎会をして頂きました。18歳に成るまでこんな本格的な蒲焼を食したのは初めてで2人でバヤリースオレンジをのんで乾杯したおもいでは忘れられません。先輩はとても優しく、社内の評判も「石原に聞くとよくわかるよ」と言われガンガン営業をやっている諸兄(殆どが軍隊生活経験者で)は縦系列を重んじる傾向の中、石原さんにはずいぶんたすけられました。秋にあった五棉対抗野球大会にも石原さんと一緒に選手として出場、社員旅行に昇仙峡に行った時も同室で三商の思い出話にが華さきました。私は事情があって1年と少しで退社、その時も石原さんの旗振りで経理部十数人で人形町の料亭で送別会をして頂き身に余る光栄に感謝あるのみでした。同時入社の一商の2名の友人はその後インドネシアや台湾に転勤、その内の一人は転勤先で病死してしまいました。「日本に早く帰りたい」との手紙も何通も貰いそんなこともあっての早逝でした。高卒にしては英語に優れていましたが残念でなりません。そんな思いが残る19期の二人の先輩でした。
▼もうひと方、在学中から今まで顔を合わせた事も無く過ごしていましたが一昨年に逝去された北村重雄 先輩です。私が幹事の一人として務めた21期の同期会の事を知り妹(大倉貴美子さん)の事を宜しくとの手紙を戴きました。それがきっかけとなり頂いた手紙の交換は30回近くあり、手紙にはいつも違う篆刻が押印され、その説明の由意も必ず添付されていました。文章のさい最後には必ず「妹を宜しく」とあり兄妹愛が溢れていました。京都在住のせいもあり松坂屋デパートを退職後、趣味が嵩じて京都の神社仏閣の関係者の篆刻の仕事で生涯を務めていました。私のみの篆刻を頂いた時は感動、印影だけでしたが「何かの時にお使いあれ」との手紙が最後でした。妹さんの大倉さんとは1年生の時が同じクラスでもあり、今は親しくさせて頂きお住まいも私の生まれた亀戸で、これもなにかと北村先輩の御縁かと思っています。
北村先輩…私個人に作ってくれました
確認してみたい三つの未来!! 28期 若月健司 2022年6月投稿
~その1~ SDGsが目指す2030年頃の未来
現在、日本中で「SDGs」で騒いでいます。私の住む江戸川区でも国から「SDGs推進未来都市」の指定を受け役所内に「SDGs推進部」やSDGsおよび共生社会実現するための「ともに生きるまち推進課」を設置して動いています。私の所属する江戸川総合人生大学同窓会では5月21日に「SDGs ともに生きるまちづくり」をテーマにした講演会をコロナ禍の中でしたが感染対策をしっかりやり、講演時間も1時間以内に収めて40名を集めて行いました。講師は役所のSDGs担当課長で講演後のアンケートの評価は上々でした。私は司会進行役を務めましたが終了後ふと思いました。SDGsの17項目は現在の我々が抱えている課題ですが2030年頃になって果たしてどのくらい改善されているか確認したいのです。あと8年後ですから何とか頑張りたいと思います。
~その2~ 孫が成人になる2040年頃の未来
私には3歳の女の子と1歳の男の子の孫がいます。近所に住んでいるので時々顔を見ますが可愛いのは確かです。その時、ふと思います。この子たちが成人になる頃の日本は平和だろうかと?私の年代は戦後の窮乏時代や高度成長期やバブル崩壊などを経験してきましたが戦争に巻き込まれることなく生きてきました。ところが昨今、地球温暖化による異常気象での災害発生、また30年以内での東京湾北部大地震発生も噂されています。自然災害はともかく人類が引き起こす人災も気になります。ロシアによるウクライナ侵攻での核兵器使用が取り沙汰され、日本も過剰反応して核所有・軍備増強論などが流布する有様です。7日(火)にくすのきクラブ(老人会)で新木場にある「第五福竜丸」を見学しました。
1954年にビキニ環礁での水爆実験で放射能を浴びたマグロ漁船です。あれから70年程経っても人類はいまだに核兵器にこだわっており、日本は核兵器禁止条約にもそっぽを向いています。国内的にも年金制度は維持できるのか、財政は大丈夫か、少子化はどうか、日本の地位低下はどうか、など心配事はいろいろあります。人生100年と言いますが、あと20年弱、よほど頑張らなくては2040年は無理かなあと思いつつもしかしたらと健康に気を付けています(笑)
~その3~ 2100年頃における江戸川区の未来
今年の3月に江戸川区では「共生社会ビジョン」の素案を発表しました。SDGs推進と併せて共生社会の実現を目指そうというのです。現状のままの成り行きに任せると江戸川区の人口は約70万人から45万人に減少する。そうなると歳入も減り、役所の職員も減り、当然住民サービスも低下するというのです。その対応として「共生社会ビジョン」の素案を策定したのです。策定に当たり区民や有識者の意見・提案を取り入れた会議などをいくつか実施しました。その中で「みんなのえどがわ大会議ワークショップ」があります。これは1グループに区職員2名、区議会議員2名、3団体の代表3名の計7名による会議です。分野毎に9グループに別れますので全体では63名が参加しました。私が会長を務める「文化財・郷土資料室ボランテァの会」にも団体としての参加要請がありましたので私が参加しました。ところが昨年の9月に会議が予定されていたのですが、コロナ禍の為会議は中止となり文書(ワークシート)による提出となり残念でした。これからは「共生社会ビジョン」の素案の中身を充実していくことを期待します。あと約80年後の2100年の江戸川区は絶対に確認することは出来ませんが、子どもや孫が平和に暮らしているに違いないと願う今日この頃です。 以上。
18 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(16)三峰神社― 29期 仲田元昭 2022年6月投稿
戯言&独言21 21期 髙野 昇 2022年6月投稿

<球種>‥かつては昭和30年代頃までの投手が投げる球種と言えば直球・カーブ・シュート・ドロップ・スライダー・時折にフォークボールくらいだった。特にスライダーとフォークはごく一部の優れた投手か投げ、フォークは杉下(中日)スライダーは藤本(巨人)シュートは河村(中日)西本(巨)でいずれも開拓者でもあった。今、TVでの解説者やアナの放送を聞いていると前記5種のほかにチェンジアップ・シンカー・カットボール・ッーシームなどアナも解説者も「今のは○○ですね」等簡単に言っているがそんな細かい事が即見分けがつくのか疑問である。視聴者には投手の背面からの映像だけでは見分けがつかない。かつてのカーブと今のカーブでは全然球速が違い今はやたら山なりに投げている。過去カーブをあんな球速で投げる投手などあまり居ず、昔はこんなカーブを「ションベンカーブ」といい、打者の外側から入るカーブを「鉢巻き」と言っていた。フォークも私などからいわせれば昔のドロップに毛が生えたようなもので杉下、村田、佐々木のなどのドロップは懸河のドロップと言われ、杉下のフォークは打者から糸目がよく見えたとあの川上(巨人)が言っていたほどだ。こんなに僅かの違いと球種の多さではボールの握りも違うし肩の使い方などを思うと投手に故障者が多いのは当然である。高校球児までもが同じ様になってきており高野連はこの数多い変化球対策を検討する時ではないだろうか。
<解説者>‥野球に限らずスポーツ中継には解説者は付き物。ルールや技量についての解説は知識の浅いスポーツを観る者にとってはありがたい存在、しかし野球ほどファンが多く子供でもあらかたのルールや知識を持っている。それはそれとして今のプロ野球放送にあれほどの解説者が必要なのだろうか。ほとんどの解説者は球種やどうでもいい話で私には「そんなことどうでもいいんじゃないか」の思いが強い。アナより余計に喋っていたり、結果論のみ喋り「だからこうなるんですよ」との給う。それに解説者が二人いたり、日によっては「野球選手と親しい」と誇らしげに語る芸能タレントが出ている。これは圧倒的に民放に多いが、こんなのは入場券を買って観戦したり有料のTVに金子を払っている我々ファンとはかけ離れ存在である。視聴率の競争に勝つための手段としてはかなりミーハー的。今は私はもっぱらTVは副音声で「場内音声」のみで観ている。
雑句‥‥梅雨篭り カフェーオレと モダンジャズ
********今月の「文芸春秋」に同期の野中郁次郎君の第二次大戦の日本軍についての座談が10ページ渡り記載されています。経済学者と戦争、面白いですよ*********
ささやかですが応援しますよ! 28期 若月健司 2022年5月投稿
令和4年5月5日
先月の9日(土)午後、光が丘駅前のIMAホールでのミュージカル「プロパガンダ・コックピット」を観る機会を得ました。ミュージカルなるものを観るのは初めての経験でしたが上演時間2時間余の間、楽しく過ごしました。ストーリーは別として多数の劇団員による合唱・ダンスそして会場の音響に圧倒されました。今回のきっかけは令和2年2月に両国で開催された三商同窓会の新年会でした。テーブルで三人の若い同窓生と偶然同席となり、その内の一人が68期の長瀬可織さんでした。彼女がミュージカルの劇団員との話が出たので「観に行くから連絡くださいよ」と気軽に話したのを覚えています。
その後、コロナ禍で公演不能が続きましたが、今年の2月に公演開催の連絡がありましたのでチケットを予約しました。しかし、コロナ禍が収まらず残念にも公演中止となりました。ところがしばらくして今回の公演の連絡が入り光が丘駅まで出掛ける次第となったのです。68期と言えば40歳程下の後輩ですが、私の娘と同年代ですので「コロナ禍の中で
頑張っているんだなあ」と気に掛けたくなります。これからも機会があれば出掛けます。
三商同窓会と言えば数年前に理事になったことから「三商講談会」を知り、開催される清澄庭園内凉亭に毎月出掛けています。この会の代表者は33期の細井新一さんです。3年程前に私が代表の某団体の総会のアトラクションに講談会をセットしましたが、その際
講談師を細井さんに紹介して頂きました。私が住まいする江戸川区出身の講談師である田辺一鶴さんの孫弟子に当たる田辺いちかさんです。当時は前座でしたがすぐに二つ目となり、現在活躍中です。「三商講談会」では毎回3~4人程講談師が来ますがその中で私の耳に心地よく響く講談師が一龍齋貞弥さんです。彼女は二つ目ですが今年の9月に真打ちに昇進すると聞いています。
私自身なにも出来ない無芸でせいぜいカラオケで懐メロ演歌を歌う程度です。一生懸命努力精進している長瀬可織さん・田辺いちかさん・一龍齋貞弥さんが将来必ず大成するものと期待すると共に尊敬の念を持っています。特に長瀬可織さんは三商の後輩でもあるので今後ともささやかですが応援していきたいと思っています。
以上。
17 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(15)道祖神社― 29期 仲田元昭 2022年5月投稿
戯言&独言20 21期 髙野 昇 2022年5月投稿

▼終戦直後にみた映画「…‥五人男」正確な題名も出演者も失念し忘れてしまったが斎藤寅次郎の作品で喜劇が得意な監督だった。その中で焼け跡の中でかつてのお殿様の末裔かと思われるひとがドラム缶の風呂に入っているシーンがあった。その中で家来と思われるひとがドラム缶の湯を焚き乍ら唄う歌が♬♩・お殿様でも家来でもお風呂に入るときゃみなハダカ、裃(かみし)も脱いで袴(はかま)も捨てて・♩♫のシーンが何故か未だに思い出として口遊んでしまう。唄っていたのはあの頃歌を唄う喜劇役者は古川ロッパ(懐かしい名)くらいだからそうかもしれない。
▼当時戦後5年間くらいは間借りか借家住まいか、せめてもバラックの家、戦前から内湯のある家は少なかったが、風呂場のある家などは皆無にちかい。ならば近間の「銭湯」に行くしかないが焼け残った風呂やは遠くても行かざるを得ない、子供の頃は下町では「お湯やとか風呂や」と言っていたが凄い混雑で夕方の開店前には数十人の人が開店待ち、燃料不足で一日おきか三日に一度の営間隔が拍車をかける。したがって冒頭の五右衛門風呂風景がアチコチで見られた。
▼当時入浴風景はまず“芋を洗うような”な風景は当たり前、まず「風呂敷」を持っていく、風呂やでの最大の問題は「盗難」だった。脱衣場で脱いだ衣服をこの風呂敷に包む。ロッカーなどある時代ではないのでパイ助とよばれた籐でできた篭を逆さにして床に向かってポンとたたく、虱が付いている時があるので。我が家はまず衣服を風呂敷にいれ、その上に新聞紙敷き下駄を乗せバッチリと四文字に結わく。持って来た石鹸(鯨油製)は頭の上に乗せ手拭を頬被りして固定、透明度など全くない湯に浸かりつつ洗い場にいても脱衣場のパイ助から目を離さず盗難予防に励むのである。
▼昔から風呂やは盗難の巣といわれ盗む方を「板の間稼ぎ」と言っており落語などにも登場している。一番被害の大きいのは衣類と履物でいい加減に篭に入れてあると100%被害者となっていた。私の兄(16期)は四文字に結んだ風呂敷包みからほんの少し首を出していた牛革のベルトが盗まれていた。ベルトはするすると抜け易かったか、包み方の悪さを父に叱責されていたことがあった。履物の被害は圧倒的に多く、衣類は丸ごとの被害と言うものは無かったと思うが履物は履いてきた下駄と少し見た目のいい下駄とが交換されているのが多く、チビた下駄と交換しただけの犯罪意識の全くない現象のようだった。盗んだのではない、取り替えただけ、咎められれば「アッ間違えて履いちゃったよ」とか衣類を一枚なにしても下に着こんでしまえば見つかりにくいとか、そういう現代の目では許されない事でも、あのいじましい時代の事として歴史の中の小さなページとして終いこむのはもったいない話。「やられたよ」「もっていかれちゃった」「これくらいいいだろう」、加害者も被害者もどこかあの難関の時を過ごす為の変な譲り合いだったのかも。警察沙汰になった話など聞いたこともなかった。
▼今は内風呂が当たり前で、結婚当初は6畳一間の安アパート住まい、家内と二人近所の「風呂や」に行き家内の出てくるのをコーヒー牛乳を飲みながら風呂やの前で待ちあの南こうせつの「神田川」の世界だった。貴重な思い出のページである。今は一人ゆっくりと湯舟に浸かり食卓には冷えたビールが待つ。一日の中で一番穏やかでついついあの「お殿様でも家来でも…」を口遊んでしまう。
防犯カメラ、基本は変わらないでしょう! 28期 若月健司 2022年4月投稿
最近のデジタル化にすべきの風潮の中でふと昔の防犯カメラの事を思い出しました。今から24,5年前に住まいする団地の管理組合理事を務めていました。当時敷地内の駐車場内で車がひっかき傷をつけられる事件が発生し対策が検討されました。「パトロール隊を組織して巡回すべし」「防犯カメラを設置すべし」「防犯カメラでプライバシーが侵される」などいろいろ意見が出ましたが「駐車場内を監視するだけの防犯カメラを設置する」に決定しました。その後数年経過するうちに痴漢やストーカーが出没することとなり防犯カメラを団地内の玄関や階段付近にも設置するようになりました。お蔭で最近は不心得者の話は皆無とは言いませんが少なくなり防犯カメラの効果はあったのかと思う次第です。その後この防犯カメラは地域の道路や駅前にも設置され、今や日本全国に拡がっているようです。
現在、「デジタルファシズム」(NHK出版新書・堤未果著)という本を読んでいます。副題として~日本の資産と主権が消える~としています。読み終わっていないのでなんとも言いようがないのですが「デジタル化の掛け声のもと、日本の公共財が民営化により諸々なデータが一部の企業に偏り主権(国民の生活)が消える」と主張しているのではと推測します。デジタル化推進は世界の趨勢であり、日本が出遅れていると指摘されていますので今後頑張る必要があります。只その際、メリットとデメリットがあることを念頭に進捗して欲しいのです。デジタル化で個人の行動や意識や経歴が何処かで管理・監視され悪用されるのには抵抗があります。
防犯カメラの設置がいたずらや犯罪防止に役立ったと思われる現在ですが、設置当初の「プライバシーが侵される」という意見は貴重です。今後デジタル化を進捗する際、この意見を基本にして欲しいと思います。 以上。
16 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(14)厳島神社 ― 29期 仲田元昭 2022年4月投稿
「厳島神社」
厳島神社は、江戸時代初期の創建と言われ、現在の本殿は、昭和4年に建立されました。 ルーツは、北九州の航海民が祀った宗像三神と伝えられており、本町4丁目(旧仲宿区)の守護神です。
御祭神は、海上安全の守護神、田心姫神(たごりひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、多気津姫神(たぎつひめのかみ)の3女神で地元では「弁天様」と親しまれています。古くから航海安全、豊漁祈願が行われ 開運、商売繁盛、技芸上達の福徳があると信じられています。

「厳島神社鳥居からの社殿」
全国に神社は86千社程ありますが、厳島神社は約1,000社と多くはありません。中世からある古道である御殿通り1km程に、稲荷神社、猿田彦神社、道祖神社、厳島神社、御蔵稲荷神社の5社があります。しかし、今から400年程前の慶長19年(1614)に、徳川家康公の命で造成された東金御成街道向きの神社は、船橋市街地ではここ厳島神社だけです。


「歴史ある立派な狛犬 (左)口を閉じている吽形 (右)」口を開けている阿形」
「17 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(15)」道祖神社に続く 「2022-3-25寄稿」
戯言&独言19 21期 髙野 昇 2022年4月投稿

▼4月は入学、入社などのシーズン。私が小学校(当時は国民学校)入学したのは昭和17年、亀戸水神学校で日米開戦の4か月後だった。ハワイやマレー沖海戦への奇襲作戦攻撃成功に国全体が歓喜、今思えば日本の悲惨な歴史がここから始まった。戦果ばかりが新聞・ラジオが報じてこの年太平洋上の海戦では日本はすでに空母4隻、航空機200機以上が失われていた事実が国民には一切知らされず、入學しての4月には米軍機による本土空襲(4月18日)がすでにあった。荒川区尾久に爆弾が落ちたとの話はこども心におぼえている。(写真①)2年生になると亀戸に新たな学校が築かれ通学域の変更で第一亀戸国民学校へ転校、政府、軍部による「勝った!かった!」のニュースの中、毎朝の朝礼では国旗掲揚、校長の訓話は戦争に関わる訓示ばかりで「戦地に居る兵隊さんを思えば…」で締めくくられていた。冬にはズボンのポケットに手を入れさせない為にポケットが縫い合わされた。担任の石毛先生が中折帽子の周りのツバを切り前ツバだけのこしてお手製の軍帽にしていた。その翌年学童疎開に行き、山形県の上の山国民学校に転入、入学2年数か月で2度目の転校となった。その後縁故疎開をし千葉県の椎柴国民学校に転校、終戦後に避難先の小岩小学校に転校して4年生にして4回目の転校を記録した。
▼敗戦から2年3か月後の昭和23年4月マッカーサーの新教育制度施行により新制中学生として避難先の江戸川区小岩の小岩一中入学、木造の木の香りがする新品の校舎だった。小学校では男女組(古い懐かしい言葉)だった女子生徒は近くの江戸川学園に間借りして別々になり少しガッカリしていた。江戸川がすぐ近くを流れ、毎年赤とんぼの大群が校庭を跳びまわり、僅かな河川敷には近在の人が作るトマトやキュウリなど今風の家庭菜園が一面にあり、時折拝借していた。というのも生活困窮で我が家は母に「今日は弁当ないよ」と言われ昼休みは自宅に昼飯を食いに行く振りをして江戸川の土手に寝そべり時間を過ごし時折キュウリなどを拝借、でもさすが子供心に気が咎めていた。そんな状況のクラスメイトが数人居り悲しく侘しく情けない一時期だったがその中の一人は故人になったがそんな事から友好関係で繋がり大手製薬会社の工場長を務めあげていた。クラス会の時「昼ナシメイト」だなぁと二人で涙ぐんで話した思い出が懐かしい。この年、A級戦犯の 7名に絞首刑が執行された。帝銀事件、ガンジーが暗殺され、ラジオから「異国の丘」が流れていた。
▼昭和26年三商入学、入学式の日は雨でゴム長靴を履いて参列、母が付き添ったが後にも先にも学校関係の事で両親のどちらかが付き添い集会に出ることは一度も無かった。なので雨が降ったんだろう。合格入学が決まった翌日、兄(16期)が就職していた「三菱レイヨン」を辞め司法の勉学に向け進む報告を今村校長、清田教頭に告げに行くので私も同行、「兄に負けず頑張りなさい」と激励のお言葉を戴いた。すでに我が家は前年に戦前の土地にバラックを建て商売(食料品店)を始めていた。近隣はまだ焼け跡が多く配給制度もありながら6畳二間に7人の生活、でも少しずつ夢と希望を家族全員が持ち始めていたのは事実であった。兄が勉学資金調達の為、珠算塾を開設したのも私の三商入學と同時進行、私も中2の時に珠算2級を取っていたので下校後は兄の助手として手伝い、どこの部活にも入れず、今風にいえば・帰宅部・だった。塾生も多くそれに伴い兄から潤沢な「こずかい」が貰え、塾の休日には封切り映画三昧(写真②)を送ることが多かった。塾の運営には杉原先生から顔を合せるごとに励まされていた。今思うと以後40数年兄の後をついで珠算塾を続けて来た事に感無量、一度は斡旋された就職(兼松江商)も兄を助ける為に一年で辞めその都度清田先生に相談、いつも寛大な対応で励まされた。十数年後、私の長男が専修大学松戸高に入学した時の校長が清田栄一氏であったのは全くの奇遇であった。
▼この年、GHQ最高司令官マッカーサーが朝鮮戦争に対する意思の違いからかトルーマン大統領が解任、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の意味深な言葉を残した。大統領選に出馬する腹づもりがあったのか、共和党は欧州の指揮官だったアイゼンハワーを推挙した。敗戦日本を立て直してくれたマッカーサーが羽田を立つ日、沿道に沢山の国民が惜別の見送りに手をふっていた。私はいまも彼には感謝している。数年前、皇居前にある第一生命ビルのGHQのマッカーサー司令官の執務室が公開され拝見、机・椅子は修復せずそのまま、執務室から天皇の居る皇居がよく見えたとの説がウソであったのを確認できた。9月にはサンフランシスコ講和条約が国連で48か国の賛同を得て承認され、三商では校長の音頭で万歳三唱、君が代を唄い「これからの日本は君達が背負う」の今村校長の話、その日は未だに賛否両論がある「日米安保」も締結した。
▼戦時中を挟んでいたとはいえ小学校の6年間に4回の転校をしたのは私だけではないはずである。年度替わりの4月、入学したあの年を回顧してみた。
●写真説明①‥‥荒川区尾久にある東京初空襲による被弾地のパネル
●写真説明②‥‥1951年こんな超美人を見る‥Eテイラー
やっぱりぶつかって割れたか!! 28期 若月健司 2022年3月投稿
下記の文章は平成30年の2月にある団体の会報に投稿したものです。あれから4年経ってふと思いだして読み返してみました。そして現在の世界状況は危惧した通り、悪い方向に向かっています。
~シャボン玉が鉄球になる~ 今年の冬は寒さが一段と厳しく感じられますが、会員の皆様におかれましてはご健勝のことと存じます。年初のある新聞記事で「世界はシャボン玉の集合体で構成されており、それぞれの玉が重なり合ったり、隣の玉の中を見ながら他山の石として連動していた。ところが最近その玉がシャボン玉から固い鉄球に変化してきたため、世界がギクシャクしてきた」といういうのです。この記事から連想するのはシャボン玉同士がぶつかっても、柔らかく対応できるが鉄球同士だとドカンとぶつかり衝撃が大きくなる。シャボン玉はその中が透けているので外から見え、安心感がある。鉄球は外から中の様子が見えず、疑心暗鬼になりやすい。 ここでいう世界とは国と国の関係だけでなく、政治・宗教・企業・地域社会・集団などに当てはまります。即ち、鉄球の中身は「自分達優先・自分達優秀・排除・分断など」です。人類は第二次世界大戦を経て、あの惨禍を再び犯すまいと今日まで営々と努力してきた筈ですが、どうも昨今は鉄球が多くなり、あちこちで激しくぶつかり合っています。歴史は繰り返すという言葉は死語にしたいものですが、その期待がはずれそうに思うのは時期尚早でしょうか。 以上。 |
ウクライナがシャボン玉とすればロシアは鉄球です。その鉄球がドカンとシャボン玉にぶつかり割ってしまったのです。このような事態がまかり通るようではSDGs推進・オリンピック開催・地球温暖化対策・共生社会実現などの活動自体がなんの意味も持たないのではないでしょうか? 以上。
15 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社― 29期 仲田元昭 2022年3月投稿
JR船橋駅より徒歩10分程にある、御蔵稲荷神社をご案内します。江戸時代、ここには飢饉に備え穀物を蓄えていた郷御蔵がありました。
「御蔵稲荷神社 (九日市郷御蔵跡)」
寛永19年(1642)の寛永の飢饉以来、徳川幕府は関東各地に年貢米を一時的に保管したり、飢饉に備えて穀物を貯えたりするために、村々に倉庫を建てました。これを郷蔵(ごうくら)あるいは郷御蔵(ごうおくら)と呼びました。ここ船橋(九日市、船橋御殿跡)にも、九日市郷蔵が建てられました。

「御蔵稲荷神社」
九日市郷蔵は、230年程前の(寛政3年、1791)の津波で失われ、以降再建されませんでした。 延宝、享保、天明の飢饉には郷蔵によって村人は救われ、恩顧に報い稲荷様を祀りました。 これが御蔵稲荷神社です。
このあたりから東側は中世の頃には、海老川の河川敷だったと言われており、その川幅は200m程と広かったようです。


「御蔵稲荷神社は狛犬でなく稲荷神の神使の狐像で左右共に巻物をくわえている」
「16 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(14)厳島神社」に続く 「2022-2-25寄稿」
戯言&独言18 21期 髙野 昇 2022年3月投稿

▼三月になるといろいろと思い返すことが数々あります。11年前の3月11日のあの東日本大震災の日にわが家族にとって初の女の孫が生まれました。出生時刻も大津波が三陸地方襲っていたあの時刻でした。PM2時過ぎの大揺れの時は前日から出産の為入院(さいたま市岩槻区)しており当日の地震は妊婦曰く「凄く怖かった」が数時間後の津波襲来とほぼ同時刻に女児が誕生しました。私達老夫婦も自宅前の空き地に近所の方々と共にへたり込み、孫が生まれそうだとの事もすっかり忘れており、父親になる三男の息子は本郷湯島にある勤務先から社員全員に早期帰宅令が出たもののアクセスや携帯が不通、40キロ近い道を岩槻の自宅まで徒歩帰宅、その時点で吾子が生まれたのを知らず、その足で産院を訪れ誕生を知ったそうです。その孫娘もあと数日で6年生、高齢者の私達夫婦がスマホのレクチャーを乞うほどになりました。
▼私の父は千葉県旭市(旧飯岡町)の生まれ、あの日この町も津波に襲われ父の実家は5M30cmの津波の襲来をうけ、普段から九十九里海岸の波音や波足の激しさは知ってはいたものの津波のその速さに逃げる余裕も無く、実家に住む従兄の長男は「家の中で溺死する寸前だった」と述懐していました。1階は壊滅し町では16名の命が奪われました。今だに東北三県の被害の大きさだけが連日報道されて、有名、無名を問わずボランティアが訪れていましたが千葉県にも同じ様な被害、犠牲者がいたことは数年後「朝日新聞」コラム欄で数回記載されていましたが知る人はあまり居なかったようです。孫は誕生日が来る度に震災の事を周りから語られ、被害に遭った方々から新たな生命を戴いた事に思い馳せ成長してもらいたいものです。
▼3月10日は77年前に東京大空襲で下町が95%消失し壊滅した日です。私は集団疎開先(山形・かみのやま温泉)でその3日後に先生から知らされました。宿舎の旅館や先生にはかん口令がひかれていたらしく、その3日後に知らされました。その5日前に同宿の6年生6人(男4・女2)が卒業のため帰京していましたが内3名が家族と共に焼死してしまいました。宿泊先で寝起きを共にしていた担当の先生(女性)は自らの家族の住む上野小島町が心配でそそくさと教員を辞職し帰京してしまいました。疎開先に残っていた5年生以下3年生(私も3年生でした)は在京の家族の安否で夜も日も眠れずの1っか月、やっと詳しい情報が私の父からあり、4年生の女の子の家族が一家全滅の事も書いてありました。この人は2年後兵隊に行っていたお兄さんが復員、親類に預けられていた妹を引き取り、もとの実家(私の実家の裏)に戻り再会しました。バラック建物がボチボチ建ちならぶ昭和23年の事でした。
▼私の家内はこの時3歳数か月、大空襲の中、深川高橋(たかばし)から母の背に背負われ義母はリヤカーを引き舅の手をとり人の流れに従ったもののリヤカーの荷に火が付き目の前にあった「防火用水」に投げ込んで逃げたそうです。その時岩崎庭園(現清澄庭園)の門が開き大勢の人がここで一夜を明かしたそうです。義母が家内をおぶっていたその上に「綿入りねんねこ半天」を着ていて、その袖袋に入っていたのがこの写真の「体力手帳・・‥今は母子手帳」です。「体力手帳」とはいかにも戦時中らしい表示です。岩崎庭園で池の水を飲み顔を洗った時に気が付き袖の半分近くが燃えちぎられていたのに気付いたそうです。背中の子に火がつき焼死したのも知らずにいた方が多数いたのも後日知ったものです。幸い家内は火傷一つ受けず現在があります。彼女にとっては記憶にはない唯一の戦争体験の証拠であり、手帳の隅々の焼け焦げは空襲により焼死した方々への鎮魂の思いがこもった大切なものです。家内の父は当時群馬にあった航空機製造会社の下請で部品の設計図の仕事で深川には居ませんでした。義母は11歳の時に関東大震災にも被災し、この時も清澄庭園に避難し難を逃れています。清澄庭園の事を晩年まで「岩崎様のお庭」と言っていました。2度も命を助けて頂いた恩人の「岩崎様」なのです。
⁂写真説明‥‥家内が今も大切に持っている「母子手帖」
‥‥ ‥‥父の実家付近の震災2日後の写真
偶然か?日本の2022年は転換期!! 28期 若月健司 2022年2月投稿
年初にあたり、今年はどんな年になるのだろうかとふと思っていた時に「日本の2022年は転換期になる」という言葉に気を引かれました。理由を整理すると以下の様になるのですが思い当たる部分もあります。「歴史は繰り返す」という言葉もあるようですから日本の今後を見通すうえで少しは参考になるかもしれません。
明治維新が1868年と言われ、太平洋戦争敗戦が1945年です。その間が77年です。それから今年の2022年までがぴったりの77年です。まさに明治以降の77年と敗戦後の77年が一致するのです。そして両期間における歴史的な事象も共通する部分があり、今年以降の将来を考えるにあたり大いに参考になると思います。
明治維新から敗戦までの77年間 | 敗戦から今年までの77年間 | ||
明治 | 近代国家を目指し富国強兵 | 昭和中期 | 敗戦から経済大国へ |
大正 | 大正ロマンを謳歌 | 昭和後期 | 経済高度成長 バブルを謳歌 |
昭和初期 | 軍備拡張から敗戦へ | 平成令和 | バブル崩壊経済低迷、国力低下 |
黒船来航という外的要因による富国強兵の結果、日清・日露戦争に勝利し列強の仲間に入った。それは敗戦という外的要因によって経済大国となったことと共通する。大正ロマンを経験したことは高度成長によるバブルを経験したことにも共通する。昭和初期に入り軍国化が進み敗戦に至った。そしてバブル崩壊のあと平成・令和と経済が低迷しているが、それは軍国化が進んだ昭和初期と重なる。 |
これまでの日本を考えると外的要因で国家が生まれ変わるという歴史的事実がある。そうであるならば今後どんな外的要因があるだろうか。
①異常なる気候変動~産業革命以降の化石燃料資源使用によるとされる異常なる気候変動で
大災害が発生し、それが大転換になるのだろうか?
②コロナ禍~今後益々コロナ禍の影響が大きくなり社会構造が転換するだろうか?
③核兵器による紛争~現在世界各地で一触即発の紛争が起きているが核兵器が
使用されることは無いのだろうか?
④世界では民主国家と権威国家に分断されつつあるというが、それが武力衝突に至り
日本が巻き込まれることはないのだろうか?
国内的要因も考えられる
①日本は現在超金利安だが、今後金利高になった場合、財政赤字への影響は大丈夫だろうか?
②円安がジワリと迫っており、物価高が心配されているが国民の生活は大丈夫だろうか?
③一強多弱の政治情勢の中、チェック機能が働かない結果政策に間違いが発生しないだろうか?
今後30年間に70%の確立で発生すると言われる東京湾北部大地震や戦争などによる「転換期」は望まないが、日本の国力が低迷している現在「何が正しいか、自分で考える」を念頭に置いて行動したいものです。 以上。
14 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(12) 慈雲寺― 29期 仲田元昭 2022年2月投稿
前回ご案内した西福寺より徒歩5分程にある、古刹で創建当時には広大な敷地に七堂伽藍を備えていた慈雲寺をご案内します。
「慈雲寺」
大峰山慈雲寺は、弘安2年(1279)北条時宗の招請で来朝した宋の僧、無学祖元和尚(鎌倉建長寺二世)を開山に迎え、北条時宗により臨済宗の寺院として創建されました。
本尊は釈迦牟尼仏。開山当初は、七堂伽藍の整った大寺であったそうです。
しかし、永禄七年(1564)の里見氏と北条氏との戦いにより伽藍は焼失しました。
その後北条氏政が再興し、天正18年(1572)に、曹洞宗に宗旨替えしています。
戊辰戦争でも本堂を焼失し、現在の本堂は、昭和50年(1975)に再建されました。

「慈雲寺 本堂」
「徳川家臣綿貫元吉の墓」
境内には、戊辰戦争で亡くなった徳川家臣兵士「綿貫元吉」の墓があります。
碑石は150年程経過し損傷が激しいですが、向かって左側に「造立主東京照降町亀屋清兵衛」とありますが、徳川家臣「綿貫元吉」との関係は明らかではありません。

「徳川家臣 渡貫元吉の墓」
「15 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(13) 御蔵稲荷神社」に続く 「2022-1-25寄稿」
戯言&独言17 21期 髙野 昇 2022年2月投稿

▼今の朝ドラ「カムカム・エブリボディー」に少し夢中になっている。ルイアーム・ストロングからとった子の名が「るい」、その結婚相手がトランぺッター、そこでよくつかわれていた台詞や演奏曲の「sunyside of thestreet」とは私の中では結び付かないが、 シングルSP盤にあったかは記憶がない。アームストロング(略称サッチモ)を初めて聞き、SP盤を買ったのがアルゼンチンタンゴの名曲「エル・チョクロ」を今風に彼らしくアレンジしたもので、”KISS OF FIRE”で戦後日本で発売された初のサッチモのレコードがこれだと思う。かなりのレコード売上があったはずで、ラジオからも毎日のように聞こえてきた。あのペギー葉山が「渡辺弘とスターダスターズ」をバックにこの曲でデビュー、「sunysade…」をサッチモが唄い演奏していたとはこの朝ドラで初めて知った。サッチモのペットの音色、左手にもった白いハンカチ、汗を拭う姿、ダミ声と笑い声、あの顔、一度みたら忘れられない。映画「グレン・ミラー物語」[「五つの銅貨」「上流社会」などハリウッド映画にもよく出ていてどれもサッチモそのままの役で出演していたと思う。「上流社会」でのなかで♬ハイソサエティ♬を唄いこれがヒットしていた。他にも♬バラ色の人生やセッシーボン♬などのヒット曲があった。映画「グレンミラー物語」の中でドラムのジーン・クルーパーを交えてのセッション場面は特に素晴らしく、「これぞサッチモだ」を感じた。
▼ある「音楽雑誌‥195?年版」によると少年時代はかなりの悪で発砲事件で少年院に入り、そこで教えられたコルネットが縁で出所後、街のパレードなどで腕を上げプロとなりニューオルリンズで名がひろまり、デキシーランドジャズ全盛のど真ん中で活躍。デキシーランドジャズの代表的な曲は♬聖者の行進・タイガーラグ♬などがある。当時は演奏者が唄うのが当たり前でサッチモもその一人、私のすきなジャック・ティガーデンも渋い声で、LPを持っている。前記「音楽雑誌」によると唄の中で♬ズビズバブー・ダバダバヅ♬と楽器のように唄う事があり”スキャット”と言うが、これはサッチモが歌詞を忘れごまかす為に突然口ずさんだもので、共演が多かったエラ・フイジェラルドが冗談ぽく言っていたと書いてあり、このエラ小母さんと共演したDVDを見ると楽器の部分をテンポが速く全てスキャットで済ます素晴らしい場面もある。日本では由紀さおりの「夜明けの‥‥」があるがテンポが遅くスキャットには程遠い。
▼サッチモと名付けたのもこのエラ小母さんであの大きな口を小さなバッグの口金に見立てたらしい。195?年にGHQ兵士の慰問を兼ねて来日、その合間に浅草国際劇場で3日程公演、それも押し詰まった年の暮れの冬休み中、兄と観に行く予定が「この暮の忙しい時期に…」と親から文句が出てパーとなった。「キング・オブ・ジャズ」と讃えられ世界各地の公演で音楽大使と言われていた。時の大統領アイゼンハワーが人種差別に関心を示さず無反応さに「その心許さず」と公言をしたこともあったらしい。ベトナム戦争の悲惨さと悲しみの全世界に向かい名曲「WhotA Wondfulworld」と共通する願いであったと理解する。”sunyside…”は日本では、”明るい表通りで”と訳され表示されているが朝ドラの主人公とサッチモは”日向を前向きで進む”志を秘めてこの曲を歌い演奏し、ドラマの中で娘に「るい」と命名したのがじんわりとわかってきた。朝ドラの話からサッチモ賛歌になってしまい朝ドラの主人公たちがサッチモと今後どんな心の糸で繋がるのか楽しみである。高齢者ゆえの遠い昔の思い違いなどがあるかも知れずその点はご容赦の程を。
「SDGs」と「人新世と資本論」 28期 若月健司 2022年1月投稿
昨今、SDGsという言葉が国内外で盛んに使われています。私はこの言葉は約5年前から知っておりました。
2017年(平成29年)1月31日(火)朝日新聞朝刊に1頁にわたり「新しいものさしで考えよう」との見出しで掲載され、そこには「2030 SDGsで変える」との文字がありました。SDGsとは国連加盟国が2030年までに取り組む行動計画で2015年(平成27年)の国連総会で全会一致で採択されたのです。「誰も置き去りにしない」を共通の理念に、平等な教育、気候変動への対策など17分野からなります。具体的な目標は169項目に及びます。日本政府も2016年(平成28年)5月に安倍晋三首相を本部長とする「SDGs推進本部」を発足しています。翌年には実施計画を発表しています。
その朝刊の記事には「国谷裕子」さんのコメントがあり、2015年(平成27年)の国連総会での採択以来、この問題に彼女が熱心に取り組んできたかが掲載されています。彼女はNHKの「クローズアップ現代」のキャスターを2016年(平成28年)3月まで23年間務めましたが、その切り口鋭い指摘が災いとなりある筋からの圧力からキャスターを降板せざるを得なかったとも言われています。その彼女が逆境にめげずSDGsに取り組む姿に敬服します。
一方で2021年(令和3年)新書大賞1位に選ばれた「人新世の資本論」(集英社新書)があります。著者は斉藤幸平大阪市立大学大学院準教授です。「気候変動、コロナ禍は文明崩壊の危機。唯一の解決策は潤沢な脱経済成長だ」というのが主張です。~はじめ~の頁から「SDGsは大衆のアヘンである」とあり、レジ袋削減やマイボトル持参などで温暖化対策をしていると思い込んでいるのは現実から逃避していると断じます。化石燃料の使用による産業革命で大量生産大量消費が行われ経済が成長した結果、地球は汚染された。これからは経済成長を基盤とするのでなく脱経済成長を目指す新しい「人新世時代」へ突入すべきという。
日常生活でゴミの分別化、えどがわエコセンターでの子ども達への環境問題の啓蒙活動を行っているが昨今の気候変動に役立っているのだろうかと疑問に思うこともある。間に合わないのではと。ガソリン車の製造禁止や都心への乗り入れ規制、飛行機の便数削減、再生エネルギーへの予算拡大、後進国への思い切った援助、格差の縮小などいろいろ考えられるが抵抗も予想される。3.5%の人々が立ち上がれば社会を大きく変えられるというデータがあるという。それが正しければ私を含め一人ひとりが3.5%に入ることだろうか。 以上。
13 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(11) 西福寺― 29期 仲田元昭 2022年1月投稿
今年も船橋の魅力を発信してまいりますので、宜しくお願いします。これまで東金御成街道の海側の寺町にある寺社をご案内してきましたが、今回から街道の北側にある寺社をご案内します。
「西福寺」
船橋山(せんきょうざん)清浄心院西福寺、真言宗豊山派の寺院で、別名閻魔(えんま)寺とも呼ばれています。創建は鎌倉時代と言われ、門前に江戸時代の庚申塔、念仏講供養塔があります。本尊は阿弥陀如来で、本堂は戊辰戦争で焼け明治39年に再建されました。

「西福寺 本堂」
「五輪塔、宝篋印塔」
境内にある県指定文化財の石造五輪塔(上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪)は、安山岩製の高さ295cm県内で一番大きく、鎌倉を除いては関東地方でも数少ない優れた作品です。その古風さ、優美な姿に特色があり、律宗系の高僧の墓で南北朝時代の製作と推定されています。左の宝篋印塔は、鎌倉時代後期の製作と推定され、全高154cm、中世の宝篋印塔としては大型のもので、原形をよくとどめています。

「五輪塔、宝篋印塔(県指定文化財)」
「14 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(12)慈雲寺」に続く 「2021-12-25寄稿」
戯言&独言16 21期 髙野 昇 2022年1月投稿


■コロナやらオミマクロやら慌ただしく過ぎた年末、年始、私は子供の頃からこの年末から年始にかけては嫌いだった。それは家の商売が食料品店のせいである。当時の食品店は御節料理を小商いの店で作り売り,近在の家庭では当たり前にお重を持って買い物に来る。商人(あきんど)としては1年の中の稼ぎ時、稼ぎいれ時でもある。その御節の準備は全てが前もって支度しなければならず、一家総動員、親類の女性まで寝泊まりを伴っての手助けを受け下ごしらえが暮の20日から始まる。ほとんどが手作りの時代、今はスーパーやインターネットで雅でお重も要らない体裁よくできた御節料理を手にする事が出来る時代だ。あの頃はまず店を閉めてから7人家族全員で「昆布巻き」を巻く。あらかじめ戻してある昆布を父が切った寸法の昆布に小幅の昆布に小女子を挟み巻いて干瓢でくくる、それを毎晩一人30本と決められ3日ほど続く。黒豆や田ずくりは当店の自慢の品で石油缶10本ほど作る。その煮炊きの火の番は私の仕事、おが屑を硬く詰め込んだ竈が三基あり父の指示で通風口を調整するのが難しかった。あとは野菜の煮っころがしの野菜切は兄(16期生)の役目で、親類から手伝いに来ていた女性は「なます」の千切り、私は「きんとん」のサツマイモを細かく切る役目を仰せつかっていた。数え上げればキリがない。兄が珠算塾をやっていた頃は教室はすでに冬休みで煮炊きの済んだ品は全て別棟の教室に収容、教室中煮物の匂いがしていた。冷蔵庫が普及していない時代なので押しつまった30・31日にお客が集中、下町は特にその色合いが強い。この暮の2日間は店売りの手伝い、当時は私服等持たないので詰襟の通学服に厚での前掛けをかけて店に出ていた。正月、その”報酬もお年玉”も無く兄の珠算塾を手伝っていたこともあり兄が「父ちゃん、母ちゃんに言うなよ」と小遣いをそっとくれていたのを今も正月になると思い出してしまう。あの暮の手伝いの猛烈な忙しさ、間違えれば父に怒鳴られ、母に怒られそんな思いが執念深く續き、よって未だに正月が好きになれない原因にある。ここ2・3年我が家のお節はインターネットで早めに注文。バラエティーに富み京料理の上品な味が高齢者に合うのか彩どりも良く、京料理の雅(みやび)さが偲ばれ贔屓となった。以外な事に正月に来訪してきた二男家族の孫(男)2名、「美味しい、旨い」と喜んで食べていった。食べ盛りとは言え正月2日で完食され私達夫婦の正月3日目の雑煮の膳には姿なく、心密かに嬉しく家内と笑いあった。
子供の名前 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年12月投稿
明治安田生命保険会社は2021年生まれの名前人気ランキングを発表しました。
私が子供につけた頃とは全然違っています。おもいもつかない名前ばかりでした。私は子供には姓名判断の本を参考に画数とか、子供が書きやすいことも考えに入れてつけました。
私には令和生まれのひ孫が4人います。
男の子の名前は綺一(あやと)愛翔(あいる)
女の子は紅愛(にいな)心遥(こはる)
孫達がどうしてつけたのかは聞いてはいませんが綺一をのぞいて3人は書きづらいだろうと思います。私なんか考えもつかない名前ばかりです。
12 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(10) 常磐神社 彫刻の美―
29期 仲田元昭 2021年12月投稿
船橋駅より徒歩15分程船橋大神宮境内にある、常磐神社本殿の魅力、極彩色漆塗り仕上げ彫刻の「匠の美」をご案内します。

「本殿最上部の千木の菊唐草文様」

「唐門上部の菊の御紋と葵の御紋」

「本殿(東南)柱上部の神獣」

「本殿(東)虹梁の彫刻 四神 青龍」

「本殿(南)虹梁の彫刻 四神 朱雀」

「本殿(東)虹梁の彫刻 飛龍」
「13 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(11)西福寺」に続く 「2021-11-25寄稿」
11 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(9) 常磐神社― 29期 仲田元昭 2021年12月投稿
船橋駅より徒歩15分程の船橋大神宮境内にある、常磐神社について2回に分けてご案内します。お正月3日間のみ公開される、本殿の素晴らしい極彩色漆塗り彫刻をご覧いただけます。お近くにお住いの皆さんお正月に参拝されては如何でしょうか。
「常磐神社」
今から400年程前、元和8年(1622)に二代将軍徳川秀忠公が、家康公を祀る常磐神社をここ船橋に造営しました。その当時の本殿は5間(約10m)四方の大きなものでしたが、戊辰戦争の市川船橋戦争で焼失してしまいました。

「極彩色漆塗り 菊の御紋と葵の紋がある立派な唐門と玉垣」
現在の神社は、平成27年(2015)に「徳川家康公没後400年祭記念事業」として、創建当時の日光東照宮にも並び称された壮麗な社殿を再現すべく、造営されました。
本殿は、間口3間、奥行2間、高さ25尺、極彩色漆塗り仕上げで、本殿最上部の千木には菊唐草の文様が彫られています。平成の大造営とも言えましょう。
本殿には、中央に日本武尊、左に徳川家康公と徳川四将(井伊直政、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政)、右に秀忠公と歴代将軍家をお祀りしています。

「本殿正面(極彩色漆塗り素晴らしい彫刻)」

「本殿南西(千葉県建築文化賞優秀賞受賞)」
「12 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(10)常磐神社 彫刻の美」に続く 「2021-11-25寄稿」
戯言&独言15 21期 髙野 昇 2021年12月投稿

■新コロナウイルス二言目にも新コロナウイルスの2年間、近年こんなに永く家籠りしたのは戦時中以来か。あの豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が昨年2月3日、日本に寄港してからの年月、一般市民は外出を控え様子を伺いながらもその収束も見えずトンネルを抜けられず、行政の対策の手遅れがアチコチに排出、当時のコロナ元請け安倍総理は「国民全員にマスクを配る」との安易な考えと”もり・かけ・桜”の難と共に体調悪しと{仮病かも?😜}逃げ、次の下請け菅総理に至っては役人の書いた文章を音読するのみ、小学生の国語の時間じゃあるまいし。10万円給付金とワクチンの手配や接種会場不足にアタフタで、職責を逃れる為か孫請けの岸田総理にバトンを渡す。この混乱期に戦時中の内閣ではあるまいし2年もたたぬうちに総理が3人も変わり、この異変な出来事で歴史上でも末代までの記憶となるだろう。その間の感染バイオリズムは3次、4次と進んでいく。孫請け総理、就任時の御題目の意気込みも日に日にあまり進捗もなくなんとなく元請け、下請の顔色をみながら肝心な所は地方自治体に丸投げの感がある。飲食店の時間緩和もどうかと思う。国民全部が飲食業でもなく、皆が外飲みを好んでいない。若山牧水ではないが「‥・・・酒は静かに呑むべかりけり」。この稿を書いている間にオミクロン株なる新型が参上、オミクロン株と聞いた時、どこかのIT企業が実績を上げ上場か二部に登録したのかと一瞬思った。それにしてもなぜ「株」が付くのか。
■新型コロナ禍の中16期の兄、三商生以来の盟友細田武君が黄泉(ヨミ)に召され悲しみの消えぬ中もう一人の盟友石塚芳君がこの4月に故人の後を追った。彼は下小岩小、私は小岩本校、良く下小岩小は横綱”栃錦”の卒業生である事を自慢していた。三商2・3年生の時からの同クラスで修学旅行も同じ班で同一行動、お互いの家にも出入りし毎夏仲の良いグループ5・6人と葉山の森戸海岸え海水浴、銀座のジャズ喫茶「テネシー」に故細田君も交えて行ったり、細田君と共に遊び、学び青春の入口を楽しんだ。協和銀行(現りそな)に就職し上野支店勤務の頃は毎週の様に木曜日(私がやっていた珠算塾は木曜が休み)に誘い、誘われていた。後楽園球場のナイター、あちこちのジャズコンサート、登山、銀行の保養施設など・銀座の「すき焼き店」で2人は初めて本物の”すき焼きを食した。20歳の頃だ。ほかに不二家のビーフシチュウやソフトアイス、上野精養軒でのこれぞ”肉"と気がついたステーキなど初物喰いはいつも彼と一緒だった。江の島・鎌倉行きには上野支店の女性陣数名も加わり、その中の一人が今、私の家内、石塚君もその中の一人と婚約中だった。彼が亡くなったその日の昼、奇遇か偶然か彼から電話が掛かってきた。家内が電話を取りしばし歓談、その後で私と「おう、おう元気かい、しばらくだなあ」と他愛のない会話が小一時間、家族の近況や孫の話、Tigersはいつも尻切トンボで終わる(彼は虎ファン)、私は中日ファンでプロ野球の話、在校時代から二人はアンチ巨人で共通していた。奥さんは介護度が高く電話には出ず、電話を取った家内に「リンパ腫で凄く首が痛い時があるんだ」と言っていたとか。私は以前からそれは知っていた。その夜、9時過ぎ娘さんから「一時間程前に風呂場で倒れそのまま逝ってしまいました」続けて「夕食の時、”今日は髙野と芳子さん(家内の名)と久し振りに長い時間喋れて良かった」と楽しそうに語っていたのでその様子からまず私に電話したと申され家内と二人電話の前でしばし呆然、静寂の中、家内のすすり泣きだけが僅かに聞こえていた。逝くことへの神の計らいとしか思えぬ悲しい惜別の電話であった。合掌
■よかったなあと思うことが一つ。このHPの10月寄稿の中に孫が通学している高校の野球部員として出場していたことを書いた。秋季大会は都予選に170余校(東西合同)の中、トーナメントの前に予備戦まであり孫の高校(都立城東高校)はトーナメント出場権を得て立ち上がり6戦目で東京の雄、関東一高に3点のリードをしていながら惜敗、悔しさは勿論あるが、公立校に専用グラウンドなどあるわけもなく、他の部活と共用の校庭グランドで週4日だけの練習、都の厳しい規制でpm7時には帰宅しなくてはならず、そんな中での健闘ぶりは、打倒強豪私立高に燃えた下町っこの心意に感動と感謝の10月・11月だった。
■気忙しい年の暮、60年近く連れ添った家内と二人の暮や正月にも慣れたものだが、コロナ禍の中、息子家族が来るか、来ないか。とは言いながらおせち料理はインターネットで京都料亭に注文済み、後は年賀はがきのプリントアウト、年々喪中はがきが少しずつ増えるのは寂しい。14枚ある障子紙張り、若い時は一日で全部できたものが寄る年波には勝てず一年おきの半分ずつになった。年内最後の作業は「東芝もちっこ」による「餅搗き」この”もちっこ”は我が家の家電の再古参の40数年物、息子3人が居た時期は5升も搗いたものだが今はひっそりと2枚だけ。この”もちっこ”赤飯を炊くにも便利。孫達に上げる「お年玉」も年末に現金書留でおくる変な流れの暮と正月、そんな中オミクロン株なる新顔が現れ最初聞いた時は新鋭のIT企業が 株取引に上場したかと思ったが。なぜ「株」が付くのか分からない。この分で行くと2年連続の寝正月、間違いなし。HPご覧の諸兄方々佳き歳の暮と良き正月を。
:::雑句
●とりあえず 会釈してみる マスクごし
●ジャンボくじ 果報をまちて 寝正月
10 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(8) 圓蔵院― 29期 仲田元昭 2021年11月投稿
今回は、7月号でご案内した覚王寺より徒歩2分程にある、地元で何でも願い事を叶えてくれると有名な因果地蔵尊のある圓蔵院をご案内します。
「圓蔵院」
真言宗豊山派の寺院で海岸山圓蔵院といい、今から460年程前の戦国時代後期 永禄元年(1558)の開基と言われ、当時は、海岸山と言う山号から山門の近くまで海岸であったと思われます。 ご本尊は不動明王です。
本堂は、戊辰戦争で焼失し、明治33年(1900)に再建され, 現在の本堂は平成17年(2005)に立派な鉄筋コンクリート造に建て替えられました。

「圓蔵院 山門(市HPより)」
「因果地蔵尊」
この石造 因果地蔵尊は、願い事が叶うことで知られ地域の信仰は篤く、遠方からも参拝者が多く香華が絶えません。 「因果地蔵尊」は、三代目住職の秀範が安土桃山時代 天正年間(1573~1591)に建てたと伝えられ、高さは 180cm程もあります。
地元漁師町では「いんが地蔵」でなく「えんが地蔵」と訛ります。願い事が叶うと、お礼にと小さな地蔵尊を奉納し、今ではその数は千体程にもなります。

「因果地蔵尊」
「11 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(9)西福寺」に続く 「2021-10-25寄稿」
戯言&独言14 21期 髙野 昇 2021年11月投稿

●若い後輩諸兄にはあまり西部劇映画は馴染みが薄いと思われるが、かって1960年代ごろまでは西部劇全盛期、観る方の私達も若かった。私の好きな「西部劇」はやはりJ・フォード監督、J・ウエイン主役ものだ。ウエインはフォードにみいだされて「駅馬車」で人気を博し、これはダイナミズムを秘めた西部劇の名作である。後年、日本映画の黒澤明と三船敏郎の存在と似ている。ドンパチやるのが西部劇の楽しみかも知れないが、この2人の作品にはそれを超えた愛・友情・哀愁・郷愁・尊敬などがそれとなく滲み出ている作品が多い。機会があったらお薦めしたいのはこのコンビの”騎兵隊三部作”それは「アパッチ砦」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」だ。
●「アパッチ砦」では本部から左遷されてきたヘンリー・フォンダ扮する司令官が現場環境も分からず最後はアパッチにやぶれ壊滅、それでもJ・ウエインの少尉が戦死した司令官を責めることもなく英雄として讃える、男の心丈夫と心意気は感動もの。この映画で斥候役の騎兵隊員の役をやったベン・ジョンソンという俳優は数ある西部劇俳優の中で乗馬の巧みさはNO1と言われており、これもJ・フォードが見だした名優で、その後も数ある西部劇に出ていた。
●「「黄色いリボン」 この映画、映画もそうだが挿入曲も大ヒット、日本でも久慈あさみがレコードで唄い ♬あの女の黄色いリボン‥‥イエロリー,イエロリー…♬ と唄っていたが実際は"she wore a yellow ribbon”だったはず。映画のなかであのミッチイミラー合唱団が唄いTVがモノクロの時代ミラー合唱団の番組も有った。数日後に定年退役する最後の仕事として駅馬車を護衛する役目が原住民との戦いで苦い敗北をするという展開、年老いた指揮官がメガネをかけ直して文書を読むJ・ウエインのショットは今思うに、現在の自分と重なり何か愛おしい。夕日を背に受けて亡き妻の墓に手折ってきた野花を添えるシーンは美しく、悲しくこれまた愛おしいシーンだった。この映画にもベン・ジョンソンが出ていた。隊員皆が黄色いリボンを首にまいていたのは監督の遊び心らしいと評論家の荻昌弘が「キネマ旬報」に書いていたと思うが定かではないと付け加えている。たしか砦の上官の娘が黄色のリボンをつけていたと思う。
●「リオグランデの砦」 駐在している砦に新兵としてなんと自分の息子が赴任してくる。おまけに息子は士官学校の落第生で、出來不足の息子の成長を厳しくある時は温かくたたき上げる様がアチコチのシーンで見られハラハラしながらJ・ウエインのやり方に喧嘩もする母親(モーリン・オハラ)の姿もあって教育ママは何時の時代どこの国にもあるんだという事を冷ややかな気持ちで観たと思う。やがて息子は原住民との戦に作戦勝ち。頼もしく思う父親はこんな結果に一面寂しく、溺愛息子の活躍にただただ喜ぶ母親、ちょっと西部劇らしからぬ展開ものだった。
●三作品はあの「駅馬車」の様な胸のすく西部劇ではない。人間臭い、誰でもが持つ感情、舞台が西部なるが故に戦死した一兵卒、同僚同輩、上官に対する敬意と哀愁が漂う。モニュメントバレーの山岳を背景にどれもダンスや合唱があり、ユーモアあり、喧嘩あり、恋も失恋もあり、短い時間ながらインデアンとの壮絶なスピード感は監督の磨かれた手腕で見せ場を心得ていてニクイ・にくい。ドンパチ的西部劇フアンに物足りない三部作だったと思われる。「OK牧場の決闘」や「リオ・ブラボー」や「荒野の七人」などはドンパチ溢れる楽しい西部劇映画でこれもまた良し・・・・・・脇役もいつもの顔ぶれ、ちょっと太めのビクター・マララグレン、ユーモアと真面目?な部下の役が多く、いずれも先のB・ジョンソンと共に三作に出演、B・ジョンソンはあの「シェーン」では主演のシェーンに敵わぬと判断し、シェーンに相手方の出方を吐露して去る役をやっていた。
▼添付写真説明 「アパッチ砦」ヘンリーフォンダと・・
後方にB・ジョンソンが見える
9 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(7) 了源寺― 29期 仲田元昭 2021年10月投稿
今回は、前回ご案内した東光寺より徒歩10分程にある、本堂が老中松平定信の寄進と伝えられる了源寺と市文化財の鐘楼堂跡をご案内します。
「了源寺」
光雲山伝翁院了源寺は、430年程前の天正年間の創建と伝えら、船橋では珍しい浄土真宗 本願寺派の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。
戊辰戦争の際、新政府軍の宮崎・砂土原藩が駐屯したために戦火を免れました。本堂は白河藩三代藩主、老中松平定信(御三卿・田安家)の寄進と伝えられています。

「立派な山門からの本堂」
「了源寺 鐘楼堂跡」
本堂の脇に、市指定文化財の鐘楼堂跡(附 和時計 蜀山人筆掛軸)があります。 ここには、300年程前の享保6年(1721)から15年(1730)に徳川幕府が大砲の試射を行った台座がありました。
試射は10年程度で終わり、その後は代官の勧めで鐘楼堂を建て、幕府から「時の鐘」と認められ明治4年(1871)に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていました。現在の鐘楼堂は、昭和42年に再建されたものです。

「鐘楼堂跡(市文化財)」
「10 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(8) 圓蔵院」に続く 「2021-9-25寄稿」
戯言&独言13 21期 髙野 昇 2021年10月投稿

●”新型コロナウイルス”なるものが豪華船と共に日本に上陸して以来1年10ヵ月、国全体が振り回され、ワクチンが足りるの、足りないのから始まり、全てにおいて初期段階での中央行政の取り組みの甘さと緩慢さは誰もが認める處でしょう。感染者が何名になったとかが何人に対して何人なのか、埼玉が200人を割ったとか報道されても県民人口全体の中での感染者の数か、検診を受けに来た人から算出した数字か、高齢・老朽化した頭脳の私には何処から出てくる数字なのか理解ができません。魔術師のトリックに騙されているのに似た思いも無きにしもあらず。自粛、自粛のこの中で感染者数の減少で人の心が和らぐのは事実ながら、警戒解除とともにやたら人出が増加、各自の自粛、抑制、我慢はしなくてはなりませんね。あてにできる出口はまだみつかっていません。しかし飲食関係業ばかりが被害を受けているわけでもなく、もう少しひっそりと自粛奨励に協力している高齢者にも改めて何等かの対策を講じるのも新内閣の御役目の一つではないでしょうか。

●普段であれば月に1・2度好きな電車に乗り都内の降車したことが無かった駅で降り周辺を散歩、そんな日以外は自宅周辺を7・8キロは歩いていました。長男がいる菩提寺(松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立つ最初の宿)までは片道3.5キロ、週一に訪れていましたが。今は勿論外出自粛厳守、自宅周りを1・2キロをちょろっと歩き、買い物も重い物など、家内に頼まれてザックを背負ってでかけます。家内は”大腿骨頭部壊死”で人工骨が挿入されており長い時間の徒歩は無理、大手のスーパーに行くときはクルマで同伴、そういえばどこのスーパーや大手薬局など男手一人での買い物客(私も含めて)が多いですね。他にもパソコンに向かう、それも日に2時間程度、このコロナ禍のなかメル友の細田 武大兄が逝き、相談相手の兄(16期)が逝きこの人達とのメールのやり取りがなくなりました。来年度の年賀状の見本を6枚作りあげ、これは”プリントゴッコ”以前からの趣味で飽きません。あとは下手な”絵手紙”の下絵書きですが数十枚溜まってますが色あげもしてないものあり季節的なものは来年回し、定期的な病院通いは欠かせず、そんな毎日諸兄は如何なる日送りをしてますか。|
●そんな中で、一つの楽しみが出現、都立高校に在学している孫(2年)が野球部に居り東京秋季大会で東西250余校の予備戦を勝ち抜き、本戦64校の本予選の1回戦では孫の超ファインプレーがきっかけとなりサヨナラ勝ち、球場が遠く、自粛中故観戦はならず、PCのバーチャル放映で経過を知り「バンザイ」を雄叫び、あの(白鵬)のバンザイとは中身も意味も違います。過去2000年代に入り2度甲子園に行っている高校で”公立の星”と言われている高校ですが、肝心の本人曰く「野球は全員が楽しくやる」がモットーで、これは長い人生で大事なものの一つと思い影ながら応援しています。孫に改めて人生の生き方を再確認させてもらいました。
●雑句です‥‥‥‥‥
▼部屋灯り 消せばやさしき 月さえて
▼もう誰も 見ざるアルバム 秋が来る
▼一つ灯に 二人それぞれ 八十路ゆく
8 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(6) 東光寺― 29期 仲田元昭 2021年9月投稿
今回は、船橋を代表する船橋大神宮から東側台地(宮本台地)へ徒歩2分程にある、斬新なデザインの本堂で有名な東光寺をご案内します。
「東光寺」
慈明山阿舎(じめいざんあしゃ)羅院(らいん)東光寺(西福寺の末寺)と言い、創建は室町時代後期、480年程前天文年間と伝えられています。 本尊は薬師如来です。
現本堂は昭和40年(1965)に再建され、設計は地元船橋出身の建築士 長大作氏の斬新なデザインが、寺院の本堂としては大変珍しいです。

「斬新なデザインの東光寺本堂」
「道標を兼ねた廻国塔」
境内には、石造物が数多くあり、中でも道標を兼ねた廻国塔は 宝永6年(1709)製作の市内で最古の道標です。 左右に左ハさくら道 ・ 右ハかつさ道と刻まれています。その昔には、街道筋にありましたが、道路拡張工事の際、東光寺に移されました。
また戊辰戦争で亡くなられた旧幕府方の脱走様墓碑(3名連記)があります。市内には戊辰戦争で亡くなられた新政府方と旧幕府方の数多くの墓碑があります。

「道標左成田道、右上総道」
「9 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(7) 了源寺」に続く 「2021-8-25寄稿」
戯言&独言12 21期 髙野 昇 2021年9月投稿

◆あの日の「トウキョウ」と「お・も・て・な・し」の言葉、会場に居た参列者のあの狂気な騒ぎも、今思えば何か虚しい空騒ぎでした。東日本大震災、各地の豪雨による被害、、そして02年の開催年度に発生した新型コロナの蔓延、なんの巡り合わせか一気に災難に巡り会った日本でした。自然の災害はともかくコロナに対する初期対応の緩慢さは現状の感染者の数が伸長していてこの時点で中止か延期が深く検討されるべきと思っていました。インフルエンザより少し強い程度の感覚か、錯覚か。。五輪関係者はお題目を「「復興オリンピック」と唱えを変え始めましたが津波や他の震災に会い未だに仮設住宅に住む人達や仕事の再興の悩みなどどんな思いでこの五輪を観て何を感じていたでしょうか。被災地の復興と言う名目と目的とは矛盾する各種のトラブルミス、競技場建設入札、エンブレムの偽装?、トップに立つあの人の女性軽視失言、「安心・安全」を呪文の如く唱える偉い人、そんな中、60%以上が開催中止を求めていたにも拘わらず全て無視しての開催は私的には納得できないものでした。

◆何がなんでも「五輪ありき」で五輪終了後も感染者は増え、60%以上が開催を中止か延期にと言っている社会を無視し「コロナ禍の中、大会は成功」との給うたIOCの・・ぼったぐりバッハ・・や国内五輪関係者、特に五輪大臣丸川女史の発言は疑問です。総理の「五輪は成功裡に終了した」とか女性知事が「TVの視聴率も良く、自粛の協力度も良く‥」など発言、実態はどこのTV局も五輪・五輪、ここも五輪かよでチャンネル選択の余地がなく、全くのナンセンス発言には呆れました。
◆64年の五輪の成功はマスコミなど、市民の間でも語り草で未来の期待度も高く神話化されました。あの昭和の五輪を神話のままに便乗したものの「緊急事態…」はコロナだけではなく五輪にも適用してほしいと思っていました。どこをみても聞いても安全対策化が徹底した五輪とは程遠く化けの皮が剥がれた感じの五輪であったと思います。自然災害は止む負ない避けられない現象でしたが運営や市民に対する対応は一考の予知があったと思います。身内に豊洲の選手村をマンションとして買い付けていた人がコロナ禍の選手村だったのを鑑み後始末もしていない住居を解約すると言っていました。日本という国は十数年に一度五輪をやってきたみたいです。お祭り好きな日本人は64年の東京から札幌、長野と今度で四回目、八十代後期の歳で五輪を四回観たのは幸せですがどっちかといえば個人的にはあのラグビーW杯のほうが盛り上がりました。特別ラグビーファンではありませんが。
◆主催都市・国として入賞者が沢山いたのは各アスリートの揺るぎない努力、精進、忍耐の尊い賜で感動と感謝を戴きましたが、これは五輪の中止や延期とは別の問題と勝手に理解しています。女子ボクシングの優勝者の入江選手の明るさと話し方が面白く印象的、後日のあるTV番組の司会者が「あれだけ打ち合っても顔が腫れていませんが」の問いに「大会前はもっと美人だったんですよ」といった笑いながらのユーモアはすばらしい。そんなユーモアが理解できないあの張本氏の知的センスの無さ。
◆「お・も・て・な・し」は結果、表(おもて)が無くこの開催には間際になり色々あって「う・ら((裏)・が・あ・る」でしたね。うまい!自画自賛の戯言です。
前回のオリンピックの思い出 26期 岩瀬和子(旧姓:坂口) 2021年8月投稿
書道塾の1年後輩が交通公社に勤務していました。オリンピックの入場券があると云ってくれました。何でもいいから思い出に観戦しようと思いました。中学生だった弟をつれて国立競技場で馬術を観戦し、そして1人で横浜の男子バレーボール、対アメリカ戦だったと思います。観戦しました。日本生命の本社の友人にも声をかけてあげ、大変よろこばれました。
まえもって開会式の夜から、奥穂へ行く計画をたてていました。山男の友達と会社の同僚(女性)3人で行くことにしていましたが、直前に遭難の記事が2件あり、友人の1人が行かないと言い出し、3人で行くことになりました。
一緒に行く彼女は1年後輩で私がさそうとどこへでもついてくる人でした。友達もいそうもなく、大人しい人でした。夏は仕事帰りに千駄ヶ谷のプールへ時々行っていました。私も特別泳げるわけでもありませんでしたが、彼女は一生懸命練習していました。
私は冬スキーが好きで、週末はほとんどスキー場にいる程でした。同僚達とスキーに行くことになり、彼女も行きたいと云い出し、衣服はととのえ、スキーは現地で借りることにしました。1日スキー教室で練習をしてもらい翌日は1人でやることになり、同僚達はゲレンデを滑り降りるより登る方が速いと笑われながらも一生懸命やっていました。
オリンピック開会式の日、私は昼間、日本橋の白木屋でお茶会があり、お手前の合間をぬけ、屋上でブルーインパルスの五輪を見ました。
その夜、夜行に乗りバスで上高地へ行き上高地のバスターミナルを後に梓川左岸の遊歩道を、明神徳沢をすぎ、横尾へ着きました。
涸沢小屋へ行くのには横尾大橋を渡り、本格的な登山になります。樹々のあいだから時々涸沢小屋がみえかくれするのになかなか着かずとてもきつい登りでした。やっと小屋に着いても登山者が大勢でした。寝る時は互い違いに休み、思うように身動きが出来ない状態でした。私達は奥穂高岳(本邦第三位)を登るだけなので、ゆっくり起きて出発しました。穂高山荘までは、涸沢小屋へ行った時と違い割と楽だったように記憶していますが、友人がここで休んでいると云い出し、彼にアイゼンをつけてもらい頂上を目指しました。
頂上はせまかったと思います。お天気が良く、四方八方みわたせ素晴らしい眺めで苦労のかいがあったと思いました。明神池の小屋で泊まることにしていたので下山しましたが、行きと違い楽でした。
翌日上高地を散策して帰ってきました。
7 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(5) 八剱神社― 29期 仲田元昭 2021年8月投稿
今回は8月号につき、夏祭りのご案内です。船橋駅より徒歩15分程の漁師町(湊町)にあった八剱(やつるぎ)神社で7月に執り行われる夏祭りをご案内します。
「八釼神社の夏祭り」
漁師町である湊町の守り神の八剱神社は、江戸時代には前回ご案内した覚王寺の南東近くにありましたが、何度か火災にあい、明治41年(1908)に意富比神社(船橋大神宮)境内の金毘羅神社に合祀されました。
船橋 八剱神社の夏祭りは、江戸時代より約300年、漁師たちの海上安全・大漁祈願等の願いも込めて、雄大に執り行われてきました。

「船橋 八釼神社の神輿・ゆすり込み」
「深川富岡八幡宮との比較」
深川 富岡八幡宮と同じ、祭礼は3年に一度行われる例大祭(本祭り)とその間の2年間に行われる陰祭(かげまつり)、陰祭では神輿渡御は行われず、式典だけが行われます。
深川は、水掛け祭りと言われていますが、八剱神社の夏祭りは神輿を左右に大きく揺さぶる迫力ある担ぎ方「ゆすり込み」で、昔は負傷者が出るほど、漁師らしく荒っぽい担ぎで有名です。

(「深川 富岡八幡宮水掛祭り」江東区HPより)
「8 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(6) 東光寺」に続く 「2021-7-25寄稿」
戯言&独言11 21期 髙野 昇 2021年8月投稿

▼8月は遠いあの日の熱い日差しの中、76年前の15日の日を思わずにはいられない。学童疎開(山形かみのやま温泉)先での上級生のイジメに耐えきれず、両親に懇願し千葉県椎柴村(現銚子市)の伯母の家にまた一人で縁故疎開|。東京の家は大空襲で焼失していたので避難先の小岩での6畳一間での家族7人の間借り生活は無理。病弱の児童以外は東京に居る事も許されない状況の中での縁故疎開だった。戦争終結はこの地で迎えた。食糧事情が悪い東京へはすぐには帰らず、伯母の計らいでこの年の11月まで居候、おかげで3度のご飯は麦飯ながら3回食べられ、利根川や銚子に近い事もあり「鰻・イワシ・かつお・シジミ」など比較的恵まれた食事にありつけていた。伯母宅には大きな防空壕があり、かなりの米や麦、醤油、砂糖が隠蔽してあった。
▼帰京した翌年、「上野アメ横で小豆マメを売っている」との情報を得て母は弟を背負い、私は妹の手を引いて上野に向かった。大改札を出て階段を降り南口(当時は動物園口だったか)の地下道をアメ横へと向かう。その地下道には戦災で家族や住家をを失った人、戦争孤児などが広い通路に溢れ、濃い鼠色の汚れたコンクリートの壁に張り付くがごとくしゃがみ込み気力のい目、やせ細ったあばら骨、子供がてらにタバコを喫っている同年配の児、誰かに追われ逃げ足鋭く逃げる輩、そんな戦争孤児の大勢屯する中に学童疎開時に別れたK君が居た。この件については「同窓会報・2000年10月」に寄稿してありますが8月15日になると親子ずれであの地下道を歩いていた自分と、K君の恨めしそうな目ではなく、鋭い眼光が自分の頬に突き刺さった痛さは忘れられない。縁故疎開に行ったのか、お互い疎開に行く夏休み中に仲間で砂町へザリガニを獲りに行っていた。K君のその後の消息は不明である。私は綺麗になっている今のあの地下通路を今も歩くことが出来ない。
▼もう一人、これは一緒に学童疎開に行った同学年のA君、終戦後学童疎開先の山形から帰省した時、上野駅で引率の先生が「それでは此処で解散」と言って自らは山梨県の故郷に帰った話。A君はあの空襲で家族が全滅しており、疎開孤児とも言われ、地元農家の養女として山形で晩年まで過ごした仲間もいた。彼はそれを承知での帰省であったが、あてにしていた叔父宅も一家全滅、落胆の結果焼け落ちた自宅前の風呂屋のボイラーの中で2年近く過ごし、もちろん学校にも行かず上野やアメ横を食を求めてカッパライ、置き引き、同世代へのカツアゲなどで彷徨い、夜はボイラー釜の中へ帰る。ある日通学する小学生をみて目覚め、わざと浮浪児狩り(いやな言葉です)に遭遇し保護された。以後2年遅れの義務教育と3度の食事にも恵まれ、中卒後自動車整備屋に住み込み、同じ施設にいた同じ境遇の2歳年下の女性と結婚し後年埼玉で自動車整備の仕事で自立、彼の自叙伝的な波乱に満ちた話はドラマにでもなりそうだと何回かの集まりで話をしていた。孫数人を残し70代後半で逝き、前述のK君の思いと併せ8月15日は悲しい思いが蘇ってくる。時の国家は「戦争孤児」「疎開孤児」を見捨てた。
▼疎開時、国民学校3年生だった自分、戦地で無残な戦いに召集された人、空襲の中家族を引き連れて逃げまくった母や父、その方々も高齢で語り部の役をする人も残り少なくなってきた。思えば生まれた時からキナ臭い時代だった。2.26事件・日中戦争・日米開戦・焼け跡・原爆投下・敗戦、この8月15日は私にとっては「終戦記念日」ではなく300万人の犠牲者を悼み 「敗戦・終戦記憶日」 であり記念日ではない。時の流れと共にいずれ 「へー?そんな事があったんだ」 と言われる時代が来てしまうのか。
▼戦後直ぐの夕刊紙にこんな”戯言”が載っていたのを兄が面白可笑しく話してくれたことがあった。
〇天皇陛下の言葉 ・・・・・・・・・・・・・「あっ、そうー」・・・戦後各地を回った際のi会話での言葉
〇東久邇総理の言葉に国民は・・・・「うっそうー」・・・・・・戦後直ぐの首相東久邇総理が「敗戦は国民一人一人にも責任あり」 といい国民に責任を転嫁
〇国民の怒りは・・・・・・・・・・・・・「クッソうー」・・・・・・国民感情を逆なでる無責任発言に8000万民衆の声
・・・・いずれも「う」がつき、かなりの戯言とみた・・・・
▼・・八月は 六日九日 十五日・・・・・(詠み人知らず)
6 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(4) 覚王寺― 29期 仲田元昭 2021年7月投稿
今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内した不動院より2分程にある、文化財の灘陀龍王堂がある覚王寺をご案内します。覚王寺周辺300m程に7つのお寺があり地元では寺町とも呼んでいます。
「覚王寺」
覚王寺は、真言宗豊山派で長命山金剛院と号しています。 創建は450年程前室町時代後期と言われ、本尊は大日如来、9ケ寺の末寺(不動院、圓蔵院他)を持つ小本寺格です。
「覚王寺灘陀龍王堂(文化財)」
灘陀龍王堂は、総欅造・1間社流造で、寛永3年(1850)覚王寺により再建されました。
「覚王寺 本堂」

船橋は、戊辰戦争・市川船橋局地戦で官軍兵の砲撃と放火により街の大半と多くの神社仏閣も焼失しましたが、灘陀龍王堂は焼失を免れた数少ない江戸時代の建造物で市指定文化財です。
正面の龍、北・東・西面の彫刻は仙人や仙女が彫られ立体感ある表現で躍動感にあふれています。龍王堂には、海上守護の神、灘陀竜王が祀られ、毎年4月には護符が配られ、漁師町の人々の信仰を集めてきました。
「灘陀龍王堂と見事な龍の彫刻」


「7 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(5) 八剱神社」 に続く 「2021-6-25寄稿」
戯言&独言10 21期 髙野 昇 2021年7月投稿


■白井義男・・・・・前回の水泳の古橋広之進選手は戦後直ぐその名を轟かせ、私が中学生だった頃から現在に至るまで日本のスポーツ界の偉人といっても過言ではないと思っています。今のように企業とのプロ契約もなくアマチュアとしで生涯をおくっていました。今回はプロとはいえ特異なプロボクサーとして、水泳の古橋と同じゅうして戦後のあの時代に華々しく君臨した白井義男は「日本人!ここに有り」を全国民に知らせたやはり偉大なスポーツマンでした。世紀の一戦、伝統の一戦など安っぽく聞こえる事が多い昨今、営業の為の商業的な言葉になっているが、昭和のあの頃(小生の三商在学中)|の白井義男の切磋琢磨による奮闘は金字塔でした。戦前のボクサー(当時は拳闘家と言っていた)については父からピストン堀口やヤリの笹崎など話には聞いていましたが何れも終戦前のボクサーでした。白井にはいつもカーン博士と言う人物が付いていて後日談としてカーン氏の存在がいかに白井の活躍に貢献していたかを知った次第です。白井は荒川区三河島の生まれ、戦後は軽い腰痛を持った無名のボクサーとしてコレと言うジムにも属さず、王子駅前に有った「王子百貨店」内にあったリンクで4回戦ボーイをやっていたそうです。ボクシング好きのカーンがたまたま王子でみた白井の動きにセンスを見出し、付き合いが始まったとか。カーンは生物學の大学教授だったのをGHQに懇願され敗戦国日本人の栄養改善や補給の仕事に就いていたようです。その為に牛肉をたっぷりと食べさせカルシュウムの補強による腰痛の克服、筋力の充実など今までの日本のボクシング界では考えられなかった科学的トレーニングから実行。あの時代牛肉などやたらに食する時代ではなかったはずだがそこはGHQ勤務のカーン、GHQのマッカーサーに直接懇願し、快諾を得てのことで、この点マッカーサ―は日本国民への思いが偲ばれます。「打たれたら打ち返す」と言う今までのこの世界の常識を「打たせないで打ち倒す」を基本とし、徹底したボクシングの基本,動作、駆け引き、試合後半でのアウトボクシングの展開、そして生活態度などを教えこみました。GHQ の引き合いもあり当時の世界チャンピオンのマりノをハワイから呼び白井に挑戦させたがあえなく判定負け、半年後にはこれもGHQの援助もあって今度はハワイに向かい再度マりノに挑みTKOで勝ち選手権への挑戦権を獲得しました。

■昭和27年5月19日後楽園球場に特設リンクが設けられ4万5千人の観衆を集め、リンクサイトの観覧席は3500円とポスターにありました。今考えると特設リンクとはいえ全くのお粗末な設備で、町内会の盆踊りの櫓舞台とあまり変わらぬ印象がありました(写真)。TV放送は始まっていたものの受像機の普及台数は極めてわずか、繁華街にある街頭TVに人が群がりました。江東楽天地内の街頭TVも黒山の人でその中の1人が三商2年生の私でした。父は店番の為ラジオで聞いており担当アナの志村正順がかなり興奮気味の中継放送をしていたらしく「そういえば志村アナは荒川の三ノ輪の生まれだ、白井と同じ荒川区なら興奮するはずよ」 と父は言っていました。 試合内容は前半はクリンチが多く、背の高い白井と低いマリノではクリンチになるのは当然、 リーチのある白井のストレートやフックにあまり有効打が無くTV前の聴衆からも私を含めて溜息が出る雰囲気が充満していた憶えがあります。当時の世界戦は15回戦制で、後半に入りカーンの指示か白井は相手との距離をあけクリンチを避けるがごとくアウトボクシングの体制を取り始めストレート、フックが少しずつ的確、有効になていたようです。”打たせないで打ち倒す”これは数十年後の白井の著書にも書いてあり、最初からこの索をカーンから指示されていたとか。街頭TVの前に大歓声が挙がり3-0の判定、日本初の世界チャンピオンが生まれました。歴史的な日、昭和27年5月19日の出来事でした。この日を境に今までの拳闘と言っていた用語・言葉が日本から完全にボクシングと言う言葉に変わったと思います。肉体の改良、科学的に基ずいたメンタルトレーニングによる精神力の向上と充実などボクシングの全く経験のないカーンの理論的指導法が功をそうし、以後のスポーツ界にも滲みわたり世界に承認された瞬間でもありました。
■聞くところ、カーンはボクシングの経験は全くなく、大学で体育講師時代の体験だけの知識と理論からのものだったようです。白井は年齢、腰痛などで引退寸前状態でありカーンの理論には否定的であったがカーンの情熱と姿勢に専属契約をしたようです。カーンの「科学的トレーニング」に白井は自らの能力向上に目覚めていったと白井の著書にも書いてありました。肉類を大量に摂取、これはカーンがGHQ勤務で食糧事情の悪い国内では手にできない不可能を可にしたようです。試合後半、相手のスタミナ落ちをみてアウトボクシングに切り替える作戦は功を奏し世界チャンピオンになっています。数年後パスカル・ペレスに敗れ引退しましたが、身内の居なかったカーンは全てのマネージメント料を白井に與え、白井も彼の熱意、指導に家族共々感謝感動し彼が死に至るまで一緒に生活を送っていたようです。晩年、認知症になった彼を家族全員で幇助し、彼の精神、愛情と人間的な崇高さは忘れることが無いと白井の著書に記されています。
■戦後復興にまだ遠いこの時期、国民に立ち上がる力と勇気を施したカーン博士は1971年1月に79歳で、白井氏は2003年12月に80歳で黄泉に入り共に同じ墓所で師弟愛をそのままに眠りついている筈です。
5 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(3) 不動院― 29期 仲田元昭 2021年6月投稿
今回は、JR船橋駅より徒歩10分程、前回ご案内しました浄勝寺から徒歩2分程にある不動院と、門前で毎年2月28日に行われる市無形民俗文化財の、大仏追善供養のご案内です。
「不動院」
不動院は、真言宗豊山派の寺院で総本山が奈良の長谷寺、関東大本山が東京の護国寺です。号は海応山、開基は700年程前の南北朝時代と伝えられ、本尊は不動明王です。
現在の本堂は、昭和7年(1932)造営で、屋根の両端の飾り瓦は珍しい鴟尾(しび)です。
「不動院 本堂」

「大仏追善供養」(市無形民俗文化財)
不動院の前にある、この石造釈迦如来坐像は、地元では飯盛大仏とも呼び、今から270年程前の江戸時代中期に、津波によって亡くなられた人々の供養のため、地元の方の寄付で建立されました。
その後、漁場の境界をめぐる争い中に船橋の漁師が、相手方の船に乗っていた徳川一橋家の武士を殴打したため、漁師総代3人が入牢、2人が亡くなる事件が起き、先の津波で亡くなられた霊と共に供養を行うこととなりました。
毎年2月28日に行われる大仏追善供養の行事は、大仏に白米の飯を盛り上げるように塗り付けます。これは、牢内で食が乏しく、ひもじい思いをしたのを償うためと言われています。
「大仏追善供養の行事で白米が塗り付けられた 石造釈迦如来坐像」

「6 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(4) 覚王寺」に続く 「2021-5-25寄稿」
戯言&独言9 21期 髙野 昇 2021年6月投稿

■古橋広之進・・・・・私の年代は勿論、戦後のあの時代に育った方々には忘れられない輝かしい人物です。戦後の水泳競技において数々の世界新記録を打ち立て、敗戦による落ち込みの激しかった国民に勇気と元気を与え、「日本人、ここに有り」を世界に示した人物で、それは政治家でもなく、科学者でもなく、戦時下の少年時代に浜名湖の岸に作られていた木枠だけのプール?で「魚より早く泳いでみたい」との思いで覚えた泳ぎの術を体得してのスタート。戦後日大在学中の日本選手権で自由形400米で4”38”4の世界新記録で優勝、しかし敗戦日本国の記録ゆえ公認記録として世界新として認められず1947年のロンドンオリンピックへも敗戦国の日本とドイツの参加はできませんでした。49年、国際水連復帰が認められ、これは古橋選手の全ての記録の功績大だった思います。この歳に古橋、橋爪、浜口など今では懐かしい選手が全米選手権へ招待され参加、これは当時のGHQ司令官マッカーサ―元帥の力添えで実現したと中学の担任先生から聞いていました。その裏ずけとして古橋らは司令部に呼ばれマッカーサ―元帥から「勝ってきてくれ、それが日本国民の心の糧になる」と言われたと十数年後の新聞のインタビューで語っていました。戦後日本人をジャップと呼び、日本のプールは距離が短いとか敗戦でストップウォッチも無いなど云われていた時期に彼らは活躍、古橋は400米・800米・1500米自由形ですべて世界新、この時「フジヤマのトビウオ・・The Flying Fish of Fujiyama」と米紙は絶賛したようです。今もTVの水泳競技放送で記録を言う場面で「‥‥フラット」と聞くと古橋広之進と言う名が自然と頭に沸いてきます。ここで記録した古橋の当時の1500米の世界記録”18”19”00というタイムは今この歳になっても記憶にはっきりと残っており最後の”00”をフラットと表現されていた言葉が今も心に残っています。
■1952年、日本は戦後初の北欧ヘルシンキ五輪参加が認められましたが彼は思うような記録を持たぬまま選手としてピークを過ぎている中での五輪参加だった様です。その原因の一つに、かって米国への招待遠征中、宿泊先のホテルの部屋に用意されていた水を飲み、それが原因で「アメーバー赤痢」に感染しました。抗生物質薬などない時代、故郷での友人との語らいの中で「外国では飲み水には気を付けろ」と言われたことが頭をよぎったそうです。400米決勝では8人中の8位、フランスのボアトウ選手が優勝、感窮まったボアトウの父親がプールに飛び込み倅に抱きついている姿をニュース映画でみました。一瞬、敗れた古橋のカットもありその顔が印象的でした。布団の中で兄弟そろってこの実況放送聞いていました。この時、NHKで実況を担当していた飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の偉大な足跡と活躍なくして戦後の日本の発展は在り得なかったのであります。日本の皆様、温かい気持ちを持って古橋を迎えてやって下さい。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」私は布団にもぐり泪しました。翌日の教室ではもっぱらこの話題が中心で「橋爪ががんばるよ」と皆で話したものでした。HRでも担任の吉岡先生が古橋の健闘を讃えていました。数あるスポーツ放送はあるけれどこの飯田アナの放送は日本国民全員に感謝の思いと感銘を与えた言葉であり名放送だったと今も思います。この翌日にあった自由形1500米決勝で盟友橋爪四郎選手が銀メタルをとりながらも虚しく敗れた古橋を思い表彰台で悲しくて顔を挙げることが出来なかったとYOUTUBUで語っており、銀メタルも一切公開せず押し入れにしまいこんだとも語っていました。古橋は勝っても決してガッツポーズなどせず、スポーツの栄光と挫折は平等であると考え、ガッツポーズ、それは敗れた選手を思えば出来る物ではないとの心情とスポーツは謙虚に真っすぐに、明るく、強く、豪快に済ますべきのモットーを持っていました。ちなみにこのヘルシンキ五輪での日本の金メタルはレスリング・フリースタイルフェザー級の石井庄八選手の1個でした。古橋は引退後も水泳界発展の活躍も多く各種役員、国際委員などを経て五輪選手として文化勲章を拝受しています。古川勝、田口信教、鈴木大地、北島康介など世界的選手の礎となり、残念ながら2009年国際水連総会の在ったローマのホテルで心不全で亡くなりました。後日国内での葬儀にはスポーツ選手の葬儀でこれほどの葬列者が集い歴史的な告別の儀であったとスポーツ紙は報じていました。コロナ禍の中、東京五輪の開催の有無を古橋広之進氏は天国でどのように思っているでしょうか。私見ですが彼の精神を鑑みれば、このコロナ禍の中、人の命の重さの方が尊しと思っているでしょう。
4 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(2) 浄勝寺― 29期 仲田元昭 2021年5月投稿
浄勝寺は、芝増上寺の末寺で山号は西光山、今から520年程前 室町時代後期 明応5年(1496)に、浄土宗の念仏道場として、旧九日市漁師町に創建されました。
広大な敷地(約2万坪)に、伽藍(鐘楼堂他)を有する大きな寺院でした。
「浄勝寺 本堂」

江戸時代には、徳川家康公の鷹狩の休息所として使われ、天正19年(1591)家康より10石の寺領の寄進を(御朱印状)賜っています。
墓地には、戊辰戦争が終結した後、新政府より船橋周辺の警備を命ぜられ、九日市に捨置いていた兵糧米の調査の為出張中、脱走した賊徒が旅館に乱入し、賊徒に襲われ亡くなられた尾張藩磅礴隊(ほうはくたい)3名の合葬墓があります。
合葬墓は、尾張藩磅礴隊の武士が中心となり、ここ浄勝寺に埋葬されました。
「尾張藩磅礴隊の墓」

「5 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(3) 不動院」 に続く 「2021-4-25寄稿」
戯言&独言8 21期 髙野 昇 2021年5月投稿

●「セコハン‥‥」兄弟や身内、近所の方などから譲られた衣類や道具のこと。私は小六の卒業式や遠足の際は総領の兄(私は四男)が着ていた慶応型制服と言われていた紺色のサージの生地の上着を着ていた。総領の長兄((大正14年生・6年生で逝去)の中学進学のため両親が大枚をはたいて買い求めたものだろう。いつも母は「よそ行きなんだからね」と念を押すように言い、二男、三男の兄2人も着ていた。小生は四代目でこれぞ・セコハン・の窮まり。兄弟の「お譲り」を着る・使うのは当たり前の時代だった。私が三商に入学の時に着帽していた制帽は五歳上の兄(16期生)が入学時に購入したもので私は三商二年生の2学期まで被っていた。帽子のツバがボール紙で出来ており雨の日は被らないようにし、最後は生地もツバもボロボロになっていた。戦後に笠置シズ子が「セコハン娘」と言う歌を唄いヒットしていた。
●「逢いびき‥‥」今で言うデイト。{逢いびき}というイギリス映画があった。刹那さと哀愁を感じる「逢びき」とか「逢う瀬」とか「忍び逢い」など漢字を交えて書くと切なさ・遣る瀬ない思い・人目を忍ぶ仲など情緒と哀愁と秘めた情熱があふれる何かを感じさせる。軽い気持ちでの今風の男女交際には全く合わない言葉となった。
●「お湯屋‥‥」何時ごろからか銭湯と言い出したのか。銭湯なる名は昔から知っているが下町では「お湯屋」とか「お風呂屋」と言うのが通常だった。お湯屋の煙突には必ずお湯屋の名が書いてあった。私の育った亀戸辺りでは子供仲間や家庭の会話では「おいや」と言っていた。戦前の亀戸の住まいの半径500米以内に4軒の「おいや」があった。有料で背中を流して軽く肩を叩いてくれる裏方の小父さんが居て「三助」といっていた。水っぽい女性などは風呂に行くのは「おぶに行く」などと言い、親が幼子に水や白湯(さゆ)を与える時なども「おぶ」と言っていた。
●「やっちゃ場‥‥」野菜卸市場のこと。下町には神田市場、両国・千住等にあり今神田市場の跡地はヨドバシが建つ。最近スーパーの野菜売り場で「やっちゃ場市」と銘打っている処がある。
●「タッパ‥‥」タッパがいいねなど、体格が良くで背が高く格好のいい人などに使われ、今でも建築関連で高さの事を「タッパは○○メートル・・」など使われている。余談だが先日、昔出入りしていた大工さんに久し振りに会ったが当時と変わらぬタッパの良さは昔と変わらず小粋な老人になっていた。
●「停留所・停車場(テイシャバ)‥‥」バスや都電の乗降客が乗り降りする場所。都電の停留所(写真)は道路の真ん中にあり一段高くしてあり、夜には独特なデザインの標識灯に灯りがともり停留所名が良く分かったものだ。停車場は主に始発駅を停車場といっていたかも。下町では上野や両国(かっては千葉県内を走る総武本線の始発駅)など。バス停などの言葉は今風。
●「カムカム英語‥‥」戦後直ぐに夜6時頃から放送された平川唯一氏の英会話指導番組で”証誠寺の狸ばやし”のメロディーに「♫カムカムエーブリボディー♬・・」と英語の替え歌で始まる番組。彼は元NHKのアナで、米国に住んでいた事はあっても英語教師の経験も資格もないズブの素人で終戦のあの日、天皇の詔勅を自ら翻訳し世界各国に向けこれも自ら朗読し電波にのせた凄い人。放送の中で「英会話は口真似で覚えるのが一番良い」と言っていたのが記憶にある。この番組で会話をマスターした人は皆無だろうが替え歌だけは子供同士の間ではやたらに流行り今も口ずさめる。私が最初に覚えた英会話は「ギブミィーチョコレイト アンド チューインガム・・」と「サンキューベリマッチ・・」だった。
●「あたい‥‥」自身の事をこう言っていた。男女の区別なしの言葉で「僕」とか「私」なんて言葉は小さいこども同士で下町で使うのはタブー。「かっこつけやがって!」と言われるのがオチ。幼少期からそう言っており小學高学年あたりから小さな声で「俺」なんて言い始め年下の子に少し偉ぶったものだ。職人や商人(あきんど)が多かった下町では子供達が当たり前に使っていた一人称。その親たち大人は亭主や話相手のことを「あんた」と称し略して「あーた」だった。
●「手拭(てぬぐい)‥‥」今、正月用の「お年賀」の挨拶代わりにタオルがあるが、以前は手拭が圧倒的でタオルは高級品だった。利用範囲の広い30㎝×70cmくらいの大きさで木綿の染物。風呂には当たり前に使用、半分に切って台所の布巾にも。少し使い古したものは赤ん坊のおむつになり2枚使う。使い古した手拭は柔らかく赤ん坊の柔らかなお尻には最適。我が家は商売をやっていたので盆・暮には仕入れ先の問屋が2.・3本ずつ持ってくるので、いつもトランク一杯の手拭が有った。父親や子供達の寝巻はいつも新品の手拭で母が仕立てた寝巻になっていた。夫々の問屋の名入りのものがまちまちにあり、背中に鰹節問屋、前身ごろに漬物問屋、裾には佃煮メーカーなど色とりどり。小中学に通学の際、きちんと折り畳んで腰のベルトにはさみ下げていた。今の我が家には紺地の染に白ヌキの吉原繋ぎの粋な紋様が入った染手拭がインテリアとして飾ってある(写真)。亡き細田武兄から三社祭りの記念に戴いたもの(写真)豆絞りの手拭と共に江戸の祭りには欠かせない。浅草仲見世には専門店もある。手拭はその使命を済ませ民芸品化しつつあり、タオルにその使命を譲ったけど、そのほとんどが中国製。
●「アッパッパアー‥」カーちゃん、オバちゃんらの主に夏用のワンピース。洋装のつもりでもなく下駄かサンダルでちょいとそこまで的なワンピース型の女性用夏の簡単服。木綿なので洗濯簡単、お袋などは下着のシャツもつけず直に着用し商売をしていた。首回りには手拭を架けていた。今若い人がロング目のワンピースがはやっているが、私から言えば「今風アッパッパァ」。サザエさんの母のフネさんが着ている時もあった
●「おいら‥‥」複数形の言葉らしからぬ自身のことを表現するのに使用していた。映画、裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の中の唄に「♫おいらはドラマー、…おいらが叩けば嵐を呼ぶぜ‥♬」とある。ビート・たけしが今でも良く使っている。個人、複数人どちらにも使ってはいたが個人の表現に使っていたが「俺は‥」が「おいらは」になちゃったか。
●「ガリ版・謄写版・そしワラ半紙・・・・」これは完全な死語。手書きの原稿、校内試験問題や父兄への連絡事項、生徒への通達など蝋引きの原紙に鑢(ヤスり)を下敷きに鉄筆のペンで書きこむ。それを謄写版にセットして1枚ずつ用紙に手刷り印刷?。今思えば原始的でも画期的な用具で職場、学校には必ず有った。その用紙がワラ半紙 わずかに黒っぽく薄いグレーっぽい、時折5ミリくらいのワラと思える屑が入っていた。実際にはワラは使用せずぼろきれ繊維が使われていたらしい。楮(こおぞ)などから和紙を梳いていた歴史からワラを思いついた人は素晴らしい。À3まで可能だったか。今はA4コピー用紙全盛がとって変わった。
77歳9ヶ月 29期 土方敏之 2021年5月投稿
前回のホームページの原稿を掲載する時に、Aさんの原稿をどうしますか、との問いに、1掲載に1,000字以内と解っていたが、載せて良い、と指示しました。
それにより掲載されました。 先日、夢を見ていてその件が出てきました。してはいけない事をした。それも規則を破って。これは罪であり罰を受けるべき。と何回も出てきました。
よって、今回はその罪に対し罰をどうするか。結果、罰として投稿を止める事。そして規則を守る事。が浮かんできました。よって、自己申告なのでこれで許してもらいたいと思います。
同窓生の考え、思い、行動等をこのホームぺ―ジを利用して、発してもらい、読んだ同窓生が自分の考え、思い、行動と合わせて考えて、安心したり、感心したりする。そして思いが通じ結束につながる。同窓生の皆様、ホームページを利用してください。あなたの思い、考え、行動の原稿をFAXやメールで連絡お願い申し上げます。
3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮― 29期 仲田元昭 2021年4月投稿
船橋には、70社の神社(全国約85千社)があります。今回から、船橋駅より2時間程の街歩きのご案内です。街中コースにある15の神社仏閣を巡る街歩きの出発です。最初のご案内は、船橋駅より徒歩15分程にある、船橋を代表する神社、船橋大神宮です。
創建は、今から1900年程前と伝えられ、史書「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(延長5年=927)に意(お)富比(おひ)神社(じんじゃ)の名がある船橋市を代表する神社です。
いつの頃からか「船橋大神宮」と呼ぶようになりました。主祭神は天照皇大神で、南の鳥居の右に「延喜式内社意富比神社」の大きな石碑があり、平安時代に官社として認定されていた由緒ある神社です。
「船橋大神宮 門・玉垣」

天正19年(1591)徳川家康より「常磐の箱」に開運の旗と陣弓を本殿に納められ、江戸開府の頃より家康公は度々参詣され、50石の社領の寄進が十四代将軍家茂まで続きました。
戊辰戦争では、旧幕府軍の本陣が置かれ、新政府軍との戦いで神社と周辺は戦火にあい焼失しました。現在の本殿は、明治になり造営された建造物です。
「船橋大神宮 拝殿、神明造り、本殿は更に奥にあり」

「4 我が街 船橋を歩く 神社仏閣(2) 浄勝寺」 に続く 「2021-3-25寄稿」
戯言&独言7 21期 髙野 昇 2021年4月投稿

▼インフレと食糧難、住居難、失業と全てに困窮の最中の1945年(昭和20年)からの5年間近く、庶民にとっての唯一の娯楽はラジオであった。「リンゴの唄」は終戦の2・3か月後に封切られた松竹映画の挿入歌。空襲の焼け出されにはラジオなど無かった時代、焼け残った小岩のラジオ屋の店頭から流れたこの曲は圧倒的な勢いで全国を風靡した。教科書も進駐軍に没収されていて、音楽の時間には先生のオルガンの伴奏で「リンゴの唄」や、他に「みかんの花咲く丘」なども授業中で歌った記憶がある。「リンゴの唄」の作詞者サトーハチローの詞は勝つぞ!とか皇国ニッポン!などもなく、はっきり言えば内容的にはなにを言わんか未だに疑問だが彼は後にあの「長崎の鐘」や「小さい秋みつけた」などを作詞し純真でユーモアに溢れ、泪脆い人だった。GHQは放送に厳しい規制を引き戦時歌謡は姿を消し、学校帰りに4・5人で「暁に祈る」を唄っていたら道すがらの酒屋の小父さんに「そんな歌、唄ってるとMP(米軍警察)に捕まるぞ」と笑いながら注意された。「リンゴの唄」は戦時中、「♬天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の‥‥♪」なる歌を学童疎開先で唄っていた半年後の明るい歌だった。
▼番組のテーマ曲は全てがクラシック系でGHQの意向そのままに「真相はこうだ!」と言う番組があった。旧日本軍の各地での戦闘を「実はこうだった」風にGHQが制作し放送、アナの語りで旧日本の暴走・暴虐・無謀を暴く番組だった。国民の誰もが真意はともかく納得したものだった。今になって戦争史と比してみると戦勝国のプロパガンダが含まれていたとは言えほぼ当たっていたかも。夜の放送を家族揃って聴いていた兄が「ガダルカナル海戦は負けていたんだ」と言っていた言葉を今になって昨日のように思う。復員だより・尋ね人の時間・配給だよりなど、「尋ね人」の放送で何人の人が、何組の家族が再会できたのか。「配給だより」では毎日が「○○の3班、スケソウタラ」なるニュースが續き、今もタラコを食する度に思い出してしまう。
▼「のど自慢」「産業の夕べ・炭鉱へ送る夕べ・農家へ送る夕べ」・・(♫農家の皆さんこんばんわ‥♪)など復興をめざして各地で働く労働者に送る番組が多々あった。内容はどれもほぼ変わらずタイトルのみが記憶にある。芸人が2・3出ての物であったが「のど自慢」だけはよく聴いていた。一小節で鐘が一つ鳴り不合格、少し長く唄わせ鐘が三つ以上鳴れば合格。楽しい放送であの美空ひばりも出場参加していたとか。「異国の丘」はこの番組から発信され、のちに数多くの参加者がこの番組で歌っていた。「鐘の鳴る丘」と「異国の丘」は唄えぬ人は誰一人として居ず、当時のベストヒットソングだった。漫才コンビの内海突破・並木一路が良くラジオに出ていて内海突破が驚いた時に言っていた「ギョッ!」なる言葉、子供同士の会話の中で下町でははやった事がある。
▼「進駐軍放送」・・米軍兵士向けの放送(WVTR)が始まり軽やかなアメリカンポップスが流れそのころはそれらを全てJAZZといっていた。今までさんざん聴かされた戦時歌謡や股旅ものなどとは違う、沈んでいる心が少し浮かれ、リズムの軽快さなどが子供心にもなにか永い呪縛から解き放された感を憶えさせる放送だった。街の若者達のアマチュアバンドが現れ避難先の小岩の街にも出現し、家屋疎開跡地の空き地の広場での演奏を兄弟で見に行くのが楽しみだった。そのアマバンドのテーマ曲が1930年代の米国のヒット曲「素敵なあなた」 ♬バイ・ミー・ビスト・ドウ・シェン…♪ でこの時憶えたメロディは私にとって最初のJAZZだった。数年後、ラジオ東京の朝番組のテーマ曲がB/グッドマン・コンボが奏でる「シャイン」でこの曲に送り出されるように三商への登校に向かった。懐かしい名曲、軽やかでリズミカル、今でもYOUTUBUで見たり聴いたりしている。銀座の「テネシー」と言うJAZZ喫茶に通っていた三商時代、そして今もってJAZZが好きで好きでいられるのはあの時以来の延長なのである。
▼「話の泉」・・その時々の時事の話題をゲストを交えてのトーク番組。クイズ的な所があっても今の様に正解者を表彰することなく解答者の蘊蓄や雑学的な知識を出し合うもの。司会アナはあの和田信賢で戦前からの名アナ。8月15日の天皇の終戦詔勅、いわゆる玉音放送の時のアナでもあった。日本が戦後初の五輪参加(昭和27年)の際ヘルシンキに中継放送の為に派遣され、その開催中に逝去。昔日、相撲の双葉山の連勝記録が消えたときの実況アナでもあった。彼は戦後直ぐの大相撲の放送をし相撲には戦前からかなりの蘊蓄を持ち著書もある。報道、スポーツに長けたアナだった。話の泉の解答者は徳川無声・サトーハチロー・山本嘉次郎(黒澤明の師匠)・渡邉紳一郎(朝日の記者?)などで、かなり知的な番組で兄二人がよく聴いていた。東京五輪の頃まで続いていたと思うが司会は高橋圭三アナに代わっていた筈である。かなり知的な番組であった。
▼「とんち教室」・・「大喜利」のはしりのような番組だった。司会の青木一雄アナを先生として解答者は全員落第生と称され、でもその解答振りはユーモアと駄洒落・戯言などが色濃く、粋な側面と笑いのセンスを持ち合わせた楽しみな時間だった。落第生、イヤ生徒は石黒敬七(元柔道家、いつもサングラス姿)落語家の柳橋、三味線豊吉(端唄、俗曲などの三味線弾き)など、今のバライティ等には決して見られない,聴けない駄洒落と粋なユーモアに、それこそトンチンカン満載のお笑い番組だった。今のお笑いタレントのバカバカしさと比べて雲泥の差を感じる。
▼[向こう三軒両隣」・・月~土の夕方に毎日放送されていた。人力車引きの坂東亀造さん(巌金四郎)や山田のおばあちゃん(伊藤智子)など、どうってことはない日常の生活ぶりを、戦争の暗い闇から解き放された市井の庶民の生活ぶりを、明るいホームドラマを通じて新旧の考え方が混りつつある世相をそれとなく教え、時には皮肉ったりしてくれた番組。亀造さんの仕事に行く時の「あらよっと!」の元気な声が印象に残る。TVが始まり毎夕「バス通り裏」と言う15分の夕ドラ番組があったが「無こう三軒・・・」の時代から少しずつ進捗していくのが判った。
▼{カムカム、エブリボディ・・」 「證誠寺の狸ばやし」のメロディーに英語をかぶせ、平川唯一なる先生が英会話を指導。世間ではカムカム英語と言っていたがこの放送で英会話をマスターした人は恐らく皆無だったろうが、子供の間ではこの英語の替え歌だけは流行っていた。あの頃の我が家では、確か夕方の5時か6時からの放送だったので、母が夕食の菜っ葉や大根や芋入りの「雑炊」を支度する時間の時計がわりだった。小生カムカム英語の英文替え歌のテーマを今でも最後まで唄えてしまう。かなり長い年月の放送だったようだが中学時代の英語教師のU先生は「平川は英語は”耳から憶えるのが基本”など放送でよく言っているが英語の基本は発音から始まるものだ」と唱えていた。鉛筆をペンシルと皆が言っていたら「それが大間違いだ、正確に発音すれば”ペンソウ”だ」だと言い、生徒としては「どっちでもいい事なんだけど」の判断、そのU先生の綽名は以後・・ペンソウ・・となった。余談だがこの先生は後日レッドパージと言うGHQの社会主義的公務員の公務追放で教職を追われ、最後の別れの挨拶で言った言葉は「英語を学んで世界を見ろ」だった。私が最初に覚えた英語?は小学校4・5年生の頃か「give me chocolate」だったのが何故か侘しい。平川唯一自体英語の指導の経歴はまったく無く、親の仕事の関連で数年ほど米国に居住していただけ、開戦前に帰国しNHKに入り、あの8月15日の玉音放送を自ら翻訳して世界の電波に自らの英語の音声で放送した人物とか。玉音放送の陰の主役であったことを20数年前か「文藝春秋」主催の講演会で故半藤一利氏が語っていたのを紀尾井町の”文藝春秋ホール”で聴いたのを半藤氏の逝去(令和3年1月)を聞き改めて思い出した次第である。藤倉アナの「街頭録音」なんかも思い出す。「三木鶏朗の日曜娯楽版」は世相を皮肉るお笑いコメディだったがGHQの圧力で短命で消えた。この番組に三木のり平が出ていた。
写真説明・・・・かつてのNHK(千代田区内幸町)|
77歳8ヶ月 29期 土方敏之 2021年4月投稿
今朝の夢、覚えているのは、柳田が隣に座っている。右の方から連なって歩いてきた中に、30代の痩せている私の父親がいる。ぐるっと回って私のそばにきた時に、柳田に父を紹介した。そこで目が覚めた。1時半だった。あと続きをみようとしたがつながらなかった。
私の父は、30代に築地市場で「大六」という問屋で働いていた。そして直腸ガンにかかり痩せていった。その頃の写真の顔が夢に見た顔だった。術後は太らせろ、との医者の言葉に、甘いもの、天ぷらとドンドン食べさせ、61歳で他界するまで太っていた。私が三商で柳田に会った時はもう太っていたので、痩せていた父の顔をよく知らなかった。5時に起きて神棚、仏壇と水を替え「おはようございます、今日一日よろしくお願いします」と祈ります。仏壇の脇においた柳田の戒名「貫雲慈保信士」の前で「柳田、おはよう」と挨拶をする。
今日は、孫が新中学生になる入学式の日。今日一日何があるのか楽しみだ。
初節句 26期岩瀬和子 2021年3月投稿

この写真は80年前の私の初節句の写真です。のびた手は母の手だそうです。
私は母が結婚して5年目に生まれました。初の内孫だったので、祖父、おば達にとても可愛がってもらいました。19期の中山さんの瓦版をいただくと、戦前鶯谷駅の近くでもらったなつかしい味を思い出します。内裏雛が二対あるのは、知り合いから一対と大きな羽子板をいただいたそうです。少し大きくなり羽根つきをしようとしましたが、大きく重たくて出来ませんでした。

こんな古い写真よくあったとお思いでしょう。『実は花嫁道具、高く買います』というチラシがありました。結婚する時、友人の家具屋さんから、良いのを買ったのでいずれ処分しなければならないので高く買ってくれればと思い電話しました。
査定に来てくれましたが大きくて売れない、と云われ六万五千円で引き取ると云われ、粗大ゴミのほうが安いのでやめました。その時和服のタンスを整理していて、封筒に入った写真が出てきました。この写真は母の実家のおじが、私達は空襲で焼けて無いだろうとくれた写真です。父が写真屋さんで複写してもらいましたが、セピア色した当時の写真もあります。結婚する時、持ってきたものです。

写真館で写したお宮参り、3歳のお祝いの写真、父の友人が写してくれた多分誕生日でしょう。着物を着て、きれいなゆだれかけをかけ、父に抱かれたのと、一人の写真、父の出征の時に家の前で映した、祖父母、おじ、おば達、母と私。兵隊の面会日の写真、祖母、おじの知り合いの人、母と私、おぼえていませんが、なつかしい人たちの写真です。
私にとって貴重な写真、あの世へ持ってゆきたいと思います。
2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)― 29期 仲田元昭 2021年3月投稿
街歩きのご案内の前に、船橋の歴史についてご説明します。
「古代」
船橋は、約15,000年前縄文時代より人々が住み、昭和7年に竪穴式住居跡や炉穴が日本で最初に発掘された市の史跡である7,000年程前の飛ノ台遺跡(市の史跡、東武新船橋駅より徒歩5分程)他、市内には150を超える遺跡が発掘されており、千葉県は日本一遺跡の多い県です。
北部の小室台遺跡は、市内で初めての前方後円墳が発見、また発掘で小さなバイオリン形「土偶」も発見され、平成30年春の東京国立博物館の特別展に展示され、秋にはパリ「縄文展」に展示されました。
「中世前半(平安時代、鎌倉時代)」
中世には内陸部との交通の要所として、また東京湾では鎌倉の外港六浦を中心に海上交通による交易により、人や物資の動きが活発に行われ、船橋湊、二子浦(葛飾浦)この港から鎌倉や伊勢神宮の安農津に物資が輸送されていたようです。
「中世後半(戦国時代)」
15世紀後半、房総では千葉氏の内紛が起こり衰退すると共に、里見氏や武田氏、北条氏が台頭し、国府台合戦が起こりました。市内には、夏見城址、金杉城址等16の中世の城跡の土塁が発見されています。
「江戸時代」
徳川家康が江戸入府後、早々に家康公より船橋大神宮に50石の社領、浄勝寺に10石の寺領が寄進され、船橋大神宮に家康公は4回程参拝されたと言われています。
その後、家康公の東金方面への鷹狩の宿泊場所として慶長19年(1614)頃に船橋御殿が造営され、大坂夏の陣が終わったその年、元和元年(1615)11月25日、鷹狩の帰りに千葉県で最後の宿泊場所が船橋御殿です。
その際、漁民達が生魚・貝を献上してきたことに喜び家康公は、船橋の漁民に独占漁業権を与えられ、その後新鮮な魚介類を江戸城に献上する等船橋は徳川将軍家と大変関係の深い誇り高い街です。
船橋御殿には、家康公が2回、二代将軍秀忠が10回、三代将軍家光が1回宿泊及び休憩をされたと伝えられています。
「3 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(1) 船橋大神宮―」に続く
「2021-2-25 寄稿」
戯言&独言6 「闇市」 21期 髙野 昇 2021年3月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その2)
▼戦後とか終戦後とかなる言葉も今や“死語”となりつつある。1945年つまり昭和20年8月15日以後からのこと。その日は皇国、軍国主義がひと晩で変わり、私は国民学校4年生であった。歳を重ねて記憶もまた薄らいでゆく中で、あの時代に生きた人間がそれも子供の眼で見た「こんなだった」時代は年老いても忘れる事が出来ない鮮明な時の流れでもある。かなり以前に孫に「終戦って、いつの、どの戦争のこと?」と聞かれた事があったが、そういえば私が生まれる以前から日本は戦争ばかりだった。
●闇市…‥‥都内、及びその近郊の国鉄(JR)の駅前には必ずあり、戦時中は駅周辺の建物は空襲爆撃の延焼防止の為、建物は取り壊されこれを当時は建物疎開といっていた。建物にロープをかけ人力で倒す、この時代、疎開は人だけではなかった。駅前は、それが戦後の”闇市”広場となる。下町の大空襲で焼け出され小岩に避難生活していた頃で小岩駅前の駅前通り(現フラワーロード)が小岩の闇市通リであった。煮炊きしたものはあまり見かけなかったが鍋・釜・しゃもじ・軍隊で使用していた軍靴・靴下・衣服などの復員兵が持ち帰った物等の新品中古は問わず、他にするめ・ふかし芋、野菜類など、統制令の徹底で米・麦・等はさすが店頭にないけれど、一寸横丁の路地に入ったしもた家(普通の民家の事でこれも今や死語)等で、知り合いの家庭には醤油や、やたらショッパイ味噌・軍隊で使用していた濃縮醤油がもちろんヤミ値で分けてもらえた。店を出さずにヤミ屋をやっていたのである。大宅壮一がTVの発展時に唱えた「一億総白痴化」ではないが「一億総ヤミ屋」であった。
●我が家も市川に居た酒屋さんからヤミ醤油を週5・6本仕入れ母は弟を背負い、綿入りのねんねこ半天の大き目の袂に1升瓶2本を隠し持ち、私も学校カバン(旧軍隊のヤミで買った払い下げ物)にヤミ醤油を隠しもって小岩ー市川間の千葉街道に架かる江戸川の市川橋を渡った。踏切りと同じゲイトがあり警官の検査と検問に時々遭遇したがいつも巧くパス、両親曰く「子供や子供連れは…検問の対象にしていない…子供連れは捕まらない」といっていたので何時も私が同行していた。よって私も醬油のヤミ屋の一員で、手助けをしていた事になる。醤油は知り合いの注文があって仕入れに行くので在庫はせず、ヤミ市場で捌く事はなかった。当時のクラス仲間のA君が「うちの父ちゃん、時々ヤミ市でロウソク売ってんだ」と言い見に行った事があった。どこで仕入れたのか、A君の母の実家が埼玉在のお寺の娘だったんだと後のクラス同窓会で聞いた。仏壇用の5㎝位のロウソクを5本に束ね3束で10円で売っていた憶えがある。当時は夜間の停電は日常でロウソクは貴重品だった。ある日”卵”を売っているのを私が見つけ急遽母に教えて母が駆けつけてよく見てみるとそれはピンポン玉だった。このエピソードは母が亡くなるまでよく笑いながら喋っていたのを思い出す。卓球用のピンポン玉が卵に見えてしまった悲しい思い出である。
●都内の大きい闇市で有名だったのは新橋、新宿、渋谷、上野あたりでその後の渋谷などを含め戦前の悪質な香具師などが進出、身寄りもなく帰る処のない復員兵(軍隊の帰還兵)や予科練崩れの輩などを組員にして一家をなしたヤクザ組織が多かった。今も渋谷・新宿辺りに「〇〇横丁」と言う狭い路地の飲み屋街があるがその殆どが当時のヤミ市の名残の土地だろうか。上野の「アメ横」のルーツもここにあるが、その後の健全な連帯意識と組織を築き上げ庶民に親しまれて築地の場外市場の賑わいに負けない、築地にはない「なんでもあり」の賑わいがある。
●駅前を走るジープを見付ければ「ギブミーチョコレイト!」と叫びながら友人とジープを追いかけたあの日、昭和21年頃の小学校4・5年生の頃の自分の風景である。いつも一緒にジープを追っかけていた同輩のM君が米兵が投げたチョコレートを食べ乍ら「アメリカはこんな旨い物喰ってりゃ戦争に勝つョ」と言った。正にそのとうりで頷ける、今に思えば正論だった。戦争は酷いもの、戦後もまた酷いものだった。
77歳7ヶ月 29期 土方敏之 2021年3月投稿
老いとは 筋肉が無くなり踏ん張りが効かなくなることか 物事を考えられなくなる事か 視野が狭くなる事か ひとりで生活できる事か 今朝はそんな事を考え、また眠ってしまい、起きるのが1時間遅くなってしまった。確かに筋肉のない状態は腕を曲げてもこぶはできないしお知りのソフトさも触ると感じる。反応も遅いし出来ない時がある。
考えるのもじっくり考えないで答えを出してしまう。口が先に反応してしまう。新聞を読んで何がどうなっているのか突き詰めていこうと思っても、題だけで中に突き進めない。
ひとりで生活する 時間とすることを大雑把に考えると出来るとなる。朝起きて掃除、洗濯、朝食、新聞を読み、今日一日の計画、昼食、3時のコーヒータイム、夕食(飲んで食べるので時間は1時間)、夕刊を読んでテレビを観て寝る。これはこれで良いと思う。しかし、これを続けることは耐えられない。食事の中身が問題だ。朝は夕食の残りか昼はパンか 夕食は身体の事を考えると野菜と魚と肉の料理。出来ない やはり妻に もう少し生きていて貰うしかない。となる。
1 我が街 船橋を歩く―船橋のご紹介(1)― 29期 仲田元昭 2021年2月投稿
街歩きのご案内に入る前に、船橋の魅力、歴史を2回にわたりご紹介致します。
船橋市は、人口64万人を超える千葉県で初の中核市となり東京から約20km、総武快速線にて25分と近く、首都圏の通勤圏として昭和30年代後半より人口が増加した、歴史ある自然溢れる今でも首都近郊で江戸時代より唯一漁業がおこなわれている街です。
住宅街、農業、漁業、商工業とバランスよく融合した、首都圏で若い方が是非住みたい街のトップになったことのある街(民間の調査機関)でもあります。
最近、市内で開発された約1500世帯の「森のシティ」住宅街が(AGC-旧旭硝子-船橋工場跡地)、平成28年世界で
初めて国連が提唱する「エコカルティ」認証制度(環境配慮型住宅地区)を受賞しました。
この住宅街は、電柱を地下に埋蔵し高さ11階建てに統一、景観・省資源・環境に配慮した街で、船橋市の駅北部の工業地帯が素敵な住宅街・商業施設へと変身中の、歴史の詰まった魅力ある街です。
「灯明台 (県指定有形文化財)」 (船橋大神宮境内 明治13年建造 当時最新鋭の官営の私設灯台)

「2 我が街 船橋を歩く―船橋の歴史(2)―」に続く
2021-1-25寄稿
戯言&独言5 「預金封鎖」 21期 髙野 昇 2021年2月投稿

君達は[戦後]を知っていますか(その1)
▼食糧難・買出し・預金封鎖・ヤミ市…日本の最も長かったあの苦難の五年間、常識や良識が全く通じなかった時代。しかし昭和31年の経済白書の序文に「もう戦後ではない」と書かれ、当時の流行語にもなっていた。昭和25年からの朝鮮戦争による特需で戦後の復興政策から一歩前にでた様子を言っていたのか。「あの時代はもう忘れろ」と国民に無理強いしているとしか私には受け取れなかった。
●超インフレ‥‥食糧難と同時に襲ってきたのが天井知らずのインフレだ。戦時中に費やした膨大な軍事費、戦勝国への賠償などで超貧乏国に陥ったので当然のインフレとなる。終戦一年後、当時父がメモ的に書いた家計簿を兄達と子供心にチラッとみた事があったが、(我が家は7人家族)兄の計算では支出が1ヵ月720円とあった。貨幣価値など知らぬ私が判る訳もなく、親にどの程度の余裕や郵便貯金があったのか知る能力も予知もなかったが長兄だけは少し行く末に不安をもっていたようだ。当時兄は三商4年生(16期)で、後に公認会計士になった素地があったんだなと後年思った次第である。PCで当時の物価を調べてみるとリンゴが2個10円、大根1本8円、‥等々、煙草のピースが7円でただし販売は日曜日・休日のみ、ガソリン1Lが1円20銭、国家公務員初任給大卒で540円、ただし首相は3000円、議員1500円とあり国鉄(JR)初乗りが20銭(一円の五分の一)とある。煙草愛煙家はトウモロコシの毛を乾燥し英和辞典のインディアンペーパーのページを破きそれに巻いて手製の巻煙草を作り喫っていた。捨てられた”吸い殻”はそれを拾い集め寄せ集めのヤミ煙草を作りヤミ市などで再販、棒の先に針をくくり”吸い殻”拾いの専門の輩もいた。
●預金の封鎖‥‥終戦半年後、突然各自の個人預金が封鎖された。ほとんど貯金もなく、父はかっての食料品店の縁で醤油統制会社の配給関係の仕事で僅かな給与を貰っていたが、なんせ7人家族、兄2人は三商の中学生(当時は旧制5年制)で零細な僅かの預金での食いつなぎの中での突然の預金封鎖で自由に引き出せない非常事態が発生した。旧紙幣の使用期間は一か月のみ、その為各人は手元の10円以上の紙幣は全て口座に入れ新紙幣で引き出す。その間の生活費は1世帯500円、1人ではなく1世帯500円であったと思う。この寝耳に水の発令で、預金封鎖は政府がその後の「新円切替え」を半年後と決めた為で、しかし新円紙幣印刷が間に合わず止むをえず旧紙幣に切手の様なシールを貼る緊急手段をとった。父はわずかばかりの手持ちの紙幣を握りしめ小岩駅前に有った当時の「国民貯蓄銀行」に駆けつけ長蛇の列と待ち時間の洗礼の中、持ち込み紙幣の100円札枚数と同じ数のシールをうどん粉の糊と唾でベタベタと舐めながら母と二人で旧紙幣に張っていた様子をボンヤリと眺めていた。
●新円切り替え‥‥なにゆえの新円切り替えだったのか。旧紙幣が使えなくなるので全ての現金が強制的に金融機関に預け入れられ、これにより流通紙幣全てを把握、代用のシールを相当分の旧紙幣に貼る、有価証券、保険契約などの紙幣に表せないものは税務署に届ける事が義務付けられるなど、この政策により国民の財産のほとんどを国が把握できる事になる。この短期的な暴虚は酷いもの、はたまた止む負えない政策だったのか、GHQの陰の影響もあったろうが時の首相幣原喜重郎に乞われての当時の渋沢大蔵大臣(渋沢栄一の孫)の苦慮・苦痛はいかばかりか、のちの資料を読むと彼は若い頃より民俗学に才長け,多くの後輩に知的、経済的な援助を惜しまず民俗学の維持、発展などに寄与していたという。そして今彼の祖父渋沢栄一が新紙幣の肖像に登場する時代となった。
●‥‥写真の新10円札の図柄は他の新紙幣の図柄と違い「米国」と読めると皮肉られたが、案外GHQの指示と思われてならない。写真の100円札は旧紙幣で新札の印刷が間に合わず旧紙幣の右上にシールを貼って一時しのぎ。新札は民間の印刷会社に依頼した為紙幣独自の「透かし」が入らずニセ札が出回ったとの噂もあった。
77歳6ヶ月 29期 土方敏之 2021年2月投稿
風が冷たくなりました。お元気ですか。
近頃は午前1時半頃目が覚めて、それからは眠っているのか夢を見ているのかわからないが、昔の事が毎日頭の中に浮かんでくる。築地市場で海老の仲卸業をしていた父の代の時、私が18~20歳の頃に勤めていた人と一緒に仕事をしている在り様とか、もっと前の青空市場のような場所で配達している姿とか、店に戻る歩きとか、4・5年前の働いている様子まで5時に起きるまで続いている。
これらが何を意味するのか解らないけれど、以前には、母親の実家のそばのドブ川を魚がたくさん泳いでいる場面とか、を見たこともあった。
今は、暗くて狭い場所に人がいる時は行かないようにしている。逆に花が咲いてきれいな場所にも行かないようにしている。今朝は覚えていない。
「我が街 船橋を歩く」連載に当たって(1) 29期 仲田元昭 2021年1月投稿
2020-12-28 29期 仲田元昭
29期の仲田元昭と申します。同窓会の総務をご担当の土方さんと同期です。
自己紹介です。小生は、財閥系総合電機企業に定年まで勤務し、その後これまでの経験を活かし、経済産業省のマネジメントメンター制度に登録し、昨年まで多くの中小企業様の経営改善に取り組んでまいりました。
同時に、平成26年度に「ふなばし市民大学校マイスター学科」(先輩講師の講座もあり受講、後で判明、世間は狭いものです。)を修了し、その後、船橋市観光協会の「街歩きスクール」で1年間、計2年間勉強し、平成28年4月に「ふるさと案内マイスター」の認証を頂き、現在船橋の歴史、文化、産業遺産等の魅力を市民や周辺の県民の皆様にご紹介すべく、ボランティアガイドをしております。
そこで、船橋の魅力を同窓会の皆様にもご紹介したく、「我が街 船橋を歩く」の投稿を考えている旨、事務局にご相談しましたら、是非連載で投稿願いたいとのご依頼を頂きました。
船橋には、小生が承知しているだけでも、医師、経営者、上場企業役員、大企業管理者等々で活躍された、先輩・同期生・後輩数十名の同窓生が暮らしていると聞いております。
船橋は、徳川将軍家と拘わりの深い街で、江戸時代初期、今から400年程前の元和元年(1615)11月25日に徳川家康公が、東金方面への鷹狩の帰りに千葉県で最後に宿泊した船橋御殿があった街です。
また、江戸時代中期には、江戸の庶民に広がった成田詣の宿場町としても栄え、幕末には、江戸城無血開城後の戊辰戦争の最初の戦い「市川・船橋戦争」があった街でもあり、多くの歴史の詰まった魅力ある街です。
それでは、次回より何回かのシリーズに分けて船橋の歴史、文化、神社仏閣等のご案内をさせていただきます。
同窓会の皆様にとって、船橋の魅力再発見になれば幸いでございます。
次回は「我が街 船橋を歩くー船橋の歴史(2)―」
戯言&独言4 21期 髙野 昇 2021年1月投稿


NHKの朝ドラ「エール」が終わった。回を重ねるごとに関心を持ち一部フィクションとはいえこの年齢の同輩、先輩諸兄には馴染みの作曲家古関裕而の話。中学生の頃神宮球場に六大学野球をよく見に行っていた頃、早大の応援席に座りながら唄っていた「紺碧の空」が古関の作曲と知ったのは早実の荒木大輔が活躍したいた頃だった。
長男が早大に入学、早慶・早明戦を一緒に観にゆくごとにチャンスに奏でるこのメロディーはいつも新鮮、雄大、快活で軽快、心躍るマーチ。戦時中の学童疎開中に散々歌った、歌わされた「露営の歌」「暁に祈る」「予科練の歌」などもそうだった。戦意高揚の曲ではあったが故国、ふる里、親や子への思いの郷愁と哀愁があのメロディーにこもられていた。不思議なことにこれらの曲は前奏から全て口ずさめるのはなぜだろうか。戦後の「長崎の鐘」を作詞した詩人のサトウ・ハチローが晩年語っていたが「戦後の”リンゴの唄”やこの”長崎の鐘”そして”ちいさい秋みつけた”のこの3つが詩人として自慢できるものである」と文学誌に書いていた。永井博士の「この子を残して」と言う長文の随筆は中学生の時、担任のK先生が読んで聞かせてくれ、クラスメイトの殆どが泣いてしまった思い出がある。
戦中時から放射線の無限の恐ろしさと平和利用を研究し、被爆以前から研究の為に自ら白血病となり、皮肉にも長崎原爆を浴び二人の子を残し1951年に他界。戦争による放射能の使用、被爆はどんなに無念だったことか。亡くなるまで寝起きしていた「如己堂(にょこどう」は現存している。古関の集大成としての「オリンピックマーチ」の素晴らしさ、NHKの番組の数々のテーマ曲、ラジオの「昼の憩い」や森繁久弥、加藤道子の語り口による「日曜名作座」、スポーツ放送のテーマ曲。高校野球を機会あるたびに観ているとついあの「栄冠は君に輝く」を口ずさむのは私だけだろうか。二番目の孫が都代表として二度甲子園に行った公立校に入学、文武両立を目指し野球部に入り、そんな事もあり偶然とはいえ嬉しく思い「エール」を見ていた。””投球に、打球にこめて、青春の賛歌を連ね””いい歌、いいメロディーだ。古関のオリンピックマーチが轟く国立競技場の入場行進の中に先輩出町豊氏(20期)も居たはずでこれもまた感無量である。
77歳5ヶ月 29期 土方敏之 2021年1月投稿
1月5日 心友、柳田保之が他界した。高校生活はほとんど一緒だった。毎朝彼はあんこを配達して学校へ。私は家から学校へ。そこだけが違っていた。放課後は写真部で暗室に入って写真の現像や引き伸ばしをやっていた。定時制の学生が帰っても暗室にいたことも多々あった。卒業してからは同期会開催の準備を2人でやった。そこで生まれたのが記念誌の「石壮」だ。在学時の校長先生が石田壮吉先生なので「石壮」とつけた。なるべく遠くに居る同期生の原稿を載せようとか気になる同期生を載せようとか、言いながら組んで最初は鉄筆の謄写版刷りで発行。次は同期生の印刷屋さんに頼んだりしたが、同期会の幹事を各クラス代表に任せようということになり、2人も8組なので、8組(三盛会)の代表に任せようと幹事から離れた。それから「石壮」も廃刊となってしまった。結婚してからも家族旅行や飲みに行ったりした。ここ2年位あまり行き来が無くなっていたがまた、皆で集まろうということになり、昨年花見会を開催する事を計画していたが、新型コロナウイルスの影響で、いつやるか、いつやるかと身構えていた。ところに訃報が知らされた。今日1月7日泉沢と駆けつけた。きれいな顔だった。 ありがとう青春時代から後期高齢者時代まで 俺はあと20年生きたいな 俺を呼ばないでそちらで友をさがして楽しんでください さようなら
戯言&独言 21期 髙野 昇 2020年12月投稿


▼コロナ禍の中、高齢者は家籠り、巣籠りが一番の安全策とはいえ病院への定期通院や買い物は最低限度の日常には欠かせない。パソコンは多少手懐けてもゲームをやる訳でもなく、長い時間は目にも悪くせいぜい一日延べ2時間までとし、数少ないメル友に時おりメール、そんな中、週1ペースでメールのやり取りをしていた盟友細田武君が突然に黄泉に召され私は今もかなり落ち込んでいる。彼の寄稿が「同窓会HP」から消えるのも悲しい事である。合掌
お笑い芸人が本芸も見せずに楽屋話でTVに出、何処の局も同じ様な似たり拠ったりの顔ぶれのひな壇番組バラエティーばかりだ。これといったテーマもなくお笑いタレント(ほとんど名も顔も知らない連中ばかり)を集め身内の話がほとんどである。少し売れたタレントになるとニュース番組のコメンテイターに出世か?少し名前と顔が売れるとニュースショーに、ひな壇から横並びの番組に出始める。そしてやたら食べる内容の番組、大食いの自慢番組、世界中に貧困と飢えに苦しむ人々の多い中「ユニセフ」のコマーシャルでも見て欲しい。コロナ禍の中、製作局が苦しいのは理解してももう少し頭を使って欲しいものだ。
貧な壇(ひな壇)に整列・・・食いが自慢か?
東大現役や卒業生がクイズ王で出ずっぱり、彼等は公費の大学にいて設備、環境にも恵まれ学費も私立大より安く、だったらもう少し社会全体に役立つ知識と教養を身に付けるべきでクイズが出来ても、君の人生になんぼの人間的価値になるのか。こんな東大生に国庫の費用を使うべきか疑問だ。TVをONにすれば遠慮会釈なく入り込む番組、CSの有料番組ならともかく、TV局はタレントの意味のない会話番組を作る時TV画面の前には計り知れない無数の視聴者が居る事を忘れず、出演者、司会者だけが笑いつまらぬ発言に手を叩き笑いこける、視聴者無視の典型でもある。
▼50数年前、評論家の大宅壮一氏(大宅映子氏の父)がTV局とTV台数の爆発的な普及を皮肉って「一億総白痴化が始まる」と言った。今思えば言いえており私自身を含めて「当たらずと言えども遠からず」の感が今更のごとく甦る。大宅氏は他にも各都道府県に存在し始めた国公立大学を「駅弁を売る駅に大学あり」と唱え「駅弁大学」なる言葉を発した。「男の顔は履歴書」とも言った事があり、藤本義一氏が「女の顔は請求書」といって大宅氏が「君、俺より上手いこと言ったね」と握手したとか。「恐妻」「口コミ」「太陽族」なども大宅氏独特の発言から出た名・迷?熟語らしい。
▼戯言笑文‥‥「スマホを離せないのが18歳、クスリを離せないのが81歳」
77歳4ヶ月 29期 土方敏之 2020年12月投稿
近頃なんとなく気が向かないというかテキパキと事を片付けられない。一歩引いてしまう。新型コロナウイルスの影響か、周りを包まれている感じがする。それとも目標がないからか、年末になり、来年の目標を決める時期なのに。車は来年2月に車検満了日がくるのに、継続して乗るにはもう10年乗っているので大丈夫か、免許は3年間あるので新車にした方が良いのか、等々迷う。早くこのモヤモヤが消えてくれれば、包まれて閉じ込められている中から出られれば。
自分一人で考えるから駄目だ。スズキ自販に相談して決めることにする。これで進める。
戯言&独言「上野駅とその周辺の思い出」 21期 髙野 昇 2020年11月投稿

上野駅は北の玄関、終着駅の名にふさわしい駅舎と構内。かつては上野駅には啄木が『ふるさとの訛懐かし停車場の人込みの中にそを聴きに行く』と謳った雰囲気があり長距離夜行列車の終着駅だった。今は夜行列車もなくなり新幹線の終点でもなく、「カシオペア」もダイヤから消え始発を見送る「鉄チャン」の姿も数少なくなってしまった。戦前の幼少時、山下口を出て西郷像を見ながら動物園に行ったこと、従兄達と帝室博物館に行き仏像やら鎧兜を見ているうちに頭が痛くなり幼児には仏像などただ怖い代物で兄が葭簀張りの出店でサイダーを買ってくれた思い出がある。
戦後昭和21年、母に連れられアメ横に買い物に行き山下口の地下道を出る数メートル手前の戦災孤児の群れの中に集団疎開前に別かれた友人のK君がいた。目と目が一瞬合った瞬間彼も分かったのだろう彼の鋭い目線が頬に鋭く刺さった。髪は伸びズタズタの着衣を纏い、それに反し母と手を繋いで彼の前を歩く小生、孤児となっていたK君、彼は縁故疎開に行ったのか東京に残っていたか学童疎開のメンバーには居なかった。疎開の10日くらい前に彼を交えて数人と砂町の「仙気稲荷」にザリガニを獲りに行っていた。NHKの特集で「戦争孤児」の番組があったが泪が溢れまともに見る事が出来ず、今もあの地下道は歩けない。上野は孤児だけでなく、身内を亡くし職と食の無い人が自然と集まりその為犯罪も多かった筈だがそれを受け入れたのが上野の街、下町の人情と気っぷの良さが灰燼と化した上野の土にも浸み込んでいたのかも。アメ横は戦時中線路際と言う事で建物疎開で撤去されていたが、それ以前は人家の密集していた場所であった。芋から作ってアメを売っていたからか、アメリカ占領軍のPXから流れてきた品をヤミで売っていたからか、どちらにしても「アメ横」なる名は全国区となっている。上野の山の中に石作りの荘厳なこじんまりとした建物をご存知か。これは昭和初期に作られた「博物館動物園駅」の京成電鉄の地下駅の出入り口の名残。戦前は音大、美大、市立二中の通学生に利便な駅だったようだが戦後昭和60年代に閉鎖、最後の利用者は年間167人、戦時中は陸軍の通信基地の一部として使用、路線は閉鎖されていたと記録にあった。ちなみに日暮里寄りには「寛永寺坂」なる駅もあって両駅のホームは現存している。上野界隈えの数々の思いはきりがない。精養軒のカレーがライスとルウーが別々に出てきて驚いたこと、池之端の伊豆栄の鰻のタレの匂い、ミロのビーナスや正倉院御物展を見たときの感動など忘れられない。様々な思いと悲しさを思い出させる上野である。
▼添付写真 「博物館動物園駅」恩賜公園内なので荘厳さを貴ぶ駅出入り口。都選定歴史的建造物
旅の徒然に・閑話休題2 21期 黒子 晃 2020年11月投稿



フィレンツェで
同行のO氏と3人でレストランに入り夕食前に軽く一杯やろうということになり、テラス席に陣取りました。ウエイターが注文を取りに来たので、烏賊の炒め物が旨そうだねと覚えたてのイタリア語でカラマロ・カラマーリと連発しましたが、ウエイターは首をかしげて「そんなの無いよ」と言っているようです。しばらく押し問答をした挙句、ちょうど別のテーブルに烏賊の料理が運ばれるのを見て「アレだ!あれだよ」とやりましたら、こちらのウエイターが我々に尋ねていたのは料理ではなく、飲み物を何にするかを聞いていたので「烏賊」印のワインなんか聞いたことがないよといっていたのでした。それが分かって皆で大笑いとなりました。
ポルトガルの漁村で
ポルトガルの鄙びた漁村での昼食時、あら懐かしや・・イワシの塩焼きが巨大なプレ-トで運ばれてきました。岩塩をパラパラと降っただけの誠にシンプルなものでしたが、われらが幼少のころから馴染んできたそのままの味!ついつい4尾も食べてしまいました。
日本から醤油などの調味料を持参する人も多いですが、この時ばかりは大根おろしと酢橘があったらなア・・といささか残念な思いをしました。その時は大根おろしのチューブ入りなど有るとは思っていなかったのですが、帰国してみると結構近所のスーパーに有るではありませんか、さすがに酢橘の果汁は見かけませんでしたが、ゆずとかレモンの濃縮還元果汁の小さなポットを見かけました。ポルトガルにお出かけの際はぜひお持ちになるようお勧めします。

地中海のムール貝
地中海の周りの国々ではどこへ行ってもムール貝がよく食べられています。
ガーリック風味のワイン蒸しのムール貝がワインクーラーと同じ位の大きさのバケツに山盛りで出てきます。それがどうやら1人前らしく、最初の1個はフォークで身を取り出しますが2個目以降は1個目の殻をピンセットのように使ってバクバクとむさぼります。そして殻をお皿にどんどん積み上げていきます。しかしひょっと気が付きました。我々日本人のグループのテーブルにはムール貝そのものはお皿に盛ってあり、反対にバケツが殻入れになっているではありませんか。
ハハア日本人はみんな食べきれないで残すのでこういう方式にしたんだなあと無理やり納得しました。 (本当かどうかは分かりません)

ウイーンの中央墓地で
映画「第三の男」のラストシーンが印象的なウイーンの中央墓地のベンチで一休みしているところへ、ひょこひょこと現れた烏に彼女が呼びかけました。
「ひょっとしてあなたアントン・カラスさん?」
お後が宜しいようで・・・。
2010.9.11.
栃木市大平町新1503-25
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URL : http://clocko.web.fc2.com/
77歳3ヶ月 29期 土方敏之 2020年11月投稿
風が冷たくなりました。お元気ですか。
私は夜寝る支度をする時の換気ドアの開け閉めをやめました。シーツの上に枕を3つ、1つは頭の位置に、1つは背の下に、1つは足の下に置きます。そして上に毛布を掛け、その上に薄い掛けふとんを掛けて寝ます。そうすることによって今までは何ともなかったのに、今は肩が寒くて毛布を念入りに掛けても気になります。
もう一つやることがあります。掛けふとんの上に仰向けになって足を上に上げ、頭の先に伸ばします。そして50を数え終わると仰向けに戻り足先を上げて50を数え、うつぶせになって腕をたて背を曲げ30を数え、仰向けになって足先を手前に両手を頭の脇に、息を吸って行い、両手と足先を戻すと同時に息をはきます。これも30数えて寝ます。お休みなさい~
同期 細田武君の黄泉路(よみじ)への旅立ち 21期 髙野 昇 2020年10月投稿
■本年3月に発信された同窓会ホームページ(以後HPと記す)に彼が寄稿した「文学散歩を兼ね、神田川に沿った観桜散歩」とした内容の文が最後となりました。観桜に行ったのは前年の春で、私も誘われ同行し、三ノ輪から都電に乗り近在の年輩の方々を中心に面影橋から椿山荘近くまで二人で語り歩き、思えばこれが彼と外出した最後の日でした。すでに本年1月、2月のHPで「骨髄性症候群」「血液ガン」になっていることを寄稿されていました。前年5月頃からの近くの「永寿会上野病院」で入退院の治療を受け、コロナ禍の以前に「寛解」と担当医からうけていました。何度かご自宅にも伺い、PC上のメールのやり取りも欠かさず、HPへの寄稿は「コロナ禍中は止めようぜ」など話していました。
■通夜はこんな時期でもあり家族葬でしたが記帳台机の正面に三商在校中卒業を目前に控えた昭和29年2月、私が撮った彼の若き日の写真が飾られており、「この写真、すごく気にいっていたんですよ」と奥様から言われ泪が溢れなにも申し上げることも出来ませんでした。地域の人に愛され、地元の子供や同輩に親しまれ、下町の良き風習文化にも蘊蓄を語り、家族葬とはいえ沢山の人が焼香に訪れていたのをみて、彼の人望に改めて感動しご冥福を祈りました。 合掌


77歳2ヶ月 29期 土方敏之 2020年10月投稿
先日、洗面台の配水管が錆びて管が二つに割れていた。周りにたくさんの品物が詰まっている。修理の為全部出した。2時間半かけて水道業者はパイプを取り換えた。それから周りを掃除して開けっ放しにして乾燥させた。中に入っていた品物を風呂場に並べてシャワーをかけて洗い、拭いて風呂のふたの上に並べておいた。
翌日、となりの扉を開けてみた。やはり品物がいっぱい入っている。下を見ると濡れている。仕方なく全部出して、風呂場に並べ又シャワーで洗い流し、拭いて風呂のふたの上に並べた。そして扉の中を掃除して開けっ放しにして乾燥させた。こうして風呂のふたの上に並べて置いた品物は、パイプのところには入れられないので、せっかく綺麗にしたのにとなりの扉の中に残す物のみ入れて、後は捨てることにした。
今日は、台所の水周りの点検を行うつもりだが、家の中にある30年間のごみを少しずつ整理することになりそうだ。いつのまにかそんな年になってしまったのか。
七十七歳の思い出 29期 土方敏之 2020年9月投稿
昭和18年8月7日に生まれる。今年で77歳となった。今の自分は、身体についてみると頭の部分は、4年前に酔って風呂に入って転んで頭を打った部分が時々何か少し痛いような。顔の部分は、口の中の歯と唇が近づいたような。胃は、慢性の胃炎で、落ち着かないというか胃酸が多いというか、ゲップで苦みを感じる時がある。腹は、右の脇腹真ん中よりが、ツルような感じがする時がある。腸は、便通は良いので時々さすると気持ち良い。足は、すくっと立てない、立ち続けられないでブレル時がある。歩く時もシャキッ感がない時がある。(右足と左足のカカトをくっつけ90度に開脚すると直る)手は、右小指と薬指にシビレ感がある。特に小指はずうっとある。右ひじは、顔を洗う時痛くなるので気をつけている。
これから20年生きていくにはどうなるのか!生まれてから20歳までは、親と一緒に生活してきた。今は、妻と二人の生活。これから一人の生活を考えなければならないとすると、共同生活から赤ん坊になる道を歩むことになるのか!77歳―高校生―中学生―小学生―幼児―死。
同窓生の皆様!ホームページを通じて発信しましょう!(こんな事でも話題になるかも。)
旅の徒然・閑話休題 21期 黒子 晃 2020年9月投稿

トルコで
イスタンブールでオトウサン(otosan)とか、カアサン(carsan)とかいうエンブレムがフェンダーや後部についている車が走り回っています。私の他には誰も気が付いていません。
otoは英語のautoで carは英語と同じと見当がつきますがsanはサテ?
現地のトルコ人ガイドのお姉さんにsanとは何かと聞きました。
「あアそれ、さんぎょうのサンです」と。まさかア・・。
トルコ語のサンが日本語の「産業のサン」であろう筈がないじゃありませんか!
このガイド「アイシャさん」は日本へ行ったことはないと言いながら、日本語はペラペラ。休憩時間に日本語で世間話ができる程。彼女は申し訳ないが(もちろん直接口に出すこともできないが)いわゆる「花王石鹸」顔なのです。「妹は私のことを『魔法使いのお婆さん』とからかいます」と自ら言っていました。
その彼女の言ではありますが、トルコ語のsanが「産業のサン」であるということはあり得ない。話がややこしくなるのを避けて、その場はそのままにして、帰国後調べてみました。
その結果トルコ語のSanaiが産業であり、sanはその短縮形であることが判明し、ひとりで大笑いしてしまいました。
パリで
車と言えば、パリの街角で駐車している車に「MEGANE」を見つけました。まさか「眼鏡」ではあるまいとは思いましたが・・。
帰国後日本でも結構走っているのがわかりました。ルノーの「メガーヌ」という車種だったのでした。これも一人で笑っちゃいました。
リトアニアで
バルト3国のリトアニアの名産品に琥珀があります。琥珀の博物館で「GINTARO」という表示をあちこちで見かけました。「銀太郎」かア・・。と何とも不思議な感覚を覚えました。
Gintaroとはリトアニア語で琥珀のことだと帰国後調べがつきました。
こちらも一人で笑っちゃった口の一つです。
それにしてもこんなことがいとも簡単に調べられるWikipediaには脱帽!
その昔、高嶺の花・垂涎の的だったEncyclopedia Britannicaを絶版に追い込み、オークションでも数千円にしか値が付かなくなるご時世。
IT, ICT, IoT万歳!
続きは http://clocko.web.fc2.com/
でご笑覧下さい。
Mail to akirakuroko@hotmail.co.jp

あなたから私へ 愛のメッセージを 29期 土方敏之 2020年7月投稿
あなたから私へ 同窓会のホームページで会いましょう!
私たちの身近な連絡手段として、このホームページを利用しましょう!
私からあなたへのメッセージ あなたから私へのメッセージ
私の考えていること、思っていること、お知らせしたいこと、等々
自由に思いを交信しましょう。このホームページで毎月お会いしましょう!
メッセージはメール、FAXなどで事務局までお送りください。
毎月更新しているホームページですので、新しいニュースは早めにあなたへお伝えしたい。
ひ孫 26期 岩瀬和子 2020年7月投稿
私は七月で八十歳になります。上の階に娘とその長女、次女の家族が一緒に住んでいます。長女に昨年10月男の子が産まれました。綺一(あやと)です。そして今年の一月次女にも男の子が産まれました。愛翔(あいる)です。昼間はどちらかの部屋ですごしていますので、遊んでいる声が聞こえると戸を開けて覗いてみます。長女が「何の用、ひまつぶしにきたの?」とじゃま者扱いしますが、上のひ孫は這って私の所へきて、つかまり立ちをして、はねたりして満面の笑みをうかべ、何かぶちゅぶちゅ云っています。下のひ孫は、つかまり立ちが出来ないので、這って来て、にこにこ笑っています。
私は昔から子供の泣き声がいやで、ひ孫が泣いたりするとどうしたのか気になって仕方がありませんが、孫達は「いいのよほっておいて、ねむいんだから」と云って平気です。 外で小さい子を見ると家のひ孫様達もああなるのかなと思わず見入ってしまいます。
娘は一人、孫達は三人家族です。それに猫が九匹。先日猫が一匹死にましたので九匹になりました。リビングに五匹、娘の部屋に四匹、外へ出ないように網戸はステンレスにしてあります。皆孫達が瑞江にいる時拾った猫達です。私の所にも四匹あずかったんですが二匹死に、今は二匹います。孫達の部屋へ入らないよう気を付けています。ひ孫達はこわがりませんが、毛がつくので孫達がいやがります。死ぬとすぐ回向院へつれて行きます。今迄に犬五匹、猫六匹が葬られています。娘と孫達が月参りしています。
「本物の八百屋」野本要二さんが勲章をゲット!! 26期 古田勝一 2020年6月投稿

「生涯青春であり続けたい」との願いから毎年開催して参りました26期同期会も「令和元年」の昨年は通算30回を数え…卒業60周年も重なり、上野の「東天紅」で催すことが出来ました。当日は全商理事長でも居られる母校三商の中山博之校長先生の御臨席を賜り、又、金原亭馬生師匠にも華を添えていただき、記念すべき同期会となりました。
今年も31回目の同期会を六月に開催すべく、当番幹事の二組が中心となり進めて参りましたが、新型コロナ感染拡大に伴い中止せざるを得ませんでした。その後の同期への連絡は早く、政府が緊急事態宣言を発令する一ヶ月前には、岩瀬和子・前同窓会長、杉本光男・事務局長の御尽力で「中止のお知らせ」を発送完了することが出来ました。
オット!!話がアト・サキになりゴメンナサイ…
本題に入らせていただきます。
私共26期の野本要二さん(東京都青果物商業協同組合・前理事長/全国青果物商業協同組合連合会・直前会長)が令和元年・秋の叙勲に於いて「勲四等旭日小綬章」なる大変位の高い勲章を受章されました。(勲章の種類:「菊花章」「桐花章」「旭日章」「瑞宝章」「文化勲章」「宝冠章」)
三商は全国的に簿記・珠算の名門校でしたので、「そろばん」の腕に覚えがある人は沢山おります。又、「そろばん日本一!!」も何人か輩出しております。
野本さんは日本商工会議所の珠算検定・一級を小学生で既に取得しており、そろばんの得意な少年でした。この暗算力の特技は後に八百屋になってから大変役立ったと聞いています。
三商時代は野球部(ポジション:サード)で青春を謳歌し、1959年卒業と同時に「八百周」に就職。
この「八百周」は数店舗経営する家業の八百屋さんです。スタートは江東区東陽三丁目。人通りの多い交差点に面したお店で、その傍ら月に数回、車で東雲団地へ向かい出張販売もこなすと云うものでした。
まず野本さんは、街の八百屋の利点を生かし繁盛店になるには…と熟慮分析し、次の三つの基本コンセプトで行くと戦略を詰めました。
一、他店との差別化を図る上からも、店頭に「青果物よろず相談所」を開設
一、八百屋の力量は仕入れる野菜の目利きに掛かっている
一、対面販売では明るい笑顔と楽しい会話でコミュニケーションを図る
スーパーマーケットは(ヒト・モノ・カネの)経営資源は大きいかも知れないが、同じ品質のものを大量に仕入れる必要性が有る。八百屋は小回りが利くので大量に仕入れる必要が無い。その分、より品揃えも魅力的な根付き野菜等も扱うことが出来る…
店頭や出張販売を重ねて行く中で、
・野菜の良し悪しの見分け方
・いろいろな夏野菜の旬をタイムリーに伝える
・多種多様な野菜をおいしく食べるコツをアドバイス…等、
消費者と交わしたふれあいやヤリトリ、相談内容のアレコレの集大成として、1995年には『野菜相談うけたまわります』との本を出版。

(東京都青果物商業協同組合の)理事長に就任してからは、後継者育成の面から『八百屋塾』に力を注ぎました。
八百屋が扱う青果物は人間の体に入って命を作るもの。健康維持増進にいかに大切かを普及するには、八百屋自身がもっともっと青果物について詳しく勉強をし、野菜のプロになって欲しいとの願いから「八百屋塾」の研修会に力点を置いたのです。
ジャガイモを例にとると…北海道より生産者を講師に招く→ジャガイモのおいしい見分け方や生産者の想い等を学ぶ→実際に各品種の食べくらべをする。
(全国青果物商業協同組合連合会に於けるある会での)会長挨拶、一部抜粋…
【少子高齢化の進展で、消費者の購買行動が変化し、ネツトスーパーや電子商取引なども浸透しています。
会員は、消費者の購買行動の変化やeコマースの進展など青果小売業を取り巻く環境の変化を充分に踏まえて、マーケットイン志向による消費者視点で青果小売の専門性を発揮することが極めて肝要と考えています。
八百屋は魅力あるおいしいものを届ける『食べ物屋』で有りたいと思うのです。
例えば「イチゴ」なら、どのイチゴが自分に合うのか。又、このイチゴは色が薄いけれど、一日置いてみたらいい色・いい味になるとか…。そう云ったことをいろいろと研究しながら(中略)実際に自分で食べてみて、おいしさを知るべきだ、と思います。】
種をまいて肥料をやり、水をまき、芽が出てくるのを待とう…芽が出る前に焦ってほじくったら実りにはつながらない。
商売は「アキナイ」とも云います。店の売り上げが少しぐらい上下しても、飽きないで勉強をし仕事を果たすと云う揺るぎない誠実な行動力が有れば、必ず儲けは後から付いて来ます。
「正しい種まきをしていれば必ず成果(青果?)が出る」
野本会長は生鮮食料品の流通・市場の活性化・販売戦略の推進に尽力されました。
野菜に惚れた!!野菜大好き人間!!
叩き上げの本物の八百屋さんが受章されたことを26期の仲間としても誇りに思います。野本要二さん、本当にオメデトウ…そして有難うと感謝の気持ちで一杯です。

燦笑繁話35 新型コロナの文字が消えた 21期 細田武 2020年3月投稿

新型コロナの
文字が消えた
令和2年3月7日、朝日新聞の朝刊1面から[ 新型コロナ ]の大きな文字が消えた。なにか変です。先月投稿から1ケ月、インフルエンザとは違う蔓延の仕方で世界中を震撼させています。日本でも1、100人の罹患者、12の死者が出ているように可なりの蔓延である。世界中では10万人をこえ、強力さでは違うがかつてのスペイン風に匹敵する様だ。
思えば昨年の3月31日、校友の高野 昇兄と我がコミュニティの文学散歩を兼ねた神田川の観桜散歩が強く印象に残る。40人の会員と三ノ輪から都電に乗り 、面影橋から音羽の椿山荘までの川沿いの桜を愛でたものだ。
このとき体調の変化を感じたのだが多分歳のせいだろうぐらいに思った。100メートル歩くと呼吸が荒くなりちょい休みしたくなる⁉高野くんに大丈夫か⁉ユックリ行こうか🆘みたいな状態になったが会のこともあり最後まで頑張りました☺
さて、5月になり前にも書いたが定期検診により現在の🏥😷💉病気が発見され3月現在加療中です。家族、特に家内や子供たちの理解と協力、己に克つという強い気持ちを持ちつつ闘病してます。こうして毎月三商会報に投稿でき、月半が楽しみです。ああ 、楽しみと言えば月刊誌( 江戸楽 )の川柳投稿も楽しみです☀
2月号で[ 天 ]に選ばれました。お題は「 👹節分 」 👏 # 福は内我が家じゃ言えぬ鬼がいる 弁 慶
さて、新型コロナですが急遽決まった小中学校等の休学、各種スポーツ等の室内の観客動員による中止。年度末の会社関係の繁忙期の対応。インバウンドの減少によるホテル、飲食店等の減収による倒産。上野の山の桜の花見も中止。
前号にも印したリーマンショック以来どころか世界中での大不況が目の前に来そうです。オリンピック中止、延期で日本、東京都も5、6兆円の赤字。当たらないで欲しいです。安部の桜を見る会、今年だったら止めるかね😭
老朗好日-第七回- 公益財団法人日本相撲協会殿 大相撲に物申す ハッケヨイのこった残った 21期 髙野 昇 2020年3月投稿

第七回
公益財団法人日本相撲協会殿 大相撲に物申す
ハッケヨイのこった残った
▼この文が掲載れる頃は大阪場所の最中でお相撲さんも年6場所で平均4日に1回の本場所はきつい。平成の大横綱貴乃花親方のそれらを含めての"改革クーデター?"も一揆とならず退職、自らの弟子二人が暴力沙汰では今はともかく、いずれ「横綱だったそんな親方がいたナー」で終わるのは残念。彼の主張には一部賛同できても、その行動や不貞腐れたような態度には私は附いていけない。力士として人気抜群、平成の大横綱の名にふさわしいきちんとした発言、泰然自若とした説得力ある行動こそ他の若い親方衆の賛同を得られた筈で、協会改革の礎となって欲しかった。なのに、退職後とはいえかっての弟子の暴力沙汰で全てが帳消しとなった。改革を望むなら退職せず、若い親方たちと時間をかけての行動をとって欲しかった。実に残念でならない。旧態依然の姿と影を残す現協会の体質は、古来の神事、しきたり、縦組織、稽古に名を借りたイジメなど現代にそぐわない。令和の新時代を担う若手の奮起と併せて、協会の土俵上での勝負における疑問点と組織の再考など、これを機に少しでも変わっていくことを願っている。

▼ファンとしてまず納得できないのが勝負における「立ち合い」である。以前にもこの欄で書いたが、大相撲は結果として勝ち負けによって地位が変動し給与も変わってくる完全なプロスポーツである。立ち合いに不平等や不公平があってはならない。相手が完全な立ち合い姿勢に入っているのにゆっくりと背伸びをしたり、片手は膝の上に置いたままゆっくりと相手の出方を見、その手を瞬間的に土俵につけて立ち上がる。ある現役横綱はそれに徹している。そして名人横綱双葉山を尊敬しているなどとはおこがましい。どうみても公平な立ち合いではない。ある部屋の力士のほとんどが立ち合いのテンポが一貫して遅いのは部屋の指導がそうなっているのかと疑ってしまう。
▼時間いっぱいを行司が告げたら東西両者に両の拳を完全に土俵の土に着けさせる。それを行司と検査役(5人)6人の目で確認し、何らかの合図で立ち上がらせる。まさか「よーいドン!」とかブザー音はないまでも、軍配をかえすとか、大声で「よし!」と言うとか方法はいくらでも考えられる。これを実現させれば立ち合いの「まった」はなくなる。一場所数回の違反力士には何等かのペナルティを与える、陸上競技や水泳では一発退場との規則がある。体重制の無い一本勝負、小兵力士も大型力士も立ち合いは平等、そこからの勝負がスポーツの本来の姿である。かって千代乃山・栃錦・北の富士・大鵬・柏戸・北の湖など、その前後の場所での立ち合いは手も着かず、中腰で立ち合っていた時期があった。大変見苦しい場所が長く続いた。アマチュア相撲ではありえない光景で、極端な言い方をすればプロはアマチュアを見習うべきと思う。

▼全てが「ごっつあんです」の一言で済まされる世界、”ご祝儀をいただいたとき、会食に招かれたとき”などには適応する言葉かもしれないが、部屋内での少しの間違いなどの時もこの言葉以外反論も返す言葉も許されない、できない。旧日本軍軍隊の縦組織もそうだったように、各学校の体育系組織にもいまだに報道される事例が数々ある。協会は”時間いっぱいでの仕切りの不徹底さや親方や兄弟子による稽古に名を借りたイジメ、私生活内での言葉の暴力・暴言、このあたりからの改革もまず検討しなくてはならないと思う。これを書いている最中、またまた「呼び出し」の上位にある輩が後輩の若手2名に対する暴力沙汰事件が発生、そしてインフルエンザ陽性の力士を土俵に上がらせる、一般常識では考えられない非常識さ、なんらかの進歩や徹底された姿が全然見えぬ暗黒の”協会”である。この状態のままだといずれ人気が凋落して行く。怪我で幕内で5人も6人もが休場する現実は、力士の体重増や食事内容の検討、土俵の位置の高さなどを見直し、転落による骨折、捻挫防止などの改革も絶対必要だと思う。協会は「土俵の充実」を寝言のごとく言葉に出しているが、不公平な立ち合いが多い中、力士、行司、審判部との一歩もずれない共通認識を持つ事が改革の第一歩となって欲しいものだ。
▼負けが混んでくると必ずと言っていほど休場する横綱と大関、それで次の場所はちゃっかり優勝、それでいて双葉山を尊敬しているとか、優勝回数の記録を作り帰化して親方となり銀座に部屋を持ちたいなどの戯言の言いたい放題、、こんな事が果たして許されるのか横綱審議会、協会はもっとしっかりせい。
▼PS.この「老朗好日」を同窓会事務局に投稿後[2月中旬]、大相撲3月場所の無観客開催が決まりました。
この花ご存知ですか 26期 岩瀬和子 2020年2月投稿

黒法師(サンシモン)別名アエオニウムの木に咲いた花です。原産はカナリア諸島(北アフリカ)だそうです。数年前近所のゴミ集積所に捨ててあった一枝を鉢植えにしました。
突然葉の中から枝がのび花芽がびっちりつき咲き出しました。花を見たのは初めてだったのでびっくりしました。3月でした。
そして又二葉から枝がのび花が咲きました。初めの時よりばらばらしていましたがピラミッド形は同じで2月に咲きました。
去年12月から十葉から枝がのび花が咲き出し、今もきれいに咲いています。新しい枝がどんどん増えるので、咲いたのを見た友人達がほしがり6人に一枝ずつ切ってあげました。でも花が咲いたのは私の所と他2軒だけです。皆、陽当たりのよい所に置いてあります。
早く花がついたのはこの冬暖かい日が多かったせいでしょうか。
花が枯れたらどうしたらいいのか、夢の島の植物園、神代植物園へたずねました。どちらも木はあるけど咲いたのを見たことがないとの事でした。
私は神代植物園へはじめて咲いた写真を送ってあげました。



燦笑繁話34 コロナと消費税と日本 21期 細田武 2020年2月投稿

コロナと消費税と日本
この原稿三商新年会2月8日の昼下り、昨日まで5日間の外来の注射を終えた所でボードを叩いている。折角の新年会は体調を考慮し、欠席をしました。高野くんに代表での出席を依頼。ご盛会を祈ります。
ところで9月に90年の経営の酒販店を諸般の事情で廃業しました。体調と消費税の改悪と大きく言うと日本の先行きを見極めました。体調は血液の(癌)です。でも制癌劑投与のお陰で今日まで10ヶ月経過、日常生活は多少の苦しみは有りますが生きることに努力をし、家族の協力で病に挑戦してます。
新聞等でインバウンドの減少、浅草は着物を着付けた中国人は一人もいませんし、京都の嵐山の人力車も暇をもて余しているようです。特に12月から湖北省・武漢の肺炎による何万人による罹病、数字は不確かだが多くの死者が出ている今日。横浜で上陸できず木の葉の様に揺れる3,000人の観光客。日本企業の勇士もフライトで帰国も14日の拘束で不満たらたら?
通常国会では安部の言い訳に咲いてない桜に失礼(>_<)だよ。補正予算だけじゃなく山積する。問題を早く解決する努力がほしい。あらゆる面を見ても今の日本に期待はできない😵
だけど何処へもいくことの出来ない庶民・高齢者はどうすりゃ良いのか⁉
商売の見切り 良かったかな⁉ リーマンショック以来の不況が、現実になりつつあるよね😁
愚痴っぽい事だけどなにか当たっていなければ良いけど❗
年寄りのーーーーと笑ってください🙇
老朗好日-第六回- 私の中の名画と名優たち(その5) 西部劇とジョン・ウェイン 21期 髙野 昇 2020年2月投稿

第六回
私の中の名画と
名優たち(その5)
西部劇とジョン・ウェイン
▼彼の主演もので名画と言えるものがあったか、改めて思い返すとそれらしきものは私の中には無い。性格俳優でもなし、演技派でもなく文学的作品も思いあたらず。私が大ファンであるヘンリー・フォンダが静かで理知的な真面目な役柄をこなすのに対しJ・ウエインはアクティブ,かつ粗野で乱暴な野生的な正義を持つ役を背負ってハリウッドの最盛期を築き上げた超大物俳優であった。この時期には”MRアメリカ”と言われていた頃で、私の知る限り悪役の彼を観たことがなく、個人的な考えでも「アメリカは世界の警察」の国民的思想に共鳴し、数多くの第2次大戦の戦争物にも出演していた。日本との戦いに苦戦しながらも圧倒的な武力で勝利した「硫黄島の砂」「コレヒド―ル戦記」などがあり、近年のクリント・イーストウッドの[硫黄島からの手紙」とは対照的であった。

▼J・ウェインといえば西部劇、無声時代から数えると100本(ある映画雑誌にそう書いてあった)はあるだろうか。1939年製作の「駅馬車」で監督J・フォードに見い出された。この作品でライフルを片手に駅馬車を停める為、颯爽とした姿で現れるシーンは今思い出しても何とも言えぬカッコ良さでそして若かった。彼は拳銃よりライフル銃を持つ姿がよく似合う、「リオ・ブラボー」がその典型。J・フォードとのコンビでの”騎兵隊ものでは「黄色いリボン」のテーマ曲がヒット「あの娘の黄色いリボン誰に見しょとの髪飾り・・・イエロリー・イエロリー」と、久慈あさみのレコードがヒットしていた。レコードのついでに言うと「リオ・ブラボー」の中でディーン・マーチンがギター片手に歌う「ライフルと愛馬」のシーンではJ.・ウェインがいかにも楽しそうな顔で聴いていた場面はあまり笑わない彼としては珍しいシーンだった。開拓史以来の”正義のアメリカ人”を演じたら彼以外は居ないと全米人からそう思われていた俳優で「それが自分にとって最高の名誉だ」と淀長さんとの対談で語っていた。最後まで{正義の味方}を演じたあの体躯は193cmの長身といわれていたが、実は170数cmだったの説が在る。大きく見せる為セットの天井を低くしたり、持たせた拳銃、ライフルなどは小さめに作らせていたとの話を雑誌で読んだことがある。真偽のほどは?疑わしきは罰せずか、冗談として面白く受け止めるか。
▼彼が出ていた異色の西部劇と言えばJ・フォード監督の「リバティバランスを討た男」で、いきなりJ・ウェイン扮する男の葬儀から始まる。どちらかと言えば主演は弁護士役のジェームズ・スチュアートの方だったが、親友ランス(J・スチュアート)の陰の力になりランスの為に悪人を陰から射ち倒し、ランスが射ち倒したように彼を街の英雄にするストリーだったと思う。銃が正義の時代から法秩序の時代へと移り変わる。監督のJ・フォードはこの舞台の時代で、西部のドンパチは終わったと悟ったか、以後西部劇には手を出していないようだ。黒澤明と三船敏郎のコンビと同じ様に、J・フォードとJ・ウェインのコンビは自然消滅し、この2人のコンビは以後無い。J・ウェインの死から始まるこの映画、観終って活劇としての西部劇の終焉を強く感じた。後年、ポール・ニューマンの「明日に向かって撃て」をみて西部劇の流れの変わりようを感じたものだ。しかし米国では今だに銃の所持を認める現実があり、各地で乱射事件が発生している。ジョン・フォードの思いは未だに遠い。

▼詩情豊かに西部を描いた騎兵隊ものはともかく、彼の「赤い河」「リオ・ブラボー」はこれぞウエスタンの極致とばかり、観る者を魅了する快適西部劇だろう。「赤い河」の共演者モンゴメリー・クリフト、「リオ・ブラボー」のディーン・マーチン等脇役も素晴らしく、ウェインのライフル銃の手捌きに圧倒される。[リオ・・・」で「ヘイ!チャンス」と相棒のリッキー・ネルソンが声を掛けながらチャンス(J・ウェイン)にライフルを投げ渡し、それを見事に受け取り相手の4人を討ち倒すシーンは西部劇の正に醍醐味、監督ハワード・ホークスの見事な演出だった。「史上最大の作戦」での戦闘服は似合わず、彼はやっぱりカウボーイハットと首に巻いたスカーフ、Gパン風の細見のズボン、やや下目に下げたガンベルト、右手に持つライフル、これが彼のBESTスタイルだろうか。いつもお馴染みの共演者も懐かしい。ワード・ポンド、ベン・ジョンソン(・・・彼は西部劇出演者の中での乘馬術のNO1と言われていた・・・)ジョン・ドルー、モーリン・オハラなど懐かしい名が思い浮かばれる。
▼J・ウェインは1954年にガンで亡くなった。「「征服者」の数週間のロケで訪れたネバダの砂漠、ここは900数回の核実験が数年にわたり行われていた砂漠で。その風下600キロの地点でのロケで、共演の女優スーザン・ヘイワードもガンで亡くなり、その後もあのスティーブ・マックイーン、ロバート・テイラー、ゲイリー・クーパー、ヘンリー・フォンダなども十数年後に各処のガンで逝去、「征服者」の監督も然り。ノンフィクション作家の広瀬 隆が書いた「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」の本にも色々書いてあり、彼らは何れも被爆者であると書き、興味ある内容で諸兄にも一読を勧めたい。スタジオのセット撮影にもこの砂が現地から大量に持ち込まれ、使用後はハリウッドの何処かに撒き捨てられたとも書いてあったと思う。事実療養中に2人の大統領(カーターとレーガン)が見舞いに行ったのも異例であり、それはMr.アメリカの偉大さへの表敬の表れか、それとも偉大なMr.アメリカに対しての核実験への”詫び”の見舞いだったのか、私にとって未だに謎である。
燦笑繁話33 [ 寛 解 ] とは 21期 細田武 2020年1月投稿

[ 寛 解 ] とは
実は👹鬼の霍乱😅。区役所の定期検診で受診の結果、院長より紹介状を出すから直ぐ受診せよとのご宣託。
ときは三社の祭の真っ最中❗。無理を承知で来週に延期願い、地域の永寿病院の血液内科の💁受け付けへ。採血、骨髄液の摘出、検尿等一応の検査。翌週担当医の宣告は [ 骨髄異形性症候群 ] という難病の一歩手前でした。
家内、長男もこの歳まで怪我や小さな病気はしたけど今回は始めて聞く病名❗ とチョッと不安でした。しかし現代の医学の進化を確信して闘病しようと家族で約束し、主治医に全般の信頼を預けました。
元々、軽いCOPDの加療は受けていましたが🚚配達のあと息苦しさを感じていました。これも高齢故、歳だね😁位に思っていました。今回の検査で赤血球・白血球・ヘモグロビン、血小板等の減少、自分の造血量の少なさが発見され、その改善のために( ビザーダ 療法 )を選択しました。
1クール7日間ピザーダを腹部への皮下注射を。3週間空けてまた7日間。これを4クール続け9月半ばに退院。これからは週5回外来治療です。♿🏥入院中は注射以外やることなく運動不足、食事の不満、ストレスの溜まりぱなしで、家内への電話もままならずかなりの落ち込みでした。併し、多くの人の励ましや時には強い言葉の叱咤に、ふと我に返り、強く生き還る、そんな感じを持った自分を恥ながら明るさをもち始めました。
現在数多くの患者さんが同じ療法で[寛解]しているようですが何故(完治)とか(治癒)とか言わないで( 寛解)なのか?
ウイキペヂアによると(寛解) とは治療中でいつまた加療するか、再発するか判断に及ばない病状を言うようです。
医学的な言語は兎に角🏠自宅と、喧嘩しながらの家内と二人の食事、つまらない会話、それが一番の💊薬です。今は🏈ラグビー全盛の毎日( 9月29日現在) 日本が世界ランク1位のアイルランドを撃破しました。
会友の高野君も奥様の♿🏥入院や自分の白内障のオペとか、みんなそれなりの病歴を持つ歳なんですね🙆
燦笑繁話 書ける😃💕幸せ 😆💕✨ありがとう。生還しました。
添付写真 「病室からの落日」です。我が家の方向を見ながら🍀
老朗好日-第五回- 私の中の名画と名優たち(その4) ゲイリー・クーパー & 3人の美女 21期 髙野 昇 2020年1月投稿

第五回
私の中の名画と
名優たち(その4)
ゲイリー・クーパー
&3人の美女
▼ゲイリー・クーパーなど六十歳代前の人は殆ど知らないはず。私達の若い頃の米映画のヒーローは、戦後上映された西部劇で言えばこのG・クーパーとJ・ウエインであった。やたらに背が高く、そのせいか少し腰を曲げ前屈みで歩く、驚いたことに彼は1901年(明治34年)生まれで私の父と同じ歳だったのには当時としてはかなりのショックだった。「真昼の決闘」で若きグレイ・スケリー(のちにモナコ王妃となる)と結婚する保安官を演じた時は50歳を過ぎていた。腰が少し曲がったG・クーパーのイメージはこの映画で納得?した。が、事実は彼が無声映画のエキストラ時代の西部劇で馬に乗るシーンでの撮影時に、馬に跨る時に右足が馬の臀部に引っ掛かり(背が高く足が長いせいか)落馬し転倒、それが原因で腰を痛め、以後前屈姿勢で歩く様になったとか。この話はあの”小森のおばちゃま”がある映画雑誌のファンの集いの際に何処かのホールで私は直接に聴いた話である。しかしあの日の”おばちゃま”のあの話しぶりからして真偽のほどは疑わしい。

▼画家を目指していた若い頃に、エキストラから出世して無声映画に多数出演、数え切れぬほどの映画には出ていたものの、俗にいう””大根””だったらしい。少しずつ認められたのがマレーネ・デイトリッヒとの「モロッコ(1930年)」。無声映画ではあったが日本で初めて台詞のスーパーが画面に表示された記念すべき映画で、私は何時だったか池袋の”人生座”で観た。以後大手映画会社との専属が續き「あの男は、後ろ向きで立っているだけでファンを掴む」とは言われながらも””大根””の汚名は払拭できないまま。実存の第一次大戦のヒーローを演じた「ヨーク軍曹」でついにアカデミー賞のオスカーを獲る。故荻昌弘氏(評論家)の文では、その後「風邪と共に去りぬ」や「駅馬車」の主役に抜擢する話もあったとか。実現していたらその後のクラーク・ゲーブルやジョン・ウェインの存在は無かったかもしれない。
▼「ヨーク軍曹/1941年作」は兄に連れられて観に行き、田舎者の銃狩猟が得意の若者7人がドイツ軍の30人を捕虜にするストーリーで銃身の先に唾を付けながらの銃撃シーンが面白かった思い出がある。あの美女イングリット・バーグマンとの「誰がた為に鐘は鳴る」は原作者のヘミングウェイの指名で主演、スペイン内乱の事など知らぬままに観て、以後この映画のお陰でスペインの多難な歴史を知った次第である。私が映画から歴史的なものを学ぶ事が多いのは、戦後のGHQの教育方針で歴史の勉強を一切受けていない年齢で、日本映画もチャンバラはご法度、赤穂浪士や家康、秀吉、信長などは映画からと疎開先の伯母宅にあった古い「立川文庫」からの知識で育った。横道に逸れたがG・クーパ―とバーグマンとのラブシーンはバーグマンのすき透る蝋の様な肌と誠実な闘士の演技が冴えていてクーパー映画の中では良かった方だったと思う。「誰が為に…」での色のきれいさは正に”総天然色”の映画があの時代に当たり前に製作されていたアメリカの技術、文化、進展には「風と共に…」の火災シーンの豪快、猛烈な画面と共にただただ圧倒された。ハンサムで人気を長く持ちつづければ映画会社としては美人で人気のある女優と組ませるのはセオリー、バーグマンを始めヘップバーン、グレース・ケリーなど、西部劇では絶対と言っていいほど美女は登場しない。その点、ジョン・ウェインには気の毒だったかも(笑)

▼一番印象に残っているのが「真昼の決闘」か。彼には数多くの西部ものがあるが、この映画は時間経過と共にほぼ同時進行するという今までにはない展開だった。かつて逮捕した男が刑期を終え復讐に来るストーリー、街のかつての協力者も恐れに耐えられず協力を拒否し、一人孤独な保安官として闘う役を演じた。彼の結婚式の日でもあった。婚約者をやったのがグレース・ケリーで彼女も事の顛末の恐怖で困憊の中、一発の銃声で気をとり直したが人質となる。相手を倒し町民の見守る中を見向きもせず馬車で立ち去るラストシーンだった。この時彼は51歳、その後のヘップバーンとの「昼下がりの情事」では56歳、いつの時代も色男は持てたんだの証明だ。主題歌の「ハイヌーン」はテックス・リッターの歌と共に大ヒットした。主題歌の存在は映画にとって大事なのを教えて貰った映画である。「シェーン」「OK牧場の決闘」しかり。「昼下がりの情事」では女たらしのドンファンを演じ、ラストの列車での別れのシーンは印象に残る。この映画にフランスのシャンソン歌手のモーリス・シュバリエが父親役で出ていたと思う。ラストで列車での別れのシーンは他にもキャサリン・へップバーンの「旅情」やジェニハー・ジョーンズの「終着駅」のラストシーンにもあり、別れの切なさによくつかわれていた。
▼ハリウッド華やかな時代も1936年~1957年あたりまでだったが、J・ウェインと共にアメリカを代表する良きスターであった。他に私の観た彼の「打撃王」はNYヤンキースの強打者ゲーリックの物語で小児麻痺で引退をする、その背番号4は欠番となり以後日米球界での初の欠番となった。ちなみに日本では澤村栄治の14番が初欠番であった。この映画でベーブ・ルースが出ていたのを憶えている。いずれの古い映画は殆ど”人生座”で観たものである。それにしてもG・クーパーはハリウッドスターの貫禄と実力と人気を全て手にして、バーグマンを始めへップバーン、グレース・ケリ―など銀幕のヒロインを相手に幸せな役どころをこなした忘れられない大スターであった。
▼余談…前期の「終着駅」の終着駅と言う言葉はこの題名から言われ出したもので、それまでは終点駅などと言われており、今は当たり前に終着駅と言われている。かなり以前に付き合いの古い”鉄ちゃん”仲間から教えて貰ったもの。