投稿バックナンバー(2014年)
萩・津和野城下町散策と安芸の宮島歴史紀行三日間<前編> 26期 岩瀬和子 2014年12月投稿
先日ツアーに参加しました。今迄に同期のグループ八人のうち都合のつく何人かで、五回の旅行をしています。昨夏も六人で利尻・礼文へ行ったのですが、今回都合の悪い人が多く参加者が三人となってしまいました。
そこで、かつてグループで旅行の時に二度ほど一緒に行った知人を誘いました。知人とは小さなスナックでママを五十年以上やっていた今年八十四歳になる女性で、私自身はママとは九回にわたり旅を共にしています。しかし、二度目のグループ旅行で一緒した後に他の女性から、ママを誘わないで欲しいとの声があり、このグループ旅行の時は声をかけないようにしていました。他の友人たちとの旅行には、誘ったり誘われたりしていたのです。
つい先日、このママと会った際に、また旅行に行きたいと言われていたのを思い出し、今回は三人と寂しくなってしまったので、友人にママを誘ってはどうかと尋ねたところ、イイと言ってくれたので、ママを誘い四人でツアーに申し込みました。
旅行社から日程表が送られてきたのを受けて、ママは声をかけていない友人に時間の問合せをしてしまうなど、勘違いし、二年前に一緒に沖縄へ行った時とちょっと様子が違うので、念には念を入れなければと思いました。
出発当日、前の晩から空港まで乗る電車を調べてママに連絡し、当日も起きているか確認の電話を入れました。それでも待ち合わせの時間に来るか心配で、もう誘えないのかなと思いました。
予定より一電車早いのに乗ってきたのが羽田空港行きだったので、私達がそれに乗り込み空港へ向かいました。
ママの恰好を見れば、タイトのロングスカートは背が低いので裾がくるぶしを隠し、足元は踵が5センチもある革靴。あちこちを歩き回る旅先には似合わない姿だったものの、キャリーバックを引いてきたので着替えがあるものと思っていましたら、三日間そのスタイルでした。階段では見ているこちらがハラハラするほど危なっかしそうでした。搭乗券は以前沖縄に行った時、無い無いと大騒ぎになった事があったので、友人がまとめて預かってくれました。
空路広島に着くと、雨が降っていました。当然折畳み傘の一つも持っているのかと思いきや、持ってないと言う。仕方なく空港にあったビニール傘を借りてバス乗り場へ移動。どうせ帰りも広島空港だからその時に返せばいいかとそのまま拝借。しかし安芸の宮島に着くころは傘も要らない程度で、ちなみに翌朝は好天でした。傘を忘れぬようにと注意したので持っていたはずが、バスの荷物置き場に忘れたのか、途中で分らなくなってしまいました。
21期 髙野昇さんと事務局のやりとり 2014年11月投稿
10月に19期北村重雄さんのお手紙を紹介させていただきました。その後21期の髙野昇さんから、また16期の同期の記録などの話題が広がってきました。この事務局とのやり取りを紹介いたします。
10月9日タイトル:はじめまして
21期の髙野です。ちなみに10月の会報での19期の北村重雄氏の京都からのお便りの中で知りましたが氏の妹さんの北村貴美子氏と一年生の時、同クラスでした。当時はたしか深川三中が校舎を新築中で三商の校舎に同居しており私達1年2組は階段教室で授業をうけていました。
小生の長兄は16期、次兄は18期生。長兄は旧制5年生で新光レイヨン(三菱レイヨン)に就職しましたが51年、会社を辞め 珠算塾 を亀戸の実家の裏で始めました。小生が三商に入学したと同時でした。2年生の時に珠算の杉原先生に「来るべき就職試験に備えて珠算の不得手な3年生に高野の塾で速成指導してくれ」といわれ総武線沿線の3年生を10人近く預ったことがありました。学校では上級生、塾では小生が指導助手と逆転現象でした。
2年生の時、三商が山形国体のバレーボールの都代表になりその時の主将が1年先輩の出町 豊氏で彼が64年の東京オリンピックの時の男子バレーの主将として活躍、銅メタルに輝きました。NHKのオリンピック特番などで何度か放映されていました。東京オリンピックとバレーと言えば東洋の魔女ばかりが取り上げられますが三商OBにメダリストがいることを誇りに思います。
偶然な事柄がありました。小生の長男(2010年2月没)が高校受験で都立高の滑り止めとして専修大松戸高校を受験した際、校長がかってのの恩師 清田栄一氏 であることを知りビックリ。校長室を訪ね挨拶をしたところ記憶力抜群の先生らしく私共三兄弟のことをよーく憶えていてくれていました。その喜びようは大変なものでした。愚息も入学式の新入生の総代とし壇上であいさつをさせられ、その偶然の再会をいまでも懐かしく思いだします。
ちなみに長兄(16期)は現在も弁護士&公認会計士として活躍中。次兄は実家(亀戸)を継ぎましたが実家を売却しリタイアー。小生は長兄の珠算塾を継ぎ64年に少子化を見んで閉鎖。そのあとみずほ銀行に勤め、リタイアーしました。子供の時からの中日ドラゴンズフアンでいまもスカパーを見て熱くなってます。今年は悔しー!
春日部市 21期髙野 昇
佐久間保人様
メール拝見しました。私の手元にも「三商16期生の記録」があります。清兄から謹呈されました。あらためて頁をめくると懐かしい方々のお名前がありました。昭和26,7年ごろ珠算塾を兄と一緒にやっていたころに兄の三商時代の友人数人の方々が度々遊びに見えていました。私も一緒に談笑に入れてもらっていました。記念誌に原稿を寄せていた 高木 昇氏 の文に私達兄弟3人の名があり両親のことも書いて頂いてます。ウクレレが上手な絵面昭二さん、男前だった津雪建彦さん、銀行員だった?吉羽亀之さん、時折そろばん塾で読み上げ算をやってくれてた冨田さん、石沢清一さんなど先輩諸兄を思い出します。特に高木さんにはひとかたならぬお世話になりました。
3月10日の戦災後、我が家は小岩の仮住まいで親子七人のぎりぎりの生活をしていましたが同じ小岩にいた高木さんが苦しい我が家の食糧事情を知ってか手拭で作った布袋にお米を五合(900cc)程入れて時折持ってきてくれました。高木さんのお父上のご配慮もあったのでしょう。母はそのことを晩年になるまで嬉しかったと言っておりました。あのご厚情は私にとって何時になっても忘れることができません。こうしてPCをうちながらも涙が込み上げてきます。津雪さんはうちの父が亡くなってから数日後、焼香に見えられ何年ぶりかでお会いし、心臓がよくないんですといってました。その数年後に他界されました。
ところで次兄の高野光男ですが彼は16期生として平成8年版に載っていますが正しくは昭和20年入学(造船工業)の18期です。6・3制改革で3年生で卒業し父の商売を継ぐことで進学せず、後年、このことで「3年生で進学しなかったのは自分だけだった」と涙ながらに言っておりました。その怨念は今も心の隅にあるようです。戦争、疎開、飢餓、混乱、あの時代のことは決して忘れてはいけませんね。
同窓会報を手にして 19期 北村 重雄 2014年10月投稿
尾瀬ヶ原 散策 26期 岩瀬 和子 2014年9月投稿
八月十六日尾瀬ヶ原へ行きました。
四年前にもお盆休みに尾瀬岩鞍のゆり園へ行った時、時間があったので、山の鼻から少し尾瀬ヶ原を歩きました。
今年は図書館で本を借りて、初心者OK!所要時間六時間三十分、総距離十六.八kmの尾瀬ヶ原コースが載っていたので、本格的にハイキングを楽しむことにしました。
若かりし頃、会社の女子四人で夜行バス、山小屋二泊のバスツアーで尾瀬沼へ行ったことがあり、その事も思い出されます。
当日、家を出た時は良いお天気でしたが、高速を走っているとだんだん空が暗くなり、雨が降り出してきました。沼田ICで降り、向かう戸倉駐車場の少し手前にはメロディロードがあり、「夏の思い出」のメロディが鳴っています。しかし、四年前より音色が悪くなったように思いました。
出発前、昼食をコースの途中のベンチで食べようと、コンビニでお弁当を買いました。幸い降り出した雨も鳩待峠へ着いた時はやんでいましたが、私の靴のかかとの部分がはがれてしまい、仕方なく近くのお土産屋さんでビニールロープをもらい、はがれた部分をしばって歩きました。
しばらく歩いていると雨がぽつぽつきたので、ビニールの雨ガッパを着て下り坂を進みました。雨に濡れる木道は上り下り二枚ずつが延々と続き、その一つ一つに設置者の東電のマークと設置年H16年から26年の焼き印が押してあります。
鳩待峠から山ノ鼻まで一時間三十分、とうとう山ノ鼻目前でもう片方の靴の踵とつま先の方まではがれ、もしもの為にビジターセンターでビニールロープを余計にもらっておきました。そこから少し歩くと目の前に広大な湿原が広がります。夏休みのせいか、親子連れが目立ちました。下の子が二歳位の兄弟を連れた若いお父さんが、前に一人抱っこし、背中にもう一人おぶって出ていきます。尾瀬ヶ原は平らだからいいけど…
服装も様々。私たちのようにビニールガッパの人が一番多く、急遽売店で買ったのか同じのを着ているグループ、雨具完全武装の人、Tシャツにザックを背負って雨を気にせず歩いている人、傘をさしている人、足元はスニーカーの人が多かったが、中にはサンダルの女性もいました。
途中ベンチがありましたが、小雨が降っていて休んで昼食をとる気にもなれず、目的半ばで山ノ鼻へ引き返してきました。そして帰省ラッシュに遭わない様にと早く帰途に着くことにしました。
靴は還暦を記念して富士山に登ろうと買ったものです。十四年間のうち、三、四回しか履いてなかったのに…
雨に降られるし、靴は駄目になるし、散々の尾瀬行でしたが、お天気の良い頃もう一度歩きたいと思います。
日本酒の大好きな方へ興味深いお話 22期 篠﨑 清 2014年8月投稿
同窓生の皆さん毎日楽しいお酒飲んでますか。実は私も日本酒ファンでして、同期の皆川君の経営しております船橋グランドホテルとの関係で、毎年寒の時期に成田山の参道にあります醸造元滝澤本店という蔵に酒好き人間が集合して、搾りたての本醸造を試飲させて頂く会に参加しております。酒名は「長命泉」といいます。その滝澤さんで毎年日本酒豆知識について色々説明をして頂くのですが、その中に面白い話がありましたのでご紹介させていただきます。
日本酒には、おかんと冷やとの飲み方があることはみなさんご存知の通りですが、その中にも細やかに温度を表現する言葉がありますのでお知らせいたします。
お燗の温度表現
- 日 向 燗(ひなたかん) 30度近辺
- 人 肌 燗(ひとはだかん) 35度近辺
- ぬ る 燗(ぬるかん) 40度近辺
- 上 燗(じょうかん) 45度近辺
- あ つ 燗(あつかん) 50度近辺
- 飛びきり燗(とびきりかん) 55度以上
冷やの温度表現
- 雪 冷 え(ゆきひえ) 5度
- 花 冷 え(はなひえ) 10度
-
涼 冷 え(すずひえ) 15度
杜氏(とうじ)について
清酒作りは麹菌や酵母などの微生物を巧みにコントロールする事が必要な仕事で、すぐに誰にでもできる仕事ではありません。杜氏は酒作りの最高責任者です。しかし夏季には農業、冬季は酒作りという労働形態が影響して若者の志望者が極めて少なくなっているそうで、何時までおいしいお酒が作られるか気掛りでなりません。解決するには我々が日本酒をたくさん飲むことです。しかし健康第一ですので美味しく楽しいお酒を程々に飲み協力してまいりましょう。
日本食文化の夕べ 26期 杉本光男 2014年8月投稿
六月、東京商工会議所主催東京會舘十二階「ロイヤルルーム」へ行ってきた。今、和食は大変高い評価を得ている。
東京會舘総料理長鈴木直登氏の講話。
鈴木直登氏のプロフィールは1953年生まれ、75年東京會舘入社。調理部「八千代」調理長、和食調理長、調理・製菓部付部長、09年東京都優秀技能者(東京マイスター)受賞。13年厚生労働省「卓越した技能者(現代の名工)」表彰。講話と配られた資料は大変興味深いものだった。その中から抜粋してみた。
平安時代光孝天皇はその直下の山陰四條中納言藤原山蔭に「食事の作法一段を定めよ」と仰せになったのが和食の始まり。藤原山蔭は現在に伝わる最も古い天皇家の流儀に四條流という儀式があり、その料理道の開祖であり、料理の神様として祀られている。宮中での饗応膳の形で、後の日本料理の基礎になったとされている。
鎌倉、足利、安土桃山時代に至って、流儀もその時代時代に武家作法の大草流、生間流、園流、園部流などに分かれた。
江戸時代には小笠原流が盛んになり、食器も三方も本膳料理と格式のあるものに変わり、作法も大変難しくなった。祝いの本膳料理、仏式の精進料理、普茶料理(隠元禅師より)、江戸末期には皿鉢料理や長崎料理(卓袱料理)と時代にあった料理が流行り明治になって中国、西洋料理も入り食事のマナーも世界的になっていった。
「様々な日本料理」
日本料理には各地の郷土料理をはじめ、本膳料理、懐石料理、会席料理三種に大別される。
武家作法の総本家、小笠原流が四條流の饗応膳を基にして作り上げた。慶弔時の正式な料理。二汁五菜、三汁七菜、三汁十一菜などがあるが、現在は簡素化された二汁五菜が普通。
もともとは禅宗の僧が抹茶を一緒にとった粗末な食事のこと。暖めた石を懐に抱いて空腹をしのぐ「懐石」という意味から、茶の湯で出す、ほんのおしのぎ程度の軽い食事をさすようになり、茶道の元祖千利休が本膳の様式を取り入れて形を整えたと云われる。一汁三菜が基本。
江戸時代に酒宴向きの供膳料理として形作られ、本膳料理や懐石料理の利点を取り入れ、時代に合わせて変化してきたもの。あまり形式にこだわらず、最も代表的な日本料理として通っている。一汁五菜が基本。
講話の後、参加の蔵元の紹介があり、各社の代表者、営業の方より自社のお酒の説明があり、スパークリング清酒にて乾杯。各テーブルに蔵元の人と、そのお酒が冷やされていた。会食しながら、いろいろなテーブルを回って試飲した。
通学路 「今昔物語」 33期 歌門俊雄 2014年7月投稿
2014年5月18日日曜日に4年に一度の33期同期会が開催されました。今回は母校三商の近く、古石場文化センターの開催で、母校改装見学会にも34名の出席がありました。母校と近辺の昔と今の違いに驚いてしまった方も多かったようです。
みんなが通った通学路の今と昔の画像をムービー化しました。三商「三丁目の夕日」です。同期会のイベントとして、会場で映写しました。主に、都電で通学していた方には懐かしい風景です。錦糸町からの28番、福神橋からの23番、亀戸からは38番の都電を利用していましたね。特に現在を撮影するのは古い写真と同じ位置で撮影するため苦労しましたが、なかなか楽しい取材でした。
画像をクリックすると外部リンク(YouTube)にリンクします。ぜひお楽しみくださいませ。
ゴールデンウィークの花めぐり 26期 岩瀬和子 2014年6月投稿
ゴールデンウィークは人の混雑、車の渋滞はわかっていても出掛けたい。人出の少なそうな日と場所を選んで出掛けることにした。私はせっかちなのに、車の渋滞が全然気にならない。運転をしないせいかもしれない。4月の終わり、国営ひたち海浜公園のネモフィラと菜の花のきれいなカラー写真が新聞に載っていた。前に行った時はちょっと早かったが今度は良いかな、と思い出掛けた。天気予報に反して朝は小雨が降り、寒い位のお天気だった。来園している人の服装も様々。ダウンを着ている人もいればショールを羽織っている人、バスタオルを羽織っている人、いろいろだった。ネモフィラの咲いている場所の案内看板が出ていて、皆そちらへ向かって歩いているので探すこともなく行けた。見頃と表示されていた。目の前35ヘクタールの「みはらしの丘」一面に淡いブルーに染まっていて壮観だった。暖かい日が続いていたせいかネモフィラの見頃は過ぎ、菜の花は終わっていた。小雨なのでざっと見て歩き、退園した。
雨もあがってきたので笠間稲荷神社の天然記念樹「八重の藤」を見に行くことにした。ここも前に来た時はちらほらしか咲いていなかったが今回は満開だった。ここも見頃を過ぎていたようだった。途中に「つつじ祭」の看板が出ていたので駐車場の人に場所を聞き、近くだったので寄ってみた。花をいっぱいつけた丈の高いつつじの木の間を登って見晴し台に行った。眼下に町が見え、斜面にたくさんのつつじが咲いていた。終わっている木も何本かあったが、ほとんど満開の状態でとてもきれいだった。
あまりにも広く駐車場と違うところへ降りるといけないので、登ってきた道を戻った。車が空いていて早かったので神代植物公園へ行くことにした。公園の前のお蕎麦屋さんに入ったら、店内は混んでいるので外のテーブルならと案内されたらストーブが付いていた。店内の人も皆温かいお蕎麦を食べていた。神代植物公園は「牡丹」「しゃくやく」「つつじ」が見頃とあった。笠間のつつじと違い、きれいに刈り込まれ形よく丈も低く、花は小さく近所で見られるつつじだった。牡丹は花が大きく見応えがあった。しゃくやくは咲き始めたところだった。「たてばしゃくやく」のとおり、すっと伸び花も小ぶりだった。
帰りは高速道路の方が混んでいるかもしれないので一般道を通って帰ってきた。涼しすぎる1日だった。
ゴールデンウィークは過ぎましたが家にあった胡蝶蘭に古い枝の途中から新しい枝が出て8個蕾が付き、今4輪咲いています。
磯川運良先生の告別式にて 1997年6月 33期 佐久間保人 2014年6月投稿
もうだいぶ昔の話になってしまいましたが、1997年6月9日のことです。久しぶりに大泣きしました。高校時代の恩師「磯川運良先生」が亡くなりました。私達が三商に通っていた頃、先生は40歳、私達は18歳ですから親父と言ってもいい年の先生だったのです。下町の子供がほとんどの学校ではそんな金持ちはいなくて、60%が就職、20%が家業を継ぐ、残りの20%の進学組だけがしっかり勉強していました。
3年2組はそんな勉強しない連中の悪ガキが集められたクラスでした。真面目な子もいたのですが運動部の連中が多く、タバコだ、酒だ、麻雀だ、でも女の子には滅多に縁がない連中です。制服のスボンはほとんどはかず、ズック靴を潰して履いていました。フォークダンスは屋上から見ているだけ「ケッ!あんなのやってられっかよ」。一生懸命だったのは部活とアルバイトだけでした。あまり褒められることがなかった私ですが、就職する先生との面接で何か社会や人の役に立つ仕事に就きたい」と言った時、そして就職して労働組合の仕事をしているといった時大変喜んでもらった記憶があります。
ずっと前のクラス会で先生に聞いたことがあります。「3年のクラス編成では悪ばかり引き受けたのですか?」先生は笑って答えませんでしたが、その後の悪たちは先生のおかげで家業に就職に立派に巣立っていきました。 進歩的な先生でした。保守的な先生が多い中で、生徒の視点で物事を考え真剣に私達に向かって頂きました。自分の自己形成にも大きな影響を与えてもらった方でした。
三鷹の教会で行われた前夜式、告別式で先生は最後にまた私達に教えてくれました。あの時に知らなかった先生の生き方を大人になって先生の年をはるかに超える年代になってやっと理解できたことがあったのです。
先生は若い頃から無教会派のクリスチャンであったこと、作家の椎名麟三さんと親交があり、平和運動や人権運動にも参加なさっていたこと、3年前からガンに侵されていながらも、最後まで人のために生きようとしていたこと、生涯一教師として体制側に入らなかったこと、私達の一年担任であった山口先生と結婚なさったのですがそれは再婚であったこと、私達と同じ世代の子供と思想的にぶつかっていたこと、最後の一年その息子さんと分かり合う努力をなさっていたこと、沖縄の特措法について反対し、最後まで運動なさっていたこと、病気や亡くなった後のことも遺言で大げさにしないことなど。前夜式や告別式で生前先生と親しかった牧師さんや奥様のお話で知ることができました。
どうして私達悪ガキにあんなに優しくそして厳しく接していただいたのかがやっと解りました。そんな同期の悪ガキがみんな集まってくれていました。そんなにお手伝いする仕事はなかったのですが、私達にとって一つの時代の区切りでもあったのです。もちろん我々の同期だけではなく、磯川先生にご指導いただいた三商先輩も大変多く集まっていらっしゃいました。私は告別式で弔電を披露する役目でしたが、涙でしっかり読むことができません。目を真っ赤にして鼻をすすっている仲間達から「バカヤロー!しっかり読めよ」なんて叱られてしまいました。
先生の最後の日記は喀血の跡のあるページでした。そこには「雨、風強し、そして止む」と書かれていたそうです。
磯川先生が亡くなられて17回忌を過ぎたことを先日の33期同期会にご出席いただいた磯川多華子(山口)先生にお聞きしました。同期会二次会で磯川先生と山口先生の馴れ初めや結婚に至る、とっておきの話をお聞きしましたが、これは内緒です。
四季の野鳥達 34期 藤浦隆則 2014年5月投稿
春と夏の高校球児 東京三商会職員 白石理恵 2014年4月投稿
高校野球春の選抜が3月21日から開催されていました。高校球児たちが白球を追いかけ、汗と土まみれになりながら奮闘する姿はいつ見ても元気を貰えます。
三商にも野球部はありますが、学校全体から男子生徒の人数が少ないこともあり、以前は1チーム作ることもできませんでした。しかし去年は男子15人と女子1人の部員で夏の大会予選に出場することができたのです。結果は5回コールド負けと悔しい結果でしたが、出場して大会に学校の名前があっただけでも嬉しいことだと思います。また、毎年少しずつですが男子の入部も増えてきているので今年もおそらく予選出場できるはずです。卒業生からの応援や観客からの声があれば選手たちも気合を入れて挑めると思いますので、母校三商の今の子供たちを見れる機会に一度観戦に行ってみては如何でしょうか。
三商、2013年夏の大会予選の観戦記事→ http://tcsaa.jp/news/2013/3217/
この花ご存じですか? 珍しい花 26期 岩瀬和子 2014年3月投稿
まずは下の画像の花をご存知でしょうか?
私の家で咲いた花です。1枝あげた友人が初めて花を見たので写真を撮ってくれ、名前がわからないので黄色い花で検索してくれました。高さ1m位の鉢植えです。花は20cm位の大きさです。
黒法師 サンシモン ベンケイソウ科 自生地…スペイン、モロッコ 花…10~12月(陽の有るところ)
彼女いわく、家に黄色い物があると縁起が良いわよ、と云ってくれました。暮れの宝くじのはずれ金に足して東京都宝くじ、新春運試しくじ10枚買いましたがはずれ。お年玉つき年賀はがきは毎年切手セットが2,3枚当たっていましたが今年は110枚くらい全部はずれでした。
でも2月初めに嬉しいことがありました。失くしたダイヤのイヤリングが見つかりました。前からダイヤ入りのイヤリングが欲しいと思っていましたところ2000年に買う機会に恵まれました。上野松坂屋は周囲に貴金属店が多いので良い品が揃っていると聞いていたので早速行きました。
ちょうど○万円均一セールをやっていました。2~3万高い値札が付いているなか、シンプルなのを選びました。落とすといけないので普段はつけず、特別な時だけ付けていましたが、年なのでしまっておいてはかえってもったいないのでいつもつけることにしました。
昨年11月に着替えようとイヤリングを付けたままかぶりの衣服を脱ぐ時、右耳のイヤリングを落としました。そばに洗濯カゴがあったので、一枚一枚振ってみましたがありません。周りを丁寧に探しましたが見当たりませんでした。13年前娘家族と部屋を交換した時セールス電話でお風呂をリフォームしました。着替えるところに準天然温泉という機械が置いてあります。その機械の受け皿に入ったとしか思えません。4月頃メンテナンスに来るまで待とうと思っていたところ、2月初めにその受け皿に水が溜まる事故が起きました。「もし私がいない時、工事に来たらイヤリングの事云ってね」と主人に頼んでおきました。ちょうど工事の人が来ている時、出先から戻ったので話しましたが、機械を動かす事は出来ないと云われてしまいました。機械をはずす時までダメと諦めました。
工事の方が受け皿の所をいろいろ仕事している時「これ何ですか?」と見せられました。「あっ、それ探していたイヤリングです。」と私が云ったところ、「ご主人はネックレスと云われたので」と云われ、私があんなにイヤリング、イヤリングと騒いでいたのにと思い、主人にムッとしましたが、あったからいいかと思うことにしました。黄色い花のおかげでしょうか。
三商生のフェイスブック 事務局 2014年3月投稿
事務局の投稿ってちょっとおかしいかもしれませんが、ホームページのどこに掲載して良いのかわからないので投稿ページにしました。同窓生のフェイスブックの話題です。
26期岩瀬和子 同窓会会長が個人フェイスブックを開設しています。もう三商同窓生だけで55人のお友達を集めています。フェイスブックはSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の一種で、インターネット上で、実名で自分の経歴を公開し、日常の日記的なことから趣味や考え方などを共有するシステムです。フェイスブックの会員は全世界で10億人以上とも言われています。このシステムはまず会員になることから始めます。メールアドレスを登録し、自分のプロフィール(生年月日・出身地・出身校など)を登録します。公開したくなければ登録しなくても結構ですが、それだけ友達が探せなくなることです。ある程度の個人情報は公開されてしまいますが、それを良しとする人が参加しているとも言えます。自分の友達しか情報を見せないなどのプライバシー設定も可能になっています。ホームページ委員の49期宇田川さんや34期藤浦さんは130人近くのお友達を有しています。また藤浦さんの散歩途中の風景写真や26期水上さんの絵画作品集はいつも楽しみです。
この会員で、「都立三商を卒業した」と登録している方々に岩瀬会長からお友達申請をしています。それを無視することもできますが、現在55名の同窓生が岩瀬会長のお友達として登録しています。それぞれのフェイスブックへの投稿は共有されています。55人のフェイスブック友達は80期の19才から先日お友達になった20期79才Mさんまで幅広く分布していますが、やはり若い方、特に20代の方が多く参加されています。まず友達を検索します。都立三商出身と登録している人にこんなメッセージとお友達の申請を行いました。
初めての同期会開催出席 後のお手紙 33期 M.Zさん T.Tさん 2014年2月投稿
同 期会を開催する前は面倒だとか、出席するのは恥ずかしいとか、なんとなしに行きたくないなんて人がたくさんいるようです。でも参加するとそんなことをふっ 切って大変楽しい感激の会になること疑いなしです。会の後、興奮のあまり二三日は頭がボーとしているくらいです。開催後、幹事にはありがとうメールを数多 くいただいています。お手紙も頂戴したりして・・・・・幹事冥利につきるって感じです。またぜひ開催して欲しいって!。その中で初めて参加したTTさんか らクラス幹事のMZさんに寄せられた手紙をお二人のご了解を受け掲載いたします。 (画像をクリックしますと大きくご覧になれます)
同期生同士のご結婚であったT夫妻の人生も、そしてみんなのこの38年間も一生懸命生きてきたんですよね。
ご主人の「夫婦の原点なんだから・・・」って言葉はジーンと来ます。高校時代って人生の原点みたいな気がしませんか。その原点から一緒の数だけ生きてきた連帯感が同期生にはありますね。
今回、皆さんとお会いして、ただ懐かしいってことだけじゃないんです。みんなと再会出来て嬉しかったのはともに生きて来た人生を喜ぶって感じなのです。
Tさんの場合はご夫婦でしたから一層その気持ちが強いですよね。だから素直な気持ちで奥様に優しい言葉が心から言えたのかもしれません。
あの日はすごく優しい気持ちにさせられた一日だったと思いませんか。明日からの生活、介護や仕事にもなにか元気がわいてきたって気持ちなんです。
Tさんのお手紙はそんな私達の気持ちを代弁してくれたような心温まるお話でした。こちらこそありがとうございました。
初めての同期会出席 開催後のメール 39期 Kさん 2014年2月投稿
33期MZさんからの同期会開催エピソードの投稿をいただきました。(別掲載)
前回のメールマガジンに紹介させて頂いた39期Kさんも同じように同期会に初めて出席した
方でした。その後事務局にいただいたメールをご紹介させていただきます。
昨日は冷たい雨の一日、今日も厳しい寒さの朝になりました。
ご無沙汰いたしております。
先日の還暦同期会は沢山の方々が来て下さり、懐かしい再会になりました。
恩師の野口先生、亡くなった米沢先生の奥様(旧姓山中先生
39期生の副担任でも)お元気な姿を見せてくださいました。
私は・・大勢の方々と数十年ぶりに逢った事もあってか、翌日まで
原因不明の!?偏頭痛に悩まされてしまいました。苦笑。
お互いメールアドレス交換をして、又の再会を約束しました。
メールマガジンに掲載するお話しですが、是非お願いいたします。
長いブランクはありましたが、母校との縁を改めて持てたこと、
私個人としては本当に嬉しいことでした。
51号同窓会報も読ませて頂き、諸先輩の方々のご活躍を知りました。
会報掲載の「あの夏の合宿」と2004年の夏・・・も読ませて頂きました。
実は私3年間書道部に所属していましたので、あの柏屋旅館にお世話になった
一人です。あの頃、顧問の古暮先生は剣道部・書道部の合宿と長い滞在になって
いたと記憶しています。いくつかの記憶を辿っていくと、あの頃の光景が浮かんで
来て・・高校生のころを思いだしました。
今回懐かしい方々との数十年ぶりの再会が嬉しかったことですが、母校が縁でお会い
することが出来た同窓会事務局様とのやりとり・・とても嬉しい事でした。
有難うございました。
メールマガジン楽しみにしております。年末に向かいお身体ご自愛ください。
事 務局より いかがでしたでしょうか。お二人の方の初めての同期会出席のお話は・・・・最初はちょっと気まずいと思うかもしれませんが、出席して良かっ たと、幹事の方も頑張って開催して良かったと思われています。ぜひ同期会を開催していない期の方の開催をオススメします。同窓会事務局もご協力させていた だきます。HPに同期会開催ノウハウのページや2014年5月に開催予定の33期同期会の開催レポートを掲載しております。ぜひご覧ください。
今年、宝くじが当たるでしょうか 26期 岩瀬和子 2014年2月投稿
元日の朝私はタクシーに乗っていて事故にあいました。元日は初詣、年始に行くのが決まりです。娘家族のいる時は車で行っていましたが、引越しをしてからは 主人が歩くのが辛いということで私一人で行っていました。ところが今年は主人が一緒に行きたいと言い出しました。主人の従姉妹(84歳)で私達の仲人がこ の春で寝たきりになって七年になります。孫を手おんぶして階段を三段位踏み外して頚椎を損傷してしまい、落ちた時から手足が動かなかったそうです。私は 時々見舞っていますが、主人は久しく会っていないので会いたいというので一緒に出かけることになりました。
まず氏神様の牛島神社へ行き、タクシーを待たせてお参りをしてからいつもは浅草寺へお参りするのですが、今年は私一人で行くことにし、町屋の従姉妹の所 へ行きました。ここでもタクシーに待っていてもらい、挨拶して早々に帰りました。従姉妹から「つれてきてくれてありがとう。会えて嬉しかった」と電話があ りました。
次は私の実家の西日暮里、弟達がいないと言われたので、私一人で決まった所にお年賀の品を置いてタクシーに戻り、池之端のお寺へ向かいました。
根津駅の先から池之端通りの一本中の道を走ってもらいました。お寺の直前、左側の路地から来たタクシーが左折しようとしてぶつかりました。止まる直前で スピードが出ていなかったので幸い私達も相手の車の人も何事もありませんでしたが、ぶつかったタクシーは右側の前ライトが壊れていました。お寺さんの前 だったので料金4,310円払おうとしたところ4千円でいいと言われました。車をぶつけられ気の毒なのでちゃんと払いました。翌日ゴルフに行ってその話を したら、そんなの一銭も払うことなかったのにと言われてしまいました。
お正月早々当たられたので、今年は宝くじが当たるかもしれません。せっせと買ってみようと思います。
三鷹講談会をスタートさせて 33期 細井新一 2014年1月投稿
私が個人として講談会を立ちあげたのは、元来の講談好きで定年退職後には年間約80席を観劇し、落語に比べて一般的には知られていない講談を「もっと世の 中に広めるために公演をやりたい」と考えたからです。偶然近所に住んでいた「一番好きな講談師 神田陽司さん」に声をかけたところ、「顔づけ」と言うプロ デューサー役をかって出ていただきました。個人で講談の年間公演を企画することは滅多にないことですが、神田さんからも「そもそも講談だけの公演を定期的 にやることは少ない。でもそういう場を作ってくれたことでお礼したい」と神田一門も協力いただけることになりました。
中央線三鷹での開催にもこだわっています。講談などの伝統芸は浅草や上野で開催のイメージが強いですが、三鷹が新たなスポットになれば中央沿線などの講談 ファンの開拓になると思っています。三鷹駅前の「武蔵野芸能劇場」で毎月開催している「三鷹講談会」もこの平成26年1月28日(火)の開催で第31回と なりました。
同期の軟式野球部の仲間も何回か来て頂いておりますが、ぜひ三商同窓生の皆さんにも講談の良さを知ってもらいたく投稿させていただきました。詳しくは別紙 のパンフレットをご覧くださいませ。現在2月以降の開催は2月18日火曜、3月18日火曜それぞれ19時、木戸銭は2千円でございます。
画像をクリックしますと大きくご覧になれます。1月・2月・3月のご案内です。
古稀となっての雑感 29期 大川幹雄 2014年1月投稿
70歳を迎えたが気力体力知力維持のための、実業社会との関係継続のライフワークに物流業務コンサルがあり、その関係で中国との交流に触れたい。会社勤務時代は営業で苦労する社員の現地慰問、退任後は物流コンサル顧問先会社の中国工場等の業務で、ここ10年毎年2〜3回4日程中国滞在の機会が続き、12月にも日中緊張関係を家人が心配の中を出かけた。業務のことはともかく、個人との前提での狭い体験で感じた現地事情等を記したい。
日本では経済不振が続く20年 間と言われ、厳しい経済環境が続くが、中国では日本のバブル時代を彷彿とさせる経済活況および個人の生活向上を訪問の度に体験する。現地工場は中国南部に あり、香港まで航空機利用、空港から国際フエリーで現地へ往く。世界有数ハブ空港である香港に降りると、国際色豊かな様々な民族とすれ違い、会話もできず ひたすら英字表示を頼りにトランジットのチエックインを行い、乗船ターミナルへ向かう。フエリーで約70㎞の現地に向かうが、船窓からの海上に巨大プロジェクトの「香港とマカオおよび中国本土連絡橋工事」(完成後名称:港澳珠大橋)の橋脚建設現場が延々と続き、完成後は約70㎞に片側3車線の連絡橋を6年で完成とのことで、規模、建設期間に驚く。(東京湾アクアライン、15㎞、8年で完成)
現地工場は人口150万人の都市にあるが、中国経済の発展の様子を垣間見るようで、超高層ビル工事が乱立、高速鉄道がいつの間にか走行しているなど、常に新たな経済発展を目の当たりに、中国経済の活況を再認識する。
所 得が増えてか住民の衣装はフアッショナブルになり、繁華街は常に混雑している。業務の合間、終了後に関係の中国人や現地邦人と懇談、会食などで情報交換を 行う機会も多いが、政治的なことは抜きにした日中交流促進が話題になるが、民間レベルでは刺々しくなることもなく、ホテルで見る現地テレビ放送でも日本で 報道されるような事も見ない。
在留邦人の一部から、経済規模が大きく経済成長が続く魅力は大きいが、為替変動が大きい、経済発展のテンポが早すぎる、人件費アップが続くなどで、最近は東南アジアに魅力を感じ始めるなどが、仲間内の話題に上がることが多くなったなどが語られている。
帰国前日には現地でお世話になった面々と陸続きのマカオに行き、束の間の異国情緒、料理、ギャンブルを満喫し、賭博で毎回お土産代を得ることができるツキが続いている。
中国の方と交流して、良き隣人としての魅力も大きく、報道されることが全てではないこと、民間レベルで交流を深め、お互いの本音、立場を正しく理解して行くことの積み重ねが必要と痛感した。古稀を過ぎたが機会を捉え今後も日中民間交流を深めたい。
同窓会出欠連絡のはがき 49期 岩瀬茂幸 2014年1月投稿
同窓会のお手伝いとして、ホームページ作成に携わっています私ですが、同期の仲間たちと、同期会の幹事もさせてもらっています。
ご経験のあるかたなら、共感していただけると思いますが、無償ボランティアで貴重な休日に会合を開いたり、会場となる場所に下見に出かけたり、何が得するわけでもないのに、旧友のためにと粉骨砕身、そう言う事が好きでなければ到底できません。
幸い、私はイベントを企画することや、人を喜ばせることが好きなタチなので、「また同期会の打合せなの?」と言いながら向けられる、家内の冷ややかな視線を除けば、さして苦になりません。
先日は、近く行う予定の同期会の出欠葉書のチェックをしていました。
名前と整理番号、加えて近況や住所の変更などを書く欄があるだけの簡単な返信はがきです。
ほんの数行でも、幹事の労をねぎらう言葉や、やむなく欠席する事への無念の思い、反対に出席に向けての期待感など、何か一言添えてくれると、チェックの手がたびたび止まってしまいますが、名前だけの葉書よりもやはりうれしいものです。
さらに、息子が受験ですとか、大病しましたが回復し同期会も出席できそうです、などといった近況が伝わると、三十余年前に越中島から巣立っていった仲間たちがそれぞれ頑張っているんだなぁと幹事ならではの喜びを味わうことができます。
皆様も、同期会の葉書が来ましたら、何か一筆加えてご返信ください。
きっとご苦労されている幹事さんも報われると思います。