80周年記念投稿
同窓会創立80周年を祝して 都立三商 浦部利明校長
東京都立第三商業高等学校同窓会の創立80周年を心からお祝い申し上げます。また、同窓会の皆様には、日頃から本校の教育活動を物心両面から支えていただき、厚く御礼申し上げます。
さて、昨年4月に本校の校長に着任して以来、常に私の頭の片隅にあることは、三商のコンセプト(概念)とは何であるかです。以前からの三商の教育目標や先代の天野校長先生から引き継いだ学校経営計画はありますが、これまでの三商をどのように意義付け、これからの三商の方向性をどのように創造するかという正解のない命題に、絶えず自問自答しています。そうした中で、指針としている考え方が「不易と流行」です。物事には「不易」、すなわち時代が変わっても易らないものと、「流行」すなわち時代とともに変化するものがあるという考え方です。教育に関する「流行」は明確であり多くの方がご存知のとおり、生きる力、確かな学力、個に応じた指導、言語能力、キャリア教育、ボランティア体験活動など多岐に渡る教育課題が年々変化をとげ、三商でも時代の流れに乗り遅れないよう新しい教育活動の充実に努めています。
一方、「不易」にあたる商業教育の本質は何であるか、創立以来そもそも三商の柱は何であるかというと、そう簡単には見つかりません。ところが、昨年の夏から校舎の改築及び改修工事に伴う引っ越しという大仕事があり、校長室の本棚の書籍をダンボールに詰めながら、ついつい創立50周年記念誌『50年のあゆみ』を読みふけっていると、三商の教育の本質がおぼろげながら見えてきたような気がしました。特に、初代校長の吉澤徹先生が唱えた「リトルジェントルマン」というコンセプトが、三商の歴史の基底にあることを実感しました。『50年のあゆみ』に掲載された、背広型の制服にネクタイをしめた集合写真や、特にひざ下までの半ズボンに背広型の制服・ネクタイの低学年のあどけない面持ちの集合写真を見ていると、ジェントルマンに込められた品格や礼節の意義が伝わってきます。往時の三商生の一人ひとりの表情を注視すると、緊張の中に三商生である自信とプライを感じることができます。当時の旧制高校では、ノブレス・オブリージュ(位高ければ徳高きを要す)というエリート教育を目指していましたが、その一歩手前の中等教育学校である三商では、「リトルジェントルマン」というコンセプトにより、品格や礼節を重んじる校風を目指していたことをうかがい知ることができます。旧制の学校の男子生徒はみな黒の詰襟の制服であったのに対し、あえて背広型の制服とネクタイを導入した初代校長の吉澤徹先生の慧眼にはあらためて感服するばかりです。
さて、これから日本の社会や世界で活躍する本校の生徒たちに、信頼に足る社会人としての品格や礼節を身に付けさせることは、私たち教職員の責務であると考えます。勉強を教え込み、検定試験に合格させ、進学や就職を実現することだけが三商の教育ではないと思います。今では「リトルジェントルマン」という言葉は使われていませんが、そこに込められた品格や礼節を重視し、脈々と受け継がれてきた三商の人づくりをこれからも続けていく所存です。これからの卒業生が品格や礼節を身に付け、同窓会の皆様と同じように、日本の社会や世界で活躍することを願ってやみません。
バスケットの思い出 33期 佐竹守(落語家 11代目 金原亭 馬生)
三商同窓会HP開設を心よりお祝い申し上げます。
私は、3年間バスケット部に所属しておりました。その時分、三商バスケット部は強く、東京都でベスト16に入っていました。 入部した4月、三年生が7人、二年生が6人、一年生が18人いました。ところが、練習がきついので毎月3~4人の一年生が辞めていきます。篩(ふるい)にかけるとはこのことで、才能のある人が残るのではなく、我慢強いバスケットに情熱のある人が残るのです。7月には、一年生が8人になっていました。徳堂(繁)、柴山、宝達、宇田川、秋山、稲垣、花岡、そして私(佐竹)。
夏休みの練習のきついこと。二・三年生は室内の体育館、一年生は、炎天下のコンクリートのコート。うさぎ跳びコート3周。バリカン(一人が両足を持ち手だけで鰐のように進む)コート2周。膝はガクガク、手の平は火傷のように水脹れが出来る。その手でパスの練習。もちろん練習中は水を飲んではいけません。
試合が近づくと朝練、6時半から授業が始まるまで、放課後も終日練習。実業団でその頃強かった日本鋼業の赤坂のコートで一緒に練習をさせて頂きました。
合宿もやりました。教室の机を8つ並べてベッドにしました。
千葉県の館山の民宿に泊まり、安房高校の体育館を借り、安房高校との練習をしたこともあります。
思い出の多いのは、新潟県六日町の三商の山寮です。 八ヶ峠(六日町から十日町)の途中にありました。練習は六日町高校のコートを使わせてもらいました。 朝食をすませ、赤ん坊の頭位のおむすびを2つ、中に梅干が入っています。おかずは、たくあん4切れ。これを各自持って坂道をランニング。真夏のみなみスキー場のゲレンデを見ながら坂道を下り30分で六日町高校。昼まで練習、昼食をすませ昼寝をして3時まで練習。練習が終わると山寮までランニング登りはきつい。
柴山が、腹痛をおこし、脇道に入り用をたした。私も付き合い、だいぶ遅くなりました。そこに軽トラックが来たので荷台に乗せてもらい助かりました。それから毎日トラックを待って、楽をしました。田舎の方は親切です。
試合が終わると反省会。豊洲会館でビール、ジュース、食べ物を持ち込み顧問の面来先生も参加。先生が酔っ払うと卑猥な歌を披露してくれました。本当に良い時代でした。
33期男子バスケット部 下段は顧問の面来先生
上段 左から(敬称略) 宝達、花岡、秋山、私(佐竹)、徳堂(繁)、宇田川、柴山
11代目 金原亭 馬生 ブログ ↓
昭和34年1年7組の思い出 29期 亀田光昭 元川村学園女子大学教授 理学博士
同窓会の発足80周年を記念して在校時の思い出を何か一つと思い、古いアルバムを見ていたら、入学試験の時の受験票が張られていました(添付します)。それを見ているうちに、とても不思議な1年生の時の席のことを書かせてもらうことにしました。
29期生が入学したのは、昭和34年です。入学式は4月9日で、始業式は4月11日と、その間に1日の空白日がありました。その理由は、4月10日が、ただいまの天皇、皇后両陛下が、皇太子、皇太子妃としてのご成婚の日にあたり、祝日になったからです。4月10日、多くの国民は、この日のためにそれが一気に普及したテレビの前で、お二人の馬車でのお姿に見入ったものです。かく言う高校生になりたての私も、家族一同とともに、このパレードの一部始終を見ておりました。
さて、その席についたのが、その前日からだったのか、次の日だったのかの記憶は全くあいまいなのですが、とにかく夢にまで見た憧れの都立三商に入学が成り、その時までは、同時入学の深川六中からの男子6人は、教科書購入、学用品購入など、常に行動を同じくしていたのですが、入学式でクラスが別々になりましたので、それぞれのクラスに向かい、仮の席に座って、担任の先生の指示により行動することになっていました。
そして気が付いたら、時計塔のあった懐かしいあの校舎の2階で、東階段を上がってすぐ左の教室、1年7組の窓から数えて3列目、後ろから2列目に座っており、そこが私の1年間の席になっておりました。1年7組の奥に8組、9組とあり、その先は行き止まり、教室はありません。7組、8組は男子クラス、9組は進学クラスで、女子が2名いましたが、基本的には男子クラス。つまり、校舎のはずれになる3教室に男子クラスが配置されていたということです。
この1年7組、たぶん入学式の後、席の決まっていないまま、教室に入った新入生、同じ中学からのものは、近いところに座り、私のように1人だけのものは、適当に空いているところに座っていたのですが、それが一年間続いたということです。2年生になり、男女クラスになった時、それこそ毎月のように席替えがあり、毎週のようにローテイションする制度になり、びっくりすると同時に、それはそれで楽しくもありましたが。
この1年7組の席の配列は、中間、定期試験の時と同じで、7列でした。これを窓側だけが1人で、あとは2人ずつ机をつけての並びになっていました。私の席の左隣に深川三中からの八田君、前は同じく三中からの土方君と鈴木邦善君、その近くにもうひとり島崎君がいました。後ろは千住の方の中学校からの斉藤庄司君と桐山君がいました。窓側の1人掛けのものも含め、だれもこの席の並べ方に苦情を言うものもなく、時々、個人交渉で席を交換するものが出ていましたが、全体的にはこのままでした。とにかく違う席に座るのはテストの時に出席番号順になるだけで、何の違和感も抱かず、この席で1年生が終わりました。担任は理科の阿部茂穂先生でしたが、この先生からも席替えの話は1度もありませんでした。
小中高通して、クラスで1年間席替えのなかったのはこの時だけでした。今思うに、理由は何だったのか思いつきませんが、不思議でした。でもとにかく、とても良いクラスだったようで、54年たった今でも、そのクラスの仲間の多くと交流が続いています。